第六章自分を追い込んで、やっとできるようになったんです
[ドラさんの宿題]不完全な自分をそのまま抱きしめて、自己受容する
東京駅丸の内近辺には、スーツが不似合いな童顔の新入社員が群れをなして歩いていた。
彼らと同じように、お堀端の桜もまだ二分咲きだ。
四月一日の朝はすべてがみずみずしく感じる。
ボクは朝の寒気に体を震わせて、ビルの門をくぐりエレベーターに乗った。
「おはようございます!」フレッシュな気持ちで、いつもより三割増しの大きな声で挨拶をしてから席に着いた。
すると、朝一番でリカがドラさんへ向かって大声を出している場面に出くわした。
「ドラさん、どうしたんですか?その、おでこのたんこぶ!」リカは同意を求めるようにボクの顔を見て、再び絶句した。
「リョウまで……。
どうしたのよ、そのオイワさんみたいに腫れたまぶた……」ドラさんはいつものクリクリまなこをキョロキョロさせて、両手の平を水平に掲げ、肩をすくめて見せた。
ボクとドラさんは揃って大笑いした。
ははは、はは。
「リョウ、ちょっと、ちょっと。
こっち来てよ。
早く」眉間にしわを寄せたリカに引っ張られてボクは給湯室へ移動した。
内緒話をするときによく使う場所だ。
窓から真っ白な太陽の光が差し込んでいる。
朝早く、暖房がまだ効いていない給湯室はひんやりしていた。
ボクはリカに問われるままに昨晩の話を正直に伝えた。
表彰式会場でボクがいじけてドラさんに居酒屋へ連れ出されたこと。
そこでドラさんから昔話を聞かせてもらい、自分に重ね合わせたこと。
ボクは、自分の成績が悪いという「機能価値」の問題を「存在価値」と、ごちゃ混ぜにして、自分自身の人格までも否定してしまっていたこと。
どんなに「機能価値」が低くてもそれは「存在価値」とは何の関係もないこと。
年収一千万円のヘッドハントが来ているツヨシと年収三百万円しか稼げないボクは「機能価値」では異なるけれど「存在価値」では差がなく、どちらもかけがえのない存在であること。
リカに話しながら、ボクは再び母のことを思い出して鼻の奥がツンとなった。
いかん。
もう十分まぶたが腫れるまで泣いたじゃないか。
ボクは昨晩、部屋に帰ってから一人、自分の感情をすべて吐き出した。
悔しかったこと。
切なかったこと。
さみしかったこと。
自分のネガティブな感情にフタをせず、「否認」「抑圧」「歪曲」せず、そのまま解放したら、まるで子どもみたいに泣けてきた。
あんなに泣いたのは小学生以来ではなかろうか。
翌朝、冗談みたいにまぶたが腫れたけれど、そんなことはどうでも良かった。
人目なんて気にしない。
かっこ悪くてもいい。
なぜかそう思えたのだ。
「そんなことがあったの……」リカがうなずいて続けた。
「機能価値と存在価値か……。
私もリョウと同じく、ごちゃ混ぜにしていたかもしれない。
『しょせん、私はアシスタント。
私なんていてもいなくてもおんなじ』そんな風にいつも感じているもの」そんなことを考えていたのか……。
ボクは驚いた。
リカの横顔はさびしそうで、ボクまで胸が苦しくなってきた。
気がつくとボクはリカを勇気づけようと余計なことを口走っていた。
ドラさんに勇気づけられたのと同じセリフを伝えたのだ。
「リカ。
アシスタントはとっても大切な仕事だよ。
ボクたち営業は感謝しているし、リカは本当にかけがえがない素晴らしい存在だよ。
ボクはキミが大好きだよ」ハッ。
なんていうことを言ってしまったんだろう。
ドラさんと同じ言葉を使ってから、ボクは気がついた。
これではまるで愛の告白ではないか。
頬が熱くなっているボクに気づいているのかいないのか、リカは少し嬉しそうな顔で「ありがとう」と言ってうつむいた。
「コーヒー、コーヒー、朝コーヒー」鼻歌まじりに歌うドラさんの声が聞こえると思ったら、もうそこにドラさんがいた。
「おや、リカとリョウ君じゃないか。
どうしたんだい、こんなところで。
