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第四章みなみは専門家の通訳になろうとした

13夏休みが明け、二学期がやって来た。

二学期になるとすぐ、秋季東京都大会――通称「秋の大会」が始まった。

秋の大会は、みなみが野球部に入ってから初めての公式戦で、しかも春の甲子園へと続くとても重要な大会だった。

そのため、みなみの緊張も自然と高まった。

しかし、それとは逆に野球部には、相変わらず緊張感の高まりというものがなかった。

さすがに夏休み前のようにほとんどの部員が休むということはなかったけれど、それでも、櫛の歯が欠けたようにぽろぽろと休んでいる部員たちがいた。

特に、肝心の浅野慶一郎が休んだままだった。

みなみは一度、あまりにも練習に来ない彼を見かねて、教室の前で待ちかまえ、わけを問い質してみたことがあった。

すると慶一郎は、身体に張りがあるとかないとか要領を得ないことを言って、結局練習に出ようとはしなかった。

そうして、あっという間に一週間が過ぎ、一回戦当日を迎えてしまった。

この試合、先発投手に指名されたのは慶一郎だった。

みなみはこれを、複雑な思いで見ていた。

練習にほとんど出ない彼が先発することには、少なからず抵抗があった。

野球部にはもう一人、新見大輔という一年生投手がいたのだが、真面目に練習に出ていた彼を起用する方が、ずっとすっきりするし、公平だと思った。

それでも、ここで慶一郎を起用しないと、今度こそ本当にふてくされ、野球部を辞めかねないという危惧もあった。

だから、致し方ないという気持ちも、一方にはあった。

そのためみなみは、近くにいた文乃をつかまえて、こう愚痴ったりした。

「浅野くんも、試合になるとサボりはしないのよね」慶一郎は、試合になると当たり前のように出席した。

しかしみなみは、いっそ試合も練習の時のようにサボってくれればいいのにと思ったのだ。

そうすれば、気兼ねなく大輔を先発に起用でき、複雑な思いをしなくて済む。

この慶一郎の先発には、みなみだけでなく、他の部員たちも違和感を持っているようだった。

真面目に練習に出ていた部員たちは――特にキャッチャーの柏木次郎は、口にこそ出さなかったけれど、白けた雰囲気を醸し出していた。

おかげで野球部には、まだ試合前だというのに、早くも不穏な空気が漂った。

ところが、いざ試合が始まると、慶一郎はナイスピッチングをしてみせた。

この日の対戦相手は、同じ都立の普通校だった。

秋季東京都大会は、東西合わせて二百五十以上もある参加校をまず二十四のグループに分け、ブロック予選を行う。

そのブロック予選で優勝した高校が、本戦トーナメントに勝ち進む。

その本戦トーナメントで優秀な成績をおさめた一校ないし二校が、選抜されて春の甲子園に出場できるというシステムだった。

それは果てしなく遠い道のりだった。

まずブロック大会で優勝しなければならないのだが、それさえも三回以上連続して勝たないとならないのだ。

だから、一回戦で打ち込まれるようではお話にならないのだが、それでも、この日の慶一郎は、ほとんど練習していないにしては、なかなか感心させられるピッチングをしていた。

