人類の歴史を振り返るならば、過去と現在を問わず、洋の東西を問わず、我々の人生には「運気」と呼ばれるものが存在すると信じられてきた。
そして、「運気」というものは、我々の「心の状態」が、その心と共鳴するものを「引き寄せる」ために生まれてくると考えられてきた。
それゆえ、我々の心の中の「ポジティブな想念」が「良い運気」を引き寄せ、逆に、「ネガティブな想念」が「悪い運気」を引き寄せると言われてきた。
たしかに、これまで、古今東西、「運気」というものについて語る多くの書籍や文献は、こうしたことを述べてきた。
そして、我々の多くは、人生での様々な体験を通じて、こうしたことが真実ではないかとの感覚を抱いてきた。
おそらく、この本を手に取られたあなたも、そうした感覚を抱いているのではないだろうか。
では、こうした「運気」と呼ばれるものについて、また、「引き寄せ」と呼ばれる現象について、さらには、第一話で述べた「直観」「予感」「好機」「シンクロニシティ」「コンステレーション」と呼ばれる現象について、現代の科学は、全く説明ができないのだろうか。
もとより、こうしたことについて、現時点で、完全な科学的説明は難しいが、これまで提唱されてきた様々なコミュニケーション論や深層心理学、宗教学、最先端科学の知見を参考にするならば、それらの一面を説明することは可能である。
しかし、そのためには、我々は、「心の世界」には、表面意識(単に「意識」とも呼ばれる)では気がつかない深い世界があり、表面意識の世界も含めて、次の「五つの世界」があることを理解する必要がある。
- 第一個人的な意識の世界
- 第二集合的な意識の世界
- 第三個人的な無意識の世界
- 第四集合的な無意識の世界
- 第五超時空的な無意識の世界
そこで、これから、この「五つの世界」について、それが、どのようなものであり、それが、なぜ「運気」というものを生み出すのか、「引き寄せ」や「直観」「予感」「好機」「シンクロニシティ」「コンステレーション」といった現象を生み出すのか、それぞれ述べていこう。
コミュニケーションの八割は「言葉」を超えて伝わる
第三の理由は、実は、これが最も重要な理由であるが、人間同士のコミュニケーションの八割は、「ノンバーバル」(非言語的)だからである。
すなわち、コミュニケーションには、「言葉で伝わるメッセージ」(バーバル・メッセージ)以外に、眼差しや目つき、表情や面構え、仕草や身振り、空気や雰囲気といった「言葉以外で伝わるメッセージ」(ノンバーバル・メッセージ)があり、実は、後者は、コミュニケーションの八割以上を占めているのである。
そのため、もし、ある人が、心の中に不安や恐怖、不満や怒り、嫌悪や憎悪といった「ネガティブな想念」を抱いている場合、表面的な言葉のメッセージでは、相手や周りにその想念を伝えていないつもりでも、言葉以外のメッセージで、その想念を相手や周りに伝えてしまうことは、しばしば起こる。
そして、こうしたことが起こると、「ポジティブな想念」を持った人は、自然に、その人から離れていくことになり、直接、離れていかなくとも、心が離れていくことになる。
さらに、逆に、この人の周りには、「ネガティブな想念」を持った人が近づいてくるため、結果として、様々な問題やトラブルを引き寄せることになる。
実際、周りから「あの人は暗い感じの人だ」「あの人は冷たい感じがする」と言われるような人は、特に、ネガティブな言葉を発しなくとも、自然に周りから人が遠ざかっていくことは、しばしば起こっている。
このように、「運気」や「引き寄せ」という現象は、通常の「表面意識」の世界でも、しばしば起こっており、その理由も明確である。
従って、例えば、世の中で語られる「笑う門には、福来たる」という諺についても、それが正しいことが、この三つの理由だけで、十分に科学的で合理的な説明ができるだろう。
すなわち、いつも楽しい笑顔で過ごしている人は、その「ポジティブな想念」がゆえに、人生や仕事において、持てる力を十分に発揮でき、自然に「ポジティブな言葉」を発するため、周りに人が集まってくる。
