その竿を立てろ
教育の側面からの「ランダムをプログラミングする」という視点、あるいはロボット演劇における「ノイズを適度に挿入する」という視点、それは要するにいずれも、「人生、無駄があった方がいいですよ」という、至極当たり前のことを言っているに過ぎない。
そして、その視点が、コミュニケーションの問題を考える上でも、とても重要だろうと私は思う。これも難しい話ではない。
「メチャクチャに教えた方がいい」のと同じように、「適当に喋った方がいい」ということだ。
その当たり前のことを、持って回った言い方で、これから説明をしていきたいと思う。
まず議論の前提として、私が提唱してきた「現代口語演劇とは何か?」という点を、簡単に説明しておきたい。
前章に書いた「俳優に負荷をかけて意識を分散させる」というのも、その演技法の代表例であるが、これは演技面のことであって理論の中核ではない。
とりあえず、「現代口語」と名乗るくらいだから、まず口語体、話し言葉で台詞を構成するということなのだが、「演劇だから話し言葉で当たり前でしょう」と言われてしまうと、「まぁ、いままでの演劇とは違うんで、一度観てみてください」としか答えようがなくなってしまう。
一つ、定番の、できるだけわかりやすい例を挙げるとすれば、以下のような説明となる。ある演劇の教科書に、その、竿を、立てろという例文がある。
「あの」でも「この」でもなく、「その」を強調したいときには「その」に力を入れる。箒でも棒でもなく「竿」だということを強調したいときには、「竿」に力を入れる。
寝かせるのでも、転がすのでもなく、「立てろ」という点を強調したいときには、「立てろ」に力を入れる。
この練習を繰り返すと、うまく感情表現ができると、そのように、ある演劇の教科書に実際に書いてある。
だがこれは、少し日本語のことに詳しい人なら、おかしな説明だということがすぐにわかるはずだ。
日本語の最大の特徴は、語順が自由だという点にある。
また、日本人自身はあまり気がついていないが、特に話し言葉では、単語の繰り返しをいとわないという特徴も持っている。
欧米の言語は、一般に単語の繰り返しを嫌うと言われている。フランス語などはそれが徹底していて、だからその分、指示代名詞を使う頻度が高いのだろう。
英文和訳の問題で、「it」をそのまま「それ」といちいち訳していると、「それが、それで、それだ」と煩わしい文章になってしまったという経験が、誰にもあるのではないだろうか。
さらに、以上のような特質の結果ということなのだが、日本語は強調したいものを語頭に持ってきて、何度も繰り返し言うという特徴的な表現形式を持っている。
だから、「竿」を強調したければ、私たちはおそらく、次のように言うだろう。竿、竿、竿、竿、その竿立てて、あるいは、「立てろ」を強調しなければならないなら、立てて、立てて、立てて、その竿、と言うのではないか。
「竿」や「立てろ」に力を入れる、いわゆる強弱アクセントを使用するのは、非常に特殊な状況においてであって、私たちは、普段の日常生活では、強弱のアクセントはほとんど使わないと言っていい。
しかしながら、強弱アクセントによって感情を表現するという歪んだ(間違ったとまでは、あえて言わないが)演技法が、二〇世紀初頭の日本における近代演劇の成立以来、ずっと長く流布してきた。
演劇に対して多くの方が感じている、胡散臭さ、暑苦しさ、要するに「芝居がかった」「芝居臭い」という感覚は、実はここに由来する。
西洋近代演劇を模倣した不幸
どうしてこんなことになってしまったのかは様々に理由があって、ここにそのすべてを書くことはできない。興味のある方は、拙著『演劇のことば』(岩波書店)を読んでいただければと思う。
ただ、その最大の理由は、やはり西洋で生まれた近代演劇の輸入の仕方を、多少間違えてしまったというところにあるだろう。
西洋における近代演劇の誕生は、チェーホフの戯曲に象徴されるように、日常を生きる人びとがそのまま主人公になり、その人びとの話す言葉が台詞となる点にあった。
ここには、英雄や王様はもはや登場しない。これは、世界演劇史上のコペルニクス的転回と言ってもいい。ここまでのところは、おそらく西洋近代演劇の輸入を試みた日本の先人たちも理解していたはずだ。
そうして、他の多くのジャンルと同様に、日本人は忠実に西洋近代演劇を模倣した。髪を金髪にし、つけ鼻をつけてまで。
