なのに、誰もそれを信じようとしない 新人研修
一生のうちに潰瘍を患う人が一〇人に一人の割合でいる。
最も典型的な十二指腸潰瘍は、命にかかわる病気ではないが、ひどい痛みを伴う。
長らく潰瘍の原因は謎だった。
胃酸のたまりすぎで胃壁が侵食されるからだというのが伝統的な見解だった。
胃酸過多の原因は、ストレスや辛い食品、アルコールのとりすぎだ。
潰瘍の明確な「治療」法はなく、痛みの緩和が中心だった。
一九八〇年代前半、オーストラリア・パースの医学研究者二人が、驚くべきことを発見した。
潰瘍の原因は細菌だというのだ。
二人の名は、バリー・マーシャルとロビン・ウォーレン。
彼らは螺旋状のごく小さな細菌が犯人であることを突き止めた(この細菌は後に「ヘリコバクター・ピロリ」すなわち「ピロリ菌」と名づけられる)。
それは、とんでもない大発見だった。
潰瘍の原因が細菌なら治療は可能だ。
抗生剤さえ投与すれば、数日で完治する可能性がある。
しかしながら、医学界はこの発見を歓迎しなかった。
ほぼ独力で数億人の患者予備軍に明るい未来を与えたマーシャルとウォーレンを賞賛する者はいなかった。
理由は簡単だ。
誰も彼らを信じなかったからだ。
細菌説には問題がいくつかあった。
一つは常識だ。
胃酸は強烈で、ぶ厚いステーキを完全に消化するし、爪さえ溶かすかもしれない。
そんな環境下で細菌が生き延びられるはずがない。
サハラ砂漠で氷につまずくのと同程度に、ありえないというわけだ。
もう一つの問題は、発見者だった。
当時、ロビン・ウォーレンはパースの病院に勤務する病理学者、バリー・マーシャルは三〇歳の研究所の研修医で、まだ本物の医師ですらなかった。
医学界では、重大な発見をするのは大学の博士か、世界一流の大規模医療センターの教授と相場が決まっていた。
世界の一〇%の人間が罹る病気の治療法を、研修医が発見することなどありえなかった。
場所の問題もあった。
パースの医学研究者なんて、ミシシッピー州の物理学者と同程度しか信憑性がない。
どこで研究しても科学は科学だが、人間は俗物根性のせいで、科学的発見はしかるべき場所でなされると思い込む傾向がある。
マーシャルとウォーレンは、医学誌に論文を掲載することさえできなかった。
マーシャルが学会で自分たちの発見したことを発表すると、聴衆に笑いが漏れた。
発表を聞いたある研究者は、こう感想を述べている。
「とにかく、物腰が学者らしくなかった」 公平を期するために言っておけば、聴衆が懐疑的になるのも無理はなかった。
マーシャルとウォーレンの証拠は、因果関係ではなく相関関係に基づいていたからだ。
潰瘍患者のほぼ全員からピロリ菌が検出されたとはいっても、ピロリ菌保有者なのに潰瘍がないケースもあった。
因果関係を証明するために罪のない人に菌を投与し、潰瘍ができるかどうか観察するわけにもいかない。
一九八四年、マーシャルの我慢は限界に達した。
ある朝、彼は朝食を抜き、同僚らを研究所に集めた。
そして、同僚らが固唾を呑んで見守る中、約一〇億個のピロリ菌が入ったグラスの水を飲み干した。
「沼の水のような味がした」 と彼は言う。
二、三日もたたないうちに、マーシャルは痛みと吐き気と嘔吐をもよおした。
胃炎、つまり潰瘍の初期段階の典型的な症状だ。
同僚らが内視鏡で見ると、健康的な桃色だった胃の内壁が、赤く炎症を起こしていた。
そこでマーシャルは抗生剤とビスマス(胃腸薬ペプトビスモルの有効成分)を一定期間服用し、魔法のように病気を治して見せた。
劇的な人体実験の後も、戦いは続いた。
実験に難癖をつけてきた研究者がいた。
マーシャルは本格的な潰瘍になる前に治療しているから、本物の潰瘍ではなくただの潰瘍症状だった可能性もあるというのだ。
とはいえ、マーシャルの実験は細菌説の支持者を再び活気づかせ、その後の研究で有力な証拠がどんどん集められた。
一〇年後の一九九四年、米国立保健研究所が抗生剤投与を潰瘍の推奨治療法と認定した。
マーシャルとウォーレンの研究はその後、現代医学のある重要な研究テーマに貢献した。
それは、細菌とウィルスは一般に考えられているより多くの病気を引き起こしているという説だ。
今では、子宮頸癌が伝染性のヒト乳頭腫ウィルス( HP V)によって引き起こされることが知られている。
また、ある種の心臓病は、サイトメガロ・ウィルス(ごくありふれたウィルスで人口の約三分の二が感染している)と関連づけられている。
二〇〇五年秋、マーシャルとウォーレンは功績が認められ、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
二人には世界を変え、ノーベル賞に値する優れた洞察力があった。
それなのに、なぜマーシャルは細菌を飲まなければ信じてもらえなかったのか?
信頼性を見出す
この疑問を可能な限り普遍化すると、こうなる、人はなぜアイデアを信じるのか? かなり野心的な問いだ。
では、わかり切った答えから見ていこう。
親や友だちが信じるから。
そう信じるに至る経験をしたから。
宗教的信条から。
信用できる権威者が言っているから。
家族、個人的体験、信仰は、三大要因だ。
幸か不幸か、こうした要因が人に与える影響を私たちはコントロールできない。
聴衆の母親にメモを回して信頼性を高めるわけにはいかないし、パワーポイントのプレゼンテーションで他人の信仰を消し去ることもできない。
懐疑的な相手を説得し、新たなメッセージを信じさせようとすれば、相手が人生を通じて学んできたことや培ってきた人間関係を敵に苦戦を強いられる。
他人の信じることを変えさせるなんて、とても無理だと思えてくる。
だが、それを言うなら、もともと記憶に焼きつくアイデアを見ればいい。
荒唐無稽なことを信じさせる説得力のあるアイデアもあるのだ。
一九九九年頃、ある電子メールが人から人へと転送されて広がった。
コスタリカから輸出されるバナナは、壊死性筋膜炎を起こす肉食性細菌に感染しているというメールだ。
今後三週間はバナナを買わず、バナナを食べた後に発疹が見られたら、「医師に相談すること!」 と、メールは警告していた。
また、こんなことも書かれていた。
「皮膚感染で壊死性筋膜炎に罹ると激痛に襲われ、一時間に二、三センチずつ皮膚が蝕まれていく。
手足の切断に至る場合が多く、死亡する可能性もある」 メールによれば、米食品医薬品局( FDA)は全国にパニックが広がることを恐れ、全面的な警告を出すのを渋っているという( FDAが何も言わなくても、皮膚が何センチも蝕まれると言われれば、十分パニックになりそうなものだ)。
この思いがけないメッセージの発信者は、マンハイム研究所とされていた。
この奇怪な噂が広まった一因は、何となく権威を感じさせるものがあったからだ。
なにしろ発信元はマンハイム研究所である。
しかも、 FDAも問題を関知しているという。
マンハイム研究所と FDAと聞けば、信頼性は高まる。
壊死性筋膜炎が一時間に三センチも人肉を蝕むなどという荒唐無稽な内容を真に受けてしまうのは、これらの機関に権威があるからだ。
この話が本当なら、夕方のニュース番組で報道されてもよさそうなものだが。
誰かが信頼性をもっと高めてやろうと思ったらしく、その後のメールにはこう付け加えられていた。
「このメッセージは米疾病対策センターの承認を受けています」 メールが回覧され続けていたら、「ダライ・ラマの承認済み」とか「国連安全保障理事会認可」になっていただろう。
汚染バナナの例を見ればわかるように、権威は私たちのアイデアに確実に信頼性を付与する。
信頼性を高める権威といえば、二種類の人物像が頭に浮かぶ。
一つは資格や肩書きを山ほど持った専門家だ。
神経科学ならオリバー・サックス、経済学ならアラン・グリーンスパン、物理学ならスティーブン・ホーキングといったところだ。
