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第五章感情に訴える

かつてマザー・テレサはこう言った。

「大衆を見ても私は行動しない。

個人を見たときに私は行動する」 二〇〇四年、カーネギー・メロン大学の研究者らは、マザー・テレサと同じように行動する人が多いかどうかを調べることにした。

抽象的な大義名分のための寄付と一個人への寄付のそれぞれに、人々がどんな対応をとるのか知ることが調査の意図だった。

研究者らは被験者に、謝礼金五ドルで I T機器の使用に関するアンケートに答えてほしいと依頼した(アンケートは実験の本筋とは関係なく、寄付に使える現金を持たせることが目的だった)。

被験者はアンケートの記入を終えると、謝礼として一ドル札五枚を受けとった。

同時に、事前には知らされていなかった寄付の依頼状と封筒も手渡された。

世界の子どもたちの福祉向上に取り組む慈善団体「セーブ・ザ・チルドレン」に寄付をしませんか、という内容だ。

依頼状は二種類用意されていた。

一つは、アフリカの子どもが直面する問題の規模を統計で示したもので、次のような内容だった。

・マラウィの食糧難は、三〇〇万人の子どもに影響を与えています。

・ザンビアでは二〇〇〇年以降、降雨量の不足によりトウモロコシの収穫が四二%減り、その結果、約三〇〇万人の国民が飢饉に直面しています。

・アンゴラでは、国民の三分の一にあたる四〇〇万人が難民や国内避難民となっています。

・エチオピアでは、一一〇〇万人の国民が緊急食糧援助を必要としています。

もう一つの依頼状には、ある少女のことが書かれていた。

・寄付金はすべてロキアという少女に贈られます。

ロキアはアフリカのマリに住む七歳の少女。

極貧生活を送り、深刻な飢えに脅かされています。

皆様の寄付があれば、ロキアはもっとよい暮らしを送ることができます。

セーブ・ザ・チルドレンは、皆様の温かいご支援によって、ロキアの家族や地域の人々と協力しながら彼女に食事と教育を与え、基本的医療と衛生教育を与えます。

被験者は二種類の依頼状のうち、どちらか一方を手渡された後、一人にされた。

そして、寄付をするかどうかを決め、寄付をする場合には金額を選び、謝礼金の中からその額を封筒に戻し、封をして研究者に返した。

その結果、統計の文面を読んだ人の寄付額は平均一・一四ドル、ロキアについて読んだ人の寄付額は、二倍以上の平均二・三八ドルだった。

マザー・テレサと何がしかの共通点をもつ人は、多いらしい。

つまり、私たちの心の中では、大衆より個人に軍配が上がるのだ。

統計の文面の方が寄付額が少なかったのは、「大海の一滴効果」のせいかもしれないと研究者らは考えた。

問題があまりに大きいと、圧倒されて自分のささやかな寄付など無意味に思えるのでは、ということだ。

だが、さらに興味深いのはここからだ。

研究者らは、第三のグループに統計とロキアの依頼状を両方渡した。

両方の依頼状を受け取った人の寄付額が、ロキアのグループの平均二・三八ドルを上回るかどうか知ることが目的だった。

統計と物語を組み合わせれば、個人のニーズと問題の統計的規模がともに効果を発揮し、寄付の水準が一気に上がるのでは、と考えたのだ。

ところが、そうはならなかった。

両方の依頼状を受け取った被験者の寄付額は、平均一・四三ドル。

つまり、ロキアの文面だけ受け取った人より一ドル近く低かった。

統計は、アフリカで大勢の人が苦しんでいるという証拠なのに、その統計が慈善意欲をそいでしまったわけだ。

これは、どういうことなのだろう。

統計について考えると、思考が分析的になるからではないかと、研究者らは理屈づけた。

ものごとを分析的に考えているときには感情的になりにくい。

したがって、人々を行動に駆り立てるのは、ロキアの窮状に対する感情的反応だと、研究者らは考えた。

これを証明するため、彼らは第二の実験を行った。

この実験では、一方のグループがあらかじめ分析的な思考状態になるよう、こんな予備質問をした。

「ある物体が分速一・五メートルで移動するとき、この物体が三六〇秒で何メートル移動するか計算してください」 もう一方のグループに対しては、あらかじめ感情的な思考状態になるよう、こんな質問をした。

「『赤ちゃん』という言葉を聞いたときに感じることを、ひと言で表現してください」 その上で、両グループにロキアの手紙を渡した。

すると研究者の仮説通り、あらかじめ分析的な思考状態に置かれた人は、寄付の額が少なかった。

心で感じてからロキアの文面を読んだ人の寄付額が、最初の調査とほぼ同じ平均二・三四ドルだったのに対し、計算してからロキアの文面を読んだ人の寄付額は、平均一・二六ドルだった。

計算しただけで慈善意欲が低下する。

これは衝撃的な結果だ。

いったん「分析」という帽子をかぶった人は、感情に訴えられたときの反応が変わってしまう。

感じる能力がそがれてしまうのだ。

前章では、アイデアの信頼性を示し、信じてもらう方法を考えた。

信じてもらうことは大事だが、それだけでは十分でない。

行動を起こさせるためには、心にかけてもらう必要がある。

アフリカで大勢の人が苦しんでいることは、誰もが本当のことだと思っている。

この事実に疑問の余地はない。

だが、そう思っているからといって、行動を起こすほど心にかけているとは限らない。

脂肪分の多いものをたくさん食べると健康に悪いことは、誰もが本当のことだと思っている。

この事実に疑問の余地はない。

だが、そうだからといって、行動を起こすほど心にかけているとは限らない。

慈善団体はずいぶん前から、マザー・テレサ効果に気づいていた。

抽象的な大義名分より個人を引き合いに出した方が、よい反応を得られると知っている。

人々は「アフリカの貧困」には寄付をしなくても、特定の子どもへの経済的援助ならしてくれる(実際、慈善活動への一歩として子どもを経済的に支援する考え方は、一九五〇年代に遡る。

キリスト教の若い聖職者が、韓国の恵まれない孤児の支援を米国人に呼びかけたのが最初だ)。

この考え方は、相手が動物でも使える。

家畜虐待の撲滅をめざす非営利団体ファーム・サンクチュアリでは、「ニワトリを養子にする」ことができる(月額一〇ドル)。

ヤギ(月額二五ドル)や牛(月額五〇ドル)との養子縁組も可能だ。

慈善団体の一般管理費に寄付をしたがる人はいない。

一般管理費が必要なことは、考えればわかる。

日常的な必需品といえども、誰かが費用を負担しなければならない。

だが、事務用品のために熱い気持ちになることは難しい。

慈善団体は人々の同情心や共感を掻き立てる方法を体得しているし、実にうまくそれをやっている。

そうしたスキルのおかげで多くの人の苦しみが和らいでいる。

だが、「心にかけてもらう」ことが必要なのは、何も慈善団体だけではない。

企業経営者は、従業員が会社のことを心にかけ、複雑な業務や長時間勤務をこなすよう工夫しなくてはならない。

教師は生徒が文学を心にかけるよう仕向けなくてはならないし、活動家は人々が市議会の議案を心にかけるよう働きかけなくてはならない。

本章では、記憶に焼きつくアイデアの感情的要素を取り上げる。

といっても、泣ける映画のように相手の感情スイッチを入れるのが目的ではない。

そうではなく、メッセージを「感情を掻き立てる」ものにするのは、心にかけてもらうためだ。

感情は人々を行動へと駆り立てる。

例えば、若者の多くはタバコの害を本当だと思っている。

このメッセージに信頼性の問題はない。

でも、彼らはタバコを吸う。

では、彼らの思っていることを行動に変えるには、どうすればよいのか。

心にかけさせる必要があるのだ。

一九九八年、ついにその方法を見つけた人物がいた。

目次

真実

その CMは、ニューヨークの路上風景で始まる。

普通のフィルムではなくビデオに撮られた映像は、薄暗く素人っぽい感じで、コマーシャルというよりドキュメンタリー

ドキュメンタリー映像のようだ。

画面の下に「大手タバコ会社の本社前」というテロップが現れる。

ビルの前にトレーラートラックが止まり、若者のグループが飛び降りてくる。

彼らは「遺体袋」と書かれた白い袋を次々と車から降ろし、ビルの片隅に積み上げていく。

袋の山はどんどん大きくなり、コマーシャルの終盤には何百もの袋が山をなす。

そして、若者の一人がビルに向かってメガホンでこう叫ぶ。

「タバコが毎日、何人を殺しているか、知ってるか」 一日当たりの死者数は一八〇〇人だという。

それがタバコ会社のビルの前に積まれた遺体袋の数だ。

この広告は、反喫煙団体アメリカン・レガシー財団が実施した「真実」キャンペーンのシリーズ広告のひとつだ。

同団体は、四六州の司法長官が米大手タバコ各社を相手に起こした裁判の和解の一環として、一九九八年一一月に設立された。

「真実」シリーズの広告を見た人は、タバコ会社に怒りを覚える。

広告の放送開始後、フィリップ・モリスは放映中止を求め、和解合意書に含まれていた「中傷禁止」特別条項を発動した。

特別条項は、タバコ会社が反タバコ訴訟の和解合意書の多くに盛り込んでいるもので、和解金で制作した禁煙広告の内容にタバコ会社側が一定の拒否権を行使できるよう定めている。

