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第八章  人生の羅針盤

今日は、人間の心の力を、絶対的な強さにするに必要な根本要素ともなるべき、極めて重要な事柄について悟ることにする。

厳格にいうと、今日の悟りが充分に現実化されているか否かで、その人の一生が決定されてしまうという、広い意味における人生の基礎を堅固にすると同じくらいに極めて価値高い問題である。

このようにひとつひとつテーマを変えて、人生建設に必要な宇宙真理を説いているのも、結局、諸君の迷いを覚まして、悟りを開かせ、真理に順応して活きる人間を創るためであり、また本当に諸君を、万物の霊長たる資格を持つ人間にしたいからである。

そして人生を本当に有意義に、幸福に活きられる人にしてあげたいのが目的である。

だから、かりそめにも、人間として理解し、悟らねばならない真理は、私の知るかぎりの全部をもってお導きするということを、私の信条としているのである。

立派に万物の霊長たる資格を持って活きるには、いやしくも、人として理解しておかなければならない人生真理を、出来得るかぎり、自分の人生を考える中で、きちんと蓄えておかねばならない。

そうでないと、人生を完全に活かすことが不可能になる。

いい換えれば、人生真理を理解するということは、ちょうど、花園を汚す雑草を、片っ端から切れ味するどい鎌で苅りとるのと同様である。

考えてみよう。

お互の心の中には、自分でも愛想が尽きるような、随分と悪い思想や、悪い観念が、蔓延っているということを否定出来ないだろう。

またそういうものが、自分の心の中にないとしても、やたら、悲しんだり、怒ったり、怖れたりという、ともすれば心の光を暗くするような消極的な観念が、随分我々の観念の中には、自分でも困るくらい、時として愛想が尽きるくらい発生する。

そこで、いままで聞いた正しい理解で、健康や運命を正しく建設して、人生を生き甲斐のある状態にしていくためには、こういうものを心から除き去らなければならないのである。

どんなに学問をし、またどんなに経験を積もうとも、この真理瞑想によって得た悟りを現実に実行していかなければ、本当の幸福というものは現実にならない。

ところが、おおむね世の多くの人々は、こうして真理瞑想を聞いているときは感謝し、「ああ、そうだ」「まったくだ」というふうに考えていながら、他日、病が起こったり、あるいは運命に悪いものが起こると、それから離れてしまう。

何のために教えを聞いたのかわからないような、哀れな状態を自分の生命につくってしまう人が多くはないだろうか。

そんなことでは、人生の真理を、悟ったというのではなくて、ただ理解したというだけのことだ。

理解と自覚とはまったく違う。

理解というのは、ただわかったというだけであり、自覚というのは、本当に自分の魂に受け入れたことなのである。

どうも多くの人々は、理解ということだけで、感謝したり、あるいは非常に大きな法悦と感じたりするような馬鹿馬鹿しいことを、大変価値のあるように考えている。

一番先に必要なことは、諸君の心の中に存在して、悩ませ、迷わせ、悶えさせている雑念、妄念というものを除き去らないかぎりは、どんなことを聞いても、わかったということが、直ちにわかったことにはならない。

自覚というのは、結局、その雑念妄念を払い除けて、自分の知識の中に受け納めたものでなければならない。

そうすれば、病が起ころうと、どんな運命に見舞われようと、決して自分の心の強さというものを弱める気づかいはない。

しかしただ上っ面だけ理解していて、相変らず雑念妄念を潜在意識の中に溜めていたのでは、いつまで経っても、ものがわかったというだけで実行に移されない。

その結果、知らない方がかえって気易い人生を活きられるという、滑な結果が人生におきてくる。

たとえば、夜眠れないときなんかに、何もわからず、「眠れないなあ、困ったなあ」と思うだけだけれども、睡眠を充分に取らないと、それが原因で生命に生ずる障碍が、どれだけ夥しいかということがわかると、「眠らないと、自分の体の中に疲労素が余計増えて、尿素過剰になり、それが原因で、肝硬変の素を作ったり、腎臓病の素を作る怖れがある」ということを考えたりして、二重にも三重にも、その苦痛が自分を襲ってくることになる。