慶一郎は、相手を六回まで無得点に抑えた。

一方、味方も相手を打ち崩すことができず、試合は0対0のまま、七回の裏、相手の攻撃を迎えた。

ここまでで味方が点を取っていたら、その後の展開もまた違ったものになっていたかもしれない。

後に、程高にとって大きなターニングポイントとなったこの試合を振り返った時、みなみは、運命の不思議を思わずにはいられなかった。

この後、野球部の運命を大きく変える、あるできごとが起こるのだ。

そしてそれは、この回までに味方が点を取っていたら、起こっていなかったかもしれなかった。

この回、慶一郎が、先頭打者を出塁させてしまった。

それも、ヒットでではなく、ショートを守っていた桜井祐之助のエラーでだった。

祐之助は、夏の大会でもエラーをおかし、慶一郎が崩れるきっかけを作った張本人だった。

それがもとで、慶一郎は降板させられることになり、その遺恨が、今の野球部の不穏な空気にもつながっていた。

その当人が、再びエラーをおかしてしまったのだ。

おかげで野球部には、一気に重苦しい空気が漂った。

それは、フィールドで守っていたナインもそうだったし、ベンチで見ていた他の部員たちもそうだった。

みんな、エラーをおかした祐之助に慰めの言葉をかけることもできず、その場に呆然と立ち尽くした。

マネージャーとしてベンチに入っていたみなみは、ショートを守っていた祐之助を見てみた。

すると彼は、遠目にもはっきりと分かるほど青白い顔をして、うつむいていた。

次にみなみは、マウンドの慶一郎を見てみた。

しかし彼は、みんなとは違って、ほとんど表情を変えていなかった。

ショートの祐之助に慰めの言葉をかけることこそしなかったが、顔色を青白くさせたり、あるいはふてくされたりすることもなく、淡々と次の打者に相対していた。

それでみなみは、前に慶一郎から聞いた言葉を思い出した。

「おれは別に、エラーをした祐之助を責める気持ちなんかは少しもなかったんだ。

むしろ、それをカバーしてやろうと燃えてたくらいだ」――きっと、今もそういう気持ちなのだろう。

そう考えてこの場面、あまり心配することもないだろうと思って見ていたのだけれど、ところがそこで、予想外のことが起こった。

慶一郎が、一向にストライクを取れなくなってしまったのだ。

慶一郎は、次の打者をフォアボールで歩かせると、その次の打者も歩かせて、ノーアウト満塁にしてしまった。

ここで監督の加地がタイムを取り、伝令をマウンドへ走らせた。

ところが、これが逆効果になったのか、慶一郎はいよいよストライクが入らなくなって、さらに続く三人にもフォアボールを出し、立て続けの押し出しで3点を与えてしまったのである。

ここまで来ると、さすがに慶一郎も表情を一変させていた。

顔を真っ赤にし、怒ったような表情で、しきりに肩を揺すったり、プレートをならしたりしていた。

もしみなみが何も知らないでこの場面を見ていたら――つまり慶一郎にマーケティングをしていなかったら、きっと彼のことをこう疑っただろう。

――慶一郎は、祐之助のエラーにふてくされて、ストライクを投げなくなったんだ。

それほど、慶一郎の豹変ぶりは大きく、また傍目には不可解なものだった。

それでもみなみは、少なくとも慶一郎がふてくされていないことだけは分かっていた。

彼の気持ちは前に聞いていたし、どういう性格かというのも、夕紀と一緒に面談したり、あるいは話し合ったりした中で、ある程度理解していた。

だから、なぜストライクが入らなくなったかということも、おぼろげながら想像することができたのである。

――きっと、今度も抑えてやろうと肩に力が入ったのだ。

それが原因でピッチングを崩してしまった。

あるいは、もう二度と交代させられたくない、という焦りもあったかもしれない。

それがさらなる焦りを呼んで、ますますストライクが入らなくなってしまった……。

そこまで考えた時、みなみは、今度はベンチの隣の席で見ていた加地のことが心配になった。

――ここでまた慶一郎を交代させてしまったら、今度こそその亀裂は決定的になる。

そこでみなみは、自分の「通訳」としての役目を思い出し、加地にこう話しかけた。

14「監督」「ん?」「浅野くんのことなんですけど」「うん」「彼は、その……ストライクが入らなくなってますけど……それは別に……」「『ふてくされてるわけじゃない』って言うんだろ?」「え?」「あいつは別に、わざとフォアボールを出してるわけじゃない、って言うんだろ。

それくらい、おれにも分かるよ」「ほんとですか?」みなみは、ついそう聞き返したが、しかし加地は、気にした様子もなく、肩をすくめるとこう言った。

「実はな、あれからおれもちょっと反省して、聞いてみたんだよ」「聞いた?何をですか?」「その……『ピッチャーの気持ち』ってやつをさ。

大学時代のエースだったやつに、電話して。

浅野は、おれのこと『ピッチャーの気持ちが分かってない』って言ったんだろ?」「え?ええ……」「それを聞いてな、その通りかもしれないって思ったんだ。

おれは、小中高大とずっと野手で、しかもだいたい補欠だったから、エースはおろか、投手の気持ちやレギュラー選手の気持ちというのも、実はよく分かってなかったんだ。

だから、色々聞いてみたんだよ。

ピッチャーの気持ちというのは、一体どういうものなのかって」「ええ」「その時に言われた言葉で、一つ印象に残ったものがあるんだ」「……それは、どんな言葉ですか?」「うん。

