無意識の世界を変え、「良い運気」を引き寄せるための第二の技法は、自分の過去の人生における「ネガティブな体験」を、一つ一つ「陽転」させていくことによって、無意識の世界にあるネガティブな想念を消していく技法である。
第四話では、我々の心の世界にネガティブな想念が生まれる一つの大きな原因は、人間関係における摩擦や葛藤、反目や衝突と、それによって生まれる心の中の不安や恐怖、不満や怒り、嫌悪や憎悪であると述べた。
これに加えて、我々の心の世界にネガティブな想念が生まれるもう一つの大きな原因は、過去の人生において色々な形で与えられた「ネガティブな体験」である。
例えば、「親から愛されなかった」「大学入試に失敗した」「病気で苦しんだ」「希望の会社に就職できなかった」「仕事で大失敗した」「事業を起こして挫折した」「会社を解雇された」などの「ネガティブな体験」は、我々の無意識の世界に、「自分はあまり優秀ではない人間だ」「自分はあまり取り柄が無い人間だ」「自分はあまり運に恵まれない人間だ」といった自己限定や自己否定のネガティブな想念を生み出し、固着させてしまう。
そこで、この第二の技法は、こうした過去の「ネガティブな体験」を一つ一つ振り返り、その「意味」を再考し、解釈することによって、それが、決して「ネガティブな体験」ではないことを明確にしていく技法であり、それは、言葉を換えれば、人生の「解釈」を変えるという技法でもある。
では、それは、どのような技法か。それは、次に述べる「解釈の五つの段階」を、順次、心の中で登っていく技法である。
誰の人生にも、必ず「成功体験」はある
まず、解釈の第一段階は、自分の人生には多くの「成功体験」があることに気がつくことである。
だが、こう述べると、「いや、私の人生は、失敗ばかりで、あまり成功体験は無いのだが…」と考える人もいるだろう。
しかし、ここで言う「成功体験」とは、競技で全国優勝をしたり、プロとして著名な賞を受賞したり、起業して大成功したりといった「劇的な成功体験」ではない。
世の中には、「成功体験」と言うと、そうした「劇的な成功体験」をイメージするため、「自分には成功体験は無い」と思い込む人が少なくない。
それは、ときに、「意欲」の裏返しの表れでもあるのだが、問題は、人生において、実は様々な「成功体験」が与えられているにもかかわらず、「失敗した体験」にばかり目が向き、結果として、想念がネガティブになってしまっていることである。
従って、解釈の第一段階は、どれほど小さな成功体験でも良い、自分の人生には多くの成功体験があることに気がつくことである。
例えば、「子供の頃、親や先生から褒められて嬉しかった体験」「高校時代、学園祭で同級生と喫茶店をやって上手くいった体験」「第一志望ではなかったけれども大学入試で合格した体験」「希望の会社ではなかったが、就職難の時代に、就職できた体験」「酷い風邪をひきながらも、頑張って、プロジェクトを完遂した体験」など、ささやかな体験でも良い、自分の人生の様々な場面を思い起こし、それが実は「成功体験」であったことに気がつくことである。
繰り返しになるが、我々は、人生を振り返るとき、「与えられたもの」よりも「与えられなかったもの」に目が向く傾向がある。
「成功したこと」よりも「失敗したこと」に気持ちが向かってしまう傾向がある。
それが、我々の心の中にネガティブな想念が生まれてしまう大きな原因になっているため、この人生の振り返りと、ささやかな成功体験の棚卸しを丹念に行っていくだけで、我々の想念は、少しずつポジティブになっていく。
成功体験と重なる「音楽」は、無意識の世界を浄化する
しかし、この成功体験の棚卸しを行っていくとき、一つ、大切なことがある。それは、「考える」のではなく、「感じる」ことである。
その成功体験を思い起こすとき、そのときの「感覚」を呼び起こし、その感覚を反芻することである。
そのときの成功要因を、理屈であれこれ考えるのではなく、ただ、自然に、そのときの嬉しかった感覚や楽しかった感覚を思い起こすことである。
例えば、筆者も、高校時代、学園祭で同級生と喫茶店をやって上手くいった体験があるが、いまでも、その学園祭の写真を見ると、そのときの高揚した気分が甦ってくる。
この過去の体験に伴う「感覚」を呼び起こすということは、最初、少し難しく感じるかもしれないが、慣れてくると、自然にその感覚が甦ってくるようになる。
