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第六章美意識を生活に活かす

目次

「アートの遺伝子」の冒険

さて、そろそろこの本も終わりに近づいて来たので、愈々この本で私が皆さんにお伝えしたい、「アートの遺伝子」に関しての話を始めよう。

本書の前半では、私と云う個人が両親や環境から授かったと云えるアートの遺伝子に就いて述べたが、此処からはより大きな、社会や歴史と云うレヴェルで見た、アートの遺伝子の話である。

此処でもう一回だけおさらいしたい。

「美術品」とは、①人を介さずには存在しない:自分ひとりで山奥に閉じ籠もり、一切人に会わずに絵を描き、それを誰にも見せずに自分だけで悦に入り、自分が死ぬ時に全て焼き捨てて灰にして仕舞う。

これを美術品とは呼ばない。

②来歴が必ず存在する:美術品には必ず何らかの「来歴」が有る。

それはその作品が誕生して以来、誰かによって意図的に伝えられて来たからである。

③人は死ぬが作品は残る:如何なる美術品も何時かその作者は世を去り、持ち主も次々と死んで行く事に為るが、それでも作品は残り、次の持ち主へと引き継がれる。

そう、そしてこれ等の事を考えると、私には「美術品」が恰も「遺伝子」の様に思えて来るのだ。

人間の肉体である「所有者」=「来歴」を何十、何百、いや古代美術で云うならもしかしたら何千と云う数を経て、それが今美術館や博物館、コレクターやもしかしたら貴方の家に在ると云う事実。

それは貴方自身が今存在している事実と符合する。

そして時にはまるで「美術品自身の意思」が次の所有者を選んで残って行くのではないか、と思える程に、作品が「行くべき場所」に移動する場合も有る。

これも何処か遺伝子的な「必然性」に満ち満ちている気がするし、或いは数多の美術品の中で、目利きが選び続けた良い美術品が選択されて残って行く、と云うのも、何か有機的な感じがしてしまうのだ。

千利休の直系で、僧籍も持つ武者小路千家家元後嗣の千宗屋氏の言葉に拠ると、仏教では伝統は「伝燈」とも書き、手燭の蠟燭に点いた燈り(教え)を、師から弟子へと手渡して行く意味が有ると云う。

そして我々にはそれと同様に、「遺伝子」=「過去に作られ、今迄残されてきたアート」、また「伝統」を更に次世代に繫いで行く責任が有る。

その最も大きな理由は、日本と云う国が長い間大事にして来た独自の文化芸術は、これ迄述べて来た様に「世界」から認められている、如何なる地球上の文明の中でも有数の物である、と云う事、その「世界文化遺産」的日本文化・芸術を守るのは、自然を守るのにも等しいと、私は最近強く思っている。

日本人として「遺伝子」を作る責任

第五章の「一級の美術品は全て永遠の『現代美術』である」の項で述べた様に、如何なる古美術も現代美術である。

と云う事は、もし「現代美術」が「嘗て無かったアート」であるべきならば、素晴らしい古美術品が何千年もの長い年月の間、日本を含めた世界の美術史上にこれだけ生まれたと云う事実は、「〝伝統〟と云う物は、〝革新〟の連続の結果である」と云わねば為らない。

そしてこの「革新」的創造こそが、我々に課された未来的な義務としての、「新たなる遺伝子」を作る事なのである。

日本には「伝統」と云う、如何なるアートに取っても世界に稀な素晴らしい「土壌」が有る。

そしてこの「土壌」は日本独特の「日本古来」+「外来」のミクスチャーによって醸造された物で、嘗て無いアートを生み出す力に溢れていると思う。

「革新」を続ける事は辛く苦しい事だ。

けれども、それが未来の「伝統」や「古典」に為る可能性を思えば、また「遺伝子」たるアートの悠久な存在に比べれば、ほんの一瞬でしかない私達の短い一生で、それをやる価値は十分に有るのではないだろうか?「遺伝子」を守りながらも、この「試み」を諦めずに続けると云う事。

