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第十二章「代償」を支払うことを怠るな

目次

「代償」は必ずやって来る

『代償の法則』というものを聞いたことがあるだろうか。

これは、何年もかかるかもしれないが徳は必ず報いられるし、犯した罪は必ず罰となって帰ってくるというような世の中の法則のことである。

我々は、この法則といかにつき合うかによって、利益を生み出したり、害を被ったりするのである。

世の中に働いている、この目に見えない力は、実に隅々にまで働いているため、『代償の法則』をきちんと理解していれば、恐れや悪意は自然と心の中から姿を消していくはずである。

これは『代償の法則』の力が働くことによって、我々が恐れや悪意を抱く事柄をすべて解決してくれるからにほかならない。

そうした感情を抱いて心をわずらわせなくとも、自分の中の良心に従って徳を積んでいくことで、自然とそれが自分へと報いてくれるからである。

あなたの家の近所の図書館にもラルフ・ウォルドー・エマースンの『代償』というエッセイを収録した本が置かれているはずである。

ただ何年も本棚の隅に眠っているように見えるその本だが、実はそこにこそ成功への重要な手引きが隠されているのである。

あなたがもし、『代償』を三回読んだら、きっとあと一〇〇回読みたくなるはずである。

自分が人生において迷ったとき、どうしていいかわからなくなってしまったときに、きっとこの作品は力を発揮する。

この作品は、自分を知り世界を知りたい人、また、素晴らしい心の平安を維持し続けたい人の必読書なのである。

※『エマソン論文集(上)』(岩波文庫、赤三四三—一)の二四一ページ以降、および『エマソン撰集2』(日本教文社)の八一ページ以降に『償い』(compensation)として訳されている。

