今日は、人生、人として活きていくときに、何を措いても一番戒めなければならない重大なことを悟ることにしよう。
ではいったい何を戒めなければならないか。
それは〝恐怖〟ということである。
恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。
ところが、今までのあなた方は、ちょっとでも体が悪いと、すぐ戦き、怖れている。
わずかな運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。
いいえ、毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。
このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。
なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。
なぜ物事を恐怖すると、人生に良くない結果がくるかというと、ある因果律の法則というものをハッキリと理解している人は、正に、確かにそうだと肯かずにはいられないと思う。
因果律の法則で、どうしても、そうなるように宇宙真理が出来ているのである。
ベーコンという哲学者がいった言葉に、「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」というのがある。
これは正に、このコンペンセーション(報償)の法則を、必然的のものであるという信念で、人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。
何度も言っているとおり、宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄に注がれると、咄嗟にそれを現実の「すがた」に表現しようとする自然作用(naturaloperation)があるのである。
考えてみよう。
どんな精神統一の下手な人でも、「おっかないなあ、怖ろしいなあ」と思ったときは、本人自身は気が付いていないかもしれないけれども、その恐怖の程度が深まれば深まるほど、恐怖観念が発動して、その観念は知らず知らずの間に確実に集中されるのである。
だから、「おっかないなあ」と思った事柄は、どんな物覚えの悪い人間でも、たとえ思った時間は瞬間であったとしても、終生忘れていないであろう。
さあ、そこで考えてみよう。
一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる〝鋳型〟が用意されたことになる。
そのとき出来上がっている〝鋳型〟というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な〝すがた〟が出来上がったことになる。
そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。
否、むしろ、そうなることが当然である。
ゆるがせにすることの出来ない真理と、まったくもう油断も隙も出来ない事実を考えると、何はさて措き、有意義な人生に活きるには、どんな場合があろうとも、恐怖観念で物事に応接しないようにすることが、本当に戒むべき人生の鉄則である。
いつもいっているとおり、立派な建築物を造るのにも、まず必要とするものは、完全な設計である。
これと同様、立派な人生を作るのには、まず、その人生設計の中から、恐怖というものを取り除かねばならない。
恐怖というものはまったく余計なものなのである。
考えなくてもいいことなのだ。
心に犬小屋みたいな設計図を画いて、宏壮な邸宅などは出来るはずがない。
いずれにしても、感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。
だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする、消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持ってくる。
中でも、この恐怖というものは、一番、恐ろしいほどの印象力をもっている。
印象力を持っているのであるから、早晩、その怖れている事柄が、現実になって、形象化されるのが当然である。
嘘でない証拠に、回復のはかばかしくない病人や、不幸の人をジッと見ていると、誰も、思ったり考えたりしている事柄が、すべて消極的である。
いわゆる、逆動仮我境で活きている。
もうわずかなことにもビクビクして、戦々兢々、ちょうど、氷の上を、重い荷物を持って歩いているような気持ちで活きている。
考えてみると、無自覚というものは、全く価値のないものである。
ところが、人間は、どうも、こういう点が悟れない。
右見ても、左見ても、自分と同じような人間が多くいるが、それが人間の本当の〝すがた〟で、「だから俺は他の人間と同じような状態の心持ち気持ちで活きているんだ」と思うところに大変な大きな間違いがあるのである。
今の世の中の人々が、文化の世の中に恵まれながら、おおむね十人に九人までが、否、百人に九十九人までが、否、もっともっと大きな比率で、幸福でない人生に活きているのが多い原因は、結局、そういう点にあるのである。
神経過敏な人などは、「到底一生、健康なんかになれるはずがない。
一生こうして苦しめられ続けて死んでしまうんだ」というふうに、人生を極めて消極的に独り決めし、何事に対しても、恐怖的な気持ちで、落ち着かず、少しも安心していない。
因果律の法則は、そういう考え方をしている人に、不健康や、不運命を、最も〝苦い〟形で作り上げてしまうのである。
反対に順動仮我境、いわゆる、一切の雑念妄念を統制し、神経過敏でなく、自分の人生を積極的に断定して活きる人は、よしや健康を損じたときでも、不運に直面しても、その心の中に、そのことを恐怖で考えない。
だから、やはり、こうした心持ちをもっている人には、因果律の法則によって、いつも、より良い事柄が、現実に〝すがた〟を現わしてくれる。
だから、論より証拠、一切の事実がそれを確実に証明してくれるから、諸君が、まずそういう心掛けで、やってみることだ。