そのとき、正しい自覚を持っている人間は、雑念妄念を払い除けてあるから、心の態度が立派に積極的になっているので、気高い心で一切を処理し、命を怯やかすようなひどい病が起ころうと、どんなひどい運命に襲われようと、巧みにその心の中で挽回してしまうのである。

このゆるがせにすることの出来ない重大な消息を、たいていの人が、ゆるがせにし過ぎているのである。

そしてやたらと、怒り、悲しみ、怖れ、憎み、嫉み、悶え、迷い、苦しんでいるのである。

ひとたび人生真理に目覚めれば、そのように人生を心ならずも、不調和に陥れたり、あるいは根本的に破壊するような兇悪な、不必要な気持ち心持ちというものは、少なくとも、現在より遥かに数を少なくしてしまうものである。

またそうした消極的な感情や観念が、心の中から影を潜めないかぎり、宇宙霊の力を、よりよく自分の生命の中に集めることは到底出来ない。

だから、まことに人生真理の自覚ということは、人生を不調和に陥れたり、または、人生を破壊する兇悪な運命から、魔の手を防ぐくろがねの楯のようなものである。

人生を悟るということは、宇宙霊の無限の力を、生命の中に受け入れる入れ物を用意したことになる、ということを考えると、けだし容易ならざる大切なことであり、人生を完全なものとして、活きていこうとするものにとっては、これはもう、真剣以上の真剣さで考えてみなければならない、人生問題の中の最高のものである。

ところが、この私もわからなかったとはいえ、そのようなことを全然考えなかったという愚かな人間の一人であった。

だから、ただ生きていられるから生きているという惰性的な生き方ばかりして生きていた結果が思いもよらない大きな病を身に引き受けたり、しなくてよい苦しみを、自分の生命に与えてしまったのである。

しかし、幸いにも、自分を甦らせる真理を自覚したおかげで、今日があるわけである。

自分の経験してきた苦い過去を諸君にはさせたくない。

もちろん、そのようなことは全然考えもしないで来た人も多いであろう。

しかし、求める求めないにかかわらず、また知ろうとする、しないにかかわらず、人間として生きている以上、多くいうまでもなく、自分の生命の全体は自分が守らなければいけないのである。

いま何でもないと、そのような気持ちは起こらない。

健康が完全で、運命が良いとなると、人間は案外横着で、自分が何かそういう、特別な権利を与えられたと思ったり、あるいは自分というものが、そういう良い運命の人間であるというふうに思い上がる。

ところが、人間の生命に、どんな嵐がいつなんどき吹いてこないともかぎらないというのが人生である。

何の嵐も吹かない、何の出来事もない、ノーアクシデントが人生の全部なら、我々は、何にもこういう方面のことを考える必要はなく、今までどおり、金だ、慾だ、食い物だ、着物だ、色だ、恋だ、遊びだ、戯れだといって過ごせば、それで人生というものが万事OKだ。

しかし、油断も隙もないというのが、文字通り人生の本当の面目である。

考えてみればそら恐ろしい人生だ。

いつかも話したことであるが、人間というものは、虎に追いかけられて松の木に登り、松の木に上がってみると、上から大きな蛇が来て、進退きわまって足元の葛に伝って谷の底の方に行こうとぶら下がっていると、その蔦葛をリスがぼりぼりかじっている、という状態の中で活きているのが、人生の全体の〝すがた〟である。

ただ、自分が虎に追いかけられて逃げたら蛇に呑まれようとしている。

そしてきわまって、ぶら下がった蔦葛の根本をリスがかじっていると気が付かない人間は、ポーッとして生きているだけである。

けれども、何の用意もなくそうした人生に生きていると、ハッと気が付いたときには、まだその蔦葛がかじり切られないうちに、もう手を放して自分が落ちてしまう。

だから、こう考えてみると、実際、油断も隙もないのが、人生の本当の〝すがた〟なのである。

死ぬときに、一休禅師も何といったか。

昨日まで人のことよと思いしに今日は我が身かこいつたまらぬという辞世がある。

どうも諸君は、現在がどうもなければ、永久にどうもならない、と思うほど、極めて呑気という以上に緩んでいる気持ちを持っている。

もしも金が出来て、地位が高くなったために、幸福になれて、病に罹らず、悪い運命にもならず、また死にもしないというなら、まことにこれは結構ずくめであるが、いくら金が出来ようが、地位が高くなろうが、何がどうしようが、そういかないのが人生である。