ただ、さらにその上、感情を強弱アクセントによって表現するという欧米の言語、特に英語、ドイツ語、ロシア語などに特徴的な発語の方法までも真似してしまった。
少数の留学生が、その限られた見聞を語ることによって始まった日本の近代演劇の、ある種の不幸とも言えるだろう。国家の教育と無縁だった日本の近代演劇には、国費留学生も、お雇い外国人もいなかった。無手勝流の輸入が、いささか乱暴な結果を生んだことは、仕方なかったかもしれない。
こうして多くの演劇人が、「演劇の台詞は強弱アクセントで喋るものだ」と勘違いをしてしまった。
実際、チェーホフを多く手がけてきた日本の演出家が、初めてロシアに行った際に、「ロシア人は、本当にチェーホフの台詞みたいに喋る」と言って驚いたという逸話もある。
- ・日本語は、強弱アクセントを(ほとんど)使わない。
- ・日本語は、強調したい言葉を、語頭に持ってきて繰り返すことができる。
だとすれば、西洋近代演劇の教授法は、日本においては、(ほとんど)意味をなさないことになる。
スタニスラフスキー・システムに代表される西洋近代演劇の根幹は、戯曲を、主にその心理的背景から分析し、どのような感情を表出させ、そのために台詞のどこを強調していくか、あるいは抑制していくかを考え実践していく点にある。
しかし、日本語の戯曲には、それらはすべて、あらかじめ書かれていることになる。そこに分析の余地はない。
その、竿を、立てろという台詞があったとしたら、「竿」や「立てろ」を強調することはできない。
もしも強調しなければならないとしたら、それは、別の語順で書かれていたはずだから。逆に劇作家は、このことに十分意識的でなければならない。日本語で書かれる戯曲にとって、語順は決定的な意味を持つ。
現代口語演劇理論
一九八四年から八五年にかけて、私は韓国延世大学に留学していた。この一年間は、私の人生の中では、めずらしく真面目に勉強をした時期だった。
特に、最初の三ヵ月ほどは、とにかく韓国語を習得しなければならないという強迫観念があって、朝から晩まで言葉漬けの、修行僧のような生活をしていた。
午前中は韓国語のクラス、昼は外国人寄宿舎でアメリカ人留学生と英語で会話しながら食事、午後は英語で韓国史や韓国哲学を習い、夕方からは韓国語で韓国人学生に日本語を教えるボランティア。
さらに韓国語のクラスで落ちこぼれたフィリピン人に、週に二回、英語で韓国語を教える。そして深夜まで韓国語クラスの予習と復習。
こういう複雑な言語生活を続ける中で、私は先に掲げた理屈を「発見」した。二二歳の私は、おそらく、その発見の意味さえ、よくわかってはいなかっただろうが……。
帰国して、大学を卒業し、将来の展望もないままに就職もせず芝居を続けて、自分が発見してしまったこの方法論を形にするのに五年かかった。
こうして出来上がったのが、『現代口語演劇』という新しいスタイルだった。しかし、当時の評判は、惨憺たるものだった。
「ぼそぼそ喋るな」「後ろを向くな」「俳優が同時に喋ると、何を言っているのかわからない」……いまでは当たり前になっている方法論も演技法も、当時の観客には斬新というよりは、ただ稚拙なものとしてのみ受け止められた。
実際、表現の発露が、まだ稚拙だったこともあるだろう。
一九八九年、いまでは私の代表作となり海外での公演も相次いでいる『ソウル市民』の初演時、対談形式の劇評が一つだけ、ある演劇雑誌に出た。
「普通に、自然主義的に舞台でしゃべるという試みは、さんざんあったんですね。さんざん試みられてきて、さんざん失敗してきた、それをまたこの劇団が繰り返して主張している。やはり結果はまったく退屈でした。まして、俳優の基礎訓練ができていない。主張は結構ですが、方法は明らかに誤りでしょう」(『悲劇喜劇』一九八九年一一月号・早川書房)
私はこの劇評を読んで、「あぁ、本当に世間は、私たちが発見した事柄の核心は、理解できないのだな」と考えた。若かった私たちは、そのことを比較的ポジティブに考えた。これほど理解されないということは、それほど大した発見なのだろうと。
私たちの方法論が、まがりなりにも演劇界で認められるようになるのは、それからさらに五年、九四年に書いた『東京ノート』が岸田國士戯曲賞を受賞するまで待たなければならなかった。