エマースンの思想は「調和」と「代償」という二つの原理から成り立っている。

エマースンにとって「代償」とは、当人の行為、行動すべてのことを指す。

また人の思考のすべてが償い、報い、とされている。

〔訳注…本書では英語読みに忠実にするため「エマースン」と表記を統一している〕

『代償の法則』を実践する

次に、この途方もない価値のあるエッセイについて、私の体験をおり交ぜて話をしようと思う。

これまで述べてきたように、私は何度も間違いを犯してきたし、よくない感情を抱いたこともたびたびあった。

仮に私が、そのときの間違いから何も学び取っていなかったら、ここでアドヴァイスする資格などない。

しかし、私は実際に、その間違いから得た知識で、成功と心の平安を得てきたのだ。

数十年前のことである。

私はビジネスに失敗し、ほとんどすべてのものを失って、経済的にも精神的にも、一からやり直さなくてはならない状況にあった。

当時、私はジョージア州アトランタのダウンタウンに住んでいた。

私は以前の仕事仲間で友人だったマーク・ウッディングが、ダウンタウンの一等地に大きなレストランを開いたことを知り、彼を訪ねた。

しかし、私を迎えてくれた彼の表情には、明らかに翳りが漂っていた。

マークは、商売が大変な危機に瀕していると私に告白した。

当時、アトランタという街の商店街は、夜の店じまいがとても早かった。

商店が早々とシャッターを降ろしてしまうと、街はまるで墓地のように静まりかえってしまうようなところなのである。

彼はそれを計算に入れずに店を開いてしまったというわけである。

だから、昼どきは非常に込み合うが、夕食どきになると客はほとんどやって来ない。

ところが彼は、夕食の売り上げで収益の大部分を稼ぎ出すつもりだったのである。

夕食どきに客をもっと引き寄せる方法はないものだろうか。

彼は悩んだが、いい知恵は出なかった。

一方、当時の私といえば、自分自身の再出発のことで手いっぱいの状況だった。

しかし、私は自分の問題に手を焼いているときには、自分よりもっと困っている人間の手助けが、打開策を見出してくれるということに気づいていた。

私は友人の苦境を見て、一肌脱ごうと決意した。

彼の店は、内装もきれいで、店内も広かった。

数百人は座れるだけの広さである。

設備も申し分なく、地の利も最高だった。

通りに面した角地で、駐車場も整っている。

客は、そのレストランまで来やすいし、食事の内容も雰囲気もよかった。

問題は、どうすれば大勢の人に来てもらえるかである。

自分の成功ノウハウをタダで渡す

私は一つの妙案を思いついた。

店で『積極的心構え(PMA)』の講座を開くというものである。

私が毎晩、ここのダイニング・ルームで講義をするわけである。

夕食を食べにきた客は、無料でその講義を聞くことができるという趣向だ。

私たちはこの計画の広告を地元の新聞に掲載した。

そして、その地域のビジネス関係者にチラシを配って歩いた。

すると――。

初日は、席からあふれた客を断るのが大変なほどの賑わいであった。

そして、それ以降も、多くの客を断らなくてはならない状況が続いたのである。

あっという間に、マークの収益は倍増した。

費用はわずかに宣伝費のみ。

こういった講師には、謝礼が支払われるのが慣例だが、私は無料で引き受けた。

困っている友人のためだったからである。

にもかかわらず私は、友人を助けることによって、目に見えない力が働き出したのをかすかに感じていた。

――この話には続きがある。

『代償の法則』が私のために働き始める

『が私のために働き始める私たちは、未来を見通す水晶球など持っていないが、もしその水晶球があったとしたら、私の転機が訪れたことを知らせてくれたかもしれない。

その件で私がしたことに対する代償は十分なものだったし、今もってその報いは続いていると言ってよい。

話の続きの前に、覚えておいてほしいことが一つある。

それは、私は友人の窮状を救うために手を差し伸べたわけだが、それにもかかわらず、自分の窮状まで解決することになってしまったということである。

どんなことにもきちんとした報いがやって来る。

しかもそれは、お金などよりもずっと大きな報いをもたらしてくれるのだ。

この力強い法則をどのようにすればいいかを考えながら読んでほしい。

さて、私の成功ノウハウの講義は、ウッディングのレストランへさまざまな人々を引き寄せることとなった。

そこへ集まったいろいろな会社の重役たちの中に、ジョージア州の電力会社の人がいた。

その人は私の講義にいたく感銘を受けたらしく、私にある申し入れをしてきた。

南部の電力会社のトップの私的な会合で、ゲスト講演者になってほしい、という依頼だった。

このようにして、『代償の法則』は私の周りで活発に働き始めた。

その私的な集まりの中に、南カロライナ電力・ガス会社の重役であるホーマ・ペースがいた。

そして、私の講演が終わったあと、彼のほうから自己紹介をしにやって来た。

彼は何年間も私のセミナーの受講生だったという。

彼は私に言った。

「あなたに会ってほしい友人がいるんです。

小さな大学の学長ですが、中規模の出版社も持っています。

彼はあなたが使うような言葉をときどき使うので、もしかするとあなたの受講生だったのかもしれません。

あなたもご存じなのではありませんか?連絡をとってみてくださるといいのですが。

お嫌でなければ手紙を書いてみてはくださいませんか」私はすぐに手紙を書いた。

大学の学長で、出版社の社長だというその人は、すぐアトランタにいる私を尋ねてきた。

彼と懇談したのは、わずか二時間程度だった。

しかしおそらく、エマースンの霊が、この二時間の会話の間に私の肩ごしに微笑んでくれたのかもしれない。

学長と私はある口約束を交わした。

私は彼の故郷に移り住み、そこで『ナポレオン・ヒル・プログラム』を全面的に書き直す。

そして、それが完成したら、彼がそれを出版するというものであった。

このように代償のパターンは、いろいろな形で現われる。

私は当時、自分の本を出版してくれる出版社を探していたのだが、それが思いがけないところからやって来たのである。

ただ『代償の法則』に従うだけで、法則は私を成功へと導いてくれたのである。

一九四一年一月一日。

私は『ナポレオン・ヒル・プログラム』の改訂を始めた。

それが今、全米各地および世界各国で学ばれているプログラムの原型なのである。

私は特別な「代償」を見つけた

「」振り返ってみると、マーク・ウッディングに会う直前の私は、一種のショック状態にあり、そのままでは、どんなにあがいても状況は好転しないように思われたものだ。

それが友人を助けるという、一見自分には何の利益ももたらさないように思える行為によって、自分自身も立ち直ることになったのである、そして今度は、その幸運を仕事への愛に転換し、必死になって働いたのだ。