なぜなら、「知識」としての記憶は、比較的簡単に忘れてしまうが、「感覚」としての記憶は、体が覚えているため、永い年月を経ても、甦ってくるからである。
ここで、「考える」のではなく、「感じる」ことを大切にすべきと筆者が述べるのは、実は、それが「無意識に働きかける方法」の要諦だからである。
なぜなら「考える」という行為は、「あれは良かった」「あれは悪かった」や「あれで成功した」「あれで失敗した」といった形で、プラスの想念とマイナスの想念、ポジティブな想念とネガティブな想念が分離する行為であり、成功体験について「考える」と、必ず、その逆の失敗体験が心に浮かび、ネガティブな想念が生まれてしまうからである。
そもそも、「考える」という行為は、「論理」(ロゴス)を使う行為であり、「論理」とは、対象を切断し、分割する働きであるため、「考える」という行為は、必ず、真と偽、善と悪、美と醜、達成と挫折、成功と失敗、勝利と敗北、といった形で、ポジティブな想念とネガティブな想念の「分離」を生じてしまうのである。
ちなみに、この「考える」のではなく、「感じる」ことを重視した技法は、スポーツ・トレーニングの分野でも、しばしば使われている。
例えば、ゴルフのパッティングのトレーニングビデオに、プロゴルファーのパッティングの見事な成功シーンを、心地よい背景音楽(BGM)とともに、何度も何度も見せるものがある。
これは、言葉や論理ではなく、映像と音楽によって、ただただ「成功した感覚」を無意識に刷り込んでいく技法であり、それなりの効果があることから、人気のビデオになっている。
このように、過去の成功体験を思い起こし、そのときの嬉しかった感覚や楽しかった感覚を思い起こすことで、「自分には大した成功体験は無い」といったネガティブな想念を少しずつ消していくことができるが、この技法を用いるときに併用すべきもう一つの技法が、「音楽」の力を活かすことである。
なぜなら、我々の人生において「音楽」は「体験」とともに記憶され、永い年月を経ても、その曲を聴くと、そのときの「体験」と「感覚」が鮮明に呼び起こされるからである。
例えば、悲しい出来事に遭遇した時期に聴いた曲は、その曲を聴くと、そのときの悲しい気分を呼び覚ます。また、幸せな気分のときに聴いた曲は、その曲を聴くと、当時の幸せな感情を呼び起こす。
先ほど、筆者は、高校時代、同級生と学園祭で喫茶店を運営し、多くの客を集めたささやかな成功体験を持っていると述べたが、このとき、喫茶店でBGMとして流したのがビートルズの曲であった。そのため、いまでも、その曲を聴くと、そのときの楽しかった気分が甦ってくる。
さらに、現実の人生の体験だけでなく、映画に登場する主人公の体験と、その映像とともに流される音楽もまた、そうした「無意識への刷り込み」の効果を持っている。
その一つの典型的な例が、映画『ロッキー』であろう。
一九七六年のアカデミー作品賞を受賞したこの映画には、貧困のどん底にある主人公、ロッキーが、下町の無名のボクサーとして、人気のチャンピオン、アポロに挑戦するために厳しいトレーニングを続け、街を走るシーンがあるが、このシーンに流れるロッキーのテーマ曲は、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。
そして、この映画を観た人であれば、最も高揚するシーンに流されるこのロッキーのテーマ曲を耳にすると、いつでも、その高揚感が甦ってくるだろう。
このように、「音楽」というものは、その曲を聴いたときに味わった喜びや楽しさ、高揚感や幸福感を、無意識の世界に刷り込む力があるため、その力を活かすことによって、心からネガティブな想念を消し、心をポジティブな想念で満たす「無意識の浄化技法」として用いることができる。
実際、筆者にも、この曲を聴くと、必ず、心がポジティブになり、ある種の高揚感と全能感が心の底から湧き上がってくる曲がある。
それは、四〇代初めにシンクタンクを立ち上げたとき、いつも聴いていた曲であるが、この曲は、いま聴いても、当時の高揚感、「これから、世界にかつてなかったシンクタンクを創る」「これから、何か素晴らしいことが始まる」という感覚を甦らせてくれる。
あなたにも、そうした曲があるのではないだろうか。そして、実は、多くの人が、こうした体験的な高揚感や幸福感を味わうために、無意識に音楽を利用している。
ここでの提案は、それを意識的に行うことである。
