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第六章富士そばでは、なぜ演歌が流れているのか

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第六章富士そばでは、なぜ演歌が流れているのか

富士そばで演歌を流している理由

富士そばの店内では演歌が流れています。今どき、演歌がかかっているお店なんて珍しいでしょう?富士そばをそれなりに利用しているお客様の一部でも、「どうして演歌なんだろう、謎だ」と話題になることがあると聞きます。

知り合いの作曲家・森川龍さんに「丹さん、店で演歌を流しなよ」と勧められたのをきっかけに、二〇〇一(平成一三)年ごろからかけ始めたのです。

初めは周囲から「ラジオの方が良いんじゃないか」「若い人は抵抗ありますよ」などと反対されました。

しかし、今では演歌をかけるようになって、お店の雰囲気が良くなったと感じています。ありがたいことに「富士そばに来ると演歌が流れていて落ち着く」と言っていただけることもあります。私のような地方出身者で、東京に出てきて寂しさを感じているお客様は、特にホッとするらしいのです。

以前、新宿西口店に立ち寄ったとき、こんなことがありました。三〇歳ぐらいの女性が、そばの容器を返した後、すぐにお店から出ようとしないで、しばらくそこに立ち止まっているのです。

真剣な顔をして一点を見つめているので、なにか忘れ物でもしたのかなと思って観察していると、どうも彼女は、店内に流れる演歌に耳を傾けているようでした。

後で従業員に聞くと、いつもきつねそばを注文し、食後は演歌を聴いているとのこと。「ああいうお客様、結構いらっしゃるんですよ」と言われました。若い人には演歌は通じないかなと思っていたけれど、そんなことはなかったようです。演歌の魅力は悲しさにあり演歌の魅力は、普遍的なものでしょう。私が思うに、その魅力は特に悲しさにあります。

たとえば、桜。春に桜が咲いていたら、皆さんは「きれいだ」「満開のときに集まって、みんなで花見で盛り上がろう」と思うかもしれません。

でもそんなことを歌詞にして歌い上げても、大抵が「ああ、そう。それは良かったね」と頷いて、それで終わってしまう。咲く喜びよりも、散る悲しみにこそ目を向けるのが演歌の発想です。

「散る花びらに我が恋映す悲しさよ」……そんな歌詞が頭に浮かんできます。案外、実生活も同じではないでしょうか。嬉しそうな顔をしている人には、あまり興味が湧かないものです。

でも悲しそうな表情の人には、「どうしたんですか?」と思わず声をかけたくなってしまう。人間は悲しさに共感して、自らの境遇に重ねてしまう生き物なのです。

だから演歌を聴いていると、他人の悲しみに敏感になります。苦しい状況で一生懸命に働く大変さや、辛い気持ちが想像できる。

演歌を通して、他人の人生が見えてくるわけです。人は誰でも、親が病気になったとか、配偶者とうまくいかないとか、子どもが反抗するとか、それぞれが悲しみを抱いて、苦労しながら生きています。

演歌はそんな悲しみに寄り添ってくれるから、聴き終わると「負けないぞ」という気持ちにもなる。私も波瀾万丈な人生で、荒れた環境に身を置いたことも、失敗して打ちひしがれたこともありました。

それをひとつひとつ乗り越えてこられたのは、演歌を聴いて、「頑張ろう」と思えたからに他なりません。ちなみに、経営にも演歌の心は生かされていると感じています。

演歌とは人生の苦労や逆境を歌い上げるもの。日ごろから演歌を聴いていれば、自然と苦労をしている人の気持ちがわかるようになるものです。

また、本当に苦労している従業員と、大変なふりをしながら、実際には手を抜いている従業員を見分けるときのちょっとしたヒントにもなります。

ずっと夢だった演歌の作詞

作詞家としてお店で流れている演歌には一つのひみつがあります。実は、私が作詞した曲も数多く流れているのです。私は経営者をしながら、同時に作詞家としても活動してきました。

「丹まさと」というペンネームも持っています。これまでに書いた詞は、合計すれば一〇〇〇曲を超えるのではないでしょうか。もちろん演歌専門です。

カラオケに入っているものだけでも、何十曲もあります。これまで、天童よしみさんや水森かおりさんの歌、つんく♂さんが作曲した曲に歌詞を提供してきました。大ファンである五木ひろしさんにも詞を書いたことがあります。

