第六話いかにして仕事を残すかそれでは、いかにして、その「良き仕事」を残すか。どうすれば、我々は、「良き仕事」を残すことができるのでしょうか。一つ、覚悟しておかなければならないことがあります。
「腕を磨く」だけでは、決して「良き仕事」は残せない。そのことです。
なぜなら、ビジネスの世界には、しばしば耳にする、あの怖い言葉があるからです。
「一匹狼」この言葉は、プロフェッショナルをめざす人間が、「腕を磨く」ことに夢中になるあまり、しばしば陥る過ちを象徴する言葉です。
例えば、職場でときおり耳にする会話で、このような慣用句があります。
「彼は、腕前は見事なのだが……」「彼女は、能力はあるのだが……」この慣用句において、「だが……」に続くべき言葉で、飲み込まれてしまった言葉がある。
それは何か。
「仲間と、うまくやっていけない」その言葉です。先ほど、我々が仕事を通じて残すものは、「作品」であると述べました。
しかし、実は、この言葉は正確に言わなければならない。
我々が仕事を通じて残すものは、実は、「作品」ではありません。「共同作品」です。それは、その仕事に取り組む多くの仲間と共に創り上げる「共同作品」なのです。
例えば、全社を挙げて一つのプロジェクトに取り組む。
そのとき、同じ職場から参加する仲間、他の部署から参加する仲間、そして、社外から参加する仲間が、いる。そのプロジェクトは、それらの仲間と創り出す「共同作品」にほかなりません。
では、その「共同作品」を創り出すためには、何が求められるか。「共感」です。それは、仲間との「共感」です。
優れた「共同作品」を創り出すためには、仲間との深い「共感」が求められるのです。それは、なぜか。仕事の本質が、「知識創造」だからです。
これからの知識社会において、我々が取り組む仕事の多くは、仲間の持つ様々な「知識」や「智恵」を集め、新しい「知識」や「智恵」を生み出すことになっていきます。
いわゆる、「知識創造」と呼ばれる仕事になっていくのです。
そして、こうした「知識創造」の仕事においては、単に仲間が集まって「共同作業」をしただけでは、仕事は進みません。その仲間が集まった場に「共感」が生まれてこないと、仕事は進まない。
例えば、なぜ、会議において良い智恵が出てこないのか。
そのことの理由を深く考えていくと、必ず、会議に参加するメンバーの「共感」の問題に突き当たります。
互いに心の中で反発しあったり、陰で批判しあっているメンバーの間では、決して、良い智恵は生まれてきません。
そこには、必ず、仲間との「共感」の問題があるのです。
しかし、こう述べると、皆さんの中で、「ああ、人間関係の問題か」と思われる方がいるかもしれません。
たしかに、それは、これまでしばしば語られてきた仕事における「人間関係」の問題でもあります。
しかし、これまで本や雑誌などで語られてきた「人間関係論」には、一つの落とし穴があります。それは、何か。「操作主義」です。
これまでの企業社会で語られてきた「人間関係論」は、その多くが、密やかな「操作主義」に彩られているのです。
それは、書店に並ぶ本のタイトルを見れば分かります。
『感動を呼ぶ一言』『部下を動かす方法』『説得の技術』そうしたタイトルの本が溢れています。
その根底にあるのは、「いかにして、相手を意のままに動かすか」「いかにして、相手を自由に操作するか」その「操作主義」です。
そして、こうした「操作主義的な人間関係論」の洪水の中で、心の中に無意識の「他者を操りたいという願望」を抱いてしまう人は、決して少なくありません。
そして、我々の心に、その操作主義が密やかに忍び込んだとき、我々は、この「共感が大切だ」という言葉を聞くと、すぐに、こう考えてしまうのです。
「いかにして、仲間の共感を得るか」しかし、人間の心の世界とは、不思議な世界です。いかにして、相手を自分に「共感」させることができるか。そう願望する人間は、決して相手の「共感」を得ることはできません。
なぜなら、人間の無意識は、相手の無意識にある「操作主義」を、敏感に感じ取ってしまうからです。では、どうすればよいのか。
どうすれば、我々は、仲間との「共感」を生み出していけるのか。「共感する」ことです。他の誰でもない、自らが、仲間に「共感する」ことです。