もともと、音楽そのものが、癒しと浄化の力を持っているが、その音楽の力が、成功体験での高揚感や幸福感と結びつくとき、さらに大きな癒しと浄化の力を発揮するのである。
いずれにしても、解釈の第一段階は、自分の人生には、自分が思っている以上に多くの成功体験があることに気がつき、その成功体験を一つ一つ棚卸しすることによって、そのときのポジティブな感覚を思い起こすことである。
こう述べると、もしかして、あなたは、「そんなささやかなことをしても、自分の中にある大きな挫折感や劣等感は、変わらない…」と思われるかもしれない。
しかし、この技法の最も大切な目的は、「自分の人生を愛する」ということである。誰にとっても、かけがえの無い一度かぎりの人生。
どれほどささやかな成功であっても、その人生の輝く一瞬を愛することができるならば、その思いそのものが、心の中にポジティブな想念を広げていく。
だから、あなたの人生の、その輝く一瞬を大切にして頂きたい。
では、解釈の第二段階は何か。
あなたは、自分が「運の強い人間」であることに気がついているか
それは、自分が「運の強い人間」であることに気がつくことである。では、なぜ、それが重要か。なぜなら、この「運気」については、昔から一つの言葉が語られているからである。
運の強い人間とは、「自分は運が強い」と信じている人間だたしかに、世の中の「成功者」と呼ばれる人々は、口に出さなくとも、誰もが「自分は運が強い」と思っている。
さらに言えば、「自分は運が強い」というポジティブな想念が、無意識の世界に刷り込まれている。
そして、これらの人々は、必ずしも、その人生において「成功」したから、「自分は運が強い」という想念を抱いているのではない。
逆に、「自分は運が強い」という想念を抱いていたから、「成功」を引き寄せたということが、むしろ真実であろう。
これに対して、残念ながら、世の中には、無意識の世界に「自分は、それほど運が強い方ではない…」という自己限定的な想念、ネガティブな想念を抱いている人が少なくないが、実は、その想念そのものが、「良い運気」を遠ざけてしまっているのである。
では、こうしたネガティブな想念を「自分は運が強い」というポジティブな想念に変えるためには、どうすれば良いのか。そのためには、人生において、何か劇的な「強運の体験」が必要なのだろうか。
極限の場面で、「強い運気」を引き寄せた体験が必要なのだろうか。実は、そうではない。そのためには、やはり、自身の過去の人生を振り返ることである。
そして、自分が「幸運」に導かれた体験を思い起こすことである。なぜなら、実は、誰の人生にも「幸運に導かれた体験」がいくつもあるからである。
例えば、あなたは、人生において、次のように思える体験が無いだろうか。
「あの人に巡り会ったことで、人生が拓けた」「あの出来事が起こったことで、道が拓けた」
幸運は、「不運な出来事」の姿をして、やってくる
もとより、筆者にも、そうした体験は、いくつもある。筆者は、二九歳で大学院を修了し博士号を得たが、当然のことながら、大学に残って研究を続ける道を希望していた。
しかし、その希望はかなわず、望んではいなかった民間企業に就職することになった。しかも、全く畑違いの法人営業の世界に投げ込まれた。だが、その職場で巡り会ったA課長は、営業の達人であった。
そして、その課長の下で九年間、様々な現場経験を通じてビジネスを学んだお陰で、今日の自分がいる。
また、筆者は、その企業で海外留学生に選ばれ、周りの勧めもあって、米国のビジネススクールに留学しようと考えていた。
しかし、その留学のための極めて重要な試験の時期に、仕事の客先である企業から、海外出張に同行することを要請された。
その要請に何度か辞退しながらも、先方のあまりに熱心な要望に、最後は、その試験を受けることを諦め、海外出張に同行することを承諾した。
しかし、その海外出張の最後に訪問したのが、米国の国立研究所を運営する世界的なシンクタンクであった。
そして、何かの縁に導かれるように、その米国のシンクタンクで働いたことが、今日の筆者のキャリアを拓いてくれた。
筆者には、こうした体験がいくつもあるが、こう振り返ってみると、一見、「不運な出来事」に見える、大学に研究者として残れなかったことや、海外留学のための試験を諦めざるを得なかったことが、実は、「幸運な出来事」であり、現在の自分のキャリアを拓き、人生を拓いてくれたことに気がつく。こうした体験は、あなたにも、あるのではないだろうか。