五木さんから「丹さん、ありがとう。また書いてくださいよ」と言われたときには、天にも昇る気持ちでした。ただ、尊敬する五木さんに書くと思うと緊張してしまい、そうそう気安くは書けません。

作詞家を目指したのは、若いころに、とある曲と出会ったからです。私は仲間がいなくて寂しいという理由で、かつて八百屋から油屋に転職しましたが、そこでも夜になるとみんな帰ってしまい、やはり寂しかった。

いつまでもこんな寂しい思いをするのかな……と心細く感じていたとき、折しもラジオから流れてきたのが、竹山逸郎さんと平野愛子さんの『愛染橋』でした。

親子のめぐり逢いを歌った曲で、良い歌だなと心を打たれたのと同時に、「ああ、自分もいつかこういう詞を書けたら素敵だな」と思った記憶があります。

だから、演歌を好きになったのと作詞家に憧れたのは、同時だったのかもしれません。しかし当時は、仕事は忙しいし、四国で作詞を教えてくれる人もいないので、作詞家を目指すという考えにはついぞ至りませんでした。

東京に出てきてからも学生、サラリーマン、そして経営者としてあわただしい日々を送り、いつか作詞をしたいという気持ちはそっと胸の奥にしまい込んでいました。

夢を諦めない

本格的に作詞を始めたのは、仕事に少し余裕が出てきた四五歳のときです。通信教育でしたが、私にとっては大きな一歩でした。指導してくれる先生が、年に数回ほど、都内の大規模なホールで教室を開きます。

その際、生徒の詞の中から優れた作品を選ぶので、日本全国津々浦々から二〇〇人ほどが集まるのです。選ばれたからといって、その詞がプロの歌手に歌われるわけでも、お金になるわけでもない。それなのに、わざわざ東京までやってくる。

演歌に対して強い情熱を持っている人がこれだけいるんだ、と圧倒されました。そのころ、褒められた詞が『かずら橋』です。かずらとは蔓植物のこと。それを縄にしてつくった、徳島の吊り橋を題材にしました。

「月に隠れてあなたに会いに来た。でも風が吹いて、なかなか橋を渡れない。向こうには好きな人が私を待っているのに……」というように、愛する男性に会う直前の女性の心の揺れを、吊り橋の揺れに重ねて書いた詞です。

当時は本業の富士そばを拡大しようとして、資金集めに奔走していた時期でした。出店にはとにかくお金がかかります。一方、作詞に必要なのは、紙とペンだけ。お金がかからない、良い趣味だったのです。

ただ、当時は作詞にそれほど真剣には取り組んでいませんでした。というのも、富士そばの店舗数が目標店舗数の八〇パーセント――具体的には目標店舗数が六〇店舗だったので、四八店舗を達成するまでは、経営に集中しようと決めていたからです。

そして五五歳のとき、ようやく富士そばの店舗数が四八店舗を超えました。自分へのご褒美という意味も込めて、いよいよ作詞に本格的に取り組んでみようと、六本木にある作詞教室に通い始めました。

それからは原稿用紙を持ち歩いて、時間を見つけては詞を書くようにしました。新規出店の物件探しで電車に乗っているとき、ゴルフ場で移動するとき。

風景、人の表情や仕草、聞こえてくる会話。目に映るもの、聞こえるもの、あらゆるものをヒントに、あれこれ想像の翼を広げて、詞を書くのです。

長年憧れていた作詞は楽しくもありましたが、同時に辛くもありました。やはり言葉を生み出すというのは時間がかかるし、難しい作業なのです。フレーズが出て来ないときは、全く出ません。生みの苦しみとはよく言ったもので、これが本当に苦しい。朝まで詞が書けず、フラフラになってしまったこともあります。それがあまりに続くので医者に行ったところ、脳梗塞が判明したこともありました。努力した甲斐もあって、教室に入学して七年目に、白鳥みづえさんの曲の詞を書かせてもらいました。

