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第五章みなみは人の強みを生かそうとした

17みなみから、加地と協力して新しい練習メニューを作ってほしいと言われた時、文乃は初め、「そんなだいじなことを任されていいのか?」と驚いた。

次いで、少し怖くなった。

――自分に、それができるだろうか?高校からマネージャーになって、野球についてもそれほど詳しいわけではないのに、そんな大役が務まるのか?しかし同時に、それとは別の感情が、身体のうちから湧きあがってくるのを感じていた。

――そんな大きな仕事を、私に任せてくれるんだ……。

それは喜びだった。

責任ある仕事を任されたことの、嬉しさだった。

人の役に立てるかもしれないということへの、大きな期待だった。

そこで文乃は、早速加地と協力して練習メニューの作成に取りかかった。

野球部の練習をなんとか生産的なものにする。

やりがいのあるものにする。

魅力的なものにして、部員たちが進んで参加できるようにする――それが、文乃に与えられた課題だった。

そのため彼女は、この課題をクリアするためにはどういうやり方で練習メニューを作ればいいか、考えた。

その時、ヒントになったことがあった。

それは、秋の大会の試合前に、みなみが言った一言だった。

「浅野くんも、試合になるとサボりはしないのよね」秋の大会まで、野球部エースの浅野慶一郎は、練習はよくサボるけれども、試合には当たり前のように出てきていた。

また慶一郎だけではなく、それ以外の部員でも、試合をサボる者など一人もいなかった。

それは、試合がそれだけ魅力的だからなのだろう。

だとしたら、その魅力を練習にも取り入れることができないか?練習も、試合のように魅力的にすることはできないか?そのために、まずは「試合の魅力とは何か?」を分析しようと、文乃は考えた。

