1「段取り力」の効用
「段取り力」は周囲の人に利益をもたらす
「段取り力」という言葉は、これまでの日本語になかったものだ。しかし職人の世界では昔から「段取り八分」というように、段取りを表す言葉が存在した。
物事は八割が段取りで決まるという意味で、一般の人たちの間でも普通に使われていた。つまり段取りが大切だという考え方は、昔の日本人には共通していたのだ。
今のような情報社会だと情報を組み合わせていくだけで体を使うことは少ないので、はっきりした段取りが見えにくい。しかし、昔の仕事は肉体作業が多かったから、段取りが見えやすかったのだろう。
幸田露伴の『五重塔』には「のっそり十兵衛」という大工の棟梁が登場するが、あまりに見事な「段取り力」が描かれているので、ここに紹介してみたい。
「材を釿る斧の音、板削る鉋の音、孔を鑿るやら釘打つやら丁々かちかち響忙しく、木片は飛んで疾風に木の葉の飜へるが如く、鋸屑舞って晴天に雪の降る感応寺境内普請場の景況賑やかに、紺の腹掛頸筋に喰ひ込むやうなを懸けて小胯の切り上がつた股引いなせに、つつかけ草履の勇み姿、さも怜悧気に働くもあり、汚れ手拭肩にして日当りの好き場所に蹲踞み、悠々然と鑿を硎ぐ衣服の垢穢き爺もあり、道具捜しにまごつく小童、頻りに木を挽割日傭取り、人さまざまの骨折り気遣ひ、汗かき息張るその中に、総棟梁ののつそり十兵衛、皆の仕事を監督りかたがた、墨壺墨さし矩尺もつて胸三寸にある切組を実物にする指図命令。斯様截れ彼様穿れ、此処を何様して何様やつて其処に是だけ勾配有たせよ、孕みが何寸凹みが何分と口でも知らせ墨縄でもいはせ、面倒なるは板片に矩尺の仕様を書いても示し、鵜の目鷹の目油断なく必死となりて自ら励み、今しも一人の若佼に彫物の画描与余念、野猪疾塵土蹴立飛来清吉。」
棟梁の仕事は、全員が効率よく動けるような段取りを組むことである。そこには最終的な設計のヴィジョンがある。
個々の職人は必ずしもそれを知らなくても、棟梁にはヴィジョンが明確に見えていなければいけない。
『五重塔』には、棟梁が「五重塔」を建てるという明確なヴィジョンのもとに、1人1人に仕事を割り振り、全員が無駄なく動くさまが描かれている。
体力のないじい様はじい様なりの仕事をし、活きのいい若者は若者に見合った力仕事をする。皆が活き活き動いているさまが目の前に見えてくるようだ。
1人1人がうまく働けているときは、皆が気持ちがいい。爽快感がある。仕事であるにもかかわらず、楽しいスポーツをしたような気分になる。
それは棟梁の「段取り力」が優れているからだ。
しかしボスの段取りが悪いと、先を見通すことができないので、うまくエネルギーを仕事に変えていくことができない。
勉強でも仕事でも良循環に入れないケースの最大の問題は、エネルギーをうまい形で吐き出せない不完全燃焼感だ。
「いらいらする」とか、「もやもやする」という感じは、うまくエネルギーを出せない状態、あるいはエネルギーを出しても、それがまったく形にならない徒労感があるからだ。
さんざんアイディアを出せと言われたが、実際提出してみるとそれが採用されないどころか、上司の机の中にそのままお蔵入りになっていることがある。
そんなときは誰でも徒労感を覚えるだろう。それは自分のエネルギーがしっかり形になったのが見えないからだ。エネルギーを形にする最大のポイントが「段取り力」である。
段取りが悪いとせっかくのエネルギーが漏れてしまい、ざるに水をこぼすような徒労感に襲われてしまうのだ。段取りは棟梁、つまりリーダーが考えなくてはいけない。
逆に言うと、「段取り力」のある人がリーダーになるべきだ。リーダーとは、必ずしも個々のことすべてにおいてスペシャルにできる人でなくてもいい。
いろいろなスペシャリストを上手にまとめ上げ、コーディネートして一つの形を作っていける人であればいいのだ。
これがプロジェクトリーダーの資質である。
プロジェクトリーダーといってもNHKの『プロジェクトX』のようなものすごいものを作る人ばかりではない。日常のちょっとしたことでもいいのだ。
