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第十一章あなたを信じていたのに……

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第十一章あなたを信じていたのに……

[ドラさんの宿題]会社のルールは信用で動くが淡々とこなす。

しかし、対人関係は裏切られても信頼する

クリスマス・イブに東京で雪が降るなんて、できすぎている。

いや、それ以上にできすぎているのが、イブにボクがリカとデートをしているという現実だ。

ボクは入社してからずっと好きだったリカを思い切ってデートに誘った。

しかもクリスマス・イブという特別の日に。

リカはいつもと違って、少し緊張したような表情で言った。

「いいよ。

でも逆に、リョウ、私なんかでいいの?」ボクは飛び上がりたいほど嬉しかったけど、その気持ちを抑えて冷静なふりをした。

そして、今日、こうして二人きりでキャンドル越しに東京タワーを見ているわけだ。

クリスマス・ソングの定番が次々とかかる。

ビング・クロスビーのホワイトクリスマス、ナット・キング・コールのクリスマスソング、ジョン・レノンのハッピークリスマス……。

そして、マライア・キャリーのオールアイウォントフォークリスマスイズユーがかかったところで、リカが声をあげた。

「この曲知ってるぅ。

タイトルがいいよねぇ。

クリスマスに欲しいのはあなただけ。

言われてみたいし、それより、言ってみたいわぁ」リカ。

ボクだって、欲しいのはリカだけだよ。

そう言いたかったけど、初めてのデートでそんなことは言えない。

「課題の分離」ができていたとしても言えないし、言わないほうがいい。

きっとそのほうが誠実だ。

ボクは良い人のふりをするのではなく、心からリカを大切にしたいと思い、本当は今すぐにでも抱きしめたい気持ちを感じながらも、意志をもって「言葉にしない」という選択をした。