もう一つの「権威」は、タレントや有名人など、人々が憧れる人物だ。
有名バスケ選手のマイケル・ジョーダンがマクドナルドを好きだと聞けば、どうしても気になってしまう。
彼には栄養士の資格もないし、世界一流のグルメでもない。
気になるのは、誰もが彼のようになりたいと思っているからだ。
だから、マイケル・ジョーダンがマクドナルド好きなら自分も好きになる。
人気司会者のオプラ・ウィンフリーが気に入った本には興味を持つ。
「あんなふうになりたい」と思う人が薦めるものを、私たちは信用するのだ。
スティーブン・ホーキングやマイケル・ジョーダンのような専門家や有名人からお墨付きをもらえる人は、この項は読み飛ばしてくれていい。
だが、そうでない人は、誰に頼ればいいのか。
有名人でも専門家でもないが、信頼性を与えてくれる人を見つけることはできるのか。
意外なことに、答えはイエスである。
反権威者の信頼性を利用すればよいのだ。
パム・ラフィンという名の女性も、そんな反権威者の一人だった。
パム・ラフィンは反権威者
パム・ラフィンは、一九九〇年代半ばにテレビで放映された禁煙広告シリーズの主人公である。
ラフィンは有名人でもなければ医療専門家でもない。
ただの喫煙者だ。
ラフィンは当時二九歳で二児の母だった。
一〇歳でタバコを吸いはじめ、二四歳で既に肺気腫に罹っていた。
肺移植は失敗した。
マサチューセッツ州公衆衛生局( MDPH)タバコ対策部長、グレッグ・コノリーは、禁煙を訴える公共キャンペーンの制作責任者だった。
パム・ラフィンを知った彼は、体験談を公開してほしいと依頼し、彼女は承諾した。
コノリーは言う。
「これまでのキャンペーンで、実在の人物を使って語るのが一番説得力のあるやり方だとわかった」 MDPHは三〇秒のスポット CMシリーズを撮影し、『アリー m yラブ』や『ドーソンズ・クリーク』といった人気ドラマの枠で放映した。
CMの内容は残酷だった。
肺の機能不全のせいで呼吸困難になったラフィンが、生きようともがく姿を映し出した。
彼女が先端にカメラの付いた管を口から肺まで挿入する辛い気管支鏡検査に耐えるのを視聴者は見守った。
彼女の背中に残る醜い手術跡も見せつけられた。
別の CMでは、幼い頃と大人になってからのラフィンの写真が映し出され、肺気腫のせいで自分はむくんだ顔になり、首にこぶができたと、彼女は語った。
「年齢より上に見られたくてタバコを吸いはじめたけれど、その通りになってしまい、後悔している」 CMは正視するにしのびず、『ドーソンズ・クリーク』のような軽いタッチのドラマとは不快なほど対照的だった。
しかし、「喫煙者に衝撃を与え、目を覚ましたことに何ら後悔はない」 とコノリーは言う。
ラフィンは禁煙運動のヒロインとなった。
MTVのドキュメンタリーが彼女を取り上げ、米疾病対策センターは彼女の物語をインターネットの禁煙キャンペーンや、二〇分間の教育映画『息ができない』で紹介した。
彼女は二〇〇〇年一一月、三一歳で亡くなった。
三週間後に二度目の肺移植手術を受ける予定だった。
ラフィンの物語を読めば、彼女が説得力のある代弁者だったのもうなずけるはずだ。
ラフィンは個人的体験を通じて、自分が語っている内容をしっかりと理解していた。
彼女には語るべき話、それも大きな影響力をもつ物語があった。
反権威者の信頼性を利用した例がもう一つある。
ニューヨーク市のドウ財団は、ホームレスの人々にカウンセリングや薬物中毒のリハビリ、そして何より職業訓練を施し、自立した市民へと育成する団体だ。
数年前、資金援助を期待できそうな助成機関の代表者が同財団の事務所を訪れることになった。
同財団は、運転手のデニスを迎えにやり、車で本部事務所まで案内させた。
デニスも同財団に助けを求めるまでホームレスだった。
彼は、事務所に着くまでの四五分間、助成機関の代表者に体験談を話した。
その一人は言う。
「理事の口から活動の成果を聞くのとはわけが違う。
デニスは同財団の最高の大使であり、生きた証拠だった」 同財団は内部でもこのやり方を利用している。
プログラムに参加するホームレス男性全員に、二年前まで彼らと同じ境遇にあった相談相手をあてがっているのだ。
とはいえ、ラフィンやデニスが起用されたとき、彼らが効果的な権威となることがわかっていたわけではない。
ラフィンを使った禁煙キャンペーンは、三〇年前にはありえなかった。
当時は、公衆衛生局長官が威厳たっぷりにタバコの危険性を説いたり、人気俳優のバート・レイノルズが禁煙生活の素晴らしさを語るのが普通だった。
現代の市民はおびただしい数のメッセージに晒され、メッセージの発信源を疑う癖がついている。
メッセージの影に誰がいるのか、その連中を信じるべきか、自分が信じたら向こうはどんな得をするのか、と考える。
「新しいシャンプーが髪にコシを与えます」と訴えるコマーシャルより、「新しいシャンプーで髪にコシが出たの」と喜ぶ親友の言葉の方が信頼性がある。
企業はシャンプーを売りたがっているが、親友はそうではない。
だから親友の方が信頼性が高い。
つまり、地位やステータスがあるからではなく、誠実で信用できるからという理由で、発信者が権威者として認められる場合もあるのだ。
反権威者は、ときに権威者に優る。
細部の威力
メッセージを保証してくれる外部の権威が、常に得られるとは限らない。
たいていは、メッセージ自体がメッセージ内容を保証しなければならない。
つまり、「内在的信頼性」が必要なのだ。
もちろん、内在的信頼性はメッセージの題材によって変わってくる。
数学の証明と映画批評では、内在的信頼性のあり方が違う。
だが意外にも、内在的信頼性を確立するための一般原則がいくつかある。
こうした原則の効果は、都市伝説を見ればよくわかる。
「ボーイフレンドの死」という有名な都市伝説がある。
あるカップルが男性の車でデートに出かけたが、うら寂しい道路の木の下でガス欠になってしまう。
女性は、男性が下心から仕組んだのではと疑うが、本当に車が動かないことを知る。
男性は女性を車に残し、最寄の家まで徒歩で助けを求めに行く。
男性はなかなか帰らず、女性は何時間も待たされたような気がしてくる。
背後で車の屋根を引っかくような不気味な音がして、女性は怯える。
きっと、垂れ下がった木の枝が立てる音だろう。
不安な気持ちで数時間待ったあと、とうとう女性は車から出る(ここでホラー音楽!)。
すると、殺されたボーイフレンドの死体が、木の枝から宙吊りになっていた。
あの音は、風で死体が揺れるたびに、爪先が屋根をこする音だったのだ。
この伝説は人から人へと語り継がれるたびに、細部がつけ加えられていく。
舞台は地域によって変わるが、「農業道路 121号線で」とか「トラビス湖を見おろすあの崖の上で」というふうに、必ず実在の特定された場所になっている。
民間伝説の専門家ジャン・ブランバンドによると、伝説の「信頼性と効果の大部分は、その地域ならではの細部が与えている」という。
詳細な知識は、専門知識に似た効果を発揮することが多い。
歴史マニアが南北戦争の興味深い逸話を語れば、その人の信頼性はたちまち高まる。
だが、具体的な細部は語り手の権威だけでなく、アイデアそのものにも信頼性を与える。
興味深い細部が豊富に盛り込まれた南北戦争の逸話は、誰が語っても信頼性を感じさせる。
陪審員とダース・ベイダーの歯ブラシ
一九八六年、ミシガン大学の研究者ジョナサン・シェドラーとメルビン・マニスは、模擬裁判実験を行った。
被験者は陪審員役になり、架空の裁判の台本を与えられて読む。
陪審員の仕事は、ジョンソン夫人の母親としての適性を評価し、七歳の息子の養育権を引き続き認めるかどうかを判断することだ。
台本には、ジョンソン夫人にとって不利な意見と有利な意見が八つずつ書かれており、うまくバランスが保たれている。
陪審員は全員同じ意見を読むが、一つだけグループごとに変えられている点があった。