だからこそ、我々は、何を措いても、正しい人生に絡まる真理だけは、自覚して活きねばならないのである。

そこで、今まで数々の自覚が与えられたのであるが、人生を完全に活きようとする人たちが、一番根本的で、大事な心をたのもしいほど絶対的にし積極的にするのには、どんなことが必要か。

諸君は、心は積極的にしなければいけないということは知っている。

精神生命の固有する感応性能を積極化させることが先決問題であることを毎月の講習会で学んでいる。

そして、その条件や条件解決の方法も会得した。

尊く、強く、正しく、清く活きなければならないことが、人間の真の活き方だということも知っている。

そして出来るだけ、明るく、朗らかに、生々として、勇ましく活きることを心掛けてはいるであろう。

しかし、その心掛けていることが、いかなる場合にも、徹底しているかというと、そうはいかないだろう。

ともすれば明るいはずの心に暗やみが差し、朗らかであるべきはずの心が朗らかでなく、生々とした勇ましさが、事があれば、すぐペシャンとなり、自分ながら考えると口惜しいということが、たびたびありはしないか。

まあ最初の一、二年は仕様がないが、三年、五年と熱心にやっていれば、もう、我々が感心するほどの人間になるはずである。

それというのも、側からじいっとそういう人を観察してみると、これから悟ろうとする肝心要のものが、抜けているのである。

それはいったい、何か、というと、一言にして尽きる。

「信念」ということである。

つまり現代の人間は、良いことを聞いても、良いなあと思って感激はしても、それが、本当に自分の心のものにならないのは、心の中に大事な信念というものが、知らず知らずのうちに、欠如しているからなのである。

欠如しているというより、むしろ下積みになっているといおう。

ともあれ、信念の力というものは、実に諸事万事を完全にする根本的な要素なのである。

時の古今といわず、洋の東西を問わず、信念の重要性というものを、人生を説く人は、誰でもが力説している。

紀元前に存在していた有名なヘブライの〝ソロモン〟も、その時代には、まだ、科学も哲学も、今日とは比較にならぬほど、進歩していなかった時代だが、彼はすでに、「人の本当の値打ちというものは、宝石でもなければ、黄金でもない。

