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第四章存在としての人格

目次

Ⅰ問題

1第三章では、人格(1)の哲学への序論として、すべての人にたいして開かれた経験から出発して「人格」と呼ばれる存在ないし実在についての厳密な理解への道すじをたどることを試みた。

経験から出発して、あらゆる恣意や予見をできるかぎり排除し、ひたすら経験が指し示す実在を浮かび上がらせようとする試みが「現象学(2)」と呼ばれるかぎり、前章の内容は「人格の現象学」であった、と言うことができるであろう(3)。

それは言いかえると、われわれが「人格」という言葉を使用するさいに心のなかに抱いている漠然とした、多様な経験の内容をふりかえり、いわばそれらを篩にかけて、そこで経験されている実在そのものに近づこうとする試みである。

したがって、「経験から出発(4)」するという言い方をしたが、この試みがわれわれを導いてゆく到達点も一種の経験であり、この試みの全体が経験の明確化であり、純化にほかならない。

2人格の現象学が到達する経験は、「人格」と呼ばれる何か(5)が実在する、という経験である。

「人格」という言葉を使用している者のすべてがこのような経験を有しているとはかぎらない。

物質的な事物、つまり物体が実在することの経験は「正常な条件下にある(6)」人間にとっては普遍的であり、見る、聞く、触れるなどの外的感覚を働かせることがそのまま、そこで感覚されるもの「がある」ことの経験である、と言える。

というよりはむしろ、ここでは「在るとは知覚されることである(7)」と言うべきかもしれない。

しかし、物質的事物のなかには生命を有するものと有しないものがあり、このものには生命「がある」という経験は、物質的事物「がある」という経験と同じ普遍性あるいは自明性を有するとは言えない。

なぜなら、生命そのものは端的に外へと向かう感覚の働きによって直接に捉えられるものではなく、何らかの識別あるいは評価の働きをまってはじめてその存在が経験されるからである。

それは或る程度の難しさをともなう経験であり、「それだけにこの生命実存の実感を有たないところの人間は自他の何れを問わず生命あるものを恰も生命なきものと全く同等に扱う様になる(8)」。

したがって、物質的事物「がある」という経験を身につけさせるための教育は必要とされないが、生命「がある」ということの経験に関しては、この経験を根づかせるための教育がたしかに必要であり、それなしには人間として善く生きることは不可能である、と言えるのである(9)。

さらに、人格「がある」という経験が成立するためには、物質的事物を経験するときには端的に外に向かい、生命の経験においては或る程度(経験主体)自らの内へと向かい始めていた経験作用が、完全に、経験している「わたし」自身へと向かうことが必要とされる。

それは、経験作用がたんに方向を反転させるということではなく、経験の成立する「場」が物質的事物、および生命あるものの次元を超えて、精神的(霊的)存在の次元へと高まる、ということを意味する。

このように、「人格」と呼ばれる実在「がある」ということの経験は、経験する精神がいわば自分自身に完全に立ち帰ることによって成立する、精神「がある」ことの経験にほかならない。

この経験のためには「容易ならぬ修練を要する(10)」──「人格」という言葉は、そこで語られていることがまったく自明的であるかのように日常的に用いられているにもかかわらず──ということは、われわれが精神の「実在」について語ろうとするさいに直面する大きな困難あるいは困惑を想起することで直ちに理解できるであろう(11)。

3前章、すなわち「人格の現象学」がめざしたのは右に述べた意味での人格の経験に光をあてることであった。

そこで試みられたのは、「人格」と呼ばれる何か「がある」ことの確認であって、それが厳密に何「である」かの解明ではない。

人格とは何「である」かが解明される前に、そのように呼ばれる何か「がある」ことを確認しようとする試みは、一見、無意味であるように思われるかもしれない(12)。

しかし、一般に事物の原因を探究するさいには、或る現象や出来事──いまの場合は「人格」という言葉がそれに関して用いられる道徳的ないし法律的な事柄──を生ぜしめ、あるいはそれらの説明根拠となるような何らかの原因の存在が確認された上で、その原因がそれ自体において何であるかが問われるのが普通である(13)。

したがって、「人格の現象学」によって、「人格」と呼ばれる何らかの実在「がある」ことを確認したのに続いて、その人格とは何「である」かを解明するのが本章の課題である。

4人格について「何であるか」と問うことの問題点は前章でも取りあげたが、ここで問い求められているのが、類と種差の組み合わせによる論理学的定義ではないことをあらためて指摘しておきたい。

ボエティウスの古典的な定義「(ペルソナとは)理性的本性を有する個的実体(rationabilisnaturaeindividuasubstantia)(である(14))」は、広義に解すれば、論理学的定義の形をとっていると言えるが(15)、われわれが求めているのはこのような定義ではない。