このような「あの人に巡り会ったことで、人生が拓けた」「あの出来事が起こったことで、道が拓けた」といった「幸運に導かれた体験」は、誰の人生においてもあるのではないだろうか。
ただし、筆者の体験にあるように、そこには、人生の不思議な一面がある。
「幸運に導かれる」とき、それは、しばしば、「不運に見える出来事」の姿をして、やってくる。その不思議な一面がある。
それゆえ、我々が、自分が「運の強い」人間であることに気がつくためには、人生を振り返るとき、この「不運に見える出来事」が、実は、「幸運に導かれた出来事」であったという逆説に気がつく必要がある。
そして、こうした逆説を理解したうえで人生を振り返るならば、「自分は、それほど運が強い方ではない…」という自己限定的な想念、ネガティブな想念を、決して抱く必要はないことに気がつくだろう。
実際、自身の人生を深く見つめるならば、誰の人生においても、「幸運に導かれた体験」は数多くあるのであり、問題は、それに気がつくか、気がつかないかである。
しかし、ひとたび、そのことに気がつくならば、我々の心の中にある「自分は運に恵まれない」「自分は運が強くない」といったネガティブな想念は、暗闇に光が射すように消えていく。
しかし、そのためには、もう一つ、大切な「視点の転換」が求められる。そして、その「視点の転換」ができるならば、解釈の第三段階に進むことができる。では、それは、何か。
人生の「解釈力」こそが「良い運気」を引き寄せる
「幸運」に見えることが起こったときだけが、「運が良かった」のではない。「不運」に見えることが起こったときも、「運が良かった」ことに気がつくべき。こう述べると、あなたは、少し戸惑われるかもしれない。
そこで、一つの象徴的な例を紹介しよう。これは、本当にあった出来事である。
ある人が、海外出張中に自動車を運転していて、一瞬のミスから大事故を起こし、病院に担ぎ込まれた。
しかし、大手術の結果、一命は取り留めたものの、左足を切断するという結果になってしまったのである。
麻酔から覚め、その現実を知ったこの人は、一瞬の不注意によって人生を棒に振ってしまったことを思い、悲嘆のどん底に投げ込まれていた。
しかし、事故の知らせを受けて日本から駆けつけたこの人の奥さんは、病室に入るなり、旦那さんを抱きしめ、何と言ったか。
「あなた、良かったわね!命は助かった!右足は残ったじゃない!」このエピソードが、我々に教えてくれる、大切な「人生の真実」がある。
何が起こったか。それが、我々の人生を分けるのではない。起こったことを、どう解釈するか。それが、我々の人生を分ける。たしかに、そうであろう。
我々は、人生で与えられた逆境が、我々の人生を大きく変えてしまうと思っている。しかし、本当は、そうではない。人生で与えられた逆境を、どう解釈するか。実は、それが、我々の人生を大きく変えてしまうのである。
そのことを理解するならば、人生において「不運に見えること」が起こったときにも、その出来事の良き側面、ポジティブな側面を見つめ、「自分は運が良かった」「自分は運が強かった」と思える力、すなわち、人生の「解釈力」それこそが、「運気」を引き寄せる力となるのであろう。
なぜなら、その「解釈力」こそが、ネガティブな体験をポジティブな体験へと変え、心の中のネガティブな想念をポジティブな想念に変えていく力となるからである。
感謝の心が、最高の「解釈力」を引き出す
ちなみに、この「右足は残った!」とのエピソードを聞くと、あなたは、「コップの水の比喩」を思い起こすかもしれない。
コップの中に水が半分あるとき、「もう半分しかない」と悲観的に思うか、「まだ半分ある」と楽観的に思うかの違い、その受け止め方の違いの比喩である。
しかし、この「コップの水の比喩」と「右足は残った!」の言葉は、全く違う。何よりも、その「切実さ」という一点で、決定的に違う。
一つは、単なる比喩。一つは、一人の人間の人生が懸かった場面での言葉。その二つは、全く違う言葉である。
そして、この「コップの水の比喩」と「右足は残った!」の言葉は、もう一つ、根本的に違うことがある。
それは、根底にある「感謝の心」。それが、決定的に違う。この「右足は残った!」の言葉は、その根底に、一つの覚悟と呼ぶべき人生観がある。
それは、人生で「与えられないもの」に対する不満の心ではなく、人生で「与えられたもの」に対する深い感謝の心。その感謝の心に支えられた人生観である。