そう。

ドラさんに教えてもらった「自己一致」だ。

否認、抑圧、歪曲しない。

自分の気持ちに嘘をつかない。

けれど、行動は自分の意志で選択し、自分の決断に責任を負う。

そんなことも自然にできるようになっている自分に気がついた。

オードブル、スープとディナーコースが進むうちに、ボクたちは互いの学生時代や入社してからの思い出を話した。

そして、リカが一年前に彼氏と別れたこと。

その理由が彼の浮気だったこと。

それにすごく傷ついたことを話してくれた。

ボクは恥ずかしながら、会社に入ってからずっと彼女がいないことを正直に話した。

以前、友だちに聞かれたときはかっこつけて「彼女?いるよ」と嘘をついたけれど、今はそんなバカなことは必要がないとわかっている。

「不完全な自分をありのまま認める勇気」自己受容ができるようになってからは、できるだけ自分に正直でいたいと思っているからだ。

ボクの「彼女いない宣言」にリカは笑いながら、ふぅーん、意外、とだけ答えた。

メインディッシュのローストターキーが運ばれてくる頃、話題は自然と職場のことになっていった。

「まじ、ドラさんって、受けるよねぇ」何気なくリカが口にした一言で、ボクは思わず口へ運びかけたフォークの手を止めた。

それから思い直して口に放り込み、噛みしめた。

もともと淡泊なターキーの味さえも、まったく感じられなく、舌が機能停止しているようだった。

ドラさんがいなくなってしまうなんて。

ボクにはいまだに信じられない。

本当は受け容れたくない。

ドラさんなしでやっていく自信がない。

でも、この話をリカにしてもいいものだろうか。

もしかしたら、ドラさんはボクだけに打ち明けてくれたのかもしれない。

リカに伝えてもいいものか、と迷っていると、リカが突然話題を変えてくれた。

ボクはほっとした。

「そういえばリョウ。

こんなときに仕事の話をするのもなんだけどさぁ、ロイヤル自動車さんの件、あれ痛かったよねぇ。

あの事件がなかったら、リョウ、第三クォーター、確実にトップだったよね。

それが一気にランク外に落ちちゃって。

目標達成まで外しちゃいそうでしょう」「リョウ、あの件で、ドラさんにずいぶん叱られたんじゃないの?」ボクは答えた。

その件でドラさんはボクを一度も叱らなかった、と。

そして、ボクが広告主であるロイヤル自動車セコ課長の言い分よりも、消費者保護を優先したこと。

すなわち広告主という一企業の利益よりも、より広い社会全般の利益を優先したこと。

「より大きな共同体の利益を優先する」というアドラー心理学の「共同体感覚」原則をもとに判断したことをリカに伝えた。

そして、ドラさんはボクに対して「それでいい。

リョウ君も一人で判断できるようになったんだね」と励ましてくれたことも話した。

「へぇ。

そんなことがあったんだ。

私、単にリョウがロイヤル自動車のセコ課長とケンカしてキャンセルされたのだとばかり思っていた」「リョウは立派だねえ。

自分の利益よりも世のため、人のためを優先して。

私だったら、数字が落ちるのが恐くて、セコ課長の言いなりになっていたかもしれないなぁ。

リョウって偉いんだね」ボクはリカにほめられて照れくさかった。

でも自分が確実に成長しているのがわかる。

ドラさんやユウの教えを通じてアドラー心理学を学んでから、これまで揺れ動いていた自分の判断にピシッと一本筋が通ったような気がしている。

背中に長い竹の物差しを入れられて「背筋を伸ばしなさい」とお母さんに言われたときのことが思い出された。

アドラー心理学のお陰で、ボクの背中に物差しが入った。

そう感じている。

デザートとコーヒーを終えて、楽しかったディナーが終わりに近づいていた。

ボクはこのままずっとリカと一緒にいたいと思った。

けれど、翌日は普通に仕事だし、それに初めてのデートで夜遅くまでリカを誘うのは失礼だと思ったから「帰ろうか」と声をかけた。

リカはただ、うん、とだけ言った。

給料の安いボクにとってデート代をおごるのは厳しかったけれど、ボクは支払いをしようとするリカを手で止めて二人分の食事代を払った。

ごちそうさま、とリカは言って、店を出るときにボクの腕を取り、そのまま歩き始めた。

クリスマス・イブに夜道をリカと腕を組んで歩く。

ずっと憧れていたことが実現している。

このまま駅までの道がずっと続けばいいのに。

ボクはそう思ったけれど、実際は、あっという間に東京駅に着いてしまった。

改札に入ってボクたちは別々の電車に乗ることになった。

ボクが言う。

「また、誘ってもいいかな」「もちろん!リョウ、今日はありがとう。

これ、プレゼント、後で開けてね」すっかり忘れていた。

ボクもあわてて用意していたプレゼントを渡す。

本当は指輪を贈りたかったけれど、まだ早いと思ってブックカバーにした。

最近、リカもアドラー心理学の本を熱心に読んでいると聞いたからだ。

いつか指輪を贈れるような関係になりたい。

ボクはそう思った。

リカが別れ際にハグをしてくれた。

ボクは初めてリカの肩に手を回して、短く一度だけギュッと抱いた。

そして、すぐに離れて、じゃあね、と言った。

リカはボクに向かって手を振りながら、ゆっくり一段ずつ階段を登っていく。