また「何であるか」という問いは事物の本質へと向けられており、事物の本質を構成する形相(forma)と質料(materia)を指摘することで答えることができる場合もあるが(16)、「人格」についてはそのような仕方で「何であるか」を解明することも不可能である。

しかし他方、人格について「何であるか」と問うことがまったく不可能であるのではない。

「人格」という言葉を用いることに何らかの意味があるかぎり、この言葉によって表示されているものは何らかの可知性(有意味性)(intelligibilitas)を有するのであり、そのかぎりにおいてそれは「何であるか」と問うことが可能なのである。

そして、いかなるものも、それが現実に何か「である」かぎりにおいて可知的なのであるから、われわれがここで人格について「何であるか」と問うことは、広い意味で人格の「存在」について問うことであり、その意味で本章の主題は「人格の存在論」なのである。

5「人格の存在論」は、われわれが「人格」と呼んでいるもの、この言葉を用いるときに漠然と暗黙的に理解している何か「がある」ということの確認に続いて、「人格」とはそれ自体において何「である」かを解明しようとする試みであるが、そこで最初に為すべきことは、このような解明がそこにおいて遂行されるべき「場」をつきとめることである。

この「場」とは、「人格」が本来的な意味でそこに「存在する」ところの「場」にほかならない(17)。

それは言いかえると、「わたし」──第三者によって知覚される「対象」ではなく、まさに「主体」としての「わたし」──がそこにおいて存在する「場」であり、さらに言いかえれば、一人称単数(18)で「わたし」と自己を同定し、表現する「精神」がそこにおいて存在する「場」である。

そして、精神が「存在する」ということは、精神に固有の働きを遂行することであるから(19)、ここで言う「人格」が存在する「場」とは、精神が自らに固有の働きを行うことによって、自己を実現し、完成する「場」にほかならない。

そして、「或る意味ですべての在るところのものである(20)」精神は、孤立して自己を実現し、完成するのではなく、むしろ常に「交わり」(communicatio)においてそのことを追求するのであるから(21)、「人格」がそこにおいて本来的な意味で存在する「場」とは、根本的に「交わり」の場であると言えるであろう。

したがって、「人格」の存在は、人格の「交わり」を離れては理解できない、ということを「人格の存在論」の当初において確認しておきたい。

Ⅱ存在とペルソナ

1人格の存在論について考察しようとするにあたっては、最初に直面し、できれば除去しなければならない重要な誤解がある。

それは、「ペルソナ」と「存在」はまったく異質な概念(22)であって、そもそも「ペルソナの存在論」について語ること自体、二つのまったくかけ離れたものを結びつけようとする無意味な試みにすぎない、とする見解である。

この見解によると、人格は責任、あるいは権利・義務の主体として、道徳や法の領域に属するものであり(23)、これにたいして「存在」という言葉が万人にとって自明的なものとして用いられ、理解されるのは感覚的、物質的な事物の世界、言いかえると物理的な領域においてである(24)。

「人格の尊厳」について語ることは日常化している。

「尊厳」(dignitas,dignity,Würde)を「価格」(Preis)とは対立的な、何らの等価物によっても置き換えられない、無条件・絶対的な価値であると主張しない者でも(25)、それが何らかの価値であることは暗黙的に認めており、したがって人格が何らかの価値をはらむものであることは広く受けいれられている。

これにたいして、「存在」と「価値」は二つの異なったカテゴリーであって、混同してはならない、というのがこんにちの一般的な通念である(26)。

したがって存在するものはすべてよいものであり、価値がある、という意味で「存在」と「価値」を重ね合わせることは、こんにちわれわれの間で支配的・自明的なものになっている「存在」理解と正面から対立する見方である。

この点から見ても、「ペルソナ」と「存在」はまったく異質な概念であって、ペルソナの存在論的な考察は、当初から無意味な試みとして疑念にさらされざるをえないように思われる。

2しかし、実際に「ペルソナ」と「存在」とは、ペルソナを存在するものとして考察することを無意味な試みとするほどに互いにかけ離れた概念であろうか。

われわれはここでペルソナを存在論的に考察する試みの前に立ちはだかっているかに見える障碍について語っているが、実はそれは障碍ではなくて、存在論を根本的に見直すための困難ではあるが、豊かな実りを期待できる好機ではないのか。

「ペルソナ」は「存在論的な地位の定かならぬ概念(27)」であると言われる。

それは或る意味でその通りである。

中世後期から近世にかけて神学者たちがペルソナを存在論的にいかに規定すべきかという問題をめぐって行ってきた激しい論争と精密な議論はそのことをあきらかに示している(28)。