実は、逆境において、「解釈力」を発揮できる人と、発揮できない人の差は、「自分に与えられた人生」に対する、この感謝の心の差に他ならない。
過去の失敗体験は、実は「成功体験」であった
そして、こう述べてくると、過去のネガティブな体験が、決してネガティブな体験ではないことを明確にしていくための解釈の第三段階が明らかになるだろう。
それは、過去の「失敗体験」を振り返り、それが、実は「成功体験」であったことに、気がつくことである。
すなわち、過去の「失敗体験」を振り返り、そこで「失われたもの」「与えられなかったもの」を考えるかぎり、その「失敗体験」はネガティブな体験にとどまってしまう。
しかし、どのような「失敗体験」にも、必ず、「失われなかったもの」があり、「与えられたもの」がある。
我々の人生の分かれ道は、どのような「失敗体験」においても、「失われなかったもの」や「与えられたもの」に目を向けることができるか否かであろう。もとより、それは、決して楽なことではない。容易にできることではない。いま、あなたも、そう思われているかもしれない。
しかし、もし、あなたが、自分の人生を本当に愛するならば、どのような「失敗体験」の暗い陰に覆われても、その光の部分を見つめることができる。
「失われなかったもの」や「与えられたもの」に目を向けることができる。
なぜなら、それが、どのような「失敗」が与えられた人生であろうとも、どのような「挫折」が与えられた人生であろうとも、それでも、それは、あなたにとって、一度かぎりの人生。
かけがえの無い人生。他の誰のものでもない、あなたの人生。だから、その一度かぎりの人生を、かけがえの無い人生を、その「失敗」も「挫折」も含め、愛して欲しい。
その光の部分を見つめ、慈しむように、抱きしめるように、愛して欲しい。自分の人生を愛する。もし、それができたならば、我々は、まさに「強い運気」を引き寄せる。不思議なほど「良い運気」を引き寄せる。
では、どうすれば、いかなる「失敗体験」においても、「失われなかったもの」や「与えられたもの」に目を向ける、ポジティブな「解釈力」を身につけることができるのか。
そのことを教えてくれる、一つのエピソードを紹介しよう。
「不運に見える出来事」の意味が陽転する瞬間
これは、大相撲の世界でのエピソードである。かつて、ある大関が、その絶頂期に足の故障で長期休場を余儀なくされた。
後に、その大関が親方になった時代、ある雑誌のインタビューで、その故障の時期の思いについて問われ、その親方は、苦難の日々を振り返り、こう述懐した。
「あの頃の自分は、絶好調に、慢心していたのです」「だから、あの頃の自分は、挫折をしなければならなかったのです」「お陰で、あの時期に、私は、大切なことを学びました」
この大関の言葉は、人生において「不運に見える出来事」や「痛苦な失敗体験」が与えられたとき、それでもなお、自分に「与えられたもの」を見つめるための大切な視点を教えてくれる。
それは、「成長」という視点。
すなわち、いかなる逆境が与えられても、いかなる挫折が与えられても、我々は、その逆境や挫折を糧として、「成長」していける。
そして、その「成長」をしっかりと掴むことができるならば、我々は、いかに「不運に見える出来事」や、いかに「痛苦な失敗体験」であっても、それを単なるネガティブな体験に終わらせることなく、必ず、素晴らしいポジティブな体験に変えていくことができる。
この親方の発言は、見事なほど、その「成長」という視点の大切さを教えてくれる。
この親方は、大関時代、与えられた挫折を、単なる「不運な出来事」と考えず、その「意味」を深く受け止め、ポジティブに解釈する力、すなわち、「解釈力」を発揮したのである。
そして、「この挫折は、自分に、何を教えようとしているのか」を考え、その挫折を、見事に自身の精神的な成長の糧としたのである。
だからこそ、この親方は、大関時代、足の故障による長期休場から復帰し、ふたたび土俵での活躍ができたのであろう。
この親方の姿勢から学ぶならば、我々もまた、人生において「不運と見える出来事」が与えられたとき、その「意味」を深く考え、ポジティブな「解釈力」を発揮し、「成長」という視点から、次のような問いを、自らに問うてみるべきであろう。