六一歳にして、ついに作詞家デビュー。諦めなければ、夢は叶うこともあるのです。夢は必ず叶うなどと無責任なことは言えませんが、諦めてしまっては叶うものも叶いません。

富士そばを「主」に

作詞家デビューを果たしてから八年、私は六九歳になりました。目標としていた六〇店舗の出店も達成して、作詞家としての実績も重なってくると、「そろそろ夢だった作詞業に専念したい。本業として挑戦したい」という気持ちが強くなってきました。

ちょうどそのころ、雑誌「オール讀物」の企画で、漫画家の東海林さだおさんと対談をすることになったのです。東海林さんはいわゆるB級グルメに通じていて、富士そばのファンだと公言してくれていました。

対談の途中、「目標出店数もクリアしたし、もう立ち食いそば屋はいいかな。これからは本気で作詞家を目指そうと思っているんだ」と私が言うと、見る見るうちに東海林さんの顔色が変わっていきました。何か失礼なことを言ったかな?と考えていたら、東海林さんは少し怒り気味にこう仰ったのです。

「君の経営する立ち食いそば屋に、社員やアルバイト、みんなの生活がかかっているんだろう?それなのに、君はまだそんなことを言っているのかね」そのとき、ハッと気づきました。自分の好きなことだけして生きていってはダメだ、ということにです。

従業員の生活も支えている以上、もっとしっかり経営して、みんなの生活の糧になっていくことを考えなくてはいけないのだと。立ち食いそば屋の経営と、作詞家。どちらを「主」にするか。

二つの間で揺れていた時期でしたが、それからは立ち食いそば屋を主にしようと決めました。富士そばの事業を広げ、店舗数を増やすことに専念しようと決意したのです。現在、富士そばがこれほどまでに拡大したのは、東海林さんに叱られて踏ん切りがついたおかげ、と言っても良いかもしれません。

演歌はいろいろなことを教えてくれた

才能とは残酷なもの作詞の教室が開かれるのは、夜。週に一度のペースでした。生徒は四〇人ほどいて、その中では私が最年長。ほとんどが女性で、キャビンアテンダント、銀行員など、職業は多岐にわたっていました。

授業では、先生が生徒の書いた詞を読み上げてくれます。これが、「ああ自分はプロに近づいているな」という感覚を与えてくれているようで、胸がときめくのです。

ただ、こういうプロを本気で目指す場に上がると、否応なしに自分の才能を思い知らされます。私は決して偉そうに言える立場ではないのですが、クラスの中には著しく才能に欠けた生徒もいました。詞はできるだけ簡潔に書く必要があります。

思いついた言葉を削って、捨てて、少ない言葉でまとめなければいけません。それにもかかわらず、小説のようにびっしり長々とした文章で書いてくる生徒がいたのです。

おそらく、浮かんだ言葉がもったいなくて取捨選択できないのでしょう。先生が「これは詞とは言えません。もっと短くしなさい」とアドバイスしても、次の授業になると、また長く書いてくる。

作詞家に憧れていても、才能が決定的に足りないことは明らかでした。一方、私はどうだったか。ある日、生徒たちと話していたら、「丹さんはきっとプロの作詞家になれるよ」と言ってもらったことがあります。

理由を聞いたら、立ち食いそば屋を何十軒も展開するだけの努力と粘り強さを持っているからだということでした。確かに、中には教室に少し通っただけで面倒臭く感じたり、自分には向かないと思ったりして、すぐに投げ出して途中で辞めてしまう生徒が結構いました。

それに比べると、私は諦めず、粘り強く取り組んだ方だとは思います。でも、それと詞が良いかは別の問題です。好きなことと才能とは別物である作詞に本気で取り組んでみた結果、私の至った結論は「自分にはそこまで才能がない」。

もし本当に才能があったなら、もっと依頼があって、もっと売れているはずですから。物事に対するとき、人には次の四つのパターンがあるのだと思います。

一.好きで才能がある

二.そこまで好きではないけれど才能がある

三.好きだけれど才能がない

四.好きではないし才能もない

一は幸福です。もし好きなことを職業にできたら、最高です。四も特に問題はありません。難しいのは二と三の場合でしょう。私にとって、作詞家は三で、立ち食いそば屋は二だったのだと思います。

「好きではない」というのは言いすぎですが、好きで好きで仕方がなくて、それで始めた商売ではなかった。ただ、意識したことはなかったけれど、長年続けてこられたのだから、経営に関してはある程度の才能があったのだということなのでしょう。