それは、意見の詳細度だ。
一方のグループの台本では、ジョンソン夫人に有利な意見には細部の鮮明な描写が盛り込まれ、不利な意見には余計な詳細情報が一切ない。
別のグループの台本は、これと逆だった。
例えば、有利な意見の一つに、「ジョンソン夫人は、子どもが寝る前にはきちんと顔を洗わせ、歯を磨かせる」 というのがあるが、鮮明な細部描写がある方には、「子どもが使っているのは、スターウォーズのダース・ベイダーの形をした歯ブラシだ」 というくだりが加えられている。
一方、不利な意見にはこんなものがある。
「子どもが登校してきたとき、腕にひどい擦り傷があった。
ジョンソン夫人は傷を消毒もせず、手当てもしていなかったので、学校の看護師が消毒を施した」 これが鮮明な方だと、看護師が傷の手当てをするときに赤チンをこぼし、白衣に赤いしみができたという細部が加えられる。
研究者は両方を慎重に検討し、客観的な重要性が同じになるよう万全を期した。
つまり、細部の描写はジョンソン夫人の親としての適性とは無関係なことばかりだった。
肝心なのはジョンソン夫人が擦り傷の手当てをしなかったことであり、看護師の白衣が汚れたかどうかは無関係なはずだ。
ところが実際には、関係のないはずの細部が重視された。
有利な意見に鮮明な細部描写のある台本を読んだ陪審員は、不利な意見に細部描写のある台本を読んだ陪審員より、ジョンソン夫人を親として高く評価した(一〇点満点で前者が五・八、後者が四・三)。
細部が大きな影響を及ぼしたのだ。
むしろ、これ以上大きな差が出なかったことに安心すべきかもしれない(適性評価に八と二ほどの差があったら、わが国の司法制度が少し心配になったはずだ)。
とはいえ、陪審員が関係のない細部の鮮明な描写をもとに、異なる判断を下したのは事実だ。
では、なぜ細部によって差が出たのだろうか。
それは、細部描写が意見の信頼性を高めたからだ。
ダース・ベーダーの歯ブラシと聞けば、少年が洗面所で嬉しそうに歯を磨く様子が頭に浮かび、その結果、ジョンソン夫人はよい母親だという思いが強まる。
都市伝説とジョンソン夫人の裁判から学ぶべきことは、鮮明な細部描写は信頼性を高めるということだ。
ただし、一つ付け加えておくことがある。
その細部は、偽りのない細部、核心に迫る細部でなければならないということだ。
「ダース・ベーダーの歯ブラシ」と同じくらい印象的で人間味があり、それでいてもっと意味のある細部、核となるアイデアを象徴し、裏づける細部を見出さなくてはならない。
二〇〇四年、スタンフォード大学経営大学院の二人の教授がワシントン DCの芸術団体を対象としたワークショップを開いた。
そのとき、各芸術団体の指導者らに自分の団体の永続的原則(いかなる状況でも不変の原則)を考えさせる課題が出された。
参加団体の一つ、「リズ・ラーマン・ダンス・エクスチェンジ( LLDE)」は、「創造し、演じ、教え、人々を芸術に参加させる舞踏家集団」を標榜している。
ワークショップで同団体の指導者たちは、「多様性」こそ自分たちの核となる価値観だと述べた。
「よしましょうよ」 と、教授の一人は笑った。
大げさなことを言っていると思ったのだ。
「多様性が大事だと、誰もが言います。
でも、あなたのところは舞踏家集団だから、どうせスリムで背の高い二五歳くらいの踊り手ばかりでしょう。
中には有色人種の人もいるでしょうが、それだけで多様性と言えますか?」 LLDEのことをよく知らない他の参加者も、この懐疑的意見にうなずいた。
すると、 LLDEの芸術監督を務めるピーター・ディミューロが、こんな例を挙げた。
「実は、うちの最古参メンバーは、トーマス・ドワイヤーという七三歳になる男性です。
彼は連邦政府に定年まで勤めた後、一九八八年に入団しました。
ダンスは未経験でした。
一七年間、彼は LLDEに所属しています」「七三歳のトーマス・ドワイヤー」という細部は、懐疑的だった人々を黙らせ、教授は柄にもなく言葉に詰まった。
ディミューロが即座に印象的な例を挙げられたのには、立派な理由がある。
多様性が本当に LLDEの核となる価値観だったからだ。
この価値観は、 LLDEという組織の DNAに組み込まれている。
二〇〇二年、リズ・ラーマンは全米各地でコミュニティ参加型の現代舞踏を上演した功績を認められ、マッカーサー財団から「天才賞」を受賞した。
「ハレルヤ/ USA」と題するダンス・プロジェクトでは、全国各地を訪問し、住民に「どんなことに感謝を感じるか」と尋ねた。
そして、それをテーマに踊りの振付けをし、本番に地域住民を登場させた。
ミネアポリスではモン族の一〇代の女性ダンサー、バージニアではボーダーコリー犬の飼い主、バーモント州バーリントンではトランプ仲間の婦人六人組(四〇年間、週一回のトランプの集いを二度を除き欠かさず続けてきた)が舞台に上がった。
現代舞踏を演じるくらいなら生き埋めにされる方がましだという人には、ピンと来ないかもしれない。
せっかくの週末にボーダーコリー犬の飼い主が踊り回るのを見たいかどうかも、意見が分かれるところだ。
だが、 LLDEが多様であることは、認めずにいられないはずだ。
それは建前ではなく、本物の多様性なのだ。
七三歳の元政府職員、トーマス・ドワイヤーの例は、組織の核となる価値観を具体的に生々しく象徴している。
彼は支援者だけでなく、ダンサーにとっての象徴でもある。
スリムな若者ばかりの「ダンス・プロジェクト」なら、頭の薄い中年男性は参加する気にならない。
多様性が核となる価値観だという LLDEの主張は、外部の権威ではなくドワイヤーの例という細部によって、信頼性を増した。
戦争を超えて
細部の鮮明な描写は、内在的信頼性を生みだす、つまりアイデア自体に信頼性の源を組み込むための一つの方法だ。
他の方法は、統計を利用することだ。
私たちは小学校時代から、統計で論拠を示すよう教えられる。
だが、統計は往々にして退屈だ。
統計を利用しつつ聴き手の関心をつかむには、どうすればよいだろう。
一九八〇年代、「戦争を超えて」という運動を率いるジェフ・アインスカウらは、ある逆説に断固立ち向かおうとしていた。
それは、子どもがハサミを持って走ると人は大慌てするのに、何百万人もの子どもを殺しかねない核兵器の記事を読んでも、一瞬暗い気持ちになるのがせいぜいだという逆説である。
「戦争を超えて」は、米ソの軍拡競争に危機感を抱いたある市民団体が始めた運動だ。
当時、米ソの核兵器を合わせると、世界を何度も壊滅させる殺傷能力があった。
「戦争を超えて」のメンバーは、軍拡競争に対する一般市民の抗議を盛り上げようと、近所の家を一軒ごとに訪問した。
だが、軍拡競争が手に負えない段階に来ていることを信じてもらえなかった。
世界に備蓄された核の壊滅的な威力をどうすれば理解してもらえるか。
彼らの伝えたいことは、あまりにも漠然とし
ていた。
逸話を紹介したり、細部をつけ加えるだけでは足りない気がした。
核競争と戦うためには、その規模を問題にする必要がある。
規模の根拠は数字だ。
「戦争を超えて」の面々はハウス・パーティを企画した。
友人や近所の人々を家に招き、「戦争を超えて」の代表者がそこで話をするのだ。
アインスカウは、そこで彼らが行った簡単な実演について話してくれた。
彼はこうした集まりにいつも金物のバケツを持参した。
話の中で頃合いを見計らい、ポケットから B B弾という玩具の銃の弾丸を一個取り出して、空のバケツに落とす。
弾はけたたましい音を立ててバケツの中を跳ね、やがて止まる。
そこでアインスカウは言う。
「これは広島に落ちた原爆です」 その後数分間、広島の原爆被害について説明する。
何マイルにもわたって建物がぺしゃんこになったこと。
何十万人もの人々が一瞬にして命を落とし、さらに多くの人が火傷や長期的障害を負ったこと。