もしかして、二人はあっつあつぅの、あっちっちぃ……」両手の人さし指同士をくっつける古いジェスチャーと共にニヤニヤ笑うドラさんに、ボクとリカは同時に「違います」と否定した。
そしてあわててボクは言い訳をするように、リカに何を話していたかをドラさんに説明した。
「ドラさんのお陰でボクは気づきました。
今までボクは『機能価値』が発揮できないとすぐに『存在価値』までも自己否定していました。
そして挽回しようと自分をむち打った」「それはまるで『ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいるようなものだ』と改めて気づきました。
『豚もおだてりゃ木に登る』でしたね。
勇気が満たされれば人は放っておいても良くなろうと努力する。
それを忘れていたんです。
本当にありがとうございました」ドラさんはまたもやいつものポーズをした。
ピストルを撃つジェスチャー。
親指を立てるジェスチャー。
まるで声が聞こえるようだ。
「ビンゴ!バキューン!」そして、嬉しそうに口を開いた。
「リョウ君、リカ。
二匹の猿の話をしよう。
一匹はお腹がぺこぺこで目が血走っている。
その猿に簡単な仕掛けのえさ箱を与える。
いくつかのボタンを押すとえさがもらえる。
飢えた猿は必死にえさを取ろうとして、焦って何度も間違い、うまくえさを食べられない。
もう一匹は適度にえさをもらっていて飢えていない。
その猿はゆとりをもってボタンを押すから、たくさんえさをもらうことができたという話だ」「『機能価値』と『存在価値』をごちゃ混ぜにして自己否定していると飢えた猿になる。
認めてほしい、愛してほしい、と飢餓状態になる。
すると、余計にうまくいかない」「日頃から、自分を認め受け容れることで心にゆとりが生まれて、持てる力を発揮できるようになる。
どんなことがあっても、自分の『存在価値』は揺らがない。
そう思えるほうが『機能価値』までもがうまくいくようになるんだ」「『存在価値』を満たせば『機能価値』まで満たされるようになる。
決して逆じゃない。
売上をあげたり、会社からの評価をあげて『機能価値』を満たしてから『存在価値』を高めるんじゃない」「そんなことしなくても十分既に『存在価値』があることに気づくことなんだ。
キミたち二人は何もしなくても十分素晴らしいんだよ!」そう言って、ドラさんはチンパンジーの真似をして「ウキー!」と叫んだ。
この人はいちいちジェスチャーをしないと話せない人種らしい。
ドラさんの話を聞きながらボク以上にうなずいているリカを見て、ボクはリカが実はさみしかったんだと気づいた。
これからは、もっと感謝の言葉を伝えたいな。
ボクは思った。
ドラさんが続ける。
「『機能価値』と『存在価値』をごちゃ混ぜにしている限り、心に平穏は訪れない。
ピラミッドの頂上にいる人と下で支えている人を考えてごらん。
一番下の人
は上を見てジェラシーを感じて心が揺れ動く」「でもね、一番しんどいのは一番上の人だ、とアドラーは指摘している。
『下に落ちたくない。
抜かれたらどうしよう。
一番でなくなったら自分には価値がない』そう思って地位を守ろうと、下の人より余計に心が揺れるのさ。
人と比べる。
つまり、上下、優劣でものごとを考えている限り、永遠に心に平穏は訪れない。
これをアドラー心理学では『縦の関係』と呼ぶんだ」「そうではなく『横の関係』で考える。
誰もが一人ひとりかけがえのない『存在価値』を持っている。
そう考えるほうがものごとはうまくいくんだよ」ボクはドラさんの言葉を聞いてハッとした。
そういえば。
ランキング一位で表彰されたツヨシ。
あいつはいつも、ものすごい形相で仕事をしている。
まだ二十代なのに眉間には深いしわが刻み込まれている。
下に落ちる恐怖。
彼もそれを感じているのかもしれない。
「まぁ、立ち話も何だから、そこのベンチに座らないか」ドラさんに促されてボクたちはエレベーターホールのベンチに腰掛けることにした。
ドラさんが真ん中。
両脇にリカとボク。
