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第五章人間力──自分を育てる、人間の器を大きくする

〝国盗人〟による支配が評判のよかった理由相乗効果で同志の能力を発揮させた北条早雲のカリスマ性人を育てるということは自分を育てるということ現代にも通用する「一国一城の主」になる方法織田信長にも通じる戦国時代の生き抜き方第二節挫折を生かす不幸な経験をその後に生かす道不条理にも織田信長に追放された前田利家不遇なときにこそわかる真の仲間世の中には自分が正しくても通用しない場合があることを知る部下の傷の痛みがわかるリーダーたれ第三節自分をコントロールする松平定信を退けた田沼意次の陰謀徳川家斉が仇敵を老中筆頭にした理由ポストについている人間を再試験する効用町奉行から将軍まで指導した松平定信与えられた役割に徹することで自分を生かす

第五章人間力──自分を育てる、人間の器を大きくする

人望力の要諦の第五は人間力である。

すなわち、人間の器の大きさである。

生まれながらに器の大きい人も中にはいるが、多くの器量人といわれる人は、自分で器を大きくしてきた。

器を大きくするのも、小さくとどめるのも自分しだいである。

人間の器は自然に大きくなるものではない。

自分を知り、自分を育ててこそ、人はさらに、自らの器を大きくすることができる。

器の大きい人には、自然に人が集まってくる。

目次

第一節自分を知る

上に立つ者は批判に耳を傾けよという蜂須賀家政の戒め

全国的に有名になった阿波踊りは、蜂須賀家が阿波藩の大名として入国したときから始められたものだという。

原型はこの地方の盆踊りだったが、それをさらに拡大して蜂須賀家が、収穫が終わった後の農民のお祭りに仕立てたものだという。

もともとは、お盆のときの精霊送りの行事だった。

蜂須賀家は、いうまでもなく野盗で名高い(実際には木曽川流域の豪族)小六正勝が先祖だ。

小六正勝は、若い頃の豊臣秀吉をよく知っていたので、秀吉とは仲がよかった。

秀吉のために数々の手柄を立てたので、秀吉はお礼に小六正勝を阿波の大名にしようとした。

ところが正勝は、「自分はもういいから、息子の家政にその国を与えてやってくれ」と頼んだ。

したがって、阿波(徳島県)の初代藩主は小六の子・家政である。

家政は現地に対していろいろと心くばりをしたが、息子が早く死んでしまった。

そのために孫の忠英を三代目の藩主にしたが、忠英が若いので後見役として政治を見た。

若い気鋭な忠英は、「祖父や父とはひと味違った政治を行おう」と意気込んだ。

こういうときにトップがまわりに集めるのは、必ず自分の気に入った連中だ。

そして意見をきくのはそういう連中からのものに限る。

自分に対立する者や、自分の政策に反対する者の意見はきかない。

また、トップのまわりに集まった連中も、いつのまにか茶坊主になっておべんちゃらをいい、トップが怒るような情報は耳に入れなくなる。

いまの時代でも同じだが、これがトップを堕落させる第一歩である。

とにかく、トップが自分に対立するような意見をきかなくなったらもうだめだ。

忠英のまわりには茶坊主たちがはびこり、正しい意見をきかなくなったので、まじめに仕事をする武士たちは憤慨した。

そして、城の中で悪口をいっているとすぐ茶坊主たちの耳に入って、これが忠英に報告されるので、まじめな武士たちはそういう不満をいう場所を考えた。

だれかがいった。

「安宅船の上はどうだ?」「安宅船?」仲間の一人がきき返す。

「そうだ。

安宅船は蜂須賀水軍の船だが、いまはもう戦争はない。

吉野川でただつながれているだけだ。

あれを川の真ん中に出して、酒盛りをやっているようなふりをしながら、われわれが考えていることを議論すれば、さすがの城の茶坊主たちにもきこえまい」「それはいい考えだ」まじめな武士たちは賛成した。

そこで、「今夜は安宅船で懇談会を開く。

酒や食い物はそれぞれが持ち寄ろう」とひそかに相談した。

しばらくの間は、安宅船でまじめな武士たちが忠英の批判会を開いていることはわからなかった。

が、徳島城内にはスパイがたくさんいる。

いつのまにか、「城内の不満分子が、毎晩、安宅船で殿様の批判をしている」ということが忠英の耳に入った。

忠英は怒った。

側近たちを呼んで、「だれかスパイを入れて、あいつらが何をいっているのか探り出せ」と命じた。

側近が手をまわして、安宅船の懇談会にスパイを入れた。

スパイはそこで話された忠英批判をくわしく報告した。

忠英は激怒した。

そして、「俺を批判した者の名を書き出せ。

全員罰してやる」とわめいた。

このことが心ある武士によって家政の耳に入った。

家政はすぐ城にやってきて、「忠英殿」と呼んだ。

直接安宅船の話はしないで、縁側に出た。

ちょうどスズメが塀にたくさんとまっていた。

ところが、家政の姿を見ると、スズメたちがちゅんちゅん鳴きながら、いっせいに庭に下りてきた。

忠英はびっくりした。

「おじい様、スズメがおじい様を慕っておりますが」「そうだ」家政はうなずいた。

そして、ニッコリ笑うとこういった。

「このスズメたちには、いつもエサをやってきた。

それを忘れずに、こうしてわしを懐かしがってくれるのだろう。

忠英殿」家政は向き直って忠英にいった。

「トップに立つ者は、決して自分に対する批判をおそれてはならない。

何でもきくことだ。

自分を批判する者を左遷しようとしたり、あるいは飛ばそうなどと考えるのは間違いだ。

批判の中にも正しい意見がある。

上に立つ者はそれに耳を傾けなさい。

このスズメと同じだ。

可愛がれば、必ず慕って寄ってくる。

わかるな?」祖父の温かい戒めに、忠英はいまさらながら自分の気負った気持ちがはずかしかった。

この教訓をきいて以後の忠英は、自分の耳に痛いこともきちんときくようになったという。

批判を謙虚にきくことは、自分を知ることである。

そして、それは自分を育てることにもなる。

家政は忠英に、このことを伝えたかったのだ。

ケチと倹約と無駄の差をつけた黒田如水

黒田如水は部下思いだったので、情けをかけられた部下がよくお礼に物を持ってきた。

あるとき、千石取りの武士が、菜っ葉を一把持って、「この間はどうもありがとうございました」と礼をいった。

如水は、「貴重な品をありがとう」と受け取った。

その武士が帰ると、まわりにいた者が、「あいつはケチだ。

千石取りなのに菜っ葉しか持ってこない」と文句をいった。

如水は、「それは違うぞ」と首を振った。

「あいつは、いざというときに備えて武具に金をかけている。

私のところに持ってくる品物を倹約して、そっちに金をかけているのだ。

あいつはケチではなく、倹約家だ」次に五百石取りの武士が自分で一升樽をさげてやってきた。

酒は白濁したどぶろくだった。

安い酒だ。

そこで側近がまた、「あんなに世話になったのに、あいつはケチだ」といった。

ところが如水は今度も、「いや、違う。

あいつも得意な槍に金をかけている。

身分不相応な槍を持っているから、その手入れにも金がかかるのだ。

私への贈り物はこれで十分だ。

あいつも倹約家だ」といった。

最後に、百石取りの部下が新しい鯛を大きな白木の折りにのせてきた。

如水の顔が不愉快なものに変わった。

「おまえの収入でこんな鯛が買えるわけがない。

何という無駄なことをするのだ?」と怒った。

「この鯛は買ったものではありません。

私が恩をほどこした者が届けてくれたものです。

私には身にあまる鯛なので、殿様にお届けにあがりました」その武士はそういった。

如水は納得した。

しかし、「この白木の折りはどうした?」ときいた。

武士は、「買ってまいりました」という。

これをきくと、如水はこういった。

「それが無駄というものだ。

おまえの収入で、鯛が立派だからといって、こんな白木の折りをこしらえる必要はない。

これは持って帰れ。

売って、へった収入の足しにしろ」こういうように、ケチと倹約と無駄との差を、如水はきちんとつけていた。

如水の言葉に学んだ秀吉の部下

部下からもらったみごとな鯛については後日譚がある。

日根野という武士がいた。

美濃(岐阜県)の名族で、織田信長や豊臣秀吉に仕えて数々の手柄を立てたが、秀吉の家来になっていたときに、大きな失敗をして浪人をした。

しかし、その後の態度が殊勝なので、秀吉が自分の代わりに、ある合戦場に使いを出すことにした。

日根野は喜んだ。

しかし、弱った。

というのは、いまはまったく生活が苦しくなっていたので、支度金がなかったからである。

それに、日根野は生まれつき暮らしが贅沢で、その性格は浪人した後も直らなかった。

窮した彼は、知人に紹介を頼んで、黒田如水に借金を申し込んだ。

日根野は、「黒田如水はケチで、いつも生活を切り詰めて金をためこんでいる」という噂をきいていたからである。

紹介者からその話をきいた如水は、最初は渋った。

というのは、日根野という男が昔の大名時代が忘れられず、浪人した後も贅沢な暮らしを続けて、家の者を困らせているときいたからだ。

しかし、考えた如水は、「わかった、金を貸そう」といって、日根野が希望する三百両の金を貸してやった。

日根野は如水から借りた金で支度をし、無事に役目を果たした。

秀吉も喜んで、日根野の手柄を褒め、また黒田如水から金を借りてまでこの仕事をしたというので、「では、如水に返す金は俺が立て替えてやろう」といって、三百両の金を与えた。