彼は次に、 B B弾を一〇個、バケツに落とす。
弾は、さっきよりさらにけたたましい音を立てる。
「これは、米軍もしくはソ連軍のたった一隻の原子力潜水艦に搭載されたミサイルです」 最後に、彼は参加者に目を閉じるように言う。
「これが現在、世界にある核兵器です」 そして、五〇〇〇個の弾をバケツに流し込む(核弾頭一個につき弾一個)。
すさまじい音がして、恐怖さえ感じさせる。
「音はなかなか止みませんでした」と、アインスカウは言う。
「そして、死の世界を思わせる完全な沈黙が訪れました」 これは、統計数値を伝える巧みな手法だ。
順を追って解説してみよう。
第一に、「戦争を超えて」には中心となる信条があった。
「一般市民に軍拡競争の存在を気づかせ、なんらかの手立てを講じる必要があると認識させなければならない」という信条だ。
第二に、メンバーはメッセージの意外な点を見出した。
第二次世界大戦後、世界の核兵器が増えていることは誰でも知っているが、どのくらいの規模で増えているかは誰も気づいていないという点だ。
第三に、彼らは自分たちの信条に信頼性を与える統計を手にしていた。
世界には、たった一個で一都市を壊滅させる核弾頭が五〇〇〇個もあるという事実である。
問題は、五〇〇〇という数字が人にとってほとんど意味を持たない点だ。
この大きな数字に意味を持たせる工夫が必要だった。
最終的にその工夫は、 B B弾とバケツによる実演となった。
おかげで、抽象的な概念に感覚的な面が加わった。
小道具の選択も考え抜かれていた。
B B弾は武器だし、弾がバケツに当たる音は恐怖を誘う効果がある。
統計数値は記憶に残らない、残るはずがないという思い込みがここでは覆されている。
実演を見た人は、一週間たっても世界に五〇〇〇個の核弾頭があることを覚えていたはずだ。
彼らの記憶に焼きついたのは、大きな危険に対する突然の本能的認識だ。
第二次世界大戦当時と比べて、現在世界に備蓄されている核兵器の量が格段に増えていることに気づいたのだ。
核弾頭の数が四一三五個だろうが九四三七個だろうが、ここでは関係ない。
大事なのは、手に負えない問題だと肝に銘じることだった。
これは、統計を効果的に使ううえで忘れてはならない大事なことだ。
統計自体が意味を持つことなど、まずない。
ほとんどの場合、統計は関係性を示すために使われ、それが本来のあり方でもある。
数字を覚えるよりも関係性を覚えることの方が重要なのだ。
人間的尺度の原則
統計に実感をわかせる方法がもう一つある。
それは、人間的で日常的な文脈の中に置くことだ。
例として、次の二つの科学的記述を比べてほしい。
1・このほど、ある研究チームがある重要な物理的制約をきわめて正確に計算した。
その正確さは、太陽から地球に石を投げ、的から〇・五キロメートル以内に命中させるようなものだ。
2・このほど、ある研究チームがある重要な物理的制約をきわめて正確に計算した。
その正確さは、ニューヨークからロサンゼルスまで石を投げ、的から一・七センチメートル以内に命中させるようなものだ。
どちらがより正確に感じられるだろう? お察しの通り、いずれも正確さの度合いは全く同じ。
いろんな人に読み比べてもらったところ、太陽と地球の例を「非常に印象的」と評価した人は、全体の五八%。
ニューヨークとロサンゼルスの例では、その数値が八三%に跳ね上がった。
私たちは、太陽と地球との距離について、体験も直観力も持ち合わせていない。
ニューヨークからロサンゼルスまでの距離の方がはるかに実感がわく(とはいえ、正直に言えば、それでもまだ実感とは程遠い。
問題は、アメフト競技場のようにさらに実感のわく尺度を使うと、命中度の方が実感のわかない数値になってしまうことだ。
「アメフト競技場の端から端まで石を投げ、的から三・四ミクロン以内に」となっては、元も子もない)。
スティーブン・コヴィーは『第 8の習慣』で、多くの企業と業種から従業員合計二万三〇〇〇人を抽出して行ったアンケート調査について述べている。
調査結果は以下の通りだった。
・自分の組織が何を成し遂げようとしているか、その理由は何かを明確に理解しているとした人は、わずか三七%。
・自分の部署や会社の目標に熱意を持っている人は、五人に一人。
・自分の仕事が自分の部署や会社の目標につながっているとした人は、五人に一人。
・自分が重要目標を達成できる環境を会社が与えてくれているとした人は、わずか一五%。
・自分の勤める会社を全面的に信用している人は、わずか二〇%。
真面目で冷静な書き方だが、かなり抽象的だ。
これを読み終わった人はたぶん「どこの会社にも不満や混乱が多いんだな」と思うだけだろう。
コヴィーは次に、この統計をきわめて人間的な喩えに置き換えている。
「これがサッカーチームだったら、自分たちのゴールがわかっている選手は一一人中四人しかいない。
それを気にとめる選手は一一人中たったの二人。
自分のポジションとやるべきことを把握しているのも一一人中たった二人だ。
しかもある意味、わずか二人を除いて全員が、敵ではなく味方と戦っていることになる」 サッカーの類推はこの統計に人間的な文脈を生み出し、ドラマ感と躍動感をつくりだしている。
これを読めば、二人の選手が得点を入れようとするたびに、残りの選手が邪魔をする様が思い浮かぶ。
なぜサッカーの類推は役立つのだろう。
類推を支えているのは、サッカーチームのイメージであり、このイメージが組織のイメージよりも明解だからだ。
サッカーチームと言えばチームワークが命。
だから、協調性に欠ける企業より協調性に欠けるサッカーチームの方が印象的なのだ。
コヴィーが言いたいのも、まさにそれだ。
つまり、企業はチームのように運営されるべきなのに、そうなっていないということだ。
統計に人間味を加えれば、主張にインパクトを与えることができる。
人間的尺度の原則について、もう一つ例を挙げよう。
技術設備のグレードアップの費用対効果を判断するという、ごくありふれたケースだ。
大手 I T企業のシスコシステムズは従業員用の無線ネットワーク導入を検討していた。
無線ネットワークの維持費は従業員一人当たり年間五〇〇ドル。
これは、全従業員に歯と目の保険を掛けるのと同じくらいの金額で、かなり高いという印象がある。
だが、これは福利厚生ではなく投資だ。
では、投資効果をどのように割り出せばよいのか。
のか。
ネットワークを導入することで、従業員一人当たり年間五〇一ドル分の付加価値が生み出されるのだろうか。
シスコのある従業員が、もっと優れた考え方を提案した。
「従業員の生産性を一日に一分か二分、高めることができれば、無線ネットワークの費用は回収できる」 これなら、ずっと簡単に投資効果を評価できる。
従業員が無線ネットワークを利用して数分節約する場面なら、容易に思いつく。
重要な会議に書類を忘れても、その場で誰かにメールして送ってもらうことができる。
統計はそれ自体が役立つわけではない。
役に立つのは、尺度と文脈だ。
無線ネットワークが従業員一人当たり年間五〇〇ドルの付加価値を生むかどうか、直感的にわかる人はあまりいない。
だが、適切な尺度を用いれば、すべてが変わる。
既に述べたように、具体性は聞き手に知識の発揮を促す。
HPのディズニー・ワールドで過ごす一家のシミュレーション展示を思い出してほしい。
人間的尺度の原則は、私たちが直感を発揮して、メッセージ内容の信頼性を判断するうえで役立つのだ。
統計は、関係性を示すために使えば、内在的信頼性の源となる。
序章で飽和脂肪酸を多く含む映画館のポップコーンに警鐘を鳴らした CSP Iのキャンペーンを紹介した。
統計的に言えば、 Mサイズの袋に三七グラムの飽和脂肪酸が含まれている。
だが、それが何を意味するのか。
それは良いことなのか、悪いことなのか。
