今日は、多くの人々が、とかく、誤解に陥りやすい、運命というものに対する正しい悟りを開こう。
こうした事実を知っているのと知らないのとでは、どのくらい人生を有意義にするか、また無意義にするか分らないという、重大な関係が人生に存在しているのである。
ところが多くの人を見てみると、遺憾千万ながら、人生に対する大切な事柄を、意外にも無自覚である。
むしろ大部分の人は、貴重な人生を漫然として活きている。
今の人達は自分がある程度努力して、この努力が実らないと、それを運命だと思ってしまう。
たとえば病のときでも、一所懸命手を尽くしても治りが遅いと、〝運命〟だと思ってしまう。
あるいは、事業を盛り返そうと一所懸命努力しても、自分の思うとおりにならないと、これもまた〝運命〟だと思ってしまう。
こうして何もかも運命だと、片付けてしまうのだけれども、人間の力では、どうにもしようがない運命というものは、たくさんあるものではない。
自分の思慮が足りないか、あるいは力が足らないかの理由で運命が開けないことを、いわゆるどうすることも出来ない運命だと決めてしまうのは軽率極まりない話である。
運命には二種類あることを知らないのだ。
すなわち天命と宿命というものがある。
天命は絶対で、宿命は相対的なものである。
もっと判りやすくいうなら、天命というものはどうすることも出来ない。
女が女に生まれ、男が男に生まれたのを、女が男になり、男が女になりたいといっても、どうしても、そうはいかない。
これは天命だからである。
この現代に生まれるのも天命なら、昔に生まれたのも天命。
また末の世に生まれるのも天命だ。
これはどうともすることは出来ない。
しかし、宿命というのは、人間の力で打ち開いて行くことが出来るものである。
ところが今の人は、打ち開くことの出来る宿命にぶつかったときでも、それを天命という。
自分の努力が足らないことは棚に上げ、どうにも仕様がない、というのである。
万国の人間の持っている、心の欠点だと思うのは、どこの国に行っても「どうにもしようがない」という言葉がある。
中国へ行ってすぐ、「メーファーズ」という言葉を聞いて何だろうと思ったら、「どうにも仕様がない」という言葉なのだ。
漢字で書くと没有法子と書く。
イギリスへ行くと、「オブライジド」、フランスへ行くと、「セラビー」という。
これらは、いかに凡人凡夫が世界に多いかという証拠である。
繰り返していう。
運命というものには二種類ある。
どうにも仕様のない運命を天命といい、人間の力で打ち開くことの出来るものを宿命というのである。
どうにもしようがないと思うようなことは、よく考えると、自分では仕様がないかもしれない。
しかしその時に、ひょいと自分の心の持ち方を考えてみなさい。
「自分の心の持ち方が消極的だったためなんだな」とわかると、「そうか、積極的な心に振り替えれば出来るんだ」ということに気付くのだ。
それが天風会に入ったありがたさだ。
ところが、こういうことを聞いたことのない人は、人生を活きるのに、安心と勇気と調和などという気持ちなど持っていない。
万事がびくびくと活きている。
口では偉そうなことをいっているが、やたらと迷信に陥りやすく、ただ偶然ということのみを当てにして人生を活きている人が多い。
それでは、くだらない人生だけが結果に来るだけである。
なぜかというと、自分でそういうくだらない状態を、選び出しているからである。
そして結局は、医者のお得意になったり、薬屋のお客になったりと、引き受けなくてもいいようなことを引き受けているのである。
そしてもちろん自分ではそれに気がつかない。
自己の無自覚──無自覚というのは人生に対するはなはだ低級の人間をいうが──と、それから神経過敏の心──神経過敏というのは気の弱い人間のことをいう──この二つが人生をくだらない、価値のない、哀れなものにしている。
そして、自分だけが、非常によくない運命に囲まれている人間のように思ってしまっているのだ。