同社の青少年喫煙防止担当上級副社長キャロリン・レヴィはこの措置について、「(『真実』キャンペーンの広告は)アメリカン・レガシー財団の目的や使命にそぐわないと感じた」と語っている。

つまり、この広告は効果的だったということだ。

同時期、別の禁煙広告シリーズの放送も開始された。

フィリップ・モリスは和解の一環として、独自の禁煙広告シリーズを放映することに同意していた。

同社の広告のキャッチフレーズは「考えて。

吸わないで」 だった。

二つのキャンペーンはほぼ同時に開始されたが、アプローチは異なる。

まるで競馬並みに刺激的なアイデアの一騎打ちだった。

実際、「アメリカ公衆衛生ジャーナル」の二〇〇二年六月号では、一万六九二人の一〇代の若者を対象に、両キャンペーンの比較調査を行っている。

調査は、広告効果の差を浮き彫りにした。

それまでに見た禁煙広告の中で覚えているものを挙げさせたところ、全体の二二%が「真実」キャンペーンを挙げたのに対し、「考えて」は三%だった。

印象的なのは、ヒントを示せば七〇%以上の回答者が両方のキャンペーンを思い出したことだ。

若者は両方の広告を見ていたが、一方が他方より強く記憶に焼きついていたということだ。

「真実」キャンペーンには、すぐに思い出せるだけの何かがあったのだ。

記憶されることは大事だが、それは第一歩にすぎない。

行動への影響はどうだったのだろう。

調査では「今後一年間にタバコを吸う可能性があるか」と尋ねている。

その結果、「真実」キャンペーンを見た若者では「いいえ」という回答の方が六六%多かったのに対し、「考えて。

吸わないで」を見たティーンでは、「はい」の方が三六%多かった。

タバコ会社の幹部たちは、内心さぞほっとしたことだろう。

効果の差を浮き彫りにしたのは、アンケート調査だけではない。

「真実」キャンペーンが最初に展開されたフロリダ州では、同州の未成年者の喫煙状況を全国と比較する研究調査が行われた。

それによると、キャンペーン実施から二年後、高校生の喫煙率は一八%低下し、中学生では四〇%低下していた(喫煙率の低下には、調査期間中に導入されたタバコ増税の影響も半分くらいあるかもしれない)。

つまり、「セーブ・ザ・チルドレン」のときと同じことが起きている。

「考えて。

吸わないで」キャンペーンが訴えているのは、言うまでもなく「考えなさい」ということ。

つまり「分析の帽子」を被せている。

あらかじめ分析的思考を求められた人が、ロキアへの寄付にどんな反応をしたか、思い出してほしい。

では、「真実」キャンペーンはどうか。

こちらは、権威に対する怒りという、若者の典型的感情に訴えている。

かつての若者は、タバコを吸うことで反抗した。

だが、「大手タバコ会社は欺瞞に満ちている」という構図を巧みに描いた「真実」キャンペーンによって、若者はいまやタバコを吸わないことで反抗するようになった。

「真実」キャンペーンが求めているのは、理性的な判断ではなく反抗だ。

多くの若者がこのメッセージを心にかけ、「吸わない」という行動を起こした。

意味の拡張と関連づけの効果

ロキアへの同情にせよ、「真実」キャンペーンの怒りにせよ、ここまで述べてきた複雑で基本的な人間感情は、「感情に訴える」という本章のタイトルから予想できる範囲内だったのではないだろうか。

しかし、本章の最大の課題は、メッセージを心にかけてもらうにはどうすればよいかという、さらに基本的なことだ。

幸い、アイデアを心にかけてもらうといっても、無から感情を生み出す必要はない。

実際、既存の感情にアイデアを関連づける一種の便乗戦略を利用したケースは多い。

ある映画評にこんな一文がある。

「『羅生門』はアインシュタインの相対性理論の映画版である」「羅生門」は、黒澤明監督の一九五〇年代の代表的作品だ。

この作品では、四人の登場人物が同じ殺人と強姦事件を自分なりの視点で描写する。

各人が見たままの事件を語り、その回想場面が次々に映し出される構成になっている。

登場人物の話はどれも利己的で、かつ矛盾しており、実際に何が起きたかわからないまま映画は終わる。

「羅生門」は絶対的真実の存在、もしくは、それを明らかにする人間の能力に疑問を投げかけている。

くだんの映画評はこの「絶対的真実」を、アインシュタインの相対性理論と比較している。

だが、アインシュタインの相対性理論が言おうとしているのは、「すべては相対的である」ということではない。

実は、本来の意味はその逆なのだ。

相対性理論は、どの座標系においても物理の法則は不変であることを説明するものだ。

アインシュタインに言わせれば、ものごとは予測不能ではなく、驚くほど秩序だっている。

この映画評論家は、なぜ「羅生門」を相対性理論と結びつけたのだろう。

アインシュタインの権威に訴えているわけではなさそうだ。

「羅生門」はアインシュタインの理論に「匹敵する」と言っているのだから。

むしろこの類推の目的は、すごいと感じさせることのように思える。

「羅生門」を見れば、何か深遠なものに触れられるとほのめかしているのだ。

相対性理論を関連づけの対象として持ち出したのは、それがこの作品に、感情に響く深遠さや畏怖のオーラを与えてくれるからだ。

この映画評以外にも、こうした例は無数にある。

「相対性理論」はある意味、パレット上の絵の具のようなものだ。

畏怖の念を掻き立てたければ「相対性理論」の色を塗ればいい、というわけだ。

同様に、「不確実性の法則」、「カオス理論」、量子力学の「量子の跳躍」といった科学用語も、このパレット上の絵の具となっている。

一九二九年、アインシュタインはこう抗議した。

「子どもが人形で遊ぶように哲学者がこの言葉を弄んでいる……この言葉は、人生の何もかもが相対的という意味ではない」「相対性」の感情共鳴効果を利用しようとする人が、「相対性」の理解に努める人より多くなり始めたことに、アインシュタインは失望していた。

こんなふうに、ある用語への関連づけがあるときは的確に、あるときは粗雑に扱われると、言葉の威力もその根底的概念も薄まってしまう。

猫も杓子も黄緑色の絵の具を使えば、黄緑色は目立たなくなってしまうのだ。

スタンフォード大学とイェール大学の研究によると、専門的な用語や概念を利用した感情への関連づけは、コミュニケーションの一般的な特徴だという。

感情に強く訴えるアイデアや概念は、何かと乱用されることが多い。

この研究では、こうした乱用を「意味の拡張」と呼んでいる。

科学とは関係のない例を見てみよう。

かつて英語の「ユニーク( unique)」という言葉は、同じものは二つとないという意味だった。

「ユニーク」は特別だったのだ。

研究者らがデータベースを利用して、アメリカの大手新聞五〇紙の二五年分の記事をすべて調べたところ、「ユニーク」という表現を用いた記事の割合は、この期間に七三%も増えていた。