そこで、加地と二人で「試合にあって練習にないもの」は何か――というのを話し合った。

すると、いくつかのポイントが浮かびあがってきた。

そこで二人は、それらをもとにさらに検討を重ね、みなみや夕紀、あるいは他の部員たちにも尋ねたりしながら、最終的に、次の三つの要素に絞り込んだ。

一――競争。

試合には、他人と競争することの魅力があった。

それは、試合そのものもそうだし、攻撃や守備や走塁もそうだ。

他人と競い、争う。

そのことの緊張感や面白さが、試合にはあった。

一方、練習にはそれが少なかった。

全くないわけではなかったが、多くの場合、他人と競争するというよりは、むしろ自分との戦いという部分が大きかった。

二――結果。

試合には、「結果が出る」という魅力があった。

一打席一打席、打てたり打てなかったりという結果がすぐに出た。

試合そのものも、勝ったり負けたりという結果がはっきり出た。

それは、時に残酷でもあったが、その残酷さも含めて、白黒はっきりするところが試合の大きな魅力だった。

一方、練習は結果の見えにくいところがあった。

例えば一人でランニングをしていると、勝ち負けというものがつかなかった。

そのため、自分に力がついたかどうかはよく分からなかった。

そこが練習のもどかしいところだった。

三――責任。

試合中の選手には、大きな責任が課せられていた。

それは、慶一郎を見てきた中で、文乃が強く感じたことだった。

慶一郎が試合になると当たり前のように出てきたのには、「自分がいなければ試合は始まらない」という責任感があったからだ。

一方練習には、そういう責任を感じにくかった。

部員たちに、「おれがいなくても成り立つ」と思わせてしまうところがあった。

だから、平気でサボることができたのだ。

これが、文乃と加地が分析した、試合にあって練習にない要素だった。

これらをもとに、二人は、今度は具体的な練習方法について話し合った。

ポイントは、先に絞った三つの要素を、いかにして取り入れるかということだった。

練習を、もっと競争を楽しめ、結果がすぐに出て、責任を感じられるものにする――ということだった。

そこで文乃は、一つのアイデアを提案した。

それは「チーム制」の導入であった。

現在、野球部には、マネージャーを除くと二十名の部員がいる。

これを三つのチームに分け、互いに競わせたらどうか。

例えばランニング練習だったら、ただ走らせるのではなく、タイムを計測して比べさせる。

つまり、競争させる。

そして、結果を出す。

順位をはっきりと決める。

それも、個人だけではなく、チームとしての順位を出す。

個人のタイムが、チームの結果に反映されるようにする。

そうすることで、各自に責任を持たせる。

この「チーム制」を軸に、文乃は新しい練習方法の骨子をまとめていった。

骨子の完成後、文乃から提出されたそれを見たみなみは、心から感心した。

文乃の考えた新しい練習方法が、自分の予想をはるかに上回る素晴らしい出来映えのものだったからだ。

特に、「チーム制」のアイデアに感心させられた。

それによって、文乃たちが分析した、試合にあって練習にない三つの要素――「競争・結果・責任」を、同時に取り入れることに成功していたからだ。

さらに、そこには加地のアイデアもつけ加えられていた。

それは、この「チーム制」の練習からはピッチャーの二人――浅野慶一郎と新見大輔を外す、というものだった。

そのことについて、加地はこう説明した。

「ピッチャーというのは、野球においては特別な存在なんだ。

俗に『野球の勝敗は七割がピッチャーで決まる』と言われる。

だから、他の部員たちと一緒に練習させるよりは、あえて別メニューを課し、特別扱いした方がいいと思うんだ」そこには、二つの狙いがあった。

一つは、もともとピッチャーの練習は、他の野手とは大きく異なっていたから、特別扱いした方が、運営がスムーズになるということ。

もう一つは、その方が、慶一郎と大輔により重い責任を課せられるということだった。

特別扱いすることによって、ピッチャーであることの責任の重さを、二人に感じさせることを狙ったのだ。

そうして、チーム制の練習からは慶一郎と大輔の二人を外すことになった。

そのうえで、残りの十八人を六人ずつに分け、三つのチームに編成してスタートしたのである。

18この新しい練習方法は、初めからうまくいったわけではなかった。

最初は多くのトラブルに見舞われた。

取り組む選手たちには戸惑いがあったし、管理運営するみなみたちにも不手際や予想外のできごとがあった。

しかし、部員たちからの反発というものはほとんどなかった。

それは、秋の大会の敗戦をきっかけに、彼らに変化を求める機運が高まっていたからだ。

やる気に火をつけられ、それをぶつけられる場を求めていた。

つまり、準備ができていたのだ。

その準備ができていたところに、みなみは新しい練習方法を導入した。

だからそれは、初めはなかなかうまくいかなかったけれども、部員たちからは積極的に、むしろ好意的に受け入れられたのである。

特に、それは浅野慶一郎に顕著だった。

新しい練習方法の導入を発表した日――それは九月下旬のことだったが、監督の加地が、「ピッチャーの二人だけチーム制からは外し、別メニューで練習をさせる」ということを告げると、慶一郎の鼻が自尊心で大きくふくらむのを、みなみは見逃さなかった。

この日を境に、慶一郎の目の色はさらに変わった。

新しい練習方法の導入で、彼はますます練習にのめり込むようになった。

慶一郎はすっかり人が変わったようになった。

以前は、練習に出てきても仲間とおしゃべりばかりしていたのが、今では誰とも口を利かなくなり、一人で黙々と練習に打ち込んでいるのだった。

ほんの一月足らずで、彼は別人のようになった。

そんな慶一郎を見るにつけ、みなみは、部員たちの現実、欲求、価値に応えることの効果の大きさと、マネジメントがそれを果たすことの重要性を、より強く感じるようになった。

