第六章 「人間の本質」を受け入れる
●好奇心を失うのは死ぬときでいい ●反面教師からの学びは大きい ●あきらめたら、そこで終わり ●他人の人生を大きく変える言葉 ●自分を正しく評価できる人はいない ●「清く、正しく、美しく」は至難の人生訓 ●仕事で「きれいごと」は通用するのか
●「人間の本性」にあらがう ●あとがき
好奇心を失うのは死ぬときでいい 知人が自分の父親について、こんな話をしていました。
80歳を過ぎた父親は大の読書家だそうですが、最近妻を亡くして気持ちが落ち込んでいるのか、丸っきり本を読まなくなってしまったそうです。
それまでは毎日のように図書館へ行っては好奇心の赴くままありとあらゆるジャンルの本をせっせと読んでいたのですが、まったく図書館に足を向けなくなってしまった。
知人はそんな父を見かね、以前のように読書をすることをすすめてみたところ、「お前はまだ若いからわからないかもしれないが、年を取って体力がなくなると同時に気力も落ちるんだ」という答えが返ってきたそうです。
「年を取ると、そういうものでしょうかね」とその知人はいっていましたが、気力が衰えるかどうかは年齢と体力次第とはいえ、まさに人それぞれでしょう。
私は自慢げにいいたくないし、一種の活字病かとも思いますが、本を読むたびに好奇心が増している気がします。
読書をすればするほど、「こんなことがあるのか……」という気持ちになって、もっといろいろなことを知りたくなる。
一向に好奇心の種が尽きることがないのです。
恋愛でも相手が未知の部分を持った神秘的な佇まいで、よくわからないところ、見えない部分があると、それが相手を一層神秘的に感じさせ、恋心を熱く燃やすものです。
好奇心はこれと似たところがあって、知れば知るほど、さらにその向こうに何があるんだろう。
あのときはこういうことになっていたけれど本当はどうだったんだろう。
それを探りたい、知りたいという気持ちが湧き起こってきます。
そんな知的好奇心が最終的に行きつく先は、「人間とは何者なのか」という根源的な問いではないでしょうか。
私の場合は自分がその問いをどこまで探求できるか、謎を少しでも知ることができるか、とことんやってみたいという気持ちが強い。
若い人には体力では勝てませんが、この年でどこまで楽しめるか、是が非でも挑戦を続けたいのです。
老い先短し、いまさら何か新しいことを知ってどうなる。
一生懸命本を読んだって仕方ない……そんなふうに悟ってしまうと、せっかくの人生なのに、もったいないと思います。
年を取るにつれて好奇心が衰えていく人は少なくありませんが、好奇心は人が前向きに生きていく原動力になるものです。
好奇心をなくすのは死ぬとき。
私はそう思っています。
反面教師からの学びは大きい「一流の人間になろうと思えば、一流の人と付き合え」という人がいます。
それは半分当たっていますが、半分間違っていると思います。
なぜなら、ダメな人から学べることも少なくないからです。
もしかしたらダメだと思える人からのほうが、一流の人からよりも学ぶものが多いかもしれません。
私は自分が課長や部長になった際、若いときに「この野郎! こんな上司にだけは絶対ならないぞ」と思っていた上司に、感謝に近い気持ちを抱いたことがあります。
彼らが反面教師として教えてくれたことが、とても役に立ったからです。
何か問題が起こると、責任を部下になすりつける上司。
自分のイライラを部下にぶつけて発散する上司。
下には威張り散らしているのに、上にはペコペコごますりをする上司。
部下の手柄を横取りする上司。
部下の忙しさも考えず自分の仕事を押しつけて、できないと罵倒する上司。
保身のために平気で噓をつく上司……。
部下からすれば「バカ野郎!」といいたくなるようなブラック上司はどこの会社や組織にもいるものです。
そんな上司を持ってしまった部下は、「よりによって、なんでこんな奴が俺の上司なんだ……」とつい嘆きたくなります。
しかし発想を変えれば、嫌な上司を持つのは、ある意味ラッキーなことなのです。
「自分はああはならないぞ」と反面教師にすれば、実に学ぶことが多いからです。
もちろん立派な上司からも見習うべき点はたくさんあるでしょう。
しかし、自分がその立場になるのは、かなり先の話です。
時代とともに価値観も環境も変わっていきます。
そうなると「よし」とされていることが「よろしくない」と逆の評価に転じることもありえます。