とはいえ、何事においても「才能があふれて仕方がない」という人はごく少数のはず。私のように長く続けてこられた結果として、「実は案外、才能があったんじゃないか」と気づくことの方が多いのではないでしょうか。

才能に気づくのが遅れるということもあります。数年前、私の友達で絵が非常にうまい人がいて、あまりにうまいので「いつ習っていたの」とたずねました。

すると返ってきた答えが、「特別習ったことはないよ。最近、自分でも絵がうまいことに気づいたんだ」。彼は私と同い年。なんと、絵がうまいことが八〇歳になってわかったのです。

その年で才能に気づいて、これからプロになろうと思っても、さすがに時間がない。自分の好きなこと、向いていることを早く見つけるのは大事なことだと思いました。

だから好きかどうかという感情はいったんおいて、仕事をして他人から評価されたり、思わぬ成果が出たりしたときは、特に思い入れがなくても、才能があるという可能性を受け入れて、それを続けてみるのも良いでしょう。

案外、それが天職なのかもしれません。一方で、本当に好きなことは、たとえ本業にできなかったとしても続けるのが良いと思います。

趣味としてでも良いですが、一円でも稼げる副業にまで持っていければ、なお良いでしょう。「自分は好きなことをやって稼いでいる」という充実感が生まれて、人生にハリが出てきます。

結果、本業も頑張れるようになって、より自分らしく働ける。それに、本業ばかりやっていては、振り幅が狭くて人生がつまらないですから。

ある医学生の思い出夢に向かって必死に働くことの尊さ。苦労をしている人の心の苦しさ。好きなことと才能とは別物であること。そして、本当に大好きなことを続けることの意義。

思い返せば、演歌は私に実に多くのことを教えてくれました。そんな演歌の持つ力に背中を押されるのは、私だけではないようです。

本章の最後に、演歌にまつわる出来事の中で、最も思い出の深いものを紹介させてください。

この章の冒頭で、店で演歌に耳を傾けていたという女性の話に触れました。彼女以外にも、富士そばで演歌を聴いて共感した、勇気をもらった、と言ってくれる人は多く存在します。

次のエピソードも、そんなお客様の一人に関するお話です。ある深夜の市ヶ谷店。くたびれ果てた様子の女性客が一人で入ってきたそうです。肉そばをオーダーし、心ここにあらずという感じで、箸を動かしていました。

やがて、店内に演歌が流れ出しました。しばらくして、その女性の様子がおかしいことを察知した従業員が目をやると、彼女は肩を小さく震わせて、ポロポロ泣き出したのです。

声をかけたら良いのか、迷いながら見守っていると、彼女はいきなり立ち上がりました。そしてこう声に出したそうです。「私、もう一回頑張る!」肉そばを食べ終わった彼女は、夜の街へと消えていきました……。

それから二年後、市ヶ谷店に一通の手紙が届きました。なんと、あのときの彼女からだったのです。そこにはこんな内容のことが書かれていました。

「私は医大を目指す受験生でした。しかし、三度も不合格が続き、もうダメかもしれないと心が折れそうになりました。勉強にも身が入らず、ふらふらと街を歩いていたある夜、なんとなく入ったのが富士そばです。店内に演歌が流れていました。

歌詞に耳を傾けているうちに、自然と私は励まされていました。このままじゃいけない。もう一回、受験を頑張ってみようと思ったのです。その後、大学に合格でき、私は今、医者への道を歩んでいます。その節はありがとうございました」演歌が心の琴線に触れたのでしょう。

この話を聞いたときほど演歌をかけていて良かったと思ったことはありません。以来、二四時間、自信を持ってお店で流すことにしました。なぜ演歌が心に響くのか。

それは演歌が人の心を歌っているからです。演歌の題材は、酒、海、夜、別れ……など、いろいろあります。ただ、それはどれも単なる情景を歌っているのではありません。

その状況に身を置いていたり、体験していたりする人の心こそが、本当のテーマだと言って良い。苦労している人ほど人の気持ちに寄り添えるから、演歌が心に沁みるわけです。

第五章で、富士そばはサラリーマンをターゲットにしていると書きました。私は、日本のサラリーマンはとてつもない苦労をしていると思っています。家庭では父親として子供を育て、家を買ってローンを払う。

