アンドリュー・カーネギーのアドヴァイス
あなたの成功はあなた自身のものである。
だが、たとえ事業に成功して金持ちになったとしても、あなたはそれによって「ほかの人間を超える」ということはない。
どれほど富を築いたところで、それが人生の最終的な目的ではないのだ。
※成功とは他者との比較ではない。
失敗もそうだ。
決して比較するべきものではない。
成功というものはあくまでも、あなたの「心の拡がり」のことである。
人生と言う危険に満ちたジャングルを、私たちは一人で歩かなければならない。
一人で歩くことの恐怖を克服する方法を身につけ、本当の富を築いて幸福になりたいと思っているが、同時に私たちは、私たちの五感を越えた存在から見られているということを常に意識している。
この世界そのものとの関わりも、私たちを富や心の平安へ導く力となるのだ。
Sはまだ若かった。
彼は車やトラックの短期レンタル業をやっていたが、まだ三〇歳にもなってないのに「ザクザク儲かっている」と私に自慢していた。
後に、Sはレンタル業を他人に譲ったのだが、そのことについても自分はなんと賢明だったことかと言っていた。
「距離制限なし」などの特典を含めて、割引システムを採用したことはさらに賢明だった。
保険は客の自由意志にまかせたが、客は必ずいちばん高い保険を選んだ。
これはレンタル料とは別料金であった。
当時、ほかのレンタル業者は、保険料をレンタル料に加算していたので、確かにSのやり方は賢明だった。
さらに彼は株にも投資した。
そしてそれもうまくいった。
彼はいかに自分が賢明だったかを、しきりに強調していたのである。
私は「いろいろな要素がからみ合って、君を助けたのだ……」と、思わず言いかけた。
一日単位で車を借りられるシステムは確かに便利だ。
しかしそのころ、たまたまハイウェイが発達して、クレジットカード・システムが普及していなかったらどうだったろう。
そうした恩恵について、彼は決して実践哲学的な見方をしようとはしなかった。
順調に事が運んだのは、すべて自分の才能だと思っていたのだ。
仮にSが投資した株がたまたま値上がりしたとしても、彼はきっと自分の才覚のせいにしたことだろう。
私は、石油ランプの製造や、コンピュータ・プログラミング・コース設立など、いろいろな分野で成功し、富をなしていった人々を知っている。
その中には、自分がどのような事業にむいているかを、十分にわかっていた人がいた。
それらの人々は、自分が富を成すということだけのために事業を行っていたわけではなかった。
その事業そのものが、彼らの夢だったのだ。
だから、自らの富に関して、彼らは非常に謙虚だった。
そういう人こそ、私は賞賛したい。
たまたま時流の波に乗っただけのことを、自分の才能のせいにする人は、賞賛にはまったく値しないのだ。
このように人生に広い見通しを持っている人々は、また、心の平安を得やすい人でもある。
これらの人々は実際に素晴らしい人格の持ち主だった。
そして周りの世界のほうが自分よりもっと偉大で、はるかに重要だということを知っている人たちなのだ。
アンドリュー・カーネギーは、そうしたことを熟知していた。
あるとき彼は、私に次のような教訓について書くように言った。
「人から爪弾きにされたくなければ、あまり調子に乗るものではない」私がカーネギーとつき合いがあることで、優越感を持ちはしないかと心配してのことである。
この教訓は、若かった私にはかなりきいた。
そのころ、私はカーネギーの予想どおり莫大な富を得て、ロールスロイスを二台も持って得意になっていたのだ。
しかし、今では私はロールスロイスが富の象徴だとは思っていないし、キャッスル・マウンテンズの広大な土地と豪華な建物にも十分満足したので、一九二九年の大不況でそれを失ったあとも、とくに未練は持っていない。
問題は私の態度だったのだ。
私が世間に対して派手に振る舞ったことは、私に機会を与えてくれた世間に対してふさわしい態度ではなかったのだ。
当時の私を振り返ってみると、私は奇妙な罪悪感を持っていたことに気づく。
別に私は罪を犯していたわけではない。
しかし、あのころ私のロールスロイスのバックミラーに警官が近づいてくるのが映ると、たちまち不安感に襲われたものだ。
いくら私が制限速度をオーバーしていないという自信があっても、やはり不安だった。
当時はとにかく、よく有名人が私のいるキャッスル・マウンテンズを訪ねてきたものだ。
その中には私のまったく知らない人もいた。
だから、私の邸宅で、彼らが何かをしでかすのではないかと不安に思ったりもした。
この不安はどこから来たのだろう?それは、私が神経を張りつめていたからに違いない。
しかし、今では私も、こうした緊張を感じないでいられるようになった。