一方で「この野郎」と腹立たしく思うことは、どんな時代になっても普遍的で変わりないものです。
したがって、「けしからん」と思う上司を反面教師にして自戒するほうが現実的だと思います。
私は平社員のころから、自分が上の立場ならどうするかというシミュレーションを心のなかで無意識にしていました。
役職のないときなら課長の立場で、課長になったら部長の立場で「こんなとき、自分ならこうする」という想像を、半ば真剣に半ば遊び感覚でしていたのです。
主にそれを促してくれたのは、「けしからん」と思う上司たちでした。
彼らを見ながら、「課長になったら部下をなるべく信頼して仕事を任せよう」とか「俺が課長ならもっと若いうちから部下を海外へ積極的に出そう」とか、自分がその立場になったら実行しようと思うことを、事あるたびに自分のなかで反芻していました。
私のこの経験は会社組織のなかでのことですが、これはどのような人間関係においても応用できることです。
嫌な人やダメで面倒そうな人には、なるべく関わらないようにしようと思うのが人情ですが、やむを得ず付き合わざるを得ないのであれば、腰をすえて「学び」の機会にすればいいのです。
なぜこの人はこういうところがダメなのか、なぜ嫌な思いをわざわざ人にさせるのか、じっくり観察して分析することで、もしかしたら自分にもこういう要素があるのではないかと戒めたり、自分ならこういうときはこんな対応をしようとか考えたりするのです。
尊敬できる人からのみ、学べるわけではありません。
ダメな人から学べることは、その気になればいくらでもあります。
そんな姿勢でいると、さまざまな人との付き合いは常に成長の糧になりますし、また人間への洞察力もより一層磨かれるはずです。
あきらめたら、そこで終わり 十数年前に「世界に一つだけの花」という歌が大ヒットしました。
「オンリーワン」という言葉が盛んにいわれるようになったのは、そのころからだったと思います。
ありのままの自分でいい。
他人と競争をすることなんかない。
置かれた場所でただ一つの美しい花として咲いていればいい。
あなたは他の誰も代わることのできない世界で唯一の花というメッセージを、オンリーワンという言葉から感じとる人も少なくないのでしょう。
言葉としては美しいけれど、果たしてそうなのか。
力の限り努力をしている人がその自負を持って、私はオンリーワンだというならまだしも、たいして努力もせず、何かあると周りのせいにするような人が勘違いして「自分はオンリーワンな存在なんだ」と思っていても、ちっとも美しくありません。
「世界に一つだけの花」なんて自分で勝手に納得しているだけのことではないでしょうか。
結局、自分を甘い幻想のなかに置いて美化しているだけではないか。
そう感じてしまいます。
本人がオンリーワンと思っていても、傍から見れば、同じような花はたくさんあります。
オンリーワン幻想に耽溺していると、そこから進歩は生まれません。
大事なのはやはり、土の手入れをして、水をきちんとやって、きれいな花を咲かせる努力をすることです。
きれいな花というと誤解されやすいのですが、それは世間の目を引くような華やかな美しさという意味ではありません。
誰からも振り返られないような
地道な努力を重ねている人であっても、一生懸命、誠実に生きていれば、その人は美しい花を咲かせることができるのです。
それを見て美しいと思わない人もいるかもしれません。
社会的に成功して尊敬されることが美しい花を咲かすことだと思っている人にとってはまさにそう感じるでしょう。
でも、このような目立たない努力をコツコツ積み重ねている人は、間違いなく美しい花を咲かせることができるのです。
人の能力というのは科学的にも、それほど大きな個人差があるわけではありません。
もちろん分野によってはずば抜けた天賦の才を持って生まれてくる人もいますが、それは例外です。
先に会社などの集団では、組織を引っ張る優秀な人が 2割、ほどほどに働く並の人が 6割、仕事をちゃんとしない人が 2割という「 2: 6: 2の法則」があるという話をしました。
上位 2割の優秀な人と、 6割の普通の人との差は、どこからくるのでしょうか。
長年会社にいて自社、他社の膨大な数の社員に接して感じたことは、努力の差以外にないということです。
つまり、努力をする情熱と気力の差といい換えてもいい。