たとえば何か人と集まる会をするとき、そこに優れたリーダーがいれば、楽しい時間が過ごせるだろう。
これは余談だが、わが家の狭いマンションで、私の友人たちがパーティを開いたことがあった。
『バベットの晩餐会』(ちくま文庫から小説が出ている)のビデオをワインを飲みつつ鑑賞し、その後ニーチェの勉強をしている人の話を聞いて、みんなでわいわい話をするというサロン的な集まりだった。
それを非常に散らかっている私の家で、突如、催すことになったのである。
発案者である私の友人は、連絡用の手紙作りから、当日の時間割、セッティングまで見事に仕切ってくれたので、当日は初めて会う人たちも相当数いたが、それなりに盛り上がりを見せて、とても面白い集まりになった。
もし私の友人がプロジェクトリーダーとして発案して時間を組む、という「段取り力」を発揮してくれなかったら、そういう経験を誰もできなかったに違いない。
そのときは20人近く集まったと思うが、1人優れたプロジェクトリーダーがいることで、参加者全員が非常に有意義な時間を持つことができた。それが「段取り力」の素晴らしいところである。
今回、この本で「段取り力」を取り上げたのは、「段取り力」が自分1人の利益のためではなく、自分の周りの人たちにも利益をもたらす素晴らしい力だからだ。
そういう人が1人いるだけで、その人の周りの人はエネルギーを上手に放出でき、楽しい時間を過ごすことができる。それが「段取り力」の効用である。
「段取り力」さえ鍛えれば、人生の危機を回避できる仕事がスムーズにいくということと充実した時間を過ごすことは、必ずしもイコールではない。
すべてがトントン拍子に進んだからといって、それがとても有意義な経験になったり、満足のいく時間になるのかといったら、そういうわけでもない。
ここでなぜあえて「段取り」という古臭い言葉を使うのかと言うと、この言葉には「大きな骨組みを作る」というニュアンスがあるからだ。
分刻みの細かいスケジュールを立てて、それに従ってギチギチに動いているのは、段取りがいいと言うのとはちょっと違う。
段取りと言ったとき、そこにわき上がるのは「骨組みを押さえておいて、あとは融通が利くように余白を残しておく」というイメージではないだろうか。
ぎっちり計画を立ててしまうと、余白に生まれてくるものがあらかじめ排除されてしまう。これは大変もったいないことである。
シンポジウムでよくあるケースだが、4人なら4人のパネリストに時間割を決めて質問を10個としたとする。
1問に対する答えは1人あたり1分、といった具合にガチガチに決めておくと、1人1人が答える時間が非常に短いため、盛り上がりに欠ける発言になってしまう。
一応要旨は言うのだが、そこから先、相互作用によって生み出されるものが何もない。
面白い議論というのは、お互いに意見が絡み合って一瞬混沌に落ち、そこからまた何かが立ち上がってきたときに初めて生まれるものだ。
一瞬お互いの意見が交錯して、いったいこれをどうすり合わせればいいんだろう、という迷いに落ちて、そこからもう一度上がってくるというダイナミックなプロセスが、あまりにも小刻みなスケジュールを立ててしまうことで起こらなくなってしまう。
しかし「段取り力」のある人は、出席した人が「いったい今日の会議は何だったのか」「今日は何のために集まったのか?」という疑問を抱かないように、絶対に落としどころを外さず、しかも余白を残してある。
最低限決めなくてはいけないことや、やらなくてはいけないことをきっちりと押さえる。そのポイントは外さないようにした上で、真ん中は緩やかにしておく。
要するに余裕を持たせておくということである。日本語に「遊び」という言葉がある。「遊びを持たせておく」……これはなかなか含蓄のある言葉だ。
車のハンドルも、最初にちょっと1、2センチ回したぐらいではタイヤは動かないように設計されている。
もしその「遊び」がなかったら、高速道路ではハンドルを少し切っただけでもフェンスに激突してしまい、大事故になってしまうだろう。