さらに翌年、初の演劇論集『現代口語演劇のために』(晩聲社)を出版。新劇はもとより、六〇年代以降のアングラ・小劇場運動も串刺しにして批判を展開したこの本は、演劇界に様々な論争を巻き起こした。
そして、さらに五年、新しい演劇の言葉は国語教科書に載るまでになった。
新しい日本語教育
九〇年代に登場した現代口語演劇は、今世紀に入って、チェルフィッチュの岡田利規さん、五反田団の前田司郎さんといった才能豊かな後継を得て大きな広がりを見せることになった。
二人の名前は、演劇に興味のない方でも、それぞれ大江健三郎賞、三島由紀夫賞の受賞者としてご存じの方も多いだろう。
しかし、それ以上に私が自分自身の大きな成果として感じるのは、私の小さな発見が様々な教育分野において応用、援用されていった点だ。
ロボット演劇への応用もその一例だが、もっとも端的な例は、実は日本語教育だった。日本語教育に関わる多くの教員が、自分の使用するテキストを「自然な日本語ではない」と感じている。
この原因の主要な部分も、前述した語順とアクセントの関係にあるのではないかと私は考えた。
感情表現や意思の伝達が求められる上級の授業で、日本語の話し言葉特有の「語順」を無視して書かれた例文を、いくら繰り返し生徒に読ませても、思ったような成果は上がらない。
そこで、無理のない日本語の上質の会話教材が求められるわけだが、実際の教育現場では事柄はそう単純ではないだろう。
たとえば、語順によって文の意味内容が厳密に決定されていく印欧語族の母語話者に対して、初級、中級のレベルで、あまりに日常的な日本語会話を教科書に載せても、ただ混乱を招くだけの結果となる。
たとえば、「竿、竿、竿、竿、その竿立てて」や「立てて、立てて、その竿」という文章では、文法は説明しにくいし、応用も利きにくい。
語順を自由に操ること、倒置や繰り返しによって強調、婉曲、勧誘など様々な表現を行うこと。これらを日本語運用能力の主軸と考えるなら、学習の進度に応じて自由度を増していくオルタナティブな教材を作っていくしかない。
実際、ここ数年、私は国内外の日本語教育の先生方と協力して、そのような書き下ろし教材を開発し、教科書作りのお手伝いをしてきた。
その重要なパートナーの一人であるカナダ、ビクトリア大学の野呂博子先生は、私の戯曲『東京ノート』を使った会話の授業を一〇年近く続けてくださっている。
その野呂先生も最初期は、学会での成果発表などで、常に不思議な違和感にさいなまれたそうだ。
「演劇で自然な会話能力の獲得を」といった発表をすると、必ずと言っていいほど「なぜ演劇なのか?」「演劇の会話は不自然ではないか?」という疑問が寄せられたのだと言う。
諸外国においては、演劇は、言語教育(母国語であれ外国語であれ)の、一つの大きなツールとして認められているが、日本でだけはそうなってこなかった。
その理由は先に掲げたように、演劇の言葉が「臭く」「暑苦しく」「わざとらしい」ものだという一般的な認識から来ているのだと思う。
この二〇年で、日本の劇言語は大きく変化したが、しかしその変化は、残念ながら、世間の演劇に対する偏見を払拭するほどの力を持ったわけではない。
まして、海外に長く在住する日本語教育者の間には、そのような変化は伝わりにくい。それでも徐々に変化の兆しが現れ、演劇などの表現手法をツールとした日本語教育の手法が、各地で開発されつつある。
話し言葉の教育の問題点
実は、この語順とアクセントの問題は、日本語教育だけの事柄ではない。日本国内の国語教育、話し言葉の教育においても、まったく同じことが指摘できる。
たとえば、小学生向けのある国語教科書には、以下のような記述がある。
「今年の冬休み僕はお父さんとぜったいにスキーに行きたいです」この文章を感情表現豊かに読むために、「ぜったいに」のところには、わざわざ傍線が引いてあり、横に「強く」と書いてある。
この指導法は、主に以下の二つの点で間違っていると私は思う。
一つは、表現という、極めて主観性の強い事柄について、あらかじめ固定された言語規範を示し、あたかもそれだけが正解のように強要してしまう点。
もう一つは、これまで述べてきたように、その言語規範自体が、まったく根拠のない、また現実に話される日本語の話し言葉ともかけ離れた、間違った概念に基づく「架空の話し言葉」に拠っている点。
もしも私が、この文章を使って、「感情表現」なり「強調」ということを教えるとするなら(この例文のつまらなさは、いったん置くとして)、以下のような設問を作り、子どもたちと一緒に考えていくだろう。
