第八章 どのようにきょうだいは影響しあうのか
きょうだいのなかのポジションで性格はつくられる 末っ子には野心家が多い 第一子が保守的な性格になる理由 第二子はねたみ深い? 一人っ子の特別な状況 子どもの性格に遺伝は関係ない 子どもを誤った成長の犠牲者にしないために謝辞本書のなりたち
きょうだいのなかのポジションで性格はつくられる すでに何度もふれたとおり、人を判断するために重要なのは、その人が育った状況を知ることです。
特別な種類の状況として、きょうだいのなかでのポジションがあります。
この観点からも人を分類することができます。
もし十分な経験があれば、相手が第一子か、一人っ子か、末っ子かなどを見わけることも可能です。
末っ子がたいてい特別なタイプであることを、人間は昔から知っていたようです。
数多くの童話、伝説、聖書の物語には、末っ子が同じような形で登場して描かれています。
実際、末っ子はほかの子とはまったく異なる状況で育ちます。
両親にとって特別な子であり、一番若い者として特別な扱いを受けます。
一番若いということは、一番小さいということでもあり、ほかのきょうだいが自立してすっかり成長したころに一番世話を必要とするということでもあります。
そのため、末っ子はとくに温かい雰囲気のなかで育つことが多いのです。
こうした状況からは、人生に対する態度に特別な形で影響する特徴、特別な人格を作る特徴がいくつも生まれます。
ここには、矛盾して見える要素もともないます。
子どもにとって、いつも一番小さい存在として扱われ、信用されず、なにも任されないことは、気分のよい状況ではありません。
子どもはこの状況に刺激され、自分はなんでもできると示そうと努力します。
この力の追求はどんどん強まります。
そして末っ子は、最良の状況でないと満足しない人間になり、他者を超える努力を自分のなかで育てるのです。
末っ子には野心家が多い このタイプはよくいます。
他者を超え、きょうだいよりもずっと多くのことをなしとげるタイプです。
よくないのは、同じことを望みながらも完全に行動に移せず、自信もないタイプです。
この状況も、きょうだいとの関係から生じています。
きょうだいを超えられなかった場合、末っ子が自分の課題から後ずさるようになることがあります。
臆病でうじうじし、課題を避けるためにいつも言い訳を探すのです。
ふつうの野心はそれほど強くないのですが、逃避し、人生の課題ではないところで野心を満たし、能力を試される危険を避けるという種類の野心はあります。
多くの人はもう気づいているでしょうが、末っ子は、自分が我慢させられていて、劣等感をかかえているかのようにふるまいます。
わたしたちの調査では、この末っ子の感情が決まって確かめられましたし、この苦しく不安な感情から精神の成長の大きな躍動が生まれることも確かめられています。
この意味では、末っ子は、生まれつき身体器官が弱い子どもと同じです。
それが事実かどうかは関係ないのです。
客観的にはどうか、本当に劣っているのかどうかは問題ではなく、本人がどう感じているかが大事なのです。
子どもの人生では、どれほど容易に誤った認識が作られるかもわたしたちは知っています。
ここでわたしたちは多くの問い、可能性、結果に直面します。
教育者はどう行動するべきなのでしょうか? 子どもの虚栄心をさらにかきたてたりして、もっと刺激を起こすべきでしょうか? このような子どもはいつも一番になるということにばかり注目しても、人間の人生にはなんの役にも立たないでしょう。
人生で大事なのは一番になることではないのは、経験からもわかります。
いえ、むしろ、ここではやや強調して「一番はいらない」と言っておきましょう。
一番の人たちについてはもう十分です。
歴史や自分の経験を見渡せば、一番に祝福がもたらされないことに気づかざるを得ません。
いつでも一番という考えは、子どもの視野を狭めます。
さらに、よい共生の仲間にもならなくなります。
なぜなら、次に起こるのは、子どもが自分のことばかり考え、だれかに先を行かれていないかを気にするという事態だからです。
ねたみや憎しみの感情が育ち、ずっと一番でいられるかどうか不安が大きくなります。
末っ子はもともとそのポジションのためにスタートダッシュが速く、他者を追い越そうとする傾向があります。
