注あとがき
Ⅰ「人格」概念の問題と神学的考察
1「人格の神学的考察」という表題を掲げたが、三位一体(Trinitas)あるいは受肉(Incarnatio)の教義に関する神学的探究や論争のなかで形成され、練り上げられてきた神的ペルソナの概念について神学的、あるいは教義史的な論述を行う意図はない。
ただ聖書が教える父なる神、子なる神、聖霊なる神はギリシア語ではヒュポスタシス()と呼ばれていたのがラテン語ではペルソナ(persona)と呼ばれるようになった事情について一言しておきたい(1)。
唯一なる神において父、子、聖霊が区別されるという信仰の神秘を指す神学的用語「三位一体」(Trinitas)を初めて用いたのはテルトゥリアヌス(Tertullianus,一六〇頃─二二〇頃)であるが、「ペルソナ」という用語を初めて神学に導入したのも彼である(2)。
テルトゥリアヌスは出身地カルタゴに帰ってキリスト教的文筆活動を開始する前、ローマで法律家として活動しローマ法の『学説彙纂』(Digesta)に名前が記される程の法学者であったが(3)、彼の神学用語としての「ペルソナ」には、法学ないし法律の分野における「ペルソナ」の用法からの影響は認められない(4)。
また「ペルソナ」は周知のように演劇の分野で多用される用語であるが、彼が神学用語として「ペルソナ」を用いるとき、演劇的なニュアンスは感じられない(5)。
たとえば、テルトゥリアヌスは『プラクセアス駁論』において「言(なる神)は御父(なる神)とは実体(substantia)ではなくペルソナ(persona)の名において、分割(divisio)に即してではなく区別(distinctio)に即して他者なのである(6)」と述べている。
彼は聖書が教える父、子(言)、聖霊という神の名を、神の唯一性をどこまでも堅持しつつ、神を最もふさわしい仕方で呼び求め、讃美するための区別として受けとめ、それを明確に表現しようと試みたのであり、そのための適当な用語として「ペルソナ」を選んだのである。
2ここでテルトゥリアヌスについて述べたのは、「ペルソナ」というラテン語を初めて神学の分野に導入した彼がこの言葉を選んだのは、聖書が神について教えようとしていることを最も適切に伝えることができる、という理由によるものであったことを強調するためであった。
このように聖書の教えをできるかぎり正確に、そして十分に伝えることを第一に意図する、という神学の聖書中心的性格は、アウグスティヌスの『三位一体論』においてそのまま継承されており、「スコラ学者」と呼ばれるトマス・アクィナスにおいても忠実に保持されている。
トマスにおいて「神学」すなわち「聖なる教え」(SacraDoctrina)とは「聖書」(SacraScriptura)と全く同じものであり、教える神の言葉に耳を傾け、できるかぎり理解しようとする営為にほかならなかった(7)。
本章ではトマス・アクィナスの『神学大全』の三位一体論にもとづいて「人格」概念の神学的背景を考察することを意図しているが、そのさい、とくに神的ペルソナについての神学的探究が「人格」概念がふくむ問題点を解明することに寄与した、という仮説の立証を試みることにしたい。
「人格」概念がふくむ問題点とは、人格は一方では自らによって自存する(persesubsistens)共有不可能(incommunicabile)なもの、つまり他のすべてのものから区別される個体でありながら(8)、自己の存在のうちに閉ざされた、いわば「窓のない単子」のようなものではなく、むしろ他者との交わり(communicatio,societas)において存在することを本質的な在り方とする、ということである(9)。
この独自の主体であることと、本質的に交わりにおいて在るということは、一見矛盾するように思われ、現実に個々の人格が社会のなかで生き、活動するとき、各々の人格の独立的主体としての在り方は、全体の利益という名の下に、他者との交わりの側からの要求に従属させられることが避けられない(10)。
この問題を一挙に解決することはもとより不可能であるが、神的ペルソナは「自存する関係」(relatiosubsistens)であるとするトマスの見解(11)は、「交わり・即・存在」と言いかえることができるような「ペルソナ」についての存在論的洞察(12)を前提とするものと解釈でき、この存在論的洞察にもとづいて前述の問題の解決を試みることが可能であると思われるのである。
3しかし、このような試みは、近代における神学からの哲学の分離を、哲学の発展の歴史における必然的な歩みとして捉える論者にとっては、けっして哲学的とは認められないであろう。
神学的探究によってかちとられた知的成果は、いかに洞察に満ちたものであっても、信仰によって肯定された真理を前提とするものであるかぎり、当の信仰を共有しない者にとっては知的関心の対象とはなりえない、というのが神学からの哲学の分離を是認する論者の主張だからである(13)。
ここで神学と哲学、あるいは信仰と理性との関係──区別と相互の秩序づけ──の考察に立ち入ることはできない。
ただ私は、信仰のみによって肯定される真理と、信仰の導きの下に行われる理性の探究によってかちとられる洞察──それは「信仰の知解」(intellectusfidei)としての神学である──とは明確に区別すべきことを強調したい。
信仰を共有しない人々にとっても神学的洞察を理解し、それを自らの哲学的探究のうちにとりこむことは可能であって、それが原則的に不可能であるかのように主張するのは誤解と偏見にすぎない(14)。
「人格」の概念を明確に理解するためには、三人称的に指示される人間について観察と記述を詳細・精密に行うだけでは不十分であって、一人称で「わたし」と呼ばれる存在──自己、自我、主体──のいわば内奥へと探究を進めることが必要である。
ところで「わたし」と呼び、また呼ばれる存在、そして「わたし」と呼ぶ者と呼ばれる者が同一である存在とは、精神にほかならず、したがって「人格」の概念の明確な理解のためには精神の自己認識という形而上学的探究が不可欠なのである。
そして、トマスもふくめて神学者たちが神的ペルソナに関する神学的探究において有力な手がかりとしたのは、このような精神の自己認識によってかちとられた洞察であった(15)。
したがってこれらの神学者、そして本章で取りあげる神学者トマスが行った神的ペルソナに関する神学的探究は、「人格」概念のふくむ問題点の解決をめざすわれわれに、何らかの貴重な示唆を与えてくれることが期待できるのである。
Ⅱトマスのペルソナ神学と存在論の問題
1トマスは『神学大全』第二十七問題の序言を次の言葉で始める。
「ところで神の本質が一であることに関わる事柄の考察はこれで終わったので、残っているのは神におけるペルソナが三(位一体)であることに関わる事柄についての考察である(16)」。
ここで「神の本質が一であること」の考察というのは、神とは「何であるのか」、つまり神の「アイデンティティー」(「一であること」)を探究してきたことを指している。
そして、この考察は、万人がその心の奥深くに植えつけられている「神は存在する」という認識から出発して、神は存在そのものである、神は知恵と憐れみと正義に満ちている、などの聖書の教えを受けいれつつも、主として人間の経験と理性にもとづくものであった。
これにたいして、第二十七問題から第四十三問題までの「三位一体論」(「三位一体なる神について」)では、イエス・キリストが、いわば自らの(神性の)秘密を弟子たちにあかすという仕方で神について親しく語り、教えたことにもとづく、神の内的な生命についての探究が進められている。
このように、三位一体論における神の考察は、始めから終わりまで聖書、つまり神の啓示にたいする信仰にもとづくものであり、「信仰のみ」に頼る探究であることを確認しておく必要がある(17)。
ユングによると、神あるいは神性を三幅対(Triad)で描く伝統は古くバビロニア、エジプトの宗教にさかのぼり、さらにピタゴラスやプラトンの宇宙論的思弁にも見出されるもので、キリスト教の三位一体の教義もそれにもとづくものである可能性が大きい、という(18)。
この解釈の是非について評価する資格は私にはないが、キリスト教の三位一体の教義は、啓示にもとづくものであるかぎり、三幅対という共通の形式を超えて、神の内的生命について深い洞察を与え、外に現れる神の業としての創造と救いに対しても光をあててくれる独自の教えであることを強調したい。
他方、宗教学や比較宗教史の見地からそれを古代の宗教ないし思想的伝統と結びつけたとしても、この教義からは何も貴重なことを学びとることはできないのではないかと思う。
2しかし逆に、このような見解にたいしては、「信仰のみ」によって肯定された教義、およびそのような教義についての神学者の議論は、現代のわれわれにとっては何ら関心の対象になりえないものであり、それがわれわれに何か問題を投げかける、あるいは逆に示唆を与える、といったことはありえないのではないか、という反論が返ってくるであろう。
この反論にたいしては、ひとまず次のように要約的に答えておきたい。
「三位一体なる神」というキリスト教の中核である教義が神学者たちにつきつけたのは、最高に一なる神において三つのペルソナ(御父、御子、聖霊)が真実に、実在的に区別されることをどのように説明するか、という課題であった。
これは言うまでもなく「一は多(三)である」という明白な矛盾の解決を要求する形而上学的難題、あるいは3と1という数字をめぐる知的な曲芸とも言える問題ではない。
それはむしろ、唯一なる神にたいする信仰を真実に告白し、ふさわしい礼拝と讃美をもって仕える唯一の道は、神の三つのペルソナの区別を肯定し、それらが等しく、真実に神であると認めることである、というキリスト信者の根本的な生き方を神学的に基礎づけるという課題であった。
そしてトマスはこの課題を、神のペルソナは「理性的本性を有する個的実体」(ボエティウスの古典的定義(19))としてよりは、むしろ「自(ら)存(在)する関係」として理解するべきである、という独自の革命的とも言える神学的立場によって解決しようと試みたのである。
「自存する関係」(relatiosubsistens)という用語は、関係というものは本来それ自体で独立に存在するのではなく、「親子」「夫婦」関係、あるいは「交戦」「友好」関係のように、そうした関係によって結びつけられている人(物)に依存してはじめて存在するのであるから、一見したところ「木製の銅像」と同じくらいの明白な自己矛盾をふくんでいる。
そして、ここで言われる「関係」は御父と御子、御父および御子と聖霊との間の「交わり」を指すと解することができるから、この用語を、交わりが自らによって存在するとの意味で、思いきって「交わり・即・存在」と言いかえることもできよう。
つまりトマスが、「御父」「御子」「聖霊」と呼ばれる神のペルソナは「自存する関係」を意味する、と言うとき、彼は神のペルソナにおいては「交わり・即・存在」であることを見てとっていた。
そして彼はこの洞察によって、最高に一なる神において三つのペルソナが実在的に区別される、という信仰の神秘への新しい神学的理解の道が開かれる、と考えたのである。
3しかし、このようなトマスの神のペルソナについての理解が、たんに初代キリスト教会以来の長い教義論争、および神学的議論の歴史のなかに現れた(いかに独創的であっても)一つの神学説にとどまるものであったならば、それを現代のわれわれが重要な問題として受けとめる必要はなかったであろう。
実を言えば、神のペルソナは「自存する関係」であるというトマスの学説は、これまで神学者たちによって十三世紀「スコラ神学者」による三位一体論への独自の寄与として取り上げられ、紹介されることはあっても、この学説の背後にある真に革命的と言える新しい存在論に注意が向けられることがなかった。
そしてトマスの「ペルソナ」概念は、十四世紀以降、「個」(個体あるいは個人)をそのまま実在ないし存在と同一視する存在論の潮流にのみこまれ、「人格」を個人と同一視してしまう常識的なペルソナ概念によって置きかえられてこんにちに到っているのが現状である(20)。
しかし、私は「自存する関係」として神のペルソナを理解しようとするトマスの試みは、それまでのアリストテレス的あるいは新プラトン哲学的な存在論とは根元的に異なった、新しい存在論ないし形而上学の構築をまってはじめて可能になった、と考えるべきであると思う。
それはかつてエティエンヌ・ジルソンが、トマスの新しい存在論は旧約聖書『出エジプト記』(第三章第十四節)の「わたしはある」という神の名の啓示から霊感を得ているところから「出エジプト記形而上学(21)」と呼んだものである。
ところで、私はジルソンの解釈を一歩進展させて、トマスの新しい存在論は、『出エジプト記』の神の名の啓示に加えて、新約聖書『ヨハネの第一書翰』(第四章第八、十六節)の「神は愛である」という啓示から霊感を受けとることによってさらに深められた、神的「存在」の理解にもとづいて成立したと考える。
私がトマスの三位一体なる神についての論考、とくに「自存する関係」という神的ペルソナの理解が現代のわれわれに重要な問題を投げかけると同時に、われわれの「人格」理解に示唆を与えると考えるのは、この存在論、つまり彼の神学的議論の背後にある、通常、ギリシア哲学の流れをくむ西洋哲学の存在論として紹介されるものとはまったく異質な存在論のゆえにである。
トマス自身はこの新しい存在論ないし「存在」理解にもとづいて三位一体論の神学に顕著な寄与をしたが、われわれはこんにち、哲学、とくに人間学、社会哲学の根本問題を考えるにあたって、トマスの存在論を再発見し、そのことによって、存在論の根元的な転回を成就しなければならない。
このような観点から、次にまずトマスの「ペルソナ」、とくに「神のペルソナ」理解を概観し、その背後にあるトマス独自の「存在」理解を浮かび上がらせ、それがこんにちのわれわれにとってどのような意味をもつものであるかを明らかにすることを試みよう。
Ⅲトマス神学における三位一体論の意義
1三位一体なる神についての論考とか三位一体論という言葉を聞くと、多くの場合、神の御子である救い主キリストが真実の神であることを否定したとされるアレイオス(アリウス)と、キリストは御父と同じく真実の神であると主張して譲らなかったアタナシオス(アタナシウス)との正統信仰をめぐる教義論争や、神における本性とペルソナの関係についての精妙な神学的議論、そして聖霊は御父からのみでなく「御子からも」(Filioque)発出したという字句をめぐって現在まで続く東・西教会の分裂が想起されるのが普通である。
いずれにしても、「三位一体」という言葉の無理解で無責任な乱用は別として、三位一体論に関して一般に受けいれられているイメージは、聖書にもとづく信仰に導かれて救いへの道を歩む通常のキリスト信者にとってはあまり関わりがなく、また有益でもない、複雑で難解な神学的思弁、といったものであるように思われる。
ところが、神学者トマスの頭にあった三位一体論は、そのような通常のキリスト信者の生活から遠くへだたった神学的思弁とはまったく異なったものであった。
彼によると神のペルソナについて理にかなった認識をもつこと、つまり三位一体の神学に(それぞれの能力に応じて)親しむことは、キリスト信者にとって必要不可欠なことだったのである。
それは次の二つの理由からである。
第一の理由は、神による万物の創造についてわれわれがただしく考えるためには神のペルソナについての知識が必要だということである(22)。
これは多くの人に意外に響くかもしれない。
キリスト信者は世界が唯一の神によって創造されたことをあらかじめ知った上で、その神についてのより深い知識として神のペルソナについての啓示を受け取る、というのが通常の順序ではないのか。
実を言うと、多くのキリスト信者は万物の創造主である唯一の神を信じることに関心を集中させて、ペルソナの区別は余分な飾りのように考えているのではないか。
これにたいしてトマスは、聖書の最初の言葉「初めに、神は天地を創造された」が真実の信仰告白となるためには、御父、御子(御言)、聖霊というペルソナの区別を信じ、認識することが必要だ、と主張したのである。
神のうちにペルソナの区別を認めることは、創造主である神が知恵と愛にあふれる交わりの神であることを認めることであり、そのことによって万物の創造は自然(本性)の必然性による流出ではなく、むしろ知恵と愛による神の業であることが示される、というのである。
それは言いかえると、神による天地の創造を根元的に救いの歴史の観点から理解することにほかならない。
トマスが挙げる第二の理由──彼によると、これがより重要な理由である──は、神のペルソナに関する知識は人間の救い──それは人となった御子(なる神)
と聖霊の賜物によって完成される──についてただしく考えるために必要であった、というものである(23)。
すべてのキリスト信者が信じて告白するように、人間の救いはイエス・キリストの十字架の死によって成就されたのであり、そしてわれわれがキリストを信じることができるのは聖霊の賜物によってのみであるならば、神のペルソナについての知識が人間の救いをただしく理解するために必要不可欠であるのはあまりにも明白ではないか、とトマスは考えた。
三位一体の神学はキリスト信者の最も根本的な信仰と結びついているのであって、けっして複雑で精妙な神学的思弁にふける神学者たちだけの関心事ではない、というのがトマスの確信であった。