一、あなたは、この文章の中で、どこを強調したいですか?二、そのためには、どういった表現の工夫が考えられますか?いくつでも、思いつく限りの表現の方法を考えてみましょう。三、いくつも出た表現の方法の中で、自分では、どれが一番好きですか?四、では、実際に、自分の考えた表現を試してみましょう。五、グループ内で発表をして、お互いに、伝えたかったこと、強調したかったことが伝わったかを話し合ってみましょう。
自分の好きな表現と、他人に伝わりやすかった表現の違いも考えてみましょう。
教員が、発達段階に応じた適切な指導をすれば、子どもたちはこういった学習から、感情表現のための様々な方法、「倒置」「反復」「(音の)高低」「間」などを発見していく。もちろん、その中には「強弱」も含まれる。
そしてそれが、非常に特殊な状況で使われる感情表現であるということも同時に発見するだろう。
第二章で記したように、「話さない」ということを選択する子どもも出て来るだろう。「いない」という選択をする子どももいるかもしれない。
間投詞の多い戯曲
私の戯曲は、「あぁ」とか「えぇ」とか「まぁ」といった間投詞が多いため、結果として改行が重なり、雑誌などに掲載される場合は「原稿料どろぼう」と呼ばれる。
通常、演劇雑誌に二段組で掲載される戯曲が、私のときだけ三段組で掲載されることもある。
私の演劇理論に対する初期の批判の一つに、「人間は実際の会話では、こんなに『あぁ』『えぇ』『まぁ』などと言わない」というものがあった。それはほとんど、印象批評に過ぎなかったのだが……。
この問題の本質は、私たちは、どんなときに間投詞をよく使うのかという点なのだ。さて、では私たちは、どんなときに、「あぁ」「えぇ」「まぁ」と言うのだろうか。
劇作家は、話し言葉を書くという特殊な職業だ。
話し言葉というと一般の方は「おしゃべり」を連想されるだろうが、しかし人間が「話す言葉」は、演説、スピーチ、教授、対論、対話、会話、独り言、叫び……など多岐にわたる。
すぐれた戯曲は、これらの話し言葉を縦横に組みあわせて構成されている。シェイクスピア戯曲のすばらしさは、その話し言葉の多彩さにある。
いま試みに羅列した、この話し言葉のカテゴリーは、順に意識的か無意識的かで並べてある。
演説やスピーチには、たいてい原稿があり、教授(学校の言葉)や対論(裁判の言葉)も、あらかじめ語られる内容が決まったものが多い。
逆に独り言を、前もって原稿に書く者はいない。
さて、これらのカテゴリーの詳しい分析は省くが、戯曲を書く上で最も重要なのは、「対話」と「会話」を区別することだと私はこれまで考えてきた。
「対話」=ダイアローグと、「会話」=カンバセーションは、英語では異なる概念だと思うのだが、日本語では、この区別が極めて曖昧だ。
たとえば、手元の小学館の『大辞泉』を調べてみると、「会話」=複数の人が互いに話すこと。また、その話。「対話」=向かい合って話し合うこと。また、その話。となっている。
ちなみに英語では、たとえば『ケンブリッジ英英辞典』によれば、conversation=atalkbetweentwoormorepeople,usuallyaninformalone(二人かそれ以上の間で話すこと、たいていは堅苦しくない)dialogue=1,thetalkinginabook,play,orfilm(本や演劇や映画の中での話し言葉)2,aformaldiscussionbetweencountriesorgroupsofpeople(集団や国家間の、きちんとした議論)となっている。
そこで私なりの二つの言葉の定義は、以下のようになる。
「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。
そして、先の英英辞典にすでに、直接的に書かれているように、演劇、とりわけ近代演劇は、この「対話」の言葉をもっとも重要視する。
「対話」の構造を作る
舞台上に、父、母、娘、息子の四人家族がいるとする。この四人が、卓袱台を囲んで話をしている。これは、まさに「会話」である。
しかし、このような会話がいくら延々と続いても、観客に有効な情報はなかなか出てこない。たとえば、お父さんの職業はいっこうにわからない。子どもがお父さんに、「お父さん、仕事なに?」と聞くわけにはいかないから。