それは、『フォアボールを出したくて出すピッチャーは、この世に一人もいない』というものだった」「えっ!」とみなみは驚きの声をあげた。

「それって、今のこの状況にぴったりじゃないですか」「そう。

だから、おれもちょっと驚いてるんだけど、そいつが言うには、フォアボールというのは、どんなピッチャーにとっても一番の恥だというんだ。

だから、それを出したくて出す人間はいないんだけど、周りからはどうしてもそうは見られない。

それがつらかったということだった」「……どういう意味ですか?」「うん。

フォアボールを出すとな、ベンチも、それから野手も、必ず冷たい目で見るんだそうだ。

そして必ず『打たせていこうぜ』とか、『もっとバックを信頼して』と言われるらしい」その時、キャッチャーの柏木次郎が、マウンドの慶一郎に向かって声をかけた。

「浅野!もっとリラックスして、打たせていこうぜ!もっとバックを信頼して!」みなみと加地は、思わず顔を見合わせた。

「でもな」と加地が続けた。

「ピッチャーっていうのは、別に三振を狙ったり、バックを信頼してなかったりするから、フォアボールを出すわけじゃないんだそうだ。

そこには色んな理由があるけれど、とにかく、自分では絶対に出したくないと思いながらも、出す時は、もうどうしようもなく出してしまうんだということだった」「そうなんですか……」そうする間にも、慶一郎はさらに三つのフォアボールを重ね、試合は0対6となった。