しかし、そのことはペルソナについて存在論的に考察することが無意味であり、不毛であることを意味するのではない。

むしろ、ペルソナを存在論的に考察する試みは、「ペルソナ」と呼ばれる何かについての理解を深めるだけではなく、おそらくは存在論をそれが閉じこめられている洞窟から引き出し(29)、それが本来的に論究されるべき「場」へと回復させる機会となることが期待できるのである。

実は、ペルソナを存在論的に考察することは無意味であるどころか、このあとあきらかにされるように、ペルソナこそ最も優れた意味での存在であると言える(30)。

したがって、存在論はその考察の重点をペルソナ的存在に集中させることによって、従来のように考察を物質的な事物について語られる「存在」にもっぱら限定した場合にくらべると、存在についての理解を著しく実り多いものにすることができるのである。

存在論的考察の重点を、物質的な事物からペルソナ的存在へと置きかえることを、存在論の「ペルソナ論的転回(31)」(personalisticturn)と呼ぶことが許されるとすれば、われわれがここで意図しているのは、存在論についての通念的理解の枠内にとどまる「人格の存在論」ではなく、「ペルソナ論的転回」を視野に入れた上でのペルソナの存在論的考察であることをあきらかにしておきたい。

3ここであらためて、人格を存在論的に考察することを妨げると思われる障碍の主なものを取りあげて検討することにしよう。

最初の、そして最大の障碍は「存在」を感覚的に捉えられる物質的あるいは物体的な事物の「存在」のみに限定し、「存在」という言葉が意味をもつ領域を物質的なものの世界に閉じこめてしまう考え方である。

このような考え方は、さきに言及した物質的な事物が現実に存在するという経験の普遍的な自明性に支えられており、その意味では(このような経験から出発して認識活動を行う)人間にとって自然な考え方である。

しかし、問題はわれわれがこのような「存在」理解の段階にとどまってしまうときに生ずるのであり、そのとき人間にとって「自然な」考え方は「唯物論」的な偏見に変質するのである(32)。

実際に、われわれは経験の成熟にともなって「生命あるもの」が現実に存在することを、物質的な事物の場合におとらぬ自明性をもって経験することができるのであり、そのことによってわれわれの「存在」理解はより高い段階に移行する。

ここで見落としてはならないのは、この高次の「存在」理解において、「存在」の理解は物質的な事物の場合と同じものにとどまったままで、それに「生きている」という特殊な側面が付け加えられたのではない、という点である。

そうではなく、「生きているもの」が現実に存在することの経験は、物質的な事物の場合とは異なった、新しい「存在」理解をふくんでいる。

それは物質的な事物とまったく異なっているのではないが、単純に同一視することもできない。

この二つの「存在」理解において、「存在」という言葉はまったく多義的(equivocal)ではないが、単純に一義的(univocal)でもない。

それらは相互に区別されつつ、それぞれが真正の「存在」理解なのである(33)。

ここで「生命あるもの」についての「存在」理解がより高次である、と述べたことについて説明しておきたい。

その根拠は「生命あるもの」について理解される「存在」は、物質的な事物の場合にくらべて、それが「何である」かがより明確であり、また「この或るもの」としてより明確に確定されるということである(34)。

このことは一塊の石ころと一本の樹木とをくらべた場合に明瞭であろう。

それらはまったく同じ意味で「存在」するのではなく、後者はより豊かな意味で「存在」するのである。

このことは「人格」ないし精神が現実に存在することの経験において、より明瞭に認められるのであり、われわれはけっして「存在」という言葉が意味をもつ領域を物質的なものの世界のみに閉じこめてはならないのである(35)。

4では物質的な事物のみが存在するかのように考える「唯物論」的な「存在」理解はどのようにしてそれ程にも人々の考え方を支配するようになったのであろうか。

私はそのことの一つの説明は、近代において物体と精神との差異が、二元論的な対立にまでたかめられ、この二つを連続的ないし共通的なものとして捉えることを可能にする「場」としての「存在」理解が忘却もしくは無視されたことのうちに見出されると考える。

ここで言う二元論的対立の起源をデカルトの哲学に帰属させることはできない。

むしろその起源は、精神的存在と物体的存在──『創世記』第一章(第一節)に言う「天地」、すなわち目に見えないものと目に見えるもののすべて──が全体として被造的世界であるという宇宙像が斥けられるのに対応して、精神と物体の間の差異と対立が究極的なものと見なされ、絶対化されるようになったことのうちに見出されるであろう(36)。

いうまでもなく、精神的存在と物質的存在とに共通の一般的、抽象的概念としての「存在」が消滅したのではない。

しかし、このような「類」概念としての「存在」は内容空虚であって、論理学的には意味があっても、存在論ないし形而上学の分野ではまったく無意味であり、存在論的には偽・存在(pseudoens)にすぎない(37)。