そのため、現状に満足することなく、今ある練習方法をさらによくしていこうと、休むことなく改善に取り組んでいった。

そして、それにはやっぱり『マネジメント』が役に立った。

『マネジメント』には、仕事を生産的なものにする方法が詳しく説明されていた。

仕事を生産的なものにするには、四つのものが必要である。

すなわち、分析である。

仕事に必要な作業と手順と道具を知らなければならない。

総合である。

作業を集めプロセスとして編成しなければならない。

管理である。

仕事のプロセスのなかに、方向づけ、質と量、基準と例外についての管理手段を組み込まなければならない。

道具である。

(六二頁)これに従って、みなみと文乃、そして加地は、チーム制練習の改善に取り組んでいった。

この頃になると、ドラッカーの『マネジメント』は、加地や文乃も共有するマネジメントチームの基本テキストとなっていた。

そのためここでも、まずは『マネジメント』の読み込みがみんなの間で行われた。

そのうえで、そこに書かれていることの一つひとつについて、解釈を話し合いながら、具体的なやり方に落とし込んでいったのである。

三人は、まずは練習方法を徹底的に「分析」した。

毎日の練習が終わるたびに、その日足りなかったものは何か、あるいは不要だったものは何かを洗い出した。

また、分析の指標の一つとして、定期的に練習試合を組むようにもなった。

そこでの結果を、成長を測るデータとして活用しようとしたのだ。

そのため、この時期を境に、程高の練習試合数は大幅に増えることになった。

次に、そこで出てきた改革案を、今のチーム制練習の中に取り込んでいった。

おかげで、練習方法は日ごとに変化し、すぐにスタート時とは大きく様変わりするようになった。

さらには、練習の運営に「管理」手段を盛り込んだ。

まず、マネジメントチームが週ごとの目標を設定し、部員たちにそれを示した。

次いで、それをもとに部員たちに練習方法を決めさせた。

そうやって、部員たちに自己管理させるようにしたのだ。

これは、ドラッカーの提唱した「自己目標管理」という考え方に従ってのものだった。

『マネジメント』にはこうあった。

自己目標管理の最大の利点は、自らの仕事ぶりをマネジメントできるようになることにある。

自己管理は強い動機づけをもたらす。

適当にこなすのではなく、最善を尽くす願望を起こさせる。

したがって自己目標管理は、たとえマネジメント全体の方向づけを図り活動の統一性を実現するうえでは必要ないとしても、自己管理を可能とするうえで必要とされる。

(一四〇頁)この「自己目標管理」の効果は絶大だった。

部員たちは、自らが練習方法を決めることで、これまで以上に強い動機づけを持ち、最善を尽くすようになったのだ。

最後は「道具」だった。

練習をもっと生産的なものにするために、ありとあらゆる道具が吟味された。

この「道具」というのは、何も野球用具に限らなかった。

それ以外のものも、役に立つものであれば大いに活用された。

その代表的なものの一つに、パソコンがあった。

みなみは、集められた膨大なデータをパソコンで管理するようにした。

また、スケジュール管理や連絡にはインターネットを用い、携帯電話も最大限駆使した。

おかげで、始めてから一ヶ月も経つ頃には、練習はすっかり軌道に乗るようになった。

みなみたちの忙しさは目も回るほどになったが、部員たちは、そこに確実に魅力を見出すようになり、いつの間にか練習をサボる生徒は一人もいなくなっていた。

それは皮肉なことだった。

練習が魅力的になったことで、あれほど導入したいと考えていた「出欠を取る」という作業が不要になったのだ。

みなみは、「働きがい」というものの重要性をあらためて認識した。

それはまるで「魔法の杖」だった。

『マネジメント』には、マネジメントは「魔法の杖ではない(三頁)」と書かれていたが、しかし「働きがい」というものは、人を動かす魔法の杖としか思えなかった。

働きがいについて、『マネジメント』にはこうあった。

働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせなければならない。

(七四頁)働きがいは、責任というものと表裏一体だった。

そこでみなみは、チーム制の練習の中に、さらに細かく「責任」を組織していくことに取り組んだ。

例えば、チームごとにリーダーを決め、それぞれの管理運営は、そのリーダーに任せるようにした。

チームに何が足りないかを考えさせ、何をすべきかを話し合わせた。