日根野は紹介者とともに、如水のところに礼をいいにやってきた。

「このたびの働きはじつにみごとでした。

お祝いに酒を飲みましょう」如水はそういって脇の者に、「さっきもらった鯛を持ってこい」といった。

しかし、持ってこられた膳の上の鯛は骨だけで、それも吸い物だった。

日根野は思わず紹介者と顔を見合わせた。

目で、「黒田殿は、評判通りケチだ」と語っていた。

そして懐から持ってきた三百両の金を出して、「どうもありがとうございました。

おかげさまで助かりました。

お返しいたします。

お受け取りください」といった。

すると如水は首を横に振って、「返済は必要ありません」と答えた。

「は?」と、思わず妙な表情になる日根野に如水はこういった。

「あのとき、あなたは生活に窮しておられた。

秀吉公のお使いに立つ支度金もなかった。

本来なら、私はその金をあの場でさしあげるといいたかった。

しかし、それではあなたの武士としての面目をつぶすことになる。

だから、これをお貸しする金だといったまでで、もともと返してもらう気はありません。

どうかそのままお持ち帰りください。

もう一つ付け加えれば、こういう非常の際に役立てる金を生むために、この如水はふだんから倹約をしているのです。

ケチとは違います。

ケチというのは、ためこんだ金を人の役には立てないでしょう。

が、私はだれかのために役立てる目的でふだんから倹約をしているのです。

この鯛をご覧なさい。

骨だけの吸い物で、あるいはあなたがたは不満足かもしれません。

鯛の身のほうは、いま、私の家の部下全員が食っております。

そういう区別をしていくことも、私の倹約の苦労なのです」この言葉をきいて、日根野は完全にまいった。

そして、(自分は間違っていた)と、いまさらながら自分の暮らしぶりを反省したのである。

日根野は昔の生活が忘れられなかった。

(俺は大名だった)という気持ちを捨てきれなかった。

だから浪人した後も突っぱった。

「ばかにされないぞ」と見栄を張った。

そのために無駄な金をずいぶん使った。

失業者なのに大名時代と同じような暮らし方をしていたのである。

日根野は二度と他人に向かって、「黒田殿はケチだ」とはいわなくなった。

その代わり、「あの方は倹約家なのだ」といった。

「腹立たずの会」を活用して名将となった黒田長政

黒田如水の人育ては、自分の息子の長政にも及んだ。

長政は、後に名将といわれるようになるが、若い頃は乱暴者ですぐ腹を立てた。

部下の扱いも乱暴だった。

父の如水はいつもはらはらしながら見ていたが、みんなが意見をしてもきかない。

とくに長政が悪いのは、いわゆる〝諫争の臣〟のいうことをまったくきかなかったということだ。

諫争の臣というのは、「自分を捨てて、主人の悪いところを諫言する家臣」ということである。

勇気がなければできない。

というのは、すでに紹介したが、徳川家康がいみじくもこういった。

「主人に諫言することは、一番槍よりもむずかしい」徳川家康がいうのは、どんな主人思いでも、主人の耳に痛いことをいうと、必ずそのいった者と主人の人間関係がまずくなるということだ。

いったほうは、(少しいいすぎたのではないか?)と心配になるし、主人のほうも、(あいつは、何か含むところがあって、俺にああいうことをいったのではないか?)と疑心暗鬼になる。

「両者の間にこういう関係が生じると、結局は意見をいった者は仮病を使って休むようになり、しだいに仕事を怠けるようになる。

主人のほうは、あいつは真心でああいうことをいったのではない。

やはり、思ったとおり含むところがあったのだと考えるようになる。

この結果、両者の人間関係は決定的に破れ、意見をいった者は左遷されてしまうようなことにもなる。

だから、戦場で真っ先に敵陣に突入していく一番槍のほうがやさしい」と、家康はいうのである。

黒田如水は、忠臣をそばに近づけない息子の長政をこのままにしておけないと思った。

そこで、あるときに助言をして、「腹を立てない会をつくれ」と命じた。

「腹を立てない会とは、どんな会でございますか?」長政の問いに如水は答えた。

「毎月日を決めて、何回か会議を開く。

その会には、だれが出席してもいい。

そしてどんなことをいってもいい。

しかし、いわれた相手は、絶対にその会では腹を立てないという会だ。

思いきった意見が飛びかって、さぞかし黒田家の発展のために役に立つだろう」「……?」長政は考え込んだ。

しかし、思いあたることもあった。

父は、この頃の自分に対して満足していない。

それは、自分が耳ざわりのいい意見しか受け入れていないからだ。

そのため、長政の周囲にはおべんちゃらをいう者ばかりが集まってきた。

長政は反省した。

こうして、黒田家に明治維新まで続いたといわれる「腹立たずの会(腹を立てない会)」が設けられた。

この会の議長をつとめるのが長政である。

父の如水は、いつも脇で黙ってきいていた。

会に出た連中は好き勝手なことをいった。

長政に対する批判もあった。

最初は思わず、「きさま、部下のぶんざいで何をいっているのか!」と長政が怒ると、脇の如水がエヘンと咳払いをした。

咳払いには重みがあった。

長政は悟った。

(父は咳払いで、私を戒めているのだ)と考えると、長政もこの「腹立たずの会」で出てくる意見に耳を傾けるようになった。

気持ちを鎮めてきくと、なかなかいい意見もあった。

長政はつくづくと、(いままでの自分は間違っていた)と悟った。

しかし、如水は長政にこういった。

「部下の意見はあくまでも意見だ。

この中から何を選び、どういう行動をするかを決めるのは、おまえだ。

つまり、部下には意見をいう権利はあっても、物事を決定する権利はない。

決定者はおまえ一人だ。

このへんをよくわきまえていないと、優柔不断なトップリーダーになってしまう。

そこを気をつけろ」長政には父のいうことがよくわかった。

いわゆる民主的にという観点で、ただみんなが意見を述べあっていて、リーダーが、「あの意見もいい、この意見もいい」などといっていたら、決定は結局、玉虫色になってしまう。