ここであと1点取られて7点差がつくと、そこでコールド負けが決まる。

「あの、それ――」とみなみは言った。

「この後、みんなに話してもらえませんか?」「え?」と加地は、きょとんとした顔でみなみを見た。

「どうして?」「今の次郎の……柏木くんの言葉を聞いたからじゃないんですけど、みんな、知らないと思うんです。

監督が今おっしゃった、『ピッチャーの気持ち』っていうものを。

だから、浅野くんは今、きっととても苦しんでると思うんです」みなみは、もう試合そっちのけで、熱心に加地に語りかけた。

「だけど、彼の性格上、自分からそれを言うことはできないと思うんです。

ああ見えてシャイなところがあるんで、自分からそれを言うのは格好悪いと思ってるんです。

だから、そこで監督からみんなにそれを伝えてもらえれば、彼もだいぶ救われると思うんです。

自分の気持ちがみんなに分かってもらえて、助かると思うんです」しかし加地は、みなみがそれを言い終わると、視線をそらし、妙によそよそしい顔になってこう言った。

「ああ、でも、それは得策ではないと思うんだ」。

加地は、グラウンドを、まるで自分とは無関係のことが起こっているかのように、無表情で見つめながら言った。

「今のこの状態で、いきなりそういうことを言い出すと、みんなはたぶん、おれが浅野に変にすり寄ろうとしてるんじゃないかって勘ぐると思うんだ。

みんなだけじゃなく、浅野だってそういうふうに勘ぐるかもしれない。

だから、もう少し時間が経って、みんなが落ち着いた頃合いで、それとなく伝えた方がいいと思うんだ」加地はなおも、自分がそれを言わない方がいい理由を二、三言い繕った。

それを聞きながら、みなみは、自分の力のなさに歯噛みする思いだった。

――私は、監督の現実、欲求、価値というものを、まだ引き出せていないんだ。

だから、監督に何かを交渉しても、それがうまく通らない。

みなみは、表情にこそ出さなかったけれど、とても落ち込んだ気持ちで、加地のその言葉を聞いていた。

そして、自分のマネジメントの至らなさに、滅多に陥ることのない自己嫌悪にも陥った。

そうするうちに、慶一郎はとうとう七つ目の押し出しを与えた。

そこで、試合は終了となった。

15試合後、野球部はバスで学校へと帰ってきた。

学校で、試合の反省会も兼ねたミーティングをするためだ。

公式戦の後は、いつも学校でミーティングをするのが習わしとなっていた。

その戻る道すがら、みなみは早くも気持ちを切り替えていた。

試合直後は、加地への交渉がうまくいかなかったことや、春の甲子園への道が断たれたことにショックを受けていたが、いつまでもくよくよしている彼女ではなかった。

その帰りのバスの中では、早くも次の一手を考えていた。

みなみは、さっきの加地の話はやっぱり部員全員に伝えたいと考えていた。

それも、一刻も早く伝える必要があると思った。

特に、慶一郎のいる前で伝えたかった。

そうしないと、何かが手遅れになりそうな気がしたのだ。

何か大切なものが損なわれてしまいそうな気がした。

そこでみなみは、あることを計画し、バスの隣の席に座っていた文乃にそっと耳打ちした。

「この後、学校に戻ったらミーティングがあるでしょ」

「え?あ、はい」「そこで、ちょっと手伝ってほしいことがあるの」「え?」と文乃は、いつものようにびっくりしたような顔でみなみを見た。

「私にですか?」「そう。

これは文乃にしか頼めないことなの」「え?あ、はい……なんでしょう?」「頃合いを見て、私が発言をするから、それに対して意見してほしいの」「え、あ……はい。

意見……ですか?」「うん。

私が手を挙げて『浅野くんは、わざとフォアボールを出したんじゃないですか?』って、みんなの前で発言するから、それに対して、『それは違うと思います』って言ってほしいの」「えっ?」みなみの計画はこうだった。

頃合いを見計らって、みなみが手を挙げて発言する。

そこで、「今日の試合、浅野くんは、祐之助のエラーに怒ってわざとフォアボールを出したんじゃないですか?そうでなければ、あんなに突然押し出しを連発するはずがありません」と言う。

それに対して、文乃に「それは違います」と言ってもらうのだ。

そうして、さっき加地から聞いたばかりの、「フォアボールを出したくて出すピッチャーは、この世に一人もいない」というのを、みんなの前で――慶一郎の前で、伝えてもらう。

それが稚拙なやり方だというのは、みなみにも分かっていた。

へたをすれば、猿芝居になって、野球部全体が白けた雰囲気になりかねない。

しかしみなみは、それでもいいと思った。

――やらないよりは、やった方がいい。

それに、これ以上のアイデアが思い浮かばないのだから、今の私にはこれが最善の策なのだ。

そう開き直って、みなみは文乃にそれを伝えた。

すると文乃は、その趣旨はすぐに理解したが、自分がその役割をこなせるかどうかということについては、大いに不安そうだった。

しかしみなみが、これは文乃にしかできないことなんだ、これをやることによって、私や部のみんなを助けてほしい、祐之助を、監督を、誰より慶一郎を助けてほしい――と伝えると、最後には分かりましたと言って、小さく、しかし力強くうなずいた。