遊びや余白、スペースといったものが、実は非常に大切で、思いも寄らない楽しい展開を呼ぶ母体だということを忘れてはならないのだ。
その余白を含み込むようなイメージが「段取り力」である。
今回この本では、さまざまな優れた「段取り力」を取り上げたが、最終的に見ていただきたいのは、とっさの危機的な状況でも融通の利く判断ができる、その幅の広さが実は「段取り力」に支えられているということだ。
「段取り力」を鍛えれば、人生の危機をかなりの確率で回避できる、ということをこの本を通して知ってもらいたいのだ。
神経をタフにし、どんな仕事にも対応できるようになる「段取り力」がまったくない人はいない。段取りが悪いと思っている人でも、すべての「段取り力」がないのではなく、ある好きな事柄については「段取り力」があるのだ。
だから自分の得意な段取りのスケールやタイプを見極めて、仕事につなげるようにすればよい。すると他の人も「あいつは小段取りが得意だから、あの仕事はあいつに任せよう」ということになる。
お互い、どの段取りが得意なのか分かるようになると、ここから後の細かい詰めは彼に任せようとか、大枠のところは彼女に任せようという具合に、仕事を割り振っていくことができる。これは組織にとっても大変効率がいい。
私は編集者と仕事をすることが多いが、編集者のタイプによって段取りを組み替えている。たとえばフットワークがいい人なら、本屋回りをして資料になる本を集めてきてもらう。
非常にきっちりしたタイプの人なら、最後の校正や細かい内容の確認をお願いする。その人が得意とする「段取り力」を活かした仕事配分があるわけだ。その人のすでにある「段取り力」を活かし、拡大して強化する。そういう方向で仕事を回していくと、相手は自信を持ってくる。効率のいいチームプレーができるようになる。
いい仕事をするためには、お互い「段取り力」のどのタイプが得意なのかを見極めるだけでいい、と私は思っている。
その人がどういう性格で、どういうキャリアの持ち主かということを考えていると、情報が多すぎて混乱する。
しかし、どの種の段取りが得意かということだけでよければ、人格の全体を理解しあう必要はないので楽である。
仕事と互いに得意な「段取り力」をつなげることができさえすれば、がっちり歯車がかみ合ったようにすべてがうまく回転していくものだ。
もし自分が異動を命じられたら、得意な「段取り力」を持って新しい仕事に対応していけばいい。
経理から営業へいきなり異動になり、仕事の内容はまったく違ってしまってもそこで動揺してはいけない。
培った「段取り力」があると認識して異動すると、共通するものが見えてくるから、絶望しないですむ。
これは非常に大事なことで、仕事は変わっても、「段取り力」に自信があれば次の仕事をポジティブに迎えることができる。
核となる経験(フィールド)があるとすると、そこに経験を重ねていくことで、一定の法則(関数)が現れる。
それが培われた「段取り力」だ。法則化されたものは技になる。一度技化されてしまうと、カッコの中の要素が変わっても法則は変わらない。
部署が変わっても、仕事が変わっても、技化された「段取り力」を応用してすべてを行っていけばいいから恐くない。
異動して仕事が変わったからまたゼロから出発だと思うのと、経理で培った「段取り力」があるからそれを応用すればいい、と考えるのとでは大違いだ。
福沢諭吉は、大阪の適塾で徹底的にオランダ語を学習したが、横浜に来てみると、時流は英語に移っていた。一旦は絶望するが、思い直して取り組んだところ、英語も急速に上達した。
これは、勉強する段取り力が身についていたからだ。英語はゼロからの出発ではなかった。
考え方として、仕事はそれによって「段取り力」というものを身につけるための一つのチャンスととらえればいいのだ。
すると、個々の仕事に必要な情報や細かい約束事は変換される要素にすぎないことが分かってくる。この考え方は神経をタフにするにはよい方法だ。
