さて、本書の最後のテーマとなったが、無意識の世界を変え、「良い運気」を引き寄せるための第三の技法は、「究極のポジティブな人生観」を体得していく技法である。
これは、人生のネガティブに見える出来事も出会いも、すべてを無条件に「全肯定」し、それによって、無意識の世界を「究極のポジティブな想念」で満たしていく技法である。
この技法は、すべての出来事や出会いを無条件に「全肯定」していくため、そもそも、心の中にポジティブな想念とネガティブな想念の分離が起こらない。
そのため、この技法は、無意識の世界の浄化の技法としては、「究極の技法」であるともいえる。
では、それは、どのような技法か。
それは、次の「五つの覚悟」を定めた人生観を体得していく技法であり、この「五つの覚悟」を、順に一つ一つ定めていく技法である。
- 第一の覚悟自分の人生は、大いなる何かに導かれている、と信じる
- 第二の覚悟人生で起こること、すべて、深い意味がある、と考える
- 第三の覚悟人生における問題、すべて、自分に原因がある、と引き受ける
- 第四の覚悟大いなる何かが、自分を育てようとしている、と受け止める
- 第五の覚悟逆境を越える叡智は、すべて、与えられる、と思い定める
もとより、この「五つの覚悟」を定めることは、それほど容易なことではないが、自身の人生に正対するならば、誰でも掴める覚悟である。
そして、ひとたびこの覚悟を定めることができれば、不思議なほど、心の中からネガティブな想念が消え、心がポジティブな想念で満たされ、その結果、ポジティブな出来事やポジティブな出会いを引き寄せるようになっていく。以下、それぞれの覚悟について説明していこう。
「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」と信じる
まず、第一の覚悟は、自分の人生は、大いなる何かに導かれていると信じることである。
こう述べると、あなたは驚かれるかもしれないが、実は、「成功者」と呼ばれる優れた先人たちは、歩んできた道は様々であっても、誰もが共通して、こうした感覚を心に抱いてきた。
言葉に出して語るか、語らないかの違いはあっても、誰もが、こうした「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚を、心中深く抱いてきた。
そのことを示すのが、これらの先人たちがしばしば使った、「天命」「天の声」「天の導き」「天の配剤」といった言葉であろう。
それは、ときに、「大いなる何かの導きにより」や「大いなる何かの声に導かれ」といった言葉でもある。
しかし、「天」や「大いなる何か」に導かれるのは、決して、こうした優れた先人たちだけではない。実は、我々は、誰もが、大いなる何かに導かれている。
もとより、すでに述べたように、現代の最先端科学をもってしても、その「天」や「大いなる何か」が存在するか否かは、まだ証明されていない。
しかし、人類の何千年という歴史の中で、無数の人々が「神」や「仏」、「天」や「大いなる何か」というものの存在を信じ、その言葉を口にしてきたことも、厳然とした事実である。
そして、第二話で一つの仮説として述べたことが真実であるならば、人類の永い歴史の中で「神」「仏」「天」「大いなる何か」と呼ばれてきたものの実体は、「集合的無意識」の世界や「超個的無意識」の世界を超え、そのさらに奥深くにある、「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がる「超時空的無意識」の世界である。
それは、すなわち、昔から多くの人々が信じてきた「神」「仏」「天」「大いなる何か」とは、実は、空の彼方の「天国」や「極楽」や「天上」などに存在する何かではなく、我々の心の奥深くに存在する何かであり、それは、最も深い次元での「我々自身」、言葉を換えれば「真我」(TrueSelf)と呼ぶべきものであることを意味している。
そうであるならば、その「真我」は、この宇宙の過去、現在、未来のすべての情報を記録し、人類のすべての叡智を記憶している「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がっており、その情報と叡智を活かして、我々の人生を導いているとも言える。
すなわち、我々の人生を導いている「大いなる何か」とは、実は、我々の心の奥深くに存在する、深い叡智、最高の叡智を持った「我々自身」に他ならない。
それが、現時点での筆者の考えであるが、残念ながら、本書において、この考えを深く語る紙幅はない。このことを語るのは、次の機会に譲りたい。
話が興味深い方向に広がったが、そうした「理論」はさておき、実は、我々の多くが、この「大いなる何か」の存在を感じる「体験」を持っているのではないだろうか。
例えば、これまでの自分の人生を静かな心で振り返るならば、誰もが、次のような思いの一つ二つは、あるだろう。