そうなると、何か失敗したときに責任のなすりあいが起こる。

如水はそのことを戒めていたのである。

黒田長政はこの意見会を大いに活用して、名将といわれるリーダーに育っていった。

十数年間の勉強を全部捨てた福沢諭吉の勇気

福沢諭吉の言葉に、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり」というものがある。

福沢諭吉は、江戸時代の末期に豊前中津(大分県中津市)の大名・奥平家の下級武士の家に生まれた。

父親は大坂の倉庫番をつとめていたという。

このために、諭吉はしばしば上級武士から差別された。

かれは、「身分制は親のかたきだ」といっている。

下級武士の家に生まれたかれがめざしたのは学問だった。

「身分制のつよい武士社会で生き抜くためには、学問以外にない」と考えたからだ。

その学問も、はじめは中国の学問を学んでいたが、やがてオランダ語による蘭学に志すようになった。

当時の日本はまだ鎖国中で、外国とは交際していなかった。

わずかに中国とオランダだけと交流していた。

それも、長崎港だけが唯一の窓口だった。

そこで諭吉は、藩の許可を得て長崎に行き、蘭学を学んだ。

やがて諭吉は、長崎で学んだ蘭学をさらに深めるために、大坂の緒方洪庵の適塾に入った。

ここでかれは、日本の各地から来ている英才たちとつきあった。

緒方洪庵は、諭吉の優秀さを認め、やがて塾長(学生代表)として扱った。

適塾の教育方針は自由で、軍事、医学、一般科学、あるいは天文学など、好き勝手な学問を学んでいた。

オランダ語を読むのには辞書が必要だ。

ところが塾には一冊しかないので、奪い合いで大変だったらしい。

突然、アメリカからやってきたペリーの黒船四隻の圧力によって、徳川幕府はついに開国した。

条約によって、横浜港が新しく開かれ、外国人居留地が指定された。

ある日、諭吉は思い立って、その横浜の居留地に行った。

そして驚いたことを発見した。

それは、居留地で外国人たちが使っている言葉が、すべて英語だったことである。

オランダ語を使う者などほとんどいない。

諭吉は大きなショックを受けた。

ショックを受けたというのは、「いままで夢中になって学んできたオランダ語が役に立たない」ということであった。

このとき、諭吉は二十六歳になっている。

十五、六歳から学びはじめ、すでに十年以上もオランダ語を身につけてきた。

その間の苦労というのはいいようがない。

かれの生まれた家は身分が低かったので金もない。

したがって長崎に留学したり、大坂の適塾に留学したりするのには、そうとう無理をしてきている。

他人に借りた金もある。

しかし、そんな苦労をして学びつづけたオランダ語が、全然役に立たないという現実に、諭吉は茫然とした。

しかし、諭吉は絶望しっぱなしではなかった。

かれはここで新しい道に向かって谷をはい上がりはじめた。

それは「英語を学ぼう」ということであった。

これはたいへんな勇気のいることだ。

つまり、十数年も一所懸命勉強してきたことを全部捨てて、第一歩から新しい学問を学ぶということである。

この一事は、福沢諭吉がじつに偉大な人間だったことを示す。

たまたま諭吉は、耳寄りな話を聞いた。

それは徳川幕府が、アメリカと結んだ条約を正式なものにするために、使節団をアメリカに派遣するというのである。

日本の海軍力を示すために、オランダから買いこんだ咸臨丸という船が使節団の護衛をして太平洋を渡るという。

艦長は勝海舟という徳川幕府の武士だった。

諭吉はこの話をきくと、すぐ勝海舟のところに行った。

そして、「私もいっしょに連れていってください」と頼んだ。

勝はびっくりした。

「いったい、何のためにアメリカへ行きたいのだ?」ときいた。

諭吉は率直に自分の考えを話した。

「私は、いままでオランダ語を夢中になって学んできました。

しかし、横浜の外国人居留地に行って、オランダ語がもう国際語ではないことを知りました。

これからの国際社会の標準語はすべて英語になります。

そこで、自分の目で実際にアメリカの実態を見、現実に使われている英語を学びたいのです。

どうかいっしょに連れていってください」勝海舟は考え込んだ。

というのは、勝海舟自身も若い頃はオランダ語を夢中で学んできたからである。

しかし勝も、現在はそのオランダ語がすたれて英語の時代に変わったことを知っていた。

だから福沢諭吉の話はよくわかった。

勝はこういった。

「幕府の予算では、到底おまえを船に乗せることはできない。

私が個人的におまえを雇うということでいいか?はっきりいえば、おまえは私の従僕になるのだ」諭吉は顔を輝かせ、「従僕でも何でもかまいません。

アメリカに行けるのなら、どんなことでもいたします」といった。

こうして福沢諭吉は、改めて英語を学ぶために咸臨丸に乗ってアメリカに向かった。

同行者がいた。

土佐(高知県)の漁民で、中浜万次郎という青年だった。

万次郎は漂流して実際にアメリカで暮らしたことがあり、ジョンという名前をもっていた。

諭吉は、たちまちこの万次郎と仲よくなった。

アメリカに着いた日本人の多くは、日本へ持って帰る土産ものの物色に血まなこになった。

ところが、福沢諭吉と中浜万次郎だけは、二人で金を出し合って一冊の辞典を買った。

ウェブスターの英語辞典である。

これが日本に持ち帰られて、その後の日本の英語教育にどれだけ役に立ったかわからない。

〝国盗人〟による支配が評判のよかった理由戦国時代に、〝国盗人〟と呼ばれた武将が何人かいる。

美濃(岐阜県)の斎藤道三がそうだし、小田原の北条早雲がそうだ。

二人とも、出身がよくわからないままに、権謀術策を使ってどんどんのしあがり、やがては一つの国を支配してしまった。

そのために、それまでの無能な支配者を追放した。

だから、「国を盗んだ」といわれるのである。

しかし、小田原の北条家はその後五代まで続き、戦国末期に豊臣秀吉によって滅ぼされる。

北条家を滅ぼした後、豊臣秀吉は徳川家康にこの地方を与えた。

その代わり、家康がもっていたそれまでの支配地を全部自分の手に収めた。

秀吉はこれを、「大名の鉢植え」といっている。

大名というのは、鉢に植えた木のようなもので、広い大地に根を生やした存在ではない。

「いつでも引っこ抜いて、自分の思うところに移動させることができる」という、現在でいえば、「人事異動」のハシリを、秀吉は自在にやっていたということだ。

徳川家康が、北条家が支配していた土地を治めた頃、しきりに反乱が起こった。

理由を調べると、北条家に支配されていた住民たちは、徳川家の支配下にあっても依然として、北条家の政治を慕っていることがわかった。

●年貢(税)が安かった。

●政治や行政に温かみがあった。

●民衆本位の行政が行われていた。

●武士がいばらない。

民を大切にした。

などが、その理由だ。

幕末から明治維新にかけて活躍した勝海舟も、このことにふれている。

そして、「北条五代の政治は民に温かかった。

そのために、あれほど名将といわれた徳川家康公が北条領に入った後、なかなか民心が徳川家に懐かなかった。

住民たちは長い間、北条家の遺風を慕った。

それは一にも二にも、北条家の政治が民に行き届いていたからだ……」というようなことを語っている。

北条早雲は、たしかに国盗人であったが、こんな話がある。

戦国時代は、なんといっても馬は大切な存在だ。

東国武士が農耕に使っていた馬を武器として使うようになってから、馬の馬質改良もどんどん行われた。

この馬質改良が、現在の競馬に発展するのだ。

したがって、馬は大切な財産だった。

これを盗むと、死刑だ。

あるとき、北条領で馬盗人が捕まった。

見せしめのために、公開処刑が行われることになった。

支配者である早雲も見にいった。

ところが、見物人の中に早雲の姿を発見すると、馬盗人がこう叫んだ。

「あそこに国盗人がいる!俺はたかが一頭の馬を盗んだだけだ。

国を盗んだ奴がああやって贅沢な暮らしをしているのに、馬一頭を盗んだだけの俺がなぜ死刑にならなければならないのだ?」この叫びは早雲の耳にも入った。

脇にいた武士たちがバラバラと走り出して、「無礼者め!すぐ首を切れ!」と叫んだ。

すると、早雲が止めた。

「待て」馬盗人を殺そうとした武士たちは、いっせいに早雲を振り向いた。

「なぜ、お止めになるのですか?」早雲はいった。

「その男のいうことにも一理ある。

処刑をやめて逃がしてやれ」そう告げた。

部下たちはびっくりした。

しかし、早雲のいうことなので、馬盗人の縄を切り、逃がしてやった。

これが思わぬ効果を上げた。

それは馬盗人があらゆる土地で、「小田原の北条早雲様は、こういう人だ」と、ふれ歩いたからである。

いまの言葉を使えば口コミだ。

これによって北条早雲の名はいよいよ上がったという。

一事が万事こういう調子だったので、たしかに徳川家康が悩んだように、北条早雲の政治・行政は民に温かく、また行き届いていた。

その精神は、早雲の子、孫というように、代々引き継がれていった。

ところがしまいには、いわゆる「小田原評定」などと悪口をいわれ、「いつまでも会議をしていて、結論を出さない」ことを、現在でも〝小田原評定〟と呼んでいる。

それはやはり北条家の支配地が広くなり、小田原城内にも官僚制が発達し、合議制によっていろいろなことが行われるから、結局は結論が玉虫色になって、「俺についてこい」とか、「これでいこう」という、トップリーダーの決断力が衰退したからにほかならない。

しかし、早雲がこの地域を〝盗んだ〟頃は、まったく様相が違った。

相乗効果で同志の能力を発揮させた北条早雲のカリスマ性近頃、あまり組織内で見られなくなったのが、「友情の相乗効果」である。

友情の相乗効果とは何か。

それは、「友人同士が集まって、互いの能力を相手のために活用し、そこで生まれる新しいパワーによって、自分たちの志を実現していく」ということである。

場合によっては、これがいわゆる〝派閥〟になる。

しかし、こういうことをいうと叱られるかもしれないが、著者個人は、「組織内にも派閥は必要だ」と思っている。

派閥といっても、人事や財政に介入するような存在ではない。

「組織目的を達成するために、互いのもっている能力を掛け算とするような努力」を行うグループのことである。

組織内活力の生産に日々いそしむ集団のことだ。

近頃は、この〝友情〟が、見かけはともかく、実質的には〝足の引っ張り合い〟や〝陰口〟となりやすくなっていて、どこかウエットな気がする。

早雲自身の出身はよくわからない。

かれの前名は伊勢新九郎といった。

そのために、「早雲は伊勢で生まれた」という説もある。

あるいは、「いや、北条早雲のほんとうの故郷は備中(岡山県)だ」という説もある。

さらに、山城(京都府)だという説もある。

斎藤道三も、「道三の出身地は、山城の西ケ岡だ」といわれる。

戦国時代に生きた英雄たちの前歴は実際にはよくわからない。

徳川家康にしても、後に、「自分は源氏の流れだ」などといい出す。

したがって、こんな詮索はあまり意味がない。

早雲がめざしたのは、駿河(静岡県)の今川家である。

この頃の今川家はかなり有名だったようだ。

もともとこの家は、足利家の分家である。

三河国(愛知県)には、今川とか、吉良とか、一色とか、細川とかの小さな地域があった。

足利尊氏は、自分の一族をそれぞれの地域の地頭にした。

赴任した地頭たちは、地域の名を姓とした。

だから、今川、吉良、一色、細川などはすべて、地名を姓にしたものである。

この中でとくに今川家と吉良家は、「足利本家に相続人が絶えたときは、この両家から相続人を出すことができる」といわれていた。

いわば将軍予備軍の家である。

それほど家の格が高かった。

しかし、早雲が駿河の今川をめざしたのは、必ずしもそういう家格の高さだけではない。

当時、今川家の経営は行き届いていて、商人や一般庶民を優遇した。

そのために、今川家が拠点とする駿府(静岡市)は、当時の日本でもかなりにぎわった都市である。

この、「駿河の今川をめざせ」というのは、当時一種の流行だった。

だから、駿河に行こうと思い立ったのは、何も北条早雲だけではない。

たとえば、豊臣秀吉もそうだ。

秀吉は、尾張(愛知県)の中村という農村に生まれたが、かれも立身の志を立てて、まず思い立ったのは、「駿河に行って、今川家の家来にしてもらおう」ということだった。

尾張には、織田という支配者がいた。

が、少年秀吉の目は、自分たちを支配している領主には向かない。

遠い駿河に向いている。

したがって、当時の口コミによる情報では、「駿河の今川家」というのは、みんなの憧れだったようだ。

この駿河の今川家を訪ねる前に、北条早雲は七人の同志と伊勢神宮の前で誓いを立てている。

七人の同志というのは、大道寺重時、山中才四郎、荒木兵庫、多目権兵衛、在竹兵衛、荒川又次郎、それに早雲を加えた七人であった。

みんな、「一国一城の主になろう」という志をもっていた。

駿河に向かう途中、伊勢神宮にお参りした。

このとき、大道寺重時がこんなことをいい出した。

「ここで、血の酒を飲んで誓いを立てよう」「誓いとは?」「われら七人、今後いかなる苦難にあおうとも、常に結束し、力を合わせてそれを乗り越えるということだ」「それはいい」ということになった。

大道寺はさらにこういった。

「ただ誓いを立てても面白くない。

われわれ七人の中から、頭目を一人選ぼう」「何のためだ?」「七人がそれぞれバラバラに力を出し合っていても、それでは能力の足し算でしかない。

それよりも、一人の頭目を選び出すことによって、その頭目の指導力よろしきを得れば、後の六人の能力も掛け算になるのではなかろうか」「能力の掛け算?」ききなれない言葉なので、みんな顔を見合わせた。

大道寺はうなずく。

「そうだ。

そしてさらにいえば、俺はわれわれの頭目としてふさわしいのは、伊勢新九郎だと思う」みんなもう一度顔を見合わせた。

しかし、大道寺のいうことに異論はなかった。

いままでのつきあいの中で、それぞれが、伊勢新九郎には卓抜な指導力がある。

それだけでなく、どこか人を引きつける不思議な魅力をもっていると思っていた。

あるいは、伊勢新九郎のためなら死んでもいい、という気持ちをもっていた。

これはリーダーにとって必要な条件だ。

現在は、「戦国時代だ」、あるいは「第二の開国期だ」といわれている。

現在が戦国時代だというのは、日本人の価値観が多元化し、古い価値観が次々と崩壊している現象を指す。

そして〝実力本位〟で、企業が生き残れるかどうかのすさまじいせめぎ合いが始まっているからだ。

この状況を助長させているのは、〝第二の開国期〟といわれる「規制緩和」だ。

規制緩和されると、企業の自由競争はいよいよ激しくなり、極端にいえば、「よいものを安く売らなければならない」という、矛盾する二つのことを同時に行わなければならなくなる。