というのも、私は自分だけが十分にくつろげる居場所を持っているし、私の心はとても平安だからである。
今では、警官が私の車の後ろに現われても、むしろ喜ぶようになった。
なぜなら警官がいてくれれば、みんなが注意して運転するようになり、交通事故が減るからだ。
「何も問題ではない」
自分が関わっている事柄が、そのときいかに重要に思えても、「それは最終的には重要ではない」ということを知ってほしい。
私はこのことを若いころ、カーネギーに教わった。
成功でも富でも、人に充実感を与えるのはその「過程」なのである。
この本を読んでいるあなたが、もし大富豪だったら、この考えがよくわかるはずだ。
確かに結果も重要ではあるが、もっと重要なのは、その結果(成功)にいたる過程なのだ。
このことを悟らない人は、どんなに素晴らしい邸宅に住んでいようとも、心は決して満たされないだろう。
私が本書でこれまで述べてきたことの多くは、この実践哲学と深く関わり合っている。
あなたが絶えず相手に与え続けるならば、あなたは単に自分の所有するものだけでなく、あなたに共感を持つ人々からも自分の存在価値を感じることができるはずだ。
私自身は、世間に対し、自分がもらった以上のものを与えてきたと思っているから、それが私にとって大きな心の安らぎとなっている。
私はさらに緊張をほぐす方法も知っている。
毎日遊んだり、自分なりに楽しくくつろぐなどして、一定時間過ごすことにしている。
四方八方出口がない、とあなたが思うような場合でさえ、山や草原、海や湖に数日、いや可能なら気がすむまで、そこでくつろいでいれば、必ず出口は見つかるものだ。
人生は甘くないが、そういう場面であなたが思うほど、つらくもないものだ。
このように人生についてのいろいろな場面について考えてみると、次のような教訓があることに気づく。
「最終的には、何も問題ではない」険しい顔つきをして、金儲けに夢中になっているときには、自分の活動する範囲にしか目がいかなくなることがある。
例えば、自分が建てた建物が、他人の日照を妨げるようなとき、その問題について悩み果てる前に、この教訓を思い出してほしい。
「最終的には、何も問題ではない」。
日照問題は行政が解決してくれるはずだ。
どうしても日照権によって自分の思いどおりの建物が建てられないのなら、日照を正確に反射する駆動式の鏡を取り付ければいい。
あるいは、一日数時間の日照を確保して、交渉を成立させることもできるはずだ。
すべての問題は、そのとき、その場で大きな問題になるかもしれない。
しかし、物事を公平に扱いながら、意識の片隅に先の見通しを持ち続ければ、あなたの将来を最終的によいものにすることは必ずできるのだ。
そのような安心感と自信を失わなければ、あなたの心はもっと平安になるし、強くもなる。
目に見えない、奥深い知恵の力
、人間が五感の助けを借りて感知できる世界の向こうに、ときどき私と心を通わせてくれる古い友人たちが何人かいる。
第一次世界大戦のある夜のことである。
床に着こうとしたとき、私は何か書きたい衝動にかられた。
当時、私はウッドロー・ウィルスン大統領の広報担当者をしており、私の心の中には、国内外の緊急重要問題がひしめいていた。
だが、タイプライターに紙を差し込んでキーの上に指を置くと、いくつかの単語が意識にのぼってきた。
それらは、意識しないにもかかわらず、私の心にきわめて鮮やかに浮かんできた。
私は、それを大文字で打ち出した。
「最終的には、何も問題ではない」当時、ウッドロー・ウィルスン大統領は新しい国際連盟誕生の陰にあって、指導的役割を果たしていた。
彼は、文明社会の将来はアメリカ上院が批准するかどうかにかかっていると信じていた。
だが、上院は批准をしなかった。
その後、ウィルスン大統領は病の床に着いた。
医師団の公表がどうであれ、彼の側近たちには、彼が失意と失望のうちに死を迎えているのがわかっていた。
「私は連邦会議の連中に殺されたのだ」と、大統領は嘆いた。
そのとき私は、「世界はまだ、国際連盟という計画を受け入れる素地がないのだ」とは言えなかった。
しかし、何かが私を促した。
彼にとって、今何が、真に問題なのかを言わなければならなかった。
「大統領」と、私は言った。
「最終的には、何も問題でなくなりますよ」大統領は奇妙な顔をして私を見つめたが、やがて、理解したという表情で、こう言った。
「確かにそのとおりだ!」たぶん私は、彼の死を少しは安らかなものにする手助けをしたことになるだろう。
それ以来、この言葉は私の心の中に強く残っていた。
しかもそれは、私一人で作ったのではない。
目には見えない、もっと知恵のある力が私の心の中に投げ入れてくれたものだ。
私はこの言葉を大切にしたいと思っている。
なぜ、人生を心配ごとで埋めつくすのか?