CSP Iのアート・シルバーマンは賢明にも、ポップコーンの飽和脂肪酸量を比較に適した文脈の中に置いた。
一袋のポップコーンは、丸一日分の不健康な食事に匹敵すると言ったのだ。
そう聞けば多くの人はぎょっとすることを、シルバーマンは知っていた。
シルバーマンが卑劣な人間だったら、棒つきキャンディのように身体に悪いわりに飽和脂肪酸の少ない食品を選んだかもしれない。
「一袋のポップコーンには、棒つきキャンディ七一万二〇〇〇本分の飽和脂肪酸が含まれています!」 というふうに(脂肪分ゼロのキャンディなら数値は無限大だ)。
だが、この統計はまやかしだ。
不健康さの意味が異なる食品を引き合いに出しているからだ。
そうなると、映画館経営者は負けじともっと健康的な成分を持ち出し、こう言ってみせるだろう。
「一袋のポップコーンにはブロッコリー三二キロ分のビタミン Jが含まれています!」 そういう可能性があるから、私たちは統計について書くのが不安だった。
特に政治の世界では、統計をちょっといじるだけでさまざまな立場の人が得をする。
分析力はあるが倫理観に欠ける人に統計を与えれば、たいていどんな主張もこじつけて証明してのけるだろう。
統計など用いない方が、嘘はつきやすい。
データは否応なく限界を定める。
データ自体をでっちあげるほど非倫理的な人でない限り、現実のデータから制約を受けることになる。
それはよいことだが、ごまかしの余地はいくらでもある。
では、こじつけのプロではない一般人はどうなのか。
普通の人にも、統計をなるべく有利に見せたいという誘惑はある。
誰でもこんなふうに言った経験があるはずだ。
「今夜は教会仲間とバスケットボールをして、一六点も入れたよ」(二二本のシュートに失敗し、試合に負けたことには触れない)「身長は一六五センチです」(ただし、高さ九センチのハイヒールを履いて)「今年度は一〇%の増収を達成したので、ボーナスをいただけますか?」(利益は大幅に落ちましたが) 私たちに助言できるのは、統計はインプットとして用い、アウトプットとして用いないことくらいだ。
判断材料として用いるのはいいが、決断した後で主張を裏づける数字を探すべきではない。
そうでないと、下心がわいて面倒なことになる。
だが、決断を下すために統計を利用した場合には、その数値を明らかにして自分の立場を有利にできる。
そう、「戦争を超えて」のジェフ・アインスカウたちのように。
〔アイデア・クリニック〕サメに対するヒステリックな恐怖
背景説明‥数年おきに、メディアはサメが人を襲っていると騒ぎ立てる。
だが、サメが人を襲うことは稀だし、事故件数は毎年変わらない。
それなのに、なぜメディアも大衆もこれほど注目するのか。
それは、ひとたびサメが人を襲うと、恐怖と戦慄の物語が次々と生み出されるからだ。
例えば、人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」では、次のような逸話が紹介された。
オプラ‥ベサニー・ハミルトンはサーフィンが大好きでした。
八歳から毎日波に乗っていたべサニーは、サーフィンの天才で、「血管に海水が流れている」と言われていました。
一三歳の若さでサーフィン界の新進スターだったべサニーは、もともと地元の有名人でした。
ところが、ある事件の後、彼女の名は世界中の新聞紙面を飾ることになります。
ある朝早く、べサニーは海に出ていました。
ボードにうつぶせに寝そべり、腕を水中に垂らしていました。
そのとき突然、体長五メートルの獰猛なイタチザメが彼女の腕に噛みついたのです。
サメは何度も乱暴に腕を引っぱり、ついに小柄な彼女の身体から腕を食いちぎってしまいました。
数秒後、サメと彼女の腕は海に消え、べサニーは血に染まった海の真ん中に一人残されていました。
この強烈な物語と対決する羽目になったら、どうすればよいのか。
あなたが、サメ救済基金の広報責任者だったら、あるいは、海水浴を怖がる中学生の娘を落ち着かせようとする親だったら、どうするだろう。
事実はあなたの味方だ。
サメが人を襲うことはめったにない。
だが、だからといって人が信じてくれる保証はない。
それなら、人々を納得させるだけの信頼性をどこから得ればよいのか。
メッセージ 1‥このメッセージは、フロリダ自然史博物館の統計に基づいて、私たちが書いたものだ。
サメに襲われる確率は、監視員のいる海水浴場で溺れる確率よりも低い。
まして、サメに襲われて死亡する確率となると、確率はいっそう低くなる。
二〇〇〇年、監視員のいる米国内の遊泳区域で溺死したのは一二人だったが、サメに襲われて死んだ人はいない(サメによる死者数は年平均〇・四人)。
メッセージ 1へのコメント‥悪くはないが、改善の余地がある。
このメッセージは内在的信頼性、つまり統計自体の信頼性を利用している。
コメントは二つ。
まず、溺死者数はあまりいい比較対照とは思えない。
なぜなら、溺死はよくある死因の一つと思われているからだ。
「溺死するよりサメに襲われることの方が少ない」と言われても、特に意外性を感じない(それに、言ってはなんだが、学生アルバイトの監視員がいるからといって、絶対安全とも思えない)。
もう一つ、一二人対〇・四人という死者数の統計比較は結構だが、人間的尺度から言えばあまり印象的でも有意義でもない。
一週間後にはきっと忘れられている。
メッセージ 2‥このメッセージも、フロリダ自然史博物館の発表した統計に基づいている。
次のうち、どちらの動物に殺される確率の方が高いか? サメ 鹿
正解は、鹿だ。
鹿に殺される確率(鹿と自動車の衝突による死亡)は、サメに殺される確率の三〇〇倍である。
メッセージ 2へのコメント‥鹿のバンビは獰猛なサメより危険という意外なアイデアがいい。
また、ただ危険なだけでなくはるかに危険性が高い(死に至る確率が三〇〇倍!)という、もっと意外な統計もいい。
馬鹿馬鹿しくて笑えるが、人食いザメの逸話が生みだす恐怖を和らげるには、これくらいユーモアがあってもいい。
ある意味、感情への関連づけを武器に、感情への関連づけと戦うようなものだ(次章参照)。
このメッセージも統計を用いて内在的な信頼性を生み出しているが、同時に、聴き手自身がメッセージに信頼性を与えている。
聴き手は、自分が運転するとき、鹿を恐れはしない。
鹿が怖くて夜の外出を嫌がる人は、まずいない。
鹿が怖くないなら、サメを恐れる理由があるだろうか(これは、溺死を比較対象にするよりずっと効果的だ。
たいていの人は、溺れるのが怖いとどこかで思っているからだ)。
結論‥統計を用いるなら、なるべく数字自体に頼るのはやめよう。
数字は根本的な関係性を教えてくれるが、数字自体を使わずに関係性をうまく例示する方法もある。
鹿とサメの比較は、アインスカウが用いたバケツと B B弾に匹敵する。
シナトラ・テストとセーフエクスプレス
魅力的な細部、あるいは統計を利用して、アイデア自体の信頼性を高める方法を見てきたが、内在的信頼性を高める三番目の方法は、ある種の事例を用いることだ。
それは、「シナトラ・テスト」なる試験に合格する事例である。
フランク・シナトラは名曲「ニューヨーク・ニューヨーク」で、ニューヨークの街で新たな生活を始める心境を歌った。
そのコーラスにこんな一節がある。
「ここでうまくいけば、どこへ行ってもうまくいくさ」 シナトラ・テストに合格する事例とは、それだけでその分野全体に通用する信頼性を確立できるものだ。
例えば警備会社の場合、大量の金塊保有で知られるフォートノックス陸軍基地と契約を結べば、(たとえそれが唯一の顧客だったとしても)どこでも契約が取れるだろう。
ホワイトハウスの式典で料理の注文を受ければ、どこからでも注文を取れる。
そこでうまくいけば、どこででもうまくいく。
それがシナトラ・テストだ。
インドの家族企業セーフエクスプレスは、シナトラ・テストを巧みに利用した。