しかも、その「ポジティブな想念」が、ノンバーバルなコミュニケーションによっても相手に伝わるため、ますます周りに「ポジティブな想念」を持った人が集まり、「良い運気」と呼ばれるものを引き寄せていくことになるのである。
では、こうした心の状態が、「個人」のレベルではなく、「人間集団」のレベルで生じると、何が起こるのか。
「ムード・メーカー」が大切にされる本当の理由
それが、第二の心の世界、「集合的な意識」の世界であるが、ここで「集合的」とは、「集団」や「組織」や「社会」など、多くの人間が集まった状態のことである。
そして、「運気」や「引き寄せ」という現象は、この「集合的な意識」の世界でも、しばしば起こる。
実際、「集合的な意識」とは、集団や組織や社会に属する個人の意識が集まったものであり、しばしば、空気や雰囲気、文化といった形で表れてくるが、我々は、人生や仕事において、組織やチームの空気や雰囲気が悪くなることによって「悪い結果」=「悪い運気」を引き寄せてしまうことを、しばしば経験している。
例えば、野球の試合などで、ピッチャーが好投を続け、八回までパーフェクト・ピッチングをしているとき、チームの全員が「完全試合」を意識して緊張すると、いつもなら考えられない場面でエラーが出たりする。
これは、チーム全体の「集合的な意識」が「絶対にエラーはできない。エラーしたらどうしよう」という「ネガティブな想念」に支配されてしまったため、「エラー」という「悪い結果」=「悪い運気」を引き寄せてしまった状況である。
逆に、チームの雰囲気が明るくなると、チーム全体の力を引き出し、「良い結果」=「良い運気」を引き寄せるということも起こる。
プロ野球の世界で三度の日本一を成し遂げた野村克也監督は、打率などの成績はあまり良くないにもかかわらず、試合のとき、必ずベンチに入れる選手がいた。
その理由を訊かれて、野村監督は、こう答えた。
「彼は、必ずしも、試合で活躍するわけではないが、ベンチにいると、大声を出して仲間を応援し、チームのムードが良くなるからです」このように、人間集団やチームにおいても、「良い運気」を引き寄せるためには「ムード・メーカー的メンバー」の存在が重要と言われるのは、人間集団やチーム全体に、「ムードが良くなる」→「リラックスする」→「力を発揮できる」→「さらにムードが良くなる」という好循環が生まれるからである。
一方、世の中には、組織やチームのリーダーでありながら、空気や雰囲気を壊してしまい、その結果、組織やチームの「良い運気」を遠ざけてしまう人もいる。
その一つの例が、「ウェット・ブランケット」(濡れた毛布)と揶揄されるリーダーである。
「ウェット・ブランケット」とは、家庭などで小火が生じたとき、濡れた毛布を掛けて火を消してしまうことからの隠喩であるが、たしかに世の中には、部下やメンバーがやる気を出し、情熱を持って何かのアイデアや提案を出しても、そのアイデアや提案の問題点を冷ややかに指摘し、部下やメンバーのやる気を削ぎ、情熱の「火」に水をかけて消してしまうリーダーがいる。
そして、こうしたリーダーは、組織やチームの空気や雰囲気を萎縮的でネガティブなものにしてしまうため、部下やメンバーの自発性や創造性が抑圧され、当然のことながら、組織やチーム全体で「悪い結果」=「悪い運気」を引き寄せてしまう。
このように、改めて述べるまでもなく、「個人的な意識」や「集合的な意識」といった「表面意識」の世界においても、「ポジティブな想念」を持つことが「良い運気」を引き寄せ、「ネガティブな想念」を持つことが「良い運気」を遠ざけ、「悪い運気」を引き寄せてしまうことは、我々の日常的な経験でも、明らかである。
しかし、一方で、我々の日常的な経験をさらに深く見つめるならば、こうした「表面意識」の世界だけでは説明できない「良い運気」「悪い運気」と呼ぶべき出来事が存在することも事実である。
そのため、人間の「表面意識」の世界の奥深くにある「無意識」の世界が、我々の人生における「運気」に影響を与えているという考えが、昔から語られてきた。
それが、第三の「個人的な無意識」の世界と、第四の「集合的な無意識」の世界である。