このように、精神と物体との二元的対立が最終的・絶対的なものにたかめられた場合には、感覚的に捉えられる物体ないし物質的な事物を単なる「現われ」と解し、精神のみが本来的に「存在」すると主張しないかぎり(38)、「唯物論」的な「存在」理解が唯一の可能な選択肢とならざるをえないのである。

5次に述べることは、より詳細で精密な検証を必要とする一つの仮説であるが、後期スコラ学を代表する神学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(JohannesDunsScotus,一二六五─一三〇八)が、形而上学を厳密な学として成立させるために提唱した「存在」の一義性、ないし一義的な「存在」概念の立場は、何らかの仕方で精神と物体の二元的対立を絶対化することに寄与したと考えられる。

スコトゥスが主張した一義的な「存在」概念は、単に論理学的な概念であると考えることはできない。

彼は、この一義的な「存在」概念のゆえに、われわれは有限な被造物から出発して、無限な神の認識に到達できる、と主張しているからである。

ところで、スコトゥスが主張した、無限な神と有限な被造物、実体と付帯有のそれぞれについて述語される一義的な「存在」概念をどのように理解すべきか、は問題として残るが、ここで重要なのは彼が形而上学ないし存在論を厳密な学として成立させるために、その基本的概念である「存在」の一義性を主張し、それがこの後の存在論の歴史のなかで定着したという事実である。

なぜなら、このような一義的な「存在」の概念は、その実在性の稀薄さのゆえに、そこにおいて物体と精神を、連続的ないし共通的なものとして捉えることを可能にする「場」とはなりえないからである。

さきに、スコトゥスにおける「存在」の一義性の主張は何らかの仕方で精神と物体の二元論対立を絶対化することに寄与した、と述べたのはこの意味においてであった(39)。

Ⅲペルソナと実体

1さきに「ペルソナこそ優れた意味での存在である(40)」と述べたが、次にこの言明を補足し、できるかぎり説得的なものにすることを試みよう。

トマス・アクィナスは、「ペルソナ」という名称を神について用いるべきか、という問いにたいする回答の冒頭で、「『ペルソナ』は全自然における最も完全なものを表示する(41)」と述べている。

ここで「全自然における」の「自然」(natura)は、知性が何らかの仕方で捉えることのできるすべての存在するものをふくむ意味で言われており(42)、したがってすべての存在するもののうちで、最高の仕方で存在するものが「ペルソナ」と呼ばれる、ということになる。

ところで、最高の仕方で存在するものは、たんに付帯的に(peraccidens)「存在」と呼ばれるものではありえず、本質によって(peressentiam)とまでは言わないにしても(43)、自体的に(perse)「存在」と呼ばれるものでなければならないから、ペルソナの存在論的考察は、ペルソナは自体的に存在するもの、すなわち「実体」(substantia)である(44)、という前提から出発することが許されるであろう。

2スコトゥスにおいて始まった厳密な学としての形而上学をめざす企てを、高度に体系的なものにまで高めて近代へと伝達したのはスアレス(FranciscoSuarez,一五四八─一六一七)であるから、次にスアレスにおいて人格がどのように実体として捉えられているかをふりかえることにしたい。

スアレスはカントの時代に到るまで哲学教科書の模範となった『形而上学討論』(DisputationesMetaphysicae)第三十四討論において、第一実体(substantiaprima)、すなわち個的実体ないし自立体(suppositum)としてのペルソナについて考察している(45)。

スアレスのペルソナ理解の特徴として注目に値いするのは、前述のボエティウスの古典的なペルソナの定義、およびトマスの「理性的本性において自存するところのもの(46)」(subsistensinrationalinatura)という定義とは対照的に、ペルソナの本質的特徴としては個体性(individualitas)あるいは共有不可能性(非共通性)(incommunicabilitas)のみを強調し、ペルソナをペルソナたらしめるものとしての理性的本性にはほとんど触れていないことである(47)。

このことを顕著に示しているのは、スアレスにおいて、個的実体である自立体(suppositum)を自立体として成立させる実体的様相(modussubstantialis)であるところの自立性(suppositalitas)が、自存(subsistens)ともペルソナ性(personalitas)とも呼ばれていることである(48)。

あきらかにスアレスにおいては個的実体である自立体が個体的であり、共有不可能的であること、そのことがそのままペルソナであることと同一視されている。

3スアレスは、自立体・ペルソナの概念を明確なものにするために「(被造物において)自立体(すなわち、ペルソナ)は本性(natura)に何か積極的・実在的なもの、そして実在的に本性から区別されたもの(aliquidrealepositiviuminreipsadistinctumanatura)を付加するか(49)」と問い、まずこれに否定的に答えるアリストテレスに基づくとされる見解(50)、およびスコトゥス説を反駁する(51)。