それは生きていく、と云う事と同じだと私は思っていて、生物学的にも昨日と全く同じ自分が存在しない様に、アートや文化、そして世界と共に、毎日ほんの少しずつでも自分を「革新」して行きたい、と私は日々、日本と外国を行き来しながら考えているのです。

「美術品のある部屋」のススメ

日本でも昔は多くの家に、床の間みたいなものがあった。

別にお金持ちでなくても、何と無く掛軸の一本ぐらい、花入のひとつぐらいはあったり、一寸お茶を点てたりと云うのは割と普通だったのではと思う。

また、これは私の持論なのだが、日本の美術品がそもそも「古道具」とか「茶道具」等と呼ばれる様に、実用品の側面を持つ物が多く、前述した様に屛風、硯箱、お茶碗も然り、生活に用いる物に自分達の美意識を注いできた事が、日本美術の特徴だと思っている。

それが近代化以降、特に戦後にアメリカの文化が凄い勢いで流入し、物も空間も考え方も西洋化されていく中で、日本人は嘗ての「美術が身近にある暮らし」から離れていったのではないか。

一方で、日本人は古くから舶来物好きでもある。

例えば、今お金に余裕のある層はそうした西洋製の高級時計や自動車に価値を求める傾向も強いと感じるが、美術品迄は中々リンクして来ないようだ。

ただ、その西洋に於いては、矢張り今も何らかのアートが溶け込んでいる家が非常に多いと感じる。

私はニューヨークに長く住んでいたが、アートフェアでも本当に普通の人が子供連れで訪れる等しているし、例えば廉価のアート作品を自宅に飾ったり、友達のアーティストの作品を置いたりという形で、生活の中にアートが存在している。

翻って日本では今、住宅のリビングでの主役が大型テレビだったりする。

それが悪い事だとは思わないが、アートは暮らしに電化製品がある前から存在してきたと云う事、そして価格の高低によらず「美意識を受け継ぎ、伝えていく」事が出来る物だと云う事が、今こそ見直されるべきと思うのである。

と云っても、何も難しい事は無い。

例えば、本棚の一画や棚と棚の間の空間を使って、本の代わりに好きな絵や写真、置物等を飾ってみる。

或いは花等を活けてみたりしてもいい。

それだけで、即席「現代床の間」が完成し、日常生活で目がホッと一息する空間に為る筈だ。

これは実際に、アメリカの日本美術コレクターが西洋式の自宅に作品を飾る為に実践しているのを私も度々目にしてきた鑑賞の為の工夫である。

より規模が大きく為ると、例えばニューヨークのフリック・コレクションの様に、外国のコレクターでは邸宅をその儘美術館にする事も少なくない。

しかし其処にも、その人の美意識で選んだアートが実生活の中に有る、その事が大きな魅力に為っていると思う。

要は自分の身の丈に合う所から(敢えて云えば其処から少しだけ背伸びし、頑張る位が丁度良いかも知れない)、暮らしに美意識を取り入れると云う事だ。

例えばお茶に親しむにしても、私は確りした茶室で嗜む事だけが唯一の正解で、それ以外は間違いだと云う風には考えていない。

私自身、今の自宅に茶室は無いのだが、台所でお抹茶を点て、普通にソファで友達と一緒によく飲んだりしている。

究極的には、私も人生の最期を迎える頃には、西行の歌に沿って桜の散るのを眺めながら、矢張り床の間が有る和室に掛軸(出来れば《春日宮曼荼羅》)を掛け、気に入ったお茶碗(出来れば井戸茶碗)からお抹茶を飲み……と云う時間を過ごしたい夢が有る。

しかし、率直に云って今、殆どの日本人が西洋的な環境で暮らしている中、和室で桃山時代の茶碗で抹茶を飲むのは不粋な行為だろうか?そんな事は無いと私は思う。

同様に、部屋の此方側に現代美術が飾ってあり、あちら側には仏像が立つ空間が有っても、其処に暮らす人の美意識が貫かれていれば、素晴らしい事では無いだろうか。

自分好みの美術品をどう飾るか?