幸せになりたいと願いながら、不幸を引き寄せる人では、我々の第三の心の世界、「個人的な無意識」の世界とは何か。
良く知られているように、人間の心の奥深くにある「無意識」の世界については、これまで、ジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユング、アルフレッド・アドラーなどの心理学者によって深く研究され、様々な仮説が述べられてきた。
そうした研究が共通に語っていることは、要するに、次の三つのことである。
- 第一「無意識」の世界の状態は、我々の「意識」の世界からは明確に自覚できない
- 第二「無意識」の世界の力は強く、しばしば、それが「意識」の世界に大きな影響を与えてしまう
- 第三「無意識」の世界に働きかけて、それを意識的に変えることは容易ではない
この三つのことから、我々の人生においては、自分でも気がついていない無意識の世界が自分の行動を支配してしまい、人生の選択を誤らせてしまうことがある。
例えば、表面意識では「幸せな結婚がしたい」と願いながら、いつも、相性の悪い相手と巡り会い、不幸な結婚生活と離婚を繰り返す人がいる。
これは、ある意味で、結婚について「悪い運気」を持った人とも言えるが、こうした人の無意識の世界を、精神分析家のカール・メニンガーは、『おのれに背くもの』という著書の中で、様々な分析を行っている。
その一つの原因となるのが、無意識の中にある「自己懲罰意識」である。
すなわち、過去の人生において、自分を責めざるを得ない出来事があったとき、それが強いトラウマ(心的外傷)となって無意識の世界に固着し、その無意識の世界に生まれる「こんな自分は、幸せになってはいけない」「こんな自分には、きっと酷い罰が当たる」といった自己懲罰意識が、自分の人生の選択や行動を支配してしまうのである。
言葉を換えれば、ある人が引き寄せる「悪い運気」とは、実は、その人の無意識の世界にあるネガティブな想念が、その人の選択や行動を本人も気がつかない形で支配してしまうために起こる現象であるとも言える。
アメリカの名女優、メリル・ストリープが主役を演じる映画『ソフィーの選択』においても、この「自己懲罰意識」によって人生を支配されてしまう人間の姿が見事に描かれている。
ストリープ演じるユダヤ人女性、ソフィーは、戦争中、ナチスドイツの将校によって、二人の子供のどちらかを手放せと迫られ、心が張り裂けるような極限状況の中で、一人の子供を手放し、見殺しにしてしまう。
戦争が終わり、彼女は、極限の状況を生き延び、平和な生活に戻ることができるが、片方の子供を見捨てた自分を心の奥深くで責め続ける。
その結果、彼女を愛し、幸せな結婚を約束してくれるスティンゴの求愛を拒み、破滅的な人生を歩んでいくネイサンとともに、最後は自殺を選ぶことになる。
この物語に象徴されるように、我々の無意識の世界に生まれる「自己懲罰意識」は、自分自身の気がつかないところで、我々の選択と行動を支配し、不幸な人生を自ら選び取っていくように仕向けることがある。
すなわち、我々の無意識の世界に「自己懲罰意識」や「自己否定意識」のようなネガティブな想念が存在すると、気がつかないうちに、現実の人生において不幸な出来事を引き寄せ、「悪い運気」を引き寄せてしまうのである。
逆に、我々の無意識の世界に、「自分ならできる」「自分は価値ある人間だ」といった「自己肯定意識」や「自己尊重意識」があると、そのポジティブな想念が、人生において幸運と見える出来事を引き寄せ、「良い運気」を引き寄せていく。
ここで重要なことは、一人の人間が表面的に表している姿(表面意識の人格)と、その心の奥深くに潜む姿(無意識の人格)は、多くの場合、かなり異なっているということである。
ときに、それは、対極の姿であることさえ、珍しくはない。
例えば、か細い女性など、普段は、もの静かな雰囲気の人が、極限的な状況において、突如、極めて強い人格を表すということも、しばしばある。
逆に、いつもは「俺は負けない!」「絶対に勝つ!」といった強力なリーダーの姿を示す人が、ひとたび癌の宣告などを受けた瞬間に、その内面から痛々しいほどの弱さが現れてくることも、決して珍しくはない。