ついで、スアレスは自らがこの問いに肯定的な答えを与えることをあきらかにした上で、この付加されるものが自存、自立性、ないしペルソナ性にほかならない、とする(52)。

次にこの自存‐ペルソナ性は厳密に何であるかが問題とされ、スアレスは当時有力な説であった自存(subsistentia)を実存(existentia)と同一視する見解(53)、および自存、実存、本質を実在的に区別する(著名なトマス註釈家)カエタヌス説を詳細に解説した上で、それらを斥ける(54)。

ではスアレス自身は自立体ないしペルソナをペルソナとして成立させる(実体的様相としての)自存をどのように理解していたのか。

さきにスアレスのペルソナ概念の特徴は、ペルソナの本質的特徴としてその個体性あるいは共有不可能性を強調することであると指摘した。

結局のところ、スアレスにおいて、自存とは、たんに本性ないし本質の次元においてではなく、現実に存在するという面において(inrationeexistendi)、個的実体ないし自立体の個体性‐共有不可能性を究極的に成立させる一種の様相(modus)として理解されていた、と結論することができるであろう(55)。

それは言いかえると、最も根元的な意味での個体性が、自立体ないしペルソナの本質的特徴であると主張することにほかならない。

4このように、スアレスはペルソナをもっぱら(個的)実体として捉え、そして実体としてのペルソナを特徴づけるものは根元的な個体性ないし共有不可能性である、と主張している(56)。

人格が理性的本性を有することはけっして否定されていないが、理性的本性はペルソナであるところのものが何であるかを規定するものではあっても、そのものをペルソナたらしめるものではない、とされている。

スアレスにおいて、ペルソナはもっぱらその根元的な個体性‐共有不可能性において理解され、それが理性的本性を有することは、ペルソナをペルソナたらしめる本質側面(ratio)にはふくまれていないのである。

スアレスのこのような「人格」理解は、個々のペルソナが根元的に個体的であり、他の何ものによっても置きかえることのできない存在であること、まさしくかけがえのない存在であることの徹底した主張として高く評価されるかもしれない。

しかし、ペルソナをペルソナたらしめる本質側面は根元的な個体性としての共有不可能性(incommunicabilitas)であるというスアレスの見解は、各々のペルソナを、他者とまったく関係づけられることのない個体性のうちに閉じこめるものであるような印象を与え(57)、ペルソナは交わり(communicatio)において存在するものであり、ペルソナの本質的特徴は交わりである、というわれわれの経験に深く根ざしたペルソナ理解(58)とは、一見まったく相容れないものであるように思われ、われわれを困惑させずにはおかない。

ペルソナが他の何者によっても置きかえることのできない主体であり、その意味で個的であることは真実であるにしても、スアレスにおけるペルソナの個体性の理解には何か重大な欠陥がふくまれているのではないか。

私の見るところでは、この欠陥はスアレスがペルソナあるいは自立体の「存在」を、その本性ないし本質(すなわち理性的本性)から切り離して捉えようとしたことにもとづくものである。

別の言い方をすると、スアレスは本性ないし本質から区別された現実存在(existentia)については語るけれども、本性ないし本質と結びつき、それによって限定されつつもそれを超える高次の現実性としての存在(esse)は、彼の形而上学からは排除されている(59)。

したがって、スアレスは人格の存在について考察するにさいして、理性的本性によって限定され、規定されている存在──言いかえると、理性的本性についてのふりかえりを通じて、その豊かな内容が理解されるようになる人格の「存在」──を視野に入れることができなかったのである。

5これまでの考察が間違いでないとしたら、スアレスがペルソナの本質側面を根元的な個体性ないし共有不可能性であるとしたのは、彼の基本的な「存在」理解にもとづくと言えるであろう。

その「存在」理解とは、本性ないし本質と結びつき、それによって限定されつつそれを超えるような現実性としての「存在」(esse)を排除するものであり、言いかえると「存在するもの」が本質と存在との複合体であることを認めない「存在」理解である。

別の言い方をすれば、スアレスの存在論の基本概念である「存在」は、スコトゥスの「存在」概念とそのまま同一視することはできないにしても、一義的な「存在」概念なのである(60)。

したがって、「理性的本性において自存するところのもの」という「人格」理解が可能になるためには、一義的な「存在」概念ではなく、「存在するもの」は

本性ないし本質と、それを超える高次の現実性としての「存在」から複合されているという「存在」理解にもとづく存在論が必要とされることになる(61)。

このような存在論はトマス・アクィナスによって構想され、仕上げられたものであり(62)、次にトマスの「存在」理解を視野に入れることによって、彼においてどのように理性的本性へのふりかえりを通じて、より適切な「人格」理解が可能となったかを見ることにしたい。