世の中の人々をよく見てみると、よくわかる。
あるいは自分もまた今までは、そのような仲間の一人であったかもしれないということも考えてみよう。
毎日の人生を神経過敏になり、なんとなく不安な気持ちになり、何事に対しても、安心というものを持って、人生を活きている人が少ないという証拠に、文化の世の中に、いまだに易がどうだ、占いがどうだ、拝み屋がどうだ、八卦がどうだ、干支がどうだ……と、馬鹿馬鹿しく下らないことをいっている者が、なんと多いことか。
そういうことをいっている者は自分の胸によく手を当てて少し考えなさい。
文化民族なのか、野蛮人なのか。
アメリカにもこういう諺がある。
Asuperstitiousmanisunderbelowbeastinseason.「迷信深い人間は、さかりのついた動物よりも下等だ」このような人間は、人生うろちょろうろちょろ自分自身のことを自分自身で決定が出来ない人間だ。
自分よりも教養が少ない、自分よりも劣っている、拝み屋や易者のところに行き、運勢や卦を占ってもらうなんて、恥ずかしいと思いなさい。
やれ東の方へ行ってはいけないとか、やれ西の方へ行ってはいけない、とか。
第一、東とか西だとかいったいどこを当てにして拵えているのか。
東西南北いったいどこを起点としてやっているのか。
自分のいるところから右か左か、前か後かを決める方便のために、ただ東西南北があるだけじゃないか。
地球の芯に行ってみなさい。
南極や北極に行けば、磁石の針は南北を指さない。
また、やれ日が悪いの、やれすべったの、ころんだの、と。
第一、一年が約三百六十五日四分の一、それだけかかって、太陽を中心に廻っているこの地球に、日がいいとか悪いとかあるわけがない。
科学的に、もっとスーパーな考え方で人生を考えなさい。
やれ大安がどうだ、友引がどうだ、やれ仏滅がどうだ、などと。
人間が、そんなものを当てにして活きていると思ったら、大違いだ。
日本人だけがそんな下らないことをいっているのだ。
世界には三十五億からの人間がいて、日本には一億しかいないのにだ。
やれ姓名判断がどうだとか、ここへ釘打ってはいけないだとか、やれ畳の数がどうだとか、やれ東北の暗剣殺とか、北の方塞がりとか。
馬鹿馬鹿しいかぎりだ。
考えてみても吹き出すほどおかしなことではないか。
いいですか、ここにいる者はみんな私より若いんですよ。
私がそのようなことを鼻の先にもひっかけないのに、相当な教養を付けた人間がどうしたことか。
中には「科学的にいえばそうかもしれませんが、昔からいっていることを良いとか悪いとか、何も逆らうことはないでしょう」と、変なことをいっている人がいる。
これは迷信を自己弁護している極めて卑劣な言葉である。
そのようなことを考えている人に遠慮なくいおう。
日本人は、昔、頭に髷をつけていたからといって、今も、ちょん髷をつけた方がよいといって、髷つけて歩いたら何というだろうか。
あいつ、仮装行列の〝ハグレ〟じゃないかと思うだろう。
時代遅れの、姿形をしている人があったら諸君は感心するだろうか。
「あれ、クラシックな古典的な人間だねえ」といって尊敬するか。
「何とくだらない、馬鹿馬鹿しい」と思うだろう。
それなのに、肉体的には、そういう流行遅れなことをやらずに、モダンモダンと流行を追いながら、心には、二千年も三千年も昔のことをしている。
つまらないじゃないか。
くだらないじゃないか。
若い人間には特にいっておく。
これからの新しい社会を背負って立とうとする青年男女!断じてそういう下らないことに陥るな。
何が暗剣殺で、何が北の塞がりで、何が大安で、何が友引だ。
やれ、お弔いは友引に出してはいけない。
それなら、生まれるときに仏滅に生まれたらどうするのか。
「今日は仏滅だから、明日は大安だから、生まれるのを明日まで待って下さい」と頼んでも、そうはいかない。
実際、そういうことにカブれている人間を見ると、姿形は人間だけれども、心はチンパンジーにも劣って
いると思う。