上位 2割の人たちは、情熱と気力を持って仕事に打ち込むので能力がどんどん磨かれ、伸びるスピードも速くなります。
それに比べて中間の 6割は、情熱と気力において明らかに努力が足りない。
しかし、気持ちを入れ替え、もっといい仕事をしよう、納得のいく仕事をしようと思って本気を出せば、上位 2割に入る可能性はいくらでもあります。
では下位の 2割は上にいける可能性があるのか。
彼らは会社のなかで「こいつらはダメな社員だ」というレッテルを貼られています。
自分でもそんな周囲の評価を肌で感じていて、仕事の上では「俺はこんなもんでいいや。
まあ生活していける給料がもらえて飯がなんとか食えていけばそれでかまわない」と開き直ったりしています。
けれども、そんな人たちをつぶさに観察すれば、ここをこういうふうに変える工夫をすればよくなるのにという部分が見えたりします。
本人がそれを自覚して一生懸命仕事をすれば、中間の 6割、あるいは上位の 2割に入る可能性だって十分ありえます。
自己評価が元々低く、自ら自分の限界を決めてしまっているようなタイプが下位の 2割には多いのですが、その意識を変えれば、眠っていた能力が開花する可能性は十分にあるのです。
他人の人生を大きく変える言葉 組織で上の立場にいる人間は、下の人間のよいところを褒めてあげることも大事です。
人は褒められるとその気になって、一生懸命やり始めるきっかけになることがあるからです。
私も自分のことを振り返ると、誰かから褒められたことが人生において意外と大きな影響を受けているのを感じます。
印象に残っているのが、中学校のときに書いた作文を国語の先生にいたく褒められたことです。
そのときはすっかりその気になって、「将来、作家になるぞ」と有頂天になってしまいました。
それまでも本は好きだったのですが、それをきっかけに読書への熱は一段と高まり、読書は自分が成長していくために欠かせない貴重なものになりました。
同じく中学生のときに受けた職業適性テストの結果を先生から朝礼時に褒められたことも、自分を変える大きな転機になりました。
全校生徒の前で「一人だけすごい結果を出した人がいます」と持ち上げられたのです。
弁護士、医師、大学教授、料理人、運転手など 20ほどの職業が出ていて、私は 1000名近い全校生徒のなかでただ一人、すべての職業に向いているという評価でした。
これは私が書店の息子という立場を利用して、文学全集から大人向けの成人雑誌までさまざまな本や雑誌を乱読していたことも多分に影響していたと思います。
同級生よりも知識が豊富で、かなり早熟だったからです。
このときは全校生徒の前で褒められるほどの結果だったことで、「俺は何でもできるんだ」という強い自信を持ちました。
それと同時に真面目一本の優等生でそれまで通してきた私は、「いろいろな可能性を持っているんだから、もっと自由にやりたいことをやっていいんだ」というふうに吹っ切ることもできたのです。
傍から見れば、先生から褒められたこれらの体験は実に他愛もないことです。
しかし、褒められる内容やタイミングによって、人はまさに「豚もおだてりゃ木に登る」のです。
上の立場の人間は中間以下のところでくすぶっている人に対して、ここぞというときは褒めるようにしてあげてほしいと思います。
後から考えれば、それが転機になって大きく飛躍することだってありえるのですから。
最終的に能力の差を決めるのは、情熱の差であり、気力の差であり、そして努力の差です。
ベストを尽くす前に能力が違うからといってあきらめたり、嘆いたりするのは愚かなことだと思います。
自分を正しく評価できる人はいない 組織のリーダー論などでダメなリーダーとしてよくあげられるのが、部下には厳しくて自分に甘いというタイプです。
常に自分の保身と出世のことばかりを考え、そのために部下が犠牲になろうとも知ったことではない。
そんなリーダーはリーダーの風上にも置けません。
本当のリーダーとはいざとなれば、自分より部下のことを優先できる人です。
もっとも、部下にも自分にもともに厳しいと思っているリーダーでも、客観的に見ると、やはりどこか自分には甘かったりします。
人間は誰だって自分がかわいいから、どうしても自分のことは高く評価しがちです。
だから、贔屓目に自分のことを見て、他人には厳しい評価をしてしまう。