2神のペルソナについてのトマス自身の神学的議論は、すでに確立された、神はあらゆる意味で単純であり(24)、最高度に一なるもの(25)である、という神の本質についての認識(もちろん否定による認識であるが)を前提とするものであった。
御父、御子、聖霊という三つのペルソナを区別することは、そのような神の「一性」と矛盾するのではなく、むしろ啓示の教えにてらして「一性」の意味をより深く理解しようとする試みなのである。
そのように見てくると、なぜトマスが『神学大全』で神の「一性」を考察したのに続いて、神における知ないし知性認識(26)、神における意志(27)と愛(28)について意外に思われるほど詳細に論述しているのか、その理由があきらかになる。
なぜなら神においては何らの複合、構成部分もありえないのであるから、神のうちに何らかの区別(たんに観念的にではなく実在的な)が認められるとしたら、神が自らのうちに何かを発出させ(29)、そうした発出(processio)あるいは起源(origo)によって生ずる神の内的な関係にもとづく区別しかありえないからである(30)。
そして神のまったき単純性ないし最高度の一性と矛盾しないような内的な発出といえば、知性認識において起こる知的言の流出あるいは出生(31)、および意志の働きにもとづく愛の発出のほかにはありえない(32)、とトマスは考えた。
言うまでもなく、神における言の出生、そして愛すなわち聖霊の発出は、「聖書のみ」によって肯定されることであるが、トマスはそのような神における内的発出についての考察にそなえて、神における知と愛について詳細な考察を行ったのである。
Ⅳトマスのペルソナ神学における信仰と理性
1このようにトマスは、ペルソナの実在的区別は神における内的な発出によって生ずる関係にもとづいてのみ理解できると考え、そして神における内的な発出は知性による認識の働き、および(知性的なちからである)意志の働きをよりどころにして理解できる、と考えた。
ところで、このように神におけるペルソナの区別を神における内的な関係にもとづいて説明し、そして神における内的な関係を知性的なちから、あるいは精神の働きにもとづいて理解しようとする試みは様々な誤解にさらされてきた。
たとえばそれは「三位一体のかたどり」(imagoTrinitatis)と呼ばれる人間の精神についてのふりかえりから直ちにその範型・原形である三位一体そのものを推論しようとする暴挙と見なされた(33)。
あるいはまた、このような試みは、神を人間の姿に似せて描きだす神話的擬人観を、神学的思弁のなかに持ちこむものにすぎない、と簡単に片付けられることも多かった(34)。
しかし、われわれがひとたび率直にトマスの議論をたどりさえすれば、前に指摘したように、彼が試みているのは始めから終わりまで聖書の言葉をただしく理解し、そこにふくまれている神の教えをできるかぎり十分に学びとること、それに尽きることは明白である。
知性(意志もふくめて)の働きにもとづいて神における内的発出を理解しようとする試みも、聖書が神について語ることは、神の完全性をより完全に分有しているはずの知性的実体をよりどころに解釈するほかはない、との理由によるもので(35)、けっしてわれわれが知っている知性の働きを基準にして聖書が神について語ることを判断しようとするものではない。
トマスは、人間理性がその固有のちからによって神のペルソナの区別の認識に到達することは絶対にできないことを一貫して主張し、明言している(36)。
人間理性がその固有のちからによって知りうるのは、人間に本性的に植えつけられている万物の第一の根源であり、究極の目的である神について必然的に肯定されるような事柄のみであって、神の内的生命そのものに関わるペルソナの区別は、ただ神の啓示にたいする信仰のみによって肯定されることなのである(37)。
しかし他方、人間理性は無限への可能性を有するちからであるから(38)、固有のちからによっては知りえない事柄にたいしても自らを開くことができ、信仰に導かれることによって「知られざるままの神に触れる(39)」という仕方で、ペルソナの区別についても何らかの認識に到達することができる。
トマスの三位一体論はそのような、人間理性が(自力では把握できない啓示の真理に自らを従わせる、との意味で)一種の自己否定ないし自己超越によって遂行する神認識である、と言うことができよう。
2これにたいしてアリウス派異端の創始者とされるアレイオス(Areios,二五〇頃─三三六)が追求したことは、まさしく三位一体の神秘を人間理性の論理に従属させることであった、とトマスは解している。
人間理性にとってはAがBを発出する、ということは原因と結果との関係であり、そして常に原因はそれに依存する結果よりも優位に立つ。
したがって聖書に、御子は御父から生まれ、聖霊は御父と御子から発出する、と記されていることから、アレイオスは、御子は御父からその第一の被造物として発出し、聖霊は御父と御子とから、この両者の被造物として発出する、という説を引き出した、というのである(40)。
アレイオス説は第一回普遍公会議(第一ニカイア公会議、三二五年)で異端説として断罪されたが、かりに人間理性が最高・唯一の規準であるとする立場をとった場合には、アレイオス説こそは理性に合致する聖書の解釈であると言えるのであり、アリウス派が古代において(おそらくは現代においても事情は変わっていない)一時期広汎な支持をかちえたことはけっして不思議ではない。
アレイオス説は唯一なる神にたいする信仰を、極めて合理的かつ説得的に基礎づける教説のように見えるからである。
同様のことがアレイオスに先立って人間理性を最高の規準にする「合理主義的」な仕方で神の一性とペルソナの区別とを両立させようと試みたサベリウス(Sabellius,二二〇頃活躍)の異端説──古くからモナルキアニズム(Monarchianism,単一始源・支配)と呼ばれ、ハルナック(AdolfvonHarnack,一八五一─一九三〇)によって「様態説」と命名された──についても言えるであろう。
サベリウスは御父、御子、聖霊という三つのペルソナの実在的区別は旧約聖書以来の唯一なる神についての教えに反すると考え、御子なる神とは御父なる神自身がマリアから肉を受け取ったかぎりでそう呼ばれるのであり、またその同じ神が理性的被造物を聖化し、生命へと動かすかぎりで聖霊と呼ばれるのだ、と説明した(41)。
言いかえると、サベリウスにとっては、聖書において御父なる神が御言である御子なる神を生む、とか、御父と御子から聖霊が発出する、と語られることは、人間理性が固有のちからでは理解できない神のうちなる生命についての啓示とは受けとられなかったのである。
彼はむしろ唯一なる神についての信仰を最終的に理性に合致する真理として受けとめた。
そして「合理的」とも言える唯一なる神についての理解を固守して、聖書が御父、御子、聖霊(なる神)について語ることはたんに唯一なる神がわれわれにたいして自らをあらわす様態(modus)にすぎないと考えたのである。
このような考え方は、こんにちでも「一神教」キリスト教について合理的な見方をする多くの人にとって抵抗なく受けいれられるものではなかろうか。
さきに、トマスの三位一体論は、人間理性が一種の自己否定ないし自己超越によって、啓示された真理、あるいはむしろ信仰の神秘にたいして自らを開く、という仕方で遂行される神認識である、と述べた。
それはより詳しく言えばどういうことか。
トマスは、すべての存在するものの第一の根源であって究極の目的(つまりすべての存在するものがその存在と働きにおいて全面的に依存している第一の根源・究極の目的──それをわれわれは神と呼んでいる(42))について、人間理性はその固有のちからによって、その「何であるか」を知りうる(もちろん根源的な無知を自覚した上で)と考えていた(43)。
人間理性が神について知りうる「何であるか」とは、万物の第一の根源・究極の目的である神について必然的に肯定されるような事柄であって、トマスはあらゆる意味での単純性、完全性あるいは最高善、無限性、万物における存在、あらゆる意味での不可変性、永遠性、そして最高度に一なるこ
と、などをそのように神について理性が必然的に肯定する事柄として枚挙している(44)。
これらの事柄が神について必然的に肯定され、これらは神についてのみ述語されうる、ということは、これら「属性」は神のアイデンティティー、言いかえると神が神であることを示すものだということであり、そのような認識において神が一であることが確証されるのである(45)。
トマスは、このように人間理性がその固有のちからによって神の一性を論証できる、ということを明確に認めていた。
ところが、聖書には御父(なる神)が御子(なる神)を生み、遣わす、とか、御父と御子から聖霊(なる神)が発出する、というふうに、あたかも複数の神が存在するかのような語り方が見出される──それと共に、御子と御父はまったく一である、という言明も見出されるのであるが(46)。
このような聖書の言葉が複数の神の存在を意味するものではないことは明白である──唯一なる神に対する信仰はキリスト教会の基本信条の最初に告白されることであるから。
しかし他方、複数の神という誤謬を避けるために、サベリウスやアレイオスが主張したように、真の神は御父なる神のみであって、御子や聖霊はその異なった現れ方にすぎないとか、あるいは御子と聖霊は被造物であると解することもできない、とトマスは考えた。
なぜなら、聖書は御父、御子、聖霊の区別はたんなる現れ方の相違にとどまるものではなく、またこの区別はそれら三者が等しく神であることを排除するものではないような語り方をしているからである。
そして何よりも、使徒たちから伝えられた教会の基本信条は、御父、御子(キリスト)、聖霊なる神を信じることを明らかに告白してきたからである(47)。
Ⅴトマスのペルソナ神学と存在論の「革新」
1では、唯一なる神にたいする信仰を堅持しながら、聖書が御父、御子、聖霊を明確に区別しつつ、等しく神として語っていることをどう理解したらよいのか。
前にも述べたように、全面的に聖書の教えにもとづいて神の認識をどこまでも探究しようとするトマスは、聖書が語る御父なる神、御子なる神、聖霊なる神という区別は、人間理性が固有のちからで到達することの可能な神の「一性」の認識とはけっして矛盾するものではない、と考えた。
それはむしろより親密に神の内的生命へとわれわれを招き入れ、神が一であることの意味をより深く、より豊かに悟らせてくれる教えであるというのが彼の一貫した立場だったのである。
ところで、さきにも触れたように御父(なる神)、御子(なる神)、聖霊(なる神)という区別は、それが実在的な区別でありながら神の一性をなんら傷つけないとすれば、御父、御子、聖霊という名前は、神の構成要素や部分を指すのではなく、むしろ神のうちに実在的に存在する関係を指すものと解するほかはない(48)。
これらの関係は、いずれも神であり、その意味では神の本質と同一なのであるが(49)、御子の出生とか、愛による聖霊の発出のように神の内部の異なった発出にもとづく関係であるかぎり、神の一性をそこなうことはなく、実在的に区別される、というのがトマスの説明である(50)。
神の最高の単純性と一性を肯定しながら、そこに実在的な区別を認めるのは、明白な矛盾と受けとられるかもしれない。
しかしここで言う実在的区別とは、関係を超えたものとしての神の本質に即しての区別ではなく、あくまで関係づけられたもの(たとえば御父と御子)に即しての区別であり、神の本質としての単純性と一性とを否定することにはならない(51)。
むしろ、御父(なる神)が「御父」と呼ばれるのは御子との関係にもとづくものであるから、関係の実在性、および関係にもとづく実在的区別を認めないならば、「御父」と呼びかけるのは空虚なことになるであろう。
このようにトマスによると、神の最高の単純性と一性をそこなうことなく、神のうちで実在的に区別されるものとは関係である。
そして神において御父、御子、聖霊という名前で区別される「ペルソナ」は関係を表示する名前にほかならない、と彼は主張する。
ところで、われわれが聖書で語られている、御父が御言である御子を生む、とか、御父と御子から聖霊が発出する、などの神における内的発出から出発して、発出ないし起源にもとづく神のうちなる関係へと進み、続いてこうした関係を表示する名前としてのペルソナ、というふうにトマスの三位一体論の神学的視野のうちにとどまりつつ、その議論をたどるかぎり、「ペルソナは関係を表示する」という命題はごく当然の結論のように思われてくる。
しかし、あらためて「神においてペルソナとは関係である」と言われると戸惑ってしまう者が多いのではないだろうか。
2なぜなら、「人格」「パーソン」という言葉でわれわれが通常理解するのは、自己意識をもつ存在、自己決定・自己支配の能力をもつ行為主体であり(52)、すくなくとも何かの部分あるいは性質のようなものではなくて、自ら存在するものでなければならないからである。
トマス自身、ペルソナ一般の定義として、自らの行為に対する支配力をもちつつ自ら存在するもの、という意味をふくめて「ペルソナは理性的本性において自存するものである(53)」と述べている。
したがって、神のうちに実在的に存在する関係は、それらが「ペルソナ」と呼ばれるかぎり、自ら存在するものでなければならない。
トマスは神のうちに実在的に区別される関係は、神の本質そのものであることを認めているから、神の本質がそうであるようにこれらの関係が自存することを当然のこととして肯定する(54)。
こうして彼は、聖書が唯一なる神について、御父(なる神)、御子(なる神)、聖霊(なる神)と別々の呼び方をすることの確認から出発して、この神秘を(あくまで信仰の神秘として受けとめつつ)神学者として人間的言語の能力の限りをつくして表現しようと試みた結果、最後に神のペルソナは「自存するものとしての関係」(relatioutsubsistens)を表示している、という結論に行きついたのである(55)。
トマスは「自存する関係」(relatiosubsistens)という用語が、「関係」および「自存するもの」という用語の通常的意味にてらして、明白な自己矛盾をふくむものと受けとられる、ということについて説明や弁明を加えることはいっさいしていない。
あたかも彼は、神のペルソナをこのように理解することは、神の一性、および神におけるペルソナの区別についての議論から論理的に導きだされる結論であって、読者はそのことを容易に理解できる、と考えていたかのようである。
しかし「自存する関係」は、それを「交わり・即・存在」と言いかえた場合にも、これらの言葉に通常与えられている意味にてらして言えば、やはり自己矛盾的、あるいはすくなくとも逆説的である。
したがって、トマスがそのことについて何ら説明する必要を認めていないとすれば、それはわれわれには秘められているが、彼にとっては極めて明白であった何らかの前提にもとづく、と考えざるをえない。
3さきに述べたように、トマスが神のペルソナは「自存する関係」を意味する、と言うとき、彼は神のペルソナにおいては「交わり・即・存在」であることを見てとっていた。
ここで、われわれが人間のペルソナに目を向けると、交わり、あるいはコミュニケーションがペルソナにとって本質的と言えるほどの重要な意味をもつことはあきらかである。
人間がペルソナであるのはすべての他者から区別された、この主体としてである、と考える論者にとっても、他者には無関心で、自らのうちに閉じこもる生き方はペルソナ性の放棄あるいは喪失と受けとられるであろう。
逆に、他者との交わりを豊かに保ち、家族、地域共同体、国の境界を越えてコミュニケーションを拡大することは、それこそ人間にふさわしい生き方であり、ペルソナ性の完全な実現と見なされよう。
しかし、人間のペルソナについては、現実に「交わり・即・存在」と言うことはできない。
いかに人間にとって「生きる」とは「共に生きる」ことであると力説する論者でも、人間の存在ないし生命には他者とは共有できない部分があることを認めざるをえない。
しかし他方、交わりを存在全体に及ぼし、いわば自らの存在を全体的に交わりに捧げることが、人間としての生き方、そのペルソナ性の完全な実現である、と考えることは可能である。
「友のために命を捨てる、これにまさる大きな愛はない」という聖書の言葉(『ヨハネ福音書』第十五章第十三節)は広く知られているが、それは友との交わりに自らの存在の全体を捧げることであり、この愛の行為において「交わり・即・存在」が或る意味で成就されているのである(56)。
ここで私はひとつの仮説を提示したい。
それは、トマスが神のペルソナは「自存する関係」を表示する、と述べ、神のペルソナにおいては「交わり・即・存在」が成立していることを示唆した──しかも何らの説明・弁明も必要としないかのように、いわば事柄そのものが語るという論調で──のは、神(の存在・本質)は愛である、という啓示から霊感をくみとった「ペルソナ論的存在論」と呼ぶのがふさわしい存在論にもとづいてであった、という仮説である。
この仮説
は、さきに述べたように、トマスの存在論ないし形而上学を、ギリシア哲学の源流に加えて、聖書的霊感によって根元的に転回・発展させられたものとして理解しようとする試みにもとづいている。
トマスの存在論を可能にしたのは、「神は愛である」という聖書の啓示からくみとった霊感である、という解釈が様々な困難な問題をふくむことは言うまでもない。
