一 経営とは何か
ある経営者は「経営とは変化に挑戦することである」といっている。これからの企業環境がどう変わるか先見して、これに対応することが経営の要諦だということである。とすれば、変化に対応するには早く変化を先見しなければならない道理で、先見の遅速が勝敗を決するともいえるのである。
しかし、神ならぬ身の人間が先を適確に見定めることは至難の業である。うかつに先見しようとすれば怪我のもとになる。また、勇を借りて進退すれば逆流に竿さす愚にもなりかねない。そこで、もし変化を先見しなくても、確実に対応できるにはどうあるべきか。私なりに考えた。
結果は「厳しさに挑戦する」ということであった。つまり、企業環境が好転することについてはいっさい無視し、悪化する、厳しくなることだけを考えて経営にあたる、ということである。言い換えれば、不況当然、好況例外とでもいえる心構えである。つねに逆境に身をおくともいえる。さらに言い換えれば、つねに危機感を抱いた経営をするということになる。
景気好転を予想していて、もっと悪くなることがあるかもしれない。金融が緩和するといえば窮迫することもある。円安になって為替差益がでるといえば、いや、円高になって差損になることもあるという具合に、厳しいことだけを予想して経営するということである。こうした経営であれば、悪環境に対応するための厳しい経営態度が貫かれピンチに陥ることもない。好環境による収益はプラスアルファと考えればよい。
よく、ケチ会社などといわれるところがある。好況時にかかわらず節約に徹している。「易きにいて危うさを忘れず」の心を貫いているのである。ということは、同じ先見であっても、厳しさだけを先見する経営といえるのである。
次に、これも私なりに「経営とは理想に挑戦することである」とも考えてみた。
度々のべているとおり、大志あるものは、将来はこうなろう、こうしようという目的をもつものである。理想を描く。そしてそれを達成しようと努力する。大事を成した人に例外はない。
とかく、理想を掲げると、それは理想論だ、いまの現実からは考えられない、といってとり合おうとしない。しかし、人間社会で口にされている理想論はすべて実現可能なことなのである。
いま隆盛を誇るスーパー長崎屋の創立者、岩田孝八社長と対談したことがあった。
「私は湘南のある市で、戦後、かき氷屋から出発したが、将来有望な産業は小売商と考えた。小売商といえばデパートが理想だが、それだけの資金余力がない。スーパーを三百店も出せばデパートに匹敵するようになる、と考えた」
つまり″デパートに匹敵する小売店″という大きな理想を掲げたわけである。
「統制解除を待って衣類呉服を商うようになり、掛で仕入れて現金で売ることにし、その間の資金歩溜りで、将来の店舗候補地を買って店舗数を増やした」と話してくれた。現在では、当初の理想を立派に果たしている。社長の手帖は今日以後のものはあるが前日分はない。一日終れば切り捨てている。理想に向かってまっしぐら、の意気込みででもあろうか。
それにしても、仕入れた掛代金は期日に払わなければならない。売上げの停滞は許されない。滞れば不渡り倒産である。まさに背水の陣ではないが「之を死地において後に生く」(自分を絶体絶命の場に陥れて後に生きる)の離れわざである。
理想といえば、私がアメリカの、アーカンソー州の開拓計画を視察に行ったときである。一月のリトルロックは厳寒、公園の噴水も凍りついている。
開拓事務所で何人か机に向かっている。
「現在この州は全米の州のうち下から二番目の貧乏州だが将来は豊かな州になる。近くを流れている川に日本の大型商船がのぼってくるようになる。そのときは、また、ここにきてもらいたい」といっている。いまにも、ほろ馬車が走ってきそうな砂漠地帯。どう考えても、まともな話とは思われない。
「せっかく日本から来たのだから記念に、ここの土地でも買っておいてはどうか。いまなら、 一ヘクタール(約三千坪)二十ドル(当時日本円で七千二百円)で買える」ともいってくれた。
「この計画は何年先に完成するのか」ときいたら「さあ―、五十年か百年先だろう」
「それでは、皆さんの在職中は完成しないね」
「それはもちろんだ。でもわれわれの後を継いでくれる人は何人でもいるよ」
彼らの遠大な理想挑戦には、ただ唖然とするばかりであったが、いずれは完成することになる。
リトルロックからワシントン行きの飛行機に乗るとき、 一人のアメリカさんに聞かれた。
「座席が決まっている飛行機へ乗るとき、日本人は人を追い越して行くが、早く乗ると、早く着くと思っているのか」と。性急な日本人は理想を定めるにも期間は短いようである。
たいき おろそか
一一 大器は小事を疎にせず
細心の者には、空気を見る日と相手の心を読む能力がある。
「大器は小事を疎にせず」(大人物は小さいことをおろそかにしない)ということは古書によく出てくる言葉である。言志四録にも「真に大志ある者は、克く小物を勤め、真に遠慮ある者は細事を忽がせにせず」(真に大志ある者は、小さなことを粗略にせず、遠大な考えのある者は、些細なこともいい加減にはしない)とある。
細かなことにとらわれているようでは大人物になれない、という人がよくいる。ところが、そう言っている人が小器で、言われている人が大器ということになろうか。だいたい考え方の大きな人物は小さなことに気づかない、と思われがちだが、実はよく気づいていながら日には出さないだけなのである。
今川義元を討った信長の豪胆さは歴史を飾っているが、その信長が小姓を選んだときの細心さにはまた驚かされる。
小姓になりたい者は襖をあけて、信長を拝顔するだけのことであったが、あらかじめ襖をあけるとすぐ目のつくところに小さな塵をおいた。平伏して、それを持ちさったのは森蘭丸であったので取り立てた、という。
細心大胆と小心小胆との違いである。
東京大手町の経団連ビルのエレベーターに乗ると気づくことがある。「閉」のボタンの上にプラスチックの板が貼られて使えないようにしている。元会長の上光さんの指示にもとづくものだという。「閉」は押さなくても自動的に閉まる。押すと一回何円の余分な電気が流れる。経済界の大本山ともいうべき経団連の本部ビルを訪れた人は、土光さんの小事疎かにせずの心構えを教えられるのである。
財界総理といわれた石坂泰三さんが、万博総裁のとき、まむし退治費用を予算査定に際し削った話も語りぐさになっている。巨額な万博予算から僅かなまむし退治費用を削ったからだ。しかも「このごろは整地もブルドーザーでやるから、まむしも命がおしいので逃げてしまうだろう。これは削ろう」といったそうだが、これなら、予算を作成した人の体面を損なうこともない。細かい気くばりである。
企業経営者として小事を軽視するようでは経営を任せておくわけにはいかない。第二の会社へ私が入社して間もなく、役員何人かと雑談していたときである。
「経営者の任務とは」という質問を受けた。これはてっきり、新参者を試すための質問だと感づいたので即座に「災いを未萌のうちに除き、勝を百年の遠きに決することである」と答えた。
「それはどういうことか」「会社の災いになるようなことは芽の出ないうちに取り除き、遠い将来までも発展しつづけられるような経営基盤を築けということだ」と言った記憶がある。
老子に「難事は必ず易きより作り、大事は必ず細事より作る」という言葉がある。大難になるようなことは、きわめて簡単なことからおこっているし、大事件になるようなことも小さなことからおこっている。マッチ一本火事のもと、と同じである。
会社の衰退、倒産の原因なども、もとをただすと見えるか、見えないようなものから生じている。
そのため「難事はその易きに図り、大事はその小事に図る」、つまり、大難になるようなことは、簡単に始末のできる間に始末してしまい、大事件になるようなことは小さなうちに処理してしまうべきということである。
しかし、大難事になるまで気づかないようでは困るので、小さいうちに見いださねばならない。言い換えれば、小事から大事を先見できる能力が必要、そのために、小事は疎かにできない、ということになる。
本書の各所で、節約をのべているし、節約は人材育成につながるとものべているが、節約したかねなど、とるに足らないもので、大きな役にはたたないかもしれない。
しかし、小さな物やかねを節約している間に細心の注意力が養われ、先見の明も開けてくる効果は大きいものである。また、小事から大事を先見すれば、大難の大部分を避けることができる。
よく、同じ条件で出発しながら、 一方は伸び、 一方は伸び悩んでいるものがある。伸びているものは、災いを小さなうちに除いているため、かね、時間にムダがない。