学校に戻ると、早速ミーティングが始まった。

ミーティングは、いつも空いている教室を使って行われ、キャプテンが取り仕切るのが習わしとなっていた。

そして、キャプテンの総括から始められることになっていた。

しかし、教壇に立ったキャプテンの星出純は、その総括をあっさりと終わらせてしまった。

「ええと……今日は、残念ながらコールドで負けてしまいましたが、しかし惜しい試合でした。

以上です」そのため、もともと白けた雰囲気だったミーティングは、ますます白々しい空気に支配されるようになった。

純は、今度は自分のすぐ隣、教室の一番前の窓際の席に腰かけていた加地に向かってこう言った。

「では、監督、お願いします」キャプテンの次は、監督が総括をする番だった。

しかし加地は、ちょっと話しにくそうに、しばらく椅子から立ちあがらなかった。

それでもようやく決心したのか、やがてゆっくりと立ちあがると、部員たちの方を振り向き、やっと聞き取れるほどの小さな声で、早口に話し始めた。

「今キャプテンも言ったように、今日はいい試合だったと思う。

もう少し、もう少し早い回で相手を打ち崩せてたら、また違った展開になっていたかもしれない。

そこだけが、少し残念だ。

しかし、たらればを言っても仕方ない。

みんな、今日はよくやったと思う。

また、今日の試合で反省点もいくつか見えてきたはずだ。

だから、それを踏まえて、今度は来年の夏を目指して、また新たな気持ちで頑張ろう」そう言うと、さっさと椅子に戻って腕組みをし、またもとの他人事のような顔になった。

「……では、他に何か意見のある人」純は、今度は教室に散らばって座っている部員たちを見回した。

みなみと文乃は、教室の一番後ろの廊下側――つまり加地からは最も離れた席に並んで腰かけていた。

そこから、しばらく部員たちの様子を窺っていたが、誰も発言する気配がなかったので、お互いに目配せをして、作戦の実行に移ろうとした。

ところが、その時だった。

手を挙げた部員がいて、純はその部員を指名した。

「はい、柏木」それは、キャッチャーの柏木次郎だった。

立ちあがった次郎は、落ち着いた口調ではあったが、怒りをにじませた震える声で、こう話し始めた。

「おれは……おれはもう、浅野の球を受けるのがいやです」それで、教室には一気に緊迫した空気がみなぎった。

その中で、次郎の低い声音はなおも続いた。

「エラーは……エラーは誰にだってあります。

確かに、あそこは、ちょっときつい場面だった。

0対0の、緊迫した状況だった。

だから、そこでエラーをされたことで、集中力が途切れるのは仕方ないと思った。

それに、祐之助はこれが二回目というのもあったから、頭に来る気持ちも、分からないことはなかった」「え、あ……」とみなみは思わず声をあげたが、次郎はかまわず、話し続けた。

「それでも、おれは……おれは、わざとフォアボールを出すなんて、絶対に許せないんだ」次郎は、低い、落ち着いた声音ながら、怒りをにじませた、吐き捨てるような口調でそう言った。