これまで見たことのない子どものように無防備な笑顔だ。

リカが最上段にたどり着くと同時に電車が滑り込む。

タイミングが良すぎるぞ。

ボクが心の中で舌打ちすると、リカも苦笑いを浮かべ、最後に大きく手を振ってから電車に乗り込んだ。

リカが見えなくなるまでその姿を見送ってから、初めてボクは自分の吐く息が真っ白なのに気がついた。

ほぉー、ほぉー。

わざと大げさに息を吐いて、白さを確かめてみる。

それが楽しくて、ボクは何度も機関車が煙を吐き出すように白い息を吐き続けた。

第三クォーターは、結局ボクが目標未達成のまま最終日を迎えた。

そして、ボクの数字が足りない分、一課全体も未達成で終わった。

ボクはドラさんやみんなに申し訳ない気持ちだった。

でも、あの判断で良かったと思う。

ドラさんもそう言っていた。

だから、罪の意識はなかった。

ボクは自

分の心を落ち着かせ、年末休暇へと頭を切り替えた。

仕事のことは忘れよう。

実家で両親と紅白歌合戦でも見て、親孝行だ。

そして来年からもう一度、頑張ろう。

仕事も、そしてリカとのことも。

一課のみんなに「良いお年を」と告げ、ボクは帰宅した。

新年の仕事始めは一月四日からだった。

ボクたちは「あけましておめでとうございます」と神妙にお辞儀をしあってから、デスクの前に座ってパソコンのスイッチを入れた。

ジャーン。

パソコンが立ち上がる音が聞こえると、途端に職場のお正月モードが終わった。

いつもの臨戦態勢だ。

さぁ、仕事をするぞ。

そのとき、ドラさんがボクを呼んだ。

「リョウ君。

ちょっといいかな?」そして会議室へと先に入っていった。

「リョウ君。

第三クォーターは、キミ個人も一課全体も未達成に終わってしまった。

残念だが終わったことは仕方ない。

今クォーターこそ、挽回しよう。

ぜひ力を貸してくれ」もちろんです。

今度こそ、絶対に達成します。

ボクはドラさんに宣言した。

「うん。

頼もしいぞ。

ところで、例のロイヤル自動車さんの件なんだが。

キミの判断は正しかったと思うけれど、セコ課長は引き続きお怒りのままだ。

キミを担当から外してくれ、とクレームが入っている。

ボクは、その要望に応えようと思う。

担当をリョウ君からハヤト君に変更することにした」えっ。

声にならない声がボクの口からこぼれた。

ドラさんは早口で続ける。

「そして、キミのクライアントが減った分、キミの目標数字を下方修正して負担を軽くする。

キミはこれまでのヘビー級ランキングではなくって、ミドル級ランキングになる。

土俵が小さくなるということだ」「これでキミは競争相手がツヨシ君やユウ君ではなく、イチローたち若手になる。

ぜひ、ぶっちぎりで一位になって早くヘビー級に戻ってきてくれよ。

それを期待しているよ」ドラさんはそこまで一気に話すと、じゃあ、と言って、会議室を早々に出て行ってしまった。

ボクは呆気にとられて何も言えず、ポツンと一人取り残されてしまった。

そんなバカな……。

ミドル級にランクダウンする、ということは、ボクの昇格が一歩遅れることを意味している。

そういえばユウもこの一月からシニア・レップへの昇格が決定した、と噂を聞いた。

ツヨシもユウもシニア・レップ。

ボクだけが周回遅れの平社員だ。

リカも「リョウ、そろそろシニアにあがるんじゃない?」って期待してたっけ。

ボクはとてもではないが、現実を受け容れることができなかった。

ドラさんは「キミの判断で間違いない」って言ってたではないか。

そしてこうも言っていた。

「キミは正しい判断ができる。

キミを百パーセント信頼するよ」と。

だまされた……。

そんな言葉が頭に浮かんでくる。

ドラさんは嘘をついたのだろうか。

ボクは新年の初日早々に打ちひしがれて、まったく仕事に集中する気が起きなかった。

「信頼なんてくそ食らえ」頭の中で何度もそんな言葉を繰り返しているうちに、一日があっという間に終わっていった。

翌朝、いつもより一時間早く目が覚めてしまったボクは、ランニングウェアを家から持参して、早めに出社し皇居周辺を走ることにした。

走れば頭の中のモヤモヤも吹っ切れるかも、という期待があったからだ。

ランステーションにカバンとスーツを置いて、ウェアに着替え外に出る。

馬場先門の信号を渡り、皇居の芝生の間を歩いているときに、「やぁ!」と後ろから声をかけられた。

ドラさんだ。

「皇居でリョウ君と合うのは久しぶりだね!」派手な濃いピンク色のランニングウェアを着たドラさんが早足でボクに追いつく。

ボクは、おはようございます、と淡泊な挨拶だけを返して、無視するように先に走り出した。

「おいおい、待ってくれよ、一緒に走ろうよ」ドラさんがお構いなしにボクの横を併走し始めた。

正月明け出勤二日目の皇居周辺は人が少なかった。

ボクとドラさんは並んだまま走り続けた。

黙って走るのも変だ。

何か話さなくちゃ。

ボクは思わず、昨日から気にしていたことをストレートに口にしてしまった。

「ドラさん。

ボクを信頼している、という言葉は嘘だったんですか?信頼しているのなら、なぜ、担当変更や階級をダウンさせるんですか?ボクを信頼していないんじゃないですか?」口に出しながら、ボクは自分の口調がとげとげしいのを自覚した。