矛盾するというのは、よい品物には必ずコストがかかるからだ。

それを安く売るには、よほど頭を働かせた経営努力が必要になる。

そこで、現在活躍する経営者やリーダーには、次のような条件が必要だといわれる。

すなわち、先見力、情報力、判断力、決断力、行動力、体力の六つであ

る。

しかし、「それだけではだめだ」といわれる。

それだけではだめだというのは、「こういう決まりきった条件だけでは、人はついてこない。

他人に〝この人のためなら〟と思わせる〝なら〟が必要だ」といわれる。

この〝なら〟を、中国の言葉を使えば、「風度」が必要だということである。

この風度という言葉は、ほとんど現在の辞典にも出ていない。

この言葉の意味は、「他人に〝なら〟と思わせるような雰囲気、器量、魅力、愛嬌、人望、一種のカリスマ性などのことをいう」のである。

理屈ではない。

接しただけで、「この人のいうことなら間違いない」「この人のやることなら、黙ってしたがおう」というふうに思い込ませ、一途に協力する気持ちをわかせるような、独特の雰囲気をいうのだ。

一言でいえば人柄だ。

人間味である。

北条早雲にはそういう魅力がたっぷりあった。

ほかの六人が見ていても、どこの町や村に行ってもすぐ早雲に懐くのは、子どもと犬と猫だ。

この三者に愛されるのは、やはり〝風度〟が優れているからだ。

また「子どもと犬と猫に愛される人間に、悪い奴はいない」と、だれでもが思う。

子どもと犬と猫が懐けば、たちまちほかの大人たちも信用する。

後に〝国盗人〟といわれる北条早雲は、少年のときからそういう不思議な雰囲気を身につけていた。

そういう意味でいえば、北条早雲は「生まれながらの指導者」だったのである。

伊勢神宮のほとりで、七人の武士たちは指を切って流した血を酒に注ぎ、互いに飲んだ。

そしてこの日、「伊勢新九郎をわれわれの頭目にしよう」と誓った。

この誓いは、「いつ、どこで、何があろうと、われわれ六人は新九郎の命令にしたがい、全力を出す」ということだ。

人を育てるということは自分を育てるということ現代の組織では、この〝友情による相乗効果〟がなかなか生まれにくくなってきた。

しかし、改めてそういうものをつくり出す人望力も、新しいリーダーシップの一つではないかと思っている。

それはなぜかといえば、人を育てる場合に、育てる側自身が常に自己の向上に努力しなければならないからだ。

いってみれば、「生涯学習」を絶やさないということである。

ところが、人を育てる側にまわると、なかなか自分の未完成部分に気がつかない。

つまり人を育てているから、ともすれば、「俺はパーフェクトだ」と思い込む。

そうなると、自分の長所ばかり目について、短所が目に入らない。

自分を向上させる努力を怠るようになる。

ほんとうは、そういうことを続けていれば、育てられる側が気がついて、(このリーダーはだめだ)と思うようになってしまう。

そうなると育てる側がいきり立って、(こいつはしだいに俺のいうことをきかなくなってきた。

生意気だ)と思い込む。

せっかく良好な関係にあった育てる側と育てられる側の関係にヒビが入り、しだいに亀裂を生ずる。

やがて大きなミゾができ、両者は完全に隔たってしまう。

いってみれば、育てられる側が、「育てる側離れ」をしてしまう。

ところが育てる側は反対に、「育てられる側離れ」をしない。

いつまでも執拗につかまえていて離さない。

親と子の関係も同じだ。

子のほうは、どんどん、〝親離れ〟をする。

ところが親のほうは、いつまでたっても自分の子どもを、幼い時代のことを一つの基準にして、「生意気なことをいったって、この子はしょせんは私の子だ」と思い込んでいる。

つまり、子ども側の〝親離れ〟のスピードに、親側の〝子離れ〟がなかなかついていけない。

これが親と子の意思疎通を欠き、しだいに両者の間が険悪になっていく要因だ。

私がここで、「よい友人に恵まれることは、互いに能力の掛け算が行われる。

すなわち相乗効果が出る」というのは、このへんのことが頭にあるからだ。

つまり、よい友人をもつということは、「自分でまだ気がついていない自分」に目を向けさせてくれるということだ。

仲間たちと議論し、いろいろ志を語り合うことは、場合によっては、「自分を客観的に見直す」という機会がたくさんあるということだ。

つまり議論をしていて、相手にやられ、相手のいうことがもっともだと思ったときは、改めて自分のいたらなさに思いが至る。

そうなると、(もっと学ばなければならない)という気持ちが起こる。

それが、自分の不完全さに気がついたということだ。

また同時に、友人を論破したときは、(俺にも、俺自身でまだ気がつかなかったこんな能力があったのだ)という自信がわく。

これはある部分について、新しい発見をしたということだ。

この、「自分で自分を発見する」というきっかけを、北条早雲と六人の仲間がつくり出していた。

ときおり、私のような者にも人生相談をする若者がいる。

能力があり、志もある。

そこで、「大学へ行くのをやめて、すぐにでもこういう仕事をしたいのですが」という。

私は反対する。

「絶対に大学には行きなさい」という。

「おまえも学歴社会の荷担者なのか?」といわれるかもしれないが、そうではない。

私は自分の経験(私は貧しくて大学へ行けなかった)から、あの四年間に多くの友人を得、しかもそのときの友情がずっと続くというような心の財産をもっていない。

だから逆に、「四年間に学ぶのは、何も学問だけではない。

学問だけだったら、独学でも得ることができるだろう。

しかし、独学では、その間につちかわれる友情は絶対に得られない」と思っているからだ。

たんなる友情というよりも、「自分で自分を発見する機会」が、間断なく得られるからである。

このことは、とくに人づくりの責任を負う立場にある人たちに必要だ。

人づくりとは、「人を見る・育てる・生かす」ということであるが、別の面から見れば、人を育てるということは、「自分を育てるということ」でもある。

それには、「常に客観的に自分を見つめ、いいところを伸ばし、悪いところを捨てる。

そして、社会に生かす」という気持ちが必要だ。

北条早雲たち七人は、互いに語り合い、志を同じにすることによって、この「自分を見つめ直し、自分を育て、戦国社会に生かす」ということを続けていった。

現代にも通用する「一国一城の主」になる方法よく選挙に出る人に必要なのは、「三つのバンだ」といわれる。

三つのバンとは、〝地盤(地域に根づいた実力)〟〝カバン(財力)〟〝看板(名声)〟のことだ。

これは一代で事業を興そうとするときも同じだ。

その事情は戦国時代も変わらなかった。

したがって、伊勢新九郎といっていた頃の北条早雲が、六人の仲間といっしょに、「一国一城の主になろう」と志したとしても、やはりこの三つをもっている場合ともっていない場合とでは、成功のスピードが違う。