「ああ、あの人と出会ったことで、人生が好転した」「ああ、あの出来事があったから、進むべき道が見えた」「あれは、何かの導きだったのだろうか」そして、ひとたび、その思いを深め、自分の人生は、大いなる何かに導かれているとの覚悟を定めた瞬間に、「人生の風景」が全く違って見えてくるだろう。
そして、心の中に、「不思議な安心感」と呼ぶべきポジティブな想念が広がっていくだろう。そして、そのとき、もう一つの覚悟が定まってくる。
「人生で起こること、すべて、深い意味がある」と考える
それが、第二の覚悟、人生で起こること、すべて、深い意味があると考えることである。
すなわち、もし我々が、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を定めるならば、人生において、何かの出会いが与えられ、何かの出来事が起こったとき、自然に、「これは、どのような意味があって、導かれた出会いだろうか」「これは、どのような意味があって、導かれた出来事だろうか」という問いが心に浮かぶようになるだろう。
そして、その「意味」を感じ、考えるために大切なものが、第五話で述べた、「解釈力」に他ならない。
この「解釈力」の中でも、特に大切なものは、自分がいま直面している逆境の「意味」を解釈する力であり、人生において、苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故などが与えられたとき、自分自身に、次のような問いを問う力である。
「この苦労は、自分に、何を教えようとしているのか?」「この失敗は、自分に、何を学ばせようとしているのか?」「この挫折は、自分に、何を掴ませようとしているのか?」「この病気は、自分に、何を気づかせようとしているのか?」
その意味で、第五話で述べた、絶頂期に足の故障で長期休場を余儀なくされた大関の発揮した「解釈力」、「あの頃の私は、慢心していたのです。だから、私は、挫折しなければならなかった。そして、私は、あの挫折から、大切なことを学びました」という述懐は、その一つの象徴的なものであろう。
このように、我々は、いかなる逆境に直面しても、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟に裏打ちされた「解釈力」を発揮するならば、その逆境を、「人生で起こること、すべて、深い意味がある」と前向きに受け止めることができる。
そして、そう受け止めることができるならば、自然に、逆境への不安や恐怖など、心の中のネガティブな想念が消えていき、心がポジティブになり、「良い運気」を引き寄せるようになっていく。
しかし、そのためには、さらに、次の第三の覚悟を定めなければならない。
「人生における問題、すべて、自分に原因がある」と引き受ける
第三の覚悟は人生における問題、すべて、自分に原因があると引き受けることである。
しかし、こう述べると、あなたは疑問に思われるかもしれない。
「自分に原因があると考えると、自分を責める気持ちが生まれ、むしろ、心の世界にネガティブな想念が生まれるのではないか?」実は、そうではない。
ここで「自分に原因がある」と覚悟を定めるのは、自分を責めるためではない。
その原因を探ることによって、さらに成長していくためであり、心の中には「自分に原因があると受け止めることによって、自分の成長の課題に気がつき、さらに大きく成長していける」というポジティブな想念がある。
逆に、人生で与えられた問題について、自分以外の誰かに原因があると考える「他責」の姿勢は、心の世界に、その「誰か」に対する批判や非難、不満や怒り、嫌悪や憎悪というネガティブな想念が生まれてしまうのである。
そして、この「自分に原因がある」という問題の捉え方は、カウンセリング(心理療法)の世界では極めて重要な心の姿勢であり、「引き受け」と呼ばれている。
すなわち、心に重い問題を抱えたクライアント(相談者)が、カウンセリングを通じて問題解決や治癒に向かうとき、多くの場合、自発的に、この「引き受け」の姿勢への転換が起こるのである。
例えば、それまで自分の父親の人間性を感情的に非難し、父親への嫌悪や憎悪の思いを語り続けていたクライアントが、カウンセリングが進み、心が癒されていくに従って、自然に「自分にも問題があった…」「父も辛かったのでは…」と語り始めることが、しばしば起こる。
このように、心の問題を抱えたクライアントへのカウンセリングにおいても、この「引き受け」の姿勢への転換は、大きな意味を持っているが、通常の人間関係においても、かなり関係がこじれた場面でも、この「自分に原因があった」と受け止め、「引き受け」の姿勢に転じただけで、不思議なほど、関係が良い方向に向かい、問題が解決していくことが起こるのである。