自分に対して仲間の「共感」を得ようとするのではなく、自分自身が、仲間の気持ちに深く「共感する」ことです。
例えば、仕事の壁に突き当たって苦しむ仲間。自分の能力に限界を感じて悩む仲間。仕事の意味を感じることができずに迷う仲間。そうした仲間の気持ちに、深く「共感」できるか。
そのことが、我々に問われているのです。
そして、我々が、その仲間の気持ちに深く「共感」できたとき、そこには、黙っていても、「共感の場」が生まれてきます。
そして、そのとき初めて、我々は、仲間と共に、素晴らしい「共同作品」を残すという仕事に、取り組むことができるのです。
誰もが、心の深くに、「腕を磨きたい」という気持ちを持っている。「良き仕事を残したい」という願いを持っている。「成長していきたい」との祈りを持っている。そして、「仲間と共に歩みたい」との思いを持っています。
その人間同士が、なぜか、この職場で巡り会った。なぜか、この仕事で巡り会った。それは、「縁」です。不思議な「縁」です。
そして、その「縁」を得たことには、深い「意味」がある。では、その「意味」とは、何か。
その「意味」を深く求めながら歩むとき、我々が仲間と共に残す「共同作品」には、「魂」が宿るのかもしれません。
しかし、素晴らしい「共同作品」を創り出すためには、この「共感」ということに加えて、もう一つ、大切なことがあります。
それは、何か。「志」です。
我々が、本当に素晴らしい「共同作品」を残したいと願うならば、その仲間と共に抱く「志」が無ければならない。
では、「志」とは何か。このことについても、いまの世の中には、「誤解」が溢れています。その「誤解」の中でも、多いのが、「志」と「野心」の混同です。
「志」と聞くと、「世の中を大きく変えること」といった理解をする人が、決して少なくありません。
例えば、世の中を変える先進的な技術を開発すること。世の中が求める新しいサービスを提供するベンチャーを成功させること。そうしたことは、もちろん、素晴らしい「志」ともなります。
しかし、心の置き所を誤れば、それは、単なる「野心」。自身のエゴの「達成願望」を満たすための営みともなってしまう。では、「志」とは何か。
そのことを教えてくれる一つの寓話があります。ある旅人が、ある田舎の町を通りかかったときのことです。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、その建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。そこで、その仕事に興味を持った旅人は、一人の石切り職人に聞きました。
「あなたは、何をしているのですか」その問いに対して、その石切り職人は、不愉快そうな表情を浮かべ、ぶっきらぼうに答えました。
「このいまいましい石を切るために、毎日、悪戦苦闘しているのさ」そこで、その旅人は、もう一人の石切り職人に同じことを聞きました。
すると、その石切り職人は、表情を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたそうです。
「ええ、いま、私は、多くの人々の心の安らぎの場となる素晴らしい教会を造っているのです」これが「志」ということの、本当の意味です。
この二人の石切り職人の寓話は、我々に、大切なことを教えてくれます。
どのような仕事をしているか。
それが、我々の「志」を定めるのではありません。
その仕事の彼方に、何を見つめているか。
そのことが、我々の「志」を定めるのです。
そうであるならば、我々は、仲間と共に「共同作品」に取り組むとき、そのことをこそ、語り合わなければなりません。
その仕事の彼方に、何を見つめるか。
そのことを語り合ったとき、そこに生まれてくるのは、まさに「志ある仕事」です。
そして、その意味において「志ある仕事」に取り組むとき、我々は、この国において古くから伝えられるあの言葉の意味を、理解するのです。
「一隅を照らす。これ国宝なり」この最澄の言葉の意味を、理解するのです。
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