目標を決めたり練習方法を決めたりするのも、彼らに自己管理させた。

また、リーダー以外のメンバーには、それとは別の役割を与えた。

野球の練習は、主に攻撃、守備、走塁の三つに分類されるのだが、これらの担当を、それぞれ決めさせたのだ。

チームごとに攻撃担当、守備担当、走塁担当を決め、それぞれの分野において、どうやったら上達することができるのか、その成果に責任を持たせるようにしたのである。

例えば、ロードワークというランニング練習が行われていたが、この責任を走塁担当に持たせるようにした。

ロードワークは、学校の近くにある市立の大きな公園をランニングする練習である。

そこでは、部員一人ひとりのタイムを測り、その合計でチームごとの成績を競わせていたのだが、どうやったらチームの成績があがるか、各チームの走塁担当に考えさせたのだ。

この走塁担当には、各チームの最も走るのが得意な人間をあたらせた。

それは、彼らの知識や経験を、貴重な資源として生かすためである。

走るのが得意な人間は、どうやったら速く走れるかを知っている。

走ることについて、他の部員以上の知識と経験がある。

それを、チームのために生かしてもらおうとしたのだ。

『マネジメント』には、こうあった。

自らや作業者集団の職務の設計に責任を持たせることが成功するのは、彼らが唯一の専門家である分野において、彼らの知識と経験が生かされるからである。

(七五頁)

この言葉に従って、みなみは、部員一人ひとりの知識と経験を、それぞれの専門分野で生かそうとしたのである。

これは、「人を生かす」ことの一環でもあった。

部員たちは、自らの強みが生かされることによって、その役割に対する責任感をますます強めた。

走塁担当者たちは、「自分は走りが得意だから任されたのだ」と思うことによって、ますますそこに責任と働きがいを感じるようになったのだ。

みなみたちは、こうした担当を部員全員に割り振った。

そしてそれは、必ず「生産的な仕事」に結びつくよう心がけた。

そこで「自分の仕事が組織の成果に結びついている」と実感できなければ、働きがいも生まれないからだ。

また、「自分の仕事が組織の成果に結びついている」と実感させるための、情報のフィードバックも欠かさなかった。

例えばロードワークだったら、成績の推移を記録し、グラフ化して渡すようにした。

それは、チームごとの成績もそうだし、各部員についての成績もそうだった。

そうやって、成果についての情報を積極的に与えることで、彼らの責任をより明確にさせたのである。

さらには、それに付随して学習の場を設けることにした。

各チームの走塁担当を集め、どうすれば成果をあげられるか、勉強会を開かせた。

そこで各チームの走塁担当たちは、お互いライバル同士ではありながらも、どうやったら成績をあげることができるか、情報を交換し、話し合った。

また、時にはそこに加地が加わって、彼の持っている知識や経験を彼らに伝えることもした。

加地の使う言葉が専門的すぎてうまく伝わらない時には、文乃が通訳となってそれを仲介した。

野球部では、これを全ての担当において行わせた。

そのためフィードバックや勉強会など、ミーティングに割かれる時間は必然的に増えていった。

ほどなくして、週に一度はミーティングを一斉に行い、グラウンドでの練習は行わない日を設けることになった。

それはやがて月曜日に定着するようになった。

月曜日は、その週の目標を設定したり、告知したりする関係で都合がよかったからだ。

そのため月曜日は、やがてNGD(ノー・グラウンド・デイ)と呼ばれるようになった。

19秋が過ぎ、冬になった。

やがて年が明け、みなみにとって、また他の二年生たちにとっても、最後の甲子園出場のチャンスとなる夏の大会まで、あと半年を切るようになった。

この頃になると、野球部には熱気と活気がみなぎるようになっていた。

宮田夕紀を中心としたお見舞い面談は夏以降も継続され、日々変化していく部員たちの現実、欲求、価値というものを、引き続き引き出していった。

そこで得られた情報をもとに、北条文乃が中心になって作った練習メニューには改善が加えられ、日々進化していった。

おかげでそれは、かつてとは比べものにならないくらい洗練され、大きな効果をあげるようになった。

定期的に計測しているデータのいずれもが、著しい伸びを示すようになった。

また、練習試合でも徐々に成果が出るようになった。

実力の指標とするため、同じレベルの都立校と毎週対戦を組んでいたのだが、最初は勝ったり負けたりだったのが、少しずつ勝ち越すようになり、最近ではほとんど負けないようになった。