同社は運送業者だが、業界は競争が激化し、運賃がどんどん下がっていた。
業界に問題もあった。
配達時間や荷物の安全性を保証する業者がほとんどなく、荷物が無事届くかどうかすら怪しい業者もあった。
セーフエクスプレスはそんな競合他社と差別化するため、配達時間と荷物の安全性を顧客に保証した。
インドに進出する多国籍企業は、フェデラル・エクスプレスの信頼性に慣れていたので、セーフエクスプレスを歓迎した。
だが、インドの国内企業は高い配送料金に慣れていないので、なかなか注文がとれない。
セーフエクスプレス創業一家の一員ルバル・ジェインは、なんとしても国内企業を開拓したかった。
そこで、インドのある大手映画スタジオにターゲットを絞り、映画フィルムの配送を申し出た。
スタジオ側の返事は「冗談じゃない」だった。
予想通りの反応だ。
無理もない。
インドでも海賊版への懸念が高まっており、映画フィルムの配送は重大な任務だった。
途中でどこかに「置き忘れ」でもしたら、数週間後には路上に海賊版が出回ることになる。
そんなリスクを映画スタジオが冒せるはずはない。
幸い、ジェインには強力な実績があった。
セーフエクスプレスは『ハリー・ポッター』シリーズ第五巻の発売時に、配送を請け負っていた。
同社はインド国内の全書店にこの本を届けた。
それは、とてつもなく複雑な配達任務だった。
すべての本を発売日の朝八時までに届けなければならない。
だが早すぎると書店が早く売ろうとし、伏せられてきた本の内容が知られてしまう。
逆に、遅れると書店の売上に響き、店主の怒りを買う。
しかも、『ハリー・ポッター』シリーズにも映画フィルム同様、海賊版対策が必要だった。
絶対に内容が漏れてはいけなかった。
ジェインにはもう一つ実績があった。
彼は世間話から、映画スタジオ経営者の弟が最近、高校入試を受けたことを知っていた。
ハリー・ポッターの話をした後、ジェインはこう言った。
「ところで、当社は弟さんの学校に試験用紙を安全に届け、回答用紙の返送も請け負いました」 同社は高校と大学の共通入学試験の配送を一手に引き受けている。
二カ月後、同社はスタジオと契約を交わした。
ジェインの事例はいずれもシナトラ・テストに合格している。
事例ではなく統計数値を用いて、「当社は九八・八四%の荷物を時間通りに届けます」 と言うこともできたし、外部に信頼性を求め、多国籍企業の CEOから、「セーフエクスプレスに国内配送をすべて任せていますが、素晴らしい会社です」 という証言を得ることもできた。
いずれも信頼性を高めるよい手法だ。
だが、共通試験の答案や『ハリー・ポッター』最新巻の配送業者だという事実には、「ただものではない」と思わせるものがある。
その威力は数字や権威ではなく、具体的であることから来ている。
この話を聞けば、「そこでうまくやれたセーフエクスプレスは、どこでもうまくやれる」と思えるのだ。
食べられる布地
「内在的信頼性」をもたらす三要素、細部、統計、シナトラ・テストをまとめて用いたのが、環境保護活動家のビル・マクドノーだ。
彼は、企業の環境改善と収支改善の両立を助けるアドバイザーとして知られる。
経営者の多くは、環境保護活動家から働きかけられるといぶかしみ、警戒する。
たとえそれがマクドノーのように「企業に優しい」環境活動家でも同じだ。
マクドノーはシナトラ・テストに合格した物語を語ることで、こうした懐疑心を払拭し、企業目標と環境目標の完全な一致が可能なことを証明している。
それは、こんな物語だ。
一九九三年、マクドノーは化学者のマイケル・ブラウンガートとともにスイスの繊維会社から仕事を受けた。
ローナー・テクスティルという会社は、オフィス家具大手のスチールケース社の椅子に貼る布地を製造していた。
同社の企業使命は、「毒性物質を使用しない製造工程を開発すること」。
繊維業界では不可能とされていることだった。
繊維業は有害化学物質をどこも使っている。
染料の多くに毒素が含まれているからだ。
同社が椅子に使用した生地のはぎれは、安全性が疑われる化学物質を数多く含んでいたため、スイス政府によって危険廃棄物に分類されていた。
しかも、はぎれを国内で埋めたり焼却したりすることもできない。
政府規制に従えば、スペインのように規制の緩い国に「輸出」するしか手がなかった(この話の鮮明で具体的な細部描写だ)。
マクドノーはこう語る。
「余り布は危険廃棄物に認定されているのに、布地の真ん中は売ることができる。
となると、自分たちの売っているものが危険廃棄物だということは、天才でなくてもわかる」 家具の製造工程から毒性化学物質を排除し、この問題を解決するには、化学業界で意欲のある提携先を見つける必要があった。
製造ニーズに合った安全な化学物質を供給してくれるメーカーが必要だった。
そこで、彼とブラウンガートは化学メーカーの経営者へのアプローチを開始し、こう話して回った。
「将来的には、全製品を小児医薬品ぐらいに安全なものにするのが願いです。
自分の赤ん坊がしゃぶっても、健康になりこそすれ病気にはならないようにしたい」 二人は化学メーカー各社に、化学物質の製造工程を説明してほしいと頼んだ。
マクドノーはこう言った。
「『企業秘密だ、合法的にやっている』という言葉は聞きたくない。
われわれは、素性のわからないものを使うつもりはありません」 六〇社から断られた挙句、チバガイギーの会長が「やりましょう」と言ってくれた。
マクドノーとブラウンガートは、繊維業界で通常使用されている八〇〇〇種類の化学物質について調べた。
各物質を一定の安全基準に照らして審査したところ、七九六二種類が不合格だった。
残ったのは三八種類。
それは、マクドノーいわく「食べても大丈夫」だった(この「食べても大丈夫」も具体的な細部だ。
統計によって、数多くの有毒物質に対し、好ましい化学物質は少数だったという関係性を確立している点にも注目してほしい)。
彼らはたった三八種類の化学物質だけを使って、黒以外のすべての色を含む完全な製品ラインを実現した。
原料の繊維には、毛織物や植物繊維「苧麻(ラミー)」などの天然素材を選んだ。
製造工程を始める際、スイス政府の検査官が工場を訪れ、廃水に含まれる化学物質が法定の基準値以内かどうかを検査した。
「検査官は最初、測定器の故障だと思ったようだ」
と、マクドノーは言う。
廃水から何の化学物質も検出されなかったからだ。
そこで、検査官は製造に使用している水を調べた。
こちらは飲用に適した水道水だが、測定器はちゃんと作動した。
「製造の過程で、繊維が水道水をさらに浄化したのだろう」 マクドノーの新製造プロセスは、安全なだけでなくコストも減らした。
製造コストが二〇%も削減されたのだ。
理由の一つは、有毒物質処理の手間とコストが減ったことだった。
作業員に防護服を着せる必要がなくなり、はぎれはスペインに送って埋立処理する代わりに、フェルトにして農作物用の断熱材として国内農家に売れた。
優れた物語だ。
記憶に焼きつく要素が多い。
不可能な目標。
八〇〇〇種類の化学物質のうち三八種を残して除外したこと。
国の検査官に測定器の故障と思わせるほどきれいな廃水。
危険廃棄物から農作物の断熱材に変わったはぎれ。
「食べても大丈夫」な布地というアイデア。
そして満足のいく成果(作業員の安全向上と二〇%のコスト削減)。
マクドノーが環境に優しいプロセスを提案する際にこの物語を持ち出せば、どんな業界のどんな企業も、厚い信頼を寄せるだろう。
この物語はシナトラ・テストを難なくクリアしている。
これまで、権威や反権威といった外部者を利用して信頼を生む方法や、細部や統計、シナトラ・テストに合格する事例を用いてメッセージ内部から信頼性を引き出す方法を述べてきた。
だが、まだ触れていない信頼性の源がもう一つある。
それは、最も強力な信頼性の源かもしれない。
肉はどこ?