昔より今の方がユニークなものが増えたのか、「ユニークさの基準」が下がったのかのどちらかということだ。

ロボット型の掃除機やお騒がせアイドル女優のパリス・ヒルトンを思い浮かべ、「最近は、ユニークなものがずいぶん増えた」と言う人もいるだろう。

だが、「ユニークな」という言葉の使用例が増える一方で、「変わった( unusual)」という言葉の使用例は減っている。

一九八五年には「ユニークな」よりも「変わった」を使用した記事が二倍以上多かったが、二〇〇五年には両者が同じ割合で使われている。

ユニークとは、同じものが二つとないということであり、したがって世の中で最も変わっているということだ。

つまり、ユニークなものは変わったものの中に含まれるはずだ。

もし、本当にユニークなものが増えたのなら、「変わった」ものも増えているはずだ。

変わったものが減っているのにユニークなものが増えているという事実は、意味拡張が行われている証拠だ。

かつて「変わっている」と表現されたものが、意味拡張によって「ユニーク」と呼ばれるようになったのだ。

では、「相対性理論」や「ユニーク」の何が感情に訴えるのか。

要するにこういうことだ。

心にかけてもらうための最も基本的なやり方は、相手がまだ心にかけていないものと既に心にかけているもののあいだに関連性をもたせることだ。

人は誰でも関連づけのテクニックを無意識に使っている。

「相対性理論」と「ユニーク」は、関連づけにおける絵の具の乱用の危険性を教えてくれる。

時がたつにつれ、関連づけが過度に行われるようになると、その価値は薄まってしまい、「本当にすごくユニーク」などと言わざるを得なくなるのだ。

「いけてる」とか「すごい」とか「超」といったある世代の最上級の表現が、時とともに色褪せるのは、やたらと多くのものと関連づけられるからだ。

自分の父親が「いけてるね」などと言いだしたら、その言葉にもうインパクトはない。

大学の経済学教授が口に出す頃には、もはや学生のあいだでは死語だ。

つまり、関連づけの使用は軍拡競争のようなものだ。

誰かがミサイルを一基つくれば、こちらは二基つくらなければならない。

あいつが「ユニーク」なら、自分は「超ユニーク」でなければ、というわけだ。

こうした関連づけの軍拡競争は、アイデアを心にかけてもらおうとする人にとっては問題だ。

実は、次に紹介する「スポーツマン精神」という言葉も、こうした軍拡競争のおかげで破綻したようなものだ。

意味拡張との戦い‥「スポーツマン精神」のケース

前章で、ポジティブ・コーチング連盟( PCA)の設立者ジム・トンプソンが主催するスポーツ指導者研修を紹介した。

トンプソンは、 PCAを設立した一九八八年以来、ある重要な課題に取り組んでいる。

それは、青少年スポーツとよく関連づけられる素行の悪さを一掃することだ。

この課題に取り組む中で、トンプソンは意味拡張の問題と直面する。

テニス選手のジョン・マッケンローといえば、かつてはスポーツマン精神に欠ける選手の典型だった。

ラケットは放り投げるし、審判には食ってかかる。

だが、今時の若者のスポーツ試合を見れば、マッケンローの行動など可愛く思える。

最近では、選手ばかりか親や観客にもマナーの悪さが目立つ。

米全国青少年スポーツ連盟によると、青少年のスポーツ試合で親やコーチと主催者側がやりあうケースは、数年前は全体の五%だったが、いまや一五%近くに増えているという。

その昔、スポーツマン精神は、競技における強力な概念だった。

それが今や、印象の薄い言葉になってしまったとトンプソンは感じていた。

「スポーツマン精神賞は敗者への残念賞と思われている」 と彼は言う。

ある女性は、うちの高校のバスケットボール部の監督は、スポーツマン精神賞なんかとったら校庭を走らせると言うんですよ、と彼に話した。

トンプソンは言う。

「どうやらスポーツマン精神は、悪いことをしないという意味になってしまったようだ。

『審判に向かって怒鳴らない』とか『ルールを破らない』という意味に。

しかし、悪いことをしないだけでは十分ではない。

青少年スポーツの参加者には、より多くを求める必要がある。

残念ながら、『スポーツマン精神に則って』というかけ声では、もはや青少年スポーツは変えられない」 とはいえ、優れたスポーツマン精神の実例には、誰もが喜んで耳を傾ける。

トンプソンがその例として挙げるのが、自転車選手ランス・アームストロングだ。

彼は、自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスでライバルのヤン・ウルリッヒが転倒した際、チャンスとばかりに差をつけるかと思われたが、意外にも速度を落とし、ウルリッヒが態勢を立て直すのを待った。

ウルリッヒのように優れた選手と走った方がいい走りができるからと、彼は後に語った。

これぞスポーツマン精神である。

スポーツマン精神の根本的理念が今も敬われていることを、トンプソンは知っていた。

親は子どもがスポーツを通じて敬意やマナーを学ぶことを求めていたし、監督は勝利を追求するだけでなく、人生のよき指導者になりたいと思っていた。

子ども自身も、自分のチームへの敬意ある態度を求めていた。

三者ともときには愚かな行動をとるが、スポーツマン精神へのニーズと欲求はなくなっていないと、トンプソンは見ていた。

ところが、「スポーツマン精神」には、よい行動の動機となる威力がもはやなかった。

「スポーツマン精神」は多用されすぎていた。

「相対性理論」と同様、もともとの意味とはかけ離れたところまで来てしまった。

かつては、ランス・アームストロングがヤン・ウルリッヒに対してとったような態度を意味していたのに、時代とともに意味が拡張され、「負けても文句を言わない」とか、「試合中、審判を非難しない」といった当たり前の行動まで含むようになった。

トンプソンと PCAは、悪い態度をやめさせるだけでなく、良い態度を促すための新しい方法を必要としていた。

彼らはそれを「試合の尊重」と呼んだ。

スポーツを心にかける人は、試合を心にかける。

試合とその完全性を保つことは、個々の参加者より重視される。

「試合の尊重」はそう訴えるための手段だった。

それは、愛国主義のスポーツ版とも言えるもので、自分のスポーツに基本的敬意を払う義務をほのめかしている。

アームストロングは「良きスポーツマン」だったというよりも、「試合を尊重」したのだ。

「試合の尊重」は選手以外の人々にも使える。

それは、スポーツが公共のものであることをあらゆる人々に思い出させる。

公共物を汚すのは見苦しく、下劣なことだ。

「試合の尊重」が効果を発揮したという証拠がある。

テキサス州ダラスのあるバスケットボール・リーグが集めたデータによると、「二〇〇二年のシーズンには、平均して一五試合に一度、テクニカルファウルがあった。

その後、『ダブル・ゴール・コーチ』というワークショップを六回実施したところ、二〇〇四年のシーズンには、テクニカルファウルが五二試合に一度になった」。

北カリフォルニアのある野球リーグでは、「ポジティブ・コーチング」研修実施後、マナー違反で試合退場になる選手の数が激減した(九〇%減)。

チームの士気も上がり、リーグに加盟する選手数が二〇%増えた。

唯一の不満は、野球場が足りないことだという。

トンプソンは、青少年スポーツの文化を変えるだけでなく、あらゆるスポーツの文化を変えたいと思っている。

「私にはこんな夢がある。

野球のワールド・シリーズを見ていると、監督が球場に駆け出し、気に入らない判定をした審判を非難する。

すると、全国放送のテレビで人気スポーツキャスターのボブ・コスタスがこう言う。

『監督が試合への尊重を踏みにじるとは、情けないですね』」(ちなみに、この夢が素晴らしく具体的なことに注目してほしい)。

青少年スポーツから無作法な振る舞いが消えたわけではないが、トンプソンが取り組んだ場所では目に見えて成果が上がっている。

彼は「試合の尊重」という言葉によって、意味拡張を避けながら、人々に配慮を促すアイデアを表現した。

このことから、心にかけてほしければ、相手が心にかけていることを利用するべきだとわかる。

皆が同じものを利用したら、軍拡競争が始まってしまう。

それを避けるには、別の場所で勝負するか、トンプソンのように自分のアイデア独自の関連づけを見つけることだ。

自己利益に訴える

私たちは、アイデアを心にかけてもらう方法を探している。

アフリカの貧しい少女ロキアや、喫煙、慈善、スポーツマン精神を心にかけてもらう方法だ。

そのためには、相手が大切に思っているものに訴える必要がある。

だが、聴き手は何を大切に思っているのだろう。

ここまで、関連づけについて述べてきたが、それよりもっと直接的なやり方がある。

それは、誰にでも一目瞭然のやり方かもしれない。

人が大切に思うもの、それは自分自身だ。

ならば、心にかけてもらうための確実な方法は、相手の自己利益に訴えることだ。

一九二五年、ジョン・ケープルズは連邦音楽学校の主催する通信音楽講座の宣伝コピー担当に任命された。

ケープルズは広告業界での経験こそなかったが、天性

天性の宣伝マンだった。

タイプライターの前に座った彼は、印刷広告史上最も有名なコピーを叩き出した。

「私がピアノの前に座ると、みんな笑った……でも弾きはじめるとみんな黙った」 典型的な敗者復活の物語を、たった一文で表現している。

みんなに笑われた「私」が演奏でみんなを黙らせたのだ(あまりに魅力的なコピーなので、「なぜピアノの前に座っただけでみんな笑うのだろう」とか、「自分も人がピアノの前に座ったときに笑ったことがあったっけ」などという常識的な反応は吹っ飛んでしまう)。

このコピーのおかげで、くだんの通信講座は大人気になった。

数十年たった今でも、この表現はさまざまなコピーに借用されている。

ある会社は、このコピーの登場から六〇年後に、こんな類似コピーで売上を前年比二六%も伸ばした。

「私が通販で絨毯を注文したら夫は笑った。

でも絨毯代を五〇%も節約できたので黙った」(私たちも本書の副題を「私たちがこの本を書いたらみんな笑った。

でも自分が氷風呂で目覚めると黙った」にしようとしたが、出版社に断られた。

) ケープルズは通販広告の確立に貢献した。

今で言うインフォマーシャル(情報 CM)の草分けだ。

他の広告と違って通販広告では、広告効果を正確に測定できる。

例えば、新聞か雑誌に「株選びの手引き」の広告を載せたとしよう。

購入希望者は広告に掲載された宛先に小切手を送る。

ところが、掲載する住所を広告媒体によって少しずつ変えてあるので、宛先を見ればどの新聞や雑誌の広告を見て注文したのかがわかる。

練り歯磨きのように典型的な消費財は、通信販売広告とは対照的だ。

ある消費者が「クレスト」ブランドのチューブ式歯磨きを買ったとして、その理由は何なのか。

新しいテレビ広告のおかげか、小売店の値引きセールのおかげか、母親がいつも使っていたブランドだからか、はたまた店頭にそれしかなかったからか。

意外にも、答えを知る手立てはほとんどない。

効果を測りやすい通販広告は、消費者を動機づける表現の実験場となっている。

心にかけてもらう方法を知りたければ、通販広告のコピーライターに聞け、というわけだ。

史上最高のコピーライターとしてしばしば名の挙がるジョン・ケープルズは、こう述べている。

「何よりもまず、あらゆるコピーに相手の自己利益を盛り込むことだ。

欲しかったものがここにあると思わせるようなコピーを書く。

そんなことはごく基本的なルールで、当たり前だと思うかもしれない。

だが、毎日、大勢のコピーライターがそのルールを破っている」 ケープルズの広告はどれも、わずかな金額で大きな便益が得られると約束することによって、自己利益に訴えている。