これらを受け、みなみは、マネジメントをさらに次のステップへと進ませることを決めた。

この頃になると、みなみも、野球部の実力というものを客観的に認識できるようになっていた。

その中で、「甲子園に出場する」という目標が、程高にとっていかに困難かというのも、あらためて分かるようになった。

秋の大会で負けて以降、順調に実力を伸ばしてきたとはいえ、まだまだ甲子園に出場できるレベルにはなかった。

また、この先このペースで実力を伸ばせたとしても、あと半年では、やっぱり甲子園出場レベルにまでは届きそうになかった。

それは、一言で言えば「常識外れ」だった。

考えにくいことで、非現実的だった。

だから、それを実現するためには、これまでのやり方をしていたのではだめだった。

これまでのやり方を変え、何か別の、全く新しいことを始める必要があった。

その方策を、みなみはやはり『マネジメント』に求めた。

『マネジメント』にはこうあった。

マーケティングだけでは企業としての成功はない。

静的な経済には、企業は存在しえない。

そこに存在しうるものは、手数料をもらうだけのブローカーか、何の価値も生まない投機家である。

企業が存在しうるのは、成長する経済のみである。

あるいは少なくとも、変化を当然とする経済においてのみである。

そして企業こそ、この成長と変化のための機関である。

したがって企業の第二の機能は、イノベーションすなわち新しい満足を生みだすことである。

経済的な財とサービスを供給するだけでなく、よりよく、より経済的な財とサービスを供給しなければならない。

企業そのものは、より大きくなる必要はないが、常によりよくならなければならない。

(一七~一八頁)イノベーション!これが、みなみの取り組むべき新しい課題だった。

イノベーションこそが、これまでの常識を捨て、新しい価値を打ち立てるということだった。

これまでのやり方をガラリと変え、新しい何かを始めるということだった。

しかも、イノベーションが変えるのは「野球部」ではなかった。

野球部を取り巻く、「高校野球界」の方だった。

『マネジメント』にはこうあった。

イノベーションとは、科学や技術そのものではなく価値である。

組織のなかではなく、組織の外にもたらす変化である。

イノベーションの尺度は、外の世界への影響である。

(二六六~二六七頁)イノベーションは、組織の外――つまり野球部ではなく、野球部を取り巻く「高校野球界」にもたらす変化だった。

古い常識を打ち壊し、新しい野球を創造することによって、高校野球界の常識を変えていくということだった。

みなみは、それしかないと考えていた。

――あと半年で、野球部を甲子園に出場できるレベルまで引きあげることはできない。

だとしたら、野球部を甲子園に出場させるためには、野球部ではなく、高校野球の方を変えてしまう必要がある。

そこでみなみは、どうやったら高校野球を変えることができるかを考えた。

その戦略についても、『マネジメント』にはちゃんと書かれていた。

これに対しイノベーションの戦略は、既存のものはすべて陳腐化すると仮定する。

したがって既存事業についての戦略の指針が、よりよくより多くのものであるとすれば、イノベーションについての戦略の指針は、より新しくより違ったものでなければならない。

イノベーションの戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。

イノベーションを行う組織は、昨日を守るために時間と資源を使わない。

昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる。

(二六九頁)野球部がイノベーションを実現するためには、まず、既存の高校野球は全て陳腐化すると仮定するところから始めなければならなかった。

そのうえで、高校野球の古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを、計画的かつ体系的に捨てていく必要があった。