家へ帰れば、どんな家にも電気洗濯機や電気冷蔵庫があるじゃないか。
行灯でなく電灯をつけている。
そのくせ、人間をつかまえて、牛だの、馬だの、犬だの、猿だのと。
それでいて、人からいわれたときは怒るくせに、自分でいうときは怒らない。
「あんた何の年?」「あたし、へび─巳─よ」「あんたは?」「あたし、さる─申─よ」そのくせ、「この犬みたいな奴」と人からいわれると、「何を!」と怒る。
人生は須く光明あらしめようではないか。
人生を光明あらしめんがためには、まず正しい運命を作れということである。
そうするには、第一に、宿命を統制して活き、天命に安住することである。
宿命を統制するには、常に正義を実行し、運命を選ぶ法則を自覚することである。
すなわち、正義を実行すると、それが自然と運命を選ぶ法則に合致する。
そして、人間の生命の本質である、霊魂という「気」を汚さぬことになる。
すなわち、正義の実行、すなわち、本心良心の命ずるままに活きることが、期せずして人間を霊の世界に活かすことになるのである。
この間もある会場で、十歳くらいの女の子が無邪気に、「先生、家のお母さん困ったわ」というから、「どうしたの」と尋ねたら、「『今日は日が悪いから修練会に行かない』というの」と答える。
だから「修練会には〝日〟はないよ」といったら、「お隣の拝み屋さんが『今日は修練会の方向は、方角が悪いから、行くのを止めたがよい』といったから行かないんだって……」といったのです。
そして、その日がちょうど〝運命〟の日だった。
皮肉だね。
考えてもみなさい。
ここへ釘打っちゃいけないとか、ここへ畳敷いちゃいけないとか、赤の他人の拝み屋などにいわれて、釘も打たず、畳も敷かずでは不自由を感じないだろうか。
人生は、もっと自由な世界に活かさねば、うそじゃないか。
宇宙真理がいったのならともかく、何とまあ、貴重な自分の人生を、他人にかきまわされ、自分自身の自由を拘束されて活きているのだ。
とにかく、すべて自分の力では出来ないと思うから、そんな、へんなことになってしまう。
自分の心を、積極的にして活きるという方に自分の心を決定しなさい。
そうすればもう、天命なんてものは、極めて僅かしかない。
宿命は、すべて打開していくことが出来る、ということを聞くと、もうすっかりわかったつもりになっているかもしれないけれども、口では積極的といっているが、少しでも心の中に悲しみを感じる心、怒りを感じる心を、長く滞らしている人があったら、その人は消極的なのだ。
静かに我が心に問うてみよう。
それは人間だから、悲しいことも、腹の立つことも、憂いときも、苦しいときもある。
それを感じるなといっているのではないのだ。
今は会社の立派な社長になっている人が、入会して間もない学生時代に、「一日も早く先生のように成りたいです」というから、「成れるとも、わけないよ。
一生懸命に心を積極的にして人生を活きなさい」というと、「ああやっているうちに先生のように成れますか」「ああ、なれるとも」「そうですか、先生のように何も感じないように……」というから、「ちょいと待ってくれよ。
先生のようになれますかというから、なれるよ、といったが、今のお前の言葉は気に入らないねえ。
何も感じなくなるという言葉、それは何かね」というと、「いやあ、怒ることがあっても怒らない。
悲しいことがあっても悲しまない。
つまり喜怒哀楽の情を、先生はご自分の心が少しも感じられないのでしょう」というから、「冗談いっちゃいけない。
俺はお前と同じ人間だぜ。
裸にしてみれば臍は一つしかない。
痛いときは痛い。
悲しいときは悲しい。
腹の立つときは腹が立つよ」といったら、「でも一遍もそういうふうに見えません」というから、「俺はそれにこだわらないからだ。
走る車の中で、窓外の景色を見ているのと同じで、列車がフルスピードで走っているときに、外の景色を気にしてはいないじゃないか。
外の景色があると思っても眼に止まっただけで、スーッと行き過ぎてしまうじゃないか。