歴史上、最も優れたテレビ CMキャンペーンの一つが、一九八四年のウェンディーズのキャンペーンだ。
最初の CMは、こんなふうに幕を開ける。
三人の老婦人がカウンターに立っている。
三人は、カウンター上のハンバーガーの皿をぽかんと見ている。
皿には、直径三〇センチもある巨大ハンバーガーが載っている。
「大きいわね」と、左の女性。
「とても大きいわね」と、真ん中の女性。
「大きくて、パンがふっくらしてるわね」と、また左の女性。
「とても大きくて、パンが……」 真ん中の女性はそう言いながら上のパンを持ち上げ、言葉を失った。
下から現れたのは、焼け焦げた小さなビーフパテと、たった一枚のピクルス。
パンが大きい分、パテがとても小さく見える。
すると、右の女性が初めて口を開く。
八〇歳のクララ・ペラーが演じるこの女性は、眼鏡越しにじろりと見て、こう言う。
「肉はどこ?」 そこへナレーション。
「パンはふっくらしていても、肉が小さいハンバーガー店もあります……」 ペラー「肉はどこなの?」 ナレーター「『ウェンディーズ・シングル』は『ウォッパー』[訳注‥バーガーキングのビッグサイズのハンバーガー]や『ビッグマック』よりもたくさん肉を使用しています」 ペラー「ちょっと! 肉はどこなの?」彼女はカウンターをのぞく。
「誰もいないみたいね」 何とも愛すべき CMだ。
面白いし、よくできている。
クララ・ペラーは、この CMでちょっとした有名人になった。
しかも、この広告はウェンディーズのハンバーガーの真の強みを際立たせている。
実際、同社のハンバーガーには他社より多く肉が使われている。
それまで消費財の広告といえば、強力だが見当違いの感情を製品に重ねようとするのが定石だった。
洗濯用柔軟剤のブランドと母親の子どもへの愛情を関連づけるのがその一例だ。
その点、自社製品の真の強みを愉快に表現して見せたウェンディーズは立派だ。
この広告は大きな反響を呼んだ。
ウェンディーズが行った調査によると、「ウェンディーズ・シングル」は「ウォッパー」や「ビッグマック」より大きいと考える人が、 CM放映から二カ月で四七%も増えた。
放映から一年で、同社は三一%の増収を記録した。
ウェンディーズは、自社のハンバーガーには他社より多くの肉を使っていると訴えた。
たいていの人は、そんなことを深く考えたこともなかった。
それが当時の常識でなかったことは確かだ。
では、ウェンディーズはどうやってこの主張に信頼性をもたせたのか。
これまでの例と少し違うことに気づいてほしい。
このメッセージは外部の信頼性を利用してはいない。
有名スポーツ選手がハンバーガーの大きさを語るわけでも、ハンバーガー好きの太った大男といった反権威者が起用されているわけでもない。
かといって、内在的信頼性を利用し、「肉が一一%も多い!」などと統計を持ち出しているわけでもない。
この CMは、全く新しい信頼性を生み出している。
それは聴き手だ。
ウェンディーズは顧客を信頼性の源泉にしたのである。
一連のコマーシャルは、顧客がウェンディーズの主張を確かめるよう暗に仕向けている。
「自分の目で確かめてください、マクドナルドと当社のハンバーガーを比べてください。
大きさの違いに気づくはずです!」とほのめかしているのだ。
科学的に言えば反証可能ということになる。
定規と秤があれば、どんな顧客もこの主張の真偽を確かめられる(といっても、ウェンディーズの方が大きいことは、見ただけでわかる)。
顧客に自ら真偽を確かめさせるこのやり方は、「検証可能な信頼性」である。
検証可能な信頼性は、聴き手が「試してから買う」ことを可能にするため、信頼性を大きく高めることが可能だ。
検証可能な信頼性
検証可能な信頼性は、都市伝説で多彩な歴史を歩んできた。
一九九〇年代、飲料会社のスナップルは、同社が白人至上主義の秘密結社 KKK団を支持している噂というに苦慮していた。
噂を信じる人々は、ちょっとした「証拠」があると思っていた。
「スナップルのボトルの前面には、奴隷船の絵が描かれている!」 というのだ。
信じない人には、アルファベットの Kを丸で囲んだ奇妙なマークを見るように言った。
これこそ KKK団を支持している証拠というわけだ。
確かに、スナップルのラベルには船と丸で囲まれた Kの文字が描かれている。
だが、 KKK団とは無関係だ。
船はボストン茶会事件の版画からとったものだし、丸で囲んだ Kは「コシャー( Kosher)」(ユダヤ教の食事規定に則った食品)のマークだ。
ところが、それを知らない人々の中には、これらのシンボルを見て噂を信じる人もいた。
スナップルの噂は、ウェンディーズ広告の一種の「おとり商法」版だ。
ウェンディーズは「自分の目で確かめてください。
当店のハンバーグの方が肉が大きいですよ」と言い、噂好きの人々は「自分の目で確かめてください。
Kのマークがあるでしょう。
だから、スナップルは KKK団を支持しているのです」と言ったわけだ。
「自分の目で確かめて」という言葉の正当性にまどわされ、非論理的な結論に飛びついてしまう人もいる。
このように、検証可能な信頼性は皮肉な効果を発揮することもある。
「自分の目で確かめて」の部分は正当でも、そこから導き出される結論には全く根拠がない場合もあるのだ。
検証可能な信頼性は、多くの分野で役立つ。
例えば、ロナルド・レーガンが一九八〇年の大統領選挙戦で、「あなたの暮らしは四年前よりよくなりましたか?」 と問いかけたのは有名な話だ。
レーガンは対立候補のジミー・カーターとの討論会で、この問いを聴衆に投げかけた。
インフレ率や失業率の高さ、金利の上昇といった統計をもちだして自説を主張することもできただろうが、彼は聴衆に判断を委ねた。
もう一つの例は、ポジティブ・コーチング連盟( PCA)の設立者、ジム・トンプソンである。
子どものスポーツは勝利だけを追求するのではなく、人生の教訓を学ぶ場であるべき、というのが PCAの理念だ。
PCAでは、子どものスポーツ指導者向けにポジティブ・コーチングの研修を行っている。
研修では、「感情タンク」という類推を用いて、「褒める」、「支え
支えになる」、「重要な意見を与える」の三要素の適切な配分を考えさせる。
「感情タンクは、自動車のガソリンタンクのようなものだ。
ガソリンタンクが空では遠くには行けないように、人間も感情のタンクが空っぽだと最大の能力は発揮できない」「感情タンク」の類推を紹介した後、受講者に練習を行わせる。
まず、隣の人が試合中に大事なところでミスをしたと想定し、「感情タンク」を空にする言葉をかけるよう指示する。
スポーツの会話には気のきいたけなし言葉がつきものなので、受講者はたちまち夢中になる。
「この演習をやると、会場が笑いでいっぱいになる。
ときには、なかなかユニークな言葉も飛び出す」 と、トンプソンは言う。
次に、別の人が同じミスをしたと想定し、今度はその人の「感情のタンク」を満タンにするように告げる。
今度はさっきほど盛り上がらない。
「たいてい、し ーんとしてしまう。
しばらくして、ようやく誰かが小声で『惜しかったな!』と言うくらいだ」 スポーツ指導者は、自分の行動を振り返り、教訓を学ぶ。
支えになるより批判する方が楽なこと、慰めの言葉を一つ思いつくより、けなし言葉を一〇考える方が簡単なことを思い知る。
トンプソンは、自分の言わんとすることを検証可能な信頼性に変え、受講者が自ら体験できる方法を見つけたのだ。
〔アイデア・クリニック〕直感には間違いもある。
なのに、誰もそれを信じようとしない背景説明‥人はたいてい直感を信じるが、人間の直感は偏見によって歪められている。
それでもたいていの人は、自分の直感に自信をもっており、それを覆すのは難しい。
意思決定について研究する心理学者らが、この困難な闘いに挑むことになった。
心理学入門の教科書の編集者になったつもりで、「アベイラビリティ・バイアス」という概念を説明した次の二通りの記述を読み比べてほしい。