もっているほうがつよい。

そうなると、何もない、いわば〝徒手空拳〟で、一国一城の主にのし上がろうというときには、特別な努力がいる。

北条早雲たちは、この特別の努力を、「お互いにもっている手持ちの資源を活用すること」とした。

人間における手持ちの資源とは、能力や経験をいう。

早雲たちが偉かったのは、それを、「一人でもっていても、十分な発揮はできない。

お互いに出し合うことによって、相乗効果が起こる」と考えたことだ。

これが、現代にもう一度よみがえらせたい、「職場における友情の相乗効果」である。

つまり、「あいつの能力と俺の能力とを掛け算すれば、会社のためにいい仕事ができる」という考え方だ。

それがどちらかといえば、「あいつの能力をそのままにしておくと、俺のほうがかすんでしまう。

足を引っ張ってやろう」という考え方が横行しがちだ。

しかし、早雲たちは違った。

六人は相談して、伊勢新九郎をリーダーとし、新九郎の言葉にしたがって駿河国をめざした。

伊勢新九郎こと北条早雲が、「われわれの志を満たしてくれる大

名は今川殿だ」といったからだ。

当時、今川家は駿河の守護職をつとめ、駿府(静岡市)に拠点を構えていた。

当主は義忠といった。

今川義忠には北川殿という側室がいた。

北条早雲はこの北川殿を訪ね、「私はあなたの兄だ」といい出した。

北川殿はびっくりした。

初対面の早雲から、突然とんでもないいいがかりをつけられたからだ。

が、早雲と二人きりで密談をすると、北川殿はニコニコ笑って今川義忠に、「私の兄です。

諸国を放浪しておりましたが、やっと会うことができました」といって紹介した。

今川義忠はうさんくさそうな顔をしたが、もともと北川殿の出身そのものがあいまいなので、(こんな兄がいたのかもしれないな。

ヒモでなければいい)と思った。

北川殿は義忠の子を生んでいた。

氏親といった。

まだ幼児だ。

そのうちに今川義忠がある合戦で戦死してしまった。

残された氏親は、まだ四歳だった。

このとき活躍して、幼い氏親を今川家の当主にしたのが早雲だった。

かれはこのときの功績によって、富士郡で十二郷をもらい、興国寺城という城の主になった。

つまり一国一城の主になったのである。

六人は喜んだ。

そして、「これからは新九郎の家臣となって、かれに忠節を尽くそう」と、改めて伊勢神宮の前で誓ったことを実行した。

織田信長にも通じる戦国時代の生き抜き方この頃、伊豆の堀越に茶々丸と呼ばれる公方がいた。

茶々丸の父親は足利氏の一門で鎌倉公方(足利幕府から派遣された鎌倉の将軍)だったが、執事の上杉家の力がつよくて、鎌倉に入ることができなかった。

しかたなく伊豆の堀越に館を構えていたので、〝堀越公方〟と呼ばれていた。

茶々丸は暴君だった。

母を殺し、弟を殺し、さらに領民に無理難題ばかり吹きかけていた。

そのため、今川家でももてあましていた。

しかし、足利の一門なので、うっかり手が出せない。

そこで早雲は六人の仲間と相談して、「茶々丸を滅ぼそう」と決めた。

攻め立てると茶々丸は簡単に敗れ、自殺した。

そこで早雲たちは伊豆地方を支配するようになった。

ところが、領民は早雲たちを恐れて、なかなか懐かない。

早雲たちは頭を抱えた。

ある村に入っていくと、村人がだれもいない。

残った家には、病人の老人たちが寝ていた。

「ほかの若い連中はどうした?」ときくと、年寄りたちは、「あなたがたを恐れて、みんな山の中に逃げました」といった。

早雲の家臣になった六人は怒り、「けしからん。

全員、力ずくで連れ戻そう」といった。

早雲は首を横に振った。

「だめだ。

そんなことをしたら、領民はよけい俺たちを恐れる。

それよりも、もっと温かい手を使うべきだ」「温かい手とは?」「俺たちはいままでさんざん苦労してきた。

苦労で得た経験を生かそうではないか」「何をするのだ?」「残っている老人たちはみんな病人だ。

これを全部治そう」「病人を治す?俺たちは医者ではないぞ」「医者ではないが、俺たちが七人で各国を放浪しているときに、中には病気になった者もいた。

そのときに俺たちは、人の手を借りずに山の中から薬草を探し出して煎じ、治した経験が何度もある。

あの経験を役立たせよう。

それぞれ、得意な分野があるはずだ。

その手持ちの能力を出し合おう」「なるほど」六人は顔を見合わせた。

そしてうなずいた。

早雲のいうことを、(恐れる領民に、北風のように冷たい圧力をピューピュー吹きつけても、かれらは心の守りをよけい固くするだけだ。

絶対にわれわれには懐かない。

逆に、太陽の暖かい光でかれらの凍った心を溶かすことのほうが大切だ。

それには、残された老人たちの病気を治すことが一番早道だ)というように受け止めたのである。

そこで早雲も交えた七人は、それぞれ手分けして、いままでの経験から得意な分野の仕事を始めた。

山に入って薬草を集め、それを煎じた。

また多少医術の心得のある者は診察をし、「この病気には、こういう薬が効く」という判断をした。

早雲は大将として部下に命じた。

「一人の老人に、三人の兵士が交替で面倒を見ろ。

二十四時間、それぞれ老人の介護をしろ」兵士たちはびっくりした。

「占領した土地の住民に、そんなに親切にする必要がありますか?」と文句をいった。

早雲はうなずいた。

「占領したからこそ、俺たちが恐ろしい軍ではなく、情け深い軍だということを示す必要があるのだ。

頼む、協力してくれ」下手に出る早雲の態度に、部下たちも胸を打たれ、本気で老人たちの看病を始めた。

二十四時間、介護活動を続けたので、老人たちは次々と治った。

早雲たちが集めた薬草も効いた。

丈夫になった老人たちは相談した。

「今度の北条様は、悪い人ではないらしい。

前の公方よりもよほど親切で情け深い。

ひとつ、山に行って若い連中を呼び戻そうか?」「そうしよう」そういうことになり、丈夫になった老人が山に入ってこの話をした。

はじめのうち若い連中は疑って相手にしなかった。

しかし、老人たちが自分たちの身体を示して、「このとおり、われわれの病気が治ったじゃないか。

これもみんな北条様のおかげだぞ」というと、不承不承信じた。

みんな山を下りて村に戻ってきはじめた。

しかし、いままで茶々丸にさんざんいじめられてきたので、若い連中の中には悪いことをする者もいた。

他人の財産を奪ったり、怠けて働かない者もいる。

そこで早雲は村に高札を立てた。

こんなことが書いてあった。

●どんなに貧しくても、他人の財産を盗むことを禁ずる。

●丈夫な身体で働かない者は罰を与える。

●われわれ北条軍に対して不平や不満があったら、すぐ申し出てほしい。

とくに悪いことをした兵士は厳罰に処する。

この立て札に書かれたことは守られた。

悪いことをした者はビシビシ罰を受けた。

それは何も村人に限らない。

北条軍の兵士でも、村の人間の財産を盗んだり乱暴なことをした者は、厳罰に処された。

村の空気が変わってきた。

「北条様の軍隊は、いままでの茶々丸の軍勢とは違う」と信じはじめたのだ。

伊豆地方全体にこの噂が流れた。

やがて、「北条様は、われわれ民衆に温かい政治を行ってくださる」という評判が立った。

北条家は五代続く。

後北条氏と呼ばれる最後の当主は豊臣秀吉によって滅ぼされる。

北条氏の旧領地は徳川家康が治めるようになった。

が、旧北条系の土地に住む人々は、なかなか徳川家康に懐かなかった。

それほど北条氏の政治は行き届いていた。

そのルーツは早雲にあった。

そしてその早雲の、「一人の能力だけでは何もできない。

多くの仲間が集まって、その能力の相乗効果をはかるときに、はじめて目標が達成できる」というやり方にあった。

これは、当時の空気を如実に反映している。

つまり、織田信長も同じだったが、「戦国時代を生き抜くには、個人の力だけではどうにもならない。

仕事は組織で行うものだ。

そして組織人は、チームワークを重んじなければならない。

個々の能力を自己啓発して、さらに他の能力と相乗効果を起こすような努力が必要だ」という考え方を、積極的に実行した結果である。

かれらは、浪人の身でありながら、「一国一城」だけでなく、さらに多くの城と国を手にした。

しかし、それ

は私欲を満たすためにそうしたのではない。

「自分たちが理想としてもっている志を、実際の政治で実現してみたい」という動機があった。

私有財産を増やそうなどという仲間は一人もいなかった。

その気持ちが、治められる民衆の心にも通じたのである。

北条早雲の志は高く、約百年後まで保たれた。

五代目で滅びたのは、最後の当主に早雲がもっていた志が薄く、あるいは、「民のためでなく、自分のため」という気持ちが強まっていたためかもしれない。

第二節挫折を生かす不幸な経験をその後に生かす道リーダーに限らないが、人間の生き方にはいろいろある。

その中で、「個人的な挫折経験」あるいは、「不幸な経験」をもった人が、その後どう生きるかは二つに分かれる。

●一つは、その経験を後生大事にし、生きるバネの一つにする。

しかし、それはその経験がどこか不条理であるという前提のもとに、その不条理に対する怒りや憤懣から固有の条件とし、さらに社会への対抗条件として世の中に対し、報復や仕返しをくわだてる生き方である。