自分で購入した美術品をどう飾るか、と云うのも奥が深い楽しみである。

絵画や版画等の平面作品であった場合、額装と云うのも必要に為る。

購入時に既に付いている物も有るし、自分の趣味で新たに額装する事も有る。

或いは最近の現代美術を観ると、額を全く付けない絵も沢山あり、キャンバスの側面にも絵が連続してあったりして、其処迄が作品だと云うケースも有る。

自分好みに額装をしたい場合、基本的には額装屋さんに依頼するのが良いだろう。

私なら、自分の趣味嗜好からでもあるが、現代美術系の額装屋をお勧めする。

センスの有る良い担当者がきっと居るだろう。

現代美術の場合、基本的には、額装はシンプルであればある程いいと思う。

例えば白木の額等、作品をなるべく邪魔しないものがいい。

一方、掛軸等には「表具」と云うのがあり、この表具の組み合わせと、中身の作品との兼ね合いも肝要に為る。

その作品をより個性的に見せ、引き立てるテクニックも其処には必ず有るので、これはその道のスペシャリストである表具師か骨董店主に相談する方が安心だろう。

しかし勿論、額装にも自分なりの遊び心を入れて良いと私は思っている。

例えば、私は自分の持っている明治期浮世絵師国周のポップな役者絵を、ベルベットのマット(作品と額縁の余白を埋めるパーツ)に載せて、其処に洋画でよく使うような装飾的な金色の額縁を、真っ黒く塗って入れたりしている。

これは何とも云えぬデカダンでキッチュな感じに為って、自分でも相当気に入った額装と為った。

これもその人その人の美意識次第だと云う事が出来るが、そうした飾り方に就いて考える際も、美術館と云うのは良い処だと思う。

伝統的な良い美術館、或いは最先端の美術館に行くと、各々見せ方も額装も異なる思想で考えられていて、その点でも勉強に為る。

個人で自宅等に作品を飾る際は、壁紙やインテリア等との相性もある。

最近の住宅では大概の壁は白くなっているので相性をさほど気にしなくても良いが、外国に行くと今でもウィリアム・モリス(一九世紀イギリスの詩人・デザイナー)の様な壁紙だったり、凄く強力な色な壁だったりする。

でも、そうした個性的な壁にもこの絵は凄く合う、と感じる事も有るので、それは矢張りセンスの問題なのだろう。

少し視点を変えると、アートと暮らすと云う事に於いては、住環境に於ける作品の飾り易さ、と云うのもひとつ関係してくると思う。

例えばニューヨークのアパートに暮らしてみると、彼の地は地震が殆んど無いので、焼物、彫刻等を平気で色々な処にディスプレイ出来る。

これは楽しかった。

また、絵を飾る際は広い壁が有ると良いのだが、そう云う時、壁の中心を少し外して絵を一枚掛けるセンスの人と、三枚掛けたくなって仕舞うセンスの人、これも色々だろう。

が、私の考えを述べるなら、矢張りアートは出来るだけシンプルに見せ、作品同士を近づけ過ぎない方がいいと思っている。

複数持っている人は、それを偶に取り替えて楽しむ方が良い……その方が、絵が生きると思う。

唯、これもその人のセンスや美意識の反映だから、自分と感覚が違うからと云って責めたりは出来ない。

作品を大切に扱う事、そして、持ち主や其処を訪れた人々が、互いにそうした個性を楽しみ合う事が一番だ。

美術品を買う事の意味

身近に美術を楽しむ素晴らしさの話をした序でに、美術品を買う事の意義、或いは魅力に就いて私の考えをお伝えしておこう。

美術を「売る」仕事をしている私だが、個人的に「買う」事もしている。

最初の切っ掛けは、クリスティーズの研修社員としてロンドン、ニューヨークで過ごした後、東京勤務と為り日本に戻ってきた頃、老舗の中国陶磁器のお店に出入りするように為った。