Ⅳペルソナと理性的本性

1さきに触れたように(63)、トマスは「『ペルソナ』は全自然における最も完全なものを表示する」と言明しているが、彼はどのような仕方で「人格」が「全自然における最も完全なもの」、すなわち最も優れた意味で「存在」であることを論証しているか(64)。

スアレスの場合と同じように、トマスも存在論的には「人格」を実体(substantia)として捉えるが(65)、スアレスのように「人格」をもっぱら個的実体あるいは自立体(suppositum)、あるいはそれ自体によって存在する(perseexistere)ものとしての自存体(subsistentia)として規定しようとはしない。

そうではなく、トマスは「人格」を理性的実体(substantiarationalis)の類において、つまり理性的本性において自存するものとして規定しようと試みる(66)。

「理性的本性において」という限定は、考察を存在の特殊な領域に限り、すべての存在するものを対象とする存在論の考察方法から逸脱することであると思われるかもしれないが、トマスの「存在」理解に従えば、すべての「存在」は(無限な存在を除き(67))何らかの本性ないし本質と結びつき、それによって限定されるものであり、このような限定は何ら問題ではない(68)。

2「理性的本性において自存するもの(69)」(subsistensinrationalinatura)という規定は、他者においてではなく、それ自体において存在するもの(idquodnoninaliosedinseexistit)としての自存体(subsistentia)と、理性的本性(naturarationalis)を組み合わせたもので、「理性的な自存するもの」(subsistensrationale)と言い換えることも可能であり、とくに理解困難な概念ではない。

それ自体において、あるいはそれ自体によって(perse)存在するもの、とは実体のことであり、実際にトマス自身、「ペルソナ」という名称が表示するのは理性的実体(substantiarationalis)である、と述べている(70)。

問題は、このような「理性的実体」を言い換えたにすぎないような規定が、ペルソナをペルソナたらしめる本質的側面を適切に指示することができるのか、ということである。

言いかえると、問題は「自存するもの」と「理性的本性」という、一見かけ離れた二つの要素を組み合わせることによって、最も優れた意味での存在としての「人格」を明確に言いあらわすことができるのか、できるとすればそれはどのようにしてであるか、ということである。

3この問題を解くための鍵は、「理性的本性において自存するもの」という「人格」の規定は、一見「自存するもの(実体)」を「理性的(本性において)」という形容詞で特殊化したものにすぎないように思われるが、実際には理性的本性への徹底したふりかえりを通じて、「人格」と呼ばれる存在が最も優れた意味での存在であることを明確に示そうとする試みを言いあらわすものであること、そのことを見てとることである(71)。

ところで理性的本性──人間の自然本性──への徹底したふりかえりは、(理性的本性を有する)人間の働きを、それら働きの根源である自然本性そのものまでさかのぼって考察するか、あるいはそのような働きを通じて到達されるべき人間の自然本性の完全な実現(人間の究極目的)を考察することによって行われる(72)。

しかし、このような考察を詳細かつ精密に遂行することは、われわれが次に取り組むはずの「人格の倫理学」に委ねることにして、ここでは(理性的本性を有する)人間に固有であって、人間の自然本性を明確に示すと思われる知性的認識と意志の働きについての考察、および人間の生の全体をその究極目的へと秩序づける徳としての愛徳(caritas)についての考察を通じて、トマスが人間の理性的本性、自然本性そのものをどのように捉えていたかを確認しておきたい。

4人間の知性的認識は感覚から始まるので(73)、感覚によって捉えられる事物について、それの何であるか、つまり本性ないし本質を認識することが人間としての本性にかなう(connaturale)ことである(74)。

しかし、そのような知性の認識活動によっては、知性(あるいは理性)という能力(potentia)にふくまれている可能性(potentia,capacitas)があますところなく実現されるのではない(75)。

知性は何らかの事物の本質を認識すると、さらにその認識を深めようとするのであり、それは当の事物をそのようなものたらしめる根拠あるいは原因の認識(原因が存在すること、さらにその本質の認識)へと進み、それ以上さかのぼることのできない第一原因の認識にたどりつくまで、知りたいという欲求が満足させられることはない(76)。

そのような第一原因の認識においてはじめて、知性にふくまれている可能性は完全に実現されるのであり、そこにおいてこのような知性的認識を行う主体である人間の自然本性が明示されるのである。

知りたいという人間の欲求は、何らかの特殊な本質によって限定された存在(ensparticulare)を認識することではけっして満足させられない、ということは、人間知性の本来の対象はそのような限定を超える全的な存在(ensuniversale)であることを意味する(77)。

「全的」というのは特殊的な限定を切り捨てて一般化したという意味ではなく(78)、すべての存在するものの完全性をふくむ「全き」存在という意味である。

全的な存在のうちには有限な存在のみでなく、無限な存在もふくまれる。

したがって、人間知性の本来的な対象は全的な存在である、ということは、人間知性はその本性上、存在するもののすべてと合一するような可能性をふくむ(79)、無限へのちから(virtusadinfinitum)であることを意味する(80)。