でも、しょうがない。

それがボクの正直な気持ちだからだ。

隠さなくていいや。

ボクはそう思いながら、ドラさんの返事を待った。

ほっほっほっ。

ドラさんは走るリズムに合わせて息を吐きながらずっと走っている。

そして、同じリズムで言葉を切りながらボクの質問に答えてくれた。

「し・ん・ら・い・し・て・い・る・よ!」そしてニカッと大きく笑った。

「当たり前じゃないか!今も百パーセント信頼しているよ!キミを信じている」「じゃあ、なぜ?担当変更を?なぜ階級ダウンを?」「当たり前じゃないか!会社なんだから。

キミは目標を未達成だった。

顧客からクレームを受けた。

担当を変更し、クライアントを減らし、目標を下げる。

会社としては当たり前のことをしただけだ。

それのどこがおかしいというんだ?」ボクたちは言い争いのようになった。

競うように走るペースがあがっていく。

北の丸から番町へと緩やかな上り坂が続く。

ボクはドラさんより先に息があがってしまい、走るペースを落とした。

ドラさんは「歩こう」と言った。

話に集中したいのだろう。

ボクは黙ってドラさんの言葉に従った。

たしかに、このほうが話しやすい。

ボクは普通に歩いているが、背の低いドラさんは早足で短い足を前後に素早く動かしている。

それをわかりながら、ボクは少し意地悪をして早いペースで歩き続けた。

ドラさんが言う。

「リョウ君。

いいかい。

信頼とは無条件で相手を信じることを言うんだよ。

相手が失敗しようが、嘘をつこうが、裏切ろうが、それでも相手を信じることを信頼と呼ぶんだ。

裏切られても、裏切られても、裏切られても信じる。

約束を破られても、実績がなくても、信じる。

この信頼があるからこそ、人と人は強い絆で結ばれるんだ」「相手が失敗したり、約束を破るたびに相手を疑ったり、信じるのをやめるのでは、信頼とは呼べないんだ。

キミのお母さんはきっとキミを信頼している。

そしてボクもキミを信頼している。

これまでもこれからもキミを信頼しているよ」「では、なぜなんですか?なぜボクを外したんですか?」「よく聞きなさい。

リョウ君。

キミに以前、存在価値と機能価値の話をしたのを覚えているかい?」

「当然です。

常にそのことは頭の片隅にあります。

今回、目標が下げられて、階級ダウンされて、ボクは自分にダメ出しをしそうになりました」「でも、そうじゃない。

いくら目標が低くなっても、階級がダウンしても、ボクの機能価値が下がっても、ボクの存在価値はちっとも減っていない。

そう思えるようになりました」「その通りだ。

リョウ君。

ボクは、キミが仮に会社を首になったって、仮にキミが刑務所に入ったって、キミの可能性を常に信じるよ。

これからもずっとキミを信じる。

キミの存在価値を信頼しているよ」早足で歩くドラさんの額から幾筋も汗が流れている。

ボクはドラさんの「信頼」という言葉を聞いてホッとした。

ドラさんは変わっていなかったんだ。

「でもね、会社は違うんだよ」ドラさんはこれまでと声のトーンを変えて、厳しく、短く言い切った。

「会社は無条件に人を信じる信頼なんかで動きはしないんだ。

会社は常に条件付きの信用で動く。

なぜならビジネス社会は信用が前提だからだよ。

信用は常にエビデンスを求める」「例えば銀行は担保がなければ金を貸さない。

そして取引実績がなければ取引しない。

クレジットカード会社は支払いが遅れた人、つまり支払い実績がない人をブラックリストに載せて、カードを追加発行しない。

つまり、実績や担保を常に見る。

それを満たさなければ取引しない。

それがビジネス社会の常識なんだ」「それはボクたちが勤める会社だって同じことだ。

会社は信頼ではなく信用で動く。

実績がなければ評価しない。

目標達成という約束を破った人の評価は下がるんだ」ボクは完全に混乱していた。

ドラさんの言っていること、一つひとつはよくわかる。

ドラさんはボクを無条件に信頼してくれている。

それは今回の話でよくわかった。

今まで以上に強い確信に変わった。

しかし、一方で、会社が常に条件付きの信用で動く、ということもわかった。

ドラさんの話はとても筋が通っている。

銀行や会社が無条件に信頼で動いたら大変なことになる。

うちの会社だって潰れてしまうかもしれない。

だからエビデンスを元にして信用で動かざるを得ないのもよくわかった。

今回ボクの目標未達成やセコ課長との言い争いで担当を外されて階級をダウンさせられたのも仕方がないと思った。

でも、じゃあ、ドラさんはどっちなんだ?会社の味方なのか?ボクの味方なのか?会社と同じく条件付きの信用でボクを見るのか?それともボクの母親のように無条件でボクを信頼するのか?いったいどっちなんだ?どっちが本当のドラさんなんだ?ボクは頭の中がゴチャゴチャになり、思わず足を止めて立ち尽くしてしまった。

「ドラさんはボクを信頼してくれるんですか?信用で判断するんですか?いったいどっちなんですか?」ドラさんは、ボクに向けてピストルを発射するいつもの仕草をしながら小さく「バキューン!」とつぶやき、ウインクをした。