それと同じようにするんだ。
腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。
心を積極的にすることを心がけて、自分の心を汚さないようにするには、気がついたらすぐそれを拭いてしまえばいいじゃないか。
それをお前は、怒ったり、悲しんだり、痛いとか、憂いとかいう場合、それを感じると同時に、握ったら放さない。
それがいけないのだ。
〝感じるな〟というのではないのだ。
感じない人間になりたかったら、墓に入ってしまいなさい。
そうすればもう何も感じない」といった。
「よくわかりました。
私は間違って解釈していました」といった。
実際に感じるからこそ、こういう教えを必要とする。
諸君は、感じる時に自分の方からそれに飛びついてしまうじゃないか。
たとえば脈が少しでも早くなると、心臓麻痺じゃないかと思っていきなり飛び込んでしまう。
ただ単に、病のときだけでなく、麻雀の好きなものは麻雀に、酒の好きなものは酒に、女が好きな者は女に、すぐ飛び込んでしまうからいけないのだ。
必要なものだけを取り入れればよいものを、不必要なものを取り入れているから、心が消極的になるのだ。
どんな場合があっても、心がいつまでも長くひっかかっているのを執着という。
腕の秀でている剣客が、相手の斬り込んでくる大刀を、大刀風三寸、すっとかわしていくがごとく、心を汚さないようにするのだ。
それを悲しまずにおられるか、これが怒らずにおられるか、これが憎まずにおられるか、というように人々は理屈をつける。
第一、考えてみよう。
怒ったり、悲しんだり、悶えたり、迷ったり、苦しんだりしているときに、気持ちがいいか。
気持ちがいいという人があったら、精神病院に入った方がよい。
私は、長く、そこへ滞っているのは嫌いだ。
配給物を取り入れるように、何でも眼前に現われたものをすぐ心に取り入れてしまう。
だから始終くだらない宿命を自分が招き寄せていることになるのだ。
静かに、我が心に「心に憎しみはないか、怒りは、悲しみは、嫉みは、悶えは……」と問うてみよう。
そして、少しでも消極的な気持ちが、心の中にあるならば、それは自分を宇宙霊の力から遠ざけて、くだらぬ宿命を招き寄せる種を蒔いているのと同様の人だ。
宇宙には因果律という法則が厳として存在している。
だから、そういう心持ちでいる人は、いつまで経っても本当の安心立命は出来はしない。
美しくしておくべき心の花園に、自分から汚物を振り撤いて歩いているようなことをして、それを、「天命だ。
あるいは逃げ能わざる、せっぱつまった業だ」などと考えている人があるなら、結局その人は人生を、寸法違いの物指しで測っているのと同じような結果を、作っているようなことになる。
だから、良い運命の主人公として活きていきたかったら、何を措いてもまず、心を積極的にすることに注意深くし、始終自分の心を監督して行かなければならない。
宿命統制にもう一つ必要なことがある。
それは常に、心の中に感謝と歓喜の感情を、もたせるよう心がけることである。
習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。
この心がけが、宿命統制にすこぶる効果があるということがわかるなら、宿命統制ということが、さほど困難でないと悟れることと思う。
まことに、この真理こそ絶対である。
そこで、感謝と歓喜の心で人生を活きるのには、宇宙霊の心を、自己の心となさねばならない。
宇宙霊の心は、絶対積極であり、真と善と美のみである。
感謝と歓喜に満ちた善き言葉と行為は、人生の花園に善き幸福という実を結ぶ種子である。
そして我は今、宇宙霊の中にいるということを忘れないことは、とりもなおさず、神仏、我とともに在りということと同じであるから、それを忘れずに生活するならば、決して心が消極になるはずがない。
したがって宿命は自然に統制されて、我々はしばしば天来の啓示に接し、よく禍を転じて福となすことを得る。