「この出来事は、自分に、何を気づかせようとしているのか」「この出来事は、自分に、何を学べと教えているのか」「この出来事は、自分に、いかなる成長を求めているのか」そして、人生において、どのような「不運に見える出来事」が与えられても、こうした問いを胸に抱き、その出来事を成長の糧とすることができるならば、その「不運に見える出来事」も、実は、「幸運な出来事」であることに気がつくだろう。
それは、人生において、「不運に見える出来事」の意味が、正反対の意味へと「陽転」する、素晴らしい瞬間でもある。
しかし、こう述べてきても、あなたは、こうした思いを心に抱かれるかもしれない。
「そうは言っても、やはり、人生における逆境は、あまり味わいたくない…」たしかに、誰といえども、人生における逆境を、喜ぶ人はいないだろう。
それは、筆者も同様である。
しかし、過去の人生を振り返り、一つの問いを問うてみて頂きたい。あなたは、いつ、成長しただろうか。それは、決して、順風満帆の日々、幸運が続いた日々ではなかったのではないか。
それは、逆境の中で、夜も眠れぬ日々、溜息が出る日々、胃が痛むような日々ではなかっただろうか。
そうした苦労の多い日々を、悪戦苦闘しながらも前向きに歩んだとき、気がつけば、成長している自分がいたのではないだろうか。
そうであるならば、我々は、いかなる過去の「不運に見える出来事」も、それを自らの成長に結びつけることによって、「幸運な出来事」に変えることができる。
そして、いかなる過去の「失敗体験」も、それを自身の成長の糧とすることによって「成功体験」に変えることができる。
第一話では、人生の「成功者」たちの多くが、その自叙伝や回想録において、自身の人生を振り返って最も多く使う言葉が、「偶然」「たまたま」「ふとしたことで」「折よく」「幸運なことに」という言葉であることを述べた。
しかし、これらの「成功者」たちは、決して、ただ「幸運」であったから、その人生を拓いたわけではない。彼等は、人生で与えられた「不運に見える出来事」の中にも、成長の糧を見出し、歩んだのであろう。
そのことを通じて、「不運に見える出来事」を「幸運な出来事」に変えていったのであろう。
彼らが語る、「偶然」「たまたま」「ふとしたことで」「折よく」「幸運なことに」という言葉を聞いて、彼らが、ただ「幸運」や「僥倖」に恵まれた人々であったと思うべきではない。
その奥には、彼らの「人生の解釈力」と「成長への意欲」があったことを、我々は学ばなければならない。
自分に与えられた「幸運な人生」に感謝する
このように、過去の「失敗体験」が、実は「成功体験」であったことに気がつき、「不運に見える出来事」が、実は「幸運な出来事」であったことに気がつくならば、解釈の第四段階に進めるだろう。
それは、自分に与えられた「幸運な人生」に感謝することである。これは、言葉を換えれば、「天の配剤」や「大いなる何かの導き」に感謝することである。
もとより、何度も述べてきたように、我々の人生において、そうした「天」と呼ばれるものや「大いなる何か」と呼ばれるものが存在するか否かは、明らかではない。
第二話で、「ゼロ・ポイント・フィールド」という一つの仮説を述べたが、現時点では、科学は、まだ、その仮説を実証してはいない。
しかし、そうしたものが存在するか否かにかかわらず、こうした「感謝の姿勢」を持つことは、極めて重要である。それは、なぜか。
「自力」の落し穴に陥らないためである。「自力」の落し穴とは、「自分の力で、この人生を切り拓いたのだ」という意識のことである。
では、なぜ、それが落し穴なのか。
なぜなら、「自力」の意識の過剰は、無意識の世界に「ネガティブな想念」を生むからである。
すなわち、「自力」の意識が強いと、たとえ、何かに成功しても、「自分が自力で成し遂げた」という意識の裏に、必ず、「次は上手くいくだろうか」「自分の力もここまでではないか」といった不安感や恐怖心が芽生えるからである。
これに対して、何かに成功したり、何かを成し遂げても、それが「天の配剤」や「大いなる何かの導き」によるものであるとの謙虚な感謝の想念を持つならば、その想念は無意識の世界に「天が導いてくれている」や「大いなる何かが導いてくれている」という深い安心感を生み出すのである。
このように、「自力」の意識が強いと、表面意識の世界にはポジティブな想念がある一方で、無意識の世界に不安感や恐怖心というネガティブな想念が生まれてしまうが、「天の配剤」や「大いなる何かの導き」に謙虚に感謝する姿勢は、そうしたネガティブな想念を生み出すことなく、無意識の世界をポジティブな想念で満たすのである。