そして、もう一つ重要なことは、この「無意識」の世界は、「表面意識」の世界を経由することなく、「無意識」の世界同士で互いに感応するということである。
すなわち、先ほどの映画『ソフィーの選択』において、ソフィーとネイサンが惹かれあったのは、表面意識の働きによってだけではない。
実は、互いの「無意識」の世界のネガティブな想念が、まさに当人たちも自覚できないまま感応しあい、引き寄せあったのである。
この「無意識同士」の感応と、引き寄せあいは、第一話で述べた「類は友を呼ぶ」「類をもって集まる」という現象が起こる一つの理由でもあり、その一部は、非言語的コミュニケーションによって説明することもできるが、実は、それだけでは説明できない現象も、数多くある。
では、その場合、なぜ、「無意識同士」が感応しあうことが起こるのか。そのことを理解するためには、第四の心の世界、「集合的な無意識」の世界について知る必要がある。
なぜ、人は「視線」を感じることができるのかでは、そもそも、「集合的な無意識」とは何か。その説明をする前に、ここで一つ、あなたに伺いたい質問がある。あなたは、日常の生活の中で、ふと、誰か他人の視線を感じた経験はないだろうか。
例えば、仕事をしているとき、ふと、誰かが自分を見ているような気がして、その方向を見ると、たしかに誰かが自分を見ていたというような経験である。
実は、こうした経験を持つ人は、決して少なくない。
もし、あなたにその経験がなくとも、あなたの周りの人に聞くと、何人かは、そうした経験を持っているだろう。
筆者も、そうした経験が、しばしばある。また、小説や文学においても、「そのとき、ふと視線を感じて…」といった表現は、しばしば使われている。
では、なぜ、我々は、他人の「視線」を感じることができるのだろうか。
「視線」と言っても、何か光や音波を当てているわけではないので、これは物理的、科学的には説明のつかない現象であり、文字通り「以心伝心」とでも呼ぶべき不思議な現象であるが、それを、なぜ、我々は経験するのだろうか。
また、あなたは、こうした経験をしたことはないだろうか。あるとき、ふと、しばらく会っていない知人のことが心に思い浮かぶ。
すると、丁度、そのとき、その知人から電話がかかってきたり、その日、家に帰ると、その知人から手紙が届いているというような経験である。
こうした経験も、現在の科学では全く説明がつかないものであるが、実は、こうした経験をしたことのある人も、決して少なくない。
これは、第一話で述べた「シンクロニシティ」(不思議な偶然の一致)と呼ばれる現象であるが、筆者も、こうした経験が何度もある。
この本を書き始めた時期にも、夜、寝ているとき、もう何年も会っていない知人と出会う夢を見た。
滅多にそうした夢は見ないので、不思議に思い、その日、その知人に電話をすると、その日は、丁度、その知人の誕生日であった。
もとより、その日が彼の誕生日であることは全く知らなかったが、何かが、それを教えたとしか思えない出来事であった。
では、なぜ、我々の人生においては、こうした「シンクロニシティ」と呼ぶべき現象が起こるのだろうか。
その問いに一つの答えを与えてくれるのが、「集合的無意識」という仮説である。
この「集合的無意識」とは、英語で「CollectiveSubconsciousness」と呼ばれるものであり、前述の心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した概念であるが、分かりやすく言えば、人々の心は、深い無意識の世界で、互いに繋がっているという仮説である。
これは、非常に興味深い仮説であり、もし、この仮説が真実であるならば、先ほどの「以心伝心」の現象や「シンクロニシティ」の現象は、十分に説明がつくが、実は、現代においては、こうした考え方は、もはやユングだけの概念ではなく、このユング心理学を源流として生まれてきた現代心理学の新たな潮流、「トランスパーソナル心理学」(超個心理学)として一つの心理学体系を生み出している。