・簡単なプランを実行するだけで、お金の悩みを吹き飛ばそう ・五日間で魅力溢れる性格に……しかも無料で ・背を高くする秘密 ・一夜で記憶力を高める方法 ・五五歳で引退しませんか ケープルズに言わせると、多くの企業は消費者へのメリットを訴えるべきところで、商品の特徴を強調している。

「広告が成功しない理由で一番多いのは、自分たちの達成したこと(「世界一の芝の種」)で頭が一杯なあまり、なぜ相手がそれを買わなければならないか(「世界一美しい芝生」)を言い忘れてしまうことだ」 広告界では昔から「メリットのメリットを述べよ」と言う。

消費者は直径〇・六センチの電動ドリルがほしいのではなく、子どもの写真をかけるための直径〇・六センチの穴がほしいのだ。

とはいえ、ケープルズの作品を見ていると、どうも落ち着かなくなる。

彼の広告の多くは怪しげで嘘臭い。

「魅力溢れる性格になれるキット」のメーカーが良心の咎めを感じないのは自由だが、たいていの人は本当のことを知りたいと思っている。

では、ケープルズのテクニックから宣伝臭や低俗さを取り払うと、何が残るのか。

最大の教訓は、自己利益を見過ごすなということだ。

元テレビ・プロデューサー兼脚本家で、現在は企業経営者にスピーチの指導をしているジェリー・ワイスマンは、自己利益は単刀直入に伝えるべきだと述べている。

どんなスピーチでも、「あなたにこんなメリットがありますよ」というメッセージを中心に据えるべきだと言うのだ。

そういうことをはっきり打ち出すのを嫌がる人もいると、ワイスマンは言う。

彼らの言い分はこうだ。

「私のスピーチを聞きに来る人は馬鹿ではない。

そんなことを私がいちいち説明したら、聴衆は馬鹿にされたと思う」。

だが、聴衆が話に集中してくれているとは限らないから、はっきり打ち出すだけの価値はある。

「こちらが説明した特徴と、それがほのめかすメリットを、聞き手が頭の中で結びつけるのにほんの数秒かかるだけでも、その間にこちらは次の話題に移ってしまう。

そうなると、聞き手はメリットも次の話題も、きちんと理解できない」 教師は常に生徒からこんな言葉をぶつけられる。

「こんなこと習って、なんの役に立つの?」 それはつまり、「私にどんなメリットがあるの?」ということだ。

もし、代数を習ってテレビゲームがうまくなるのなら、教師は迷わずそう言っていたはずだ。

生徒がもっと真剣に授業を聞くのは間違いないのだから。

聴き手の自己利益をかなえられるのであれば、回りくどい言い方はやめて、隠さず伝えよう。

ほんの少し言い方を変えるだけでも、伝わり方が違ってくるかもしれない。

自己利益を受ける本人を主語にすることが大事だと、ケープルズは言う。

「『グッドイヤーのタイヤを使うと、誰でも安心できます』と言わず、『グッドイヤーのタイヤを使うと、あなたは安心できます』と言うべきだ」 通販広告ほどわざとらしい言い方をしなくても、自己利益に訴える方法はもちろんある。

それを探るために、まずアリゾナ州テンペで実施された風変わりな調査を見てみよう。

テンペのケーブルテレビ

一九八二年、アリゾナ州テンペの住宅所有者を対象に、説得力に関する心理学調査が行われた。

学生ボランティアが住宅所有者を訪問し、「授業のプロジェクトに使うのでアンケートへの記入をお願いします」と依頼した。

当時、ケーブルテレビはまだ登場したばかりで、ほとんどの人は知らなかった。

調査では、住宅所有者にケーブルテレビの潜在的メリットを伝える文面を二種類用意し、その効果を比較した。

一方の住宅所有者グループには、ケーブルテレビにどんな価値があるかを説明した。

ケーブルテレビは加入者に幅広い娯楽情報サービスを提供します。

ケーブルテレビを使いこなせば、加入者はさまざまな特別番組や特集を計画的に楽しむことができます。

ベビーシッター代やガソリン代を使ってわざわざ出かける代わりに、家族や友人と、あるいは一人で、もっとゆったり自宅で過ごせます。

もう一つの住宅所有者グループには、詳細なシナリオに自分を当てはめて想像してもらった。

想像してみてください。

ケーブルテレビがあなたにどれほど幅広い娯楽情報サービスを提供することでしょう。

あなたはケーブルテレビを使いこなすことで、自分の見たい特集や特別番組を事前に計画できます。

想像してみてください。

ベビーシッター代やガソリン代を使ってわざわざ出かける代わりに、あなたの家族や友人と、あるいはあなた一人で、もっとゆったり自宅で過ごせるのです。

一読しただけでは違いがわからない人もいるだろう。

確かに微妙な違いだ。

しかし、「あなた」という言葉が出てくる回数を数えながら、もう一度読み比べて

ほしい。

ある意味これは、抽象的メリットを語らず個人的メリットだけを語れというケープルズの助言(「グッドイヤーのタイヤを使うと、誰でも安心できます」より「グッドイヤーのタイヤを使うと、あなたは安心できます」)の手の込んだ焼き直しだ。

だが、この調査ではさらに一歩踏みこんで、グッドイヤーのタイヤから得られる安心感を想像させている。

住宅所有者はアンケート用紙に記入し、学生を送り出した。

調査はこれで終わったかに見えた。

だが、調査者にはもう一つしなければならないことがあった。

一カ月後、テンペでケーブルテレビが開始された。

地元のケーブル会社が住宅所有者を訪問し、加入を勧めた。

調査者は、この会社から加入者データを入手し、どの住宅所有者が加入し、どの住宅所有者が加入しなかったかを分析した。

その結果、ケーブルテレビの価値を説明された住宅所有者の加入率は二〇%で、地域全体の加入率と同じだった。

ところが、ケーブルテレビ加入後の自分を想像した住宅所有者では、加入率が四七%だったのだ。

この調査に基づく論文は、こんな副題をつけて発表された。

「想像すれば実現するか」。

答えはイエスだった。

よくある通販広告と比べると、「ケーブルテレビを想像してください」というのは、かなり控えめな自己利益への訴え方だ。

ここで示されているメリットは、ケープルズ流の夢のようなメリットではない。

ケーブルテレビに加入すれば外出のわずらわしさがなくなるというだけのことだ。

事実、このメリットを抽象的に説明しただけでは、加入者を増やすことはできなかった。

聞き手が自分を主役に据え、「家で夫と面白い映画を見ている私……。

好きなときに席を外し子ども部屋の様子を見に行く私……。

しかもベビーシッター代がどれだけ浮くことか!」と想像したときに、初めて興味が増したのだ。

この調査結果から、心にかけてもらうためには、メリットの大きさを訴えるより、メリットを実感させることが必要だとわかる。

お金持ちになれるとか、異性にもてるようになるとか、魅力的な性格になれるなどと約束しなくても、相手が手軽に実感できるほどほどのメリットを約束すればよいということだろう。

セーブ・ザ・チルドレンがこれを寄付募集のコピーに盛り込んだら、どうなるだろう。

現在の「あなたは、マリの少女ロキアを月三〇ドルで支援できます」でも成功は収めているが、これをもっと膨らませるのだ。

「マリの少女ロキアを支援するご自分を、想像してみてください。

あなたの仕事机には、自分の子どもの写真と並んでロキアの写真が飾られています。

この一年、あなたはロキアと三度手紙のやり取りをしました。

手紙によると、ロキアは読書好きで、弟のいたずらに困っているとのことです。

ロキアは来年、サッカーチームに入れることを喜んでいます」 効果的である(それに下世話でもない)。

マズロー

もちろん、自己利益だけが大事なわけではない。

まして、「自己利益」を世間一般のように富や安心感という狭義でとらえるなら、なおさらだ。

自己利益がすべてなら、兵役に就く人はいなくなる。

ケープルズの広告には決して登場しないが、人々が心にかけるものがある。

一九五四年、心理学者エイブラハム・マズローが、心理学における動機づけの研究を調査した。

既存の膨大な研究結果から、人間が実現しようとするニーズや欲求のリストを作成したのである。

・超越の欲求‥他者の潜在能力発揮を助ける ・自己実現の欲求‥自分自身の潜在能力、自己実現、至高体験を実現する ・美的欲求‥対称性、秩序、美、均衡 ・学習の欲求‥知る、理解する、知的に結びつける ・自尊の欲求‥達成する、有能である、承認を得る、独立、地位 ・帰属の欲求‥愛情、家族、友人、好意 ・安全の欲求‥保護、安全、安定 ・生理的欲求‥飢え、乾き、身体的快適さ このリストを「マズローのピラミッド」、あるいは「マズローの欲求段階」として記憶している人もいるだろう。

マズローの欲求リストは見事な洞察に満ちている。

だが、彼がこれを「段階」としたのは誤りだ。

マズローがイメージしたのは、一番下から一段ずつ上っていくような、梯子状の階層だった。

安心への欲求が満たされない限り、自尊への欲求は満たせないし、生理的欲求を満たさない限り、美的欲求は満たせないというわけだ(マズローの世界には、飢えた芸術家はいないらしい)。