そこで劇作家は常に、こういった場面には他者を登場させる。たとえば、娘の恋人が初めてやって来るといった設定を考える。
娘の恋人が初めて家を訪れる日には、日本のお父さんは最初は奥に引っ込んでいるので、母親が応対に出る。
この場面で、「いやいや、近頃は銀行も大変でしてねぇ」といった台詞が母親から発せられれば、「あぁ、この家のお父さんは銀行員なのか」という情報が、無理なく客席に伝わっていく。これが「対話」の構造である。
また、先に私は、親しい人同士でも、価値観が異なると「対話」が起こると書いた。この典型的な例は、『忠臣蔵』だと私は考えている。
『忠臣蔵』はもちろん近代演劇ではないが、歌舞伎作品があまたある中で、なぜ『忠臣蔵』だけがこれほど上演が続き、また映画やドラマにもなっているかといえば、そこに近代的な要素が多く含まれるからに他ならない。
『忠臣蔵』の元ネタとなった赤穂藩お家断絶の事件が起こったとき、かの藩には、約三〇〇人の家臣がいたそうだ。小藩であるから、地元勤務の侍たちは、ほとんどが顔見知りであり、また親類縁者も多かったことだろう。
この時代、すでに関ヶ原の合戦から一〇〇年が経ち、武士も完全にサラリーマン化していた。したがって彼らは、おそらく日がな一日「会話」を続けていたはずだ。
「あそこの村は年貢の取り立てが面倒くさくてさ」とか、「いやいや今年は豊作なんで、がっぽり取れますよ」といった具合に、いまの税務署職員のような会話をしていたに違いない。
ところが、そこに江戸で若い愚直な殿様が大事件を起こしてしまった。藩は取りつぶされることになり、人びとは思いもよらぬ運命に直面する。そのとき、三〇〇人の男たち一人ひとりの身に、それまで考えてもいなかった個々の価値観が表出する。
ある者は、「殿が死んだんなら、オレも切腹だ」と考え、またある者は、「いやいや幕府の理不尽な措置に対抗して籠城だ」と唱え、またある者は「憎き吉良上野介を倒すために討ち入りだ」と決意する。
もちろん、「申し訳ありませんが、うちは家族もいるんで、お金だけもらって再就職の口を探します」という者も多くいただろう。
彼らは、「赤穂藩お取りつぶし」という大きな運命に直面するまでは、おそらく、「武士道とは何か」などとは考えもしなかったはずだ。
ある集団が、個々人ではどうしようもできない大きな運命に晒されたときに、その成員一人ひとりに、それまで自身も自覚していなかったような価値観、世界観が表出し、それがぶつかりあうことによってドラマは展開していく。これが、近代劇を支える「対話」の原理である。
わかりあう文化
演劇は他者を必要とし、「対話」の構造を要請する。さてしかし、日本社会には、この「対話」という概念が希薄である。
いや、先の辞書の記述などを見ると、それがほとんど、なかったと言ってもいいかもしれない。これは仕方のない側面もある。
一般に、日本社会は、ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体=ムラ社会を基本として構成され、その中で独自の文化を培ってきたと言われてきた。
これはたとえば、皆で一緒に田植えをし、草刈りをし、稲刈りをしなければ収量がなかなか上がらない稲作文化の宿命と言えるかもしれない。
あるいは、極端に人口流動性の少ない社会を作った徳川幕藩体制が、そのような傾向に、さらに拍車をかけたとも言えるだろう。
私はこのような日本社会独特のコミュニケーション文化を、「わかりあう文化」「察しあう文化」と呼んできた。
第一章で指摘した「温室のようなコミュニケーション」も、このような文化的な背景を前提としている。
一方、ヨーロッパは、異なる宗教や価値観が、陸続きに隣りあわせているために、自分が何を愛し、何を憎み、どんな能力を持って社会に貢献できるかを、きちんと他者に言葉で説明できなければ無能の烙印を押されるような社会を形成してきた。これを私は、「説明しあう文化」と呼んでいる。
両者は、それぞれが独立した文化体系であるから、どちらが正しいとか、どちらが優れているということはない。実際、私たちは、この「わかりあう文化」「察しあう文化」の中から、様々な素晴らしい芸術文化を生み出してきた。
たとえば、柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺という句を聞いただけで、多くの人びとが夕暮れの斑鳩の里の風景を思い浮かべることができる。これは大変な能力だ。