伸び悩むほうは、大事になることが先見できず、災いの種を大きくしてから除こうとするから、時間も費用も大きくかかる。また、小さな災いを見ていながら、小さいことを侮って処置しないため後に悔いを残している。先見性に欠けていたのと違うことはない。
「歯牙に懸くるに足らず」という言葉はいまでも使われているが、歯ときばとは、ことばの端という意味で「歯牙に懸くるに足る」といえば、ことを論ずるだけのことはある、ということになる「歯牙に懸くるに足らず」なら、とりたてて話すほどのことではない、ということになる。
別項でものべたが、「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」と言った雇われ農夫の陳勝が九百の農民軍を率いて強国秦に反旗をひるがえした。
その報告をうけた秦の二世胡亥は、三十余人の博士を集め対策を図った。全員、反逆者を討つべし、ということであった。
しかし、胡亥は、雇われ農夫ふぜいの反逆に対応するということに自尊心を傷つけられ、不快でならなかった。
そのとき、叔孫通という側臣が進み出ていった。「いま天下は統一され、平和に治まり、兵備も廃しているほどです。陛下に背く者などいるはずはありません。それらは、群盗狗盗といえるもので、歯牙に懸けるほどのものではありません」と言上した。二世もこれに満足し、罰してしまつた。
叔孫通を博士に抜燿し、褒美を与え、反逆者といった博士たちを処
しかし、この事件は博士たちが主張したように狗盗どころではない。立派な反乱軍で次第に勢を増し、続いて反旗をひるがえした項羽、劉邦とともに秦を亡ぼすことになる。大事になることを先見できなかった結果である。
「歯牙に懸くるに足らず」と言った当の叔孫通は、すでに、秦の滅亡を先見していた。その後しばらくして故郷へ逃げている。その地は早くも項羽に占領されていたので項羽に仕え、項羽が劉邦に亡ぼされると劉邦に仕え、西漢の諸制度の制定に尽くしたという。こうしてみると、叔孫通のほうが、よほど先見の明があった、といえそうである。
三 先んずれば人を制す
前項で陳勝が秦に反旗をひるがえしたとのべたが、これを知った江東の郡守だった殷通も、これに呼応し、あわよくば天下を狙おうと、有力者の項梁を招いてこう相談をもちかけた。
「いまや江西地方はみな秦に反旗をひるがした。これは、天が秦を亡ばそうとしているのである。先んずれば即ち人を制し、後るれば人の制するところとなる。そこで、相談なのだが、君と桓楚の二人に挙兵の指揮を任せたいと思うが、どうかね」
「桓楚はいま逃亡中でいないが甥の項羽ならおりますから一応相談しましょう」
項羽と打ち合わせて戻ってきた項梁は項羽に目くばせして、やれ、といった。項羽は剣を抜くなり、殷通の首をきり落してしまった。先んじようとした殷通はかえって項羽に先んじられてしまったわけだ。
かくして項羽は七千の兵を率いて秦都成陽を目ざすことになるが、天下は劉邦の得るところとなる。
「先手必勝」なる言葉もあるとおり、先を見て早く手を打つことが勝利への道で、勝負の世界でも、先手をどう早くとるかに腐心している。当然に勝に近づくからである。現代の企業間競争、あるいは利殖の世界でも、先を早く読み、早く手を打ったはうが勝になる。
前職時代に、データ通信網を開設するための機械化計画を立案したときのことである。今でこそ、どこの銀行でも当り前になっているデータ通信であるが、当時はわが国で初めてのものであった。
常務会に何回出しても、計画案が審議未了で返されてくる。私は席上、わかりやすく説明したつもりであるが、なにしろ例のない計画であったから数字に明るくても機械にうといお偉方には理解されない。ついに六回返され、七回目はトップ直々に決裁を求めに行った。頭取室で「計画のどこが悪くて決裁されないのか、うかがいたい」と直談判である。
「採用機種に問題があるのか」
「機械が気に入らないわけではない」
「採算に合わないという理由か」
「ソロバンは君のほうが達者だろう」
「全体の費用が多過ぎることか」
「この程度はかかるだろう」
「それでは、決裁にならぬ理由は何もなくなるが」
「たいへん分厚い資料だが、 一回目に提出してから、どこか訂正したことがあるか」
「万全と考えているので一カ所も訂正していない」
「今後も訂正する考えはないか」「十三分に研究、検討したつもりで、訂正の考えは全くない」
「どうだ、 一カ所というのではなく、たった一字だが訂正するか。君がここで訂正すれば、承認するがどうだ、あとは持ち回りで常務たちの印を押してもらえばよかろう」
「一字だけならどうということはありません。訂正しましょう。一体、どの字ですか?」分厚い資料をめくり出した。
「そんなにめくることはない。最初の一字だ」
「最初は、七カ年機械化計画……」「その″年″を″期″に訂正するだけだ。 一字なら、どれを訂正してもよい、と君がいったばかりだ。訂正するぞ」といいながら頭取決裁印を押してしまった。
銀行は上下の二期、七年を七期にすれば三年半で終えねばならない。
印を押された以上しかたがない。部内へ持ち帰ると、三年半でできるわけがない、と部員はあきれ顔である。「常務会でこのままズルズルと引きのばされるよりましだ。とにかく進めよう」と、説得して取り組んだところ、三年半どころか三年で完了している。データ通信の試運転のとき、頭取が始動スイッチを入れた後の挨拶で「進歩の時代には進歩に歩調を合わせることが他の先に出る道だ。今回の計画を半分にしてもらったが、僕としては大変な誤りを犯したと思っている。それは年を期としたが、月としなかったことだ」と。七年を七ヵ月ということは、できない相談だが遅れて他の後塵を拝すことを恐れたからである。
第二の会社で設備更新を計画したときの話である。担当長がもってきた「新設備計画」をみて、二つ条件をつけた。
「二年計画になっているが、これでは″新″という字を″旧″に変えてもらわなければならない。新設備を必要としながら、なぜ二年もかけるのか理解できない。他社がもし一年で設備を更新したら、当社は一年遅れになってしまう。 一年以内に設備を完了すること。完了期間を二年にすれば、それに比例して心の緩みがでる。また更新に時間がかかると、それだけ要員も増えコスト高となるからだ。
二つは、説明によると、新設備が稼動すると二十五人の要員減となる計画であるが、稼動する前に二十五人を配置転換して、他の技術部門にまわすこと。新設備に慣れてから減員するのでは、機械が動きだしても減員はままならない、ということになる。最初から減員して専任させれば、責任を自覚して、″おれがやらなければ誰がやる〃という気になり、必ず二十五人の減員が達成できる」と。こう断言できたのも、銀行時代の体験があったからである。ことに、利を争う社会などでは寸分の遅れが致命的になったり、タッチの差で勝敗を決することになる。そのため情報を得るために熾烈な競争が展開されることになる。
株式投資などにしても一刻も速く情報を得たものは売りも早く、買いも早くなる。遅れた者はババを掴む恐れさえでてくる。
ただ、知行合一の項(第四章五)でものべたが、いかに早く知っても行なわなければ、知らなかったのと同じになるということである。
たとえば、こういう見通しだから株は値上りする、と判断しても買わなければ先見したことにはならない、ということである。値上りしたあとで、私も上がると思っていたという人がある。これは先見に自信がないか、断行の勇気がないからである。
無一文から創業して大を成した創業者何十人かと対談し、その人物を知って、行をともにした人たちに、これらの株を買っておけば、相当の財産家になれると話しておいた。もし、人にすすめる前に、自分が何千株ずつ買っていたとすれば現在は何億円かになっていたろうに一株も買ってない。自分の不明を自嘲するだけである。
四先見の妙
先を洞察するというとき、小さなことから将来の変化を見ることもあれば、大きなことから時代の移り変わりを知ることもある。
前述の「歯牙に懸くるに足らず」は小から大を洞察するものであり、雲行きをみて台風来襲を予知するように大局から将来を判断することもある。 ・
さらに、過去の体験から、あるいは歴史から将来を知ることもある。時には天を師として先を見ることもある。それらについて私なりに考えていることをのべてみたい。
昔、魏の白圭という宰相は、堤防を巡視するとき、蟻の通る小さい穴までふさがせ、百尺もの大きな家の壁のちょっとした隙間も塗りつぶさせたという。千丈の高い堤も蟻の穴のために潰れて大洪水となり、高楼もわずかな隙間から入った火で焼け失せることを見通していたからである。「千丈の陽は嬢蟻の穴をもって潰ゆ」(韓非子)。