そして知性が無限へと開かれた可能性であることは、このような知性によって認識活動を行う人間の自然本性そのものが、無限へと開かれ、無限へと自らを超越するものであることを示しているのである。

人間の知性あるいは理性について右に述べたことは、理性的欲求の能力である意志についてもそのまま妥当する。

意志の本来的な対象はけっしてあれこれの任意な、特殊的な側面から見られた善いもの(bonumparticulare)ではなく、全的で完全な善(bonumuniversaleetperfectum)である(81)。

意志はあれこれの特殊的な善いものを自由に意志するが、そのようなすべての自由な選択としての意志の根底に見出される全的な善の意志は、意志(能力)の自然本性にもとづく働きであり、それは自然本性的であるから必然的であるが(82)、知性的(理性的)欲求能力である意志の自然本性にもとづくものであるから、あくまで意志的(voluntarius)であって、けっして強制的ないし暴力的(violentus)ではない。

しかし、現在の生においては「全的に、そしてあらゆる考察にもとづいて善である何らかの対象(83)」(objectumquodestuniversaliterbonumetsecundumomnemconsiderationem)が意志にたいして提示されることはない、ということを付言しておかなければならない。

したがって、現在の生において人間はあらゆる特殊的な善いものへ向かう意志の根底において、全的な善を究極目的(ultimusfinis)つまり至福(beatitudo)として自然本性的ないし必然的に意志しているのであるが、至福を直接的に或る対象として意志することはないのである(84)。

5次に、人間が行為と習慣づけによる獲得(85)(acquisitio)、あるいは神の恩寵による注入(86)(infusio)という仕方で身につける諸々の徳に、徳としての形相を与えるかぎりにおいて、すべての徳の母であり、根元(materetradixomniumvirtutum)であるとされる愛徳(87)(caritas)についての考察を通じて、トマスが人間の自然本性をいかに理解していたかを確認しよう。

徳(virtus)とは人間を、そこにおいてその自然本性が完全に、そして最終的に実現される究極目的へと秩序づけるものであり(88)、そして愛徳は諸々の徳をまさしく徳たらしめる根元的な徳であるから、愛徳において人間の自然本性の全体が或る仕方で結晶化されていると言えるであろう。

「結晶化」という言葉を用いたが、より正確には、愛徳において人間の自然本性は(究極目的そのものである神との霊的合一(uniospiritualis)を通じて)「或る仕方で(神的本性へと)変容せしめられる」(quodammodotransformatur)というのがトマスの理解である(89)。

そして、神的本性を分有することによって、神的本性へと何らかの仕方で変容せしめられる、という可能性──恩寵を受容する可能性(90)(capaxgratiae)──において、トマスは人間の自然本性の最高の安全性を見てとっている(91)。

トマスは徳としての愛徳の本質を、神が自らの至福あるいは永遠の生命を、友としての人間とわかち合うことの上に成立する友愛(amicitia)として理解しているが(92)、ここでは人間の自然本性の全体像を浮かび上がらせてくれるかぎりでの愛徳に目を向けているので、トマスが愛徳を人間の社会的徳としての正義(93)をさらに完成する高次の徳として理解していることに考察の重心を置くことにしたい。

トマスは多くの箇所で、愛徳、すなわち神的至福の共有にもとづく友愛を絆として成立する、幸いなる社会について語り、それを(政治社会全体の善である共通善(bonumcommune)を各自に固有の私的善(bonumprivatum)に優先させる、市民的徳としての正義(justitia)にもとづいて成立する)市民たちの共同体に対応させている(94)。

実際にトマスは全的な善(95)(bonumuniversale)である神はすべての被造物からなる全宇宙の共通善であり(96)、人は愛徳によって共通善としての神を愛しなければならない、と繰り返し、明確に主張している(97)。

或る政治社会の善を、それを自らのものとして所有し、専有するために愛する──それは暴君のやり方である──ことは、真に政治社会を愛することではない。

それと同じように、至福なる者たちによって分有される神的善を、自らに固有の善として所有し、専有するために愛する──邪悪な者すらこの善をそのような仕方で欲求する──ことは、この善を真に愛することではなく、人を至福へとよく秩序づけるものではない。

むしろ人は至福なる者たちによって分有される善──神的善──を共通善として愛しなければならない。

この愛こそまさしく人を至福なる者たちの社会にたいしてよく秩序づけるのであり、それが愛徳(caritas)にほかならない、とトマスは言明する(98)。

人は神を、政治的徳──正義の徳──を身につけた市民が政治社会の共通善を愛するような仕方で愛しなければならない、そしてそのような神を共通善として愛する愛が愛徳である、というトマスの主張は、「キリスト教的」愛としての愛徳の通俗的理解とは大いに異なっており、読者を驚かせるかもしれない(99)。