トマス自身、そのことを一度も言明していないし、「神は愛である」という聖書の言葉にもとづいて、神は「自存する存在そのもの」(IpsumEsseSubsistens)であるという形而上学的命題を「愛」の観点から論理的かつ説得的に解明してゆくことはけっして容易ではない。
しかし私は、存在そのものである神は最高善であり、そしてトマスはディオニュシオス・アレオパギテースと共に、神の本性(したがって神の存在そのもの)を最もあきらかに示すのはその善性(bonitas)である(57)と主張していることにもとづいて、神の存在そのものを愛の観点から解明することは可能である、と考える。
トマスは「善の本質側面は自己をおしひろげ、自己を他者に分与する(communicare)ことである」というディオニュシオスの言葉に公理的な意義を認め、それをしばしば自らの議論を基礎づけるために用いる(58)。
「神はなぜ人となったのか」という問題を考察するにあたっても、「自己を他者に分与することが善の本質側面であり、したがって最高善である神に適合するのは最高の仕方で自己を被造物に分与することである(59)」と述べている。
だが、これこそ神は愛であるという聖書の啓示を形而上学的言語によって言い表わしたものと言えるのではないか。
そして、このように神の存在(Esse)についてかちとられた洞察にもとづいて存在論を構築することは可能であり、トマスの三位一体論神学の背後にあった存在論はそのようなものであった、というのが私の仮説である。
4本章の当初で指摘したように、「人格」概念の問題点は、人格はその各々が唯一独自の、自ら存在する主体であることと、人格は他者との交わりにおいて在ることを本質的な在り方とする、という人格の二つの本質側面の間の、矛盾とも言いたい程の緊張関係である。
この問題点はたんに理論的なものではなく、人格が他者との交わりのなかで生きるとき、各々の人格の独立的主体としての在り方が全体の利益という名の下に様々な制限ないし抑制を蒙り、極端な場合には全面的に否定されるという実践的側面を有することも指摘した。
このような「存在」と「交わり」との間の、一見矛盾とも思われる対立・緊張関係は、友との交わりに自らの存在の全体を捧げる友愛の行為において実践的に解決されると考えることが可能であり、その場合の「存在」理解は神が「存在」であり、「愛」であるという聖書の教えから霊感を得たものであることも指摘した。
このような「存在」理解を前提とした場合、神的ペルソナを「存在・即・交わり」として理解することへの道が開かれ、そのことによって「人格」概念がふくむ問題点を理論的に解決することが可能となるのではないか、というのが本章で提示した仮説であった。
これまでの議論でこの仮説がどの程度確証されたかは読者の判定に俟つほかないが、私としては「人格」概念の理論的考察にあたって、「ペルソナ」の概念をめぐって行われてきた神学的探究の長い歴史に目を向けることには重要な意味がある、ということを示すことができたとすれば本章の目的は達成されたことになると考える。
注序論(1)テルトゥリアヌスについては第六章を参照。
(2)聖書で「天使」(angelus,)と呼ばれる有限な純粋に霊的な存在について次を参照。
稲垣良典『天使論序説』講談社、一九九六年。
(3)実際にわが国ではこのような誤解が広まっていることについて次を参照。
佐古純一郎『近代日本思想史における人格観念の成立』朝文社、一九九五年、二九一頁以下。
(4)参照。
G.E.M.Anscombe,”TheFirstPerson”,CollectedPhilosophicalPapers,II,U.ofMinnesotaPress,1981.(5)ここではかりに「人格」を「自己意識を有する」という特性にもとづいて理解しているが、後であきらかにされるように、それは「人格」の理解としては不十分である。
(6)「文法」という言い方をしたが、厳密には「心(精神)の形而上学」と言うべきであろう。
(7)「在る」とか「一」のような、最も単純と考えられるものが、「自分自身に現存する」あるいは「自己に還帰する」という存在の仕方をすることは、不思議に思われるかもしれないが、精神的な存在がそのような仕方をすることからわかるように、「存在」とは本来、自己還帰的なものと理解すべきであろう。
(8)存在するものはそれ自身であるかぎり、自分自身のうちに分割をふくまず、他のすべてのものから区別される(自己同一性を有する)ことのゆえに「一」である。
「一」は次に述べる「真」「善」などと共に、すべて存在するものが存在するかぎりで有する特性であり、存在するという働きの豊かさとしての完全性である。
(9)とくに『原因論』という書名の下にアリストテレスの著作として中世に伝えられたプロクロスの『神学綱要』(ElementatioTheologica)。
(10)この表現はボエティウスによるペルソナの古典的定義のうちに見出される。
(11)十二世紀初頭の人文学者シャルトルのベルナルドゥスに帰せられる比喩。
(12)参照。
PeterSinger,PracticalEthics,CambridgeU.Press,1993.(13)JohnLocke,AnEssayConcerningHumanUnderstanding,(1690),OxfordU.Press,1975,(ed.)P.H.Nidditch,II,xxvii,9.(14)参照。
稲垣良典「カント『人格』概念の批判的考察──自由、真理、愛」、ヨンパルト他編『自由と正義の法理念』成文堂、二〇〇三年。
(15)参照。
松本正夫『存在論の諸問題』岩波書店、一九六七年。
松本によると物質の実存、生命の実存の体験のほかに、精神の実存の体験があり、この体験を経て人間は「自他の人格の実感に迫られて、……倫理的に著しく深刻な責任行為の世界に踏込むことになる」(一一八─一一九頁)。
第一章(1)第三版、岩波書店、一九八三年。
(2)わが国では、「人格」よりは「人格性」の用語がよりしばしば用いられてきた。
参照。
佐古純一郎『近代日本思想史における人格概念の成立』朝文社、一九九五年。
(3)Leviathan(1651),Blackwell,Oxford,1960,P.I,ch.13,p.82.(4)たとえば、二十世紀後半、世界的に大きな影響を及ぼしたロールズは、彼の社会哲学の基礎に「啓蒙・洗練された利己主義」(enlightenedegoism)を置いている。
参照。
JohnRawls,”JusticeasFairness”,PhilosophicalReview,LXVII,1958,p.164194.(5)「自らを創造する」という表現は、サルトル(JeanPaulSartre,一九〇五─八〇)が『実存主義とは何か』(L’Existentialismeestunhumanisme,1946)で主張したように「人間はかれがそれであるところのものの全体を自ら造りだす」という意味においてではなく、人間は自らに与えられた「自由」という卓越した能力を行使して、神の創造の業に或る仕方で参加する使命を有する、との意味に理解すべきである。
(6)こんにち、人間学が多くの場合、倫理学から完全に切り離されているのは、このような人間本性の「断片化」が横行していることを示している。
(7)一人称単数の「わたし」については一九七五年に発表されたG.E.M.Anscombe,”TheFirstPerson”によって世界中の哲学者たちをまきこむ論争が引き起こされた。
(8)ImmanuelKant,KritikderReinenVernunft,A341405.なおこの問題に関して拙著『講義・経験主義と経験』知泉書館、二〇〇八年、第十二章を参照。
(9)「個人」という概念に内含されている「人間」ないし「人間本性」が豊かな可知的内容を有することは言うまでもないが、「個人」という概念について可知的内容を見出すことは困難であると言わざるをえない。
(10)ソクラテスが哲学(知恵の愛)の道に入ったのはデルポイの「汝自身を知れ」という神託にうながされてであったとするなら、この格言は「哲学的」というより哲学の「始原」と言うべきかもしれない。
(11)ATreatiseofHumanNature(1739),ed.P.H.Nidditch,Oxford,1978.(12)前掲拙著『講義・経験主義と経験』第十一章を参照。
(13)DeTrinitate.(14)アウグスティヌスはこの「デカルト的コギト」を想起させる表現を、最も初期のDeBeataVitaから、DeLiberoArbitrio,DeVeraReligioneなどの中期の著作、さらに後期のDeTrinitate,DeCivitateDeiに至るまで、繰り返して用いる。
有名なのは、DeCivitateDei,XI,26の「もしわたしが誤っているならわたしは在る」(Sienimfallor,sum)。
(15)自己認識はけっして心理学的な内観(introspection)の働きではない。
(16)トマス・アクィナスも精神(知性的霊魂)の自己認識について考察している箇所で、精神が何であるかを知ろうとする自己認識は容易ではなく「熱心で精妙な探究」(diligensetsubtilisinquisitio)が必要とされる、と述べている。
SummaTheologiae(S.T.),I,87,1.(17)知り、愛する、という働きが存在そのものと同一であるのは神においてのみである。
(18)「人格」は主体としての「わたし」であると言うとき、その「わたし」が意味のあるものであるためには、自己認識が何らかの仕方で成立しているのでなければならない。
(19)「存在」とは感覚によって知覚される物体について第一に語られる言葉ではなく、自己認識を行いうる精神的存在ないし、「人格」について語られる言葉である。
(20)「存在」と「一」は置き換えることが可能である。
S.T.,I,11,1.(21)バークリ(GeorgeBerkeley,一六八五─一七五三)は『人知原理論』(ATreatiseConcerningthePrinciplesofHumanKnowledge,1710)において、このような事物の場合、「在るとは知覚されることである」(esseestpercipi)という有名な主張をうちだした。
(22)厳密にこのような一性が確認されないかぎり「存在する」とは言えない。
(23)バークリも精神的存在についてはこのことを肯定している。
(24)後述する「人格経験」を参照。
(25)トマスも「自己愛」(amorsui)という言葉が自己中心的な、感覚的欲望にもとづく愛を指すものとして使用される場合があることを認めている。
S.T.,IIII,25,7.(26)この点については後に人格の形成について考察するさいにあらためて述べる。
(27)S.T.,IIII,25,4;7;26,3;4.(28)トマスは『神学大全』のなかでIIII,2327において愛徳について詳細に考察しているが、他の多くの箇所で愛徳について述べている。
(29)トマスにおける「徳」の概念について拙著『トマス・アクィナス倫理学の研究』九州大学出版会、一九九七年、第四、五章を参照。
(30)S.T.,III,62,4.(31)前掲拙著『トマス・アクィナス倫理学の研究』第二章を参照。
(32)『コリント人への第一書翰』第二章第九節。
『ペトロの第二書翰』第一章第四節ではこの善を「神性の分有」と表現している。
(33)S.T.,III,62,1.(34)トマスは人間の究極目的・至福の考察にあたって、アリストテレスから多くを学んでいるが、究極目的への到達に関しては根本的に異なる立場をとっている。
前掲拙書『トマス・アクィナス倫理学の研究』第二章参照。
(35)『ヨハネの第一書翰』第四章第八節、第十六節。
(36)ErosundAgape.GestaltwandlungenderchristlichenLiebe,2Bde,Gütersloh,1930.(37)Ibid.,II,S.476.(38)この問題に関してJosefPieper,ÜberdieLiebe,1972(『愛について』稲垣良典訳、エンデルレ書店、一九七四年)を参照。
(39)S.T.,IIII,23,2,ad1.(40)S.T.,IIII,23,1.(41)『ニコマコス倫理学』1158b301159a5.(42)『ヨハネ福音書』第十五章第十三節。
(43)自己を自己中心的ではない、友愛によって愛する、ということは一見自己矛盾のように思われるからである。
(44)S.T.,IIII,25,4.(45)Ibid.(46)S.T.,IIII,26,3.(47)とくに「共通善としての神」という概念は、トマスの神学思想において基本的な位置を占めるにもかかわらず、容易に理解し難く、受けいれ難い概念であるに違いない。
(48)「存在」という言葉をエンスおよびエッセと読みわけていることについては説明が必要であろう。
エンスと読む場合は「存在するもの」、つまり可能態としての本質と現実態としての存在との複合体を指しており、エッセと読む場合には現実態としての存在をとくに指している。
(49)トマスは『出エジプト記』第三章第十四節において預言者モーセに啓示された「わたしはある」という神の名に霊感を得て、神を「自存する存在そのもの」、すべての有限な被造物を存在とそれを限定する本質との複合体として理解する、独自の形而上学を構成した。
S.T.,I,4,2.(50)これはトマス形而上学の基本的立場である。
S.T.,I,4,1,ad3;2,ad3.(51)S.T.,I,8,1.(52)参照。
松本正夫『存在論の諸問題』岩波書店、一九六七年、一一七─一一九頁。
(53)すべての人間──胎児も「植物状態」に陥った人々をもふくめて──が人格であることはあきらかであるが、すべての人が人格とは何であるかを理解し、人格にふさわしい生き方をしているとは言えない。
(54)『政治学』1253a23.(55)Ibid.,1253a30.(56)Ibid.,1253a1519.(57)Respublica,I,XXV,39.(58)Plautus,前二五四頃─前一八四頃。
(59)参照。
拙稿「トマス・アクィナスの社会思想──共通善概念を中心に」、上智大学中世思想研究所編『中世の社会思想』創文社、一九九六年。
(60)同。
(61)同。
(62)前掲注(29)を参照。
(63)前掲拙著『トマス・アクィナス倫理学の研究』第二章を参照。
(64)参照。
拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』有斐閣、一九六一年。
(65)『ニコマコス倫理学』1130b2930.(66)この問題に関して拙著『法的正義の理論』成文堂、一九七二年を参照。
(67)参照。
ジャック・マリタン『人格と共通善』(邦訳題『公共福祉論』)大塚市助訳、エンデルレ書店、一九四九年。
(68)前掲拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』を参照。
(69)「人格」は「存在」ないし「所与」ではなくて「成就・達成」であると主張する立場もある。
(70)参照。
拙稿「『人間の教育』とそのユートピア的構想」新・岩波講座・哲学、第十二巻、岩波書店、一九八六年。
(71)哲学者としてとくに人格の哲学の分野で優れた研究を行った教皇ヨハネ・パウロ二世はこのことを多くの箇所で強調している。
KarolWojtyla,TheActingPerson,D.Reidel,1979;PersonandCommunity,PeterLang,1993;CrossingtheThresholdofHope,AlfredA.Knopf,1994.第二章(1)ホッブスは『リヴァイアサン』第一部『人間論』”ofMan”の最終章(Chap.16)で人格の概念を論じている。
ThomasHobbes,Leviathan,Blackwell,Oxford,1960,p.105.(2)JohnLocke,AnEssayConcerningHumanUnderstanding,II,27,3.ここでロックは人格の同一性の問題を論じているが、その議論は直接に経験される意識の連続性のレベルにとどまっており、「人格」概念の形而上学的解明への道は閉ざされている。
言いかえれば、ロックは「未知の何らかのもの」(unknownsomething)にすぎない「実体」としての人格は考察から除外して、直接的に観察・記述することの可能な、その意味での「心理学的」人格に目を
向けたのである。
(3)参照。
前掲拙稿「カント『人格』概念の批判的考察──自由・真理・愛」。
(4)参照。
平田俊博「人格」『岩波・哲学思想事典』岩波書店、一九九八年、八〇四─八〇五頁。
(5)「人間における神的なるもの」という表現は、哲学的には厳密さを欠き、誤解を招き易いかもしれない。
「神的なるもの」という言葉で考えられているのは恩寵ないし超自然的レベルでの「神化」(deificatio)ではなく、人間存在における知性(intellectus)ないし精神(spiritus)の要素であり、ボエティウスの「人格」定義では「理性的本性」(naturarationabilis)という言葉によって表示されているものにあたる。