その後の研究で、マズロー説の階層的な面は誤りであることが示されている。

人はこれらすべての欲求をほぼ同時に追求する。

確かに、飢えた人の多くは、まず食べてから超越をめざすだろうが、その間にはかなりの重複がある。

「自己利益」を語る場合、たいていの語り手は「身体」、「安全」、「自尊」の層を想定している。

感受性豊かな人なら「帰属」も含めるかもしれないが、これ以上踏みこむ営業マンや経営者は多くない。

一見、「美」のカテゴリーに当てはまる広告も、ひと皮むけばたいてい「自尊」と関わっている(高級車の広告など)。

人がこれらのカテゴリーを重視するには、それなりの理由があるのだろう。

心からこれらのことを大事に思っているのかもしれない。

「自己実現」や「超越」といった他のカテゴリーは、確かにやや観念的だ。

最近、この問題を検証する研究が行われ、人々がマズローのどの欲求カテゴリーを心にかけているかが明らかになった。

ある会社が、業績目標を達成した従業員に一〇〇〇ドルの特別手当を与えると発表したとする。

特別手当を従業員に提示する方法は三つある。

(一)一〇〇〇ドルの持つ意味を考えてみてください。

ずっと夢見ていた新車や住宅リフォームの頭金が手に入るのです。

(二)銀行口座にこの一〇〇〇ドルがあれば、どれだけ安心感が増すか考えてみてください。

(三)一〇〇〇ドルの持つ意味を考えてみてください。

あなたが会社の業績に重要な役割を果たしていることを、会社が認めてくれるのです。

会社は無駄なものにはお金を出しません。

個人的にひかれるのはどれかと尋ねると、たいていの人は三番目だと答える。

自尊心をくすぐられるし、一番目や二番目に関しては、一〇〇〇ドルの使い道や貯金の意味くらい言われなくてもわかっている。

たいていの人は、自分が一〇〇〇ドルを使う図を難なく想像できる(貯金する図を思い浮かべたがる人は、多少珍しいかもしれないが)。

だが、「おや?」と思うのはここからだ。

(自分ではなく)他人をひきつけるには、どれがベストかと尋ねると、一番目を挙げる人が最も多く、次いで二番目だった。

つまり、自分を動機づけるのは自尊心だが、他人を動機づけるのは頭金、というわけだ。

多くの大企業の報奨制度のあり方は、これを見ただけでほぼ説明できる。

こんなバージョンもある。

会社の成功がかかった新しい職務を引き受けるよう、社員を説得するという設定だ。

新しい職務の売り込み方は次の三つだ。

(一)この職務がどれだけ安心感を与えてくれるか、考えてみてほしい。

これほど重要な職務を担当すれば、あなたはこれから先、ずっと会社から必要とされる。

(二)この職務に就くことでどれだけ脚光を浴びるか、考えてみてほしい。

これほど重要な職務を担当すれば、大勢の人があなたの仕事ぶりに注目する。

(三)これほど中枢的な仕事であれば、どれだけやり甲斐があるか考えてみてほしい。

会社のしくみの実態を学ぶまたとない機会だ。

ここでもまた、自分か他者かで違いが出る。

多くの人は、自分を最も動機づけるのは三番目(学習の魅力)だと答える一方で、他人を最も動機づけるのは一番目(安全)と二番目(自尊心)だろうと答える。

つまり、たいていの人は、他人は皆マズローのピラミッドの底辺にいると思っているのだ。

自分は最上階の住人だが、他人はみんな下の階の住人、というわけだ。

マズローのピラミッドの底辺層にばかり訴えていると、多くの人を動機づけるチャンスを逃しかねない。

「底辺層」(段階的な言い方を避けるなら、より即物的で身体的な欲求)が動機づけにならないと言っているのではない。

もちろん、こうした欲求も動機づけになる。

誰だって特別手当や安定した仕事や帰属感を求めてはいる。

だが、こうした欲求だけに目を向けていると、心の奥に潜む動機を呼び覚ますチャンスを失う。

心の奥に潜むこうした動機をうまく利用した人物がいる。

ある退役軍人、それも戦闘司令官ではなく、食堂の切り盛りをしていた男だ。

イラクの食堂

軍隊での食事は大方の予想通り、味気ない。

大鍋でくたくたに煮た料理には、パセリの飾りもない。

軍の食堂とは要するに「カロリー工場」であり、兵士が任務を遂行するのに必要なエネルギーを供給する場所だ。

軍には昔から「軍隊は腹で動く」という言葉がある。

だが、バグダッド空港のすぐ外にあるペガサス食堂は、一味違うと評判だ。

ヒレステーキの焼け具合は絶妙だし、果物の盛り合わせにはスイカやキウイ、ブドウが美しく盛り付けられている。

ペガサスで食事をしたい一心で、わざわざグリーンゾーン(バグダッドでも米国人が多く、警備が行き届いた区域)からイラクで最も危険な道路を通ってやってくる兵士もいるという。

ペガサスの責任者フロイド・リーは、海兵隊と陸軍で二五年間、調理担当を務めたキャリアを持つ。

だが、イラク戦争開戦時は引退していた。

彼は引退生活を捨ててペガサスの仕事を引き受けた。

「兵士に食事を出す第二のチャンスを神が与えてくれた。

生まれてこのかた、この仕事を待っていた。

そして今、こうしてバグダッドにいる」 兵士生活が過酷であることをリーは知っている。

兵士の多くは一週間に七日、一日一八時間働く。

イラクでは常に危険に晒されてもいる。

兵士たちのためにペガサスを束の間の安らぎを得られる場にすることがリーの願いだ。

彼は指導者としての任務を明確に意識している。

「食事サービスの責任者だけでなく、軍の士気を高める責任者でもあると自分では思っている」 士気を高める責任者であるというのは、つまりマズローの欲求段階説で言うなら、リーは「超越」をめざしているということだ。

このビジョンは、スタッフのちょっとした普段の仕事ぶりにも現れている。

簡易食堂にありがちな白い壁が、ペガサスではスポーツチームの旗で飾られている。

窓には金色の装飾が施され、テーブルには房のついた緑色のクロスがかけられている。

味気ない蛍光灯は、シーリングファン付きの照明器具に付け替えられ、給仕は白いシェフ用の帽子を被っている。

ペガサスは料理の美味しさで有名だが、注目に値するのは、他の基地食堂と全く同じ配給食材を用いている点だ。

他の食堂と同様、ペガサスも軍の定めた二一日周期の献立通りに食事を出している。

食材の供給業者も同じ。

違うのは、その姿勢である。

毎日、果物が届くとコックの一人が選別を行う。

傷んだブドウの実を取り除き、スイカやキウイの一番美味しい部分を選んで、完璧な果物の盛り合わせを作る。

夜には、デザート台に五種類のパイと三種類のケーキを用意する。

日曜日に出すヒレステーキは、二日前からタレに漬け込んでおく。

ニューオーリンズ出身のあるコックは、主菜の味を引き立てるため香辛料を郵送で取り寄せている。

デザート担当のコックは、自分の作るイチゴケーキは「官能的」だと言う。

軍隊食では耳にすることのない形容詞だ。

食事を出すのは仕事だが、士気を高めるのは使命だと、リーは認識している。

食事を出すだけならお玉があればいいが、士気を高めるには創造性と実験と熟練が必要だ。

毎週日曜、夕食のためにペガサスに来るというある兵士は「ここにいると、イラクにいることを忘れる」と言った。

リーは、マズローの欲求段階の忘れられた層に訴えている。

それは、「美」と「学習」と「超越」への欲求だ。

彼は食堂の使命を一新する中で、砂漠にオアシスを生み出すという目的に向かってスタッフを奮い立たせている。

ポップコーンメーカーと政治学

狭義の自己利益以外にも強力な動機が存在することは、通販広告のコピーライターであるジョン・ケープルズも認めている。

彼は、消防署が使う防火教育ビデオのマーケティング担当者の逸話を紹介している。

このマーケティング担当者は、消費者に訴える基本的要素はセックス、物欲、不安の三つだと教え込まれていた。

彼の勘では、この場合は物欲に訴えるのが一番だった。

そこで、消防士にこのビデオを試してもらうための景品をいくつか用意し、どの景品が一番効果的か調べるため、地元の消防署に片っ端から電話をかけた。

電話ではビデオの説明をし、試しに見て消防署の教育プログラム向けに購入を検討してもらえないかと尋ねた。

すると、相手は一様に「ぜひ見たい」と答えた。

続けて彼は、景品に関する質問をした。

「ビデオを見てくださった方に、大型電気ポップコーンメーカーか高級ナイフセットを差し上げています。

どちらがお好みですか?」 最初の二つの消防署は、どちらもきっぱりこう答えた。

「うちが安物のポップコーンメーカーなんかにつられて、防火教育プログラムを採用すると思ってるのか!?」 彼は景品についての質問はしないことにした。

このように、自己利益は相手の心を動かすこともあれば、逆効果の場合もある。

これをどう理解すればよいのだろう。

政治を見ると、その謎はいっそう深まる。

一般に、有権者は自己利益の塊と見なされている。

高額所得者の限界税率引き上げ案が出れば、富裕層は反対し、富裕層以外はこぞって賛成すると考えられている。

だが実は、そうではない。

狭義の自己利益で世論を予測できるという証拠は薄いのだ。

一九九八年、ミシガン大学の政治学教授ドナルド・キンダーが、このテーマに関する三〇年間の研究結果を概観して論文にまとめ、大きな反響を呼んだ。

彼は、自己利益が政治的意見に及ぼす影響など「取るに足りない」と言い切っている。

以下はその引用だ。

人種差別是正措置に対する意見は、白人も黒人も個人的な損得勘定抜きだった。

失業者が全員、不況対策に賛成するわけでもない。

医療費に困っている人々が手厚い保険に加入している人々より、政府の医療保険制度案を支持するわけでもないし、子どもを公立学校に通わせる親がそうでない人々より、政府の教育補助金を支持するわけでもない。