そして、一人で先を歩き、皇居遊歩道の角を左に曲がった。

ボクは無言でついていった。

「ほら、ご覧。

道が開けただろう。

桜田門まで見晴らしのいい一直線だ」ドラさんの言う通り、北の丸から番町までの狭い道をすぎて左に曲がると、皇居のお堀の向こうに道が大きく開けていた。

「リョウ君。

会社で働くときにはね。

信頼と信用という異なる二つの考え方を両方併用しなければならないんだよ。

ボクとキミが北の丸から番町まで、ずっとこうして並んで歩いてきたように」「信用システムと信頼システムは、いつも一緒なんだ。

ボクは課長という人格で部下という人格のキミを信用システムで判断する。

キミの機能価値を冷静に実績や担保で判断するよ。

会社という信用システムを回すんだ。

そしてね」ドラさんはそこで言葉を切ると、突然緩やかな下り坂をダッシュで走り始めた。

そして百メートルほどでピタリと止まり、くるっと後ろを振り返ってボクに叫んだ。

「でもね。

一人の人間としては、ボクはキミを無条件で信頼するよ。

課長ではなく一人の人間、ドラとしてボクは人間リョウ君を無条件に信じる。

キミはステキだよ。

キミには無限の可能性がある。

その可能性を心の底から百パーセント信じているよ!」そう叫んで、また踵を返し、ほっほっほっほ、と息を吐きながら走り始めた。

ドラさんの背中が少しずつ遠ざかっていく。

でも、濃いピンク色のウェアで包まれたその丸っこい小さな背中は先ほどと違ってとても温かく見えた。

そうか。

課長であるドラさんは信用システムを回して淡々とボクに対処する。

実績でボクの機能価値を判断してボクを人事的に冷静に処遇する。

しかし、一人の人間ドラさんはボクの存在価値を心の底から無条件に信頼する。

ドラさんの中には二つの人格がある。

それを両方ともに併用しているのだとわかったのだ。

一見すると、その二つは矛盾しているように見える。

併存など不可能なように見える。

しかし、ドラさんという生身の人間を見てみると、その二つは違和感なく併存可能であることがわかった。

どうやって矛盾を併存させているのか、そのメカニズムはよくわからない。

けれど、ドラさんは間違いなくその両方をやっている。

しかも、揺らがず、ドッシリと。

そういうことだったのか。

「オーイ!聞こえるかーい?」遠くでドラさんが手を振っているのが小さく見える。

ドラさんの立っている場所からここまでの間には凜と澄んだ空気が張り詰めている。

そして視界は広く開けている。

「はい!ボクもそっちへ行きます!」ボクはそう大声で返事をして、ダッシュで下り坂を走り始めた。

ほっほっほっほ。

ドラさんのように声に出しながら息を吐く。

右足。

左足。

右足。

左足。

信用と信頼。

右足と左足。

機能価値と存在価値。

両足を踏み出しながらボクは頭の中がスッキリするのを感じた。

そうか。

そういうことか。

矛盾なんかしない。

両方淡々と進めればいいのだ。

よし。

もう一度やり直すぞ。

会社という信用システムに基づいて、ミドル級ランキングで頑張ればいいじゃないか。

そして、これからもドラさんを信じ続けるぞ。

一人の人間、ドラさんを無条件に信頼する。

併用できる。

併走できる。

ボクはそんな確信を感じていた。

あと三ヶ月でドラさんがいなくなってしまう。

それまでボクは必死にドラさんに食らいついて、学び続けるぞ。

ボクはさらに加速して、遠く桜田門から二重橋前へと向かうドラさんの背中を追って走り続けた。

[ドラさんの宿題]会社のルールは信用で動くが淡々とこなす。

しかし、対人関係は裏切られても信頼する

[コラム]人に優しく、仕事に厳しく「信用金庫」「信用取引」「信用調査」という言葉があります。

それぞれに「地場の中小金融機関」「相手の信用力に応じて預け金以上の金額での取引を許可すること」「相手の金融資産、保有不動産、勤務先の信用力などを調査すること」です。

しかし、世の中に「信頼金庫」「信頼取引」「信頼調査」という言葉はありません。

この言葉からわかるように「信用」とは「相手の担保や実績という条件をもとに信じるかどうかを判断すること」だとわかります。

そして「信頼」はその逆に「相手の担保や実績にかかわらず、無条件に相手を信じること」だとわかるでしょう。

では、私たちが勤める企業組織においては「信用」と「信頼」のどちらが働いているのでしょうか?いや、働かせるべきでしょうか?本章でドラさんがリョウ君に説明している通り、企業では両方が必要となります。

もしも「信用」一本で行くとすればそれは「人に厳しく、仕事に厳しい」軍隊のような組織となり対人関係は希薄となるでしょう。

しかしその逆も問題です。

「人に優しく、仕事に甘い」組織は単なる仲良し集団で顧客満足にはほど遠く経営からも見放されることでしょう。

正解はドラさんが語る通り「人に優しく、仕事に厳しく」つまり、会社という人格で「信用システム」を淡々と回し、一対一の人間としては「信頼システム」を回す。

その両立が求められるのです。

 

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