しかし、すべての徳の母にして根元である愛徳をこのように理解することは、人間の自然本性についての深い洞察を示すものであり、次にそのことについて述べることにしたい。

6トマスが人間の知性的認識と意志の働きについての考察、および人間の生の全体を究極目的へと秩序づける根元的な徳としての愛徳の考察を通じて到達した、人間の理性的本性についての洞察はいかなるものであったか、またそのような理性的本性において自存するものとしての人格はどのように理解されていたのか。

トマスが到達した人間の理性的本性についての洞察の核心は、人間の自然本性はけっしてそれ自身、無限なるものではないが、無限へと開かれ、無限(すなわち神的本性)と直接的に結びつきうる可能性をふくむ(100)、というものであった。

ここからして、このような無限を受容しうるような人間の理性的本性において自存する人格の存在は、神によって創造された世界の全体に属するが、その単なる構成部分ではなく、それ自体、何らかの意味で「全体」であると言える存在であることが帰結する(101)。

それは「全体」としての豊かさのゆえに、限りなく自己を与えることが可能であり(102)、その意味で「交わり」(communicatio)において自存する存在である。

言いかえると、「人格」をペルソナたらしめる本質的側面──すなわちペルソナ性あるいはペルソナの「一性」(unitas)──は、この人格は他のすべての人格から共有不可能な仕方で区別された個体(individuum)である、ということに存するのではない。

そうではなく、人格の「一性」は、各々の人格が、或る意味で全体であるというその存在の豊かさのゆえに、それぞれ独自の仕方で自らを与え、交わりにおいて存在することのうちに見出される。

それは全体を構成する部分としての個を、他のすべての部分としての個から区別する個体性ではない。

むしろ各々の人格はそれぞれが或る意味で全体でありつつ、共通善としての神へと直接に秩序づけられ、そのことによって諸々のペルソナの共同体が成立する。

このようなペルソナの共同体が形成されるための条件としての各々のペルソナの「社会性」は、役割の分担や相互援助によってのみ生存することが可能であるような存在に帰せられる、欠如や乏しさにもとづく社会性ではない(103)。

むしろそれは、自らの存在の豊かさ──それは与え、共有することによって成立する交わり・社会を可能にする──にもとづく社会性である。

このような人格の一性と社会性こそ、ペルソナが全自然における最も完全なものであり、最も優れた仕方で存在する存在であることの徴しである、と言えるであろう。

Ⅴ結論──ペルソナにおける自存と関係

1本章では、トマス・アクィナスが「全自然における最も完全なもの」としての人格は「理性的本性において自存するもの」であると述べていることを手がかりに、「人格」概念の存在論的考察を試みた。

この考察の特徴は、「人格」の存在論的考察を躊躇させるような様々の障碍があるという状況をいわば逆転させて、存在論的探究の重点を、感覚によって捉えられる物質的事物の「存在」から、人格の存在へと根元的に移行させるべきではないか、という提案において示されている。

このような存在論の「ペルソナ論的転回」が果たして方法として有効であり、学問的結実をもたらすかどうかについては、ここであれこれ憶測することはひかえたい。

2人格の存在についての考察を進めるさいの手がかりにした「理性的本性において自存するもの」は、たんに「自存するもの(実体)」に「理性的(本性において)」という形容詞を付け加えたものではなく、まさしく「人格」と呼ばれる存在の「一性」ないし「ペルソナ性」を言いあらわそうとする試みであることはさきに述べた通りである。

本章ではそのことを、人格の一性は、何らかの全体を構成する部分である個体の一性ではなく、むしろそれ自体何らかの意味で「全体」である人格が自らを与え、交わりにおいて自存することにおいて示される存在の豊かさの「一性」であることに目を向けることによって示そうと試みた。

しかし、本章におけるこのような試みによっては、それ自体において(inse)、あるいはそれ自体によって(perse)自存するものとしての実体(substantia)、あるいは自存するもの(subsistens)は、まさしく自らを与え、交わりを遂行すること自体において自存するものである、という人格の一性は十分に解明されているとは言えない。

言いかえると、ペルソナがいかにして自存するものであると同時に関係において存在するものであるか、というペルソナの「神秘(104)」の解明は徹底的には為されていないのである。

おそらく、この解明をさらに推し進めるためには、トマスが神的ペルソナを言いあらわすために用いた「自存するものとしての関係(105)」(relatiosubsistens)という、ほとんど自己矛盾的とも言うべき神学的言語についての省察に立ち入ることが必要とされるであろう。

そのような省察に関しては、まだ十分とは言えないが、第六章で試みる。

 

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