●もう一つは逆に、「自分の不幸な経験を他人に味わわせてはならない。

不幸な経験者だからといって、それを社会への対抗要件に使うのは間違っている。

むしろ、何もなかったように他人に対するサービス精神をもつべきだ」という生き方だ。

前者は、暗い。

同時に常にひがみ、恨みなどをもつ。

いわゆる怨念をもちつづけて生きていく。

これはこれで、その人間を生かす一つのバネになっている。

たしかに個人が経験する挫折や不幸の中には、「本人に原因がない場合」もある。

これが〝不条理〟だ。

したがって、理由のない不幸を押しつけられた経験者は、怒りをもつのも当然だろう。

しかし、だからといって、それをそのまま社会に報復という形で投げ返すのが果たして正しいかどうかは疑問がある。

もう一つの考え方は、太宰治的な生き方だ。

太宰は常にいった。

「私は何よりも人を喜ばせるのが好きだ」しかし、太宰はテレ屋だった。

〝人を喜ばせる〟などということをストレートには行えない。

そのために太宰は、道化者という方法を案出した。

ピエロになって、他人へのサービス精神を発揮しつづけて生きていくという方法だ。

しかし天性のネアカではない。

幼少年時代から、やはり不幸を経験している。

感情が鋭敏すぎて、いつも「相手の立場に立って」生きるからだ。

暗い思いに踏みにじられて育った。

しかし、それを社会への対抗要件として仕返しをしようなどとは思わない。

むしろ自分が体験した不幸を逆に隠して、「自分は子どものときから明るく育ってきた」というような態度をとりつづける。

これも前者と同様に複雑な心理なのだが、こういう人は世の中にたくさんいる。

分類すれば、●世の中に対して、私憤、私情、私欲をもって生き抜く。

●公憤、公心、公欲をもって生き抜く。

という違いになる。

職場でリーダーがこの私と公をきちんと使い分けないと、部下はすぐ見抜く。

たとえば、「叱る」は公心による部下への愛情の表明であり、「怒る」というのは、私心による部下への仕返しである。

報復、仕返しされた部下は、(このリーダーは自分に対して私情を叩きつけている。

不条理だ)と感ずる。

そうなると両者の人間関係は破壊されて、なかなか修復できない。

前田利家は戦国時代の武将である。

織田信長の家臣だった。

若いときから信長に愛され、母衣衆をつとめていた。

母衣衆というのは戦場における連絡将校だ。

大将の指示命令を現場に伝える。

逆に現場の希望や要求を大将に伝える。

全体の状況を把握していなければつとまらない役目だ。

知能が鋭く、また人情の機微に達していなければならない。

とくに織田信長は短気な大将だから、自分はいつも馬で走りつづけ、徒歩の部下に対しても、「俺についてこい!」とばかりに全力疾走する。

部下のほうは自分の足で駆け出すのだから息が切れる。

しまいにはへたばってしまう。

すると信長は怒る。

こういう状況を踏まえていて、いかに調整するかが母衣衆たちの苦心だった。

不条理にも織田信長に追放された前田利家織田信長は旧価値観の破壊者だった。

その一つに〝一所懸命の思想〟がある。

一所懸命というのは文字どおり、「ひとつところに命をかける」という思想だ。

ひとつところというのは土地だ。

土地に対して至上の価値観をおく日本人の考え方である。

ところが信長は、「土地を大事に思うのはいい。

しかし、それにしがみつく精神をもったら、新しいことは何もできない」といった。

信長は流動精神を重んじた。

彼は中世の価値観が嫌いだった。

呪い、迷信、しきたりなどはいっさい、かれの人生観にはなかった。

だから、彼ほど拠点を次から次へと移した戦国武将はいない。

その信長がまだ尾張(愛知県)の清洲城にいた頃の話である。

信長が可愛がっている茶坊主がいた。

ところがこの茶坊主が性悪で、自分におべっかを使う者に対しては信長に褒め言葉を告げ、自分に悪意をもつ者に対しては悪口をいった。

信長は優れたトップだったから、この茶坊主のいうことによって人事異動を行うことはなかったが、左遷された者の中にはそう考える者もいた。

「あの茶坊主に敵意をもったために、俺は飛ばされたのだ」この噂が次々と流れた。

これをきいて怒ったのが前田利家だった。

信長が行う人事異動は常に意表をついていたから、出世する者だけではない。

左遷される者もいる。

左遷された者は、信長を恨むよりもその前に、「あの茶坊主の野郎がよけいなことをいったに違いない。

俺はあいつに敵意を示してきたから、信長様に悪口をいって俺を飛ばさせたのだ」と思う。

こういう連中が増えた。

前田利家はひそかに心に決めた。

(あの茶坊主を除こう)と。

やがてその前田利家のことを、茶坊主が信長にあしざまに告げているという噂が耳に入った。

(これであいつを除く口実ができた)と、前田利家はほくそえんだ。

ある日、利家は清洲城に行って、道の途中で茶坊主に会った。

利家は茶坊主を呼び止めた。

「おい、おまえはこの頃、俺の悪口をいっているそうだな?」茶坊主は真っ青になって飛びのいた。

声を震わせ、「そんなことはございません」と言い訳した。

が、利家は茶坊主を追いつめて、いきなり刀を抜いて惨殺した。

まわりにいた連中は、「前田殿、よくやってくれた!」と拍手した。

利家は得意になった。

自分でもいいことをしたと思った。

この光景を櫓の上から信長はじっと見ていた。

そして激怒した。

「利家はいきなりあの茶坊主を切り殺した。

とんでもない奴だ。

切腹させろ」と、脇にいた重役に告げた。

重役は驚いた。

重役もあの殺された茶坊主が、自分におべっかを使う者は信長にいいことを告げ、敵意を示す者は悪口をいっていることを知っていた。

そこでおそるおそる、「前田がやったことは、必ずしも悪いことではないと思いますが」とかばった。

すると、信長はいよいよ怒り出した。

「それは違うぞ。

利家は許せない。

腹を切らせろ」あくまでも腹を切らせろといって承知しない。

重役たちは一所懸命、利家のために言葉を尽くし、信長をなだめた。

信長はようやく、「それではあいつを追放しろ」ということで我慢した。

こうして前田利家は追放された。

不遇なときにこそわかる真の仲間前田利家にすれば、これは不条理な扱いである。

かれには信長の怒りの理由がわからなかったが、こう考えてみた。

(信長様がもしほんとうに俺に対して怒っておられるなら、信長様は暗君だ。

あの茶坊主が、性が悪く自分におべっかを使う者は褒めたたえ、自分に敵意を示す者に対しては信長様にしきりに悪口を告げたことはだれでも知っている。

いってみれば、あいつは君側の奸だ。

それを除いたのだから、俺は本来忠臣のはずだ。

それがおわかりにならないのなら、信長様は俺の仕える主人ではない。

信長様が俺を追放したのではない。

俺のほうが主人としての信長様を追放したのだ)突っぱりまわったから、こう考えた。

しかし、さびしかった。

このときの経験を、前田利家は後にこう語っている。

「俺が信長様から追放されると、いろいろな人間が訪ねてきた。

しかし、訪ねてきた人間は、すべてが俺のことを心配していたわけではない。

訪ねてきた人間を分けると、次のようになるだろう」(『名将言行録』)そう前置きをして利家は、自分への訪問者を次のように分類した。

●不遇生活に陥った自分をあざ笑うために、からかい半分で訪ねてきた者。

●おそらくこんな目にあって、信長様に恨みを抱いているだろう。

その事実を確かめて、信長様に告げ口をしてやろうと考えて訪ねてきた者。

●前々からこういうことが起こらないようにと注意してきたはずなのに、だからいわないことではないと、自分の先見性を誇りにきた者。

しかし、先見性を誇るだけであって、俺のために信長様にとりなしをしてやろうなどという気はまったくない。

●本心で俺のことを心配し、機会を見て信長様にとりなそうとしてくれた者。

現在でもこれは同じだろう。

前田利家の分析は鋭い。

利家が最後に掲げた、「折を見て、俺のためにとりなしをしてくれようとしてくれた者」として、彼は蒲生氏郷と浅野長政の名をあげている。

蒲生氏郷は織田信長の婿であり、戦国きっての部下思いの大名だといわれた人物だ。

浅野長政は豊臣秀吉の親戚で、実直な大名だった。

この二人だけが、追放された前田利家の身になって、利家の苦悩を自分の苦悩として考えてくれた。

言葉を換えれば、「自分の傷の痛みがわかるから、他人の傷の痛みもわかる」という、いわば痛みを共感するソフトな気持ちをもっていた人物であった。

若いときに織田信長に追放された経験は、その後、前田利家にとって肥料になった。

つまり、自分が正しいと思っても、必ずしも世の中はその正しさをモノサシにして運行されないということである。

これが〝不条理〟だ。

しかし、この不条理も信長という最高権力者によって行われるときは、文句がいえない。

いくら前田利家が、「俺が正しい。

信長様のほうが間違っている」とわめいたところで、信長のほうが反省しなければ、利家の罪は許されない。

そういう状態がずっと続いた。

利家は頑固だった。

信長も頑固だった。

信長は、「前田利家が自分の罪を悔いて、謝罪してこなければ絶対に許さない」と告げていた。

世の中には自分が正しくても通用しない場合があることを知る怒っている信長に対抗して、前田利家も、「俺が正しいことをしたのに、信長様はお認めにならない。

暗君だ」という。

これが訪問者たちに漏れた。

訪問者たちは利家が分析したように、必ずしも利家に好意をもって近づいてきた者ばかりではない。

「前田はさぞかし信長様を恨んでいるだろう。

そのことをきき出して、信長様に告げ口をしてやろう」という暗い魂胆をもって訪れてくる者もいる。

こういう連中は、利家が信長のことをののしると、胸の中でニタリとほくそえんだ。

求めたものが得られたからである。

さっそく帰って、信長にこのことを報告する。

信長はいよいよいきりたつ。

「前田の奴はとんでもない奴だ!絶対にあいつは二度と使わない」とわめく。

利家はしだいに疲れ果ててきた。

神経がまいった。

こういう状況を見ていて、蒲生氏郷や浅野長政など利家のことを本気で心配する連中は忠告した。

「長いものには巻かれろという。

とにかく信長様のところに戻りたければ、ある程度信長様の考え方を承認せざるを得ない。

たとえそれが理不尽であろうと不条理であろうと、やはり信長様は最高の権力者だ。

おまえの人事権はいっさい信長様の手にある。

もう一度織田家に戻りたければ、やはりそれを認めないわけにはいかない。

俺たちがいくらとりなしても、おまえがすぐそばから信長様の悪口をいっているようでは、どうにもならない。

少しは慎め」そう告げた。

利家もついに降参した。

「俺は織田家に戻りたい。

なんとかとりなしてくれ」そこで二人は、こんなことを考え出した。

「信長様が合戦に出かけるときに、ひそかにお供をして手柄を立てろ」ということである。

この作戦には根気がいる。

つまりどんなに手柄を立てても、それを堂々と信長の前に行って告げるわけにはいかない。

チラリチラリと戦場に出没しては、「私も参加しております。

今日はこんな手柄を立てました」ということを、さりげなく表明するよりほかに方法がないのだ。

うまく信長が発見してくれればいいが、発見してくれなければ、無駄働きに終わってしまう。

蒲生と浅野は、「それを覚悟でやれ」と助言した。

前田利家にとって、はじめて根気のいる苦労が訪れた。