一見壁が高そうなのだが、何故か私は其処の店員さんに可愛がって頂いた。

そんな或る時この人が私にこう聞いてきたのである。

「山口君、君は自分でもモノを買うのかね?」私は「いえ、未だお金も無いし、買えないです」と答えると、彼はこう云う。

「貴方ね、オークション会社に居て、売って下さい、買って下さいと人に云うのに、自分がそれをしないで、身銭を切って買う人や、大事にしてきたモノを手放す人の気持ちが何で判るのかね」云われてみればその通りである。

其処で私も「判りました、では何か見せて下さい」と為り、宋時代の綺麗で小さな白磁壺を気に入ったのだが、これが四〇万円程だった。

今から二五年程前で、当時の私に取っては非常に高く到底難しい額だったが、分割払いでも良いと云う。

「有り難いです、では少し考えます」と云うと、彼は一日結論を延ばすごとに一万円ずつ高くすると云ってきた。

驚いて「え?何故ですか」と聞くと、「美術品は、出会ったその時買わないと二度と買えない。

貴方が帰った五分後に誰か来て〝買います〟と云ったら、商売人は売らざるを得ないのです。

だから、欲しいと思ったら決断しなさい」と云う。

其処迄云われ、私も「判りました。

買わせて頂きます!」と、財布に有った二万円を手付けに購入した。

これが私の最初に買った美術品と為る。

ただ、今振り返れば矢張り彼の言葉は真理だったと思う。

美術品と云うのは、一瞬の機会を逃すとどんなお金持ちでも買えない。

また、どんなに欲しくても持ち主側に売る気が無ければ、矢張り絶対に買えないのである。

だが、其処に美術品の良さが有り、アートを手にする魅力が有るとも云えるだろう。

序でに云えば、最終的に買う買わないは別として、美術品を扱うお店で、其処に有る作品を観ながら店の人達とこうして様々な会話をする事自体も、非常に勉強に為るのでおススメです。

美術品との出会いは人との出会い

美術品と云う物は、初めて買う迄は心理的な壁が高いかも知れない。

美術品と聞いただけで、何か物凄く高い、自分などが持つものでは無いと、そんなお金が有るなら他に何かと、思うのも良く判る。

ただ、例えばクリスティーズでも扱う美術品の値段は、実は安いものでは大体一点四〇〇ドルから売っているのだが、これは案外知られていない事実だろう。

また、現代美術のギャラリー等もそうした価格帯の美術品を扱っていたりするので、こうした所からアートと身近に暮らす事が始められたら、これも凄く素敵だと思うし、それがこの本を書く事にした理由のひとつでもある。

私の場合は古美術も買うが、未だオークションでは扱われない若い現代美術家達の作品も好きだ。

彼等の作品は先ず一度作家の契約ギャラリー等を介して顧客に購入され(これをプライマリーマーケットと云う)、またその作家の作品が美術館の展覧会出展や、出版物掲載等を経て、その作家がある程度著名に為ってから競売にかけられる事が普通だからだ(これをセカンダリーマーケットと呼ぶ)。

だから、気に為るギャラリーや作家の展覧会等に自分で出掛けて行って、実際に作品を観、話を聞き、気に入ったら買う。

特に現代美術を買う時は、私は基本的に作家本人に会ってみる事にしている。

自分の専門は古美術だが、前述の通り全ての古美術は、生まれた時は現代美術だった筈だ。

今、我々が美術館等でこれは良い古美術だなと思っている作品は、多分、作られた時の「現代性」が残っているから皆が大事に残して来たし、だからこそどの時代の人が観ても古臭くない魅力を持っていると理解している。