部屋の片づけも、文章を書くことも、経理の書類を作ることも、全然違う活動に見えるが、みな変換する要素にすぎないことが分かる。
段取りにあてはめていけば同じことなのだ。そう考えることによって、現実はどんどんくみしやすくなり、新しい状況に対してポジティブになる。
それが「段取り力」の効用だ。
たとえばダンスで段取り力を培った場合は、(ダンス)ということ、ダンスのレッスンを通して得た段取り力を営業に活かすとすれば、(営業)ということになる。
要素は、ダンスから営業へと変わっても、段取り力(=)は変わらない(図②参照)。
2「段取り力」とはどういう力か
質の違いを見抜く力段取りの「段」は段階の「段」から来ている。
段取るといった場合、全体がたとえば10段階に分かれているとすると、今は3段階目だとか、8段階まで行ったとか、到達レベルがはっきり言える。
図で示せば分かりやすい。
図③の線は段取りを表している。
段取りとはしっかりした階段の段のイメージがある。段を結ぶ垂直の部分には、ある種の飛躍がある。節目節目を押さえていけば、ポンと次の段階に登っていける。
段になっているのが重要で、一個一個が質的な違いを見せているから、段の違いがあるわけだ。つまり、質の違う活動をしっかりと振り分けることができるのが段取りである。同じような活動は一つの活動としてみなす。
するとどこかで質が変わるわけだが、その変わるポイントを見抜く力が「段取り力」だ。「区切り」が段取りの鍵である。
図③の線は質的な断絶があり、しっかり段に組み替えて進んでいくが、図④の線には質的な変化はなく、量的な変化だけで継続していく。
2つのイメージの差は大きい。
のっぺりと量的変化を積み重ねていっても、どこに行くのか、進んでいるのか、戻っているのか、果たしてゴールに至れるのか分かりにくい。
それより質的に異なる段階をしっかり把握しているほうが、精神的に余裕を持って進むことができるだろう。階段と坂道の違いを想像してみればいい。
ずっと一直線に伸びていく坂道より階段にしたほうが登りやすいし、登っているという実感がつかめる。段をつけて登りやすくすることが「段取り力」の基本的イメージである。
階段は人類が発明した最も合理的な発明の一つだ。ピラミッドは階段状になっているが、階段という様式はいまだに変わっていない。
紀元前から現代社会まで、つねに階段が存在したことを見ても、驚異的な発明だったことが分かる。自然界は、だらっとした連続で成り立っている。
それを非連続にして、あえて省いたり、強弱をつけたり、断絶させて、ゴールまでくっきりメリハリをつけていったところに人間の知恵と文化があるのだ。また階段の優れた点は、一つ飛ばすと大変なことになるとすぐ自覚できることだ。
直線ならそのうちの一点を飛ばしても気づかないが、階段のほうは段を一つでも踏み外したら、すぐ分かるからミスがない。
しかも、ミスの範囲がその段階の範囲で収まるところがミソである。
たとえば図③のa点でミスが起きても、他の段階とは質的な違いがあるから、その範囲内で収めることができる。
a点で穴があいて水が漏れだしても、最初の器である段取りがあって、その段階でおさえていれば、水はそこでせき止めることができる。
しかし図④のa点で水が漏れたら、その影響がどこまで波及するのかが分かりにくい。
ミスは必ず起きるものだが、段取りをしっかりしておけば、ミスの波及を限定することができる。これも「段取り力」の大きな効用だ。
ミスをあるところ以上に広がらないよう受け止めておく器が用意できている人は、「段取り力」があると言える。
ところが一つのミスで水が全部漏れてしまうとしたら、「段取り力」が欠けていることになる。
自分は運がないと思う前に、そのミスや突発的なアクシデントを防ぐ段取りを用意してあったかどうか考えるのが肝心だ。
つまり、質的な違いで活動を振り分けることが大切だということだ。種類別に番号をつけて分類してもらうと、すべての活動に均等に番号をつけてしまう人が多い。