ここであえて「神的なるもの」という言葉を用いたのは、人間理性の射程を可感的、物質的領域のみに限定する「世俗化」ないし「啓蒙」の立場にたいする批判の意味をこめてのことである。
なお人間知性のうちに何らかの神的要素を認めるのは、キリスト教神学の影響ではなく、アリストテレス(いわゆる「能動知性」)にも見られる考え方である。
(6)参照。
拙稿「人格と真理」『福岡女学院大学紀要』三号、一九九三年。
(7)人格の「尊厳」を強調するこの表現はトマスの著作のうちに見出される。
cf.S.T.,I,29,3.(8)ここで第一原因・究極目的と呼ばれている存在は、すべての人間が自然的に認識している神にほかならない。
それはわれわれが神について考えるというよりは、「神」と呼びかけ、よりすがるときに、われわれが暗黙的に理解している神であり、この意味での根源的で普遍的な「神」観念を認めないかぎり、そもそも人格について考えることはできない、というのが本章の基本的立場である。
(9)参照。
BlaisePascal,Penséesetopuscules,Hachette,Paris,「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めることである」(267)。
(10)Ibid.「このような理性の自己否定ほど、理性にとってふさわしいことはない」(272)。
人間理性が本来的に関わるべき対象は自らを超える無限なるもの、永遠なるものであって、自らがその法則を知ることによって支配し、使用できるような外的事物ではない。
(11)私はここで「平等」をめぐる論争が、洋の東西を問わず、古代から現代にいたるまで続いてきており、現在も様々の形で論争が行われていることを否定するつもりはない。
「平等」(「均等さ」(aequalitas))の観念について詳細に論じることはここでは不可能であり、ここでは、あらゆる差別──それは「無関係な」(irrelevant)差異にもとづく不当な区別である──を排除することをめざす平等の理念が人々の間で自明的なものとして受けとられていることを指摘するにとどめる。
(12)現代社会を特徴づけているのは、何よりも人権意識であるが、それは言いかえると差別されてきた人々の人権を回復しようとする運動であり、全体として平等の理念にもとづくものである。
(13)すべての人間に共通である人間性あるいは人間本性は、たとえば無神論者J‐P・サルトルによるとその存在そのものが否定される(JP.Sartre,L’existentialismeestunhumanisme,1946)。
またそれが厳密にいっていかなるものであるかについては、十八世紀にヒュームが楽観的な見通しを立てたにもかかわらず(DavidHume,ATreatiseofHumanNature,173940)、果てしない議論が戦わされている。
しかし、人間が自己認識ないし自己理解の能力を有するかぎり、人間本性についての何らかの認識が可能であることは否定できない。
ジャック・マリタンは、或る箇所でバートランド・ラッセルをはじめ非常に賢明な哲学者たちはしばしばナンセンスなことをきわめて見事に弁護するが、「わたくしはここでナンセンスなことを論じている暇がないから、わたくしは、人間の本性なるものが存在し、そして人間の本性が万人において同一であるとわれわれが承認することを、もちろんのこととして前提する」と言明している。
『人間と国家』久保正幡・稲垣良典訳、創文社、一九六二年、一一九─一二〇頁。
(14)したがって「平等の原則」は人間社会において見出されるあらゆる差異、多様性を廃止することを要求するのではなく、現実に存在する差異や多様性によって、人々が差別される──つまり、かれらの正当な権利を奪われる──ことがあってはならないことを要求するものであり、その意味でそれは正義の原則──「各人にその権利を」(jussuumunicuique)──と合致する。
(15)平等の原則を欲望、競争心、ないしその他の感情といった主観的要素によって正当化するのではなく、客観的根拠にもとづいて、理論的に基礎づけることが問題であり、それはけっして自明的なことではない。
(16)この価値はけっして単に主観的なもの、あるいは実在(reality)から切り離された領域に属するものではありえず、むしろわれわれが通常「実在」として捉えている事物や出来事以上に「実在的」なるものでなければならない。
価値を存在から切り離すことが正当化される(或ることが事実行われているからといって、それが直ちに正しい、善いことであるとは言えない……)のはわれわれの日常経験のごく表面的な層においてであって、われわれの道徳的経験の深い層においては、「価値こそは存在である」「そこから価値がひきだされえないような存在は存在の名に値いしない」と言うべきなのである。
(17)ここでわれわれは通常「価値」(value)と呼ばれているものについて、人間中心的な「価値」と人間を超え、人間存在を基礎づける「価値」とを区別する必要がある。
(18)このような状況の根底にあるのはわが国の思想界を強力に支配している、啓蒙主義的な人間中心主義という独断である。
私はかつて「人間中心主義は人間に最高の価値を認め、人間を絶対者の位置に高める立場のように見えて、実はすべての価値を否認するニヒリズムにすぎない」と述べたことがあるが(拙稿「キリスト教と人権──真の政治的ヒューマニズムをめざして」『東洋学術研究』第三十七巻第二号、一九九八年)、そのことは平等の原則をめぐる現在の状況についても言えると思う。
(19)わが国の思想界において暗黙の前提となっている啓蒙主義的人間中心主義の独断を根本的に批判し、それから脱却しないかぎり、平等の原則および人間の基本的人権を理論的に基礎づけようとする試み自体が成立しないのである。
(20)高木八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』岩波文庫、一九五七年。
(21)同上、「人および市民の権利宣言」の解説も、この二つの権利宣言を連続的に理解している。
(22)ここには、J‐J・ルソーの「人は生まれながらに自由平等である」という思想の影響が認められる。
(23)そこにあるのは『創世記』第一章第二十六節の、人間は「神にかたどり、神に似た者として」(adimaginemetsimilitudinemDei)創造された、という「人間」理解である。
(24)米国第十六代大統領リンカーンは、一八六三年十一月十九日に行ったGettysburgAddressにおいて、このことを明確に言明した。
なお、この言明の意味について次を参照。
JohnCourtneyMurray,WeHoldTheseTruths.CatholicReflectionsontheAmericanProposition,ImageBooks,1964.(25)このことは、私が知るかぎり、わが国の政治思想史の文献においては完全に無視されている。
(26)わが国では、平等の原則はほとんど常に「自由・平等・友愛」というフランス革命の政治的スローガンにもとづいて理解されており、この原則の根底にある人間の絶対的価値について理論的探究を行う道は原理的に閉ざされている。
(27)「カントが哲学史上に残した不朽の功績は哲学における人間的立場の確立という点に存する」(岩崎武雄『カント』勁草書房、一九五八年、二八一頁)。
黒積俊夫『カント批判哲学の研究』名古屋大学出版会、一九九二年、同『カント解釈の問題』渓水社、二〇〇〇年も、カントは「内在論」の立場を徹底的に追求することによって「人間の立場」を確立したことを一貫して主張している。
(28)この「人間」理解の根本的特徴は人間ないし人間性を、それ自体で自己完結的なものとして理解するところに見出される。
言いかえると、人間が何者であるかは、人間が「そこから出て、そこへと帰る」とされる、神との直接的な結びつき──たとえば「神の像」(imagoDei)としての人間、という「人間」理解の場合のように──なしにも完全に理解できるという見解である。
言うまでもなく、このような「人間」理解は必ずしも「無神論的」であるとはかぎらないし、またカントの場合にそうであったように、敬虔な宗教性と両立することも可能である。
問題は人間を人間として根源的・哲学的に理解しようとする試み
において、神との直接的な結びつきを考慮に入れる必要があるか否か、ということであり、カントはあきらかに、その必要を否定する「人間的立場」にくみしていた。
(29)参照。
『広辞苑』第五版。
(30)人間は自由ないし自由意志(決定)(liberumarbitrium)の能力を有することによって自然の必然性を超え出ている、という思想はカントにおいて初めて見出されるのではなく、たとえば十二世紀のクレルヴォーのベルナルドゥスは人間的自由の第一の段階として「自然本性の自由」(libertasnaturae)、すなわち「必然性からの自由」(libertasanecessitate)について語っている。
参照。
拙稿「教養と自由──ベルナルドゥスにおけるキリスト教的ヒューマニズム」、稲垣良典編『教養の源泉をたずねて』創文社、二〇〇〇年。
(31)人格(理性的存在者)はそれ自身における目的(Zweckansichselbst)として存在する、というテクストはカントの著作の数多くの箇所で見出されるが、ここではGrundlegungZurMetaphysikderSitten,II,Suhrkamp,VII,S.5961を挙げておく。
(32)この問題について前掲拙稿「カント『人格』概念の批判的考察──自由・真理・愛」を参照。
(33)極端な個人主義の立場においては、社会は多数の個人のたんなる集合であり、それ自体なんらの実在性(reality)ないし存在性(entity)も有しないのであり、したがってそれを「全体」と呼ぶこともできないであろう。
他方、社会という「全体」に何らかの実在性を認めるとしても、それが厳密にいかなる実在性であるかは社会哲学にとっていわば永遠の問題である。
(34)(社会的)役割の観点から「ペルソナ」の概念を論じた研究として次を参照。
H.H.Perlman,PersonasocialRoleandPersonality,TheUniversityofChicagoPress,1968.(35)とくにわが国では、佐古純一郎『近代日本思想史における人格概念の成立』朝文社、一九九五年、が示している通り、「人格」「人格性」の用語と概念そのものがカント哲学にもとづいて形成されたのであり、カントの「権威」は不動のものとなっている。
(36)参照。
坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店、一九九六年、片山寛『トマス・アクィナスの三位一体論研究』創文社、一九九五年。
本章ではこのような古代ギリシア哲学に由来し、キリスト教の影響の下に、形成された思想の流れを、かりに「伝統的哲学」と呼ぶことにする。
(37)カントの倫理学は、功利主義的幸福論(eudaimonism)を厳しく批判する義務論(deontologism)の立場であるとされ、義務は何ら経験的実質をふくまない普遍的な道徳的法則のみを対象とするところから、形式主義的として批判されることが多い。
このような批判にたいする反論もあるが(黒積俊夫『カント解釈の問題』渓水社、二〇〇〇年)、ここではカント倫理学の「形式主義」の問題には立ち入らず、カントが道徳性の原理として提示するものは、キリスト教思想の長い伝統にてらして見るとき、道徳性の「最小限」の条件とも言うべきものにとどまっていることを指摘したい。
「義務」道徳が「熱望」の道徳との比較においての最小限の道徳であることについて、次を参照。
L・L・フラー『法と道徳』稲垣良典訳、有斐閣、一九六八年。
(38)トマス・アクィナスは『神学大全』第一部第五問題第六項において、善のこの区分について述べるにあたって、アンブロシウス(Ambrosius,三三九─三九七)の『聖職者の義務』(DeOfficiisMinistrorum)を引照しており、この区分が周知のものであったことはあきらかである。
(39)この区分において三つの善は同じレベルに属するものとして語られているのではなく、高貴善、快適善、効用善という序列に従って類比(アナロギア)的に語られているのである。
(40)人格を行為の主体ないし担い手として理解することは自明的なことと見なされることが多いが、人格がいかなる意味で能動者(agens)としての原因性(causalitas)を行うのかはかならずしもあきらかではない。
能動者ないし能動原因(causaagens)としての人格という問題に関して次の拙稿を参照。
「行為の主体について」、九州大学研究室編『行為の構造』勁草書房、一九八三年。
なお、この問題に関して、K・ボイチワ(教皇ヨハネ・パウロ二世)の人格の哲学から学ぶところが多かった。
cf.KarolWojtyla,TheActingPerson,D.Riedel,Dordrecht,1979;ThePersonandCommunity.SelectedEssays,PeterLang,N.Y.1993;JaroslawKupczak,DestinedforLiberty,TheHumanPersoninthePhilosophyofKarolWojtyla/JohnPaulII,TheCatholicUniversityofAmericaPress,2000.(41)この言明はほとんど逆説を弄するように響くかもしれない。
カントの倫理学の全体が人間の人格としての在り方の完全な実現、という目標に向けられており、そのためにわれわれはどのように行為すべきかを論じたのではなかったのか。
しかし、私の解釈では、カントが徹底的な仕方で論じた道徳性ないし徳の完全な実現へと向けられた営為の全体が、明確な究極目的の概念を欠如しており、したがって彼は厳密な意味での倫理的行為(それは究極目的、すなわち幸福への秩序づけにおいて成立する)の概念を確立することができなかったのである。
(42)ここではそれら様々の言明を紹介することはしない。
(43)これら「幸福」に関する様々の言明においてあきらかに認められる特徴は、幸福そのものを目的とする行為の全体は、厳密な意味での道徳的行為ではなく(自由な意志、ないし実践理性によって遂行されるものではないから)、たんに「怜悧(賢慮)」(Klugheit)の原理にもとづく自然的営為にすぎない、とする見解である。
これにたいして、厳密な意味での道徳的行為は、たんに義務に適合しているだけでなく、義務のゆえに為される行為、すなわち「徳」(Tugend)の行為である。
(44)GlückseligkeitistderZustandeinesvernünftigenWesensinderWelt,demes,imGanzenseinerExistenz,allesnachWunschundWillengeht,undberuhetalsoaufderÜbereinstimmungderNaturzuseinemganzenZwecke,imgleichenzumWesentlichenBestimmungsgrundeseinesWillens.第一部第二篇「純粋実践理性の弁証論」第二章、第五「純粋実践理性の要請としての神の現存」。
(45)このような考え方は『道徳形而上学の基礎づけ』および『実践理性批判』において繰り返し述べられている。
(46)『実践理性批判』I,II,2,4の注を参照。
(47)この表現は『道徳形而上学の基礎づけ』の冒頭において見出される。
それに続いて「理性と意志とを具えた存在者の保全と安泰」という表現が用いられており、これがカントは自身の倫理学的立場と両立する「幸福」の概念であったと思われる。
なお、カントの「幸福」概念については次の研究から学ぶところが多かった。
宇都宮芳明『カントと神』岩波書店、一九九八年。
(48)カントは幸福そのものを目的として追求する人々の「万事意のままに運ぶ状態」という「幸福」概念とは明確に一線を劃しつつも、徳の追求と実現にともなう内的な心の平和、および適度な外的善の確保という、きわめて常識的な、陳腐とも言える「幸福」概念を受けいれていた。
(49)最高善は、それを分有することによってすべての善が善であるような善そのものとしての神、およびそのような最高善への到達を意味する。
幸福はこの後者の意味での最高善であり、最高善への到達が何らかの働き・行為によるものであるかぎり、幸福は満足・自足の状態であるよりは、何らかの働き・行為に存する。
cf.S.T.,III,3,2.(50)『実践理性批判』I,II,ii.カントが最高善と呼んでいるものの主な内容は徳、すなわち倫理的善であり、幸福は不可欠ではあっても、第二次的な善にとどまっている。
(51)カントは『実践理性批判』第一部第一篇第二章、および第二篇第二章においてこのような「古代哲学」における試みについて論評している。
(52)後述するように、カントにおいて「人間本性」は原理的に完結され、閉ざされたものであるところから、「人間であること」の完全な実現──それが幸福の本来的な意味である──を目的とする倫理学が構築される可能性は排除されているのである。
(53)Suhrkamp,VII,S.47.『実践理性批判』においても、「幸福についての判断は臆見に、その上、極めて変り易い臆見にもとづいている」と言われている。
Ibid.,S.148.