徴兵される可能性のある人々がそうでない人々より、軍事介入や紛争激化に反対することもない。

勤めに出ている女性も専業主婦も、働く女性への支援策を同様に支持している。

人種差別撤廃のための強制バス通学、禁酒法、大学進学適性試験の義務づけ、住宅政策、二言語教育、法の遵守、訴訟の判決に対する満足度、銃規制など多様な問題において、自己利益がほとんど重要性をもたないことがわかったのである。

新鮮な結論だが、直感に反している。

有権者は、自己利益を支持していないなら、誰の利益を支持しているのか。

その答えは複雑だ。

第一に、政策の及ぼす影響が大きく具体的で差し迫ったものである場合には、自己利益はかなり重視される。

例えば、一九七八年、カリフォルニアの住民投票で「提案一三号」が可決された。

この結果、同州では不動産税の大幅な引き下げと引き換えに、学校、図書館、警察、消防などの公共サービス

サービスが大幅に削減されることになった。

この問題では、住宅所有者(不動産価格上昇による不動産税支払いの大幅増に不満を持っていた)が提案一三号を支持し、図書館員や消防士は反対した。

第二に、自己利益はその人が関心を持つ方向性を定めるが、意見にまで影響を与えるとは限らない。

例えば、提案一三号について確固たる意見を持つ人は住宅所有者と公務員に多かったが、その意見は各人の自己利益に反する場合もあった。

しかし、自己利益ですべてが説明できるわけではない。

平等、個人主義、政府の理想像、人権といった原則は、直接的な自己利益に反しても尊重される。

自分は過激な政治団体の意見を聞きたいと思わなくても、彼らが意見を言う権利は支持する。

なぜなら、言論の自由を尊重しているからだ。

だが一番重要なことは、政治的意見の予測には自己利益よりも「集団の利益」の方が役立つということだろう。

キンダーによると、人が意見を決める際に考えるのは、「自分にどんなメリットがあるか」ではなく「自分の集団にとってどんなメリットがあるか」だという。

その人がどの集団に帰属するかは、人種、階級、宗教、性別、地域、政党、業種、その他無数の相違点によって決まる。

スタンフォード大学のジェームズ・マーチ教授の考え方も、これに関連している。

彼は、意思決定の二つの基本的モデルを提案している。

一つは、結果を計算するモデルだ。

人は選択肢を見比べ、それぞれの価値を判断し、最も大きな価値をもたらす選択肢を選ぶ。

このモデルは経済学における意思決定の標準的な考え方で、人間を利己的で理性的な存在と見なしている。

理性的な人間は、「この値段で、最も座り心地と見栄えのよいソファはどれか」、「自分の経済的、社会的利益に最も役立つ候補者は誰か」と自問する。

一方、もう一つのモデルは全く違う。

このモデルでは、人は自分らしさに基づいて意思決定をすると仮定している。

ここでは人は「自分は何者か」、「自分はどういう状況にいるのか」、「自分と同じような人々はこういう状況でどうするのか」を自問する。

意思決定の第二のモデルを見れば、消防士がポップコーンメーカーに腹を立てた理由がわかってくる。

注意してほしいのは、このポップコーンメーカーが賄賂ではなかった点だ。

もしマーケティング担当者が「消防署でこのビデオを注文してくだされば、ご自宅にポップコーンメーカーを届けます」 と言ったのなら、ほとんどの人が倫理的理由から断ったはずだ。