「すべての不運はそれに相応するか、それ以上の利益の種子を運ぶ」というあの言葉が、はっきりと思い出されたのである。

そうした体験を通じて、私はそれまで感じたことのないような心の平安を見出すようになった。

さて、さまざまな形で現われる『代償』の話の中の三つ目のエピソードを話す前に、一つ触れておきたいことがある。

それは「ロマンス」のことだ。

実は私はそれまで、ロマンスについては期待していなかったし、まして自分が結婚するとは思ってもみなかった。

しかし平安で活動的な心は、新しい状況を恐れはしなかった。

サウスカロライナ州の田舎町に移りすんで、私はアパートを借りた。

それは、出版社の社長秘書の家の近くだった。

だが、私がそこに住むようになってからも、数カ月間は、オフィスで仕事をしている彼女を見かける程度だった。

彼女は若いころに父親を亡くしていた。

それ以来、彼女が一家を経済的に支えていた。

二人の妹を大学へやり、彼女自身は仕事においても責任のある地位にいて、仕事を楽しんでいた。

家族の面倒を見ることと秘書の仕事の両立で、彼女は多忙だった。

そんな彼女だから、結婚のことなど、ほとんど考えていなかったらしく、ひたすら仕事に没頭していた。

今度は、弓矢を持ったギリシャの天使〔訳注…キューピットのこと〕が私の肩ごしに微笑んだのかもしれない。

私はときどき、この秘書を食事に誘うようになった。

二人で近くの町のショーを見に出かけたりしたものだ。

彼女は、家と仕事を離れた途端、違うパーソナリティの持ち主になっていることに私は気がついた。

彼女のパーソナリティは本当に素晴らしいものだった。

実は彼女は、私が知っている素晴らしい女性、つまり私の継母にウリ二つだったのだ。

私が好きになったのも当然である。

やがて二人の仲は急速に進展していった。

私たちは日曜の朝など、よく郊外をドライブしたものだ。

しかし『代償の法則』は不思議だ。

まったく何をしでかすか、わからないところがある。

私はこんなにも私を引きつけた女性と、ある理由で別れなくてはならなくなってしまったのである。

よくあるパターンなのだが、私は自分の本を出版できなくなってしまったのである。

真珠湾攻撃が起こり、戦争が勃発した。

それによって、出版事業は軒並み大打撃を受け、学長兼社長は、私との取り決めを突然中止してしまったのである。

私は町を去ることにした。

ル・トゥルノ社からの依頼で、ジョージア州にある同社のPR部門の職を引き受けることになったからである。

ル・トゥルノ工場で私は、自分の「成功ノウハウ」の有効さを労使関係の場で示さなければならなかった。

しかもそこでは、人生最大の機会にめぐり合うという運命が待ち受けていたのだ。

この工場で私が二〇〇〇人の従業員に与えた影響は、トップや管理職も含めてすべての人をよりよい方向へ導くことになった。

一方、戦争は次第に拡大していき、アメリカが占領した島に滑走路を作るため、ル・トゥルノ社の土木機械はますます活躍した。

軍への納品も順調だった。

そこでまたもや、一つの機会が別の機会へと導いたのだ。

その工場での私の功績が認められ、この「成功ノウハウ」を企業研修用のフィルムとして作ることになったのである。

つまり映画だ。

このようないきさつで、私は映画産業で活気にあふれるロサンゼルスへと移ることになった。

私自身の成功への歯車が、目に見えて回り始めたのである。

何もかもが順調に進むなか、私はサウスカロライナの素晴らしい女性のことを忘れてはいなかった、彼女も私を忘れていなかった。

西海岸に出発する前日、彼女は私の妻になった。

彼女は私の妻であると同時に、秘書でもあり、かけがえのない仕事仲間となった。

そして、私のマスターマインド〔訳注…「三人寄れば文殊の知恵」の考え方を活用したグループのこと。

ナポレオン・ヒル著『思考は現実化する』参照〕の最も重要なメンバーとなったのだ。

そして私たちは、今日まで完全なパートナーシップを楽しんでいる。

なんとすごい代償ではないか!