会社では身を削るようにして勤勉に働く。そんなサラリーマンの方々を目にするたびに、できるだけ安い値段で少しでも美味しいものを提供してあげたい、それによって少しでも元気になってほしいという気持ちになるのです。

サラリーマンだけではありません。すべての方が、日々の生活でさまざまな苦労をされているはず。富士そばは、そうした辛い思いをしている方のためのオアシスであり続けたいと思っています。

そして、ご来店いただいた暁には演歌を聴いてもらい、優しい気持ちになったり、小さな幸せを感じたりしてほしい。そばを食べて身体が元気になった上に、演歌を聴いて心まで元気になってくれれば、これに勝る喜びはありません。というわけで、これからも富士そばでは演歌を流し続けるつもりです。

おわりに

この本をまとめているのは、二〇一七年の秋です。東京オリンピックを三年後に控え、だんだんと外国人観光客が増えてきたように思います。

ありがたいことに、海外のガイドブックでも紹介していただいているらしく、富士そばには外国人のお客様が多く訪れています。

そばという日本食。和風の内装。流れている演歌。店先のディスプレイに置かれた精巧な食品サンプル。すべてが新鮮に映るのでしょう。

さらに「富士そば」という名前が、「富士山=日本の象徴」を連想させて、これもまた惹かれる一因になっていると聞きました。

自分でも、「富士そば」というのは良い名前だと思っています。それでは、なぜこの屋号にしたかというと……。四国を離れ、初めて上京する際、私は長時間にわたり汽車に揺られていました。大阪、京都、名古屋……。

次第に東京が近づいてきます。そして静岡を通過したとき、車窓の向こうから噂に聞いていた富士山が目に飛び込んできました。

その瞬間、私は「これが本当に山なのか?」と驚いてしまいました。というのも、私が住んでいた四国の一帯では、山といえば黒いものと相場が決まっていたからです。

四国の山は木々が茂って暗く、遠くにある山はまるで影絵のように見えます。それが、初めて見た富士山は季節が春だったこともあって、山肌は青く、峰に雪がかかって、青と白の清廉な色合いに輝いていました。

圧倒的な存在感と美しさに心打たれ、私はしばらく呆然と見つめていました。そしてふと、「あの富士山のように、日本一になりたい」という思いに駆られたのです。

元来、私は身体もそれほど強くなければ、勉強もそんなにできない少年でした。大きなことはできそうにないタイプだと自分でもわかってはいたのですが、それでも何かで一番になりたいという気持ちだけは捨てられませんでした。

音楽でたとえるなら、ピアノやバイオリンのような花形の楽器で一番になれる器用さは持ちあわせていないけれど、ハーモニカやマラカスのような、脇で演奏に花を添える楽器であれば、コツコツと努力することで一番にもなれるのではないか、と夢見ていたのです。

商売も、銀行や不動産のようなメジャーで華々しい業界ではなく、何か狭くて深い分野こそが自分には向いている気がしていました。

そういう思いがあって、立ち食いそば屋を一生の仕事にしようと決意したときに、その屋号はニッチな業界である「立ち食いそば」の「そば」に、目指すべき日本一の象徴として、憧れた富士山から「富士」を取って付け足して、「富士そば」という名前をつけたのです。

今振り返ると、この「幅広い業界にあれこれと手を広げず、立ち食いそばという世界に集中しよう」という決意の根底にあったのは、やはり「一つのことを集中して持続する」という母の教えであったことを、しみじみと感じます。

この本をまとめながら、義父や母から教えられた言葉が、いかに自分の考え方の基礎になっているかに改めて気づかされました。身体の骨格をつくるのは、毎日の生活で口にしているそばなどの食べ物ですが、心の骨格をつくってくれるのは言葉なのです。

あのとき、私が富士山に感じた清々しい感情が「富士そば」という名前を通して、外国人のお客様に、そして世界に届いていれば嬉しいことです。

そしてこの本の言葉が読者の皆さんの心に残り、ビジネスの場に身を置いたり、人生の道筋を決断したりするときの助けとなれば、何よりも嬉しく思います。

名代富士そば会長丹道夫

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