だが、これは何の罪もない景品だった。

「わざわざビデオを見ていただくお礼として、ポップコーンメーカーを差し上げます。

購入してもしなくても、ポップコーンメーカーは差し上げます」と言っているのであり、この申し出を受けても何ら倫理に反することはない。

それどころか、自己利益を追求し、価値を最大化するという観点で言えば、この申し出を断る方が馬鹿げている。

Aと決断すればポップコーンメーカーがもらえて、 Bと決断すればポップコーンメーカーはもらえない。

それ以外はすべて同じだ。

ならば、ポップコーンメーカーが自分の価値観を壊さない限り、 Aと決断した方がいいはずだ。

しかし、アイデンティティに基づく意思決定モデルから言えば、ポップコーンメーカーを断ることは完璧に筋が通っている。

その思考プロセスはこんな感じだろう。

「私は消防士だ。

こいつはポップコーンメーカーをダシに、安全教育ビデオを見せようとしている。

だが、消防士たるもの、つまらない景品などなくても、安全について学ぶ意欲はある。

人助けのために、命がけで燃えさかる建物に入っていくのだから。

私にポップコーンメーカーが必要だって? 馬鹿にするな」 この二つの意思決定モデルを統合する方法もある。

ビデオを見てくれれば、どこかの学校の防火安全プログラムに五〇ドル寄付すると提案するのだ。

これなら、消防士のアイデンティティにあからさまに反することもない。

自己利益は重要だ。

自己利益に訴えれば、心にかけてもらえるのは確かだ。

だが、それでは絵の具の色が限られてしまう。

いつも自己利益を軸にアイデアを構成するのは、いつも決まった色だけで絵を描くようなものだ。

それでは窮屈だし、人に刺激を与えることもできない。

ペガサス食堂のフロイド・リーのやり方は正しい。

彼は、スタッフの自己利益だけに訴えて動機づけることもできたはずだ。

例えば、よく働く者は毎晩一〇分早く勤務を切り上げてもよいことにしたり、スタッフに客より先にステーキ肉を選ばせるのだ。

だが彼はそうする代わりに、一種の「ペガサス・アイデンティティ」を生み出した。

ペガサスのコックは、食事ではなく軍の士気を預かっているというアイデンティティだ。

きっとスタッフは「ペガサスの一員は、こういう状況でどうするべきか」と考えながら、食堂の中で無数の決断を下しているだろう。

〔アイデア・クリニック〕代数の必要性とマズローのピラミッドの底辺部

背景説明‥いつの時代も、代数の教師は生徒から二つの質問をぶつけられる。

「なぜ代数を学ばなくてはならないの?」、「代数なんて、いつ使うの?」。

このクリニックでは、これらの質問に対する三通りの答え方を検討する。

メッセージ 1‥一九九三年、「みんなの代数」と題する会議で、「なぜ代数を学ぶのか」という疑問に対して以下の点が指摘された。

・代数とは一般化の手法である。

代数とは、ある集合の要素間にパターンを見出し、それを検討したり他者に伝えるために必要な言語を開発することである。

・代数は記号の操作手順を教えることにより、周囲の世界への理解を促すものである。

・代数は数理モデルを通して世界を理解する手段となる。

・代数は変数の科学である。

代数は、変数(値の変わる数量)を特定し、データの中に構造を当てはめたり見出したりすることによって、大量のデータの処理を可能にする。

・代数とは変数間の関係を説明し、その関係について推論するための基本的な考え方と技法の集まりである。

メッセージ 1へのコメント‥このメッセージは「知の呪縛」が引き起こす問題を体現している。

きっとこの会議の出席者は代数の専門家ばかりだったため、他の専門家が読んで遜色のない答えを考えたのだろう。

だが現実として、落ち着きのない生徒に「代数は記号の操作を教えることにより、周囲の世界への理解を促すものである」と言っても、代数に飛びつくとは思えない。

これらは代数の定義としては非常に論理的だが、代数を勉強する理由としては役立たない。

生徒が代数を心にかけるようになるメッセージが必要だ。

メッセージ 2‥次の答えは、インターネットで見た文例を参考に、私たちが考えたものだ。

自分の生徒に代数を学ばなければならない理由を告げるとき、私ならこう言う。

・高校の卒業証書をもらうため。

・今後、君が履修する数学や理科の授業では、必ず代数の知識が必要になる。

・いい大学に入るためには、数学でよい成績をとる必要がある。

・大学に行く気がなくても、代数で身につけた推論のスキルは、家を買ったり予算を立てるときに役に立つ。

私の弟は、あるハイテク企業で営業をしている。

学校では数学が苦手だったが、一生懸命勉強したおかげで分析力が高まり、顧客にもわかりやすく説明できるようになったと言っている。

メッセージ 2へのコメント‥この教師は、現実的な話をして「知の呪縛」を逃れてはいるが、マズローのピラミッドの底辺部にとどまっている。

なぜ代数を勉強

するのか。

第一の理由は、「とにかく勉強しなければならないから」であり、第二の理由は「もっと代数を勉強するために必要だから」だ。

ここでは主に「尊敬」への欲求に訴えている。

有能でありたい、承認や地位を得たいという欲求だ。

最も効果的なのは、弟が一生懸命勉強した甲斐があったと言っている、というくだりだ。

弟の逸話は、ケープルズ的な成功物語(「私が方程式を間違えたら、みんな笑った。

だが、私が注文を取るとみんな黙った」)を盛り込んで、「自尊」への欲求に訴えている。

メッセージ 3‥これは、インターネットで高校教師がこのテーマについて議論した際に、ディーン・シャーマンという代数教師が寄せた意見だ。

私の中学三年生の生徒は、一次関数の標準形が役立つことをなかなか理解できず、「これから先、いつこんなものが必要になるのですか」と訊いてくる。

以前の私は、そう訊かれると困惑し、自分の教えたことをすべて正当化するような答えを探したものだった。

しかし、今ならこう答える。

「一生必要ないさ。

これから先、君たちが代数を使うことはないだろう」 そして、こうつけ加える。

ウェイトリフティングをするのは、路上で誰かに殴り倒されて、胸にバーベルを乗せられたときに備えるためではない。

アメフトで相手のディフェンスを破ったり、重い買い物袋を運んだり、孫を抱き上げても翌日筋肉痛にならないようにするためだ。

君たちが数学の問題を解くのも、論理的な思考力を高めて、よい弁護士や医者や建築家や刑務所長や親になるためだ。

数学は頭脳の筋肉トレーニングだ。

ほとんどの人にとって、数学は何らかの目的を達成するための手段であって、数学自体が目的ではない。

メッセージ 3へのコメント‥素晴らしい答えだ。

本書でこれまで見てきた要素がちりばめられている。

まず、意外性のある出だしで関心をひきつけている(「一生必要ないさ。

これから先、君たちが代数を使うことはないだろう」)。

また、類推の使い方もうまい。

ウェイトリフティングの既存のイメージを利用して、「代数の勉強」への見方を変えている(将来、直線の傾きを毎日求める必要があるわけではないが、頭脳の筋肉を鍛えることになる、と言っているのだ)。

またマズローの欲求段階において、メッセージ 2より上を狙っている。

つまり、「学習」や「自己実現」といった比較的高次のレベルに訴えているのだ。

代数を学べば自分の潜在能力をもっと発揮できるという考え方だ。

結論‥「数学は頭脳の筋肉トレーニングだ」という言葉は、ありふれた状況でもマズローの底辺部を脱し、もっと高次のニーズを狙うことが可能だと教えてくれる。

テキサスを怒らせるな

ダン・シレクは全米有数のポイ捨て研究家だ。

これまで、ニューヨークからアラスカに至る一六の州と協力して、ポイ捨て防止法案をまとめてきた。

プロジェクトに着手するときはまず、州間高速道から農道までさまざまな道路を無作為に選び、両手にカウンターを持って歩きながらゴミを数える。

一九八〇年代を通じ、シレクと彼が所長を務める応用リサーチ研究所(本部サクラメント)はテキサス州の仕事に取り組んだ。

テキサスのポイ捨て問題は深刻だった。

散乱ゴミの清掃にかかる費用は年一五%のペースで増え、年間二五〇〇万ドルに達していた。

同州では「ゴミを捨てないでください」という標識を立て、道路沿いに「ゴミはここへ」と書いたゴミ箱を多数設置してマナーの改善を促していたが、効果はなかった。

そこで、新しい戦略を考えるため、シレクを起用したのだ。

通常、ポイ捨て禁止のメッセージでは感情に訴えるが、対象となる感情はたいてい限られている。

アメリカ先住民が散乱するゴミを見て涙を流すテレビ広告のように、罪悪感や羞恥心に訴えたものや、フクロウのアニメキャラクターが「ホーホー、お願いだから汚さないで」と呼びかけるキャンペーンのように、愛らしい動物への同情に訴えるものだ。

だがシレクは、この種のメッセージではテキサスの問題は解決しないことを知っていた。

彼に言わせれば、この手の広告は「聖歌隊に聖書を説く」ようなものだ。

テキサスでは、道路際のゴミに涙を流す気などない人たちに、メッセージを届ける必要があった。

テキサスでゴミをポイ捨てする人の典型的な人物像は、小型トラックを運転し、スポーツとカントリー音楽を好み、権威者を嫌う一八 ~三五歳の男性だ。

このような人物が可愛いフクロウに心を動かされるはずがない。

テキサス交通局のある職員は言った。

「こういう連中に『お願いします』と頼んだところで、馬の耳に念仏ですよ」 シレクは言う。

「ゴミをポイ捨てする人というのは、根っからだらしがないのです。

だからまず、自分がしていることはゴミの散乱だと説明してやることが必要でした」 シレクは、小型トラックに乗ったいかつい男の写真をいつも持ち歩いていた。

「これが私たちのターゲット市場です。

私たちは彼をババ(保守的な南部野郎)と呼んでいます」 この層が相手では、自己利益に訴えるポイ捨て防止キャンペーンを企画しても、効果はなさそうだった。

ゴミを捨てるのをやめたところで、南部野郎がどんな得をするだろう。

ゴミをきちんと捨てても手間がかかるだけで、何の得もない。

ケープルズ流に物欲や性的魅力に訴えるのは、場違いだった。

高い罰金などの懲罰を打ち出し、不安に訴える方法も考えられたが、権威に逆らいがちな南部野郎には通用しそうにない(むしろ逆効果のおそれさえある)。

調査の結果、南部野郎の行動を変えるには、彼のような人はゴミをポイ捨てしないと説得するのが一番だとわかった。

シレクの調査結果に基づき、テキサス州交通局は「テキサスを怒らせるな」というスローガンを軸としたキャンペーンを承認した。

初期のテレビコマーシャルでは、州内で有名なアメリカン・フットボールのダラス・カウボーイズの選手二人(ディフェンシブ・エンドのエド・ジョーンズと、ディフェンシブ・タックルのランディ・ホワイト)を起用した。

コマーシャルの中で二人は、高速道路の路肩に落ちたゴミを拾っている。

ジョーンズがカメラの前に進み出て、こう言う。

「このゴミを捨てたやつに会ったら、俺から話があると伝えてくれ」 ビールの缶を手にしたランディ・ホワイトも進み出る。

「俺もひと言言いたいね」 画面の外の声が「なんて言うんだい」と尋ねる。

すると、ホワイトがビール缶をこぶしで叩きつぶし、脅すように言う。

「いや、直接会って伝えたいな」 ジョーンズがこうつけ加える。

「テキサスを怒らせるなよ」[訳注‥「怒らせるな」は「散らかすな」と同じ英語表現を使った洒落] 可愛いフクロウや涙もろいアメリカ先住民とは、かけ離れたコマーシャルだ。

別の広告には、メジャーリーグのヒューストン・アストロズのピッチャー、マイク・スコットが登場する。

スプリットフィンガード・ファストボールという球種で有名な選手だ。

スコットは、物を投げるのは「テキサス人の得意技だ」と言い、「スプリットフィンガード・ゴミボール」を披露する。

彼がゴミを路肩のゴミ箱に投げ込むと、ゴミ箱は爆発し、火柱が上がる。

なかなか芸が細かい。

アメフトのヒューストン・オイラーズのクォーターバック、ウォーレン・ムーン、プロボクサーのジョージ・フォアマン、ブルース・ギタリストのスティービー・レイ・ボーン、カントリー歌手ジェリー・ジェフ・ウォーカーなど、キャンペーンに登場したスポーツ選手やミュージシャンの多くは、州外ではあまり知られていないが、地元では「テキサスっ子」としてよく知られている。