(54)Ibid.,S.47.(55)日常経験の場面における発言としてはいざしらず、哲学者の発言としては理解し難い。
(56)このことは、たとえば『実践理性批判』において、幸福の原理は格律(Maximen)とはなりえても、けっして道徳法則とはなりえない、と言われていることにおいて明白に認められる。
Suhrkamp,VII,S.148.(57)「自由」の領域を「自然」の領域を超えるものとして後者に対立させることは、一応は理解できるが、「自由(意思)」という能力をそなえていることも「自然(本性)」に属することであり、そのような「自由」の領域をもふくむ、より普遍的で包括的な「自然(本性)」の秩序を考える必要がある。
(58)たしかに「幸福」にも何らかの場所を与えようとするこうしたカントの配慮は、カント倫理学がたんなる形式主義あるいは厳格主義ではなかったことを示すものと言えるかもしれない。
しかし、そこでカントが提示する「幸福」概念には疑問を抱かざるをえない。
(59)この点に関して、敬虔主義(Pietismus)の影響を考慮すべきであるかもしれない。
(60)この点は「幸福論」として特徴づけられることの多いアリストテレスやトマスの倫理学も同様であり、究極目的ないし最高善としての幸福はけっして個別的ないし特殊的意志の直接的対象として理解されてはいない。
(61)幸福論、ないし目的論的倫理学と義務論的倫理学の問題に関して次の拙稿を参照。
「目的論・対・義務論」『トマス・アクィナス倫理学の研究』一九九七年、九州大学出版会、第十二章。
(62)このようなカント批判は読者を驚かせるかもしれない。
カントは義務にもとづく、自律的行為として道徳的行為の成立を解明することに全力を尽くしたのではないか。
しかし、意志が何らかの善を意志するのは、それのゆえに他のあらゆる善が善であるような、最高善としての究極目的が根源的に意志されることによるのであるから、この意味での最高善・究極目的としての「幸福」があることを認めないかぎり、道徳的行為の成立は説明できないのである。
(63)ここで言う「自然(本性)」は、カントが「自由」の領域と対立するものとした「自然」よりも、より普遍的で包括的な概念である。
(64)この問題に関する詳細な考察として次の拙著を参照。
『抽象と直観』創文社、一九九〇年。
(65)人間存在ないし人間本性がそれ自体において完結したものとして理解されることの顕著な徴しは、中世末期以降、「習慣」(habitus)概念が人間に特有の、自然本性の実現・完成(挫折・崩壊の可能性をふくめて)という意味を失ったことにおいて認められる。
参照。
拙著『習慣の哲学』創文社、一九八一年。
(66)言いかえると、神性の分有による人間本性の究極的完成という考え方は排除される。
(67)倫理徳、および信仰、希望、愛という対神徳は人間本性の本質的・根源的な意味での実現・完成とは考えられていない。
(68)これは教父以来の「神化」(deificatio)による人間本性の究極的完成、という考え方にもとづいている。
参照。
拙著『神学的言語の研究』創文社、二〇〇〇年、第九章。
(69)最高善である神との一致は何よりも愛(caritas)によって実現されるとも考えられるが、愛はむしろ一致へと動かし、成就された一致において憩い、悦ぶ「働き」であり、一致そのものを実現するのは知性による認識の働きである。
S.T.,III,3,1,ad4.(70)S.T.,III,15におけるトマスの詳細な考察を参照。
(71)とくにカントにおいて道徳的行為は常に困難の要素を含んでいることからして、道徳的行為が直ちに幸福と同一視されることはありえない。
徳は他の目的に到達するための手段と見なされてはならず、それ自体において価値あるものであるが、人間自身が最高の存在であるのではないかぎり、人間本性の完成としての徳は究極目的である幸福への「道」であって、幸福そのものではありえない。
(72)観照の概念に関して、次の拙稿を参照。
「愛と観想」、上智大学中世思想研究所編『トマス・アクィナスの倫理思想』創文社、一九九九年。
(73)S.T.,III,3,5;8.(74)Aristoteles,Metaphysica,1072b1630.(75)すなわち、アリストテレスのいう徳(アレテー)。
(76)EthicaNicomachea,I,1101a15;X,1177a12.(77)S.T.,III,4,4.(78)「幸福への道」(viaadbeatitudinem)という表現は、徳(対神徳をもふくめて)を指す表現としてトマスにおいて定着しているのではない。
『マタイ福音書註解』(SuperEvangeliumS.MatthaeiLectura)cap.5,lectio2においては活動的生活における行為がviaadbeatitudinemと呼ばれ、徳がviaeinbeatitudinemと言われている。
『詩編註解』(PostillasuperPsalmos)31,1においては、徳がviabeatitudinisと呼ばれている。
しかし、この表現がそのまま用いられているのではないが、『神学大全』第二─一部においては、意志の直しさ、ないし徳の行為が至福への到達に必要であることが指摘されており(S.T.,III,4,4;5,7;62,1)、徳を「幸福への道」と呼ぶことはトマスの基本的な考え方と一致する。
(79)ホセ・ヨンパルト『学問と信仰──一法学者の省察』創文社、二〇〇四年、四七─四八頁。
(80)すでにアウグスティヌスにおいて「ペルソナ」と「人間」(homo)は同義語として用いられている。
しかし、言うまでもなくそれらの意味内容が完全に重なり合うのではない。
H.R.Drobner,PersonExegeseundChristologiebeiAugustinus.ZurHerkunftderFormel《unaPersona》,E.J.Brill,1986,S.106.(81)自らの行為の「主」であることが「人格」の本質的特徴であることは十三世紀のトマスは明確に認めている。
S.T.,I,29,1.(82)金子晴勇『近代自由思想の源流』創文社、一九八七年、三頁。
問題は著者が指摘している通り、自律が神律をも含む意味で用いられているか、あるいは神律を排除するものであるか、である。
(83)この問題に関して次を参照。
K・リーゼンフーバー『中世における自由と超越』創文社、一九八八年、第三章「自由選択の本質と課題──トマス・アクィナスから近世初期にいたるまでの自由観」七九─一一九頁。
(84)人間の自由は、神が人間を自らの「像のごとく似姿のごとく」(『創世記』第一章第二十六節)造ったのみでなく、人間と自らの至福をわかちあうことを望んだ、すなわち人間と友愛の交わりに入ることを望んだ、ということにその究極の基礎を見出す、と解すべきである。
「神の像」としての人間については、S.T.,I,93,19を参照。
友愛としての神の愛については、S.T.,IIII,23,1を参照。
(85)前掲、リーゼンフーバーの論文を参照。
(86)このような自己立法としての自律という考え方は、カントにおいて明白に表明されている。
参照。
前掲拙稿「カント『人格』概念の批判的考察──自由・真理・愛」。
(87)S.T.,III,1,2;9,1.(88)人格は、自らが人格として為す行為を通じて、自らを人格として完成するのであるから、それのゆえにすべての活動を為すべき目的を喪失した人格は、もはや自らを完成してゆく道を閉ざされ、空虚な存在とならざるをえないのである。
(89)近代の「人間」観が陥ったこのような人間中心主義の批判について、拙著『人間文化基礎論』九州大学出版会、二〇〇三年を参照。
(90)S.T.,I,83,4.(91)S.T.,I,82,1.(92)前掲、リーゼンフーバー論文、とくに九六頁を参照。
(93)参照。
前掲拙著『抽象と直観』。
(94)ベルナルドゥスは、救いの「全体が神の恩寵によって全体が自由意志において」totumexilla(gratia),totuminillo(liberumarbitrium)と理解した。
参照。
前掲拙稿「教養と自由──ベルナルドゥスにおけるキリスト教的ヒューマニズム」。
(95)参照。
拙稿「キリスト教的ヒューマニズムの危機──エラスムスとルター」『人間文化基礎論』第一章第三節。
(96)参照。
金子、前掲著、第八章「ルターと神学的決定論」。
(97)同上。
cf.B.A.Gerrish,GraceandReason.AStudyintheTheologyofLuther,Oxford,1962,pp.2526,119,169170.(98)参照。
金子、前掲著、第十章第七節。
(99)S.T.,I,29,1.(100)人格が自由ないし自律的な主体であることは自明的なことと見なされているが、人格が能動的な主体ないし能動原因であることはほとんどあきらかにされてこなかった。
この問題に関して拙稿「行為の主体について」『行為の構造』、第一章を参照。
(101)S.T.,I,82,1,ad3.(102)S.T.,I,82,1,III,10,1.(103)S.T.,I,82,1.(104)「意志性」(voluntarium)の概念に関して次を参照。
S.T.,III,6,1.(105)意志は霊魂の他の諸能力をその働きへと動かし(S.T.,III,9,1)、また自らの行為の「主」として、意志することも意志しないことも自らのうちにあり、その意味で意志は自らを動かすものである(Ibid.,9,3)かぎりにおいて、最も能動的であると言える。
しかし、意志の最も根源的な働きは、善一般(bonumincommuni)ないし究極目的へと向かう自然本性にもとづく働きであり、この働きにおいては意志は「受動的」なのである。
(106)ここでは詳しく述べることはできないが、人格は自らの「存在」を与え、他者と共有する愛の行為において自らの存在を完成する、という逆説をふくんでいる。
参照。
前掲拙稿「カント『人格』概念の批判的考察」一五頁。
福音書において繰り返し「自分の命を保とうとする人はそれを失い、わたし(イエス・キリスト)のために命を失う人はそれを得る」(『マタイ』第十章第三十九節、第十六章第二十五節、『ルカ』第十七章第三十三節、『ヨハネ』第十二章第二十五節)と言われていることもこの逆説に触れていると解することができる。
(107)cf.J.Maritain,LaPersonneetlebiencommun,p.190,OeuvresComplètes,Vol.IX,ÉditionUniversitairesFribourg,Suisse,1990.第三章(1)例えばSpaemannは「人格」(person)の概念を「或る物」(etwas)と「或る者」(jemand)の区別を通じて明確にしようと試みている。
RobertSpaemann,Personen,VersucheüberdenUnterschiedzwischen>etwasjemand<,KlettCotta,1998.(2)人格は自らが根源的な意味で始源であるかぎり、システムとしての世界の単なる部分ではなく、或る意味で世界の「中心」であり、「全体」である。
(3)言いかえると、単なる「手段」として「使用」ないし「処理」されることが許されない存在である。
(4)この問題に関して次を参照。
G.E.M.Anscombe,”TheFirstPerson,”CollectedPhilosophicalPapers,Vol.II,UniversityofMinnesotaPress,1981,p.2136.(5)「自己決定」「自己支配」「自己所有」などの概念をめぐる興味深い考察として次を参照。
KarolWojtyla,TheActingPerson,D.Reidel,1979,p.105148.(6)参照。
『広辞苑』「……道徳的行為の主体としての個人。
……法律関係、特に権利・義務が帰属し得る主体で、法律上、独自の価値の認められるべき資格」。
(7)たとえば一九六〇年代、SidneyShoemaker,SelfKnowledgeandSelfIdentity,CornellUniversityPress,1963の出版を機に論争の的となった人格同一性の問題、一九九〇年代にPeterSinger,PracticalEthics,CambridgeUniversityPress,1993が発端となって激しく論争された「パーソン」の範囲の問題。
(8)「個体」の認識、あるいは「個体的本性」の問題は古くから難問とされてきた。
(9)「人格」は理性的本性によって特徴づけられる、「この」自ら存在する個体である、というのが古典的な「人格」理解である。
(10)時として「個人」もまさに「個人」としてかけがえのない存在としての価値があると主張されることがあり、「人格」の独自の価値は必ずしも明瞭ではない。
(11)参照。
前掲拙稿「カント『人格』概念の批判的考察」『自由と正義の法理念』。
(12)物質的存在は万人が何らの修練も必要とせずにその存在することを経験できるが、生命の存在を経験するためには何らかの修練を通じて態勢づけられることが必要であり、さらに精神の存在を経験するためには大きな困難をともなう修練を経て、精神が自己へと完全に立ち帰りうる態勢・習慣を身につけることが必要とされるのである。
参照。
松本正夫『存在論の諸問題』岩波書店、一九六七年、一一八頁。
(13)精神ないし霊魂と、身体との複合体である人間存在は、その精神という極からして人格であり、身体あるいは(より厳密には)質料という極からして個体ないし個人であると説明されている。
cf.J.Maritain,LaPersonneetleBienCommun,DescléeDeBrouwer,1942,c.3,IndividualitéetPersonnalité.この説明は重要であり、私も基本的に受けいれるが、ここでは「人間的ペルソナ」を構成するのは精神と身体の両方であることの指摘にとどめる。
(14)トマスは「理性的本性において自存するもの」(subsistensinrationalinatura)としてのペルソナは「全自然における最も完全なるもの」(idquodestperfectissimumintotanatura)であり、したがって「ペルソナ」という名称が神について語られることは適切(conveniens)である、と論じている。
S.T.,I,29,3.(15)われわれは、人間存在はペルソナであることによってこの世界において優越した位置を占めている、という考え方に慣れているが、「ペルソナ」が本来的にそこで語られる精神的存在の領域においては最下位を占めているのである。
「ペルソナ」の概念を理論的に考察するさいにはこの点を見落としてはならない。
(16)人間的認識についてのこのような立場は、いわゆる「経験論哲学」にのみ限られるのではない。
人間が自然本性的な能力によって遂行する認識は感覚から始まり、可感的なものを通じて導かれてゆくことが可能なところまで到達しうるのである。
ただし、このように人間的認識の全体が根源としての感覚に依存するとはいえ、経験論哲学が主張するように、それは感覚的認識のうちに閉じこめられているのではない。
参照。
拙著『トマス・アクィナス哲学の研究』創文社、一九七〇年。
(17)カントによる伝統的な形而上学批判を妥当とする立場から言えば「人格」の理論的認識は「極めて困難」というより、むしろ、「不可能」と断定されるであろう。
しかし、カントの形而上学批判は限られた視野のなかで遂行された独断的なものであり、そのまま受けいれることはできない。
(18)参照。
坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店、一九九六年。
(19)「ペルソナ」概念が古代・中世のキリスト教神学の歴史のなかで三位一体論やキリスト論の枠組のなかで形成されてきたことは事実であるが、そこから「近代まで形而上学の周辺的な一術語にすぎなかったが、カントが哲学の中心概念に高め〔た〕」(平田俊博「人格」『岩波哲学・思想事典』岩波書店、一九九八年、八〇四頁)と結論することは、古代から中世に到る「ペルソナ」概念をめぐる豊かな「哲学的」探究を無視する誤りである。
(20)たとえば神のペルソナが三であることは人間知性の自然的能力によってはけっして認識されえない(S.T.,I,32,1)が、啓示によって可能となった神的ペルソナについての理解にもとづいて、神と天使および人間について類比的に語られる「ペルソナ」の意味がより正確に理解されうるのである(S.T.,I,29 4)。
(21)この区別は神学的議論にふくまれている「ペルソナ」概念と哲学的議論にふくまれている「ペルソナ」概念とを区別する、という仕方で機械的に行うことはできない。
たとえば、トマス・アクィナスは倫理学的考察において「ペルソナ」の概念に重要な位置を与えてはいない。
拙稿「トマス倫理学におけるペルソナと自然本性」『哲学年報』第四十八輯、一九八九年。
またトマスは彼の独創的な「存在」(esse)の形而上学にもとづいて「ペルソナ」の概念を形而上学に詳細に解明してはいない。
cf.W.NorrisClarke,PersonandBeing,MarquetteUniversityPress,1993.(22)このような「ペルソナの現象学」の先駆的研究の一つが前掲Wojtyla,TheActingPersonである。
(23)たとえばトマス・アクィナスは「ペルソナ」の定義に関する考察において、ボエティウスの定義を受けいれつつ、それを経験にもとづく哲学的考察によってさらに明確化することを試みている。
「自らの行為にたいする支配」の指摘はその一例である。
S.T.,I,29,1.(24)DavidHume,ATreatiseofHumanNature,I,4,6.(25)私はこのような素朴な疑問によってヒュームの人間本性の研究の「体系」の全体を斥けることができると考えているのではない。
私が主張しているのは、ヒュームの「人間本性の研究」の根本的前提である実験と観察による自然科学的研究方法にたいする全面的信頼は、こんにちのわれわれにはけっして自明のものではなく、独断・偏見的なものであった、ということである。
(26)ImmanuelKant,KritikderreinenVernunft,B401;407409.(27)Ibid.,B409.(28)この問題については拙著『講義・経験主義と経験』知泉書館、二〇〇八年を参照。
(29)トマスは人間によって為される諸々の行為(actioneshominis)のなかで、人間であるかぎりでの人間に固有の行為を「人間的行為」(actiohumana)と呼ぶ。
S.T.,III,1,1.(30)cf.S.T.,III,1,1.(31)Ibid.,1.5.(32)「人間的行為」は個々の特定の行為を指すのが普通であるが、いずれの行為も究極目的へと秩序づけられており、究極目的は人間の地上の生の全体を通じて追求されるものであるから、それら個々の行為の全体を「人間的行為」と呼ぶことも可能である。
(33)この後の考察を通じてあきらかにされるように、個々の「人間的行為」は自由な行為であり、言いかえると、そこで各人は自由に或る目的ないし目標を追求する。
しかし、そのように自由に追求される様々の目標を超えて、人間が人間であることからして──つまり自らの自然本性に内在する傾向性からして──追求せざるをえない目的があり、それを「究極目的」と呼ぶのである。
究極目的は自由に追求されるのではなく、それの追求はあくまで「意志的」(voluntarius)であるが、自然本性的ないし必然的である。
注意しなければならないのは、究極目的は自由に追求される諸々の目的の系列の最後に位置する特定の目的ではなく、それらすべての自由に追求される目的を追求に値いするもの(つまり善いもの)たらしめる根拠であり、最高善である、ということである。
(34)言いかえると、人間的行為を単に「自由な」行為として理解するところにとどまってはならず、「人格」概念も単に自由意思ないし選択の自由という意味での「自由」に即して理解するところにとどまってはならないのである。
(35)「自由な」行為、すなわち、行為する人間が「自らの行為の主人」(suorumactuumdominus)であるような行為であることが「人間的行為」の必要条件であることは確実である。
cf.S.T.,III,1,1.私が強調したいのは「自由な」行為であることは「人間的行為」の全体ではなく、その本質的側面を十分に言いあらわしてはいない、ということである。
(36)「自由意思」は、「意志と理性の能力」(facultasvoluntatisetrationis)であるというのはペトルス・ロンバルドゥスの定義であり(PetrusLombardus,SententiaeInIVLibrisDistinctae,II,24,3)、トマスもそれを受けいれているが(S.T.,III,1,1)、厳密には、人間において自由意思は意志(voluntas)と同一の能力である、というのがトマスの見解である。