また、人生、事業であろうと、日常生活の些細なことであろうと、何事に対しても、自分の心の態度を、恐怖から、断然引き離しておかなければいけない。
本当のことをいうと、この世の中には恐ろしいということはないのだ!怖ろしいなあと思うときには、もうその事柄は過ぎ去っているのだ。
原子爆弾が落ちたとき、「原爆は怖ろしいなあ」と思ったときはもう死んでしまっている。
また空爆を受けている人は、この中に幾らもいるであろうから考えてごらんなさい。
怖ろしかったか。
活きている自分の、過ぎ去った〝すがた〟を観るときに経験の中に、繰り返して、それを考え出すくらいのものではないか。
私は、死生の巷を、もう飽きるほど、活き抜いてきた人間だ。
しかし一遍も、「ああ怖ろしかったなあ」と思ったことはない。
結局、やたらと物事を、恐怖観念で考えるのは、宇宙霊と人間との関係を、強く信ずるという信念が欠けているからである。
だから、人間を弱い方面からのみ考えずに、もっともっと強い方面から考え直すことである。
つまり「自分の生命の背後には、見えないけれども宇宙霊が、自分を抱き締めるように、自分と共に在るんだ!我は宇宙霊とともにいる!」というふうにだ。
それから、平素人と交際する時にも心掛けて、神経過敏でない勢いの良い人と交際することである。
どうも、神経過敏の人は、時とすると、この恐怖の嵐に、随分誤った同情をする。
「これを怖れずにいられるか」というふうに。
そして、これを大して悪いことと思わぬ傾向がある。
むしろこれが当然だと思っている。
しかしこれは大変
な間違いである。
間違いは訂正しないと、すべてが良い方に好転しなくなる。
だから、ちょっと何か恐怖的に物を考えるような観念が出たら、クンバハカが一番、積極的言葉で、そんなものは吹き消してしまいなさい!「自分の尊い生命を守ってくれる心の王座には断然、恐怖というような悪魔は入れないのだ!」と。
いつも口癖にいうとおり、「己れを守るものは、己れだ!」それを、ともすると、すぐに他人に守ってもらおうとしていやしないか。
他人は守ってくれはしないよ。
骨がなければ一緒になりたいと思っているほど、どんなに思い合っている恋仲でも、自分が自分を思うほど、守ってはくれない。
その証拠には、利害が相反したり、感情が互いに相争えば、必ず愛情の中にひびが入ってくる。
さあ!今日からは、断然!自分はもう、恐怖なんて観念は自分の心の中にない人間にならなけりゃ!誦句を与える!恐怖観念撃退の誦句人の心霊が、宇宙の神霊と一致するとき、人の生命の力は驚嘆に値する強さをもつに至る。
しかもこの尊厳なる宇宙の神霊と一致するには、第一に必要なことは心の安定を失ってはならないことである。
そして心の安定を失うことの中で、一番戒むべきものは恐怖観念である。
そもこの恐怖なるものこそは、価値なき消極的の考え方で描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなものだ。
否、寸法違いで書いた設計である。
かるがゆえに、今日からは私は断然私の背後に、私を守りたもう、宇宙霊の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。
否、人が常にかくあることを心がけるならば、必然、人生に恐怖に値するものがなくなるからである。
ゆえに健康はもちろん、運命の阻まりしときといえども、本当に私は私の背後に、私を守りたもう宇宙霊の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。
今日のこの暗示誦句が、本当に、諸君の正しい心になるならば、どんなことがあっても怖ろしさを感じることはないはずである。
本当に、私は私の背後に私を守りたもう、宇宙霊の力のあることを信じて何事をも怖れまい。
これが忘れられずにいたならば、どんなことがあっても、ビクともするものではない。
自分が、摑まえて見えないものだから、いないと思ったらとんでもない。
生きているということは、すでに、その力が諸君を抱いてくれているから諸君が生きていられるのだ。
諸君の甲斐性で生きているんじゃないじゃないか。
自分の生命を自分自身がどんどん自分の甲斐性で守って、生きていかれる人間はこの中にはいない。
こういうことを教えている私でも、このお力のお蔭で、こういうことがいえて、このお力のお蔭で、こうやって生きていられるのだ。
しかも、そのお力のお蔭で生きていられる人間でありながら、ときどき、お力から離れてしまう必要はないじゃないか。
お力から離れるから、怖ろしくなるのだ。
この世の中にあるものの中で、一番怖ろしいものを教えてあげよう。
二つある。
真理が一番恐ろしい。
これはもう、どうすることも出来ない。
第二に恐ろしいのは、そういうことを考えないで、ただ無闇に怖れる自分の心が恐ろしい。
真理は恐れ畏まなければならない。
同時に、自分の心を、やたらに、自分の健康を悪くしたり、運命を悪くしたりしないようにもう一つの正しい心で、監督しなければならない。
さあ!もう何も怖れない!心の中に、恐怖なんていうものは全然ないという人間になって眼を覚まそう!
恐怖観念撃退の誦句人の心霊が宇宙の神霊と一致するとき、人の生命の力は驚嘆に値する強さをもつに至る。
しかもこの尊厳なる宇宙の神霊と一致するには、第一に必要なことは心の安定を失ってはならないことである。
そして心の安定を失うことの中で、一番戒むべきものは恐怖観念である。
そもこの恐怖なるものこそは、価値なき消極的の考え方で描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなものだ。
否、寸法違いで書いた設計である。
かるがゆえに、今日からは私は断然私の背後に、私を守りたもう宇宙霊の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。
否、人が常にかくあることを心がけるならば、必然、人生に恐怖に値するものがなくなるからである。
ゆえに健康はもちろん、運命の阻まりしときといえども、本当に私は私の背後に、私を守りたもう宇宙霊の力のあることを信じて、何事をも怖れまい。
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