その傾向は強いか弱いかといった程度の違いがあるだけで、ほとんどの人が持っているものなのかもしれません。
そう考えると、自分に対する評価は、えてして底上げされているものなのです。
「これだけ結果を出しているのに何で会社は自分を評価してくれないんだ」と不満を抱えている社員がいるとします。
そんなときに私が「じゃあ、君は自分のことを 100点満点で何点くらいだと思っているんだ?」と聞くと、「 120点くらいはいくと思います」と答えが返ってきたりします。
ところが、上司や同僚などにその人の評価を聞くと、 70点があったり 50点があったりとバラけてはいるものの、平均すると 60点くらいのところに落ち着きます。
その差に対してまさに本人は怒っているわけですが、本人評価の 120点より 60点のほうが、客観的に見ても、その人に対する正確な評価であることが多いのです。
私の経験だと、自己評価は周りの評価の 2倍くらいになることが圧倒的に多い。
つまり意外と他人は、自分のことをある意味では正しく見ているということです。
自己評価は実際よりかなり甘くなる。
そう考えると「自信」というものは、半分は根拠があるけど、もう半分は根拠のないところでつくられていると思ったほうがいい。
したがって「すごく自信がある」というときでも、半分は自分なりの高下駄を履いていると考えるべきです。
自信があると向上心が増し、より積極的になります。
自信はその人の成長を促すエンジンになってくれますが、ありすぎると危険です。
過剰な自信は人に驕りをもたらします。
それは人を躓かせ、ときによっては破滅にさえ導きます。
驕慢を英語でヒューブリスといいますが、この言葉は驕慢は破滅を招くというギリシア悲劇を語源としています。
ですから、自信があるときは実際の 2倍くらい自己評価が膨らんでいるんだろうなと思って、謙虚に構えたほうがいい。
自信がないよりはあったほうがいいのですが、自信には必ず落とし穴があるという認識はとても大事です。
「清く、正しく、美しく」は至難の人生訓
仕事などで正論を吐くと、「そんなきれいごとは通用しない」という反応が返ってくることがあります。
たしかにビジネスといったものはきれいごとだけではなく、汚れた部分もたくさんあります。
そのなかで揉まれていると、ビジネスとはそういうものだという諦観のようなものを抱いたりするのかもしれません。
それどころか、相手を欺いたり出し抜いたり、小賢しく振る舞うことが優れたビジネステクニックだと勘違いしている人もなかにはいます。
そんな人たちからすると、「きれいごと」をいって正しく行動しようとする人は、きっと「甘い」と目に映るのでしょう。
彼らは心のなかで「きれいごとをいう奴なんて、そのうち壁にぶつかるよ」と思っている。
でも本当にそうなのでしょうか。
「きれいごと」なんて寝言だと思っている、ちょっとすれた人たちのほうが、現実の姿をより正確にとらえたリアリストなのでしょうか。
私はそうは思いません。
仕事において「きれいごと」は通用するし、そこに損得勘定が入るわけではありませんが、結果的にも大きなリターンがあると考えています。
もちろん、壁に阻まれて通用しないときもありますが、その姿勢を見てくれている人はちゃんといます。
「きれいごと」より、人を欺いたり、陥れたりするような「きたないこと」のほうが一瞬の利をもたらすこともありますが、長い目で見れば「きたないこと」をした人は後悔をしたり、周りの評価を下げたり信用を失ったり、得か損かといえば損のほうが圧倒的に大きい。
「きれいごと」が甘いと思っている人たちは、「きれいごと」の本質が見えていないからそう考えるだけなのだと思います。
私は 1998年に社長に就任した際、会社が危機に瀕して士気が下がった社員の意識を変えることを大きな目標の一つとして掲げていました。
人は宝です。
一人ひとりの意識が変わり、意欲が湧かないことには会社を変革することなどできません。
約 20年前の 1997年の日本経済は、バブル崩壊の最終段階かと思うほど、さまざまな出来事が噴出しました。
今でも記憶に残っているのは、四大証券会社の一角であった山一證券が、大口顧客への違法な損失補塡や不正会計事件で、自主廃業をしたことです。
その数カ月前に就任した野澤正平社長は記者会見で「社員は悪くありませんから!」と叫ぶように号泣。
2600億円の簿外債務の存在を公表し、世間は驚愕するなど大企業への不信感が漂っている状況でした。