S.T.,I,83,4.(37)前述のように、それは人間的行為の全体を言いあらわすものではなく、したがって「十分条件」ではない。
(38)前掲拙稿「カント『人格』概念の批判的考察」を参照。
(39)このような言い方は、人格を本質的に、そして最終的に人格たらしめるのは「自由」である、と確信している人々を驚かせるであろう。
そのような人々にたいして、私は、有限な人間の自由はけっして第一原因ではなく、まして「自己原因」(causasui)のような矛盾をふくむものでもなく(S.T.,I,83,1,ad3)、むしろ前述のように究極目的へと秩序づけられているのであり、人格についての明確な知的認識はこのような究極目的を視野に入れることによってのみ可能であることを指摘したい。
(40)人間の理性的能力の最高の働きは、「人間は万物の霊長である」と言われるときのように、理性を有しない他の諸々の存在を超えるところに認められるのではなく、パスカルが「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めることである」(Pascal,Pensées,267)と述べているように、むしろ人間を超える高次の存在との関わりにおいて認められるのである。
(41)ここで「固有の結果」と呼ぶのは、人間的行為を行う主要な能力は理性的能力(理性──ないし知性──と意志)であり、理性的能力は根源的に自らに立ち帰って、自らを完成する能力であるところから、人間的行為が人間自身の完成に向けて、人間自身のうちにつくりだす結果のことである。
(42)この変化は、直接的には様々の習慣であり、それらを通じてもたらされる人間の自然本性そのものの実現・完成である。
(43)アリストテレスが『形而上学』第九巻(1050a23b2)であきらかにしているように、働きのうちには「知る」「意志する」のように働く者のうちにとどまるものと、「熱する」「切る」のように外部に出て結果を生ずるものがある。
cf.S.T.I,14,2;18,3,ad1;54,2;56,1.この区別は、人間的行為という経験へのふりかえりを通じて「人格」の知的認識に到達しようとするわれわれの試みにとって極めて重要である。
(44)われわれは外的世界にたいする働きかけによって生ぜしめられる大きな変化を人間的行為の「結果」として受け取りがちであるが、実はそのような大きな外的変化を生ぜしめうる「ちから」が理性的能力のうちに生ぜしめられているのであり、それこそが人間的行為の固有の結果なのである。
(45)「知識」(scientia)は、事物や出来事、現象を原因・理由にもとづいて理解し、説明しようとする人間理性の働きを通じて、人間理性のうちに生ぜしめられた習慣であり、(知的)徳である。
知的徳についてはS.T.,III,57を参照。
(46)「習慣」の概念については、拙著『習慣の哲学』創文社、一九八一年、とくに第一章「習慣の概念」を参照。
(47)言うまでもなく、いくつかの顕著な例外は存在する。
FélixRavaisson,Del’Habitude,FélixAlcan,1833;JacquesChevalier,L’Habitude,Essaidemetaphysiquescientifique,Boivin,1929.デューイおよびパースについては、前掲拙著『習慣の哲学』を参照。
(48)このことは、この言葉の現在の用法にも反映されている。
『広辞苑』には「ある事が繰り返し行われた結果、定着したもの。
後天的に身につけた行動方法で、比較的固定して、少ない努力で反復できるもの」とある。
(49)前掲拙著『習慣の哲学』参照。
(50)中世のアリストテレス註釈家アヴェロエスは「習慣とは、それによって人が欲するときに働きを為すものである」(CommentariumMagnumInAristotelisDeAnimaLibros,III,18)と述べ、習慣が理性的能力を完成することによって、人により大きな自由をもたらすことを指摘している。
(51)前掲拙著『習慣の哲学』九七─九九頁。
(52)同、第七章「習慣と自由」を参照。
(90)逆に、真の究極目的・最高善の意識が弱められ、忘却されるのに応じて、この「自由」を経験する可能性も減少する。
(91)とくに意志が全体的に「自由な」能力として理解される場合にそうである。
(92)「自由」であることを、単にいずれの選択肢にも必然的に拘束されていないという心理学的事実として択えるのではなく、意志が選択する対象は常に「善いもの」という側面の下に認識され、欲求されていることに注目し、そのような対象の「善」の根拠を探究することが必要である。
(93)倫理徳は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第二巻(1106b361107a2)で述べているように、選択に関わる習慣、つまり善い選択を為さしめる習慣であり、そして選択が善いものであるためには意志が人間の真の目的へと確実に秩序づけられることが必要であって、このような秩序づけが倫理徳によって為されるのである。
S.T.,III,58,4.(94)究極目的への到達は自然(本性的な能力)のみによってではなく、恩寵の助力によって可能になるとするキリスト教的倫理の立場においては、信仰、希望、愛などの対神徳(virtustheologica)がこれに付加される。
S.T.,III,62,14.(95)それらの目的ないし善を意志することが、より確実、迅速に、そして悦びをもって為されるかぎりにおいて、「より自由」なのである。
(96)この意味で、人間にとっての最高の自由は一種の自己否定であると言える。
しかし、それは単純な否定ではなく、人間の自然本性の完全な実現をもたらす自己否定である。
(97)さきに徳は究極目的への「道」であると述べたが、道はめざす目的に到達するためにたどらなければならない「中間」(medium)であり、手段(medium)である。
(98)習慣は第二の「自然本性」である、と言われるが、善い習慣としての徳は人間の自然本性の完全な実現への道であるかぎりにおいて、「自然本性的」である。
(99)したがってまた「習慣」を「人格」と同一視することもできない。
人間が社会的役割を学び、身につけるのは習慣を通じてであり、また「人格」という言葉がもともと「役割」──俳優が舞台で演じる役割から社会的役割までふくめて──を意味する言葉であったことにてらして、習慣と「人格」との深い結びつきはあきらかであるが、それらを同一視することはできない。
(100)こんにち、われわれの間で自明的であるのは、自らの上に支配権をふるういかなる者にも従属しない、自由で独立の主体という「人格」像である。
(101)それなしには人間の理性的本性はありえないが、それだけで理性的本性の全体を言いあらわすことはけっしてできない。
(102)「自由」よりもより包括的で、「自由」の根拠とも言うべき「意志性」(voluntarium)まで考察を進めなければならない。
(103)こんにち「自然(本性)」naturaの意味は極めて貧困化されていて、「自由」と対立する意味の「自然」に限定されているが、「自由」を包括するような、より豊かな「自然(本性)」の意味を復活させることが必要である。
第四章(1)「人格」という言葉に「ペルソナ」とルビを付けたのは、私が企てている研究において直接に対象となるのは人間的ペルソナ、すなわち人間的条件の下にあるペルソナであるが、考察の射程は人間であるペルソナには限定されず、ペルソナ的存在の全体をふくむことを示すためである。
(2)ここで言及した「現象学」の概念はフッサールよりはむしろパース(CharlesS.Peirce,一八三九─一九一四)のものに近い。
参照。
拙稿「パースの習慣論──経験主義と形而上学」『習慣の哲学』第四章。
(3)本書第三章「行為と人格」第Ⅰ節。
(4)「経験から出発する」という言い方は広く用いられ、その意味も自明的と見なされているが、経験は単に出発点ではなく、到達されるべき成果でもあることを見落としてはならない。
参照。
拙稿「経験主義と習慣の問題」『習慣の哲学』第二章。
(5)この「何」はetwasではなくjemandであることに注目する必要がある。
RobertSpaemann,Personen.VersuchüberdenUnterschiedzwischen>etwasjemand<,KlettCotta,1998.(6)松本正夫『存在論の諸問題──スコラ哲学研究』岩波書店、一九六七年、一一八頁。
(7)周知のように、これはバークリの『人知原理論』(ATreatiseConcerningthePrinciplesofHumanKnowledge,1710)において用いられている定式であるが、その意味については前掲拙著『講義・経験主義と経験』を参照。
(8)松本、一一八頁。
(9)「生命の尊厳」「生命の尊重」の強調は、この経験なしにはほとんど無意味である。
(10)松本、一一八頁。
(11)精神の「存在」は、それを問う精神にとって自明的であるにもかかわらず、それを言語化することの困難のゆえに、ほとんどの場合、存在を否定する結果に終わる。
(12)本書第三章「行為と人格」第Ⅰ節。
(13)言いかえると、われわれは「われわれにとって」より明らかな事柄から、「それ自体において」より明らかな事柄へ向かって探究を進めるのであり、この区別はアリストテレスによって指摘された通りである。
『形而上学』993a30b11、『分析論後書』71b3372a3、『ニコマコス倫理学』1095a30b4。
(14)Boethius,ContraEutychenetNestorium,III.ただし、この著作は中世においては『二つの本性について』(DeDuabusNaturis)という表題の下に伝えられていた。
(15)S.T.,I,29,1.(16)これは事物の本質を、そのものの可能態と現実態から説明しようとする、アリストテレスによって明確にされた説明方式である。
『形而上学』1045a1232.(17)この問題に関して次の前掲拙稿を参照。
「人格と真理」『福岡女学院大学紀要』。
(18)参照。
G.E.M.Anscombe,”TheFirstPerson”,CollectedPhilosophicalPapers,Vol.II,UniversityofMinnesotaPress,1981,p.2136.(19)「存在」と「働き」を単純に同一視することはできないが、「働き」は「存在」にともなうものであり、逆に「存在」は「働き」にもとづいてはじめて理解できる。
(20)アリストテレス『霊魂論』431b2021.(21)精神ないし理性的霊魂の固有の働きである認識と意志は、ともに根源的に、その対象との合一・合致をめざす働きであり、その意味で交わりの働きである。
(22)「ペルソナ」および(とくに)「存在」が厳密な意味で「概念」であるかどうかは見解の分かれるところである。
これらの言葉、とくに「存在」は類比的に用いられるという見解をとる者にとっては、「概念」という言葉は極めて広い意味でしか使用できない。
(23)このような「人格」観はロックJohnLocke,AnEssayConcerningHumanUnderstanding,1690以後定着している。
(24)「存在」という言葉の意味の日常的理解は前述のバークリの有名な「在るとは知覚されることである」という命題によって言い表わされている。
(25)参照。
I.Kant,GrundlegungzurMetaphysikderSitten,II.(26)「存在」と「価値」を異なったカテゴリーとして峻別すべきことを主張したのは十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、ドイツを中心にヨーロッパの
アカデミック哲学の一主流となった新カント学派である。
(27)片山寛『トマス・アクィナスの三位一体論研究』創文社、一九九五年、一七五頁。
(28)K・リーゼンフーバー『中世における自由と超越』創文社、一九八八年、第六章「人間の尊厳とペルソナ概念の発展」。
(29)存在論の現在と、その背景についての研究として次を参照。
L.Honnefelder,ScientiaTranscendens.DieformaleBestimmungderSeiendheitundRealitätinderMetaphysikdesMittelaltersundderNeuzeit(DunsScotusSuarezWolffKantPeirce),Hamburg,1989.(30)トマスは「『ペルソナ』は全自然における最も完全なものを表示する」(S.T.,I,29,3)と言明している。
(31)「言語論的転回」(linguisticturn)にならってこのような造語を試みた。
(32)松本、前掲書は「唯物論の親近性」について語っている。
一一八、一一九頁。
(33)このような「存在」理解は、一般に「存在の類比」(analogiaentis)と呼ばれる。
現実にはそこには多様な立場がふくまれており、また多くの誤解にさらされている。
トマス・アクィナスの類比理論のまとまった解説としては次を参照。
GeorgeP.Klubertanz,St.ThomasAquinasonAnalogy,LoyolaUniversityPress,1960.最近の研究として次を参照。
RalphMcInerny,AquinasandAnalogy,TheCatholicUniversityofAmericaPress,1996.(34)言いかえると、「生命あるもの」はより高次の実体(substantia)である、ということであり、その根拠はこうした実体の形相がより高次の活動の根源であり、またそれがより明確な仕方で個的な自立するものである、ということである。
(35)「人格」が「生命あるもの」よりもより高次の実体であることについては後に詳述する。
(36)精神と物体との対立を絶対化する宇宙像が広く受けいれられ、定着化したことの背景には、近代において厳密に学的な研究の対象が、もっぱら感覚的に捉えられ、最終的に感覚的に検証されうるような事柄、すなわち物体の領域に限られるようになった事実が見出される。
(37)マリタンはこのような「存在」概念を「偽・存在」(Lepseudoêtre)と呼んでいる。
SeptLeçonssurL’être,OeuvresComplètes,Vol.V,p.562564.(38)前述したバークリの立場を参照。
(39)スコトゥスの「存在」理解については次の研究を参照。
八木雄二『スコトゥスの存在理解』創文社、一九九二年。
(40)本書第四章「存在としての人格」第Ⅱ節。
(41)S.T.,I,29,3.(42)このような「自然」という言葉の用法について次を参照。
ThomasAquinas,DeEnteetEssentia,I.(43)「本質」によって存在するものとは、存在することがそれの本質であるところの存在するものについて言われることであり、それは神にほかならない。
S.T.,I,3,4.(44)「実体」の概念について次を参照。
S.T.,I,3,5,ad1.(45)F.Suarez,OperaOmnia,Vivès,1861,Tom,2526.(46)S.T.,I,29,3.(47)スアレスの形而上学については次の研究を参照。
田口啓子『スアレス形而上学の研究』南窓社、一九七七年。
(48)DisputationesMetaphysicae,XXXIV,ii,20,cf.i,13.(49)Ibid.,ii,1.(50)Ibid.,ii,4.(51)Ibid.,ii,8;10;11.(52)Ibid.,ii,20.(53)Ibid.,iv,11;14;15.(54)Ibid.,iv,17;19.(55)Ibid.,iv,23;32;38;v,1.(56)Ibid.,i,11;cf.i,7;9;13.(57)言うまでもなく、スアレスがペルソナから、理性的能力の行使を通じて行われる交わりの側面を排除している、と解釈しているのではない。
「共有不可能性」の概念は、トマスも指摘しているように(S.T.,I,29,3,ad4)、聖ヴィクトルのリカルドゥスも神的ペルソナの定義において用いており、実体ないし現実存在のレベルでこの概念を用いることには問題はない。
問題はスアレスがペルソナの「ペルソナ性」を根元的な個体性としての共有不可能性にもとづいて理解している点である。
(58)経験から出発して「人格」についての厳密な知的認識に到達することをめざした前章においては、人格の本質的特徴としての交わりについて詳しく述べるところまでは行かなかった。
しかし、結論において、「人格の尊厳が輝きでるのは、自らの欲望を限りなく充足しようとする自己中心的な生き方においてではなく、むしろ……自己放棄ないし自己否定の生き方においてである」と述べたときに、そのことが暗示されている、と言うことができるであろう。
参照。
本書第三章「行為と人格」第Ⅳ節。
(59)スアレスは、トマスの「存在」理解を特徴づける、(神以外の)すべての存在するものにおける本質と存在の場合、ないしそれらの間の実在的区別を斥け、「存在の類比」に関して詳細に論じ、精密な区別を行ったけれども、結局のところ「存在」概念の一義性を認めていた。
参照。
田口、前掲書、七四─八四、八八─九七頁。
(60)田口、同右、五一─六五頁。
(61)ここで言う存在論は、すべての存在するものを存在せしめる──それらに存在(esse)を与える、つまりそれらを創造する──ところの、自存する存在そのもの(IpsumEsseSubsistens)を体系の中核に置くような存在論である。
cf.S.T.,I,4,2;2,ad3.言いかえると、すべての存在するものは存在(esse)を分有する(participare)ことによって存在する。
事物の本質(essentia)あるいは形相(forma)は、当の事物が存在を分有する様相、つまり存在の様相(modusessendi)であり、存在を限定するものである。
したがって、このような存在論においては、事物がそれによって存在する「存在」(esse)がそのものにおける最高の完全性であり現実性(actualitas,actus)であって、本質ないし形相は可能性(potentia)として、それと結びつき、それを限定するのである。
cf.S.T.,I,4,1,ad3.(62)トマスの「存在」理解については次の包括的で精密な研究を参照。
山田晶『トマス・アクィナスの〈エッセ〉研究』創文社、一九七八年、同『在りて在る者』創文社、一九七九年。
(63)本書第四章「存在としての人格」第Ⅲ節および注(42)参照。
(64)「完全性」(perfectio)の概念は、存在論の立場から言えば、或る事物が単に可能態(potentia)においてではなく、現実態(actus)において在るかぎりにおいて当の事物に帰せられる。
というのも、いかなるものもそれが存在しているかぎりにおいてのみ現実性(actualitas)を有し、したがって存在そのもの(ipsumesse)はあらゆるもの──形相をもふくめて──にとっての現実性であるから、存在そのものはすべてのもののうちで最も完全なものであるからである。
cf.S.T.,I,4,1;1,ad3;4,2,ad3.ここからして、トマスが「人格は全自然における最も完全なものを表示する」と言うとき、彼は「人格」と呼ばれる存在は最も優れた意味での存在であることを肯定しているのである。
(65)S.T.,I,29,14.(66)Ibid.(67)無限な存在である神は、自らの本質によって存在する存在そのもの(Ipsumesse)であり、存在から区別された本質によって限定されてはいない。
S.T.,I,8,1.(68)言いかえると、(存在そのものである神を除き)すべての存在するものは何らかの本質によって限定された存在であり、したがってそれらについて語られる「存在」は常に何らかの本質との複合を含意しているのである。
(69)S.T.,I,29,3.(70)S.T.,I,29,2.(71)言いかえると、「理性的本性」という言葉は、たんに人間が何らかの優れた能力(たとえば環境を自らの生存に適するものへと変化させる能力)を有することを指示するのではなく、存在論的に、最も優れた存在の様相を指示する言葉なのである。
(72)人間の自然本性が観察や実験、あるいは計量的処理という科学的方法によってあきらかにされると信じるのは、人間を目に見える世界のうちに閉じこめる独断にもとづく幻想であり、実際には形而上学および倫理学的な考察をまってはじめて人間の自然本性の理論的・学問的な解明は可能である。
(73)S.T.,I,12,12.(74)Ibid.,12,4;84,7.(75)感覚によって捉えられる個々の事物を認識することは、人間の知性、さらには人間の自然本性の完成をもたらすものではない。