この均質性、社会言語学などでいうところのハイコンテクストな(相手のコンテクスト、相手が何が言いたいのかを察しやすい)社会が、日本をアジアの中でいち早く近代国家へと導いたことは間違いないだろう。
我々は、組織だって、一丸となって何かを行うときに、まさに阿吽の呼吸で大きな力を発揮する。だが一方で、こういった「察しあう」「口には出さない」というコミュニケーションは、世界においては少数派だ。少数派だからダメだと言っているわけではない。少数派の強みもある。
たとえば私が暮らす芸術の世界などは、少数派の利点も随分とある(この点は第六章で詳しく述べる)。
あるいは、現代社会のようにキリスト教とイスラム教という一神教同士が正面からぶつかりあっている世界の現状を見ると、「まぁ、まぁ、そこはお互い察しあってさ」という仏教的というか、日本的というか、そのような曖昧で慈愛に満ちたコミュニケーションの形が、なんとなく世界平和に貢献できる部分もあるのではないかと感じることも多い。
だが、そうは言っても、やはり文化的に少数派であるという認識は、どうしても必要だ。そうでないと、ビジネスや日常生活の場面では、日本人は、いつまで経っても理解不能な変わり者扱いになってしまう。
そして、否が応でも国際社会を生きていかなければならない日本の子どもたち、若者たちには、察しあう・わかりあう日本文化に対する誇りを失わせないままで、少しずつでも、他者に対して言葉で説明する能力を身につけさせてあげたいと思う。
だがしかし、「説明する」ということは虚しいことでもある。柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺を説明しなければならないのだ。柿を食べていたら偶然鐘が鳴ったのか。鐘が鳴ったから、柿を食いたくなったのか。法隆寺はなんの象徴か。
こんな身も蓋もない説明を、しかし私たちは、他者に向かって繰り返していかなければならない。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に入ったからと言って、第三の開国が成就するわけではない。
本当に私たちが行っていかなければならない精神の開国は、おそらくこの空虚に耐えるという点にある。コミュニケーションのダブルバインドを乗り越えるというのは、この虚しさに耐えるということだ。
対話と対論の違い
「『対話』と『対論』はどう違うのですか?」という質問もよく受ける。「対論」=ディベートは、AとBという二つの論理が戦って、Aが勝てばBはAに従わなければならない。Bは意見を変えねばならないが、勝ったAの方は変わらない。
「対話」は、AとBという異なる二つの論理が摺りあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。まずはじめに、いずれにしても、両者ともに変わるのだということを前提にして話を始める。
だが、こういった議論の形にも日本人は少し苦手だ。最初に自分が言ったことから意見が変わると、何か噓をついていたように感じてしまうのかもしれない。あるいはそこに、敗北感が伴ってしまう。
「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。
あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。
ヨーロッパで仕事をしていると、些細なことでも、とにかくやたらと議論になる。議論をすること自体が楽しいのだろうとしか思えないときも往々にしてある。
三〇分ほどの議論を経て、しかし、たいてい日本人の私(A)の方が計画的だから、その「対話」の結末は、Cというよりは、当初の私の意見に近い「」のようなものになる。
そこで私が、「これって結局、最初にオレが言っていたのと、ほとんど変わらないじゃないか」と言うと、議論の相手方(B)は必ず、「いや、これは二人で出した結論だ」と言ってくる。
だが、この三〇分が、彼らにとっては大切なのだ。とことん話しあい、二人で結論を出すことが、何よりも重要なプロセスなのだ。
幾多の(おそらく私よりも明らかに才能のある)芸術家たちが海外に出て行って、しかし必ずしもその才能を伸ばせないのは、おそらくこの対話の時間に耐えられなかったのではないかと私は推測している。