節約に努めている経営者は、自分の会社が潰れることのあるのを知っているからだ。つねに学んでいる者は、ことある時に役立つことを知っているからで、いずれも先を思ってのことである。
「玉杯象箸」の故事は、箸一ぜんから国の滅亡を洞察した話である。いまから三千年前、六百年つづいた殷の最後の王として、悪虐無道随一といわれた村王の時代である。付王が象矛の箸をつくった。当時としては大変ぜいたくなことである。これを知って箕子が嘆き、諌めもした。
「あの王は象牙の箸を作ったが、この次は素焼の器を使わないことになるだろう。象矛の箸と土器では釣り合わないから、玉の杯を作ろう。玉杯と象矛の箸を使うようになれば、あかざや豆の葉など粗末な野菜を吸いものにしたり、短い荒い毛織の着物をきたり、かや葺き屋根の家に住むような貧乏生活をやめ、山海の珍味を盛り、豪邸で、錦を重ねるという具合に、次々にぜいたくの釣り合いを求めていくようになったら天下の富を集めても足らなくなるだろう。税も重くしなければ足らなくなる。当然に人は不満を抱いて国は乱れて亡びることになる」と。
諌めた忠臣がかえって付王に殺されているのを見て、箕子はいつわって狂人となり奴隷の仲間に入った。
付王は箕子が予想したとおり、だっきぜい姐己の色香に迷い、酒池肉林の贅をつくしたため人民に背かれて周の武王に亡ぼされている。
死ぬとき財宝を身につけ自ら火を放って死んだという。箕子は象矛の箸から国の滅亡を洞察したわけである。
銀行時代私も融資担当の先任常務から、分不相応な事務所を建てたり社長が高級車を乗り回しているような会社への融資は一応警戒してみること、といわれたことがあった。村王ではないが、釣り合いの賛沢を懸念してのことである。
木の葉が落ちるのを見て感ずるものは、よほどの風流人ぐらいなもので、多くは見過ごしてしまうものである。
しかし、 一葉落ちるのを見て時世の移り変わりを知れ、という教えもある。坪内逍逢作の戯由に「桐一葉」というのがある。
豊臣家の部将片桐且元が、豊臣家の衰亡を予想して関東方につこうとして大坂城を去ろうとしたとき、別れを惜しんで見送った木村長防守が言った言葉が「桐一葉落ちて天下の秋を知る」、つまり桐を片桐の桐と豊臣の紋(五七の桐)にかけて、豊臣家滅亡を意味しているのである。
また、昭和二十八年三月にスターリンが死んでいるが、その一ヵ月後であったろうか、株式新聞の編集長だった石井久氏(立花証券)が「桐一葉落ちて天下の秋を知る」の一文を掲載したため株価が暴落したことがあった。いわゆるスターリン暴落である。
しかし、スターリンの死が株価の崩落を招いたというより、朝鮮動乱終結後の反動不況がもたらしたものである。
当時私は、銀行の証券課長であったが、スターリン死亡の三ヵ月前には、売れる株のほとんどを売り終えていた。朝鮮動乱景気が長期化するものと思い、思惑輸入が増大していた。その決済のため国際収支は悪化し、当然に引き締め政策がとられ、景気は悪化して、株価は下がると予想したからである。
これは後日談になるが、 一期間に大きな株式売却益を出したということで監督官庁に呼び出しをうけ、不健全な行為であるということで叱られた。下がると思うから売りました、といっても、それがいかん、とまた叱られた。平身低頭、平あやまりに、あやまって帰ろうとしたら呼びとめられた。「家内が株をやっているのだが、いまどんな株を買ったらいいかね」「現在、日立が四十円、東芝が二十五円ぐらいですから、長期持続のつもりで買っておくのもいいと思います」といっておいた。
人に勧めたのだから自分でも買っておいたら、いまどのくらいな財産になっているだろうか。いくら、先見の明があっても行なわない先見は、悔いを残すだけである。さて、横道にそれたが、石井さんの桐一葉にしても逍逢の芝居にしても、その言葉はどこからでているのか。遠く二千年も音にさかのぼる。西漢の高祖劉邦の孫にあたる、劉安が著した淮南子という本にある。
「一葉落つるを見て、歳の将に暮れなんとするを知り、瓶中の氷を見て、天下の寒きを知る」(木の葉が一枚落ちるのを見れば、年の暮れが近づいたことがわかり、瓶の中の氷を見れば、世の中全体が寒くなったのがわかる)。
小さな現象から大きな根本を知る、ということに解され、小さなことから大きな変化を知るということにもなる。
また、小さな兆候から衰え亡びようとする形勢を察することに用いられる言葉である。そのことでは私にもこんな体験がある。いまのべた、石井久さんの桐一葉の記事から約二年後の昭和三十年は朝鮮動乱終結後の不況に見舞われた年である。
その年の一月私は自宅の新築を思いついた。大正十二年の関東大震災で母屋が倒れ、その古材で建てたため老朽化していたからだ。
どこで、それを知ったか、近くの工務店主が来て「大工道具が錆びてしまうほどの不景気。ぜひやらせてもらいたい」という。
大工道具が錆びることは武士の刀が錆びるようなもの。深刻な不況であることがわかる。その話をきいて、迷いも消え、即座に依頼したわけだが、資金手当がついていない。木造建て五十坪の計画をしたが、住宅金融公庫の標準建築費でも坪当り三万五千円。坪当り四万円は必要である。
しかし、手持ち資金はゼロ。退職金見合いの借金が百五十万円限度。母のへそくり五十万の計二百万円。
ところが、自分たちは新築の家に入っても、死んだ父と、戦死した弟の墓石はまだ建てていない。墓石二基で二十万円。残り百八十万円が新築資金となる。この百八十万円で、電機メlヵlの株を一株八十六円で二万株買ってしまい、建築関係者の手間賃、材木代金等、五月下旬から支払う約束をとりつけ三月に着工したわけだ。信長は生涯に一度の冒険をしたというが、 一課長の身分で大きな冒険である。
仕事始めの日、関係者の前で「いまが一番の不景気。不景気のドン底と考えて新築に踏みきった。もし、いまより材木代、手間賃が安くなるようであったら、私は景気や株価の見通しについて話したり、書いたりしないことにする」と大それたことを言ったものであった。しかし、支払いが始まるころになると、株価が上がり、七月には輸出入信用状が一千万ドルの黒字と発表され株式市況も活気づいた。夏になると、空前の豊作、米代金撒布、金融緩和を材料に大幅値上り。
結局同年末に家移りしたわけだが、新築費四百二十万円は株の値上りで賄うことができた。陰陽の理は天の教えだが、先見の妙は天を師とするに如かずともいえそうである。
天に学ぶ
「天を師として学ぶ」といえば、いかにも、八卦占いのように思えるが、天地自然の動きというものはわれわれ人間に真実を教えてくれているものである。
春夏秋冬、寒暖、昼夜等々寸分たがわず移り変わって誤ることはない。人間もまたこの動きに従って動いてやまない。言い換えれば、人は天の命に従って動くともいえる。物は人によって動き、人は天によって動く、とすれば、物の動きも天の命に従うともいえるのである。また、天地の理、自然の動きには人間と違って感情がない。人に動かされることもない。天に従って、だまされることもなければ誤ることもない。
そのため「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とす」(最上の人は天を師とし、二級の人は優れた人を師とし、三級の者は経典を師とす)という言葉さえある。
よく時のムードに巻きこまれて将来を見失なうことがある。こうしたとき、誰を師とするか。ムードに巻きこまれることのない天を師とするに如かずで、ムードに巻きこまれがちな人を師としたのではかえって危うくなろう。教本を師にするとしても、ムードに巻きこまれている自分が読むわけで、教本の教えまで破ることになるだろう。その点、自然は人間に、ありのままの姿で教えてくる。
春夏の候も、生物の生活などに狂いはない。熱したものは冷め、上がったものは下がる。自然の理である。
昭和六十一年から六十二年にかけて株価が上昇し新記録を更新しつづける活況を呈したことがある。
その背景は、超金融緩和と史上最低金利、加えて円高と世界市場の活況、内外機関投資筋の手揃い買い等々材料としては株価の上昇も当然といえたろう。しかし、なんといっても、常識を逸した値上りであった。当時、私もよく質問をうけた。
余裕資金を多分にもった内外機関投資筋や、円高による収益低下をカバーするための一般企業の財テク、預貯金離れのした個人投資家、さらには新人類の出動もあって、値下りすることはないといわれているが、手持株をどうしたらよいかこれから買ってもよいか、というようなものであった。その度に私はこう答えていた。