、あれこれ恐れを抱いて人生を過ごしている人々は、まるで恐れというものを絶対的に偉い先生だと思っているように見える。
恐れなどというものは、きわめて小さいものだが、その人たちはそれが全宇宙を占めているかのように受け取っているのだ。
もちろん私たちは、アメリカ合衆国の独立宣言にもあるように、「人類の意見に適正な敬意を払い」ながら人生を歩んでいかなくてはならない。
ときには人の意見に従い、人の幸せを自分の幸せよりも優先することがあるが、これは協力であって恐れではないのだ。
しかし、周りを見渡すと、いかに多くの人々が恐れや絶望、破滅の意識を持っていることだろう。
なぜだ?最終的には何も問題にはならなくなるというのに、何を恐れているのだろう。
頭をしゃんと上げて胸を張って歩かずに、こそこそと背を丸めて歩いたら、死後の人生がうまくいくとでも思っているのだろうか?自信と勇気を持って人生を歩くほうが、より多くの幸せをつかむことができることを忘れないでほしい。
私は以前、『好きなように書いてみた』(〝IwriteasIplease〟)という題名の本を見たことがある。
残念ながら、私はまだこの本を読んでいないが、その見事な題名にふさわしい内容であってほしいと思った。
自分の好きなように書く人は、心の平安を見つけ、それをしっかりつかむ方向へ進んでいるはずだからである。
これもまた、私が試行錯誤によって学んだことであるが、影響力のある批評家たちに、私の書いた記事を、ゲラ刷りの段階で一言一句調べられたことがあった。
そのとき私は、読者を喜ばせるために、既成の偏見や信念に迎合するよう習慣づけられていることがわかった。
そんなことではこの世に対し、私はどんな貢献ができるというのだろう。
今は私は好きなように書いている。
読者もきっとそのことに気づいてくれるだろう。
自分の人生を生き抜いたエルバート・ハバードの満足感とは?
ときには、偉大な人間がこの世界に現われ、その本当の偉大さがほとんど注目されないまま、この世界から去っていくことがある。
そういう人物の一人にエルバート・ハバード(一八五六〜一九一五)がいた。
彼はニューヨーク州の小さな町で好きな書きものをしながら、その作品を徐々に世界に広げていった。
彼の最も優れた短編は『ガルシアへの手紙』(〝AMessagetoGarcia〟)である。
彼の著書の一冊『エルバート・ハバードのスクラップブック』は、アメリカのどの家の居間にも広げてあったものだ。
彼は他人がなんと思おうと、自分の人生を生き、自分の心を所有することを貫いた人である。
彼が、他人を満足させるために書いていたなら、大きな栄光を手にすることができたかもしれない。
しかし彼は、そんなものよりも自分の自由のほうに満足を見出していると、私に語ったことがある。
彼がものを書き始めた最初のころ、出版社が彼の書いたものを見て、あまりにも進歩的すぎるということで、出版を引き受けなかったことがある。
そのため彼は、自分で出版事業を興そうと決心した。
結局、出版業はうまくいき、一時は実に八〇〇人もの社員を擁する大出版社となった。
ハバードは、成功した作家、成功した出版業者をはるかに超えた存在である。
彼は、自分の思いのままの条件で、人生に支払いをさせた数少ない人物の一人である。
つまり、前進しながら支払いを受けたのだ。
それもお金だけに限定されはしなかった。
自分の人生に影響を与えるどんなものからも配当を受け取り、そのすべての中に利益を見つけた。
そうして彼は裕福になった。
彼は自分が必要とするよりも、はるかに多くの富を得た。
しかし、ほかの金持ちと違って、彼は毎日、人生の脇道でゆっくりと過ごした。
もし、すべての人間がエルバート・ハバートのように自由で、生きがいを感じ、幸せで、心が平安であれば、素晴らしい世界になるだろう。
ハバードもエマースンも、「最終的には、何も問題ではない」ということを、十分に理解して人生を選択した人間である。
彼らは、余計な栄光にはまったく興味を示そうとせずに、自らが純粋に望むものだけを得た。