しかし、利家は耐えた。

(これをくぐり抜ければ、俺も違った人間に変われるかもしれない)と思ったからである。

自己変革だ。

前田利家は深い傷を負った。

それは、「世の中には、どんなに自分が正しくてもそれが通用しない場合がある」という、〝不条理の存在〟をはっきり認識したことである。

これは肌身に沁みた。

部下の傷の痛みがわかるリーダーたれ後年の話だが、こんな話がある。

前田利家は死ぬ直前、経理担当の武士を呼んで、「いままで裏金をつくるために使った書類を全部持ってこい」といった。

経理担当の武士はびっくりした。

いままで自分が苦労した書類づくりを咎められるかと思ったのである。

ところが違った。

前田利家は武士が持ってきた書類を二つに分けた。

そして、一方の書類には全部名を書き印鑑を押した。

一方の書類はまとめると、その場で全部焼き捨てた。

びっくりした経理担当の武士は、「なぜそのようなことをなさいますか?」ときいた。

利家はこう答えた。

「判を押した書類は、このままで金の支出が可能だと思う。

私が死んだ後も絶対に文句はいわれないはずだ。

しかし、焼き捨てた書類は、この内容ではだめだ。

必ず問題を起こす。

だから証拠は残さないように焼き捨ててしまったのだ」そう告げて利家は、担当の武士をじっと見てこういった。

「権力者が死んだ後、必ず後で起こるのが政治的争いだ。

人事権や財政権をめぐっていろいろと問題が起こる。

そのとき、争いの中で利用されるのが、前任者の金の不正な扱い方だ。

それがどういう方法で支出されたかが必ず問題にされる。

そして追及されるのは書類だけではない。

それをつくった当人がねらわれる。

私が死んだ後、真っ先にねらわれるのがおまえだ。

せっかく私のためにいろいろと苦労したのにもかかわらず、その苦労が報われない。

努力が全部水の泡となる。

それだけではなく犯罪者として扱われる。

こんなばかな話はない。

私はおまえにそんな目にあわせたくはない。

おまえのことは後任者に十分頼んでいく。

しかし、こういう書類を残しておくと、やはり政治的争いの過程で問題にされる。

だから、残しておいても心配のない書類には判を押し、残しておくと不利になるものを焼き捨ててしまったのだ。

わかるか?」担当武士はそこまで自分のことを考えてくれる前田利家の温情に涙を浮かべて平伏したまま、肩を震わせて額を畳にすりつけっぱなしだった。

前田利家にとっては、若いときの挫折経験は忘れることができなかった。

それはかれが、「自分がどんなに正しいと思っても、それが通用しない場合がある」という、この世における〝不条理の存在〟である。

(残す部下をそういう目にあわせてはならない)と、利家は考えた。

とくに経理担当の武士にはいろいろと外にいえない秘密がある。

秘密で書類をつくり、金を支出してきた。

それによって主人の交際費などを調達した。

そういう努力をしてくれたにもかかわらず、それが逆に仇になって後で咎められるようなことがあってはならない、というのが利家の考えであった。

利家のこういう考え方は、「自分の傷は痛い。

だから他人の傷の痛みがわかる」という心情をもっている者でなければ理解できない。

傷はすべて部下によってかばわれ、守り抜いてもらっているような甘いリーダーでは、こういう気持ちはもてない。

前田利家は、「自分が不幸な経験をもったから、世の中に仕返しをしてやろう」、ましてや「部下につらくあたってやろう」とは思わなかった。

むしろ逆に、「傷の痛みを知った自分は、部下の傷の痛みも共有しなければならない。

というよりも、部下が傷を負わされないようにトップが守らなければならない」と考えた。

だからこそ、死後、権力争いでもっとも問題になるような、いわば不正支出の書類を、全部自分の手で焼き捨ててしまったのである。

この経理担当武士は、利家が死んだ後も失脚することはなかった。

むしろ、利家の遺言で重く用いられた。

そのことを思い出すたびに、この武士は死んだ利家に感謝し、「温かい主人だった」と偲んだ。

第三節自分をコントロールする松平定信を退けた田沼意次の陰謀徳川吉宗は、紀州和歌山から江戸城に入って将軍になった人物だ。

将軍になるときに尾張徳川家とすさまじい争いをした。

これは徳川幕府を始めた徳川家康が、「徳川本家に相続人が絶えたときは、予備軍として分家がよく相談をして、候補者を決めるように」と告げ、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家のいわゆる「御三家」をつくったことにその原因がある。

吉宗は懲りた。

そこでかれは、「これからの将軍は、すべて自分の子孫がなるようにしよう」と考えた。

そこで自分の時代に田安家と一橋家を、息子・家重(九代将軍)のときに清水家の三分家をつくった。

これを御三家に対し、「御三卿」と呼んだ。

吉宗は英明な将軍だったが、息子の家重は暗愚といわれていた。

そのために吉宗の補佐役だった老中・松平乗邑は、「思いきって家重様の代わりに、田安宗武様をあなたのご相続人になさったらいかがでしょうか」といった。

宗武は家重の弟だが、当時から、「宗武様ほど優秀な少年はいない」という噂でもちきりだった。

しかし吉宗は、「そんなことをしたら筋が立たない」といって、「家重がたとえ暗愚でも、そのためにおまえたち補佐役がいるのではないか」と叱った。

松平乗邑はこの意見によって吉宗の不興をこうむり、遠ざけられたという。

松平定信は、その優秀な田安宗武の息子である。

吉宗の孫にあたる。

吉宗も定信が優秀な少年であることはよく知っていた。

世間では、「田安定信様はやがて将軍におなりになるのではないか」という噂を立てた。

吉宗が死んだ後、この評判をもっとも気にしていたのが、一橋家の当主・治済である。

治済は徳川本家に相続人が絶えたときは、自分の子・家斉を将軍にしたいと思っていた。

しかし、家斉と田安定信とを比べてみると、どうも定信のほうが優秀だ。

「放っておくと、定信が将軍になってしまう」と心配した治済は悪だくみをした。

当時の老中筆頭は田沼意次である。

吉宗の積極政策を取り入れて、落ち込んでいた経済をしきりに盛り上げていた。

意次は汚れた政治家といわれたが、しかし、経済政策には見るべきものがあって、産業を興し、日本各地を活性化し、商人をある程度大事にした。

いままでの幕府の政策は、「農業第一主義」であったものを、意次は、「産業第一主義」に変えたのである。

したがって、融通のきく人物で、ある程度の不正、あるいは汚れた行いなども目をつぶっていた。

いってみれば、「話のわかる老中」だった。

一橋治済は、この田沼に目をつけた。

そこでしばしば密会をし、「自分のほうからは田沼の不利になるようなことはしない。

もし、ほかから密告されて不利になるようなことが起こったら、自分が救ってやる」ということを条件に、優秀だといわれている田安定信を奥州白河(福島県白河市)の松平家の養子に押し込んでしまった。

田安家では、「そんなことをされては困る。

定信はうちの相続人だ」と抵抗したが、まじめ一方の田安家では、政治政略に長けた一橋治済と田沼意次の共同戦線にはかなわなかった。

結局、定信は松平家に入り、松平定信と名を変えた。

徳川家斉が仇敵を老中筆頭にした理由奥州白河の松平家に入った定信は、いままで世間から、「定信様はきっと次の将軍におなりになる」といわれていたことなどまったく知らん顔で、白河の政治に精を出した。

かれはとくに老人を大切にし、毎月、日を決めて城下町の老人たちに、「城に来て、いろいろ参考になる意見をきかせてほしい」と告げた。

老人たちは先を争って城にやってきた。

定信は、こういった。

「足の悪い人は杖をついたまま城に入ってください。

また、身体が弱くて歩くのが不自由な老人は、駕籠のまま庭まで入って結構だ」これが町の好評を博した。

「今度の殿様は若いけれど、年寄り思いで非常に温かいお方だ」といわれた。

しかし、若者たちは警戒した。

(うちの年寄りは、お城に上がって俺たちのことを、あることないこといいつけているのではなかろうか?)と思ったからである。

そのため、定信が毎月、日を決めて年寄りを城に呼ぶことが知れわたると、若い連中の年寄りに対する態度が改まった。

みんな年寄りを大切にするようになったのである。

定信は、「結構なことだ」と喜んだ。

定信の政治は非常にきれいで、いまでいう政財界の癒着を浄化させた。

そのため、たちまち「松平定信様は名君だ」という評判が立った。

この噂をきいたのが江戸の市民である。

江戸の市民はこんな落首を詠んだ。

田や沼やよごれた御代をあらためてきよくすむる白河の水(白河の松平定信様、あなたの政治は白河のせせらぎのように、たいへんきれいなものだとうかがっております。

ところが、いま江戸城で日本の政治をとる田沼意次は、ワイロが大好きで汚れております。

ああいう人をわれわれの代表だと思うのは、なんとも我慢できません。

どうかあなたが田沼を追放して、江戸城にきて老中になり、白河のせせらぎのようにきれいな政治を行ってください)この世論は意外と力を示した。

田沼意次は将軍によって追放された。

このときの将軍が、一橋治済の息子・家斉である。

第十一代になる。

将軍・家斉は白河藩主の松平定信を招いて、「あなたが田沼に代わって国の政治を行うように」と告げ、老中の筆頭に任命した。

松平定信にすれば感慨無量である。

家斉に頭を下げながらも、(場合によっては、立場が変わっていたはずだ。

私が向こう側に座り、家斉様がこちら側にいたかもしれない。

運命というのはわからない)と思った。

家斉の父・一橋治済は警戒した。

息子の家斉に、「定信を老中の筆頭にしていいのか?あいつは、われわれがおまえを将軍にするために田安家から追い出した男だぞ。

老中筆頭になって実権を握れば、おまえをないがしろにするような政治を行うかもしれない。

用心しろ」といった。

しかし、家斉は微笑んでこう応じた。

「もし定信にそういう気持ちがあるのなら、白河においておくよりも江戸城においたほうが安全でございましょう」息子の答えをきいて、治済はあきれた。

「なるほど。

そういう魂胆だったのか。

おまえのほうが一枚上手だ」と、息子のもくろみに感心した。

こういう父子だから、定信は江戸城に来て老中筆頭になったからといって、決して安心するわけにはいかなかった。

ポストについている人間を再試験する効用この時代は徳川幕府がふたたび財政難に陥り、大規模な改革(いまでいえばリストラ)が求められていた。

田沼の放漫財政の尻ぬぐいをしなければならなかったのである。

田沼の経済政策はある程度成功したが、その末期になって自然災害がしきりに起こった。

そのための補償費がかさんで、徳川幕府の財政は、いっきょに大赤字に落ち込んでしまったのである。

だから松平定信が老中筆頭として期待されるのは、まず「徳川幕府の財政の再建」にあった。

しかし、世間ではそんな見方はしなかった。

定信が財政再建に示す手腕よりも、「将軍・家斉様にどういう仕え方をするか」という関心でいっぱいだった。

世間も長屋の八さん熊さんに至るまで、一橋治済と田沼意次の悪だくみによって、優秀な田安定信が奥州の松平家の養子に押し込まれたことを知っていた。

だから、「白河の松平定信様、早く江戸城に来て清い政治を行ってください」という世論の裏には、「定信様は将軍・家斉様にどういう態度をおとりになるだろうか」という野次馬根性の関心もおおいにあったのである。