いわんや地位でもなければ、名誉でもない。

ただ、信念の二文字である」といっている。

また釈迦も、キリストも、マホメットも、孔子もいっている。

釈迦は、「信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し難し」といっている。

キリストは、「まず、信ぜよ」といっている。

マホメットは、「疑って、迷って、真理から遠ざかる者よりも、信じて欺かるる者、汝は幸いなり」といっている。

しかしこれは逆説的な言葉である。

信ずる者は欺かれないから、本当に信ずる気持ちを持っている者は、ものの本当か嘘かはパッとわかるものである。

本当のもの以外は信じないからである。

それを諸君は疑いだらけだから、信じなくてはならないことを信じられないで、何でも頭から疑ってしまうというやり方なのである。

孔子は、「信は万事のもと」といっている。

また、メーテルリンクは、「能うべくんば、究むるもよし、さりながら究め能わざるものは、信ずるにしかず」といっている。

いずれにしても、信念の重大性は早くから、人生を考える学者や、識者には、感じられていたのである。

それほど重要なことが、さきほどもいったとおり、現代の人間は情ないほどそれをそうと考えず、何でも、まず疑いから考えようとする。

そうすることが、正しい考え方のように思っている人が多い。

疑いの方から考えようとするから、自分というものが、勢い、小さな存在になってしまっている。

ではなぜ疑いがいけないのか。

それは疑い出したら、何事も安心が出来ないからである。

よく考えてみよう。

我々が、こうやって、活きているのも、多少なりとも信念があるから活きていられるのである。

例えば、夜眠るのだって、疑ったら眠られない。

「今夜眠っている間に、死んでしまいはしないか」と思ったら、うかうか寝られもしない。

不眠症に罹る人間は、みんな、そのような心持ちを持っているのだ。

「ちょっと眠っている間に、死んだらどうしよう」というふうにだ。

それから一所懸命に行をやっているときに、「ボカンと大きな地震でもあって、地面に大きな穴でも空いたらどうしよう」なんて疑い出したら、それはもう、安心出来はしない。

いつもいっているとおり、疑いがこうじたら、産んだ親まで疑いはしないだろうか。

生まれるときに誰も、産んだ親の顔を見て来ない。

ただ自分の観念の中で、これは自分の親だと思うから、親と考えているだけだ。

それが信念である。

夜寝るとき、起きられないだろうとは思わないから寝るのだ。

そうやって眼をつぶっていても、また開けようと思えば開けられるから眼をつぶっているのであって、絶対に開かないと思ったならば、眼をつぶりはしない。

このような、見やすい事実があるにもかかわらず、いったい、現代の人間、特に理知教養のある人ほど、あさましいほど、諸事万端、他人事ばかりでなく、自分のことまで疑って人生を活きる悪い心持ちを持っているのは、科学教育の余弊だといってもいい。

幸か不幸か、お互は科学の時代に生まれている

からである。

なぜ科学の教育を受けると、そうなるかというと、科学はまず疑いの方面から、物を考えようとする。

本当はいけないのだけれども、習慣で知らず知らずに陥っている。

「科学は疑い深い」というくらいである。

しかし、もっと科学の求める結論を考えてごらんなさい。

科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。

証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。

すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

もっとわかりやすくいえば、科学的にわかることと、どう研究してもわからぬこと、わかっていないこととがある。

いくら、知らなければならないと思っても、それには限界がある。

科学は万能の学問ではない。

それを、何事をも科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間にわからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。

ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

〝ゲーテ〟も、「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」といっている。

これはつまり、人生に対する信念が乏しいために他ならない。

実際、時の古今、洋の東西を問わず、仲間の群をしのいで名をなし、功を遂げた偉人や傑士を見てみるがよい。

誰も皆信念の人であったことを発見するに違いない。

以上のように、人生にとって一番大事なことは信念であるということはわかっているが、それほど重大な信念は、どうすれば確立され、どうすれば信念が強くなるか、という実際方法は誰も解いてはいないのである。

さて、そうなら、どうすれば信念が確立され、どうすれば信念が強くなるのか。

それにはまず、「信念を煥発すること」である。

信念は煥発しなければ、強くはならないのである。

信念は出たくてうずうずしているのに、消極的な観念がそれに蓋をしていて、諸君の心の底の底の底に、いつのまにか下積みにされてしまったのである。

だから、信念は煥発しなければいけない。

信念が本当に煥発されると、「実際、これが本当に自分の心か」と思うほど、驚くべきありがたさが自分の心に生じてくる。

信念が煥発されてくると、くだらないことは考えないし、神経は過敏にならないし、ことあるも常にことなきのようになれるのである。

信念という、この人生に重要性をもつ価値高いものを、煥発しなければいけない。

だから、ハッと思ったら、今夜からといわず、たった今からでも、信念の煥発をしなさい。

ここまで人生理解が進んでくると、たとえ偶然の因縁でも、天風会員になったならば、入会以前には〝信念の煥発〟というような重要なことは、とっても困難なことで、特別な難行苦行をするとか、長い間坐禅の修行とかをしないと出来ないと思っていたであろうけれど、諸君はもうすでに講習会で観念要素の更改法を教わっているではないか。

あの鏡を利用する自己暗示法を真剣に実行しさえすれば、信念はどんどん煥発されるはずである。

ところが、上っ面だけ聞いて実行しない人が多いから、なかなか信念が煥発されないのだ。

そのような人は、ちょうど、基礎工事をしっかりやらずに建築物を建てるのと同様なのである。

もう旧聞に属するが、九州の八幡の製鉄所に講演に行ったときのことである。

会員の野田工学博士が海軍中将で退官後そこで技監をしていた。

講演が終わって、夜は野田博士の官舎に泊って翌朝の朝食のときであった。

「いやあ、まったく驚きました、実は先生の寝がけをのぞき見したんですよ」という。

「何のために」と尋ねると、「先生が、寝がけに、どんな自己暗示をされるかと思って、抜き足、さし足、夫婦でもってのぞき見したんです」「それでどうだったかい」「鏡を見られて、あんな真剣な態度でされるとは思いませんでした。