だから、常に最高の運命を招くべく、いかなるときにも、すべてを感謝と歓喜に振りかえるよう、積極的な態度を、心に命じて活きるよう努力しよう。
これが宇宙法則に柔順に従うことになり、またそうするなら、宇宙法則も当然、我々によき運命を与えてくれるに決まっている。
由来、人の感情の中には、清いもの美しいものと、そうでないものとある。
美しくない感情は悪魔と思え。
だから我々はいかなるときにも、美しい純真な感情で、その心の思考を営むようにしなければならない。
否、思考のみならず、言葉も常に美しく表現されるとき、よりいっそうよい結果がくる。
この真理があるから、感謝と歓喜の感情を常に、出来るだけ多く、心にもつように努力しよう。
否、こうした、心持ちをもち、この心持ちで活きれば、大した努力を要せずにその生命によい調和が与えられ、環境も運命も、期せずして良くなるに決まっている。
すなわち、卑劣な気持ち、弱い心持ち、憎み、嫉み、悔みの気持ちや、また怒り、悲しみ、怖れ、という心持ちや言葉は、その人々の血液に毒素を生じ、生理的な不調和をきたす。
このことは、正科の講習会の講演を思い出してみればすぐわかることである。
これは実在意識と潜在意識を、肉体と神経との関係で考えると、当然だと合点されると信ずる。
「すべてのことを喜び、すべてのことを感謝して行く」こういうと、「でも、この世の中に、感謝すべきものなんかありはしません」という人があるかもしれない。
今の人々は、感謝すべきことも、当り前のことだと考えている。
家へ帰れば電気器具はあり、冷暖房機があり、それが感謝すべきことなどとは思いもかけず、当然のことだと思っている。
けれども、少なくとも、昭和二十年に生きていた人は、あの白いお米さえ容易に食べられなかったころに、少しでも白いご飯を見ると、「ああ銀めし銀めし」と言って、飛びついたことを忘れはしないだろう。
しかし今、お昼に白い弁当を食べているときに、「ああ、あの時分には、これを銀めしといったなあ」と思って食べているかどうか。
そんなことを少しも感謝などしないで、昼がくれば飯を食うのが当り前と思っている。
けれども、食べるものがなかったらどうする?そのときに食物があったらどんなに嬉しいか。
感謝に値するものがないのではない。
感謝に値するものに気がつかないでいるのだ。
極論すれば、病になっても、不運になっても、感謝しなさいということだ。
「冗談じゃない、何か貰うのならともかく、病を貰って感謝なんか出来るものか」という人があるなら、その人は罰当りだ。
宗教的に言えば神仏が、哲学的に言えば宇宙霊が、いわゆる大自然が、もっと諸君を活かしてやりたいと思うからこそ、病をくだされるのだ。
「ええっ、もっと活かすために病をくだされる?そんな馬鹿なことがあるものか」と思うかもしれない。
しかし、天に口無し!事実をもって教えたまう!「お前の活き方は、健康を確保する活き方ではない。
第一、お前の心の持ち方を考えてみなさい。
消極的で、のべつ人生を、不安な心の持ち方で活きているではないか。
そういう活き方をしていると、それ、そんな具合に、肉体に故障が起こる。
お前の現在の肉体の活き方は、天理に悖っているじゃないか。
そういう活き方をしているから、そんなふうに成ったじゃないか。
心を切り替えて、その人生に対する心の態度を改めろ」という警戒警報を下されているのが、病だと思ったらどうか。
私がインドに行った時は、まだ、熱が八度五分くらいあって、ときどき、喀血していた時代だった。
毎朝毎朝、起きるのが物憂い。
ある朝、「おはようございます」とインドの先生に挨拶すると、”Hello!Happiestyouareintheworld.”「おお!世界一の幸福者よ!」と言う。
私は腹が立ったので、「あなたは、私を冷やかしているのですか」といった。
すると、「そうじゃない。
俺は本当のことをいっているのだ。
『頭が痛い、熱がある』といっても生きているじゃないか。
まず第一に、生きていることを、なぜ感謝しないのだ。