このことを理解すると、なぜ、この日本では、何かに成功したり、何かを成し遂げたとき、「お陰さまで」という言葉を大切にするのか、また、何かに感謝されたり、何かのお礼を言われたとき、「お互いさまです」という言葉を大切にするのか、その理由が分かるだろう。
それは、単なる礼儀や礼節の言葉ではない。また、単に人間関係を円滑にするための言葉ではない。
こうした「お陰さまで」や「お互いさまです」という言葉の奥にある、「大いなる何かに導かれている」「様々な人々に支えられている」という感謝の想念は、実は、我々が抱き得る想念の中でも最もポジティブな想念だからであり、これらの言葉は、ある意味で、我々の無意識の世界をポジティブな想念で満たすための古くから伝わる叡智であるとも言える。
このように、自分の人生において、力を貸してくれた人々への感謝の想念、その人々との出会いを導いてくれた大いなる何かへの感謝の想念は、「感謝は、すべてを癒す」という言葉通り、我々の心の中の不安感や恐怖心といったネガティブな想念を消していく。
この解釈の第四段階、「自分に与えられた『幸運な人生』に感謝する」ということの意味は、その一点にある。
誰もが、人生における「究極の成功体験」を持っている
では、過去のネガティブな体験から生まれたネガティブな想念を消していくための、解釈の第五段階は何か。
それは、自分の人生に与えられた「究極の成功体験」に気がつくことである。では、「究極の成功体験」とは何か。
そもそも、こうして「生きている」ことが、有り難いこと。そのことに、気がつくことである。
しかし、こう述べても、まだ、その意味が掴みにくいかもしれない。
では、あなたのこれまでの人生において、あなたと同世代の友人や知人、あなたよりも若い友人や知人で、すでに他界した人がいないだろうか。それは、病気が原因かもしれない。事故が原因かもしれない。
いずれにしても、若くして、その人生を終えた友人や知人がいるならば、その人のことを想い出してもらいたい。
筆者にも、そうした友人や知人がいる。大学時代、同じ工学部の同じ学科で学んだM君。
羨ましいほど頭脳明晰であり、しかも、バスケットボール部のキャプテンを務めた彼は、三〇代前半の若さで、癌を患い、早逝していった。遺族の言葉では、苦しい闘病生活であったとのことであった。
また、中学、高校、大学と一緒の道を歩んだS君。高校時代は、同じクラスでもあり、よく一緒に遊んだ仲間でもあった。
学業優秀であるだけでなく、夢の大きな友人であった。
大学は法学部を卒業し、国家公務員試験に合格、内閣官房に勤めたが、まもなく退職し、大学院で修士号を得るとともに、司法試験に合格。
さらに、欧州で弁護士の資格を取り、国際弁護士として活躍しながら、いずれは政治家になることを目指していたが、四〇代の若さで、突如、脳卒中で倒れ、帰らぬ人となった。
こう書いているだけで、その二人の友人のことを思うと、言葉にならない思いが湧き上がってくるが、筆者は、彼等の仏前で誓ったことを想い出す。
「彼の分まで、自分に与えられた人生を、精一杯に生きよう」そう誓ったことを、想い出す。
そして、六八歳を迎えるいま、自分には、これほどの長い人生を与えられ、生きてくることができたことの、有り難さを思う。
あなたの周りには、そうした友人や知人がいないだろうか。もし、いるなら、気がついてほしい。そもそも、こうして「生きている」ことが、有り難いこと。そのことに、気がついてほしい。
たしかに、我々の人生には、様々な苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故がある。ときに、それは、人生から逃げ出したくなるほど、辛い体験になることがある。
しかし、それでも、生きているかぎり、我々は、その逆境を糧として、成長し、前進し、人生を輝かせていくことができる。
命あるかぎり、人生の陰を、光に変えていくことができる。そうであるならば、人生で、何があろうとも、「生きている」だけで、有り難い。そうではないだろうか。
この時代、この国に生まれたことの、有り難さ
筆者は、若き日に、ある中小企業の経営者とのご縁を得て、ときおり、その会社の経営会議に同席させて頂いていた。