その半年後でもあったので、私が最初に提案したのが「清く、正しく、美しく」を実行していこうということでした。
社員のなかにはそれこそ、「こんなきれいごとを掲げて何寝ぼけたこといってるんだ」と思った人もいたに違いありません。
しかし、そのときの会社の状態は、まさに役員から平社員まで、一人ひとりの行動がそのようにならなくては起死回生がはかれなかったのです。
「清く、正しく、美しく」は言葉でいうのはたやすいことですが、実行するのは難しい。
まずはトップに立つ人間が率先垂範することが大事です。
社員は行動するトップの背中をよく見ています。
そして本当に信用できると判断すれば、心からついてきてくれます。
トップは強い倫理観を持っていないといけません。
教育者である新渡戸稲造が著した『武士道』によれば、武士道精神の源にあるのは仏教と神道、そして儒教の教えだといいます。
その儒教が説く五常、すなわち人が常に守るべき5つの道徳「仁義礼智信」は、トップには一つとして欠けてはいけないものだと思います。
「清く、正しく、美しく」は、この「仁義礼智信」という五常に深く関わるものです。
利己心を抑えて人を思いやる「仁」、筋を通し正しいことを行う「義」、人間関係を円滑に進めるための社会秩序である「礼」、道理をわきまえ正しい判断を下す能力である「智」、偽らず、欺かず、人の信用を得る「信」。
いずれも「清く、正しく、美しく」を実践することと不可分のものといえます。
仕事で「きれいごと」は通用するのか 社長に就任した私の役目は、バブルの後遺症で巨額の不良資産を抱え、大幅赤字に転落していた会社をいかに再建するかでした。
銀行や上級役員のほとんどは、長い時間をかけて不良資産を少しずつ償却していくべきだという意見でしたが、私の心は金額の大きさではなく、社員の心(会社への信頼)に向いていたのです。
当時、同じような状況に喘いでいた企業が選んでいたソフトランディングの方法では、利益はいつまでも不良資産に吸い取られ、給料は増やせず、新規事業に投資はできず、配当もできません。
不良資産は腐ったリンゴのようなもので、少し削ろうとも腐った部分が残っている限り、周りに浸透して、またどんどん腐っていきます。
ですから、早く切り捨てるに限るのです。
覚悟を決めた私は、社長就任から 1年半後の 1999年 10月、不良資産を一括処理し、 3950億円の特別損失を計上すると発表しました。
この金額は当時、巨額の含み損を抱えていた企業の特損処理のなかでは最大規模、周囲からは無謀とまでいわれました。
それにより、 2000年3月期決算では単体で 1630億円の赤字を計上、無配となりました。
けじめを示すため、私は当分給料を全額返上すると宣言しました。
上級役員のなかからも「われわれも返上します」と声が上がりましたが、役員全員が無報酬となれば、彼らの家族にも迷惑がかかるし、下にいる社員もやりにくくなるので、気持ちだけ受け取りました。
当時 1000社あった子会社のうち、 3期連続赤字を出していた約 450社について退職金を大幅に上乗せして整理しました。
また、企業年金積立金の金利を従来の 6パーセントから 3・ 5パーセントに引き下げ、それが嫌なら積立金を引き取ってもらうことにしました。
また亡くなるまで支払われていた社長 OBへの給料は 75歳で打ち切り、私の代からこの制度を全廃しました。
企業年金積立金の金利引き下げも社長 OBへの給料廃止もともに OBたちからかなりの反対を受けましたが、後には引けない状況を説明して最終的にはのんでもらいました。
不良資産の一括処理に際して、私は「損失総額は想定を 3倍上回る」と読んでいました。
というのも、 1977年、経営危機に陥っていた安宅産業を吸収合併した際、同社が抱える負債総額は 1000億円程度と予想されていたものの、最終的には 3000億円にのぼったという事実を身近で経験していたからです。
自己保身ゆえに自分の責任で被った損はできるだけ少なく申告したいというのは、「動物の血」がなせる人間の性です。
そんな経験をしていたので、徹底して洗い出せばかなりの損失額になりそうだと睨んだ私は極秘で特命チームをつくり、各事業部の資産の実態を把握するために部課長クラスに聞き取り調査を命じました。
そうして調査を続けると、損失がこれでもかというほど次から次へと出てきました。