「あり余るはどのかねを持っている人であっても、株式投資で損をしてもよい、という人は一人もいない。ということから、先々値上がるか値下がるか考えたらいいでしょう」と。株で儲けたいなら、値上りすれば売る、ということに気づくはず。果たして、六十二年十月は平均株価で四千円近い大暴落を演じている。売る人があったから下がったのである。
「新人類が買っているから下がらない、という人があるがほんとうか」という質問もあった。そこで答えた「新人類とは、利は知っているが損の知らない人です」と
さて、天の理は正しく巡って狂うことはないが、これに逆らうことはできない。またゆるやかにめぐり動くが、これを速くすることはできない。
さて、先見力が必要といっても、先の先まで先見すると、空想論者扱いされることがある。昭和三十三年、私は、東京の九段会館で、全国地方銀行協会主催の″銀行の機械化″を演題とした講演をしたことがある。
終って廊下を歩いていたところ「今日は空気のような話をきいた」といいながら帰っていく人がある。私は、人間は空気がなければ生きてはいられない、と同じように、銀行も機械がなければ経営できなくなる、とでも解釈してくれたのかと思っていた。
ところが控え室へ戻ってから話をきくと、どうやら、空想的な話、雲をつかむような話として聞いていたらしい。現代になってみると、そのほうが、よほどウソのように思えるが少々先走ると空想論者にされてしまうらしい。
また、流れに竿さすことも物笑いにされる。現在の事業がすでに時代に流されて斜陽化しているのに拡張をつづけ、大きく名利を失なった人がある。高度成長時代の夢が捨てきれず、低成長になっても、音を今に返そうとしている向きもある。流水再び戻らずの自然の理を知らないのである。
天の理といえば、唐の詩人、李自の詩に「君見ずや黄河の水、天上より来るを、奔流して海に到って復た回らず、君見ずや高堂明鏡白髪を悲しむを、朝には青糸の如きも暮には雪となる……」(君よ、黄河の水が天より降ってくるのを見給え。その水は一旦奔流して海に到れば、もはや再び帰ることはない。人の命もまた、これと同じ。また見給え、高堂に住む貴人も、明鏡に向かって、いつのまにかわが髪の白くなったのを悲しんでいるのを……)。生まれれば老い死ぬ、入社には退職がある。天の理で何人もこの圏外にあることは許されない。いかに先見の明がある人であっても誤ることもあるが、こうした天の理に誤りはない。人間誰しも正確に見通していながら、これに備えようとする者は少ない。
いっばん ぜんびよう
一斑を見て全豹を知る
「管を以て天を窺い、贔を以て海を測る」「よしのずいから天丼をのぞく」いずれも視野が狭いことをいう。
「一斑を見て全豹を知る」も、くだの穴から豹をのぞいて見ても、まだらの一つが見えるだけで、豹の全体はわからない、ということである。
現代のように、政治、経済などすべてが国際化してくると、日本国内だけの見識では到底マクロ的な変化を先見することはできない。
荘子に「井蛙には以て海を語る可からざるは、虚に抱ればなり。夏姦には以て水を語る可からざるは時に篤ければなり。曲士には以て道を語る可からざるは教に東せらるればなり」
(井戸の中の蛙が海を語ることのできないのは、自分の住んでいる所にこだわるからだし、夏の虫が氷のことを語るに足らないのは夏のこときり知らないからだ。一方のこときり知らない人と道について語れないのは、自分の教わったことに東縛されるからだ)とある。
こうした、狭かったり片寄ったり、それにとらわれている者は、広い世界がこれからどう移り変わっていくかを見通すことはできない。因襲に凝り固まっている人に、時代の進歩を説いても理解することはない。
別項でものべたが、前職時代私が銀行のコンピュータ化は必至、早く手を打たなければ時代に取り残される、と主張した。しかし、ソロバンという名器がある以上、機械化時代などくるはずはないといって総反対された。昭和三十六年に常務取締役になったとき、ある部長から「近く辞めるんだそうですね。機械化、大衆化を主張している役員は常務一人。孤立してしまうから」といわれて驚いたことがある。後日、それに関連して、こう話した。
「徳川夢声の旅行記を読んだところ″南方の未開地に行って食事をしていた。蠅がむらがりたかるので追っていたら、原地人にそれほど追わなくてもよかろう。蠅はそんなに食べないから″といわれた」と。
これも未開発地へ行った人の話。飲教水の中にボーフラが浮き沈みしていたので、「飲める水と替えてくれ」と頼んだら「それが飲める水だ。その証拠にボーフラが生きているだろ 一う」と。 ″
その人たちに、蠅やボーフラは、人間を殺すような徹菌の媒体だと話しても、見えないは .どの小さなものが大きな人間を殺せるわけがない、と信じないだろう。ソロバンをボーフラと言い換えれば理解されるだろうがソロバンにしがみついている間は難しい、と皮肉をいったことがある。
いまやっていることが最善と考えている者に先見を期待することは困難だし、現在を守ろうとする者にも困難である。
韓非子にある話だが、公子の韓非は国の衰退を防ぐには、王の係累であれば能力が劣っていても高い位につける氏族制度を廃上しなければならないと考え説いたが、既得権を守ろうとする者の抵抗がでた。それを理解させるため、こんな話をした。
「宋の農夫が畑を耕していたとき、兎がとんできて株につまずき、首の骨を折って死んでしまった。手を下さず兎をせしめた農夫は、それからというもの、農具を手にせず、その株を見守っていた。
しかし、三度と兎はとんでこなかった。そのため国中の笑いものになったという」「株を守る」のいわれである。
いずれも因襲にとらわれているもので、先見の明をくもらせるものである。さらに「抽象論を具体化して成果の得られる者も人材」とのべたが、抽象論のわからないような者は先見にうといものである。
先見にうとい、というより、抽象的なことの理解力がないといえるかもしれない。具体的以外はわからない、ということでは融通もきかないのである。
卑近な例だが、利殖必勝の鍵は先見にあるが、具体的に売買している人は利を急いで先を見ることを怠る。また「鹿を逐う者は山を見ず」の戒めのように、こつこつ儲けためたものを、大局的な大変動で失なってしまう。
ところが「人の行く裏に道あり花の山」「悲観論者から買って、楽観論者に売れ」というような禅間答のような抽象論に従っている人が大儲けしている。
金魚を可愛がっている親父、小僧に「出かけてくる間、猫に食われないように見張っていろ」と。帰ったら金魚がいない。わけをきいたら「見張っている間に猫がくわえて持って行ってしまった」という小咄がある。小僧としては″見張っていろ〃とはいわれたが、 ″猫を追え〃とはいわれていなかったわけである。
三国志にでてくる魏の曹操が、蜀の漢中を攻めたときである。戦いは数ヵ月にも及び、兵靖は諸葛孔明にかき乱され、加えて逃亡兵が相次ぐ困難に陥った。
そのとき曹操は「鶏肋」と命令を発した。命令を受けた部将たちは、なんのことかさっばりわからない。
ところが主簿の楊修という男は、命令を聞くと、さっさと魏の首都長安へ帰還する身仕度を始めた。一同から、そのわけをきかれた楊修はこう答えた。「鶏の肋は食おうとしても食えるところはない、そうかといって捨てるにはもったいない。漢中をこれになぞらえてのことで、撤退という意味だ」。果たして次いで撤退命令が出された。隠語がわからないようでは見当もつきかねることになる。
七 日前、足下からの先見
「愚者は成事に暗く、智者は未萌に見る」(愚かな人は現在そこにあるものにも気づかないが、知恵のある者は、まだ芽の出ていないことまで知っている)という言葉がある。ことが起きても気づかない者もいる、ことの起きる前から気づいている者もある。
これを現代の経営にあてはめると、愚かな経営者は、日の前にある経営資源にさえ気づかないが、知恵のある経営者は芽の出ない、つまり形のないものをも洞察し、経営に役立たせることができる、ともいえようか。
後から、先見の明を云々されることは多いものだが、その先見の手がかりは案外に日前、足下にある。