様々な舞台芸術の国際協働作業の失敗例を見ていくと、日本の多くの芸術家は、この時間に耐えられず、あきらめるか切れるかしてしまうのだ。
日本型のコミュニケーションだけに慣れてしまっていると、海外での対話の時間に耐えきれずに、「何でわからないんだ」と切れるか、「どうせ、わからないだろう」とあきらめてしまう。
演劇に限らず、音楽、美術など、どのジャンルにおいても海外で成功している芸術家の共通点は、粘り強く相手に説明することをいとわないところにあるように思う。
日本では説明しなくてもわかってもらえる事柄を、その虚しさに耐えて説明する能力が要求される。私はこの能力を、「対話の基礎体力」と呼んでいる。
そして、小中学校の先生方には、「対話の技術は大学や大学院でも身につきますから、どうか子どもたちには、この『対話の基礎体力』をつけてあげてください」とお願いしてきた。
異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと。
ただそれは、単に教え込めばいいということではなく、おそらく、そうした対話を繰り返すことで出会える喜びも、伝えていかなければならないだろう。意見が変わることは恥ずかしいことではない。いや、そこには、新しい発見や出会いの喜びさえある。
その小さな喜びの体験を、少しずつ子どもたちに味わわせていく以外に、対話の基礎体力を身につける近道はない。
冗長率
「冗長率」という言葉がある。一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを、数値で表したものだ。
先に掲げた話し言葉のカテゴリーの中で、さてでは、もっとも冗長率が高いのは、どれだろう。
当然、多くの方は、「会話」だと考える。「無駄話」というくらいだから、親しい人同士のおしゃべりが、冗長率が高いだろうと感じる。しかし「会話」は、内容はたしかに冗長かもしれないが、冗長率自体は高くならない。
お互いが知りあいだと、余計なことはあまり喋らない。もっとも冗長率の低い話し言葉は長年連れ添った夫婦の会話だろう。
「メシ・フロ・シンブン」というやつだ。
もちろん演説やスピーチは、基本的に冗長率が低い方が優れているとされる。「えー」とか「まー」が多用されると聞きづらい。
実は、もっとも冗長率が高くなるのは、「対話」なのだ。
対話は、異なる価値観を摺りあわせていく行為だから、最初はどうしても当たり障りのないところから入っていく。腹の探りあいも起こる。
「えーと、まぁ、そうおっしゃるところはわからないでもないですが、ここは一つどうでしょうか、別の、たとえば、こういった見方もあるんじゃないかと……」とここまで、何一つ語っていない。
冗長率は圧倒的に高くなる。先に、私の戯曲に間投詞が多いという話題を振った理由もご理解いただけたと思う。人間は、たしかに「会話」においては、間投詞を多用しない。それが「対話」のレベルになったときに、間投詞が多用される。
たとえば、以下、小津安二郎監督の『東京物語』の、冒頭を見てみよう。
笠智衆と東山千栄子演じる老夫婦が、東京に住む子どもたちを訪ねていく、その準備をしている場面である。まずは二人だけで、空気枕をどこに入れたかといったたわいのない「会話」をしている。
とみ「空気枕アそっちへ這入りやんしたか?」周吉「空気枕アお前に頼んだじゃないか」とみ「ありゃんしぇんよ、こっちにゃ」ところが、そこに、近所の「細君」がやってくると、以下のようになる。
細君「お早うござんす」とみ「ああ、お早う」細君「今日お発ちですか」とみ「へえ、昼過ぎの汽車で」細君「そうですか」周吉「まア今の中に子供たちにも会うとこう思いましてなア」細君「お楽しみですなア。東京じゃ皆さんお待兼ねでしょうて」周吉「イヤア、暫らく留守にしますんで、よろしくどうぞ」細君「ええええ、ごゆっくりと。──立派な息子さんや娘さんがいなさって結構ですなア、ほんとにお幸せでさ」周吉「いやア、どんなもんですか」
他者が登場することによって、冗長率が増し、「へえ」「まぁ」「イヤア」などの間投詞が多用されることがわかる。「対話」においては、冗長率が増す。
逆にいえば、私を批判した批評家が、それまで見てきた舞台には、「演説」のような台詞と、日常会話しかなかったということだろう。