S.T.,I,12,8,ad4.(76)人間の「知りたい」という欲求の根底にあるのは知性、および自然本性の完成をめざす自然本性的な欲求──究極目的ないし至福への自然本性的欲求──である。
S.T.,III,3,8;I,12,8,ad4.(77)S.T.,I,78,1;79,2;ad3;cf.76,1,ad1;2,ad3;5,ad4.S.T.,III,2,8においては「全的な真」(verumuniversale)という用語が用いられている。
(78)すなわち、極度に一般化された一義的概念としての「存在」。
(79)QuaestionesDisputataeDeVeritate,1,1.(80)S.T.,I,7,2,ad2;76,5,ad4;86,2,ad4.(81)S.T.,I,82,2,ad1;III,2,8;5,1;10,1.最後の箇所ではbonumincommuniという用語が用いられている。
(82)S.T.,I,82,1.(83)S.T.,III,10,2.(84)S.T.,I,82,1.(85)S.T.,III,51,2;3.(86)Ibid.,4.なお、この問題に関して拙著『習慣の哲学』創文社、一九八一年を参照。
(87)S.T.,III,62,4.(88)Ibid.,1.(89)Ibid.,3.(90)S.T.,III,113,10.(91)S.T.,III,62,1;IIII,2,3.(92)S.T.,IIII,23,1.(93)トマスは正義の徳は情念にではなく行為に関わり(S.T.,III,60,2)対他的な徳(S.T.,IIII,58,2)であると解しているが、ここではとくに一般的徳としての正義、すなわち共通善に関わる法的正義(justitialegalis)のことを問題にしている(S.T.,IIII,58,5;6)。
(94)QuaestioDisputatadeCaritate,2;S.T.,III,109,3;S.T.,IIII,26,2;3.(95)意志の対象が「全的な善」と呼ばれる用法についてはすでに述べたが、トマスは、すべてのものがその類似を分有することによって善であると言われる神を「全的な善」と呼ぶことがある。
SummaContraGentiles,I,89.(96)S.C.G.,III,17;S.T.,I,60,5,ad5;III,100,8;109,3;S.T.,III,46,2.なお、神が真実の意味で共通善であることについて、次の拙著を参照。
『トマス・アクィナスの共通善思想』有斐閣、一九六一年。
(97)注(93)を参照。
(98)Q.D.deCaritate,2.(99)「神愛」とも訳されるcaritas──ギリシア語──は「神は愛である」(『ヨハネの第一書翰』第四章第七、十六節)という聖書の言葉によって人々の心に刻みつけられており、トマスがそれを「共通善」概念と結びつけて理解しようと試みたこと自体、驚くべきことであると言わざるをえない。
(100)「理性的本性は……存在の全的な根源にたいして直接的な秩序づけ(ordoimmediatusaduniversaleessendiprincipium)を有する」S.T.,IIII,2,3.(101)マリタンの「人格」理解においてはこの点が強調されている。
JacquesMaritain,LaPersonneetleBienCommun,DescléeDeBreuwer,1942.(102)この点に関して、次の研究を参照。
KarolWojtyla,TheActingPerson,D.Reidel,1979.(103)人間の社会性は多くの場合、人間は生存し、人間として成長・活動するために他の人間に依存し、他の人間との協働を必要とする、という側面において理解されている。
人間の社会性に関して次の前掲拙稿を参照。
「トマス・アクィナスの社会思想」『中世の社会思想』。
(104)ここで「神秘」という言葉を導入することは唐突な感じを与えるかもしれないが、われわれの考察の現在の段階においてはそのようにせざるをえない。
(105)S.T.,I,29,4.第五章(1)次の拙稿を参照。
「トーマス・アクィナスにおける人格の統一性の概念について」『アカデミア』一三、一九五六年。
「トマス倫理学におけるペルソナと自然本性」『哲学年報』。
「人格の形而上学試論」『哲学年報』五一、一九九二年。
「人格と真理」『福岡女学院大学紀要』。
「カント『人格』概念の批判的考察」『自由と正義の法理念』。
(2)『広辞苑』(岩波書店、第三版、一九八三年)には、人がら、人品という一般的な用例に続いて、「『心』ある個体の認識的・感情的・意志的および身体的な諸特徴の体制化された総体」という心理学的用法の後に、「道徳的行為の主体としての個人。
自己決定的で自律的な意志を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」という哲学的定義が紹介されている。
(3)この問題に関しては前掲拙稿「人格の形而上学試論」で触れた。
(4)最近の生命倫理学あるいは医の倫理学における「人格」をめぐる論争に関して、次を参照。
加藤和哉「現代の『人格』理論」『山口大学哲学研究』七、一九九八年。
(5)この「長い歴史」は、もっぱら「三一なる神」「人となった神」であるキリストというカトリック教会の教義をめぐる神学的論争の歴史であった。
この
論争の一時期に光をあてた次の研究を参照。
坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店、一九九六年。
(6)この指摘はJohnPaulII,CrossingtheThresholdofHope,Knopf,1994.p.201203で為されている。
(7)BlaisePascal,Pensées,323(Ed.Brunschvicg).(8)このパスカルの言葉はJacquesMaritain,LaPersonneetleBienCommun,OeuvresComplètes,IX,p.190において引用されており、マリタンはこの著作の全体によってパスカルに反論している。
(9)前掲拙稿「人格の形而上学試論」を参照。
(10)この区別に関して拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』有斐閣、一九六一年を参照。
(11)とくにわが国では「人間の尊厳」(dignitashominis)あるいは「人格の尊厳」(dignitaspersonae)という古い歴史をもつ表現の代わりに「個人の尊厳」という表現を優先させる傾向がある。
日本国憲法第十三条、第二十四条、および教育基本法前文などはその例である。
(12)「人格の同一性」の問題に立ち入ることなく、この行為する私、責任および義務の担い手である私は一個の存在するものである、との意味において。
(13)普遍である種が個体化されることによって成立する「個」「個体」であり、これが厳密な意味での「個人」である。
(14)「人格」と「個人」の概念を区別することなく、「個人」のかけがえのない価値、あるいは尊厳を主張する論者は「個人」という概念をこの「私」「自己」と同一視する傾向がある。
しかし「個人」「個別者」の概念は、客観的あるいは三人称的に、他のすべての「個人」からこの「個人」を区別するにとどまり、「私」あるいは「自己」という言葉が意味するものを言いあてているのではない。
(15)ImmanuelKant,GrundlegungzurMetaphysikderSitten,TheorieWerkausgabe,Suhrkamp,VII,S.68.(16)人格であることの根拠、根元は人間の精神・霊のうちにあると言えるが、それは精神が自ら自身を存在のうちに保ち、存在において充ち溢れているかぎりにおいてである。
cf.Maritain,op.cit.,p.191192.つまり人格は「自存するもの」(subsistens)であり、それこそは真の意味で存在するものである。
(17)ボエティウスの定義「ペルソナとは理性的本性を有する個的実体である」(DeDuabusNaturis)(PL64,1343)、およびトマス・アクィナスの定義「理性的本性において自存するもの」(subsistensinrationalinatura)(S.T.,I,29,3)はいずれもこの要素をふくんでいる。
(18)参照。
Descartes,MeditationesdePrimaPhilosophiainquibusDeiexistentia,etanimaehumanaeacorporedistinctio,demonstrantur,1641.(19)人間の精神は、人間をこの物質的・可感的世界の内部でいわば優越的な存在たらしめる能力ではなく、本質的にこの物体の領域を超越する存在たらしめるものである、という洞察が、「人格」概念の適切な理解のためには不可欠である。
(20)「回心」という言葉は必ずしも適切ではないが、思考様式、ないし思考の場に関する大きな「転回」(conversio)という意味で、あえてこの言葉を用いた。
本書第四章「存在としての人格」で提案した「ペルソナ論的転回」(personalisticturn)と同じ意味でこの言葉を用いている。
(21)ここでいう「自己認識」は、けっしてたんなる「自己意識」、またはこの「私」という自我についての反省や吟味ではなく、認識や愛の働きを遂行する根源である精神の認識である。
(22)この言明は過激にすぎ、躓きをひきおこすかもしれないが、形而上学(超物理学)的な精神の哲学の可能性を否定する哲学者はすべてこの意味での自己認識を排除しているのである。
(23)DeAnima,431b20.(24)これは後述する、理性ないし知性の対象は「全的な存在するもの」(ensuniversale)である、という言明と同じことを意味する。
(25)通常は「絶対者」(absolute)という言葉が用いられるが、私は意識してこの用語を避けた。
(26)認識と愛による「直接的な」秩序づけであり、合一である。
(27)マリタンはこの点に関して、「人格は絶対者と直接的な関係を有し、絶対者においてのみその豊かな十全性を有する」(Lapersonneaunerelationdirecteavecl’absolu,danslequelseulellepeutavoirsapleinesuffisance)(op.cit.,p.192193)と述べている。
(28)この言明は独断的に響くかもしれない。
このような言明の背景について拙著『問題としての神』創文社、二〇〇二年を参照。
(29)「人格の経験」については、松本正夫『存在論の諸問題』岩波書店、一九六七年を参照。
(30)実際にそのような人間に固有の価値について語る論者は、人間としての自己をふりかえって精神としての自己を或る仕方で捉えているはずであり、そこに人間の精神ないし理性的本性についての何らかの認識が前提されているのではなかろうか。
(31)ここで「全的」は「特殊的」との対比において言われているが、限定された特殊なあれ・これの存在ではなく、あらゆる特殊的規定を超える「存在するもの」を適切に言いあらわす言葉(ラテン語universale)として「普遍的」「全体的」は誤解を招き易いので、この言葉を用いた。
(32)人間の知性が直接に認識の対象とするのは、感覚によって捉えられた事物の本質ないし本性であるが、知性そのもの(人間の知性もふくめて)の固有的対象は、あらゆる特殊的規定・限定を超越する「存在するもの」であり、その意味での「全的な存在」である。
(33)ここで「存在」は単に何かが在るという措定、あるいはすべてのものについて述語される、最も普遍的であるが内容空虚な概念としての「存在」ではなく、むしろ反対に、真、善、美などの価値を「一」なるものとして自らのうちにふくむ、いわば究極の価値あるいは価値の源泉としての「存在」を意味する。
すべてのものは、このような価値としての「存在」をそれぞれの仕方で分有するかぎりにおいて、「存在するもの」なのである。
(34)人格は或る意味で全体であり、全体としての豊かさのゆえに交わりへと自らを開くのである。
(35)本来的な意味で「知る」とは真理を知ることであるように、本来的な意味での「交わり」は価値あるものの共有にもとづいて成立する。
(36)それらのものの所有者が、他者のためにそれらを使用することは可能であるが、精神的価値のようにそれら自体を共有することはできない。
(37)前掲注(33)を参照。
なお後述するように「在る者」「存在そのもの」である神は、創造によって他のすべてのものを「在らしめる」のであり、自らの存在を無限にわかち合うのである。
(38)人格が人格として存在する「場」に関して、次の前掲拙稿を参照。
「人格と真理」『福岡女学院大学紀要』。
(39)この問題は、マリタンが「社会生活の典型的なパラドックス」と呼ぶものである。
参照。
前掲拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』、二頁。
(40)「共通善」の概念に関して、前掲拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』、および、前掲拙稿「トマス・アクィナスの社会思想──共通善概念を中心に」『中世の社会思想』を参照。
(41)人間は人格であるかぎり、自然本性的に共通善を追求するという立場は、(利己的な)自愛(selflove)が人間の行動を最も根源的に支配する原理であるとするヒュームの人間理解の対極にある。
DavidHume,ATreatiseofHumanNature,III,ii,1;6;8:EnquiriesConcerningHumanUnderstandingandConcerningthePrinciplesofMorals,AppendixII.(42)Politica,1253a2.(43)人間が社会ないし国において生きるのは、蜜蜂や群居動物のように欠乏や必要という必然性に迫られてではなく、善・悪、正・邪について共通の知覚をもつことにもとづいてである、というアリストテレスの言葉(1253a1019)参照。
(44)これはパスカルの死後発見された、衣服に縫いつけられていた覚え書きの一節である。
Pascal,PenséesetOpuscules,Hachette,Paris,1946,p.142143.(45)『出エジプト記』第三章第十四節。
(46)『ヨハネの第一書翰』第四章第八、十六節。
(47)新約聖書のなかで「三位一体」あるいは「三一なる神」という言葉は用いられていないが、イエス・キリストは自らが父なる神と「一」であることを繰り返し明言しており、父なる神と自身からの聖霊の発出についても教えており、聖書の教える神が「三一なる神」であることは疑いをいれない。
何よりも、「三一なる神」に関する知識は人類の救済について正しく考えるために必要なことであるから(S.T.,I,321,ad3)、そのことが聖書を通じて教えられることは最も道理にかなったことであった。
(48)神のペルソナは自存するものとしての関係(relatioutsubsistens)を表示している。
S.T.,I,29,4.(あるいは自存する関係(relatiosubsistens)(S.T.,I,30,2.)(49)神の三つのペルソナが区別されるということは、神のうちに真実の実在的な関係ないし交わりが存在するということであり(S.T.,I,28,1)、そしてそれら神における関係は神の本質そのものであって(S.T.,I,28,2)、神が最高に「一」であることはいささかも損われない。
(50)S.T.,I,93,1.(51)S.T.,I,93,5;6;7;8.このように、トマスは人間が「神の像」へと向けて創造されたことを考察するにさいして、それは人間が「三位一体なる神の像」として創造されたことを意味する、ということを詳述している。
(52)前掲注(6)を参照。
(53)前掲拙稿「人格の形而上学試論」参照。
(54)S.T.,I,29,3;29,4;30,2.(55)山本芳久『自立性と関係性──トマス・アクィナスにおける理性的実体としてのペルソナ』二〇〇一年(未刊博士論文)を参照。
(56)存在論的に「ある」ものに、実践を通じて「なる」という言い方は、「ある」にかかわる根源的な因果性と、それに依存する第二次的因果性との区別を前提とする。
参照。
S.T.,I,45,5;QuaestionesDisputataeDePotentiaDei,3,4.なお「人は彼があるところのものにならねばならぬ」という有名な格言はピンダロス(前五二二─前四四三)に遡るものである。
(57)本章第Ⅱ節4を参照。
(58)理性的本性の実現・完成が人間の究極目的である、という言い方は倫理学的言明としては不十分であり、むしろ人間の最高能力を行使することによる最高善への到達が究極目的である、と言うべきであろう。
しかし、そのような最高善への到達は人間の理性的本性の完成を含意するのであり、ここで言われたことはその意味で正しい。
(59)善い習慣としての徳は、人間が自然本性的に有する理性的能力が、究極目的への到達に向けて完成されたちから(virtus)であり、その意味で究極目的への道である。
なお、ここでの「徳」理解についてはS.T.,III,55を参照。
(60)正義は他者に関わる徳であることについてS.T.,IIII,58,2を参照。
(61)他者との交わりに関する人間的徳としては、正義に付属する徳としての真実(veritas)(S.T.,IIII,109,14)および友愛(amicitia)(S.T.,IIII,114,12)などを挙げることができる。
(62)『道徳形而上学の基礎づけ』宇都宮芳明訳、以文社、二〇〇四年、一二九頁。
(63)『学説彙纂』I,1,10;『法学提要』I,1,1.(64)S.T.,IIII,58,1.(65)参照。
拙著『法的正義の理論』成文堂、一九七二年、一九四─二〇四頁。
(66)S.T.,IIII,58,5.(67)DeOfficiis,I,7.(68)Ibid.cf.Aristoteles,EthicaNicomachea,1129b29.(69)Ambrosius,DeOfficiisMinistorumLibritres,I,PL16,12.cf.S.T.,IIII,58,11.(70)S.T.,IIII,58,8.前掲拙著『法的正義の理論』第二部第二章。
(71)『出エジプト記』第二十一章第二十四節。
(72)前掲拙著『法的正義の理論』三〇頁。
(73)DeOfficiis,I,55.(74)参照。
前掲拙著『法的正義の理論』第二部第二章。
(75)言うまでもなく、政治共同体を構成する個々の人間は、その全存在において全体としての政治共同体に属するのではなく、人格であるかぎり政治共同体を超越する。
そのかぎりにおいて各人はこのような配分に依存することのない「彼のもの」を有するのである。
(76)たとえば適正な給与の制度を確立するにあたって、年功序列によるか、貢献度ないし成果によるか、あるいは生活権を重視するか、という相違は当の政治社会の支配的な価値観に依存するところが大きい。
(77)前掲拙著『法的正義の理論』第二部第三章を参照。
(78)HansKelsen,WhatisJustice,UniversityofCaliforniaPress,1957;A.Ross,OnLawandJustice,Stevens,1958.(79)前掲拙著『法的正義の理論』第一部第一章第三節を参照。
(80)同、第二部第四章を参照。
(81)同、第一部第一章第五節を参照。
(82)S.T.,IIII,58,5;6.(83)EthicaNicomachea,1129b1920.(84)Ibid.,b28.(85)Ibid.,b2930.(86)S.T.,IIII,58,6.(87)アリストテレスもこれらの行為が法によって命令されることがあり、したがって一般的正義によって共通善へと秩序づけられることを指摘している。
E.N.,1129b2022.(88)S.T.,IIII,58,6.(89)E.N.,1106a15;S.T.,IIII,58,3.(90)前掲拙著『法的正義の理論』第一部第一章第五節、第三部第六章第一節を参照。
(91)E.N.,1277a22.(92)正義と愛はまったく異なったものであり、共存あるいは統一不可能であるかのように考えられることが多いが、「各人に彼のものを帰属」させようとする意志は善い意志であり、他者の善ないし幸福を意志するという意味での愛である。
正義の徳はこのような「第一の根元」primaradixとしての愛なしには成立しない、と言っても過言ではない。
(93)友愛の愛(amoramicitiae)と欲情の愛(amorconcupiscentiae)の区別について、次を参照。
S.T.,III,26,4.