そこでみなみは、「何を捨てるか」ということについて、専門家である加地に聞いてみようと思った。

しかしその前に、まずは彼の通訳である文乃に、高校野球の何を古いと考え、何を死につつあるものと思い、何を陳腐化したと見るか、あたってみた。

すると文乃は、それを「『送りバント』と『ボール球を打たせる投球術』ではないか」と答えた。

この頃までに、文乃は加地の右腕のような存在となっていた。

練習メニューの作成を通じ、加地と多くの時間を共有してきた彼女は、その膨大な知識と情熱を余すところなく吸収していた。

頭がよく、また飲み込みも早い彼女は、その全てを受け取って、この頃には、加地の通訳というよりは、ほとんど分身のような存在になっていた。

そのため、加地のいるところではもちろん、いないところでも、率先して加地の言葉や考えを伝えたり、時には練習を指導したりするまでになっていた。

そんな文乃が、加地が捨てるべきものと考えているのは、「送りバント」と「ボール球を打たせる投球術」だと言った。

まず「送りバント」は、打高投低が著しい現代野球にそぐわないものとなっている。

みすみすアウトを一つ取られる割には効果が薄く、しかも失敗のリスクも大きい。

また、杓子定規に送りバントをすることで、創造性が失われるのもいやだと、加地は考えていた。

送りバントという作戦は、選手や監督の考え方を硬直させ、最近では野球をつまらなくさせる一因ともなっている。

そのことが、人々の野球離れを招いていると、加地は危惧していた。

一方「ボール球を打たせる投球術」も、日本野球の悪しき慣習の一つだと、加地は考えていた。

「ボール球を打たせる投球術」とは、バッターにストライクではなくボール球を打たせようとするピッチングのことだ。

ボール球で打ち気を誘い、凡打や空振りを狙うというやり方だ。

これは、高校野球に限らず、今やプロ野球でも一つの常識となっていた。

いかにバッターを欺き、ストライクを投げずに打ち取るかというのが、ある種の美学のように語られたりもしていた。

しかしそれが、投手の伸び悩みを招いていると、加地は考えていた。

ボール球を打たせることにこだわるあまり、キレや勢いというものがおろそかにされた。

その弊害が、例えば北京オリンピックの野球競技に出た。

北京オリンピックで、相手バッターにボール球を見送られ、また際どいゾーンをボールと判定された日本投手は、なす術もなく打ち込まれた。

さらに、「ボール球を打たせる投球術」には、いたずらにゲームを長引かせたり、考え方をせせこましくさせるといった、送りバントと同様に野球をつまらなくさせる弊害もあった。

文乃は、加地のそうした考えをみなみに伝えた。

それを聞いたみなみは、今度は加地と直接話してみることにした。

文乃も同席し、いつものように空いている教室で行われたそのミーティングで、みなみはまず、こんなふうに切り出した。

「先生は、送りバントという作戦をどう思いますか?」すると加地は、勢い込んで話し始めた。

送りバントがいかに古びた戦法で、非合理的で、しかも野球をつまらなくさせているか、みなみが黙って聞いていると、加地は熱心にしゃべり続けた。

次に、「ボール球を打たせる投球術」についても尋ねると、やっぱり同じくらいの時間をかけてそれに答えた。

そのやり方がいかにピッチャーの成長を妨げ、ひ弱にし、またゲームを長引かせ、面白くないものとさせているか、延々としゃべり続けた。

加地がさんざんしゃべったその後で、みなみは、今度は話題を変えて、こんなふうに尋ねた。

「ところで、甲子園の長い歴史の中で、それまでの常識を変え、新しい価値を打ち立てることに成功した監督はいますか?」すると加地は、これについてもすぐに答えた。

「おれの知る限りだと、二人いる。

一人は、池田高校を率いた蔦文也監督で、もう一人は、取手二高を率いた木内幸男監督だ」「この二人は、どういう常識を変えたんでしょうか?」すると加地は、こう答えた。

池田高校の蔦監督は、少ない得点を守り抜くというそれまでの「守りの野球」を変えた。

一九八二年夏と一九八三年春、山彦打線を率いて連覇を果たした池田高校は、打って打って打ちまくるというスタイルで、高校野球に「攻撃野球」という新しい常識を打ち立てた。