日本にはいまだ、本当の近代演劇は成立していない。
冗長率を操作する
私たちが、「あの人は話がうまいな」「あの人の話は説得力があるな」と感じるのは、実は冗長率が低い人に出会ったときではない。冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされるのだ。
たとえばNHKでも、午後七時のニュースと九時のニュースでは、明らかに冗長率が異なる。七時のニュースは、限られた時間内に確実に情報を伝えなければならないから、冗長率は低くなる。
九時のニュースでは、必ずしもプロのアナウンサーが進行するとは限らず、そこに、「あれ、これはどうでしょう?」とか「あぁ、これはすごいですね」といった個人の感想も入ってくる。民放一〇時の「報道ステーション」となれば、さらに冗長率は増す。
しかし一部の方に古舘伊知郎さんの評判がよくないのは、少し視聴者の想定以上に冗長率が高いのかもしれない。そういった視聴者には、「余計なことを言うな」と感じさせてしまうのだろう。その点、やはり久米宏さんは、トピックに応じた冗長率の操作が天才的だった。
さて、この「冗長率」という考え方を導入すると、これまでの国語教育、コミュニケーション教育の問題点がより明瞭になる。日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。
「きちんと喋れ」「論理的に喋れ」「無駄なことは言うな」……だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。
だとすれば、国語教育において、本当に今後、「話す・聞く」の分野に力を入れていこうとするならば、少なくともスピーチやディベートばかりを教え冗長率を低くする方向にだけ導いてきたこれまでの教育方針は、大きな転換を迫られるべきだろう。
『くりかえしの文法』
ここからは、現代口語演劇誕生の後日談になる。先に私は、ここに掲げた様々な理屈の原型を、韓国留学中に思いついたと書いた。それは間違いではないのだが、これには多少の錯誤がある。
九〇年代後半、私の名前や著作が、狭い世界ではあるが演劇界で少しは流布し始めた頃、ある方から『くりかえしの文法』(大修館書店)という本を紹介していただいた。
日本語教育の重鎮、プリンストン大学東洋学科教授(当時)の牧野成一先生によって書かれたこの名著には、私がこれまでここに並べてきた理屈が、もっと精緻に、そして当然のことだが学問的な裏づけをもって書かれている。
この本は、一九八〇年一一月に出版されている。
しかし私は、学生時代にはこの本を読んではいない。読んでいれば、私の現代口語演劇は、もっと、きちんとした理論で積み上げられたものになっただろう。私の発見は、劇作家の直感に過ぎない。
ただ私は、先にも書いたように韓国留学中は日本語を教えるボランティアをしていたので、当時、ソウルで手に入る範囲で、日本語教育関係の雑誌や書籍も目にしてはいた。
おそらく(とここからは、後追いの想像なのだが)、その中で、牧野先生ご自身か、あるいは牧野先生の影響を受けた方のエッセイか何かを、偶然読んでいた可能性は非常に高い。
そして、そこから連想して考えた理屈を、さも自分が一人で発見したかのように思い込んでしまったのだろう。そうでなければ、二二歳の若造にしては、この発見はできすぎている。
二〇〇九年五月、私は、プリンストン大学に招かれ、講演会とワークショップを行う機会に恵まれた。前日、ニューヨークからプリンストンに入った私は、レンガ造りの小さな学食の片隅で、憧れの牧野先生に初めてお会いした。
私はそのとき、やにわに、手垢にまみれ、付箋がぺたぺたと貼られた『くりかえしの文法』をカバンから取り出し、牧野先生にサインをしていただいた。
七〇歳を超えて、いまも進取の気風に富む牧野先生は、門外漢の私の日本語教育に対する小理屈をおもしろがってくださり、その後も主催する学会の講演や、対談の相手に呼んでくださるようになった。
人生は、辛く哀しいことばかりだけれど、ときに、このような美しい時間に巡りあえる。普段は不定形で、つかみ所のない「学び」や「知性」が、あるときその円環を美しく閉じるときがある。その円環は、閉じたと思う先から、また形を崩してはいくけれど。
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