だが古美術の場合、作家がどう云う気持ちで作ったかは、想像するしかない。

仮に文書等が残っていたとしても、例えば長谷川等伯の生の声はもはや誰であっても聞く事は叶わない。

しかし、現代の作家には聞けるのだ……どう云う考えで、どう云う気持ちでこれを作ったのか。

どう云う手法で制作しているのか。

作った本人から教えて貰えるのだから、こんな機会を有効に使わない手は無い!因みに必ずしも作品を買わなくても、展覧会のオープニング等で作家自身が会場に居れば、そうした話を聞く事が出来る可能性は有る。

唯、矢張り購入を真剣に考え始めると、買う方の自分も(そして恐らく作家の側も)やり取りはより真剣に為るし、実際に購入した後も何かしら交流が続く事も多く、それもまた楽しい。

アートは、実はアートそのものだけでは面白さを満喫出来ない。

そう云うと語弊があるなら、アートを介して人と接する事が、アートをより面白くする。

これは古美術品でも例外では無い。

勿論作家はもうこの世に居ないが、作品を巡って、持ち主や骨董屋さんとコミュニケーションする事も誠に楽しいもので、其処で知識や教養を得る事もそうだが、それだけでも無い。

例えばこんな事も有る。

私のよく行く骨董屋さんは、私の好きなモノのタイプをよく知っている。

あいつは大体こう云うものが好きだろうなと判っているのだ。

そこで私が訪ねて行くと「ああ、山口さん、よく来たね」と云って、何かこう、彼の傍らに置いてあるのだが、全然それを見せてくれる素振りが無い。

一五分位お喋りして、もういい加減に「其処に有るのは何ですか?」みたいな事を云うと初めて、「これか?」「もしかして好きかな?」とか云ってくるのである。

そういう時、其処にはある種のゲーム的なやり取りが存在し、そう云った事も面白がれるように為るとより楽しい。

アートは「仕事に役立つ教養」なのか

これも特に最近聞かれる事が増えた質問だが、「アートやそれを巡る教養はビジネスにも活かせるか」と云う物だ。

正直に云うと、「はい、此処がこの様に活かせます」と云う類いの答えは持ち合わせていないし、もし、仕事に役立てようと云う目的でアートに触れようと云う発想をするなら、それはアートや美意識の本質を捉えていない故だと思う。

唯、ひとつはっきり云えるとすれば、美的教養と云うのは「本物的教養」だとも思う。

繰り返しに為るが、美術を楽しむ事は、モノにしろ人にしろ、「本物」と云うのを見抜く力みたいなものを磨く事に通じてもいる。

これも前述の通り、私の師と云える骨董商の言葉、「人を見る眼はモノを観る眼、モノを観る眼は人を見る眼」は矢張り真実だと思う。

また、美術の名品を観て行くと、一定数以上の人間が共通して持っている感動の琴線の様な物が判ってくる様な所が有るが、この事が様々な仕事の場面で、功を奏する人は結構多いのではないか。

其処には知識や教養だけではなく、感性的な要素も必要だと思っている。

財界人で云うと、嘗ては「電力王」と称された実業家の松永安左ヱ門等が美術コレクターでもあって、また松下電器(現パナソニック)の松下幸之助の様な人も居た。

こうした人物達の心中には、世間には金持ち等幾らでも居るのだから、商才だけでなく教養が無いと、これからの世の中を作ろうと云う世界の人々と伍してはいけないぞ、と云う考えが有ったのだと思う。

今の日本にも、もっとそう云う人が出てきたら良いと思っているが、例えばIT系企業のファウンダー達の中から美術の理解者が出てきていると云った印象はある。

十把一絡げに論じる事は出来ないけれど、例えば京都と云う町はあれだけ古い物を継承してきた一方、テレビゲームの任天堂や、精密機器の島津製作所、また電子部品の村田製作所や京セラ等、新しい試みで台頭してくる会社を輩出している。