「すべての行為は、それ自体に報いる」

「すべての行為は、それ自体に報いる」――これはエマースンの言葉である。

古臭い道徳だ、という声が聞こえてきそうである。

確かに古い言葉ではある。

しかしその内容までが古いわけでは決してない。

現代にも立派に生きている言葉なのである。

しかもこの言葉は、単なる道徳上の問題についてだけ言っているわけではない。

私の人生で機能してくれた『代償の法則』について述べてきたが、あなたにも、そんなことがなかったかどうか考えてみていただきたい。

一見、ばらばらに起こっているように見える物事が、実はいろいろな因果関係に基づいて生じていることに気づくはずである。

あなたが何らかの行動をする。

すると、それがきっかけとなって、「次々と事が運ぶ」ことがあったはずだ。

そういうことについて、運が良かったとか悪かったとか、単なるめぐり合わせだとか、いろいろと人は解釈するものだが、その水面下には、このエマースンの言葉が語っているような法則が見え隠れしているのである。

与えるという行為は、常に受け取るという行為に先行するものだと、古今の書物には記されている。

私たちの取引には、沈黙の第三者が立ち会っている

、右の見出しもエマースンの言葉だが、よく覚えておいてほしい。

多くの人は、自分は他人にごまかされやすいのでは、と愚かな疑問を抱きながら、長い一生を苦しみながら生きている。

しかし、本当はそんなことは起り得ないことを知ってほしい。

他人のごまかしにあう場合、ごまかしている他人にとってはその人を信頼しているあなたをごまかすということで、あなたがたとえそのことに気づかなくとも、ごまかした当人の心の中からそれが消えることはあり得ない。

あなたをごまかした人間は、必ずそのことについて心を痛めるはずであり、その痛みを和らげるために、あなたに尽くそうとしてくれるはずである。

結局、あなたはそのごまかしに気づきすらしなくとも、放っておけば自然とそのごまかしが帳消しにされるように物事が働いてくれるので、心配は不要なのである。

あなたが正直に奉仕したことによって、あなたが害を受けることなどあり得ない。

あなたが仮に無理解な上司のもとにいたとしたら、逆にもっと奉仕してやればよい。

一つ働くたびに、それに対する払い戻しがあるものと思っていい。

そしてその払い戻しが遅れれば遅れるほど都合がいいのだ。

複利に複利を重ねる銀行に、積立貯金をしていると思えばいい。

あなたが一見、損をしたように思えることであっても、その取引に見合う利息を支払わせてくれる力、それが沈黙の第三者の正体だ。

次に、「逆境の中にはすべてそれに相応するか、それ以上の利益の種子がある」ということの意味を、エマースンがどのように表現しているか見ていくことにしよう。

「人間が繁栄と、その繁栄を破壊する行為を繰り返すのは、自ら成長しようとする法則を持っているからである。

人間という生き物は、自分の中にあるこの性質のために、友人や家を捨て、新しい天地へ旅立つことをいとわない。

それはちょうど美しい殻を持った貝が、それを捨ててゆっくりと新しい家を作り始めるようなものである」「不幸の代償も、長い年月がかかるが、確実にやって来る。

病気、怪我、大きな失望、富の損失、友人との別れなどは、そのときにかぎっていえば重大な損失ではあるが、年月は必ず奥深い治癒力を示してくれるものだ」「親友、妻、兄弟、恋人などの死は、一見、失うこと以外の何ものでもないとしか思えないが、少しあとになってみると、残されたものたちの人生の導き手(案内者)か守護神のような役割を果たしてくれるものである。