同じ質の活動は同じ章の中に入れ、節の違いとして整理する。グレードの違いをはっきりさせるということだ。これは段取りを組むときのコツである。
章と節、項では、グループの序列が違う。つまり重要度が違うのだ。
細部にあまりこだわり過ぎてしまって大きな構造を忘れてしまうと、期日までにまったく仕上がらない。
とりあえず期日までに8割がた形になって提出できる人と、緻密にやったが途中で終わった人がいたら、一応のアウトラインができている人のほうを採用する。
まず質的に違うものをきっちり振り分け、どこで活動の質が変化するのかを見抜く力が必要だ。それも「段取り力」である。
それがあれば、物事は今よりずっとスムーズに進んでいくはずだ。
それぞれの人に合った「段取り力」がある物事をあらかじめ決めていくやり方をスケジューリングと呼ぶが、スケジューリング力と「段取り力」とはイコールではない。
まず、「段取り力」のほうがいろいろなタイプがある。スケジューリング力は計画を立てさえすればいいわけだから、単純で分かりやすい。それを向上させることも、ちょっと練習すれば可能だろう。
しかし「段取り力」にはいくつかタイプがあり、それぞれの人に合った「段取り力」があるから、単純ではない。
細かいスケジュールを立てて臨むことも「段取り力」の一つだが、そうでなくても必ずしも段取りが悪いとは言えない。単純な話、旅行をする場合のタイプを見ても分かる。
あらかじめ何日の何時にはどの都市にいるか、行く前からきっちり分かっているタイプと、もう一つは行きと帰りの飛行機のチケットだけ取って、あとはどこに何日いるか自分でも分からないという行き当たりばったりのタイプだ。
私は完全に後者のタイプである。
以前、学会でノルウェーのオスロに行ったとき、まさかそんなに大きな都市でホテルが一室も空いていないとは思いもしなかったから、ホテルを予約していかなかった。
するとどこも満室で、私は夜中に荷物をひきずり田舎町まで電車に乗って行かなければならない、という非常に悲しい思いをしたことがある。
これは後者の大ざっぱタイプというか、「ええわ、ええわタイプ」の弱点だ。でも一方で、そうやって泊まったホテルの印象には強烈なものがあった。
普段なら絶対泊まらない安ホテルに泊まるわけだから、途中、怪しげな集団に荷物を狙われたり、ホテルが見つからなくて駅でうろうろしていると、地元のちょっと悪そうな若者たちが公衆電話機を壊してお金を奪っていくのに遭遇する、といった貴重な経験ができたのである。
それはそれで、見方を変えれば楽しい経験だったと言える。つまり、「段取り力」には微妙な線があるのだ。あまりに細かく計画を立ててしまうと、経験の幅が狭くなってしまって面白くない。
かといって計画を立てないと効率が悪くなり、自分1人で行動をしているときはいいが、他の人を巻き込んだときは不快な時間になってしまう。
それは「段取り力」のない上司を持った部下を想像してみれば、容易に分かるだろう。そう考えると、どんな「段取り力」を持ったらいいのかは、その人のタイプにもよる。
突発的な事件や出来事を楽しめるタイプ、つまり起こった事態を楽しみつつそれをマネージメントできる力があれば、あまり細かい固定的な計画を立てる必要はないが、予定外のことに対処できない人には、ある程度の計画が必要だ。
大筋を外さない力と優先順位をつける力今回、「段取り力」という言葉で伝えたいのは、大筋を外さないことと優先順位を間違えないことである。
これがあらゆることで最も重要なことなのに、このことについての意識が足りなくて失敗するケースが多い。
たとえば、試験問題を解くとき、どうしても最初の問題から取りかかってしまう人が多い。初めにある問題は配点の低いものだが、そこにエネルギーをかけてしまうから、後ろのほうの配点の高いものまで行き着かないのだ。
これは日本人に多い傾向で、真面目さの表れではあるが、大事なポイントを押さえることができないという点で弱点とも言える。東大の授業で、「ブレイクスルー(躍進)」の経験について各人に話してもらったことがある。
