第八章誰かを喜ばせようとしても、無視されたりバカにされるんです
[ドラさんの宿題]相手からの見返りを求めずに、まずは自分から始める
「いったい誰?」朝一番だというのにリカが大声をあげた。
「給湯室のコーヒーカップ。
今朝まとめて洗おうと思っていたのに、いつの間にか全部洗ってあるのよ。
誰がやってくれたのかしら?」まさか、こんなに注目されてしまうとは。
ボクはおずおずと問いかけに答えた。
「ご、ごめん。
リカ。
ボクだよ。
まずかったかな?洗い方が悪かったら謝るよ」「えー?リョウ?リョウが洗ってくれたの?マジー?キャー、嬉しい!」リカが突然ハグしてくれた。
あっ。
リカの細い骨張った肩がボクの鎖骨のあたりにぶつかる。
心なしか前回よりもハグの力が強いような気がする。
気のせいかな。
しかし、ドラさんの宿題「毎日誰かを喜ばせる」は、なんて素晴らしいんだ!リカを喜ばせるとこんなにステキな特典がついてくるのか。
「ほぉ。
リョウ、やるじゃん。
オレのも洗ってくれたのか。
サンキュー」ハグはないけどハヤト先輩も喜んでくれた。
誰かの役に立ち感謝されるってこんなにすがすがしいのか。
ドラさんの宿題はいつもながら効果抜群だなぁ。
そう思っていると、後方からとげとげしい視線を感じて振り向いた。
見ると、ボクたちの二つ隣、三課の島に座っているツヨシがこちらを睨んでいるではないか。
「チッ」遠くからでもはっきりと舌打ちの音が聞こえた。
あっ。
もしかして……。
ツヨシは続けて周囲に一言二言つぶやき、全員がドッと笑った。
そのうちの何人かがボクのほうを見てずっとニヤニヤしている。
まずい……。
きっと彼らはボクをバカにしているに違いない。
得点稼ぎのエエカッコしい。
きっとそう言っているんだ。
あぁ、余計なことをしなければ良かった。
下手に目立つとろくなことがない。
では、うちの課のメンバーはどうだろう。
ボクはあわてて同じ島のみんなをグルリと見た。
これだけコーヒーカップのことが騒がれているというのに、後輩のイチローはまったく知らん顔でパソコンに向かっている。
ボクが昨晩洗ったカップの中に「イチロー」と大きくマジックで書いてあるものもあった。
あいつ、後輩のくせに、先輩のボクに感謝の言葉も寄越さないなんて。
ボクはますます暗い気持ちになった。
その日ボクは外出がなく、終日社内で事務作業だった。
だから余計にクヨクヨと同じことばかり考えてしまう。
「余計なことをしなければ良かった」そんなことを考えているうちに、あっという間に一日が過ぎてしまった。
もちろん、仕事はちっとも進んでいない。
えぇい、今日はもう帰ってしまおう。
もう「誰かを喜ばせる」なんてやめよう。
そう決心してボクは荷物をまとめた。
「今日は早く帰ります。
お先に失礼します」努めて元気な声を出す。
おっ早いな。
先輩が言う。
構わず帰ろうとしたところで、机の上に置きっぱなしになっているマグカップに気がついた。
ボクはそれを手に取り給湯室へと向かった。
洗い場にはずらりとカップが並んでいる。
心苦しかったが、あえて自分のカップも洗わずに、そのまま置き去りにして帰ることにした。
「今日はカップを洗わないのかね?」エレベーターホールのベンチに座ったドラさんが大きな声をあげた。
いつものように床まで届かない短い足をぶらぶらさせている。
ボクは心の中を見透かされたようで恥ずかしくなり、言葉にならない言葉を口の中でごにょごにょとつぶやき、ごまかそうとした。
ドラさんは一切構わずに続けた。
「『人の目ばかりを気にしている人は、自分のことしか考えていない人である』アドラーの言葉だよ。
リョウ君。
キミは今日一日中ずっと人目を気にしていたね。
ツヨシ君やイチローやみんなの目だ。
キミは自分のことばかりを考えていたんだね」ボクはドラさんから責められているように感じて言葉が出てこなかった。
そんなボクにお構いなしにドラさんはベンチから飛び降りてエレベーターのボタンを押した。
「リョウ君。
待っていたよ。
途中まで一緒に帰ろう」ドラさんの提案でボクたちは、少し遠回りして日比谷公園を歩き、最寄りの東京駅から二つ隣、新橋駅から帰ることにした。
十月の初旬、夕方五時半を過ぎたら、もう外は真っ暗だ。
空には白い月が見える。
ボクとドラさんはなんとなく噴水広場のベンチに座った。
噴水が赤や緑にライトアップされ、次々と色が変わっていく。
「リョウ君。
人の気持ちは様々だね。
あの噴水を照らす七色のライトのようだ」ボクはリカのハグとハヤト先輩の笑顔を思い出し、次いでツヨシの小馬鹿にしたような表情、そしてイチローの冷たい横顔を思い出した。
たしかに七色のライトだ。
「アドラー心理学ではこう考える。
人は弱い動物だ。
牙も鋭い爪もない。
だからこそ、助け合い協力しあわねば生きていけない。
自分一人だけ良ければいい、と考える人は生きていけないんだ」「だから、ボクたちにとって誰かの役に立つ、つまり貢献することが最も大切だ。
そして、貢献ができたとき、ボクたちは社会の中に居場所が見つかり安らぎを感じる。
アドラー心理学ではそれを『共同体感覚』という。