作曲家の故古賀政男さんと話し合ったとき、「僕は明大を出て、作曲家としてコロムビアヘ高給で入社したが、曲ひとつ詩ひとつ作れない。十一月のしとしとと雨の降る日だったが散歩に出たところ、キセルの掃除をする羅宇屋さんの笛の音がきこえてきた。消え入るような音にしばらく聴き入っていた。これだ、と思い下宿に帰って作詩作曲したのが″影を慕いて″です」といって一節歌って下さった。その時私が「いま″骨まで愛して〃という歌がヒットしていますが、あれは作詩した人が、自分にも骨がある、ということに気づいたからではないでしょうか」ときいてみた。「骨がある、それをパチッといい現わした。全くその通りですよ」といっておられたが、すぐそこにある資源、それに気づくこと、これが時勢洞察への第一歩でもある。
古賀さんは、さらに「驚きと感激のない人はど味のないものはない」ともいわれた。気づいて閃くには、感激が必要、ということかもしれない。
昭和二十年代の後半から私は観光バスを見ていた。乗客の男女別を見ていただけである。当初は男性が大部分を占めていたが、次第に女性が増えてくるのに気づいた。
また、会社の団体旅行で温泉旅館の番頭さんと話し合ったとき、「われわれの商売で景気の良いときは、家族連れの客が多く旅館の窓が満艦飾になっている」といっていた。
さらに、三十年代前半には家電ブームが起きたが、強くなったのは女性と靴下といわれだした頃である。私は銀行の経理部長であったが、頭取に帰人銀行を設立して大衆化戦略を徹底してはどうか、と申し入れた。家庭の主婦を狙ったサービスの充実を図るもので、別に婦人専門の銀行を設立するわけではない。要するに、家庭の経済的主権は主婦に移ると判断し、当時の銀行大衆化戦略の中心に主婦をすえようと考えたからである。女性には守る、備えるという本能がある。経済に不安のある時代には進んで観光を楽しむ気にもならない。安心が得られるようになると進んで消費をすることになる。折しも、バスの中に女性が目立ち、観光地に家族連れが目につくようになっている。
婦人銀行は昭和三十六年に発足し、次第に他の銀行にまで普及していった。各行が競い合う状況になると、当局の広告規制とやらで自粛を命じられ、発展の芽をつまれてしまったが、当初の大衆化戦略としては大いに話題となったものである。このように、旅館の窓、バスの中にも経営資源がある。それに気づくかどうか、ということである。
関係した会社が資金難で苦労していたある日、財務部課長がそろって私の部屋へきた。用件は十日ばかり後に期日がくる支払手形を決済する資金がない、といっている。銀行へ出向いて借入交渉をしてもらいたい、ということであろう。
そこで「いつのでもよい。最近の貸借対照表を持ってこい」と指示した。「貸借対照表で資金手当ができるのですか」「できることになっているはずだ」。持ってきたので言った。
「ここにある資産の部は全部資金である。この中から捻出すればよかろう。会社が万一の場合、不渡りを防ぐためにことごとく換金しなければならないはず。これだけの資産がありながら、決済資金がない、ということで財務部長は務まらないのではないか。
俳人、加賀の千代女の句に『蚊帳の角一つ外して月見かな』というのがある。四角、三角、丸を織りこんだ句を所望され、その場で詠んだというが、三角の物はないのに三角を織りこんでいる。資産の部にはかねがある、あるものを取り出すぐらいは簡単だろう」といっておいた。また、財務、企画担当責任者が年間決算を締め切ったということで事前報告にきたときである。社長と私が聞いた。
一応の説明を終えたあとで「数字は正確で合法的に処理してあります。当社も、ここと、これを改善すれば、さらによい決算ができると思います」とつけ加えている。そこで皮肉を言った。
「あなたがたは、経営コンサルタント、経理士の資格をもっているときいていたが、今年から、経理学校の初等科から中等科へ進学してはどうか。中等科なら、いま話していた当社の改善すべき点を改善する方法を教えてくれるはずだ」と。
正確だ、合法的だ、と思っているだけならコンピュータ、平社員でもよくする。責任者ともなれば、改めるための知恵をだし改めるのが任務である。その際話した。私の孫が小学校一年のとき、Aという友達とBの家に遊びに行き帰ってからの話である。
「僕とB君で六十円のビン入りのジュースを飲んだがA君は三十円きり持っていないので飲めなかった。
すると、A君は僕たちが飲み終ると空ビンをお店へ持っていってビン代二十円と引き換えてきた。足りない十円をB君のお母さんから借り、六十円にしてジュースを飲み、空ビンで十円引き換えてきてお母さんに返した。
学校へ行くと僕のほうが算数の点数は上なのにA君は三十円で飲み、僕たちは六十円。これどうなっているんだろう」と。
思うにA君にしても、こういうときは、こうしなさいとお父さん、お母さんから教わってきたわけではあるまい。二人が飲んだのだから飲めないはずはない、と考えたからでた一瞬の知恵ではないか。なんとかしてくれるだろう、何とかなるだろう、と考えている間は目の前のものも見えず、知恵も閃きもでないものだ、と話しておいた。とっさに気づくためには、毎々に応用問題を考えるクセをつけておくことも欠かせない。
私はよく部下に具体的事例を示さずに、相手に考えさせるようにしたものである。他人が言い行なった事例だけを参考にしていたのでは応用がきかなくなる。このことは、日の前のことや足下からの先見力や洞察力をつけるために欠かせぬことであろう。
先見涵養
別項でのべたとおり、私は二十才のとき、四挑戦(生涯信条)五段作戦(生涯設計)なるものを定めた。
四挑戦は、厳しさ、時代の変化、自己能力の限界、疑問(先見)の四つに挑め、ということである。私の二十才といえば、昭和五年で世界恐慌の年でもある。
その前の昭和二年にはわが国の金融恐慌の年で多くの銀行が倒産した年である。農村の疲弊がその極に達し、人身売買が行なわれ、史上稀な悲惨な状態にあった。そうした時期の生涯計画である。
その中の一つに「時代の変化に挑戦」を加えた理由は、悲惨の中から一纏の光明を求めようとする願いもあった。
また、私は親ゆずりの借金返済のため母の農業の手伝いをしたが、すべて手作業であった。機械が買えなかったからだ。近隣の農家では、発動機付きの機械を使うようになっていた。そうした機械が買えたら、という羨望からでた「時代の変化挑戦」でもあった。しばらくして読んだ科学小説に「マッチ箱大の爆弾で大型軍艦を爆沈する時代がくる」という記事もあった。いまにして思えば原子爆弾である。こうした見聞から、時代の変化に挑戦しようとしたのである。
こうした生涯信条をもつと、常に、現在から将来をみることが習慣になってくると同時に、大きな興味にもなってくる。
こうして、こうすりゃ、こうなるものと。たわいもない歌の文句も、なにかヒントを与えているように思う。「空っ風が吹けば桶屋が儲かる」(空っ風が吹くと、はこりが舞って目に入る。目を悪くして目の不自由な人が増える。目の悪い人は三味線を持って収入を得るようになる。三味線は猫の皮で作るから猫が殺されて少なくなる。当然に鼠が増えて桶をかじる。その修理のために桶屋さんが忙しくなって儲かることになる)。
いまでは子供だましの話にもなるまいが、原因と結果のつながりをよく示している。こうした、ばかばかしい話にも興味をもつようになる。
これもその頃であるが、先輩から「新聞を読むにも活字と活字の間を読め」と、きつくいわれていた。それが身にしみていたためか、新聞を読んでも読みっ放しということはない。
こうした、出来ごとがあると、どのような影響が、どこに、どのように現われるかを考えるようになる。これに慣れてくると読みながら、よってきたることが頭に浮んでくるようになる。ヒラメキ、というものである。
経営者のなかにも、「勘がするどい」といわれる人がある。感じとる能力、先を見る能力が優れている人に用いられるが、こういう人は何を見ても、そのものについて考える以外に、それにつながって起るもろもろのことを考える習慣が養われているのである。
また、当時、先輩から「空気の見える人間を志せ」ともいわれた。神様でもあるまいし、空気が見えるわけがない、と思ったものだが、経営にあたってなると、こういうことにかなうようでなければ一人前の経営者ではないことに気づく。
だいたい、今より先が見えない人間や、抽象的なことを具体的に見えない人間は、かね儲けもできない。
気づかれないように忍び足でいけと泥棒の親分にいわれ、子分が出かけたのはいいが翌朝手ぶらで帰ってきた。わけをきくと忍び足で行けといわれたから家を出るときから忍び足でいったので先方へ着いたら夜が明けていた。「間抜けな泥棒」という落語だが、小咄の種になるようでは人の上には立てない。