4カ月ほどたってかなりの額にのぼったとき、特命チームの面々は「ここまであるとは、すごいものですね」と驚嘆していましたが、私はまだまだ隠しているものがあるはずだと直感し、「もし隠している場合は会社を辞めていただくと伝えてくれ」と 2回目の調査指示を出しました。
案の定、隠していた損失は相当な額にのぼり、その総額は最初の 2倍になりました。
しかし、私は安宅産業の経験から「想定を 3倍上回る」という 3倍の法則を信じていましたので「こんなものじゃない。
もっとあるはずだ。
損を正直に出さないと最終のバスに乗り遅れるぞ」といって、さらに調査を続けさせました。
最終バスに乗れないとは、「隠さずに全部出してください。
損失が後から発覚したら、会社を辞めるなど責任をとってもらう。
その代わりすべて出してくれたら責任は私が負う」ということです。
こうして調査を執拗に何度も重ねた結果、全体の損失額は私の予想通り、当初の約 3倍になりました。
予想していたとはいえ、あまりの巨額に目がくらむ思いでしたが、一括処理をするという決意は揺らぎませんでした。
3950億円の特別損失の発表に対しては、投資家が果たしてどういう反応をするかとても心配でしたが、市場はむしろ好意的な反応を示し一安心しました。
膿を出し切れば、あとは前へ進むだけです。
財務体質の改善と新事業への果敢な取り組みを同時に進めていくことで、 2001年には連結で純利益 705億円という過去最高益を達成、 V字回復を果たすことができました。
会社は社員に隠しごとを一切せず、真実を語る。
社員は会社と運命をともにする覚悟が第一です。
私をはじめ社員が一丸となって会社を再建できたのは、会社全体で「清く、正しく、美しく」を一つひとつ具体的な形にし、組織をつくり直すことができたからだと思います。
「きれいごと」を信じていない人は、「厳しい現実を見ていないからきれいごとがいえるんだ」といいます。
しかし、そういう人こそ、実は現実をきちんと見ていないのかもしれません。
「きれいごと」はしかるべき行動と情熱を伴っていれば、必ず通用する。
私は強くそう確信しています。
「人間の本性」にあらがう「知らぬが仏」という言葉がありますが、この世にはたしかに知らないままでいたほうが幸せということがあります。
知らなければよかった……。
そうした経験は誰しもあるでしょう。
しかし、それらの大半は、本当は知る必要のあるもののはずです。
いわゆる「不都合な真実」と呼ばれるものはまさにそうといえます。
政治がらみのニュースで不正な汚職事件や統計の由々しき改ざん問題が発覚したら、その真相を追及する人がいる一方で、直接間接に関わっているゆえに自分の利益が損なわれると思って目をつむる人もいます。
さらに政治の世界のできごとでわれわれ庶民の知ったことではないとばかり、それに対し無関心を装う国民も「不都合な真実」を覆い隠すことに加担していることになります。
この地球には「不都合な真実」が数え切れないほど存在しています。
知ると不幸になる、知らないことにして安楽に生きたい、そんなふうに思って「不都合な真実」から目を背けて生きてきた人たちが歴史の大きな部分を、もしかしたらつくっているといってもいいのかもしれません。
なぜなら歴史は、不都合なことを隠す為政者などの勝者によって常に書き換えられる宿命を持っているからです。
われわれ現代人がもっとも正視したくない「不都合な真実」の一つは、地球の環境問題でしょう。
科学文明社会を築いた人間は、そこに生きているだけで自然の資源を収奪し、自然に多大な負荷をかける存在となっています。
もし環境問題を根絶しようとすれば、この文明的な生活を根本から否定しなくてはいけないことになってしまう。
しかし、快適な文明を知ってしまった人間にそんなことはできません。
できることはかなり限られています。
資源エネルギー問題の現況を見て電気を節約するとか、マイクロプラスチック汚染の問題がクローズアップされてきているのを見てビニール袋をスーパーでもらわないようにするとか、エコ問題に意識が向いている人でも地球規模からすれば、残念ながら自己満足の域を出ていないような行動くらいしかできないありさまです。
そんな人たちよりも、安楽な生活を犠牲にしたくないゆえに環境問題を意識しないで暮らす人のほうが現実には多いのは、当然といえば当然です。