私たちは、死者について思うことで、立派な人間となり、彼らの分まで人生を大切に生きなくてはならない、という使命を思い出すことになる。

そうした使命感がこっそりと私たちに働きかけて、私たちの人生を幸福へと導くのである。

本来ならば、恵まれた環境の中で、何不自由ないが、偉大でもない人生を送ったはずの人間が、大切な人間の死によって、より大きな人間へと成長する機会を得るわけである」不安に対する考え方についても、私はエマースンの影響を強く受けている。

私はエマースンの書いた言葉によって、不安というものを克服することができたのだ。

それは次のような一節である。

「不安は偉大にして聡明な教師である。

彼は何かが腐敗していることを教えてくれる。

私たちの財産は移ろいやすく、法も教養も移ろいやすい。

老いの不安というものは、私たちの支配力や財力に影を落とし、それを奪ってきた。

不安は何か改めなくてはならない大きな間違いがそこにあることを、私たちに教えてくれているのだ」私は若いころ、一見自分より運のいい人間を羨むことがあったが、次のようなエマースンの「代償」についてのエッセイを読んで影響を受けてからは、そういうことがなくなった。

「過剰というものは常に、欠乏を引き起し、欠乏は過剰を引き起こすものである。

どんな甘いものにも酸味が伴い、どんな悪にもそれぞれに善が伴う。

快楽を生じるすべての機能は、乱用すれば相応の罰を受ける。

一つの分別にも、一つの愚行が対応している。

何かを失うたびに、その代償として必ず何かを得る。

何かを得るたびに、その代償として何かを失う。

富が増えれば、それを使う者も増える。

富を集めすぎた者がいれば、自然はその人の懐から、その集めすぎた富を取り戻す。

このように、人生のさまざまな強風は、均衡を取り戻そうとする力を受けているのである。

それらの力は、尊大なもの、強いもの、富める者、運の強い者を、必ずそこから引きずり降ろすように作用するものである」※無常観という仏教の言葉をご存じだろうか。

人間の運命の法則を表す言葉なのだが、簡単に言えば、人間の幸せ、不幸せなどというものは、どれも永遠には続かないものだという観念である。

エマースンの哲学もこれと似たようなことを言っていると思えばいい。

実践的哲学者になろう

あなたは知らないと思うが、あなたの心には、世界を変えるほどのエネルギーが眠っている。

それは次のような意味である。

「私たちは考える存在であり、考えに従って行動する。

思考は常に行動に先行する。

思考は手よりも先に物を作り出す。

思考には計り知れないほどの力がある」あなたの思考が、自由で恐れを知らないならば、きっと力強い達成をもたらしてくれるはずである。

逆に言えば、自分の思考を自由で、恐れのないものにすることさえできれば、どんな達成も思いのままにできるということなのである。

では、自由で恐れることのない思考はどうすれば得られるのだろうか。

それは物事について、常に「なぜ」という問いを発していくことだ。

この世界のあらゆる出来事について、原因がすべてわかるとしたら、人の心から恐れというものはなくなるはずだからである。

そして、恐れさえ抱かなければ、心は常に自由でいられるものだ。

あらゆる物事についての原因を探っていくことを、世間では「哲学」と呼ぶ。

哲学者といえば、四六時中思索にふけり、恐ろしく難解な本を書く人、というイメージがありがちだが、哲学の本当の意味はこのように単純なものである。

そして哲学を学ぶには、単に思索ばかりではなく、多くの事例に基づいた調査、協力、実践が必要なのである。

それゆえにこそ『ナポレオン・ヒル・プログラム』は机上の空論ではなく、正真正銘の哲学なのだ。

実際に私の何冊かの著書においても、本書同様に次の質問に対する基本的な解答を出している。

◇なぜ、失敗する人がいる一方で、成功する人がいるのか?◇なぜ、絶えず争う人々がいる一方で、仲良くしている人々やカップルがいるのか?◇なぜ、妨害し合ったり、不満を抱き合ったりするグループがある一方で、互いに助け合ってほかのグループと仲良くしているグループがあるのか?金儲けや物事のさばき方、妻を喜ばせ、労使関係に調和を保つ方法も重要ではあるが、もっと重要なのは、その根底にある哲学なのである。