まさに、人生の送り方の見本を示してくれたような人々である。
金では買えなかったロックフェラーの心の平安
エルバート・ハバードのこととともに、私はよく知人のジョン・D・ロックフェラー(一八三九〜一〇三七)のことを思い出す。
ロックフェラー一世のことだ。
二人はまったく正反対な人生を送ったのである。
あるとき、ロックフェラーは「私と立場を替わりたくないか」と私に聞いたことがある。
私は「替わりたくありません」と、丁寧に答えた。
私は健康と自由を大切にしていたが、彼はその二つとも持っていなかった。
私が彼にそういうことを言ったからではないだろうが、そのときから彼が変わったことは確かである。
それを私は、彼の人生の新しいスタートだと思ったものだ。
この人は何十億ドルも持っていながら、自分の人生に何かが欠けていることを知って、新しいスタートを切ろうとしたのだった。
彼は本当は何を欲していたのだろうか。
彼をよく知っている人に確かめたところによると、金儲けの過程で逃したもの――心の平安――を求めていたのではなかろうか、とのことだった。
ある日彼は、自分の財産を見て、「最終的には何も問題ではない」ということが頭に浮かんだのではなかろうか。
その後、ロックフェラーの資金は、科学、健康、文化プロジェクトなどに投入された。
ロックフェラーが必死になって、自分にできる形で心の平安を得ようとしたことが窺われる。
ちなみに彼は、一〇〇歳近くまで生きた。
心に平安を持たずそんな長生きができるものだろうか?エルバート・ハバードは、自他ともに認めていた自分のイメージを変える必要はまったくなかった。
しかし、ロックフェラーはそれが必要だったのだ。
ヘンリー・フォードもそうだったし、そのほかの、自分では一〇〇パーセント成功したと思っている多くの人々もそうだった。
後に、ロックフェラーの子孫たちが、有益な社会事業の発展に寄与していることを考え合わせると大変興味深い。
一世の時代には考えられなかったことである。
今日、彼の曾孫たちの多くは、社会福祉事業に携わっている。
ただ金を寄付するという形ではなく、生活困窮者の中に入り込んで、そこで一緒に働いているのだ。
ロックフェラー一世は、墓の中でさぞや安心していることであろう。
人生のジャングルを、見えない見張りとともに進む
、ご存じかもしれないが、本書の完成には七〇年近くかかった。
初めのころ、私は富と心の平安を同等に扱う本を書くとは思っていなかった。
心の隅ではいずれ書きそうな気もしていたが、若いときにはこのような本は書けなかったろう。
必要な経験を積んでいなかったからだ。
十分に体験を積み、他人へのアドヴァイスを一つひとつ、検証してからでなくては、書くことはできなかった。
そうしたアドヴァイスは、私自身のほかに、多くの人々の人生の中でテストされてきたものであり、私が挙げる実例は、人生の教訓にあふれているはずだ。
そうした教訓は、あなたもこれから自分で体得することになるだろうが、そうした学び方をすることが、実はベストなのだ。
ときどき私は、目に見えない友人たちが私の周りを飛びまわっているという確証を得ることがある。
それらの友人たちは、生前、私自身とのつながりはなかった人々だ。
しかし、今、そのつながりが見つかったのである。
私はその人たちの仲間ではないが、その人たちに見守られている。
その発見のいきさつを次に話そうと思う。
ある日、私は本書を書くときが来たことを悟った。
当時、私は少しの間、病床にあった。
そのときこの本の構想を練ったのだが、それはきっと、私に日常生活のしがらみを断ち切らせようと、あの友人たちが仕向けたのだろう。
私は楽しみながら、書く仕事に没頭した。
仕事を愛する人が、いつも楽しみながら仕事をするのと同じような気分だった。
何カ月もの間、私の気持ちは高揚し、幸せを感じていた。
最後の章を書き終わっても、私はタイプライターの前を離れなかった。
そして自分が書いたもののことを思い返していた。
「最終的には、何も問題ではない」――だが、このように長く心に抱いたことを完成させたのは、気分のいいことだった。