その様なことを思うと、新しい物を生む所は古い所で、新しい物を作る人は古い物が好きと云う、一見すると逆説的にも思えるが、どこかで繫がっているのではないかと思うし、古い物から新しい入り口を発見する、とも云える気がする。

コレクターも、現代美術を集める人の中には、実は古美術好きな人も多い。

矢張り「古美術もできた時は現代美術」で、優れた古美術は今も新しさを持っていると云うのが、特に現代美術好きには何と無く感じ取れるのではと、私は考えている。

この様に考えると、「ビジネスツールとしてアートに嗜む/アートを応用する」と云う「効用」や「手段」から考えるより、矢張りアートとはそれ自体を楽しむ物であり、その結果としてその人自身の感性や美意識が磨かれる事に繫がる、と云うのが私なりの答えに為るだろう。

そして、自分の人生に於ける「美意識の値段(価値)」は、それを鑑定するのも、決定するのも、貴方自身なのである。

おわりに

最後に、私が今後オークション・ハウスの人間として実現したい事を伝えたい。

先ず、東京でクリスティーズのオークションを開催したい。

世界各所で開催されているクリスティーズのセールだが、実は東京ではもう長い間行われていない。

これは私としては絶対にやりたい事のひとつだ。

例えば、アート・バーゼルの様な世界的規模のアートフェアを誘致し、それと同時期にクリスティーズのセールを日本で行えば、より多くのアートファンが国内外から来てくれるだろうし、日本でしか手に入らない多様な分野での良質な作品はまだまだ有るので、そう云う作品を求めて人が集まってくるだろう。

昨今話題に為っている「IR(統合型リゾート)」も然り。

この「IR」もカジノだけが注目されているが、美術館や美術品倉庫、オークションを含めた美術品ビジネスの可能性も大きい。

また、例えばルーブル・アブダビやビルバオ・グッゲンハイム、ポンピドゥーセンター上海の様に、日本の何処かに世界的に著名な美術館を誘致し、アート・ファンのインバウンドを増やす……。

この様に「世界から人が集まる」と云う事が、日本の将来に取っても非常に大事に為ると思う。

クリスティーズのビジネスとしてと云うのは勿論だが、より広く、日本の人々に取っての「アートが身近な暮らし」「それぞれの美意識に根ざした暮らし」を考える上でも、長い目で見て貢献出来たらと思うからだ。

同様の理由から、教育的な事にも注力したいと考えている。

特に、若い方々にアートにコミットして貰う為の一助を担えればと常々思っている。

今、私自身は京都造形芸術大学で客員教授として教えてもいるが、海外ではオークション・ハウスが関わる美術の教育プログラムも既に有るので、日本でも一般の方向けの講座を行う等して、もっとパブリックに開いていきたい。

そう云う「種まき」が重要であり、アートにコミットする楽しみ、またアートを介して人とコミュニケーションする事の楽しみを、ひとりでも多くの人に知って貰いたいと思っている。

そして本書も、その様な思いから執筆された。

これを読んで下さった皆さんがそれぞれの中でアートの「種」を芽吹かせてくれたら、これに勝る喜びはありません。

最後に本書を出すに当たり、大変お世話になった集英社新書編集部の伊藤直樹氏、編集者の木真明氏、ライターの内田伸一氏、石丸元章氏、本書の切っ掛けを下さった細川綾子氏、そして今は亡き「和の鉄人」の父と家族に深い感謝の意を表したい。

有難うございました。

山口桂(やまぐちかつら)一九六三年東京都生まれ。

クリスティーズジャパン代表取締役社長。

京都造形芸術大学客員教授。

立教大学文学部卒業。

一九九二年、クリスティーズに入社し、日本・東洋美術のスペシャリストとして活動。

一九年間、NY等で海外勤務をし、二〇〇八年の伝運慶の仏像のセール、二〇一七年藤田美術館コレクションセール、二〇一九年伊藤若冲作品で有名なプライス・コレクション一九〇点の出光美術館へのプライベートセールなど、多くの実績を残す。

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