あるプロセールスマンは「お客さんが買ってくれるかどうかを決する時間は、 せいぜい二、三分間。長い間話していても、客が買ってみようかと考える時間は、長くて二、 三分間。そのときをとらえることがセールスのコツで、それを逃したら、あと何時間話してもムダになる」といっている。相手の心を読みとることが秘訣となる。その昔、私が、東京銀座の「流し」と話し合ったときのことである。
「私たちの稼ぎどきは夜八時から十一時までの三時間だ。その間に、 一日分を稼ぐわけだから時間が大切だ。歌わせてくれないところに頑張っていても時間のムダ。
歌わせてくれるか、くれないかをどこで見きわめるか。 ″お客さん、 一由どうですか〃と声をかけて、まずハネ返ってくる語調で見当がつく。なまりがあれば、その地方の民謡を歌いだす。また、上司、部下の客だったら、人生劇場、柔道一代など根性ものを歌い、客と一緒と思えば、客のこのみに合わせるし、年輩者同士だったら旧制高校の寮歌か軍歌を歌いだすと、よし、そのつづきをやってくれ、ということになる」と。その道によって賢し、というが読心術を心得ているようでもある。
余談になるが、「時々変わったお客がある」とそのとき話してくれた。人生劇場の二番を一時間余りも歌わせた人がある。年ごろは旦那ぐらいだ。それを一曲たのむといって「あんな女に未練はないが」を繰り返し繰り返しきいていたという。私が六十才を過ぎたころである。
九 可能を信ずれば知恵がでる
「困難を嘆かず可能を信ず」とは創造的経営の一つの条件といえる。なにごとにつけて、困難を嘆いては、閃きも知恵もでない。
よく私は「困難を嘆くのが経営ではなく、困難を可能にするのが経営である」といっているが、つい困難が先に日から出たり、他のセイにして顧みることがない。
関係した会社へ入社して間もない会議の席上、販売担当部長が「うちの会社も景気がよくなれば売上げが伸びて利益もでるようになるのだが」と、こともなげに言っている。メインバンク―のうちにも「そのとおり、早く景気がよくなってもらわないと困る」と口を揃えている。
憎まれ日と思ったがこう話した。
「そういうことは、社長以下幹部が揃っている会議で言うべきではないのではないか。たいへんな失言になる」「これが、どうして失言か」。それが当り前と考えている人は気がつかない。「そのわけは、景気が良くなって売上げ、利益が増えるというなら、ここにいる社長の他幹部は不必要ということになる。社長の椅子にパートのおばさんを座らせておいても業績が上がることになる。これはどの失言はないのではないか」。業績の悪いのを不景気のセイにしている。業績回復を景気回復に頼っていることになる。
「ボヤくのが経営戦略ではなく、ボヤく種を取り除くための知恵をだすのが戦略といえるのではないか」と理屈を並べたことがある。
困難を嘆く者からは失意と溜息はでるが知恵はでない。 ″もう″と考える人からは、失望、あきらめはでるが知恵はでない。 ″まだ″と考える者から知恵と勇気とがでてくる。
昔、小冊子にこんな記事があった“戦いに破れ、孤城に追い詰められた国王のもとに降服勧告状が届けられた。「たちどころに降服しなければ城を踏みつぶす」とある。しばし考えていた国王は返書を使者に渡した。これを見た敵の国王は囲を解いて、引き揚げてしまった。その返書には「もしも」とあるだけであった。「もしも踏みつぶすことができなかったら逆に」という決意がこめられていたからで、 一瞬の知恵であったろう。
また、東京のある工場主が事業に行き詰まり、設備などすべて差押えられてしまった。帰宅してみると家財道具にまで赤紙が貼られてある。出迎えた妻に「長い間苦労をかけたが万事休した」といって力なく腰を落したとき「あなたは」といわれ、日の醒める思い「そうだったか」といって立ち上がったという。その後立派に立ち直すことができた。「差押えられて、自由になるものは何一つない。しかし、あなたまでは、よもや差押えられたわけではないでしょう」、工場主は「もう」と考え、奥さんのほうは「まだ」と考えた違いである。
現代のように生存競争の激しい時代に困難を先に嘆くようなら経営の座から早く去るがよい。先を見ることもままならず、いずれは去らされることになるのであるから。
前にものべたが私は第二の会社を去る日に挨拶して「会社経営にあたって、困難であった、不可能であった、といういいわけは許されない。許されないことにとらわれているはど愚かなことはない」とのべた。
いいわけの許されないのが企業経営であるが、事実、人間社会に不可能ということはない。逆らうことのできないのは天地自然の理だけである。
「窮せざるの理なく、応ぜざるの変なし」(究明できない理論はなく、対応できない変化はない)とは江戸末期の儒者佐藤一斎の言志四録にある言葉で、ナポンオンは「自分の辞書に不可能の文字はない」といっているが、至極当然の文旬に過ぎないのである。不可能を嘆く者は可能にしようとする意思がないからである。
「志あれば道あり」とか。可能を信じて困難を可能にしようとする志があれば、可能にする知恵もでてくる。従って困難を嘆くものに戦略を期待することはできないものである。
「窮すれば通ず」の言葉もある。前例の「もしも」「あなたは」にしても死地から脱しようとする追い詰められた結果の知恵である。三国志に出てくる蜀の劉備の軍師諸葛孔明が、二千五百の兵で城を守っていたとき、魏の名将司馬仲達の十五万の大軍に包囲されたことがある。
孔明は、四方の城門を開き、兵に農夫を装わせ、城門外を掃除させ、自分は、高い楼を作り、それに登って琴をかなではじめた。
これを眺めた仲達は、孔明になにか計略があると考えて引き揚げてしまった、という。思うに、可能を信ずれば部下も動揺することはなく、琴の音が乱れることもない。敵を欺くことも容易になる。それ以上に可能を信ずる効果は組織の士気を高める、ということである。
十 目的意識と先見
昭和三十八年一月、全国地方銀行協会のアメリカの銀行視察団に私も加わった。一行十一人で、全米の主要都市の銀行を視察するわけである。
外貨割当は一日三十五ドルで航空運賃以外は全部この範囲内で賄うことになる。日本円は二万円が限度でもっていけたが、これを使うに米ドルに換えようとすると、 一ドル四百円。一ドル三百六十円が公定だが十%余計に出さないとドルにならない。敗戦国とはいえ、なんと情けないことだろうと思ったものである。近年の一ドル百二十円の三分の一きり値打ちがなかったわけである。
さて、 一行が西南部の主要都市の視察をすませて、フィラデルフィアに行ったときであった。地元の銀行十余行の幹部がわれわれ一行の歓迎会を開いてくれた。水割リウイスキーを立ち飲みする程度のものであったが、異国で同業者に迎えられることは嬉しいものである。そのとき、幹事の挨拶のなかに「現在ァメリカは百数十億ドルもの金を保有しているので、ドルは全く不安はない」といっている。話終って、何か質問はないか、とうながされて私が尋ねた。
「たしか、ァメリカは、 一九五〇年代の終りごろに金を三百数十億ドルもっていたと記憶しているが、経済が大きくなっている現在、百億ドルも減少して安泰というお話だが、その理由をもう一度お話し願いたい」
隣にいた人が私の上着の裾を引っばっていた。そういう質問をすると気を悪くするからやめろ、ということだろう。
答えは「法律的には大丈夫」という意味だ、ということであった。四十二日間の日程を終って帰り、視察報告会を開いた。その席で私はこうのべた。
「ァメリカは、いずれ、ドルの切り下げを余儀なくされるだろう。また、金本位制の維持も困難になる」と。
これに対し「ァメリカは、対外資産の果実だけでも国際収支の黒字は維持できる」「世界の工業国で輸出競争力が強い」「そういう記事を残すと、ァメリカの感情を刺激するから削除したはうがよい」という意見さえ出された。それでも私は「その責任は私が負うから一行でもいいから記録にとどめて欲しい」と頑張って残してもらったが、その記録は小冊子になって関係筋へ配布されているはずで、全国地方銀行協会のどこかに眠っていると思われる。それから、四年後の四十二年に、 ニクソン大統領は、 一月の就任演説の中で、こうのべている。
「歴史上のあらゆる瞬間は、はかないものであるが、貴重にして唯一無二の時である。その中には、幾十年、幾世紀もの進路を定める始まりの時もある。その時に直面しているのが現在のアメリカである」という意味だったと記憶している。
一
ベトナム戦争終結、ドルのたれ流し不安など解決の決意を示したものと私なりに受けとめ 冊たものである。
それから二年後の四十四年に再び米国の銀行視察に行く機会を得た。五銀行の若手銀行マンのリーダーとして参加したわけだが、幸いニューヨークで、連邦準備銀行の地下室にある、金準備の現物を見る機会を与えられた。そのとき、在庫額をきいたところ「百三十億ドルここにあるが、このうち三十億ドルは他の国から預かっているもの。米国の所有額は百億ドル」と答えてくれた。