一方、取手二高の木内監督は、それまでの「管理野球」を打ち破った。

目に見える数字だけで評価するのではなく、選手の気持ちや個性といったものを重視する、言うならば「心の野球」を打ち出した。

その結果、桑田、清原という二人の偉大な選手を擁し、高校野球史上最強と謳われたPL学園を決勝で下し、全国制覇を成し遂げた。

この二人についても、加地は長い時間をかけてしゃべった。

そして、最後にこうつけ加えた。

「この二人は、おれにとっても憧れの存在なんだ。

甲子園の歴史を振り返った時、伝説の名将としてまず名前が挙がるのが、この二人だからね」しかしみなみは、実は加地がそう思っていることを知っていた。

事前に、文乃から聞いていたからだ。

そのうえで、みなみは加地の目を真っ直ぐに見つめると、こう言った。

「だったら、先生が三人目になりませんか?」「え?」と加地は、きょとんとした顔になった。

「先生が、三人目の伝説の存在になるのです。

先生のお話、とても興味深く聞かせていただきました。

『送りバント』と『ボール球を打たせる投球術』、面白いですね。

それを捨てることによって、もしかしたら、高校野球は変わるかもしれません。

もしかしたら、高校野球にイノベーションを起こすことができるかもしれません。

先生が、伝説の名将として、後々まで語り継がれるようになるかもしれません。

だから、まずはどうやったら『送りバント』と『ボール球を打たせる投球術』を捨てることができるか、来週までにその方法を文乃と一緒に考えてきてください」それだけ告げると、さっさとその教室を後にした。

20三日後、部員全員を集めたミーティングで、加地は野球部の戦い方における新しい指針を発表した。

「ノーバント・ノーボール作戦」と名づけられたそれは、その後の野球部における最も重要なイノベーション戦略となり、また戦術の一つともなった。

時を同じくして、みなみはもう一つの取り組みにも着手した。

それは「社会の問題についての貢献」だった。

「社会の問題についての貢献」は、『マネジメント』の一番初めに書かれている「マネジメントの三つの役割」のうちの一つだった。

『マネジメント』にはこうあった。

マネジメントには、自らの組織をして社会に貢献させるうえで三つの役割がある。

それら三つの役割は、異質ではあるが同じように重要である。

自らの組織に特有の使命を果たす。

マネジメントは、組織に特有の使命、すなわちそれぞれの目的を果たすために存在する。

仕事を通じて働く人たちを生かす。

現代社会においては、組織こそ、一人ひとりの人間にとって、生計の資、社会的な地位、コミュニティとの絆を手にし、自己実現を図る手段である。

当然、働く人を生かすことが重要な意味を持つ。

自らが社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題について貢献する。

マネジメントには、自らの組織が社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題の解決に貢献する役割がある。