カントリー歌手のウィリー・ネルソンは、「お母さん方よ、お宅の子どもに『テキサスを怒らせるな』と教えといてくれ」 というセリフを生んだ。

これらは、よくある有名人の推奨広告とは別物だ。

単なる有名人の推奨よりも、ずっと手が込んでいる。

これらの広告は、登場人物の知名度だけに頼っているわけではない。

かのバーブラ・ストライザンドが登場したところで、南部野郎が相手ではたいした効果は期待できない。

男らしくてたくましければいいかというと、そうでもない。

シュワルツェネッガーはたくましいが、テキサスらしさは皆無だ。

では、同じ地元の有名人を使って、もっと平凡な公共広告らしい手法をとっていたら、どうだっただろう。

「プロボクサーのジョージ・フォアマンです。

ゴミのポイ捨ては、格好悪いですね」。

これも、効果は期待できそうにない。

なぜなら、フォアマンが南部野郎の嫌いな権威者の役どころになってしまうからだ。

このキャンペーンのメッセージは、テキサス人はゴミのポイ捨てをしないということだ。

注意してほしいのは、登場した有名人の価値が、ひと目で「テキサス」、もっと具体的に言えば、「男っぽい理想的なテキサス人」を感じさせるという点である。

ウィリー・ネルソンの音楽が嫌いな人も、彼がテキサス人らしいことはわかるだろう。

キャンペーンはたちまち大成功した。

開始から数カ月後の調査では、テキサス住民のなんと七三%がこのメッセージを記憶しており、ポイ捨て禁止のメッセージであることも正しく認識していた。

一年もたたないうちに、散乱ゴミは二九%減った。

交通局は当初、「テキサスを怒らせるな」キャンペーンと合わせて、予算一〇〇万ドルでポイ捨て取締強化を計画していた。

「ポイ捨てをすると捕まって罰せられる可能性が高い」という不安に訴える戦術だ。

ところが、「テキサスを怒らせるな」キャンペーンが即効性を発揮したので、取締計画は中止になった。

南部野郎のアイデンティティをくすぐる魅力的なメッセージを打ち出すことによって、不安に訴える必要がなくなったのだ。

キャンペーン開始から五年で、路肩の目につくゴミは七二%減り、州内の道路沿いに捨てられた空き缶の数は八一%減った。

一九八八年にシレクが行った調査によると、テキサスの道路上のゴミは、ほぼ同じ期間、ポイ捨て禁止プログラムを実施した他の州よりも少なかった。

「テキサスを怒らせるな」は、優れたスローガンだ。

だが、スローガンをアイデアと混同してはならない。

シレクのアイデアとは、「本当のテキサス人はポイ捨てをしない」と訴え、南部の男たちにゴミのポイ捨てを心にかけるようにさせることだった。

理性的に自己利益に訴えるよりも、アイデンティティに訴える方が南部男の反応は大きいという考え方だ。

仮に二流のコピーライターを起用し、スローガンが「テキサスを侮辱するな」だったとしても、このキャンペーンでテキサスの道路ゴミは減ったはずだ。

ピアノ二重奏

ここまで、アイデアを心にかけてもらうための三つの戦略を紹介してきた。

関連づけを利用する(あるいは安易な関連づけを避ける)、自己利益に訴える、アイデンティティに訴える、の三つだ。

これらの戦略はどれも効果的だが、宿敵「知の呪縛」には注意が必要だ。

さもないと、せっかくの戦略を実行できなくなるおそれがある。

二〇〇二年、チップは、ある教授グループが主催する研修を手伝った。

それは、フロリダ州のマイアミやフォートローダーデールを拠点に活動する非営利芸術団体の指導者向けの研修だった。

研修の一環として、団体指導者に自分の団体の核となる使命を述べさせ、内容を見直させるという課題があった。

指導者たちは難しい質問を投げかけられた。

「あなたの団体の存在理由は?」「あなたの活動は他の団体にもできることか? もしそうなら、活動の独自性は?」 人々が心にかけてくれるような言い方で、団体の目的を定義してください、という質問もあった。

ボランティアが時間を提供し、人々が寄付金を出し、職員が(営利団体からの高収入の仕事の誘いを断ってでも)働き続けてくれるのは、その団体を心にかけているからにほかならない。

研修に参加していた団体の一つに、マーレー・ドラノフ・ピアノ二重奏財団があった。

彼らの順番が来たとき、チップはその代表者に、感情を掻き立てる決意表明をしてくださいと言った。

二重奏財団「当団体の存在目的は、ピアノ二重奏の保護と保存と振興です」 チップ「ピアノ二重奏の保護がなぜ重要なのですか?」 二重奏財団「最近、ピアノ二重奏はあまり演奏されなくなりました。

私たちはそれを廃れさせたくないのです」 ある参加者は後で、「ピアノ二重奏」という言葉を最初に聞いたとき、酔った客がピアノに合わせて大声で歌っているような、観光客向けのバーでよく見かけるピアノ二台の掛け合い演奏を思い浮かべたと言った。

ピアノ二重奏など保護するよりも、早く廃れさせるべきだと考える人もいた。

会話は数分間続いたが堂々巡りで、他の参加者がピアノ二重奏を芸術として心にかけるには至らなかった。

とうとう、ある参加者が口を挟んだ。

「失礼かもしれませんが、ピアノ二重奏が完全に消滅したら、なぜ世界が豊かでなくなるのですか?」 二重奏財団「(面食らった顔で)うーん、そうですね……。

ピアノは偉大な楽器です。

オーケストラ全体の音域と音色を、一人の演奏者の支配下に置くために生み出された楽器です。

ピアノほど音域の広い楽器は他にありません。

この偉大な楽器を同じ室内に二台置けば、二人の演奏者が応え合い、音を積み重ねることができます。

いわば、オーケストラの音を室内楽のように身近に楽しめるのです」 この瞬間、参加者は一斉に驚いた顔をし、「なるほど」という囁きがもれた。

「オーケストラの音を室内楽のように身近に」。

この言葉には深みがあり、感情に訴える。

参加者はこのとき初めて、マーレー・ドラノフ財団がなぜピアノ二重奏のために尽力しているのか、またなぜそうするべきかを悟ったのだ。

それにしても、なぜマーレー・ドラノフ財団は、他の参加者が心にかけるメッセージを思いつくのに一〇分もかかったのか。

ピアノ二重奏のための団体なら、ピアノ二重奏の価値を誰よりもうまく説明できるはずではないのか。

実際、彼らはピアノ二重奏が保存に値する理由を誰よりもよく知っていた。

ところが「知の呪縛」のせいで、それをうまく表現できなかったのだ。

「ピアノ二重奏の保存」という使命は、マーレー・ドラノフ内部では効果も意義もあるが、組織外の人には不可解だった。

何人かの参加者は「ピアノ二重奏が完全に消滅したら、なぜ世界が豊かでなくなるのか」という質問に共感したと、後から言っている。

ピアノ二重奏の何がそれほど特別なのか、そんなことを誰が気にするのか、と思っていたのだ。

長年、来る日も来る日もピアノ二重奏の問題に取り組んでいると、世界の大半の人はピアノ二重奏など聞いたこともないという事実を忘れがちだ。

自分が「叩き手」で、世の中の人は「聴き手」だということを、ついつい忘れてしまうのだ。

マーレー・ドラノフの代表者が「知の呪縛」から抜け出せたのは、会場中の人々がしつこく「なぜ?」と尋ねたからだ。

三度目の「なぜ?」で初めて彼らは、自分たちが何をしているかという話題から、自分たちはなぜそれをしているかという話題に移った。

つまり、(ピアノ二重奏を既に知っている人以外には)何の効果もない関連づけから、部外者と気持ちの通じ合える具体的で深い関連づけへと移ったのだ。

この「三つのなぜ」は、「知の呪縛」を避けるのに役立つ(トヨタ自動車は「五つのなぜ」というプロセスで、生産ラインの問題を究明している。

好きなだけ「なぜ」と問えばいいのだ)。

「なぜ?」という問いかけは、アイデアの根底にある核となる価値、つまり核となる原則を思い出させてくれる。

数年前、ある病院がデザイン会社の IDEOに、病院の作業フローの改善を依頼した。

IDEOの担当チームには、自分たちの提言が病院内で大きな抵抗に遭うことがわかっていた。

職員を変革に向けて動かす第一歩は、問題を認識させ、それを心にかけるようにすることだった。

IDEOは、脚の複雑骨折で緊急治療室にやって来た一患者の視点から、あるビデオを撮影した。

ビデオには患者の見たままの世界が映し出されているため、患者になりきって見ることができる。

まず緊急治療室の入り口を入り、受付手順の説明を探す。

受付の手続きでは、受付係が難しい医学用語で話しかけてくる。

ようやく移動ベッドに載せられ、運ばれていく。

廊下の天井が延々と続き、画面の外から声が聞こえるが、声の主は見えない。

時々、誰かがのぞきこんでくる。

移動ベッドは頻繁に止まり、そのたびに待たされる。

次に何が起きるのかもわからず、じっと天井を見つめるしかない。

IDEOの心理学専門家ジェーン・フルトン・スリによると、このビデオを職員に見せるとすぐ手ごたえがあったという。

「最初は決まって『ああ、今まで気づかなかった……』という反応だった」 スリは気づくという言葉が好きだ。

このビデオを見るまで職員にとって問題はなかったのだが、ビデオを見ることで、「解決しようという意欲が即座に生まれた。

もはや、机上の問題ではなくなった」。

IDEOは、職員に患者役を演じさせた。

例えば、「あなたはフランス人で、入院中の父親を探しているが、英語は話せない」というような設定である。

IDEOは、従業員に顧客への共感をもたせるこの種のシミュレーションで定評がある。

長年働いていると、場合によっては共感する力が衰えてくることもあるが、 IDEOのシミュレーションによって他者への自然な共感や同情心が回復する。

「ビジネスの世界では、個々の事柄より全体的な状況が重視されがちだ。

全体を重視するという知的な作業が、思いやりの心を邪魔する」 と、スリは言う。

共感は全体からではなく個々の事柄から生まれ出るという気づきは、本章の冒頭で引用したマザー・テレサの言葉を思い出させる。

「大衆を見ても私は行動しない。

個人を見たときに私は行動する」 アイデアを心にかけてもらうには、どうすればよいのか。

相手の「分析の帽子」を脱がせる。

特定の個人への共感を生み出す。

アイデアを相手が既に心にかけていることと関連づける。

相手の自己利益に訴えるが、同時に自分らしさにも訴える。

そこには実際の自分らしさだけでなく、なりたい人物像も含まれる。

そして、聴き手にとって「どんなメリットがあるか」を考えるときには、マズローの欲求段階の底辺部を脱するよう心がける。

二五〇ドルの特別手当よりも、「

よりも、「美」や「卓越」への欲求が満たされることの方が相手にとっては「メリット」かもしれない。

フロイド・リーは言った。

「自分は食事サービスの責任者であるだけでなく、軍の士気を高める責任者でもあると思っている」。

彼のような指導者を誰もが求めている。

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