その日の日程を終えて夕食をともにした際、ァメリカは、近く通貨面で思いきったことをやらぎるを得なくなるだろう、と話した記憶がある。
当時も一ドルは三百六十円、 一日の割当は三十ドルであったため、若い人たちにとっては、やりくりが苦しい。朝食を抜くことが多いので、国内航空へ乗って最初に目につくのがスチュワーデス。なにか、日に入るものを持ってきてくれるかどうかが知りたい、というほどであった。
それから二年後には、いわゆるニクソンショックで、ドル切り下げ、変動相場制に移リドルは漸落し、昭和五十三年には一ドル百七十五円、六十三年には百二十円台になっている。昭和六十三年一月に、東京での講演会で、こんな話をしたことがある。
「今年は、龍の年だが、経済は昇龍になるか、下龍になるか注目されるところ。いま私は″画龍点睛″という言葉を思い出した。
このいわれは、中国南北朝時代、南朝の梁という国に張僧縣という画家がいた。一本の筆で、なんでも生きているように描くという名人であった。
あるとき、金陵(いまの南京)にある安楽寺から、壁に龍の絵を描いてくれとたのまれた。
やがて、壁に二匹の龍が描かれたが、いまにも黒雲をよんで天に昇りそうな勢い、まさに生きているかのように描かれている。
ただ、ふと見ると、眼に睛が入っていないで、眼は洞のままであった。人々から、そのわけを、うるさく聞かれ、いつもこう答えていた。
″睛は入れるわけにはいかない。もし睛を入れたら龍は、たちまち壁をけやぶって天に向かって飛び去ってしまうからだ″
しかし、人々は納得しない。とうとう睛を入れるはめになった。筆に墨を含ませ、睛を点じた瞬間、雷鳴がとどろき龍は壁をけやぶって黒雲とともに天に昇ちてしまった。後に残ったのは睛を入れなかった双龍のうちの一匹だった、という。″画龍点睛を欠く″といえば、全体としてはよく整っているが、肝心要となる大事な一点が足りない、という意味である。
さて、今年の日本経済は、超金融緩和、低金利、内需増大、企業収益増加等々、いうことなし、といえるが、世界経済の要ともいえる眼に睛が入っていない。アメリカの財政赤字と貿易収支の二つの赤字で、これでは、昇龍の年とはいいかねよう。この双子赤字に黒い睛を入れることになれば世界経済も輝かしいものになる」と話した。
十一 奇貨おくべし
「奇貨おくべし」(これは掘り出し物だ。取っておけば将来、大儲けになる)。前にものべたが、大儲けした人の多くは、自分で儲けようと考えて儲けたものよりも、たまたま安いときに手に入れ、売る時に高くなっていた、ということが多い。
不況時、かね詰まり時期などに、物をかねに換えるために売り込みにくる。それを、たたきにたたいて、つまり足下をみて安く買っておく。好景気になったり、かねあまりになれば値上りするから、そこで利食えば必ず儲かることになる。
しかし、持ち込んできたもの全部買うわけではない。これは掘り出し物だ。必ず大儲けになると思う物だけを買うわけだ。なんだかんだと難癖つけるのは、安く買うためである。
ただし、よほど先見力のある人、物をみる日の高い人ではないと、傷物、偽物をつかまされて失敗することになる。その逆の場合もある。
「列頸の交わり」に出てくる商相如が、強国秦王から守った「和氏の壁」は、楚の本和という人が荊山という山から、まだ磨かない玉をえて属王に献上した。王はこれを玉を磨く人に見せたところ、ただの石だといったので、怒って本和の左足を斬ってしまった。次に武王が位についたので、再び献上したが、やはり石と鑑定されたため右足を斬った。次に文王が即位したので三度献上して磨かせたところ、稀にみる玉であった。それで和氏の壁というようになったと、韓非子にもある。石も磨けば玉となるというが、もとから玉であったから玉になったわけで、もともと石であらたら玉にはならない。それにしても文王にしてみれば、たいへんな掘り出し物だったわけである。
そのとき文王が、奇貨おくべし、といったかどうか知るすべもないが、ほぼそのころ、韓の国の豪商呂不葦の言とされている。
呂不葦はよく趙の都、部郡を商用で訪れるが、あるとき偶然、秦の皇太子である安国君の庶子の子楚が、人質となってここにきて貧しい暮しをしているという話をきいた。そのとき、呂不葦の霊感がひらめいたのであろう。「この奇貨おくべし」と言ったという。
不章は、早速、子楚のわび住いを訪れ「ひとつ、あなたを身分ある、かねもある盛んなお方に致そうではありませんか。そうなれば自然に私の家も栄えることになります」。子楚の、いまは人質の身でどうすることもできない、という言葉をきき流し、声をひそめていった。
「あなたの父上が秦王にいずれはなりましょう。となりますと、太子を選ぶことになります。正妃の華陽夫人には実子がいません。太子は二十数人の庶子の中から選ばれることになります。あなたもそのうちの一人ですが有利な立場にありません。
そこで、私は商人でかねを持っています。これから、あなたと一緒に秦まで行って華陽夫人に贈りものをして、あなたを太子に立てる運動をしようではありませんか」と。
子楚も大変よろこび、ともに秦に行って運動し、不遇、不利な子楚を太子にしてしまった。そして、子楚が独身であったのを幸いに、呂不葦の子を宿していた趙姫をなにも知らない子楚に嫁がせた。その生まれた子が天下を統一し、万里の長城を築いた秦の始皇帝である。自分も宰相になり、富貴を極めたわけで、史上稀な掘り出し物であったといえる。
これにしても、最初は、聞き流してしまいそうなことを小耳にはさんで、奇貨おくべし、といっている。部耶にも多くの人がいたろうし、多くの人が子楚のことを知っていたに違いない。しかし「奇貨おくべし」と考えたのは韓からやってきた呂不章一人であった。将来を読んだ、というより、将来をつくりあげた、といえるのである。
「志あれば道は開ける」とはよくいわれることだが、これこれを、なにがなんでもやり遂げようとする志のある人の前には峻険もなければ、激流もない。先見して行なった結果も理想に挑戦して得た結果も同じといえるのではないか、ということである。
十二 歴史からの先見
「人の一生の履歴は幼時と老後を除けば、率ね四、五十年間に過ぎず。その間見するところは殆ど一史だにも足らず。故に宜しく歴代の史書を読むべし。眼を著くるところは最も人情事変の上にあれ」(一人の一生は幼老の時期を除けば、四、五十年でしかない。その見聞は歴史の一部にも及ばない。だから歴代の史書を読むがよい。そのときは人心の動き、事変の変化に注目するがよい)言志四録。
人間の思考や人情など大昔から変わることはない。手段方法が変わるだけである。
また、同書に「学は諸れを古訓に稽え、間は諸れを師友に質す」(学は古人の注釈を現在に照らし合わせて考察し、わからないことは師や友にきく)とある。
歴史は単なる過去の記録に過ぎない、と考えるべきではない。現代人の処世、近代企業経営に役立つ記録が限りなくある。時代は変わっているが同じ人間が行なったことであるからである。
また同じ人間が行なっただけに、人は変わるが行なうこと、考えることに変わることはない、たとえば千年前の人が犯した過ちと、いまの人の犯す過ちとでは大同小異で、過ちの動機や過程など全く同じといえる。
こうした点からすると、過去の人の犯した過ちを、現代の人がやっているのを見れば、将来、結果はどうでるかの見通しはつく。
わが国にも「騎る平家久しからず」という戒めがある。いつ言いだされたか知るよしもないが、平家が騎り始めたときとしても、立派に世間には通じたはずである。
中国の歴史にしても、夏の条王は、末喜という美女に心をうばわれ、豪華な官殿、楼台を築き、都には肉を山のように集め、乾かした肉は林のように、酒を入れた池には舟をこぐことができ、酒粕を積み上げた土手は十里の遠くまで見渡すことができたという(酒池肉林)。どこまで信じてよいかわからないが、こうした騎奢は人民を敵とするに等しい。殷の湯王に亡ばされている。
この夏の国をはじめたのは高王であるが、治水に功のあった人で、そのため十三年もの間家に帰らず、自分の家の前を通っても立ち寄りもせず、国政に励んだ名君であった。そのころ、儀狭という人が初めて酒を作って高王に献上した。王はそれを飲んで「後世必ず酒を以て国を亡ぼす者有らん」といって、それからは儀荻を近づけなかったという。
ところが、そう言った高王の子孫、つまり十七代目の条王は酒池の贅をつくして四百年の歴史の幕を閉じている。