こうしたランナーの性質は、態度全体に現れます。
たいていはごくささいなところに見られるので、この精神生活の関連がわかっていなければ気づきません。
子どもはつねにグループの先頭に立ってきたがり、自分の前に人が立つことが耐えられなかったりします。
ランナーの性質は、ほとんどの末っ子に見られる特徴です。
このタイプの末っ子は、ときに異彩を放って、非常に特殊な形で現れることがあります。
行動力があって、一族全体の救世主になるほどの人がいるのです。
過去を振り返って、たとえば聖書のヨセフの伝説(※訳注 1)に目を向けてみましょう。
そこにはすべてがすばらしい形で、まるで書き手が、わたしたちが必死で得ている知識を完全に手にしているかのような明確さで書き表されています。
何百年もの時の流れのなかで、わたしたちが見失った価値ある素材はきっと多いでしょうが、それをくりかえし新たに発見していかなければなりません。
ほかにももう1つタイプがあります。
1つ目のタイプから派生してできたものです。
先ほどのランナーで想像してみると、こちらは突然、障害にぶつかり、乗り越えられないと思って、回り道をします。
こうした末っ子が勇気を失うと、考えられるうちでもっとも質のわるい臆病になります。
つねに後ずさり、どんな仕事ももてあまし、なんにでも言い訳をし、思い切って行動もできずに時間を無駄にします。
たいてい失敗し、最初から競争が排除されている場所をなんとかして探しだします。
失敗すればありとあらゆる言い訳を並べたて、自分は弱いとか、放っておかれたとか、甘やかされた、きょうだいのせいでうまくいかなかったなどと言うのです。
本当に身体がどこかわるい場合、こうした運の巡りあわせはもっとひどくなります。
逃げるために病気を利用するのです。
どちらのタイプも、たいていはよい共生の仲間になれません。
最初のタイプは、競争することに価値があるときにはまだうまくいきます。
このタイプは他者を犠牲にしたときにだけバランスをとることができます。
対して、2つ目のタイプは、重苦しい劣等感や、人生との不和に一生ずっと苦しみます。
第一子が保守的な性格になる理由 第一子にも、はっきりした特徴があります。
とくに第一子には、精神生活を成長させるのに適したポジションという利点があります。
いつも特別で有利な立場にあることは、歴史を見ればわかります。
多くの民族や社会階層では、この優位が伝統的に維持されています。
たとえば農家では、第一子はいつか農場を引き継ぐという自分の使命を幼いころから知っています。
そのために、いつか家を出なければならないと思って育つきょうだいよりもずっと有利な状況にいます。
そのほかにも、長男が家を継ぐことになっている家柄はたくさんあります。
一般市民や低所得者層のように、この伝統が重視されない場合でも、第一子は少なくとも腕力や利発さを求められ、手伝いや監視役を任されます。
こうして絶え間なく周囲からの信頼を背負わされることが、子どもにとって何を意味するか、想像してみてください。
この状況は子どものなかに、次のような思考プロセスで表されるものを作りだします。
それは、おまえのほうが大きくて強くて年上なのだから、きょうだいよりも賢くなければならないという考えです。
第一子の成長がこの方向でそのまま進むと、秩序の番人と言えるような特徴が現れます。
こうした人は力に対して独特の高い評価をします。
自分自身の力に対しても、力という概念に対しても同じです。
第一子にとって力は当然のことで、重みがあり、必ず勝利するものです。
こうした人は、基本的に保守的な性格でもあります。
第二子はねたみ深い? 第二子にも、力と優越の追求が独特の形で見られます。
エネルギーにあふれ、優位を目指して突き進みます。
態度にも競争が示され、それが人生を形作ります。
第二子は、力のある人が前にいることを強い刺激として感じます。
自分の力を育てて第一子と闘える場合には、勢いよく前進します。
一方、力のある第 1子は、きょうだいに抜き去られる恐れがないかぎりは、比較的安全だと感じています。
聖書のエサウとヤコブの伝説(※訳注 2)は、こうしたイメージを生き生きと伝えてくれます。
ここには、落ち着くことのない力の追求が見られます。
追求
コメント