「浅野は、野球を冒涜している。

いくら頭に来たからといって、ふてくされてチームを負けに追い込むなんて、ありえない。

第一、練習にもまともに出てないのに、先発で投げるのがおかしい。

そりゃ、チームで一番のピッチャーかもしれないけど、野球は、実力だけでするものじゃない。

エースなら、それはやっぱりそれだけの責任があるんだ。

それを果たさないようなやつに、投げる資格はない。

とにかくおれは、もう二度と、浅野の球を受けたくはありません」それを聞いて、みなみは文乃に素早く耳打ちした。

――ここは、計画を変更しよう。

みなみは、まずは私が発言するから、その後に続いてほしいと文乃に伝えた。

私が、今の次郎の発言に異を唱えるから、文乃には、それをフォローしてほしい。

そうして、当初計画したように、あれはわざとじゃないと言ってほしい。

この雰囲気でいきなり発言するのは、文乃にはさすがに荷が重いと思ったのだ。

文乃がそれにうなずくと、みなみは前を向き直って、手を挙げて発言しようとした。

すると、その時だった。

いきなり、教室に大きな声が響き渡った。

「そういうピッチャーはいないんだ!」みなみは、びっくりして教室を見回した。

最初は、慶一郎が叫んだのかと思った。

しかし、どうやらそうではないようだった。

部員たちは、みんな慶一郎とは違う場所を見ていた。

彼らは、全員が教室の前の方を見ていた。

教室の、一番前の窓際の席で、いつの間にか立ちあがっている、監督の加地誠を見ていた。

加地は言った。

「フォ、フォアボールを出したくて出すピッチャーは、いないんだ!」

加地は、しどろもどろになりながら、教室の外にまで聞こえるような大きな声で、そう叫んだ。

それから、驚きに押し黙る部員たちをにらむように見回すと、ふうふうと鼻息を荒くして、最後にもう一度こう言った。

「……フォ、フォアボールをわざと出すようなピッチャーは、う、う、うちのチームには一人もいない!」それから、再び腕組みをして、どっかと音を立てて着席した。

どれくらい時間が経過しただろうか、誰も何も発言しなかった。

席に座った加地も、教壇の純も、まだ立ったままの次郎も、その他の部員も、みなみと文乃も、ただ黙って、息を殺して、ことの成り行きを見守った。

その時だった。

小さく、しかし鋭く、嗚咽のもれる音がした。

続いて、しゃくりあげる声が響いたかと思うと、今度はすすり泣く声が聞こえてきた。

その声の主は、すぐに分かった。

慶一郎だった。

慶一郎が、席に座ったまま、肩を震わせて泣いていた。

誰も何も言えなかった。

部員全員が息を殺したまま、その場で微動だにできずにいた。

おかげで、慶一郎のその泣き声は、しばらく教室に響き渡ることとなった。

16秋の大会をきっかけに、野球部は生まれ変わった。

それは必ずしもみなみの意図したものではなかったが、本当にガラリと、新しい何かにと変化したのである。

特に、浅野慶一郎が変わった。

彼はすっかり別人のようになった。

まず練習に出るようになった。

あれほどサボっていたのが、今では毎日顔を出すようになった。

それも、これまで一番だった二階正義より先に顔を出すようになった。

それから、無口になった。

明るく、話し好きだったのが、静かに、黙々と練習に打ち込むようになった。

そんな慶一郎に、周りも影響を受けた。

みんな、少しだけ熱心になった。

少しだけ真面目になった。

私語や怠けることも少なくなった。

野球部にはこの時、みなみが入部してから初めて、緊張感というものがみなぎり始めていた。

ところが、練習内容はこれまでと変わり映えしないものが続いていた。

これまでやってきたルーティンワークを、ただ淡々とくり返すだけの、単調なものが続いていた。

そのため、部員たちの間には、ちょっとしたフラストレーションが溜まった。

みんな、明らかに物足りなさを感じていた。

せっかく芽生えたやる気というものを、思う存分ぶつけられる場がなく、気持ちをくすぶらせていた。

それを見たみなみは、今こそが機会だととらえた。

今こそがチャンスなのだ。

今こそが「成長」の時なのだと、みなみは確信した。

『マネジメント』には、こうあった。

成長には準備が必要である。

いつ機会が訪れるかは予測できない。

準備しておかなければならない。

準備ができていなければ、機会は去り、他所へ行く。

(二六二頁)準備はできていた。

この時のために、野球部とは何かを定義し、目標を決め、マーケティングをしてきたのだ。

「お見舞い面談」を実行し、顧客である部員たちの現実、欲求、価値を引き出してきた。

また、専門家である監督の通訳になった。

部員たちの声を彼に伝え、彼の声を部員たちに届けてきた。

彼の知識と能力を、全体の成果に結びつけようとした。

彼のアウトプットを、他の人間の仕事に統合しようとしてきた。

準備はできていた。

今が成長の時なのだ。

そこでみなみは、ある日監督の加地誠、キャプテンの星出純、マネージャーの北条文乃を呼び集め、臨時会議を開いた。

そこで、練習方法の変革を提案した。

これについても、すでに準備は進めてあった。

秋の大会が終わってすぐ、文乃に、新しい練習方法の骨子を、加地と話し合いながら作ってもらうよう頼んでおいたのだ。

みなみは、そこで文乃の「強み」を生かそうとした。

これまで接してきた中で、みなみは、文乃の強みは頭のよさや向学心、それに強情さの裏にある素直さだと見ていた。

それらを、加地と協力して新しい練習メニューを作ってもらうことで、生かそうとしたのだ。