しかし、こう述べると、あなたは、さらに、こう思われるかもしれない。
「『引き受け』ということの意味は分かったが、現実の問題を前にして、『自分に原因がある』と受け止めることは、心が強くないとできないのではないか?」たしかに、その通り。
この「引き受け」ができるようになるためには、心が、少しだけ強くなる必要がある。では、どうすれば、その「心の強さ」を身につけることができるのか。
そのためには、「究極の解釈力」を身につけることである。では、「究極の解釈力」とは、何か。それが、第四の覚悟を定めることである。
「大いなる何かが、自分を育てようとしている」と受け止める
第四の覚悟とは、自分の人生を見つめるとき、大いなる何かが、自分を育てようとしていると解釈し、受け止めることである。
そして、さらには、大いなる何かが自分を育てようとしているそして、その自分を通じて素晴らしい何かを成し遂げようとしていると解釈し、思い定めることである。
もし、この覚悟を定めることができるならば、我々は、言葉の真の意味での「強さ」を身につけることができる。
なぜなら、この覚悟を定めた人間は、人生において、どのような逆境が与えられても、その逆境を、「大いなる何かが、自分を育てるために与えたもの。自分を成長させるために与えたもの」と前向きに受け止め、その逆境を糧として成長しようとすることができるからである。
実は、こうした覚悟もまた、昔から優れた先人たちは、誰もが定めていたものである。
例えば、戦国時代の武将、山中鹿之介が、「我に、七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったという故事は、良く知られている。
また、我が国においては、「艱難、汝を玉にす」という格言も、多くの人によって、好んで語られてきた。
たしかに、我々の人生で与えられる苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故といった様々な逆境は、一見、ネガティブな出来事に思われるが、実は、逆境とは、「成長の最高の機会」であり「脱皮と飛躍の好機」でもある。
それゆえ、そのことに気がついたとき、人生で与えられる逆境とは、ある意味で、極めてポジティブな出来事であることに気がつく。
実際、第五話でも述べたが、あなたは、いつ成長しただろうか。それは、順風満帆のとき、好調や幸運が続いたときではないだろう。それは、逆境のときではなかったか。夜も眠れぬ日々、溜息が出る日々、胃が痛むような日々。
そうした苦しい日々を、それでも前を向いて歩み続けたとき、気がつけば、大きく成長した自分がいたのではないか。
筆者もまた、そうした体験を持っている。三六年前、医者から「もう命は長くない」と言われる大病が与えられた。
誰も救ってくれない絶望の底を歩み、日々、命が失われていく感覚に、地獄を歩むような体験を与えられた。
しかし、そうした逆境の中で掴んだものが、ここで述べる「五つの覚悟」である。そして、その覚悟のお陰で、その絶望の底から戻ってくることができた。
そして、気がつけば、大きく成長した自分がいた。そうであるからこそ、申し上げたい。逆境とは、まさに「成長の最高の機会」「脱皮と飛躍の好機」。
ためらうことなく、我々は、一つの覚悟を定めるべきであろう。いま、大いなる何かが自分を育てようとしている。この逆境を与えることによって、自分を成長させようとしている。
そして、その成長した自分を通じて、素晴らしい何かを成し遂げさせようとしている。
そして、ひとたび、その覚悟を定めたならば、もはや、人生においてネガティブな出来事というものは無くなる。
すべての出来事が、深い意味を持ったポジティブな出来事であることに気がつくだろう。
なぜ、志や使命感を持つ人物は「良い運気」を引き寄せるのか
そして、この覚悟を定めるとき、昔から多くの人が語る一つの不思議に、その理由が見えてくる。
なぜ、「志」や「使命感」を抱いて歩む人物は、不思議なほど、「良い運気」を引き寄せるのか。その理由は、明らかであろう。
なぜなら、「志」や「使命感」を抱いて歩む人物は、例外なくと言って良いほど、その心の奥深くに、「大いなる何かが、自分を導いている」「大いなる何かが、自分を通じて何かを成し遂げようとしている」という感覚を抱いているからである。
もとより、「使命感」の「使命」とは、「天から与えられた任務」という意味が含まれているが、かつて、キリスト教の宣教師(missionary)が、世界中の未開の地に分け入り、いかなる困難があっても、その「使命」(mission)を成し遂げることができたのも、その根底に、こうした「大いなる何かが、自分を導いている」「大いなる何かが、自分を通じて何かを成し遂げようとしている」という覚悟を抱いていたからである。