先生ぐらいになられても、まだおやりになるんですか」というから、「ああ、一生やるよ!」と答えた。

すると、「へえ、私どもは聞きっ放していましたね」といって、夫婦で顔を見合わせて、「いえね、やらないことはないんですけれど、一週間に一回か二回です」と。

まあ、やらないよりはいいが、中には古い会員には聞きっ放しで、「ああ、あれは年一回くらいだなあ」とか、あるいは、「プラナヤマ、はて何だっけ?あああの深呼吸することか。

五年に一回くらいしかやらん」といった、とぼけたのがいる。

そんなのは観念要素の更改なんて、本当に真剣にやってはいないのだ。

石灯籠と同じで、ただ苔が生えているだけで、何の役にも立たない。

新しい人は、そんな古い人の真似をしてはいけない。

どこまでも自分を作り変えていくという心で、真理を聞いた以上、真剣に実行していかなければいけない。

私の半分でもいいから実行したら素晴らしい立派な人間になれるんだと、もう何回もいってきたはずだ。

よいことは真似しなさい。

たった一分か二分あれば出来ることではないか。

合理的な方法を知らないで、ただ信念信念というと、往々にして、正信念でなく、いわゆる、盲信という価値のない精神状態になる。

そうなると、哀れ千万にも、文化時代の人間ともあろうものが、迷信家となる怖れがある。

あの鏡を用いる合理的な方法で煥発された信念は、前述の正信念である。

正信念というものは、宇宙真理に自然に感応して、疑いの心が発動しないが、そうでない盲信という精神状態になると、どうしても宇宙真理に感応しないで、ただもう雑念妄念のみで消極的な心になるため、迷信に陥る。

「やれ、方角がどうで、やれ日がらがどうだの、やれ星廻りがどうだ、年廻りがどうだ」と、変な理屈をつけて、まるで半分は精神異常者みたいなことをいっているのは、結局信念がないからだ。

迷信ということは根も葉もないことなのだ。

根も葉もないのに、根や葉をつけるからいけない。

迷信は文化民族の恥辱である。

それは信念がなく、心が消極的になっているから、そのような迷信などに走るのだ。

繰り返していうが、信念というものは、煥発しなければ断然出てこないのだ。

自分の心の中に生まれながらにして、霊性意識の中に入っているものであるから、雑念妄念を除いて、心の正体を出しさえすればぐんぐん出てくるのだ。

信念が出てこないと、人生は不可解なことがいっぱいなんだから、あっちへウロウロこっちへウロウロとして、本当に安心立命の人生に活きることが出来

ないという滑な結果だけになってしまう。

信念を持つということを多くの人は、大変むずかしいことのように思っているが、決して難しくも何ともないんだよ。

鏡を見てやる自己暗示法なんか、やさしいことではないか。

隣のオバさんの顔を借りてきて写すわけではなし、長年持ちふるしている、自分の顔を写せばいいんだから。

顔の眉間に向って、自分が精神統一してから、自己暗示法を注ぎ込みさえすれば、信念はぐんぐん出てくるのだ。

女の人なんかは、しょっちゅう信念の煥発が出来るようなコンパクトという道具を持っているじゃないか。

化粧というものは化け粧うんだから、蔭で化け粧えばいいのに、人の前であろうと、電車の中であろうとはばからず、コンパクトというゲテものを出して、高くもない鼻を懸命にヒッ叩いて、顔に白粉塗っている人がいる。