つまり自分のことと同じように相手や共同体を大切にする感覚だ。
それを育てることこそがまさに、ボクが出した宿題『毎日誰かの役に立つ』ということさ」さすがはアメリカ帰りだけのことはある。
こうしてドラさんに論理的に説明されるとボクは素直に納得してしまう。
しかし、だ。
理屈はその通りかもしれないけれど、ツヨシやイチローはそれを受け容れなかった。
ボクは拒絶されたんだ。
ボクはドラさんに食ってかかった。
「それはわかりますけど。
でも、ツヨシはそんなボクをバカにして笑い者にしました。
イチローは、まったくの知らんぷりです。
『共同体感覚』とやらが大切なのはわかりますけど、ボクの独り相撲では成り立たないのではないですか?感謝もされずバカにされるくらいなら、やらないほうがマシです」ふと見ると、十月だというのにドラさんは額に玉のような汗をしたたらせていた。
眼鏡がくもり、スリーピースのスーツの背中にはびっしりと汗じみができていた。
だが、ドラさんはそんなことにまるで気づかないかのように熱弁をふるった。
「それだよ、それ!『共同体感覚』で大切なのは、それなんだ。
独り相撲でいい。
いや、むしろ独り相撲でなくてはダメなんだ。
相手からほめられ、認められることを求めてはいけない」「相手には相手の考え方がある。
喜び感謝する人もいれば、余計なお世話と拒絶する人もいる。
噴水のライトのように人それぞれ七色の光だ。
全員から感謝されることなんて不可能なんだよ。
もしも全員に喜ばれようとすれば、相手の顔色をうかがってばかりで、貢献なんてできっこない」「だからね。
拒絶されても、バカにされても、無視されてもいいんだ。
キミがキミなりの善意で『相手のため』と信じて行動したのであればそれでいいんだ。
独
り相撲でいいんだよ!」独り相撲でいい。
拒絶されても、バカにされても、無視されてもいい……。
そんな考え方があったとは……。
それが正しいのならば、ボクの心はどれだけ楽になるだろう。
しかし、それでは自分勝手、押しつけや言い訳だらけになってしまわないだろうか。
頭の中に次々と疑問が渦巻いている。
そんなボクの心を見透かしているかのようにドラさんは続けた。
「アドラー心理学では『それは誰の課題か?』という問いを大切にするんだ。
リカに代わってみんなのマグカップを洗うか、洗わないか?その結末を引き受けるのはキミ。
だから、カップを洗うか洗わないかは、リョウ君の課題だ」「でもね、リョウ君がしたことに対してリカやイチローやツヨシ君がどのように反応するか?キミに感謝するか、点数稼ぎだと非難するか。
それを決め、結末を引き受けるのはキミではなく彼らだ。
だから、それは彼らの課題なんだよ」「カップを洗うか洗わないかはリョウ君の課題。
それにどう反応するかは、彼らの課題。
こんな風に『それは誰の課題か?』を明らかにして、自分の課題だけに集中する、他人の課題を解決しない。
アドラー心理学ではそれを『課題の分離』と呼ぶんだ」「他人の課題に踏み込むから対人関係がうまくいかない。
そして、他人の課題を背負うから苦しくなる。
できないことをやろうとするから苦しいんだ。
キミはキミの課題だけを考えればいいんだよ!」そうだったのか……。
ボクが胸をかきむしりたくなるほど苦しかったのは、できないことをやろうとしていたからだったのか。
感謝されたい。
認められたい。
バカにされたくない。
しかし、それらはすべてボクの課題ではなく、相手の課題だ。
ボクが相手の心の中を変えることなどできるはずもない。
できないことをやろうとするから苦しい。
ボクはドラさんの言葉を聞いているうちに、これまであった重荷が遠くへ消えてしまったように感じていた。
もう、さっきのように苦しくない。
でも……。
ボクは考えた。
ドラさんの言う通りに「課題の分離」ができれば、たしかに気は楽になるだろう。
しかし、そうまでして「誰かを喜ばせる」必要などあるのだろうか。
相手のために行動しても、感謝もされず、点数稼ぎだとバカにされる。
そんなに損なことばかりあるのだったら、何もやらないほうがマシではないか。
そのとき、ドラさんが、噴水をバックにそっと立ち上がってボクの右手をそっと握りしめた。
逆光でドラさんの表情は見えない。
しかしその背中からぼんやりと柔らかな白い光線がにじんでいた。
ボクから見ると、ドラさんの影はまるでイエス・キリストの降臨のように見えた。
ドラさんはそっとつぶやくようにこう言った。
「誰かが始めなくてはならない。
見返りがなく、認められなくても。
誰かが始めなくてはならない。
まずは、あなたから始めるのだ。
アドラーはそんな風に語っているよ。
ボクはまさにその通りだと思う。
リョウ君。
だからね、キミが始めるんだ。
見返りがなくても。
誰からも認めてもらえなくてもね」どこかで聞いたことがある言葉のような気がした。
ボクはそれがとても大切なことのように思えて、必死に記憶の糸をたぐり寄せた。
そうだ。
ドラさんに教えを受けた、かつてのボクの上司、山本課長からいただいたカードに書いてあった言葉だ。