ドラさんだけ床に足が届かず、膝から下をぶらぶらさせている。
ボクはツヨシの顔を思い浮かべてボーッとしていると、リカが突然大声をあげた。
「ドラさん、でも。
私はこれまでずっと、ドラさんの教えと逆のことをやってきました。
ダメな自分を責めて、むち打って、それでようやく人並みに頑張れるようになったんです」「そんな私が『存在価値』なんかで自分を甘やかしたら、今よりもずっと悪い昔に戻ってしまうような気がして恐いです。
自分を追い込むことでようやくできるようになってきた、という私の成功体験は何だったのでしょうか」ドラさんはニコニコと笑いながらボクの目を見た。
「ほら、リカもキミと同じだ。
自己否定こそが成功の秘訣だと勘違いしているんだよ」ドラさんの顔にはそう書いてあった。
そして、これまでボクが考えてもみなかったことを教えてくれた。
「リカ。
いいかい。
人は記憶をねつ造するんだ。
アドラー自身もねつ造している自分に気づいたと後に述べているんだよ。
彼は子どもの頃に体が弱く臆病で自信がなかった。
だから小学校から家に帰る途中の墓地が恐くて恐くて仕方がなかったんだ」「そこで彼は意を決して、一人で肝試しをすることにした。
彼は勇気を振り絞って何度も墓地の中を行ったり来たりして、恐怖心を克服することに成功した。
やった!できた!そんな話を友人にしたんだ」「すると、幼なじみの友人は皆口を揃えてこう言ったんだ。
『アドラー。
学校の近くに墓地なんてなかったよ』。
つまりこういうことだ。
人は記憶をねつ造する。
自分に都合のいいようにね」へぇ。
そんなことがあったのか。
たしかにそうかもしれない。
では、ボクたちがねつ造している記憶とは何だろう?ドラさんはニヤリと笑って続けた。
「いいかい、リカ。
自分にダメ出しをして追い込んで成長する厳しい物語と、人からほめられて調子に乗って成長する楽チン物語。
いったい、どっちがカッコイイ、と思う?」リカは即答した。
「厳しい物語のほうです」「そう。
そのほうがカッコイイだろう?もしかしたら、リカは理想の自分、つまり『優越』を感じたいがために、アドラーのように、自分に都合のいいストーリーをつくり、過去をねつ造しているのかもしれないよ」「本当に、リカを認め勇気づけてくれた人はいなかったかい?リカを励まして『存在価値』を満たしてくれた人はいなかったのかい?」「あっ……そういえば……」リカは、既に会社を辞めてしまった昔の先輩の話を教えてくれた。
大切な伝票でミスをしたときも、システム入力の仕方を中々覚えられなかったときも、いつも笑って辛抱強く教えてくれたという。
「リカは頑張り屋さんね。
急がなくてもいいのよ。
少しずつ覚えていけば。
ほら、もうこんなにできるようになったじゃない。
すごいわ」いつもそう勇気づけてくれたという。
「ドラさん。
私、もしかしたら、先輩に勇気づけられて、それで少しずつ自信がついて、楽しくなって、調子に乗って成長してきた、かもしれない。
楽チンな物語。
そっちのほうが正しいかも。
いや、絶対にそうよ。
私『おだてられて木に登って成長した』。
うん。
間違いなくそっちです。
でも、ドラさんに指摘されるまでまったく気づきませんでした」ビンゴ、バキューン!出た。
ドラさん得意のジェスチャーだ。
ボクはすっかり慣れたけど、リカは驚いて口を開けたままだ。
きっと心の中でつぶやいている。
古い、と……。
「リョウ君、リカ。
そろそろ仕事に戻らなくちゃならないな。
最後に、今まで話したことをまとめよう。
この言葉を覚えておくがいい。
『自己肯定』ではなく『自己受容』。
いいかい『自己肯定』と『自己受容』は違うんだ」「『自己肯定』には理由が必要だ。
そして多くの場合、その理由は『機能価値』から引っ張ってくる。
売上ランキング上位という『機能価値』を発揮している。
だから『自己肯定』する」「つまり『自己肯定』とは条件付き肯定だ。