これも、あながち悪いとはいわないが、同時に、心にもお化粧したらどうだ。

コンパクトを出して鼻ヒッ叩いているときに、ついでに出来るじゃないか。

颯爽潑剌たる人生を活きたかったら、動かざること山のごとき、断固とした信念を造っておかなければいけない。

どんなに学問が出来ようが、どんなに金ができようが、信念がなければ、その人の人生は、哀れ、惨憺たるものになる。

ちょうど、薄い氷の上に、立っているようなものである。

いつなんどき底知れない湖の中に落ち込んでしまうかもしれないような、危険な人生を活きているのが、信念のない人生だ。

自分自身で自分自身をよく考えてみよう。

我は信念があるのかないのか、弱いか強いか。

信念というのは、頑張ることではない。

煥発して来なければ駄目だ。

自分の心の中から抉り出さなければ駄目だ。

信念の方は、出たくて出たくて、うずうずしているんだから。

わざわざそれを、雑念妄念の厚い壁を造って、出難いようにしている。

霊性心の発現を、わざわざ妨げている。

さらに夜の寝がけに暗示誦句集を出して、どこでもよいからパッと開いて、その開かれたところの誦句を見て、宇宙霊が今夜私に、この誦句を与えたもうたのだ、これこそ正に天の声だ、と信じて唱えるのだ。

そして、その気持ちを、どんなことがあっても絶対に失うまい、と心に堅く刻み込んで寝床に入る。

そうすれば必ず、牢固として抜く能わざる信念が確立されることは断然間違いない。

そのために、古い人も新しい人も、すべての天風教義を今日から改めて実行すると約束しよう。

宇宙霊に約束した以上、実行しないと詐欺になる。

諸君の一人一人が、健康も運命も、本当に幸福になり、そういう人が増えれば、その人たちの言葉や行いによって、多くの迷っている人が、美化善化してくる。

諸君の一人だけが、よくなるためだけに来ているんじゃないのだから。

「選ばれ人として、ここに座ったのだ」という信念を持たなければいけない。

私みたいな人間が、こういう尊い仕事をする気になったのも〝信念〟だった。

私がこの仕事を最初にするとき、止めた人間が、誰あろう、田中智学という日蓮宗のその当時の有名な坊さんだった。

「駄目だから、お止しなさい」といったが、私はこう思った。

「本当の気持ちで人のためを思ってする仕事が、駄目とはいかなる理由か。

人によいことを奨め、人を幸福にすることがなぜ駄目なのか。

否、駄目とか、駄目でないとかは考えない。

ただ人を幸福にすれば良いのだ。

それが自分に出来ないはずがないんだ!」という気持ちでこれを始めた。

だから私のその気持ちを信じてくれたのは、母親と家内だけであった。

他の人々は、皆私が気が狂ったと思った。

それはそうかもしれない。

たとえ何であろうと、銀行の頭取をしていた人間が急に草鞋ばきになって、脚絆をつけて、焼きおむすび持って、大道講演すれば精神異常者だと思うかもしれない。

しかし私には私なりの信念があった。

尊い真理に国境はない。

尊い因縁に恵まれて、こうして集ってきた以上、自然の摂理に従い、ただ自分だけでなく、世の人々を幸福にするために活きてこそ、この世に生まれた生き甲斐があるのだ。

だから、どうぞ、人のため、世のために、本当に心の底からお願いしておく。

改めて今日から、古い人も心を入れ替えて〝信念の人〟に成りなさい!誦句を与える。

信念の誦句信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。

したがって信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。

かるがゆえに、私は真理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。

今の人々は、この真理に対しても、純真な気持ちで必ずしも信じてはいない。

だから八卦に見てもらったり、占いを見てもらったり、方角を見てもらったりというふうになってしまうのだ。

この点を忘れてはいけない。

否、信ずることに努力しよう。

というのは、信念を煥発しようということである。

もしも疑うているような心持ちが少しでもあるならば、それは私の人生を汚そうとする悪魔が、魔の手を延ばして私の人生の土台石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。

どんどん人生の土台石を盗もうとして来る悪魔を手伝って、一緒に運び出すような間抜けなことは、断じてなすまいぞ!さあ、ついて来なさい!

信念の誦句信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。

したがって、信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。

かるがゆえに、私は真理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。

否、信ずることに努力しよう。

もしも疑うているような心持ちが少しでもあるならば、それは私の人生を汚そうとする悪魔が、魔の手を延ばして、私の人生の土台石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。

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