あなたの心が、富、心の平安、人生での成功という基本的概念をしっかりつかんでいれば、あなたはこれからの人生のための堅固な基礎を作ったことになる。

方法だけ聞きかじって、それだけを真似して使おうとしても、砂の上に建物を建てるようなものなのだ。

このように、あなたが『ナポレオン・ヒル・プログラム』を学ぶことによって、実践的な哲学者(自分の人生を送りながら、その人生自体を題材として哲学を学ぶ者)でいることは可能だし、とても大切なことである。

あなたが何か問題に直面したり、状況を改善したいと思ったり、あるいはお互いのために誰かほかの人に影響を与えたいと思ったりしたら、あなたが実践的哲学者であることを思い出してみてほしい。

あなたのこれまでの人生で、成功したり失敗したりしたことの原因を思い出してみるのだ。

そうすればきっとうまい指針が定まるはずである。

行動する実践的哲学者とはどんな人か?

『ナポレオン・ヒル・プログラム』を学ぶ実践的哲学者は、災難や不運に見舞われることがあるだろうか。

実践的哲学者というものは、常に物事の原因を探り、教訓を深め、再び同じことが起こらないように工夫する人々のことである。

しかも彼は、他人の誤りにも注意する。

彼は人間が互いに似たような性質を持っていることを知っているので、自分の中に同じような間違いをする傾向がないかと常に注意しているのである。

そのように生きている実践的哲学者というものは、大自然の気まぐれによるものを除いては、災難や不運に見舞われることなどあり得ないのである。

ただ、実践的哲学者といえども、ほかの人々と同様に、未来を予言することはできない。

予言こそはできないが、彼は歴史は繰り返すということを知っている。

だから彼は過去の事件の記録を調べ、未来に向けて有効な考え方を引き出すことができるだろう。

実践的哲学者の行動がどんなものか、ここに掲げておく。

◇実践的哲学者は、他人を助けることが、最高の自分を見出すのに役立つ方法だ、と固く信じている。

◇彼は自分にとってプラスにならない、例えば復讐のようなことには、力を尽くすことはしない。

◇彼は時間の持つ、偉大な力を知っている。

物事を水平に戻す力のことである。

すべての感情の起伏も、記憶も、時がすべて流してくれることを知っている。

だから彼は忍耐強い。

年月を味方につける方法を知っているのである。

◇彼は平安な心の効力を熟知しているので、心を乱すようなことに関わろうとしないし、感情をコントロールすることができる。

◇彼は心の力が無限であることを知っているので、狭量なつまらない考え方にとらわれて、自分の力をいたずらに封印することをしない。

寛大で、広い視野に立った考え方をし、それをもとに達成を築き上げていく。

※フィロソフス・ノン・クラート(Philosophusnoncurat)というラテン語の慣用句がある。

「哲学者は心配せず」という意味。

◇実践的哲学者の会社社長、エグゼクティヴそしてビジネスマンは、今日の利益と、将来の心の平安と、人生の成功とを混同したりしない。

したがって彼らはほかの誰に対しても相手の弱みにつけこむような真似はしない。

なぜなら「すべての行為は、それ自体に対して報いる」ことを知っているからである。

◇実践的哲学者は、「思考は物体」であることも知っている。

これは思考が、良いものであろうと悪いものであろうと、時が来ると何倍にもふくらんで、その性質に応じて災いとなったり福となったりして自分に帰ってくるということである。