一言でいえば、●定信は、将軍・家斉に仕返しをするだろうか。

●それとも定信は、将軍・家斉にまめまめしく忠義を尽くすだろうか。

このどっちを取るだろうかという見方が江戸中に満ちあふれていた。

老中となって江戸城に入った松平定信は、まず「学問吟味」ということを行った。

これは江戸城で仕事をする徳川家の直臣である〝直参〟と呼ばれる武士たちに、もう一度試験を行うということである。

いまでいえば、入社試験がすんだ後、何年かたってそれぞれのポストについている社員に対し、もう一度試験を行うということだ。

定信が求めたのは、●いまついているポストに見合うだけの知識と技術をもっているかどうか。

●国民に対する愛情をもっているかどうか。

などである。

定信は学識が深かったが、しかし、その学問はあくまでも儒学である。

儒学が求めるものは、「民に対する愛」「民に対する徳」などである。

それを学科試験によって確かめようとしたのだ。

かれの祖父である八代将軍・徳川吉宗は、紀州和歌山城から江戸城に入ったとき、いままでの組織や人事に手をつけなかった。

吉宗は、「先代の将軍たちが使ってきた組織と人事をそのまま自分も使う」と宣言した。

よく政変が起こると、新しいトップは人事をがらりと変えてしまう。

ときには組織までいじる。

そして自分の腹心で身のまわりを固め、枢要なポストは全部そういう連中で占めさせる。

吉宗はそんなことはしなかった。

かれはいままでどおりの組織と人事を活用した。

ただ、かれがやったことに二つの遠まわしな締めつけがあった。

それは、●老中たちに対し、口頭試験を行ったこと。

●お庭番という監視役を新しく設けたことと、目安箱という国民の声を直接きくシステムをつくり出したこと。

老中の口頭試験というのは、それぞれの担当の仕事をきいて、「その内容について数字をもってくわしく示してほしい」ということであった。

老中のほとんどが満足に答えられなかった。

しかし、この口頭試験によって老中たちは反省した。

●今度の将軍様はきびしい。

●ボヤボヤしていると、ついていけない。

●現在の財政難の責任の大半は、われわれ老中にある。

吉宗の口頭試験は、そういう事実を老中たち自らが認識することを求めているのだと悟った。

「ここで思いきった自己改革をしなければ、この将軍にはついていけない」ということを老中たちは心の底から悟ったのである。

町奉行から将軍まで指導した松平定信江戸城に入った定信がまず実行したのが、江戸城につとめる役人たちの綱紀粛正であった。

田沼時代の政策は、「重商主義」であったので、商人のはびこり方がひどく、これが役人と結託して下々を苦しめた。

しかし一方では、田沼の政治は、いまでいえば積極経済であったので景気はよかった。

そのため、とくに江戸では、市民生活も侍の生活も贅沢になり、精神は遊堕に流れていた。

松平定信は、「ぜい肉を落として、本来の正しい姿に戻そう」と考えた。

そこで江戸城の役人たちに「学問吟味」を行った。

これは、いまついているポストに必要な知識と技術について十分なたくわえがあるかどうか、ということを試験(吟味)する試みである。

また、かれは仕事のやり方も変えた。

たとえば、この時代の幕府トップ層は、いろいろな文書を出すときに、ほとんど自分では書かない。

祐筆という役人がいて、これに口述筆記する。

そのため重役たちは祐筆にお世辞を使う。

祐筆がヘソを曲げて、わざと文意を曲げたり字を間違えたりすれば、口述筆記した当人が笑われるからだ。

そのために重役たちは祐筆に対し、「よろしく頼むよ」といい、ときどきは酒を飲ませたり、あるいは金をつかませたりした。

めずらしい品物が手に入ればこれも与えた。

いきおい祐筆たちの鼻が高くなっていた。

松平定信は従来の重役のようなことはしなかった。

定信は祐筆たちにこういった。

「おまえたちの書く文章が法令となり、あるいは通達になる。

文意を取り違えたり、あるいは字を間違えたりすれば、徳川幕府が笑われるのだ。

そういうことのないように心して書け。

そのためには、常に暇さえあれば字引を引き、また古い事柄を調べることが大切だ。

字を書くときだけがおまえたちの仕事ではない。

ふだんの蓄積が大事である」まるで叱りつけるような態度だった。

控え室に戻った祐筆たちは、「今度のご老中は怖いぞ、お互いにボヤボヤしてはいられない」と戒めあった。

綱紀粛正の一つとして、定信はある日、町奉行たちを呼んだ。

当時の町奉行は一人ではなく複数になっていた。

町奉行を呼んだのは、「町奉行は江戸の富裕な商人と結託してワイロをもらい、商人たちに都合のいいことをさせている」という噂をきいたからであった。

この日、定信は部屋に一個のダルマを用意していた。

町奉行たちがやってきた。

部屋の中央にあるダルマを見て、思わず顔を見合わせたが、「町奉行、参りました」と定信にお辞儀をした。

定信はニコニコ笑いながら、こうきいた。

「いつもご苦労である。

今日はつまらぬ噂をきいたので、それを確かめるために来てもらった。

噂というのはほかでもない。

おまえたちが江戸の裕福な商人たちからワイロをもらっているという投書があった。

この点はどうか?」町奉行たちは思わずハッとしたが、もともと「ご老中のご用はどうせワイロのことだろう」と思っていたので、表情も変えなかった。

たまたま目の前にダルマがあったので、町奉行の一人がいった。

「私ども町奉行はそのダルマと同じでございます。

正しいことに対しては、どんなに突き飛ばされようと必ず起き上がります」と答えた。

脇にいたほかの町奉行たちもニコリと笑った。

「同じでございます」といった。

定信はそうかといってうなずき、懐から小判を出してダルマの頭にしばりつけた。

そしてダルマを転がした。

ダルマは小判の重みで起き上がれない。

定信はじっと町奉行たちを見つめた。

町奉行たちは青くなった。

定信がダルマに小判を結びつけたいたずらの意味がよくわかったからである。

「おそれいりました。

間違ってもワイロは受け取らぬようにいたします」と、みんな平伏した。

定信は、「わかってくれればいい」と、それ以上は咎めなかった。

こういうように江戸城内の役人の綱紀を次々と粛正した後、定信は今度は肝心の将軍・家斉の指導に取りかかった。

与えられた役割に徹することで自分を生かす徳川家斉は後に文化・文政の豪華絢爛たる時代を出現させる。

そのため、「家斉将軍は徳川将軍の中でも一番贅沢な人だった」といわれる。

その例として、四十五人の愛人に五十一人の子どもを産ませたことなどが例にあげられる。

しかし、松平定信を老中筆頭に任命した頃の家斉は政治熱心だった。

家斉自身には、父の治済のように定信を敵視するような気持ちはまったくない。

「松平定信は清潔で優秀な人物だ。

ぜひ自分を補佐してもらいたい」とまじめに考えていた。

だから何事につけても、「松平、これはどうしたらいいだろうか?」ときいた。

このときの定信の考え方が、ふつうの家来とは違っていた。

というのは、定信自身が世間から、「宿敵である家斉様の老中をつとめる定信様は、いったいどのような態度で家斉様に接するだろうか」という数多くの目が、かれを凝視していたからである。

ヘタなことをすれば、すぐ何かいわれる。

そこで定信は、本来なら自分で判断し、決断して決裁していいようなことも、すべて家斉のほうへ持っていった。

決裁する前に、「上様(将軍のこと)、こういう案件が出てまいりましたがいかがいたしましょうか?」ときくようにしていたのである。

その意味では、家斉と定信の関係は、いまでいえば「意思疎通」が非常にうまくいっていたといっていい。

コミュニケーションの回路が太くつながっていたのである。

江戸幕府の運営は、老中という最高職の集団指導、すなわち合議制によって運営されていた。

どんな問題でもこの会議に出され、「どう対応すべきか」ということを、老中たちがそれぞれ自分の意見を出して話し合う。

これは徳川家康が始めた「年寄制度」が発展したものである。

老中の昔の名は〝年寄〟といった。

家康は、日本の農村社会における村の経営に注目し、「庄屋は地域の指導者だ」と考えた。

そこで家康が徳川幕府の初期に導入したのが、「庄屋仕立」と呼ばれたものである。

つまり家康にすれば、「村落共同体の庄屋たちは、共同体の問題をそれぞれに話し合って決めている。

庄屋は地域の行政官だ」と考えていた。

これは家康の、「権限の集中化を予防する」という考えに立つものだ。

が、合議制によってことを進めるということは、家康にすれば、「年寄たちの相談によって政策を決定してよい」ということである。

が、定信はこの老中会議ではものごとをいっさい決めなかった。

最初に必ず、「上様におうかがいしてくる」といった。

老中たちは顔を見合わせる。

「松平殿は英明な方だとうかがっていたが、何もかも上様にご相談になる。

ご自身でのご判断はないのか?」と疑問をもった。

ところが定信にすれば、「たしかに自分には権限が与えられている。

しかし、それを乱用してどんどんことを決めてしまえば、上様の存在が薄くなる。

同時に、松平定信は現将軍に含むところがあるので、何事も相談しないで勝手に決めているといわれる。

それはいいことではない」と考えていた。

もう一つは、いまでいう〝帝王教育〟を家斉にほどこそうと考えていたためだ。

定信には家斉に対して含むところは何もない。

「徳川本家の臣下として現将軍に忠節の限りを尽くす」と考えていた。

それには、「日本国政の頂点にいる将軍として、はずかしくない人物になっていただこう」という思いもあった。

だから、下から上がってきた問題はどんな細かいことでも必ず、まず家斉のところに行って、「こういう問題が上がってまいりました。

いかがお考えでございますか?」と家斉にあずける。

家斉が即断すれば、それに対し、「しかし、そのように行いますと、こういう障害が起こってまいりますが?」と押し返す。

そこで家斉が、「ではこうしたらどうだろうか?」というと、定信はさらに、「前よりも結構な案ではございますが、こういう支障も起こると考えられます」と再考をうながす。

家斉は困ってしまう。

「私にはこれ以上の知恵はない。

定信ならどうするか?」と悲鳴を上げる。

定信は容赦しない。

「では今晩一晩お考えあそばせ。

明朝うかがいましょう」と突き放す。

家斉は、「こんなむずかしい問題をあずけられたら、夜寝ることもできない」とこぼす。

定信は、「おそれながら上様は、この国と国民のすべてに責任がございます。

一晩ぐらいお休みにならなくてもだいじょうぶでございます。

よく、お考えください」と、問題をあずけて、さっさと自分の部屋に戻ってしまう。

これが効いた。

家斉はしだいに自分で判断するクセをつけていった。

いってみれば松平定信は、こういう方法によって家斉に、「ヒントだけはさしあげます。

しかし、結論はご自身でお出しください。

それがトップのお役目です」という帝王教育をほどこしていったのである。

松平定信は、自らが将軍になっていたかもしれない立場だった。

しかし、そうはなれなかった自分を屈折させることなく、その役割に徹することによって名補佐役となった。

もし、将軍になれなかった恨みを抱きつづけていたら、そうはなれなかったにちがいない。

自らをコントロールして自分を生かしたのである。

本書は一九九七年五月、大和書房から刊行された『「人望力」の条件──人が集まる五つの要諦』を文庫収録にあたり副題を改題、再編集しました。

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