山本課長は、ボクが入社三年目で新人育成担当になったときに、このカードをプレゼントしてくれたんだ。
たしか、名刺入れに入っていたはず。
えっと。
胸ポケットの中……。
ボクは右手をドラさんに預けたまま、左手でポケットをまさぐった。
あった!「ドラさん、ごめんなさい。
ちょっと右手、失礼します」ボクは右手を自由にしてから名刺入れを開いた。
あった!これだ!カードの文字が暗闇にぼんやりと照らし出された。
そこには「リーダーシップ逆説の10ヶ条」ケント・M・キースと書いてあった。
たしか、その中にあった一節がドラさんの言葉に重なるような気がしたのだ。
ボクは急いで目を走らせた。
「何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい」「人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい」「世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい」あぁ。
そういうことだったのか。
「それでもなお」この言葉には何一つ理由は書いていない。
そして、その行動を取ることのメリットも書いていない。
きっとそんなものは、はなっからないんだ。
「それでもなお」にメリットも理由もない。
だからこそ「それでもなお」なんだ。
損得を越えた世界。
損を承知で一歩踏み出す世界。
誰かがそれをやらなくてはならないから。
それを正しいと思える人が始めなくてはならないのだ。
山本課長の言葉が耳によみがえってきた。
「誰かがやらなくてはならないけれど、誰もやろうとしないこと。
それをやるのがリーダーだ。
リョウ君。
キミはいつかリーダーになる。
だからこのカードを大切に持っていなさい」「ボクがかつてドラさんからプレゼントされた言葉だ。
これまで、私がどれだけこの言葉に勇気づけられてきたことか。
リョウ君。
いつかきっとキミにもわかる日が来るよ。
だから大切にしておきなさい」ドラさんの黒い影がじっとカードを見ているように感じた。
逆光で表情が見えないから正確にはわからない。
けれど、声だけはハッキリと聞こえた。
「リョウ君。
キミが始めるんだ。
キミはいつかリーダーになる。
そしてボクは……」その後は聞こえなかった。
ドラさんは、あえて言葉にしなかったのかもしれない。
その後、ボクはドラさんに促されて新橋駅へと向かった。
途中、ボクはドラさんと、もっと話したい、話を聞いていたい、と思ったけれど、ドラさんの表情は硬く、そんなことを言い出せるような雰囲気ではなかった。
「じゃあ。
気をつけて。
お疲れさま」改札の前でドラさんはそう言って、ボクの手を握った。
そして、ボクの目をじっと見つめて、小さな声で「頼んだぞ」と言った。
えっ?どういう意味ですか?ボクの問いかけを聞いているのかいないのか、ドラさんはそのまま背中を向けてすっと改札に吸い込まれていった。
そして、それから一度も振り返らずに人混みの中へと消えていった。
今回の宿題はいったい何だろう。
ドラさんはボクに何も伝えてはくれなかった。
しかし、ドラさんの言いたいことはよくわかった。
ボクは自分に言い聞かせるように声に出して言ってみた。
「相手からの見返りを求めずに、まずは自分から始める」ドラさんが言いたかったことは、それに決まっている。
よし。
自分で宿題を出して、自分で守る。
やってみようじゃないか。
ボクは、ドラさんと過ごした日比谷公園での一時間で少し大人になったような気がしていた。
[ドラさんの宿題]相手からの見返りを求めずに、まずは自分から始める
[コラム]支配しない。
服従しない。
二つの課題の分離アドラー心理学では対人関係の基本として「課題の分離」を大切にします。
「それは誰の課題か?」という問いを大切にし、相手と自分の間に境界線(Boundary)を引きます。
そして境界線を自分が踏み越えたり、相手に踏み越えさせたりしないようにするのです。
本来、相手が決めるべき相手の課題に土足で踏み込むことを「支配」と呼びます。
また、逆に本来は自分が決めるべき自分の課題に、相手を土足で踏み込ませ、それを許容するばかりか、言い分に従ってしまうことを「服従」と言います。
また、自分に対する相手の反応や顔色を過剰なまでに気にしすぎて、本意ではない行動を取ることもまた「服従」の一種と言えるでしょう。
アドラー心理学では「支配」も「服従」も共に望ましくない行動である、と考えます。
本章でリョウ君は相手の反応を過剰に気にしすぎて、自らの本意である「カップを洗う」ことをやめてしまいます。
つまり「服従」をしてしまいました。
それは「課題の分離」ができていない証拠。
このままでは、リョウ君は自分の人生を生きることができず、他人の期待に応える人生を生きていくことになるでしょう。
ドラさんは、それを指摘しました。
さて、リョウ君は今後、どのような行動を選択していくのでしょうか。
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