したがって彼は良い思考しか持たない。

◇実践的哲学者は、他人の悪口を決して言わない。

正しい怒りを表したいと感じたときでも、自分の感情をそのままぶつけたりはしない。

どうすれば自分の怒りの感情を処理することができるかを知っているからである。

◇実践的哲学者は、他人に対して惜し気もなく分け与える。

自分の福を分け与えれば、新しい福が来ることを知っている。

分け与えるということは、未来の自分にとって利益となるような機会の種子を植えることだからである。

実践的哲学者としての祖父の教え

私たちは、人間の本質と、人間の行動の裏にある真実を探す使命を持っている。

この使命をきちんと実践することが、成功への近道だからである。

ちなみに「哲学(フィロソフィ)」という言葉は、「愛」と「知恵(=真実)」という意味の二つのギリシャ語から成り立っている。

したがって哲学者とは、真実を愛する者をいう。

この章を終えるにあたって、私の祖父の話をしたいと思う。

祖父は私と同様、人間には経験することがいちばん効果的な学習の機会となる、ということを信じていた人だった。

この話には、かなり辛辣なところがあるが、世間ずれした都会人には、実践哲学について知るために役立つはずである。

ある男が道路脇に立っていた。

私と祖父は、ヴァージニア州ポーエルズ・リバーから干し草を積んで帰る途中、この道を通りかかった。

私はまだ若かったため、その男のしゃれた服装や、粋な身のこなしに目を見張ったものだった。

男も若かった。

彼はゆっくり走る私たちの荷馬車に、勝手に飛び乗ってから、こう言った。

「乗せてくれよな。

お百姓さんよ」その無礼な男に対し、祖父は返事をしなかった。

馬はのんびりとした調子で、埃っぽい道をとことこと歩いていった。

やがて祖父の家について納屋に向かうと、その見知らぬ男は荷馬車からすべり降りて言った。

「ビックストーン・ギャップまでは、ここからどのくらいだい?」「そうさな」と、祖父は考え込みながら言った。

「さっきのところからなら二〇マイル(約三〇キロメートル)くらいだったが、ここからだと二万五〇〇〇マイル(四万キロメートル)ってとこだろうよ」この話から、あなたは何を汲み取るだろうか。

この話によってひらめくところがあったら、あなたは一つのことを学んだことになる、あるいは今、ひらめかなくとも、本書を読み終えたあとで、何かをつかむかもしれない。

サクセス・エッセンス⑫

1徳のある行動は必ず報いられる世の中には、目には見えないけれども、社会の隅々にまで行きわたって働いている力がある。

徳は必ず報いられ、犯した罪は必ず罰となって帰ってくるという『代償の法則』がそれである。

『代償の法則』をきちんと理解していれば、恐れや悪意が自分の心の中から消えていくのは、自分の良心に従って徳を積んでいくことで、自然と、それが自分に報いてくれるからである。

人の窮状を救うために手を差し伸べれば、自分の窮状まで救われる。

目に見えないこの力の働きを信じよう。

2人をごまかせば、そのことで心を痛めるのが人間である信頼している人をごまかせば、ごまかした当人の心の中からそれが消えることはあり得ない。

その人は必ずそのことで心を痛め、その痛みを和らげるために、あなたに尽くそうとしてくれる。

また、無理解な上司のもとで働いているのであれば、よりいっそう奉仕してあげることである。

複利計算の積立預金をしているのと同じで、この行為には必ず、それに見合った払い戻しがついてくるものである。

3恐れを抱かなければ、心は常に自由でいられる目標に向かって突き進むには、あなたの思考は自由でなければならない。

そのためには、思考の自由を妨げる最大の要因、不安・恐れを抱かないことである。

したがって、自由な思考のためには恐れを排除しなければならないが、そのために、必要な心構えは、常に「なぜ?」という問いを発していくことである。

この世の出来事の原因がわかってしまえば、あなたの心の中に不安や恐れが芽生えることはない。

4実践的哲学者として生きる物事に対して実践的であることは、常に物事の原因を探り、そこから教訓を深め、同じ失敗を繰り返さないことである。

したがって、こういった人は実践的哲学者と呼ばれるが、実践的哲学者は自分だけでなく、他人にも注意の目を向けているため、他人の誤りも指摘することができる。

彼は、人間は互いに似たような性質を備えていることを知っているため、他人の中にも、自分の中にあるのと同じような間違いがあるのではないかと、常に注意しているからである。

実践的哲学者は、他人を助けることが、最高の自分を見出す最善の方法であることを知っているのである。

 

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