(九頁)このうち、とにはすでに取り組んでいたのだが、だけがまだ手つかずだった。

だから、早くから取りかかりたいとは思っていたのだが、しかしこれまで、なかなか手をつけられないでいた。

それは、他が忙しかったからというのもあるが、一番の理由は、どう手をつけたらいいかよく分からなかったからだ。

この時まで、みなみは、野球部がどう社会の問題に貢献したらいいのか、具体的な方法を見つけられずにいた。

社会の問題について貢献するにあたり、みなみはまず「社会」とは何かを考えた。

そして、広い意味ではこの世界そのものだが、一番は「学校」だろうと考えた。

野球部が所属する都立程久保高校が、野球部にとって一番身近な「社会」だと結論づけた。

そのうえで、ではどうすればその「学校」に貢献できるかということを考えた。

すると、真っ先に思いついたのは、校内清掃といった奉仕活動に従事することだった。

しかしこれは、今一つピンと来なかった。

もちろん悪くはないのだが、野球部の強みを生かせていないと思ったのだ。

マネジメントを進める中で、みなみは「人を生かす」ことの重要性、その力の大きさをまざまざと見せつけられてきた。

夕紀、文乃、慶一郎など、その例は枚挙にいとまがないが、一番顕著だったのは監督である加地誠のケースだった。

加地はこれまで、その野球に対する膨大な知識と情熱を野球部の指導に生かせないでいた。

だから、指導もおざなりで、情熱に欠けるものとなっていた。

消極的で、覇気がなく、ちっとも生き生きしていなかった。

ところが、文乃という「通訳」を得たことによって、自らの知識や情熱が組織の成果に結びつくようになったとたん、熱心に指導するようになった。

何事にも積極的に取り組み、情熱的になった。

加地自身、生き生きとするようになったのだ。

そんなふうに、学校に貢献するにしても、野球部の強みを生かせるものにしたいと、みなみは考えていた。

野球部の強みを生かし、野球部そのものが生き生きできるものにしたいと思った。

そんな折、思わぬところからアイデアを得た。

それは朽木文明だった。

部一番の俊足を誇る半面、走塁以外の成績がパッとしないことから、自分がレギュラー選手であることに疑問を感じ、部を辞めようかと悩んでいた部員だ。

その文明が、会ってほしい人がいるのだという。

聞くと、それは小島沙也香という女子生徒で、陸上部の女子キャプテンだということだった。

それを聞いて、みなみは初め、陸上部に移籍することを決めた文明が、そのことを告げに来たのかと思った。

しかし、それならなぜ女子のキャプテンが来るのかと疑問に思ったのだが、いざ沙也香に会ってみると、そういう話ではないことが分かった。

沙也香は、こんなふうに切り出してきた。

「どうして野球部のみんなは、あんなに真面目に練習するようになったの?」。

彼女は、真剣な眼差しでそう尋ねた。

「そのことをどうしても知りたくて、朽木くんに尋ねたら、あなたに聞いてみたらって言われたの」みなみは知らなかったのだが、この頃までに、野球部の変化は校内ではちょっとした話題になっていたらしい。

練習への出席率があれほど悪かったのが、今ではみんな当たり前のように出てくるようになった。

それも積極的に、むしろ楽しそうに取り組むようになった。

それが、他の部からは興味の的となっていたのだ。

沙也香は、その秘訣を聞きに来たのである。

陸上部も、以前の野球部と同様に、部員の練習への出席率の低さに悩んでいた。

そこでみなみは、これまで取り組んできたマネジメントについてのあらましを話して聞かせたのだが、その時にふと、一つのアイデアが閃いたのだ。

それは、自分たちが取り組んできたマネジメントの方法を、野球部以外にも広げてみてはどうか、というものだった。

マネジメントを通じて、他の部にも貢献する。

マネジメントによって、他の部の部員たちをも生かす。

そうすることで、社会の問題について貢献しようとしたのだ。

陸上部以外にも、マネジメントに問題を抱えている部活動は多かった。

だから、ドラッカーの『マネジメント』から得た知識と、これまでの経験を生かして、その問題解決に取り組めば、社会の問題について貢献することにつながるのではないか――そう考えたみなみは、部活動におけるマネジメントのコンサルタントを始めることにしたのだった。

するとそれは、すぐに評判となった。

コンサルティングの依頼は陸上部にとどまらず、他の部のキャプテンやマネージャーからも相次ぐようになった。

それらに対し、みなみは一つひとつ丁寧に応えていった。

そうして、彼らに成果をあげさせ、学校という社会の問題解決に貢献していったのである。

その取り組みは、いくつかの部で着実に成果をあげていった。

陸上部では、各部員に責任を分け与えることで練習への出席率をあげることに成功した。

柔道部では、チーム制練習の導入で体力測定の数値があがった。

家庭科部では、フィードバックの仕組みを構築することで部員の取り組み方が積極的になり、調理のレベルが向上した。

吹奏楽部では、各人の強みを生かす編成に変えたところ、みんなが生き生きとするようになり、演奏の質もぐっとあがった。

さらにみなみは、マネジメントを通じ、より大きな問題の解決にも取り組んだ。

それは、学校の問題児たちをマネージャーとして野球部に入部させるということだった。

程高は、偏差値が六十を超える進学校だったから、目立った不良はいなかった。

それでも、問題を起こす生徒はいて、許される範囲を超えて化粧をしたり、夜の盛り場をうろついたり、落ちこぼれて学校に来なくなったりする女子生徒たちがいた。

みなみは、そういう問題児たちに狙いを定め、野球部のマネージャーに勧誘していったのだ。

そこには、二つの狙いがあった。

一つは、マネジメントの仕事が増えるのに伴って足りなくなってきた人手を補おうとしたこと。

もう一つは、そういう生徒たちを働きがいのある仕事に就かせることで、問題を起こさなくさせようとしたのだ。

問題を起こす生徒というのは、たいてい部活動に所属していなかった。

そしてたいてい、日々の生活の中で、やりがいのある何かを見つけられずにいた。

だから、働きがいのある仕事を与えられれば、問題を起こさなくなるのではないか――そう考えたのである。

そして、彼らが問題を起こさなくなれば、それは学校への貢献にもつながると考えた。

そうしてみなみは、狙いを定めた問題児たちに次々と声をかけ、三学期が終わる頃までには、新たに三人の女子マネージャーを入部させたのである。

 

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