ある理系の学生が、高校までは成績があまりよくなかったが、先生からもらったあるアドバイスのおかげで、数学の成績が急によくなった経験を話してくれた。
そのアドバイスとは、「問題を後ろから解け」ということだったらしい。
すると実力は同じなのに、テストの点数が格段に上がり、東大に合格することができました、というようなプレゼンテーションだった。
ある意味、受験勉強は優先順位をつける力を鍛える機会になっている。
しかし下手をすると、与えられた順序のままに答えを解く習慣を身につけてしまう危険性もあるから気をつけたい。
私も出題者の側だから、よく分かる。
簡単な問題から難しい問題へ順番に並べて作ると、学生は出された順に解こうとするから、一番肝心な、私が聞きたい問題まで行き着く前に時間切れになってしまうことがある。
逆の順番で問題を並べないと、その質問の解答率が非常に低くなってしまうのだ。肝心なところにエネルギーをさけていないのである。
だから成功、不成功に関して言えば、最大の鍵になるポイントに最大のエネルギーを注ぎ込むことが、成功の秘訣である。
その人の能力いかんというよりは、そのエネルギーの使い方次第であろう。
私は『週刊文春』で「説教名人」というコラムを担当しているが、そこでナポレオンを取り上げるというので、彼に関する本を読み直してみた。
すると、ナポレオンの戦争についての言葉が面白くて、たとえば『ナポレオン言行録』(岩波文庫)には「軍学とは与えられた諸地点にどれくらいの兵力を投入するかを計算することである。」(p247)と書いてある。
要するに最大の勝負ポイントに最大の兵力を注入し、決定的な瞬間を逃さないことが大切なのだ。
試験問題を順番に解いていくような平板なやり方は、あまりいい段取りとは言えない。
メリハリをつけることが「段取り力」であるということを肝に銘じ、つねに意識するよう心がける必要がある。
「段取り力」とは順番を入れ替える力
『ダンドリ君』というマンガがあるが、その場合の段取りはきっちり要領よくやるというニュアンスで使われている。主人公は非常に効率のいい男である。
もちろん、こうした平板だが不都合なく事柄を進める『ダンドリ君』のような段取りも必要だと思う。しかしこの本で最終的に言いたい「段取り力」は、メリハリの効いたエネルギーの使い方である。
あるところでは軽く手を抜いているが、ここぞという勝負どころでは最大のエネルギーを投入できるということである。
だいたい「できる人」というのはほとんどがそうであって、メリハリの効かない平板な「できる人」というのはあまり見たことがない。
学者の10年がかりの仕事といえば、平板な仕事の持続のように見えて、実は10年にわたる思考のエネルギーを一つのテーマにぶち込む、というメリハリの効いた行為である。
何しろテーマ選びを失敗してしまえば、人生の何分の一かの年月を否定されることになる。
毎日の行為は淡々としていても、テーマ設定や構成へのエネルギーの投入具合には、大きな「段取り力」が必要とされているのだ。
それは平板に物事を進める段取りではなく、10年目にはその集大成が一つのテーマにぐっと集約され、結果が出るようなメリハリをつけた段取りである。
ところで、メリハリをつける段取りで一番重要なポイントは、与えられたものの順番を入れ替えて、自分なりに組み替えるということだ。
日本人は真面目だから、どうしても順番を守らなければいけないという強迫観念にとらわれてしまう。
本を読めと言われると、たいていの人は1ページ目から読み始め、最後まで読み切れずに途中で挫折してしまう。
いきなり本を飛ばし読みして平気でいる人は少ない。それはいけないことだと思っているからだ。ところが本を多く読む人はたいてい飛ばし読みをしている。
パラパラめくりながら大事なポイントに最大のエネルギーを投入し、自分のものにしてしまう。それも本を読む段取りの一つだ。
「段取り力」とは1ページあたりにかかる時間を計算して、計画通りに最後まで読み進んでいくことではない。