そして前者と後者を比較した場合、環境問題に負荷をかけている度合いは実際のところ、それほど大きな違いはないのかもしれません。
後者のなかには、前者は後ろめたい気持ちを持っていることを免罪符にして現代文明の恩恵を享受しているのではないか、それは欺瞞ではないかと批判する人もいるでしょう。
でも人間としては私は前者のほうが正しい方向に向いていると思います。
文明社会の恩恵に浴しながら環境問題に取り組むことは、避けがたく矛盾をはらみます。
だからといってそこから目を背けていては、一歩も前進することはありません。
自然はダメージを被っても、自ら回復する力を持っているといいます。
しかしながら、一部の専門家によれば、現在の自然破壊はもはや回復できない危険域まで達しつつあるといいます。
地球規模の大きな目で見れば、環境破壊の問題は手遅れなのかもしれませんが、それでも方策を尽くせば、問題の進行スピードを遅くすることはできるはずです。
環境問題に関しては、全人類で「知る不幸」を受け入れるべきだと思います。
環境問題に限りません。
いまの社会が抱えるさまざまな問題は、社会構造の複雑化に伴って、ますます複雑になっていく様相を見せています。
あまりにも問題が多すぎて、いちいち目を向けていられないと思う人もたくさんいるでしょう。
しかし、これは目をつむるとまずいんじゃないか、自分たちの生活に巡り巡って悪い影響を及ぼすんじゃないか、おかしいものはおかしいと声をあげるべきではないか、そう感じるものがあれば、面倒だなと思っても逃げずに知ることが大事だと思います。
「知る不幸」になりそうなものを知らないままでいると、もっと不幸なことになる。
いまはせめてそう考え、準備をしておかないと、取り返しのつかない時代に突入してしまう時期が近づいてきているように感じます。
人間の本性からいえば、見たくないものには蓋をしたい。
しかしながら、そのツケは必ず人間に回ってきます。
真実を見る勇気こそ、ロボットや動物とは違う人間の証しであることをわれわれは忘れてはいけないのです。
あとがき 今われわれは、過去と 21世紀という未来の直中にいます。
いや、われわれはすでに未来への一歩を踏み出しているといえます。
今までお話ししてきたように、われわれ人間に流れ、本性のもとになっている「動物の血」はこれからも消えることなく、何百年と続くことでしょう。
過去何千年とそうであったように、 21世紀のこれからも、われわれの本性は変わることはないでしょうし、知識や技術も今まで同様、進歩し続けるはずです。
人間の本性が望ましい方向に制御されていくことは、人間社会の未来にとって大きな〝光〟であらねばならないし、その中で日本の大問題である人口減少と高齢化は少しずつ解決され、社会も進化していくと私は信じています。
世界の中で、その先陣を歩くのはわれわれ日本人でありたいと思いますし、そのためには何よりも、人間の本性を少しでも克服する努力をしなくてはなりません。
われわれは人間の心と頭の未熟さを自覚し、「知識のなさ」と「心の傲り」を自覚する〝とば口〟に立っているといえるのです。
世界各国では争いが絶えませんが、われわれは無駄としかいいようのない武器に投資するのではなく、世界最大の資源である〝人間〟に、最大の投資をしなくてはいけません。
とくに 21世紀の未来をになう若者たちの心と頭に最大限のお金を投資し、われわれ人間の本性の悦楽のためでなく、若者と日本の未来のために皆さんと共に力強く一歩前へ進みたいと思っています。
最後になりましたが、幻冬舎の四本恭子さん、 木真明さん、校閲等でご協力してくださった元日本政策投資銀行の高橋達雄さんに御礼申し上げます。
二〇一九年五月丹羽宇一郎
著者略歴丹羽宇一郎にわういちろう公益社団法人日本中国友好協会会長、福井県立大学客員教授、伊藤忠商事名誉理事。
一九三九年愛知県生まれ。
元・中華人民共和国駐箚特命全権大使。
名古屋大学法学部卒業後、伊藤忠商事(株)に入社。
九八年に社長に就任すると、翌九九年には約四〇〇〇億円の不良債権を一括処理しながらも、翌年度の決算で同社の史上最高益を計上し、世間を瞠目させた。
二〇〇四年会長就任。
内閣府経済財政諮問会議議員、地方分権改革推進委員会委員長、日本郵政取締役。
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