メッセージ 1‥次の二つの事柄のうち、どちらで死ぬ人が多いだろう。
殺人か自殺か。
洪水か結核か。
竜巻か喘息か。
少し考えて答えてみよう。
きっと、殺人と洪水と竜巻で死ぬ人が多いと思ったのではないだろうか。
ほとんどの人はそう考える。
ところが、アメリカでは殺人の犠牲者より自殺者の方が五〇%も多い。
結核で死ぬ人の数は洪水で死ぬ人の九倍に上り、喘息で死ぬ人の数は竜巻で死ぬ人の八〇倍もいる。
それでは、なぜこんなふうに予想してしまうのだろう。
その原因は、アベイラビリティ・バイアスである。
アベイラビリティ・バイアスとは、ある事象が起きる確率を、その事象が記憶の中にどれくらい存在しているかで予想する自然な傾向のことだ。
私たちは、思い出しやすいことは起きる確率も高いと直感的に考える。
だが、記憶に残っているものごとの集合体は、現実世界を正確に反映しているとは限らない。
頻繁に起きることよりも、より感情に訴えることの方が記憶に残る場合もあるし、頻繁に起きるからではなく、メディアで長時間取り上げられたために覚えていることもあるだろう(メディアが取り上げるのは、おそらく生々しい映像が得られるからだ)。
アベイラビリティ・バイアスは直感をまどわせ、めったに起きないことをよくあることのように、起きそうにないことを起きそうに思わせる。
メッセージ 1へのコメント‥この文章は、「どちらで死ぬ人が多いと思うか」という、単純だが効果的な「検証可能な信頼性」を用いている。
読者はきっとどれかを間違い、アベイラビリティ・バイアスという現実を自ら証明することになる。
メッセージ 2‥以下は、アベイラビリティ・バイアスの例を示したもう一つの文章だ。
こちらは、入門書によくありがちな記述だ。
アベイラビリティ・バイアスとは、ある事象が起きる確率を、その事象が記憶の中にどれくらい存在しているかで予想する自然な傾向のことだ。
私たちは、思い出しやすいことは起きる確率も高いと直感的に考える。
だが、記憶に残っているものごとの集合体は、現実世界を正確に反映しているとは限らない。
例えば、意思決定について研究するオレゴン大学の研究者らの調査によると、被験者は殺人の犠牲者数の方が自殺者数より二〇%多いと思っていたが、実際には自殺者の方が五〇%多い。
また、被験者は洪水で死ぬ人の方が結核で死ぬ人より多いと思っていたが、実際には結核による死亡者が洪水犠牲者の九倍もいる。
さらに、竜巻の犠牲者数と喘息による死亡者数はほぼ同じと思っていたが、実際には喘息による死亡者が竜巻犠牲者の八〇倍もいる。
頻繁に起きることよりも、より感情に訴えることの方が記憶に残っている場合もあるし、頻繁に起きるからではなく、メディアで長時間取り上げられたために覚えていることもあるだろう(メディアが取り上げるのは、おそらく生々しい映像が得られるからだ)。
アベイラビリティ・バイアスは直感をまどわせ、めったに起きないことをよくあることのように、起きそうにないことを起きそうに思わせる。
メッセージ 2へのコメント‥こちらはメッセージ 1ほど参加型ではない。
竜巻で死ぬ人より喘息で死ぬ人の方が多いという結論を読んでも、学生は「この実験の被験者は馬鹿だなあ」と思うだけだろう。
アベイラビリティ・バイアスの効果を自ら体験させる方が、はるかに効果的だ。
結論‥検証可能な信頼性は、聞き手が自ら試すことを可能にする。
新人研修 またしてもスポーツの話。
今度は、米国のプロ・バスケットボール・リーグ、 NBAである。
仮にあなたの仕事が、 NBAの新人選手にエイズの危険性を教育することだとしよう。
NBAの選手といえば若い男性だ。
特に新人には未成年者も多い。
彼らはある日突然、有名になり、世間の注目を集める。
生まれた頃から世の中ではエイズが問題化していたから、エイズを知らないという危険性はない。
彼らにとっての危険性は、生活環境の影響で不用意な夜遊びをしてしまうことだ。
エイズの脅威に信頼性と緊迫感をもたせるには、どうすればいいのか? 信頼性を与えてくれそうなものを考えてみよう。
まず、外部からの信頼性として、マジック・ジョンソンのような有名人や専門家か、エイズ末期のスポーツ選手といった反権威者の起用が考えられる。
人間的尺度で統計を示す手もある(行きずりの相手と一夜を過ごすことでエイズ・ウィルスに感染する確率を示すなど)。
生々しい細部の描写も使える。
日頃は安全なセックスを心がけているのに、夜遊びで盛り上がりついガードが甘くなった、などという体験談をスポーツ選手に語ってもらうのだ。
どれもなかなか効果がありそうだ。
だが、信頼性の源を選手自身の心の中に求めるとしたら、どうすればよいのか。
NBAはある独創的な方法を思いついた。
シーズン開始の数週間前、新人選手は全員、ニューヨーク州タリータウンに集められる。
彼らはここで新人研修を受けるよう義務づけられている。
六日間、ホテルにほぼ缶詰にされ、ポケットベルや携帯電話の使用も禁じられる。
メディアへの対応法から、降って湧いた大金の賢い投資法に至るまで、プロの選手生活について教え込まれる。
研修は極秘で行われるにもかかわらず、ある年、女性ファンのグループが研修会場に集まってきた。
研修一日目の夜、選手たちの目にとまるために着飾った彼女たちが、ホテルのバーやレストランで選手たちを待ち構えていた。
新人選手らはご満悦で女性ファンといちゃつき、そのうちの何人かと研修後半に会う約束をした。
翌朝、真面目な顔で研修会場にやって来た彼らは、部屋の前に昨夜の女性ファンがいるのを見て驚いた。
彼女らは一人ずつ自己紹介をした。
「おはよう、私シーラよ。
HIVに感染しているの」「私はドナ。
私も HIVに感染しているわ」 新人たちの頭に、エイズに関する講義内容が一気に蘇った。
生活をコントロールすることの難しさ、たった一夜の出来事で一生後悔する可能性を、彼らは理解した。
一方、アメリカンフットボールのプロ・リーグ、 NFLは対照的だ。
ある年の新人研修では、新人全員がバナナにコンドームをつけさせられた。
選手らのうんざりした顔が目に浮かぶ。
その後、かつてアメフト選手の追っかけをしていた二人の女性が登場し、妊娠を目当てに選手を誘惑していた頃の体験談を話した。
よく工夫したメッセージで、授業は大きな効果を発揮した。
だが、他人が他人を陥れようとした話より、自分が陥れられそうになった体験の方が記憶に焼きつくことは言うまでもない。
自分のアイデアを信じてもらうには、信頼性の源を見出さなくてはならない。
場合によっては、誰からもそれが得られないこともある。
ピロリ菌発見者のバリー・マーシャルの場合も、外部からの信頼性は役に立たなかった。
パースの上司や研究所からの推薦では不十分だった。
内在的信頼性も役に立たなかった。
データや細部を入念に並べても、障害を乗り越えられなかった。
結局、彼は聴き手の信頼性を利用した。
細菌入りの水を飲むことにより、自ら検証可能な信頼性の実験台となったのだ。
彼の行動は、暗にこんな言葉を突きつけていた。
自分で試してみてください、あなたも私と同じようにこのドロッとした液体を飲めば、潰瘍ができますよ、と。
どの信頼性の源を利用するべきか、はっきりわかるとは限らない。
だが、マーシャルは見事な忍耐力を見せた。
別の源に目を向けるべきときを彼は知っていた。
本章では、最もわかりやすい信頼性の源である外部からの正当化や統計が、必ずしも最良の選択ではないことを見てきた。
鮮明な細部描写を少し盛り込む方が、統計を並べたてるより説得力をもつ場合もあるのだ。
また、シナトラ・テストに合格する物語をたった一つ語るだけで、強い懐疑心を吹き飛ばせることもある。
マーシャルのような天才的医学者でさえ、私たち同様、自分のアイデアを伝えるためにいくつも壁を超えなければならなかった。
だが、最後には成功を収めた。
この事実は、私たちに感動と恩恵をもたらしてくれる。
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