そもそも自分のエネルギーをどこに投入すればいいのか、その大枠を決める力が「段取り力」なのだ。この判断力は生活のさまざまな局面で求められているはずだ。
ナポレオンの行った戦争とは、まさにそうした段取りの集大成だったと言える。ナポレオンは戦争を演劇の展開、あるいは序破急のようにとらえている。
「序破急」、あるいは「起承転結」は、段取りを組むときにイメージの基本になる。
戦争では兵隊は大局的に全体を見ることが不可能なので、自分が現在置かれている状況を判断することはできない。
しかし大きな枠組みの段取りで物事を見ているナポレオンのような人間は、多少攻められたり予想外のことが起きても、そこでいちいち動揺しないから、最終的に勝ちを取りにいくことができるのだ。
かつて、日本シリーズの勝率で最強を誇っていた西武ライオンズの森監督が、日本シリーズをどうとらえるかについて、興味深いことを話していた。
「日本シリーズは7戦ある。それを4勝しなければいけないと考えるのと、3敗できるんだと考えるのでは戦い方が違ってくる。自分は3敗まではできると計算して計画を組む。たとえば、先発ピッチャーを決めるのでも、とにかく早く4勝したいと思うと綻びが出てきてしまう。
最後の第7戦までもつれ込んだときに、先発ピッチャーにエースが出てくるのと、3番手、4番手が出てくるのとでは、もうそれで勝負が決まってしまう。
だから第7戦まで勝負がもつれ込むことまで計算に入れた上で戦う」と話している。これも一つの「段取り力」であり、展開の読み方だ。
持てる以上の資質を引き出す力状況を設定する段取りを取ることで、その状況に促されて否応なく力が引きずり出されてくることがある。
スポーツの世界で選手を強くする段取りにもよくその方法が使われる。日本サッカーの育ての親と言われる人に、デットマール・クラマーというドイツ人がいた。
彼は東京オリンピックとメキシコオリンピックで日本チームのコーチをしていた人だが、彼が掲げた「サッカーがうまくなる五カ条」は「段取り力」の本質を示すものとして興味深い。
スポーツ雑誌『ナンバー』(2003年570号)の記事によると、クラマーは日本チームを強くするために、まず対外試合を多くやった。
アウェイに出ることで選手の意識が変わってくるからだ。また芝のグラウンドを作った。
芝生など選手を強くするためにはどうでもいいことに見えるが、グラウンドを整備することでやる気が出て、技術が変わってくるそうである。
つまり、状況によって引き出されてくる技術や力があるということだ。これは非常に面白い。必ずしも直接、中身を注入しなくても、状況設定を段取ることで中身を充実させることができるのだ。そこが段取ることの素晴らしさである。
そう考えると、Jリーグ自体が段取りだった。Jリーグは、チェアマンであった川淵三郎を中心とするさまざまな人の「段取り力」の結晶だ。
Jリーグを設立するにあたって、当事者はサッカーの名選手である必要はなかった。川淵はたまたまサッカーの日本代表選手だったが、そうでなくてもかまわなかった。
Jリーグという器を作る「段取り力」のある人がいれば、それでよかったのだ。Jリーグを目指して選手が次々と育ってくるので、サッカーのレベルは相当向上させることができる。
本当の実力をつけるだけでなく、実力が引き出されるような状況を設定することが重要なのだ。デートをするときでもそうだ。
自分に特別素晴らしい魅力や容姿、口説きのテクニックがなくても、素晴らしい夜景スポットにつれていけば、その状況で女性が「うん」と言うこともあり得る。
急に人間的な魅力をつけろと言われても困るが、段取りという観点で、女性をその気にさせる店を選択することなら誰にでもできるだろう。
状況を段取ることによって人間の力が引き出されてくることが分かれば、自分の能力に希望が持てる。
それがないとその人本来が持っている力だけで勝負をすることになるが、「段取り力」によってそれ以上の資質を引き出すことができると考えると、未来に対して希望が持てる。