そんな酷い病に罹っていても、生きているお恵みを考えてみなさい。
そして生きていればこそ、こういうところへ来て、お前の心が、だんだん明るくなり、それにつれて、お前の活き方に対する、すべての欠点が解ってくるじゃないか。
そうしてみると、たとえどんな病があろうと生きているということは何とありがたいことじゃないか」といわれたとき、ああ本当にそうであったなあ、今までは、何と、罰当りな自分だったなあ、とつくづく思った。
それまでは、ただ、他の人を見れば、皆丈夫で、「何も悪いことをしないのに、俺ばっかり、こんな病に罹って、弱い人間になって、何という不運な人間だろう。
この世に神も仏もあるものか」というような気持ちで、あろうことか、あるまいことか、感謝どころか、毎日生きていることが、憂いと思った。
生きてることが憂うつなら、死んでしまえばよさそうなものの、死ぬ気にはならない。
たとえば、事業に失敗したときでも考えなさい。
「俺は運が悪い」と思わないで、「事業をする場合の心構えなり、方法なりに、大きな間違いがあったことを、天が教えてくれているんだなあ」と。
そして、「どこかに筋道の違っているところがあるんだ。
ありがたいことだ。
このままつぶれてしまっても仕方がないのに、生かしておいて下されば、盛り返すこともある」と思うことだ。
諸君はもう凡人じゃないんだから──おだてるわけではない。
凡人は真理など聞きにこないから。
もちろん優れた真人とはいわない。
これから真人になるところだから。
だから、心がけを取り替えて、すべてのことに感謝しよう。
そして、こうして生きていることに対する歓喜の気持ちをもとう。
ただし歓喜といっても厳密にいうと、二種類ある。
肉体的歓喜と精神的歓喜である。
これは要するに、原因的事実からの名称である。
肉体的歓喜も人生に必要なものではあるが、本質的に比較すると精神的歓喜の方が遥かに遥かに高い価値をもつ。
だからこそ、一番よいのは、こうやって毎日毎日修練会で限りない法悦に咽んでいる気持ちである。
これが日常でなければいけない。
修練会が終わって、また元の凡人に返っては、何もならない。
これからの毎日を、修練会の毎日のように、喜びと感謝で活きるようにしよう。
実際、精神的歓喜こそは、自己の大本体に立ち帰り、宇宙霊と合致しようとする順序の第一であり、そして宇宙霊は、歓喜に溢れる人々にのみ恵みを与えたまう。
そして精神的歓喜は、その最大最高なるものを〝功徳の布施〟という。
〝功徳の布施〟とは「喜びを頒つ行為」のことだ。
もっと分りやすくいえば、親切と公平と歓喜の気持ちでの一切の行為である。
それがとりもなおさず〝功徳の布施〟である。
心というものは、人の生命と宇宙霊とのハーモニーという調子を合わせるダイヤルである。
そして、そのときの歓喜と感謝の情は、人生の平安を讃美する音楽である。
要するに、造物主と人間との一大調和を作る秘訣は、実にこういうところにあるのである。
この真理から考えると、感謝と歓喜の感情は、宇宙の創造作用と合流する神聖なものだといえる。
反対に、汚い感情や、消極的な心持ちは、破壊を楽しむ悪魔の心持ちと同様と思うがよい。
感謝と歓喜の感情は、宇宙霊に正しい力を呼びかける、最高にして純なる合図ともいえる。
否、それは、我々の運命や、健康や、成功などを建設し、または成就してくれる、造物主の力の流れを、命の中へ導き入れる〝筧〟のようなものである。
だからこそ、何事にも感謝せよ、歓喜せよというのである。
そうすることにより、新しく生命を更生する力を、宇宙霊の生命の中から、自己の生命の中へ誘導することになる。
ところが、こういう真理を自覚していない人は、何事に対しても、常に不平や不満を心に持って、自分の心持ちで、人生を陰鬱な暗い世界にしている。
反対に、この大真理に目覚めると、常に恬淡明朗、潑剌颯爽として、何事も感謝と歓喜で応接し、人生を輝かしく光明化する。