同様に、「志」と「使命感」を抱いて歩む人物は、その人生において、いかなる苦労や困難が与えられても、それを、「大いなる何かが自分を育てようとしている。この逆境を与えることによって、自分を成長させようとしている。そして、その成長した自分を通じて、素晴らしい何かを成し遂げさせようとしている」
と解釈できるがゆえに、その想念は、「究極のポジティブな想念」となっていく。
「志」や「使命感」を抱いて歩む人物が、しばしば、不思議なほど「良い運気」を引き寄せる理由は、まさに、この「究極のポジティブな想念」を抱いているからに他ならない。
それゆえ、もし、我々が、人生において「志」や「使命感」を抱いて歩み、この第四の覚悟を掴むならば、ごく自然に「良い運気」を引き寄せるため、様々な形で、不思議なことが起こる。では、その「不思議なこと」とは、何か。
「逆境を越える叡智は、すべて、与えられる」と思い定める
その「不思議なこと」とは、第一話において述べた、次のようなことである。
- 第一何かの勘が働く(直観)
- 第二ふと未来を感じる(予感)
- 第三上手く機会を掴む(好機)
- 第四偶然の一致が起こる(シンクロニシティ)
- 第五何かの意味を感じる(コンステレーション)
これらは、まさに「良い運気」を引き寄せた結果、起こる出来事であるが、では、人生の「逆境」において、こうした「不思議なこと」を引き寄せるためには、何が必要か。
一つの覚悟を定めることである。それが、第五の覚悟、逆境を越える叡智は、すべて、与えられると思い定めることである。
すなわち、我々の人生においては、必ず、苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故など、様々な「問題」や「逆境」が与えられるが、目の前の「問題」を解決するために必要な叡智、さらには、目の前の「逆境」を越えるために必要な叡智は、すべて、必ず、「大いなる何か」が与えてくれるとの覚悟を定めることである。
我々は、誰でも、「深刻な問題」や「厳しい逆境」に直面したとき、心の中に、「この問題は解決できるだろうか…」「この問題を解決できる叡智が自分にあるだろうか…」「この逆境は越えられない…」「この逆境を越える叡智が自分にはない…」といった不安感や無力感が生まれ、それがネガティブな想念になっていく。
そうした不安感や無力感に覆われるときは、「身心一如」の技法として、心の中で「大いなる何かが、この問題や逆境を与えることによって、自分を育てようとしている。
そうであるならば、この問題や逆境を越える叡智は、必ず、与えられる」と、何度も念じてみると良い。不思議なほど、その不安感や無力感が薄れ、ネガティブな想念も薄れていくだろう。そして、心の中に、静かな安心感や勇気が生まれてくるだろう。
なぜ、懸命に「祈り」を捧げても通じないのか
ただ、そう述べても、なお、あなたは、「しかし、深刻な問題や厳しい逆境の中で、『この問題や逆境を越える叡智は、すべて、与えられる』という強い心を持つことは難しいのではないか?」と思われるかもしれない。
しかし、我々の心の奥深くには、実は、我々自身の想像を超えた「強さ」が眠っている。
たしかに、日常の平穏な感覚に慣らされた人が、突如、深刻な問題や厳しい逆境に直面して、この覚悟を定めることは、それほど容易ではないだろう。
だが、一方で、人間というものは、ぎりぎりまで追い詰められたとき、不思議なほど、腹が据わることも事実である。
そして、腹が据わったとき、やはり不思議なほど、「叡智」が降りてくる、「勇気」が湧き上がってくることも事実である。
それゆえ、昔から、この日本という国では、「逆境を前に、開き直る」という言葉が語られ、「人事を尽くして、天命を待つ」という言葉が語られてきたのであろう。
筆者もまた、先ほど述べたように、医者も見放す大病を患い、死に向き合う不安と恐怖の日々を与えられたが、そのぎりぎりの状況で、「心が開き直る」という体験をした。
すなわち、その極限の状況において、不思議なことに、「ああ、明日死のうが、明後日死のうが、それが天の定めならば、仕方が無い!しかし、今日という一日は、決して無駄にしない。今日という一日を、精一杯に生き切ろう!」との思いが湧き上がってきたのである。
そして、その思いを定めると、これも不思議なほど生命力が湧き上がり、病を超えることができたのである。
そして、病を超えただけではない、さらに、自分の中に眠っていた能力が開花し、「強い運気」を引き寄せる力が与えられたのである。
では、人生における深刻な問題や厳しい逆境を前に、我々は、どうすれば、こうした覚悟を定めることができるのか。
本書の最後に、そのための一つの技法を伝えておこう。それは、「祈る」ことである。
しかし、こう述べると、誤解が生まれるかもしれない。
なぜなら、「祈る」と言うと、多くの人は、「願望の祈り」を思い浮かべるからである。