私は一人で書斎にいた。
すべてが静寂だった。
そして私は瞑想に近い状態に入っていた。
すると、心の内から声が聞こえてきた。
私は耳を傾けた。
「私がここへ来たのは……」と、その声が言った。
「お前の本にもう一章つけ足すためだ。
それを書くことによって、逆にお前の読者の一部に不信感を抱かせるようになるかもしれない。
だが、正直に書くとよい。
そうすれば多くのものはお前を信じ、そこから有益なものを得るだろう。
この世界は、人間に死の準備ができるようにと、多くの哲学を与えてきた。
だが、お前は人間が幸せな生き方の準備ができるような哲学を与えるために選ばれたのだ」
心の内から聞こえてくる無限の叡智の声
内からの声は、私に少しの間だけ考える時間をくれたあと、またあの素晴らしい奏でるような声で話し続けた。
私の耳だけに聞こえるのは惜しいような声だった。
私は、彼(あるいは私の潜在意識)の言った一言一句をそのまま書き記すのではないが、彼のメッセージの要点は残さず伝えるつもりだ。
彼の言ったことの多くはすでに本書の各章に入っているし、これ以降の章にも入れるつもりだ。
「大いなる秘密をほかの人間に伝える資格を、お前は得たのだ」と、よく響く声は言った。
「人生という旅の途上には、人生のジャングルがある。
この黒い森林の中を、人間は一人で進まなければならない。
その森林の中では、敵を倒すだけではなく、自分の心の葛藤と動揺を克服しなければならない。
黒い森林は、苦闘と抵抗を課すことで人間の魂に磨きをかける役目をし、そうすることによって、人間の魂は、それが生まれ出た〝偉大なる永遠の水源〟へと戻って、〝無限の叡智〟の一部となる。
お前は〝偉大なる叡智〟の導きのもとにいる。
そしてお前は、自分自身の主人でもある。
お前は人生のジャングルを無事通りぬけた。
今後は、お前はほかの人間が黒い森林〔訳注…見通しのきかない人生という意味〕を通りぬけられるよう案内役を果たすのだ。
今から私は、旅の途中で出会う敵の名を挙げよう。
それは必ず倒さなければならない敵だ。
その最たるものは『恐怖』である。
恐怖の意見に耳を貸すことは、人間の思考力の活用を放棄するのと同じである。
この思考力は、各人に物質的な必要物をもたらし、この世の運命を左右するものである」内なる声は、ここで一息いれるとなおも続けた。
「その次の大きな敵は『強欲』だ。
物を所有したい、利己的な目的のために他人をコントロールする力を持ちたいという、あの強欲のことだ。
強欲と大欲の持ち主は人生のジャングルを通り抜けることはできない。
したがって、その先にある〝大いなる秘密〟を身につけることはできない。
他人の権利を踏みにじったとき、彼は自然の摂理を侮辱したことになるからだ。
さて、三番目の敵は『狭量』だ。
狭量は利己主義と無知からもたらされるものである。
これはお前の心を閉じさせ、事実を受け入れる際に邪魔をする。
人間が人生の旅を歩んでいく中で必要となる友情を奪ってしまい、他人の協力を遠ざけることになる。
四番目の敵は『利己主義』である。
自尊心は人間にとって大変望ましい資質ではあるが、極端な自己愛となると、これは自己欺瞞となって他人からの尊敬を失ってしまう。
五番目の敵は『情欲』である。
これは、性の感情を適切に転換し、適切な方向に生かすことの邪魔になる。
それは、過度の性的表現へと人を駆り立て、心と身体の大切な創造力を浪費させてしまう。
六番目の敵は『怒り』である。
一時的な一種の狂気である。
きちんとコントロールされた道理ある憤りはときには必要となるが、感情にまかせて怒りを野放しにする者は、真の〝大いなる秘密〟を知ることはできない。
七番目の敵は『憎しみ』である。
これは、怒りが心の中に住み着いて、それがセメントのように固まったものである。
人の思考を誤った方向へと曲げてしまう心の毒である。
心に憎しみを抱く者は、思考力を建設的目的に向けるためのコントロールができなくなっているのだ。
したがって、その人は、天から与えられた唯一無条件の特権(=判断力)を受けられなくなってしまうだろう」内からの声は話し続けた。