いったい、こういう貴重な真理に無自覚なのは、あまりにも人生を物質主義で活きているからである。
物質主義で活きると、自分では気がつかぬかもしれないが、どうしても人生が物質的法則に縛られることを余儀なくされるものだ。
すると、どうしても何事にも、足らぬ足らぬの悩みをのべつ感じ、常に、いい知れぬ不平と不満とに心が燃える。
同時に、そういう人はとかく、依頼心のみが熾んに燃え、価値のない迷信や陳腐な宿命論に自然と心酔し、果ては人生の安定を失い、うろうろと少しも落ち着きを感じない人生に活きることになる。
「人生は心一つの置きどころ」繰り返していう。
どんなことがあっても、迷信に陥っちゃいけない。
迷信というのは人間として恥ずかしいことだ。
迷信という文字を見て、その文字を何となく気高く感じるだろうか。
真理を自覚している天風会員が、迷信に陥ったなら、仁義礼智信の道徳を説いている君子が、泥棒をしたのと同様である。
さあ、今日からは良き運命の主として活きていく準備として、何事に対しても感謝し、歓びの気持ちをもって、人生に活きていこう。
それには、閻魔が塩をなめているような顔をしてはいけない。
男も女もニコニコ微笑みを顔にたたえよう。
ニコニコして馬鹿にされるのなら、馬鹿にさせとけばよい。
女房が尻の下に敷きにかかったら、自由に敷かせてやりなさい。
そうすると女は敷かないものである。
敷かせまい敷かせまいと百方抵抗するから敷かれてしまうのだ。
大山鳴動し来るとも、ニッコリ笑っていられるような人間が欲しい。
それくらいの強い心を持ちなさい。
私は天風会員の中から、必ずそういう人間が出ることを確信している。
一生は、何百年生きたとしても、二度とは来ない。
そう思ったならば、せめて生きている間だけは、どんなことがあっても、ニコニコ笑って行こうではないか。
つらいこととか、悲しいこととか、苦しいこととかいうのは、自分の心で決める評価なんだから。
つらいことがあっても、「ああ嬉しい!こうして生きていられる!」と思ったら、ニコニコして暮していけるじゃないか。
殺されるよりいいじゃないか。
私はそういうふうにして、自分自身を作り上げる序の口とした。
「痛いといって、病が治るかい。
つらいといって、つらさがなくなるかい」と私はインドでいわれた。
「ああ今日は熱があると言って熱が下がったかい」「なるほどそうだ」と思っていると、「それを、自分が人に知らせて歩いて、人までそんな気持ちにさせて、いい気持ちなのか」といわれた。
なるほど、よく考えてみれば、子供でも知っていることを、大人になった私はわからなかったのであった。
「自分の気持ちを、自分自身で、もっとにこやかにしたらどうだい」といわれたのだ。
本当に、自分の気持ちの持ち方なんです。
だから、毎晩の観念要素の更改は真剣にやりなさい。
そうすると、潜在意識の中の観念要素は、無条件に同化し暗示感受習性が働いて、連鎖反応を起こしてくるはずだ。
ちょうど筆を洗った真っ黒なコップの水が、水道の蛇口のところに置いておくと、ポタリポタリと水が落ちて、一晩の内に綺麗になってしまうだろう。
連鎖反応というのはあれと同じだ。
だから、難しいことではない。
講習会のときに習った方法と、安定打坐法や、プラナヤマ法(注─活力を吸収する方法。
)を、折にふれ時にふれ、実行しなさい。
為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬはおのが為さぬためなりやらなければ、出来やしない。
だから、折にふれ、ふっと安定打坐に心を向け、時あるごとに活力を吸収し、そして自分で肉体を鍛えていって、心をしょっちゅう綺麗にする、このことを忘れないように心がけ、実行しよう!運命の誦句を与える!誦句の中から、耳に響いてくる言葉を、鵜の真似する烏みたいに、棒読みに読んだんでは駄目だよ。
よく聞きなさいよ!運命の誦句およそ宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれると同時に、人の生命の上に迸り出でようと待ち構えている。