さらに、歴史はくり返すというが、次代の殷の国は名君、湯王が興したが、すでに象牙の箸のところでのべた、村王は、担己という美女の色香に迷い、酒池肉林の贅をつくして周の武王に亡ぼされている。
夏、殷とも、同じく名君が国を始め、終りはいずれも、女と酒で国を失なっている。騎りはじめた平家を教ただけでも滅亡の近いことが先見できる、といえよう。
現代の企業でも、組織内の人間に騎る心が現われるようになったら、厳重な注意を要すと考えて間違いない。ことに企業のトップで、自分の功を誇り、俺が俺がと鼻を動かすようであったら、その企業の将来は短いといえるだろう。
古今東西の歴史をみても、国の興りは徳により、滅亡は騎にある。今後の興亡もこれから外れることはなかろう。
いかに先見に長けており、果断の勇があったとしても、騎る心がでては有終の美は飾れないものである。
楚の項羽は「先んずれば人を制す」といって殷通を斬るほど、先見と勇があった。しかし、秦を亡ばして、成陽城へ入ると「富貴にして故郷に帰らざるは、繍を衣て夜行くが如きのみ」と見栄まで飾ろうとしている。劉邦の四倍の兵力を誇りながら三十一才の若さで終っている。先見が仇となった、といえるかもしれない。日本でも先見が実らなかった好例がある。
明治三十七年、日露開戦で日本が緒戦に勝ったことを知った埼玉の春日部に住む鈴木久五郎は五百円のかねを持って兜町へ行き、当時の鐘紡株を買いまくって、連戦連勝の勢いを示した。またたくまに大儲けをしたわけだ。
戦争のはうも、わが軍が大陸、海で大勝。この勢いで株価も奔騰したため、買えば儲かり、儲かれば戦線も拡大しさらに儲かる。まさに先見適中であった。ここらで打ち止めすればよかったが、人間足るを知らずとか。
一方、鈴木は豪遊を始めた。一流料亭を借りきって座敷に小砂利を敷き、それに金貨を沈めて、奇麗どころに、裾をからげて拾わせた。お座敷の潮干狩である。おしる粉に金貨を沈めて飲ませたともいう。自分の家の新築披露には東京の政財界の有力者を人力車を連ねて招いたという。しかし、戦争は、こうしたなかにも終りが近づく。これを見越して鐘紡株を売りまくったのが関西の呉錦堂という人。この結果は株の暴落で鈴木は一夜乞食に転落している。
彼が豪遊で失なったものは儲けた額の一部分であったに違いないが、豪遊の間に先見の明を失なって、失なったかねは莫大なものである。
次に三国志に出てくるこんな話がある。呉の孫権に仕えた諸葛瑾は、蜀の劉備に仕えた孔明の兄である。この諸葛瑾の子に恰がいた。恰は少年のころから才気炊発で、王の孫権からも将来を期待されていた。
ところが、温厚篤実で、苦労人である父としては、どうも悟の小利口ぶりや、人目につくようなことを好むことが心配でならない。「格は大いに吾が家を興さず、まさに吾が族を赤しくせんとするなり」と顔をしかめたわけである。
その後、烙は呉の国政を執るようになり、諸改革も行ない、さらには魏の大軍を迎え撃って勝つなどもあって人気を高めた。
しかし、この勢いと、人気の波に乗って、今度は二十万の兵を率いて魏に出征し大敗し、たちまち人気を失なって斬殺されている。親の先見どおりに終ったのである。
十三 先見を妨げるものは
「天の将に雨ふらんとするや、穴蟻之れを知り、野の将に霜ふらんとするや、草虫之れを知る。人心の感応あるも亦之れと同一理なり」(雨が降りそうになると穴の中の蟻がこれを予知し、霜が降りそうになると草の中の虫が予知する。人間の心も澄んでおれば、感応が正しく現われる)言志四録。
たわいもない例になるが、株式投資の場合などでも、買う気もなければ売る気もないという時期には、株価の動きも神の教えでもあるかのように当るものである。ところが、いざ自分で手を出してみると、高いところを買ってしまったり、安値で売ってしまう。自分の欲が先見を狂わせてしまう。つまり冷静を失なって先見を誤るのである。その昔、テレビに一緒に出た人相観の先生に占ってもらったことがあつた。
「井原さんの人相は、まことに良い相だ。使ったかねは、必ず入ってくる、とでている」という、喜び勇んで帰り家内に話した。
家内は喜ぶどころか、困りきった顔でいった。「それは、いい相でもなんでもありませんよ。お金がなくなって自殺した人以外は全部、使っただけは入ってきているんですよ。それは貯金が全然できない相なんです」。 いわれてみると、 そのとおり。冷静を失なっていた証拠である。ことに、有頂天になっているときなど先見の明が曇る。
得意の状態がいつまでも続くと考えること自体、すでに先見を失なっていることになる。「ことの破れるは得意のとき」「近き憂いあり」の格言を忘れている。現在に満足しているようでは正しい先見はできない。
さらに先見を誤るものに知識の不足がある。因果のつながりがわからないようでは、先を見ることはできないし、見ても対応を誤ることになるだろう。
たとえば、物が不足すれば、物価が上がる。当然に、 かねより物が有利と考える。しかし、果たして物が不足しているのかどうかも考えないと、第一次石油ショックのときチリ紙や石けんを買いだめ、売り惜しみしたバカの二の舞にもなりかねない。
また、近年は、経済の予測技術も進歩しているため、インフレ懸念がでてくると予防対策が先手を打つことになる。金融、財政、税制面からブレーキがかかる。インフレ見越しも的外れになる。
情報過多も先見を狂わすことがある。
言志四録に「今の学者は温に失なわずして博に失ない、腫に失なわずして通に失なう」(知識が狭いために失敗するのではなく、ひろい知識があるためにかえって失敗し、片寄った知識で失敗するのではなく、よく通じていたために失敗する)とある。
これを「いまの人々は情報が少なすぎて失敗するのではなく、多すぎて失敗し、情報が一方に片寄りすぎて失敗するのではなく、八方から情報がきすぎるので失敗する」と読み替えることができる。
これでは、どの情報を元にして先を見たらよいのかわからなくなる。
たとえば、証券の見通しなどにしても、証券会社筋の情報は、万年強気で、暴落の危険があっても、売り逃げるなどということはないから、値が上がりすぎたときに注意すればよい。それに、あの人たちは、新入社員のときから「買いなさい」という文句は教えるが、「売りなさい」という文句は教えられていないので、話を交わすとき、この点だけに注意すればよい。その点まことに邪気がないから判別しやすい。
その他の情報は、当るも八卦当らぬも八卦で政治家の情報よりも頼りにならない。やはり、自分の知識と本能にきくほうが正しい結果が得られるものである。さらに、平素楽観にすぎる者は、先々の厳しさ、困難を先見することはできない。したとしても、すぐ否定してしまう。常に悲観にすぎる者も、取り越し苦労などはするが、正しく ・見通すことは困難になる。 躍
たとえば、つまずいたり、失敗したりすると「なにも悲観することはない。人間万事塞翁 .が馬だ」などといって、失敗を反省しないで、自然に取り返せると思っている人がある。昔、漢民族の国と胡(北方の異民族)の国の境あたりに、占術などに通じた老翁が住んでいた。
あるとき、翁の馬が胡の領土内に逃げてしまった。近所の人が気の毒に思って慰めにきた。翁は別に気にもしないげに「これがどうして幸福に変わらないことがありましょうか」と。
そのとおり、数力月たつと、その馬は胡の良い馬を連れて戻ってきた。今度は近所の人々がお祝いにきてくれた。
翁は「これがどう災いに転じない、といえましょうか」といって喜びもしない。翁の家では良馬に子が生まれ数も増えてきたが、今度は息子が落馬して股の骨を折って、歩くにも不自由になった。これを見て近所の人たちが慰めにきた。これに対しても「なんで、これが幸福にならないことがありましょうぞ」といって平然としていた。
それから一年もたったころ胡人が城塞に大挙攻めこんできた。村の若者は皆戦いに駆り出され、十人のうち九人まで戦死したが、翁の子は歩行困難で出征もせず父子とも無事であった、という話である。
「禍福は糾える縄の如し」とか。人間の災いも福も自然に巡りくるというふうに思いがちだが、本意は、そういうものではなく、災いも福も人間が自分で招くものだという戒めではないかと思う。
いずれにしても、禍福が交互に巡ってくるものなら、先見の必要はなくなるというもの。
先憂後楽ではないが、先に努力し、苦労しておけば先々には楽しみが待っていると予想されるところに人の生き甲斐、努力のしがいがあるといえるのではないか。
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