「願望の祈り」とは、例えば、「この試験に合格させたまえ」や「この商談を成就させたまえ」といった、自分の願望が実現することを、神や仏、天に求める祈りのことである。
実は、人類の歴史始まって以来、無数の人々によって行われてきた「祈り」の多くは、こうした「願望の祈り」であった。
もとより、誰といえども、人生で直面した問題や逆境が、自分の望む形で解決し、乗り越えられることを願うのは自然な人情であり、こうした「願望の祈り」を、筆者は否定するわけではない。
しかし、この「願望の祈り」もまた、必ず、心の中でのプラスの想念とマイナスの想念の分離が起こってしまう。
すなわち、心の表面での「試験に合格させたまえ」という祈りの反面、心の奥深くに「こうして祈っても、試験に落ちるのではないか…」というネガティブな想念を生み出してしまうのである。
そして、実は、心の奥深くに生まれる、このネガティブな想念こそが、最も強力な「祈り」になってしまうのである。
こう述べると、また、驚かれるかもしれないが、「祈り」とは、手を合わせて祈っている間の想念が「祈り」なのではない。
本当は、心の奥深くに常に存在する想念こそが最も強い「祈り」になってしまうのである。
残念ながら、まだ、多くの人が、この「祈り」というものの本質を理解していないが、例えば、心の奥深くにある「病気になるのではないか」との恐怖心は、それを日々、持ち続けるならば、まさに極めて強い「祈り」になってしまうがゆえに、結果としてそれが実現し、病気を引き寄せてしまうのである。
このように、「願望の祈り」は、しばしば、心の奥深くに、その逆の想念を生み出してしまい、それが本当の「祈り」になってしまうため、どれほど懸命に祈りを捧げても、その祈りと逆の結果を招いてしまうことが起こるのである。
では、深刻な問題や厳しい逆境を前に、我々は、どのような「祈り」を行うべきなのか。
ネガティブな想念を生まない、究極の「祈り」の技法とは
それは、「全託の祈り」である。
「全託」とは、文字通り「全てを託する」こと。すべてを、「大いなる何か」の導きに委ね、託すること。
従って、この「全託の祈り」においては、「この試験に合格させたまえ」や「この商談を成就させたまえ」といった祈りはしない。
では、どのような祈りをするのか。「導きたまえ」それだけである。ただ、それだけである。
なぜなら、「全託の祈り」とは、全てを「大いなる何か」に委ね、託している祈りであり、その根底には、次の覚悟があるからである。
自分の人生は、大いなる何かに導かれている。大いなる何かは、自分の人生を、必ず、良き方向に導こうとしている。
それゆえ、もし、この「全託の祈り」の結果が、自分の願望と違う方向になったとしても、それも、深い叡智を持った大いなる何かの導き。
その導きの意味を深く考えながら、与えられた問題や逆境に正対し、力を尽くし、さらなる成長を目指して歩んでいくならば、必ず、素晴らしい人生が導かれていく。
それゆえ、この「全託の祈り」は「願望の祈り」とは違い、心の中に「この願望が聞き届けられなかったら」という不安や心配というネガティブな想念は生まれてこない。
すなわち、この「全託の祈り」は、仮に、その祈りの結果、直面する深刻な問題が解決せず、厳しい逆境が続いても、それに落胆することなく、それらをすべて、自らの人間成長に結びつけ、一度かぎりの人生を、どこまでも前向きに歩んでいこうとする覚悟に支えられた祈りであるため、それは、心の中が「究極のポジティブな想念」で満たされていく祈りに他ならない。
そして、この「全託の祈り」を日々の習慣とし、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」「人生で起こること、すべて、深い意味がある」「人生における問題、すべて、自分に原因がある」「大いなる何かが、自分を育てようとしている」「逆境を越える叡智は、すべて、与えられる」という「五つの覚悟」を定めて歩むならば、不思議なほど、我々の人生は導かれる。
不思議なほど、必要なとき、必要な配剤が与えられる。
そして、我々が、永い歳月をかけて人生を歩み、「必要なとき、必要な配剤が与えられる」ということが、日常の出来事として感じられるようになったとき、もはや、「良い運気を引き寄せる」ことを考える必要もなくなり、「運気」という言葉を意識する必要もない境涯がやってくる。
なぜなら、我々の人生は、現象的に何があろうとも、本来、大いなる何かによって、必ず、良き方向に導かれる人生だからである。
そして、その大いなる何かとは、我々の心の奥深くに存在する「真我」と呼ぶべき、我々自身だからである。
その真実を理解したとき、昔から語られる叡智の言葉が、心の奥深くに染み入ってくる。人生で起こること、すべて良きこと。
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