――人を生かす!それが、この頃のみなみの口癖になっていた。

一日二十四時間、どうやったら人を生かすことができるか、そのことばかりを考えていた。

人を生かすというのは、マネジメントの重要な役割の一つだった。

『マネジメント』にはこうあった。

人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。

人は弱い。

悲しいほどに弱い。

問題を起こす。

手続きや雑事を必要とする。

人とは、費用であり、脅威である。

しかし人は、これらのことのゆえに雇われるのではない。

人が雇われるのは、強みのゆえであり能力のゆえである。

組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。

(八〇頁)初めてこれを読んだ時、みなみは驚きに目を見開かされた。

「人の強みを発揮させる」という発想が、彼女の中にはこれまで全くなかったからだ。

人間というものは、親しい友人以外は、ややこしくて、面倒で、じゃまなものだと思っていた。

しかし、『マネジメント』にはこうあった。

「人は最大の資産である」(七九頁)――資産!その考えに、みなみは興奮させられた。

これまで、人をそんなふうにとらえたことはなかった。

例えば一年生女子マネージャーの北条文乃は、みなみにとって扱いにくく、面倒くさい存在であった。

はっきり言って苦手だった。

初めは負担でさえあり、できれば関わり合いたくなかった。

ところが、『マネジメント』を読んでいくうちに、その考えは変わっていった。

まず、彼女の強みに目が行くようになった。

彼女のよい点ばかり探すようになった。

当然だ。

なぜなら、彼女の強みを生かさなければ、マネジメントの成功はありえないからだ!そうした中で、頭のよさや向学心、強情さの裏にある素直さといった強みが見つかった。

そこで今度は、どうやったらそれを生かせるか、どうやったら組織の生産に結びつけられるか、考えた。

その答えは、比較的簡単だった。

「監督だ!」とみなみはすぐに思いついた。

文乃の強みを、監督に結びつけるのだ。

監督の加地誠は、いわゆる「専門家」だった。

彼の中には、小中高大と長年培ってきた、野球に関する膨大な知識が詰め込まれていた。

また、東大にまで行き

ながらなお高校教師となって野球を続ける、強い情熱も保ち続けていた。

しかし、それをアウトプットできる先が、ずっと見つからないでいた。

その知識と情熱を成果に結びつけられず、加地自身も苦しんでいた。

そのアウトプット先として、みなみは、文乃を生かそうとしたのだ。

学力テストでは常にトップを独走する大秀才の文乃には、人並み以上の吸収力、理解力があった。

彼女なら、加地が持つ、野球に関する膨大な知識や情熱も、面白いように吸収してくれるだろう。

彼女なら、加地のよい通訳になる。

また、よい生徒になる。

秀才同士で、通じ合うところもあるはずだ。

だから、加地のアウトプットを、組織の成果に結びつけることができる。

それは、文乃に成果をあげさせるということでもあった。

同時に、彼女がお見舞い面談の時に言った「みんなの役に立ちたい」という欲求を満たすことでもあって、北条文乃という人間を生かすことにもつながった。

加地と一緒に新しい練習メニューを作ってもらったのには、そうした狙いがあった。

またその際、みなみはあることをリクエストした。

それは、「部員たちが出たくなるような練習メニューを作る」ということだった。

野球部にはこれまで、練習には出ても出なくてもいいという雰囲気があった。

おかげで、慶一郎をはじめ多くの部員たちが、いつも当たり前のようにサボっていた。

みなみはそれを、単に規律がなかったり、部員たちの意識が低かったりするからだと思っていた。

しかし、『マネジメント』を読む中で、もっと根本的な問題があることに気づかされた。

それは、野球部の練習にはそもそも魅力がない――ということだった。

練習が面白くないから、部員たちはサボるのだ。

『マネジメント』には、こうあった。

企業の第一の機能としてのマーケティングは、今日あまりにも多くの企業で行われていない。

言葉だけに終わっている。

消費者運動がこのことを示している。

消費者運動が企業に要求しているものこそ、まさにマーケティングである。

それは企業に対し、顧客の欲求、現実、価値からスタートせよと要求する。

企業の目的は欲求の満足であると定義せよと要求する。

収入の基盤を顧客への貢献に置けと要求する。

マーケティングが長い間説かれてきたにもかかわらず、消費者運動が強力な大衆運動として出てきたということは、結局のところ、マーケティングが実践されてこなかったということである。

消費者運動はマーケティングにとって恥である。

(一六~一七頁)「消費者運動」とは、製品やサービスの改良を求めて、消費者が企業に働きかける運動のことである。

代表的なものには、不買運動やボイコットなどがある。

これを読んで、みなみは気づかされた。

「部員たちが練習をサボっていたのは、『消費者運動』だったんだ。

彼らは、練習をサボる――つまりボイコットすることによって、内容の改善を求めていたのだ」そこでみなみは、文乃にこう頼んだ。

「これまでのマーケティングを生かして、部員たちがボイコットせず、思わず参加したくなるような、魅力的な練習メニューを作ってほしい」

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