だから売上ランキング上位から滑り落ちて条件がなくなってしまうと『自己肯定』ができなくなる。
まさに『機能価値』と『存在価値』をごちゃ混ぜにしてしまう考え方、それが『自己肯定』という考え方だ」ドラさんは両脇に座るリカとボクが十分に惹き付けられているのを確認するかのように間をあけて、二人の目を交互に見た。
そして、よし、とつぶやいてから続けた。
「一方で『自己受容』に条件は不要だ。
弱さや不足がある、不完全な自分をありのまま受け容れる。
それが『自己受容』だ。
『人間だもの。
弱さもあるさ。
できないこともあるさ。
失敗もする。
でも、そんな自分をそのまま抱きしめよう』そうやって、飾らず自分を受け容れる。
それこそがつまり『存在価値』を認めるということにつながるんだ」「リカ、リョウ君。
キミたちに必要なのは『自己受容』だ。
『不完全を認める勇気を持て』アドラー派のソフィー・ラザースフェルトの言葉だよ。
ボクの大好きな座右の銘さ」そして、ドラさんはうっとりとした表情で両手を交差させて自分の胸をそっと抱いた。
半分目を閉じたまま、上半身をゆっくり揺さぶりながらエレベーターホールを歩いていく。
まるで目に見えない赤ん坊を抱っこしているみたいだ。
おでこのたんこぶは腫れたままだけれども、その表情はとても落ち着いていた。
と、すぐその脇を書類を抱えた他部署の社員が猛ダッシュで駆け抜けていった。
でもドラさんは構わずそのままだ。
うっとりと、ゆったりと自分を抱きしめている。
ボクとリカは目を合わせて、うなずいた。
そして笑った。
二人ともお互いがハッピーな気持ちに包まれていることがすぐにわかった。
「そろそろ、デスクに帰るよ。
ボクたちがいないからきっと、みんな心配しているよ」そう言いながらドラさんはまだ自分を抱きしめたまま歩き始めた。
リカがドラさんの真似をして自分の胸を抱いた。
そこに暖かな白い太陽の光が差し込む。
ボクにはリカがまるで教会の中の聖母のように見えた。
ボクも真似をする。
ボクたち三人はうっとりとした表情で自分の胸を抱きながらデスクへと向かった。
途中、何人もの人が変人を見るようにボクたちをじろじろと見た。
でもドラさんはお構いなしだ。
そしてボクに向かって大げさにウインクをして見せた。
「変人でもいいさ。
ボクは不完全な自分をそのまま抱きしめるよ」ボクたちは笑い声をあげながら、それぞれの胸をそっと抱いて、ゆっくりとデスクへと歩いて行った。
[ドラさんの宿題]不完全な自分をそのまま抱きしめて、自己受容する
[コラム]自己肯定と自己受容第一章で学んだ「正の注目」と第二章で学んだ「リフレーミング」は共に、ネガティブな見方をポジティブに変える技法です。
これらは先の定義に従えば、自己肯定のための技法と言えるでしょう。
自らをネガティブに意味づけることを改めて、ポジティブに意味づけ直す。
それはすなわち「条件付きの自己肯定」であるわけです。
一方で、第五章で学んだ「存在価値」を認める、ということは、「不完全を認める勇気」すなわち、欠点も含めたありのままの自分を受け容れる「無条件の自己肯定」=「自己受容」がなくてはできないことがおわかりいただけたのではないでしょうか。
本章において、主人公のリョウ君はそれをドラさんから繰り返し教えられ、深く心に刻むようになっていきます。
プロローグにおいて、本書が「勇気」と「共同体感覚」の二軸により設計されていると申し上げました。
全十二章で構成される本書の前半がこの六章で終了します。
リョウ君は第一章から第六章にかけてのドラさんの教えにより「勇気」を身につけてきました。
さあ、いよいよ次は二つ目の軸「共同体感覚」への挑戦です。
リョウ君は「勇気」を持ってさらに新たなチャレンジを進めます。
もちろん、そこには、さらなる大きな試練が待ち受けているのですが……。
では、いよいよ後編を見ていくことにしましょう。
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