私はうっとりとして聞いていた。
「嫉妬」という敵は、熱望と恐怖の混ざったものであり、「短気」は、原因から結果を実らせるのを妨害するのだと言った。
また、「偽り」は、結局は偽られるためのものであり、「虚言」は、嘘をついた本人が自ら落ち込む罠を作ることだ、とも言った。
それと関連あるのが、「不誠実」だ。
「虚栄」は人間を下劣にし、嫌悪すべき力を形成する。
静まり返った中で、この偉大なる内からの声は、「お前は、すべての敵をほかの人間に伝えるために選ばれたのだ」と言い、さらに多くの敵を教えてくれた。
「残酷さ」。
これは、オオカミの一団のように、ほかのすべての敵を呼び寄せる。
「無慈悲」は、助けの必要な人に背を向け、魂をすくませる。
内なる声はまた、「不正」「誹謗」「陰口」についても話した。
〝大いなる秘密〟を手に入れたとしても、他人を破滅させるようなことをすれば、せっかく知った秘密を使えなくなるだろうと私に指摘した。
「不信頼」「不正直」「背信」「復讐」などの敵も、これを征服しない者は、黒い森林に一生閉じ込められるだろう、と私に教えてくれた。
最後に内なる声は、私が世間に対して警告を発しなければならない敵の名を、さらに四つ挙げてくれた。
これらもほかのものと同じく重大な脅威だと言った。
「心配」。
これは大した人間でないことを暴露するものだ。
「羨望」。
嫉妬の一種だが、特に主体性と自制心を破壊する。
「心身症」。
心がその宿主である身体の健康維持を考えるのを妨げ、その基盤そのものに病気をもたらす。
「優柔不断」。
黒い森林の中に入るほど強くなり、ついに背中に取りつく。
人は黒い森林の中で倒れ、途方に暮れる。
「人間の敵は、ほかにもある」と内なる声は言った。
「だが、この二六の敵を征服する者は、ほかのすべてをも征服するだろう。
この二六の隠れた敵を征服しようと本気で取り組む者は、知恵と行動力を兼ね備えた成功者になるだろう」内なる声はまだ続くが、あとは私の言葉で語ろう。
祈ることで道は開ける
祈りというものが持っている原則について述べてみたい。
祈りは本当の助けと導きをもたらしてくれるものである。
したがって、単に字面だけを読む人は、この章の意味がはっきりわかるまで何度も読み返してほしい。
祈りは、建設的価値のある何かを達成するために、必要ある場合に行うものである。
努力しても、自分の力だけでは目標を達成できないと証明できたときにのみ、祈りによって助けを求めるのだ。
助けを求める人間は、自分の個人的な行動の自由を神あるいは大自然に渡してしまうとは思わないで、むしろ、〝目に見えない手〟と協力するのだということを知るべきである。
きっぱりした自尊心を持って、第一の自分の義務は、自分自身と自分の環境を向上させることだということを知らなくてはならない。
また、これがうまくいった場合は、この中から二番目の義務が生じるということを知らなければならない。
二番目の義務とは、他人を助けることである。
※人間は、一人では生きていけない生き物である。
仏教的な説明を用いれば、人は生あるものを食べなくては生きていけない。
ただ生きていくだけですら罪を犯しているのであるから、せめて、自分にできる範囲で他人を助けるということは当然の義務だということである。
そして、この世に運というものがあるとすれば、他人を助けた人間にこそ、運命の女神は微笑むのではないだろうか。
別の説明を試みるとすれば、「優しさ」というものが人間の魅力として大きな位置を占めているということである。
ジャングルを歩いているさなかの入門者へ、私はメッセージを送りたい。
ときどきその黒い森林に開けた場所が現われる。
足にまとわりつく下草がなくなるにつれて、二六の敵を征服したと思えることがあるかもしれない。
しかしそれは、敵の仕掛けた罠である。
やっつけた敵をはっきり把握しておく確かな方法は、次のようにリストアップしてみることだ。