その経営者は、太平洋戦争への従軍経験のある方であり、戦争中、多くの仲間が無残に死んでいくなか、極限の状況を生き延び、戻ってきた方であった。
あるとき、その会社と取引先との間で深刻な問題が起こり、その日の経営会議は、「会社が吹っ飛ぶのではないか」という雰囲気の中、幹部も顔面蒼白になる状態であった。
報告を受けたこの経営者、固唾を呑んで判断を待つ幹部を見渡し、この正念場で、何と言ったか。
「ああ、大変なことが起こったな!これは、下手をすると会社が吹っ飛ぶぞ。だがな、最初に言っておく。命取られるわけじゃないだろう!」
この一言で、居並ぶ幹部も、それまでの顔面蒼白の状態から、一瞬で何かを掴んだのであろう。一同、見事に腹が据わった。
この経営者の、魂を込めた、心に響く一言であった。たしかに、そうなのである。この経営者の言っていることは、まさに、その通り。
さすが、戦争中の「生死の体験」を経てきた人物。「死生観」が定まっている。
あの戦争の悲惨さ、生死の極限の状況から見れば、現代の日本において、経営や仕事で直面する苦労や困難は、それがどれほど大変なものであっても、所詮、どれほどのものか。
どう転んでも、命を取られることはない。そして、この日本では、飢え死にすることはない。しかし、同じ日本でも、七四年以上前には、国民全員が「生きるか、死ぬか」の状態であった。
そして、実際、三一〇万人以上の国民が、亡くなっていった。そのことを考えるならば、現代の日本に生まれたことの幸運を、我々は、知っているのだろうか。それが、どれほど有り難いことか、知っているのだろうか。
そして、同じ現代でも、いま、この地球上に生きる七七億の人々のなかで、次の五つの条件に恵まれた国に生きるのは、我々、日本人しかいない。
- 第一七〇年以上戦争の無い平和な国
- 第二世界で第三位の経済力を誇れる国
- 第三最先端の科学技術の恩恵に浴せる国
- 第四国民の誰もが高等教育を受けられる国
- 第五高齢社会が悩みとなるほど健康長寿の国
一方、同じ現代でも、この地球上には、いまだに戦争やテロで命を失う人々も数多くいる。貧しさのため飢餓や病気で苦しむ人々も無数にいる。
こうした日本の過去の歴史、そして、世界の現在の状況を直視するならば、我々が、この時代に、この日本という国に生まれたことの、恵まれた境遇と有り難さが分かるだろう。
もとより、この日本という国にも、理不尽なほどの貧富の差があり、生まれつき与えられた人生の境遇の差がある。筆者は、それを是認する者ではない。
いや、それを変えたいと願っている。しかし、我々の心の「ポジティブな想念」という一点から見るならば、我々は、現代の日本人として、まず何よりも、その恵まれた境遇と有り難さを見つめるべきであろう。
そして、その恵まれた境遇と有り難さを見つめるとき、心の中に生まれる感謝のポジティブな想念の光によって、人生で得られなかったもの、与えられなかったもの、失われたものに対するネガティブな想念の陰は、自然に消えていくのではないだろうか。
生きていることの「奇跡」を知る
そして、さらに、我々が理解すべきことがある。それは、我々の人生における「三つの真実」。
- 人は、必ず死ぬ。
- 人生は、一度しかない。
- 人は、いつ死ぬか分からない。
これは、誰も否定できない真実。その中でも、特に見つめるべきは、第三の真実。人は、いつ死ぬか分からない。
どれほど健康に気をつけていても、事故に気をつけていても、突然の死は訪れる。されば、我々は、誰もが、いつ終わるか分からない人生を生きている。
そのことを理解するならば、今日という一日を与えられ、生きていること。その奇跡のような命の有り難さに気がつくだろう。
振り返れば、筆者の友人、二人は、三〇代、四〇代の若さで、去っていった。突然の出来事であった。それは、決して他人事ではない、自分自身にも訪れるかもしれない、人生の出来事。
そうであるならば、我々の人生、たとえ何があろうとも、「生きている」だけで、有り難い。
そのことに気がついたとき、我々の心の奥深くに、与えられた人生を無条件に肯定する最も根源的な感謝の想念が生まれてくる。
そして、その根源的な感謝の想念を心に抱いたとき、黙っていても、我々は「良い運気」を引き寄せる。
いや、その感謝の想念の中では、「良い運気」「悪い運気」という分離も消え、ただ、静かに、人生が輝き始める。
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