(94)対神徳については次を参照。
S.T.,III,62,14.(95)愛徳に関しては次を参照。
S.T.,IIII,2327.(96)『ヨハネへの第一書翰』第四章第八、十六節。
(97)社会的徳の概念について前掲拙稿「トマス・アクィナスの社会思想」を参照。
(98)この問題に関して前掲拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』を参照。
(99)cf.JosefPieper,ÜberdieLiebe,Kösel,München,1972.(100)QuaestioDisputataDeCaritate,2.(101)Ibid.;S.T.,(102)S.T.,IIII,23,1.(103)『マタイ福音書』第二十二章第三十九節。
(104)DavidHume,ATreatiseofHumanNature,OxfordUniversityPress.1978,III,2;EnquiriesConcerningHumanUnderstandingandConcerningthePrinciplesofMorals,ClarendunPress.Oxford,1975,AppendixII.OfSelfLove.(105)S.T.,IIII,25,4.(106)Ibid.(107)Ibid.(108)Ibid.(109)S.T.,IIII,26,4.(110)『マタイ福音書』第二十二章第三十九節。
『レビ記』第十九章第十八節。
(111)S.T.,I,5,4;73,3;III,1,4.第六章(1)このことについて、アウグスティヌスは『三位一体論』第七巻第四章で触れており、トマスも『神学大全』第一部第二十九問題第二項でこの問題を考察している。
(2)JohannesQuasten,Patrology,3Vols.,Spectrum,1964,V.II,p.325.(3)Ibid.,p.246.(4)HubertusR.Drobner,PersonExegeseundChristologiebeiAugustinus,Brill,1986,S.183.(5)Ibid.,S.184.わが国ではラテン語「ペルソナ」の語原的説明で演劇で使用される面、および演劇的役割への言及が為されることが多いので、この点注意する必要がある。
(6)Quaesten,op.cit.,p.325326.(7)参照。
前掲拙著『神学的言語の研究』。
(8)近世の代表的なスコラ学者スアレスはこの点をとくに強調する。
参照。
前掲拙稿「人格の形而上学試論」『哲学年報』、および本書第四章。
(9)同。
(10)J・マリタンはこれを「社会生活の典型的なパラドックス」と呼ぶ。
参照。
前掲拙著『トマス・アクィナスの共通善思想』。
(11)S.T.,I,29,4.(12)後述、第Ⅱ節第3を参照。
(13)参照。
前掲拙著『神学的言語の研究』第一章。
(14)同。
(15)アウグスティヌス『三位一体論』第十巻は精神の自己認識に関する洞察に満ちた考察である。
(16)『神学大全』第三分冊、山田晶訳、創文社、一九六一年。
(17)トマスは、(神の)ペルソナが三であることは自然的理性によってはけっして証明されないことを強調する。
S.T.,I,32,1.神学はペルソナが三であることを信仰によって肯定した上で、聖書の導きの下に、その肯定のうちにふくまれている事柄についての探究を進めるのである。
(18)C.G.Jung,”APsychologicalApproachtotheDogmaoftheTrinity”,CollectedWorks,XI,p.109200.(19)トマスはS.T.,I,29,1でボエティウスの定義をひとまず是認した後に、S.T.,I,29,3で「理性的本性において自存するもの」というペルソナの一般的定義を提示し、S.T.,I,29,4において神のペルソナは「自存する関係」であると論を進める。
(20)前掲注(8)の拙稿を参照。
(21)E.Gilson,LeThomisme,J.Vrin,1972,p.99112.(22)S.T.,I,32,1,ad3.(23)Ibid.(24)S.T.,I,3.7.(25)S.T.,I,11,4.(26)S.T.,I,14,116.(27)S.T.,I,19,112.(28)S.T.,I,20,14.(29)S.T.,I,27,1.(30)S.T.,I,28,1.(31)S.T.,I,27,2.(32)S.T.,I,27,3.この二つ以外の発出はありえないことについて、27,4を参照。
(33)トマスの三位一体論は「アウグスティヌス的・西欧的な『霊魂論的・心理学的三位一体論』」として批判されてきた。
参照。
片山寛『トマス・アクィナスの三位一体論研究』創文社、一九九五年、三七─四一頁。
(34)これは神学的というよりは、通俗的な批判にすぎない。
(35)S.T.,I,27,1.(36)S.T.,I,32,1.(37)Ibid.(38)トマスによると、人間理性(知性)が全的・普遍的な存在(ensuniversale)を認識しうるということは、そのまま無限なるものを認識する可能性・能
力(capacitas)を有することを意味する。
S.T.,I,7,2,ad2:76,5,ad4;86,2,ad4.(39)S.T.,I,12,13,ad1.(40)S.T.,I,27,1.(41)Ibid.(42)トマスはS.T.,I,2,3で「神が存在することは五つの道によって証明されうる」と述べ、それら証明をすべて「万人はこうしたものを神と理解している」「こうしたものを万人は神と名づけている」という言葉で結んでいる。
(43)トマスは「神は何であるか」を探究するにあたって、「われわれは神についてその何であらぬか、どのような仕方においてあらぬか、を知りうるのみである」と明言する。
S.T.,I,3,prologus.トマスが人間理性による神の認識に関して徹底した「否定神学」の立場を保持したことに関して、次の拙著を参照。
『トマス・アクィナス』勁草書房、一九九六年、五六─五七頁。
(44)S.T.,I,311.(45)トマスは『神学大全』第一部第三問題から第十一問題まで、神の諸属性について考察し、最後に「神は一なるものである」という考察を結ぶにあたって、「万人はこうしたものを神と呼ぶ」という表現ではなく、「そしてこれが神である」(EthocestDeus)という表現を用いている。
S.T.,I,11,3.(46)アウグスティヌス『三位一体論』十五巻のうち、最初の七巻は聖書のうちに見出される三位一体なる神についての様々な言明はいかに解釈すべきか、という問題の考察である。
(47)トマス『神学大全』三位一体論の最初の二つの論題(S.T.,I,2728)はこの問題の考察である。
(48)S.T.,I,28,1.(49)S.T.,I,28,2.(50)S.T.,I,28,1;3.(51)S.T.,I,28,3.(52)S.T.,I,29,1.(53)S.T.,I,29,3.(54)S.T.,I,29,4.(55)Ibid.(56)カロル・ボイチワ(教皇ヨハネ・パウロ二世)はこの洞察を彼の「人格」概念の中核としている。
KarolWojtyla,PersonandCommunity,PeterLang,1993,p.194;CrossingtheThresholdofHope,AlfredA.Knopt,1994,p.202.(57)S.T.,III,1,1.(58)S.T.,I,5,4;73,3;III,1,4;28,4.(59)S.T.,III,1,1.
あとがき
本書に収めた論文の初出は次の通りである。
第一章「個人から人格へ──人格の哲学をめざして」『聖マリア学院紀要』第二十三巻(二〇〇九年三月)第二章「世俗化と『人格』概念の変容」『純心人文研究』第十一号(二〇〇五年三月)第三章「行為と人格──『人格』概念の経験的基礎」同、第十二号(二〇〇六年三月)第四章「『人格』概念の存在論的考察」同、第十三号(二〇〇七年三月)第五章「『人格』の倫理学試論」同、第十四号(二〇〇八年三月)第六章「『人格』概念の神学的背景」同、第十五号(二〇〇九年三月)「人格」概念についての研究を集中的、継続的に行うことを企てたのは「まえがき」で述べたように比較的最近のことであるが、「人格」概念にたいする哲学的関心は私の研究生活の当初から強く感じていた。
公刊した最初の論文は「トーマス・アクィナスに於ける人格の統一性の概念について」(『アカデミア』一九五六年)であり、「人格」を「人格」として成立させる原理ないし根拠に関して当時トマス研究者の間で交わされていた論争を紹介・論評している。
また私が公刊した最初の著書『トマス・アクィナスの共通善思想』(有斐閣、一九六一年)の副題は「人格と社会」であり、当時欧米の代表的なトマス学者たちが、トマス・アクィナスの社会・政治哲学における「人格主義」と「共同体主義」のいずれに優位を認めるべきかをめぐって鋭く対立していた状況を視野にいれつつ、トマスのテクストの詳細な分析を通じて問題の解決を試みている。
この後、「行為の主体について」(『行為の構造』勁草書房、一九八三年)、「トマス倫理学におけるペルソナと自然本性」(『哲学年報』第四十八輯、一九八九年)、「人格と愛」(『聖マリア学院短期大学紀要』第四号、一九八九年)、「人格の形而上学試論」(『哲学年報』第五十一輯、一九九二年)、「人格と真理」(『福岡女学院大学紀要』第三号、一九九三年)、「カント『人格』概念の批判的考察」(『自由と正義の法理念』成文堂、二〇〇三年)など、「人格」概念に関して行為論、倫理学、存在論、および哲学史的な観点からのアプローチを試みたことはあり、それらはいずれも本書で展開した体系的考察への道を整えるものであった。
しかし、いまふり返ってみると、共通善を主題とした最初の著書と、人格を主題とする本書とは、私自身まったく予測も計画もしなかった仕方で、いわば互いに補足し合うものになった、と思われる。
というのも、われわれは「人格」をもっぱら自由で自立する主体、他の何ものによっても置きかえることのできない唯一・独自の「個」としてのみ考えがちで、この自己支配的な主体は根元的に他者との交わりにおいて存在し、交わりにおいて自己を実現し、完成するような存在であることを見落とすか、それは何か副次的なことと考えがちである。
そして、このような「人格」の本質についての致命的な誤りからわれわれを救ってくれるのが、人格は人格として自然本性的に共通善を自らの目的として追求する、という真理、つまり人格と共通善の本質的な結びつきなのである。
その意味では、これら二つの書物は『人格の哲学』上・下巻としてまとめることもできたであろう。
五十年の歳月を隔てて「共通善」と「人格」を主題とする書物を書いたことは、もちろん偶然のなりゆきにすぎない。
しかし、或る意味では若い日に植えた苗木が人知れず育って再び目の前に現われたような不思議な感慨を覚えないわけでもない。
この「人格の哲学」をまとめ上げるにあたって私が何らかの仕方で教示や示唆を受けた著者および著作については、巻末の注にすべて記した通りである。
しかし、私はここで「人格」をめぐる私の思想形成において大きな影響を蒙ったと感じる二人の哲学者の名前を挙げておきたい。
その一人は私が高校生の頃、兄に勧められて読み始め、今も深い共感をもって数々の著作を読み返しているフランスの哲学者ジャック・マリタンである。
もう一人は一九七四年ローマとナポリで開催された国際的なトマス学会で聴いた「人格」概念に関する研究報告に感銘を受け、『フッサール年報第十巻』に「行為的人格」と題して発表されたモノグラフを始めとするいくつかの著作から「人格」に関する深い洞察を学びとったポーランドの哲学者カロル・ボイチワ(後の教皇ヨハネ・パウロ二世)である。
この二人の哲学者に導かれることなしには、私の「人格」研究がここまでの道をたどることはできなかったに違いない。
とくに記してその学恩に深く感謝の意を表したい。
二〇〇九年十一月稲垣良典
本書の原本『人格《ペルソナ》の哲学』は、二〇〇九年に創文社から刊行されました。
稲垣良典(いながきりょうすけ)1928─2022年。
東京大学文学部卒業。
アメリカ・カトリック大学大学院哲学研究科にてPh.D.を取得。
文学博士(東京大学)。
九州大学名誉教授。
専門は中世スコラ哲学。
『神学大全』の翻訳で第67回毎日出版文化賞,『トマス・アクィナスの神学』および『トマス・アクィナス「存在」の形而上学』で第27回和辻哲郎文化賞をそれぞれ受賞。
本作品は、二〇二二年三月、小社より講談社学術文庫として刊行されたものを電子書籍化したものです。
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