恐怖強欲狭量利己主義情欲怒り憎しみ嫉妬短気偽り虚言不誠実虚栄残酷さ無慈悲不正誹謗陰口不信頼不正直背信復讐心配羨望心身症優柔不断このリストは、少なくとも毎年一回はチェックすることだ。
必ず、正直にチェックしなければならない。
そして、自己洞察とそれで得た自分についての知識によって、すでに倒した敵の名を覚えておき、消去法によって消し去っていこう。
一つでも敵が残っていれば、あなたはまだ人生のジャングルをさまよっていることになる。
すべての敵を倒して初めて、ジャングルから抜けられるのだ。
大いなる旅の果てには、人生成功の玉手箱が待っている
、成功と心の平安と調和の敵である二六項目すべてを征服したとき、あなたは初めてジャングルを通り抜けられたことを確信することだろう。
内なる声によって、これからの行動に対してのはっきりした指示を教えられるだろう。
あなたが第一にしなくてはいけないのは、自分の時間のうちのふさわしい時間を、まだジャングルの中で苦闘している人の救出のために使うことである。
当然のことだが、あなたは、他人にとって有益なことは自分にとっても有益だということをわかっていなくてはならない。
第二に、あなたは逆境が最終的には自分にとって役に立つものであることを知らなくてはならない。
そして逆境を切り抜けることで得られる教訓を無駄にしないようにするべきである。
第三に、あなたは成功の果てに自分に託されるかもしれない特別な任務を遂行する勇気を持っていなくてはならない。
その任務とは、あなたにしかできないような事柄であり、あなたに成功をもたらしてくれたこの世界に対する大きな貢献となるはずである。
あなたはこれらの諸条件を無視したり、否定したりすることもできるが、もしそうしたことをすれば、あなたがせっかく得た力を無効にするような罰を受けることになる。
大いなる旅の果てにあなたが得るものとは、次のようなものである。
人生は自己訓練と発展の場である
最終的には、何も問題ではない。
つまり、人生が私たちに報いを与えるものなのかどうか、私たちは夢を実現できるかどうか、夢がかなわないまま死ぬのかどうか、あなたたちは自分自身で確かめることができるだろう。
俗っぽい成功は、人生の計画書において無価値であり、健康と幸福を損なうものである。
この世で最終的なものとは、人生そのものの大いなる拡大というふうに理解してほしい。
人生のよいところは、生きることを通じて発展していくところである。
しかし、人生をバラの寝床と思ってはならない。
自分を知って成功し、その良さを享受するために自分を訓練する場なのである。
サクセス・エッセンス⑥
1偉くなれなくても、それは束の間のこと物事をあまり深刻に受け止めると、心の平安を失うことになる。
本当に偉い人は周りの世界のほうが自分より大きいことを知っている。
自分本来のものではないのに、無理をして〝大きな生き方〟をしようとすれば、緊張で身動きがとれなくなる。
その緊張は後ろめたさや、そのほかのトラブルを引き起こす。
魂の小さな人間はそうなりがちである。
アンドリュー・カーネギーは、「他人の大きさを借りてはならない」という印象的なモットーを持っていた。
2最終的には何も問題ではない険しい顔つきをして金儲けに懸命になっているときは、自分にとって最終的には何も問題ではない、ということを思い出すとよい。
すべてはそのとき、その場所で問題となるだけなのである。
しかし広い視野を持って世界を見ていれば、現在だけでなく、すべての時代を見通すことができる3なぜ恐れるのか?あまりにも多くの人々が、世界に対して恐怖、失意、自滅意識などを心に抱いて生きている。
だが勇気と自信を持って人生を歩けば、恐怖は必ず克服できる。
自分の墓石の大きさの心配など必要ないのだ。
エルバート・ハバードという恐れを知らぬ心の平安な男は、自分の好きなように書き、それを自分で出版し、運命を開いた。
ハバードもエマースンも、人生においては、最終的には何も問題ではないということを改めて教わる必要のない人間だった。
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