考えてみよう。
これを宗教の方でいえば、「神や仏は、人間が本当に現在を、あるがままに、感謝して活きている人間には、限りなきお恵みを与えたまう」ということだ。
だから、平素できるだけ何事に対しても、感謝と歓喜の感情をより多く持てば、宇宙霊の与えたまう最高のものを受けることが出来るのである。
これは、あらゆるすべての宗教も、同じ主張をもっているのである。
否、宗教がもっているんじゃない。
宇宙真理がそうなんだから、宗教がそういうふうにいっているのだ。
かるがゆえに、どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、雀躍だと、勇ましく潑剌と人生の一切に勇往邁進しよう。
聞いていても、うずうずして来るはずだ。
この文字のとおりにすればいい。
それを毎晩の観念要素の更改のときに、そういう気持ちになったらいいのだ。
私は毎晩の寝がけに、「今日一日、本当にありがとうございました。
本当に嬉しく、ありがたく、これからやすませていただきます」鏡を前に置いて、顔を写して、じいっと顔を見て、「お前は信念、強くなる!」と一言いって、床の中に入る。
そして、「今日一日、〝怒らず、怖れず、悲しまず〟を実行したかどうか」「〝正直、親切、愉快〟に人生の責務を果したかどうか」少しでも自ら省みるところがあったら、「明日は、今日よりも、もっと立派な人間として活きるぞ」ということを心に描く。
そして、いかなることがあっても、喜びを感じ、感謝を感じ、笑いを感じ、雀躍して喜ぶ気持ちになって、その一刻を過ごすということが、何十年来の私の習慣である。
そして、朝起きると、まず、第一に、ニッコリと笑う。
もう、くせがついているから、眼が覚めるとニッコリと笑う。
わざわざニッコリと笑わなくても、ひとりでにニッコリと笑う。
そして、「今日一日、この笑顔を壊すまいぞ!」と自分自身に約束する。
ふたたびは来らんものを今日の日はただほがらかに活きてぞたのし悲しくばあす悲しまめ今日の日は光うるおしく吾れを照らすを明日という日は、永久に来ないから、こういったのだ。
諸君は、今夜、寝て、起きれば、明日が来る、と思っているだろう。
寝て、覚めて、明日になってごらん。
明日が、今日になるから……。
だから、明日という日は、日向の影法師と同じで、いくら追いかけても摑まらない。
だから、悲しくば明日悲しまん……。
明日悲しもうと思って、翌る日、目が覚めると今日になるから、また明日になる……。
人おのおの運命に活きる人世なれば心おおらかに過ごさんものをこれを自分で、歌に作っているだけに、自分でこれを実行している。
これは、ほんの瞬間の自分の心の持ち方だ。
瞬間、消極的なことは、心の中に入れないことだ。
しかし入れないように頑張ると、心の中で戦争しなきゃならないから、ふっといなしてしまえばいいんだよ。
新幹線の列車に、まともにぶつかれば、粉々になるが、瞬間、ヒョイと、身をかわせば、列車は、すうっと通り過ぎてしまうだけだ。
結局は、相手にしなければいいんだ。
さあ!どんなことがあっても喜びだ、雀躍だ、という人間になれるんだからなろうよ!なれるという信念で甦ろう!さあ!一緒に誦句を合唱しよう!
運命の誦句およそ宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれると同時に、人の生命の上に迸り出でようと待ち構えている。
だから、平素出来るだけ何事に対しても、感謝と歓喜の感情をより多くもてば、宇宙霊の与えたまう最高のものを受けることが出来るのである。
かるがゆえに、どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、雀躍だと、勇ましく潑剌と人生の一切に勇往邁進しよう。
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