状況が力を引き出しそれが何度か繰り返されていくと、その力が本物になっていく。段取りとはそういうものである。
武道や芸事でも初段とか三段といった段位を与えると、その気になってそれなりの技術になることがある。
黒帯を締めることによって自覚が生まれて、さらに成長することが多い。状況が人を育てるのだ。
そう考えると、自分にとって意味があるのはその器である。器を自分の内面や本質を育てる培養器にすればいい。すると器を用意したり、整える段取りの重要性が分かるだろう。
日本人はとかく個人の内面や本質を重視し、その外側の器や段取りを軽視しがちなところが欠点だ。
3「段取り力」を意識する
「段取り力」で大切なレシピの概念「段取り力」があるほうが、現実に対して冷静に対処ができる。それは料理を例にとると分かりやすい。
私が「段取り力」という言葉を初めて使ったのは、5年くらい前になる。講演会でそれを説明したとき、50代くらいのある女性から非常に分かると賛同を得た。
そのご婦人は「段取り力」は現実を生きていく上で最も重要なものだと強調されていた。彼女は料理をしているとき、それを痛感するらしい。料理は段取りが悪いとまったく進まないし、うまく着地できない。
その人は自分の息子に徹底的に料理を仕込んだそうだが、それは「段取り力」を鍛えるためだったのだ、と「段取り力」という言葉を用いて改めて分かった。
なるほど、料理はいろいろな事柄をなしていくときの基本的な比喩になる。なぜなら、たいがいのものは料理と同じように素材があってスタートするからだ。まったくの無から何かを生み出す作業は、現実にはあまり多くない。
すでにある素材集めから始まって自分の手を加えて何かを完成させるのが、最もシンプルにイメージしやすいもの作りの活動だ。
私は教育学の研究者で、授業の作り方を学生に教えるのが仕事だが、学生の中にはおうおうにして自分の言いたい事柄だけを一方的にしゃべる授業を作ってしまう者がいる。
授業は講演会ではないのだから、生徒たちに何かいい素材を提供し、刺激を与え、そのとき脳に起こるさまざまな考えやひらめきを素材にして授業を構築していくのが本来の姿である。
つまり素材という意識が大切なわけだ。素材あるいはテキストといってもいいが、それをどうやって見つけてくるかが、教師の力量になる。それは料理の仕方と非常に似ている。私は授業の作り方をレシピと呼んでいる。
そのほうが分かりやすいからだ。要するに素材は何か。手順は何か。仕上げはどうするのか。レシピ形式にすると、学生は本質からずれない授業を企画することができる。
料理をするとき、最初に材料を用意せず、料理を始めてしまってからあとで買いに走るのは、非常に滑稽である。
だがレシピを意識しないと、実際の仕事ではそういう滑稽なことがよく起こる。たとえば出版界で編集者は段取りを組むのが仕事である。
もちろん校閲で字の間違いを直したり、原価計算をするのも仕事の一部だが、メインの仕事は全体の仕事の進行を管理することだ。
いわば「段取り力」を凝縮したものが編集者の仕事と言える。しかし編集者でも、自分は「段取り力」で食べているという意識が希薄な人もいる。
段取りが命なのに、それが欠けていることがある。自分の仕事の中心は「段取り力」だという認識があれば、仕事の本質が見えてくる。
その言葉がないため、個々の活動がばらばらに見えてしまい、何か大切なものが抜け落ちても気づかない。
たとえば重要な連絡を相手方にし忘れていて、スタッフは全員集まったが、肝心なゲストの日程のすり合わせがされていないことがある。
ゲストがいなくて、何のために自分たちは集まったのか。
「一番肝心な人を先に押さえておかなくてはダメじゃないか。スタッフが1人2人欠けてもかまわないんだよ」という笑えない話が現実に起きてしまう。
「自分は段取り力で食べているのだ」という認識さえあれば、段取りの組み方についてもう少し意識的になるはずだろう。
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