この「集合的無意識」や「トランスパーソナル的無意識」(超個的無意識)の仮説に基づけば、これ以外にも、昔から語られる不思議な現象は、説明がつくことになる。
それは、永年連れ添った夫婦が、何も言わなくとも、互いの気持ちが分かるということや、さらには、その夫婦が、全く同じタイミングで、同じことを口にするといった「以心伝心」の現象が起こる理由が説明できるだけではない。
さらには、昔から、「枕元に立つ」という言葉が語られるが、誰かが亡くなったとき、同じ時刻に、遠く離れた土地に住む家族や親戚のところで、その亡くなった人が、枕元に立った、という経験談である。
実は、こうした経験を持った人は、昔から、何人も存在するがゆえに、「枕元に立つ」という定型句が生まれたわけであるが、これらは、いずれも、「何かの錯覚」や「思い違い」という言葉で切り捨てられないほど、現実感のある経験であったと報告されている。
筆者は、序話で述べたように、大学で科学的教育を受けた人間であり、永年、工学的研究に携わってきた人間であるため、こうした現象を、単純に「霊魂の存在」や「死後の世界」といった考えに飛躍して説明することには強い抵抗を感じるが、一方で、自らの体験からも、こうした不思議な現象が存在することは否定できず、こうした現象を説明できる一つの有力な仮説として、「集合的無意識」という概念は、検討に値すると考えている。
すなわち、「霊魂の存在」や「死後の世界」といったことを想定せずとも、この「集合的無意識」という概念、つまり「人々の心は、深い無意識の世界で、互いに繋がっている」という仮説に基づけば、言語的メッセージや非言語的メッセージを使ったコミュニケーションができない、遠く離れた人間同士の間でも、「以心伝心」や「シンクロニシティ」といった形での何らかのコミュニケーションが発生することは説明できる。
なぜ、同じような犯罪が、同時多発するのかそして、こうした「ある人の想念が、集合的無意識を通じて、他の人に伝わる」という現象、「以心伝心」や「シンクロニシティ」といった現象は、一対一の人間同士の間でも起こるが、実は、一つの人間集団の間でも起こる。
その一つの悪い事例が、ある国や地域において、同じような犯罪が同時多発するという現象である。
例えば、この本が上梓される二〇一九年には、アメリカの各地で、学校やショッピングモールなどでの「銃乱射事件」が頻発したが、これは、単に、一つの犯罪に刺激を受けて、他の同様の犯罪が誘発されたというだけでは、簡単に説明できない現象であろう。
むしろ、一つの国や地域、社会やコミュニティにおいて、人々の「集合的無意識」の状態が全体としてネガティブになることによって、一人一人の「個人的無意識」の世界に影響を与え、その影響を悪い形で受けた人々が、こうした「銃乱射」という犯罪に走っていると考えることもできる。
実際、こうしたアメリカでの「銃乱射事件」の背景には、移民に対する差別や憎悪の意識があるが、これは、一国を象徴する大統領が、そうした差別や憎悪の発言をし続けることによって、国民の「集合的無意識」にネガティブな想念を生み出している結果とも考えられる。
こうした問題については、もとより、解釈の分かれるところであろうが、組織でも、社会でも、国家でも、一つの人間集団の「集合的無意識」がネガティブな状態になると、その組織や社会や国家において、犯罪や事故や病気などの悪しき現象が多発し、「悪い運気」を引き寄せる結果になることは、大いに考えられることであろう。
一方、逆に、ある地域の人々の「集合的無意識」をポジティブな想念で満たされたものにすることによって、犯罪や事故や病気を減らしていこうとする試みも、かつて行われている。
それは、宗教家、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーによって提唱された「超越瞑想」(TranscendentalMeditation)による社会実験である。
このマハリシは、英国のロックバンド、ビートルズにも大きな影響を与えた人物でもあるが、この社会実験は、「一つの都市で、人口の一パーセントの人々が超越瞑想を行うようになると、集合的無意識が浄化され、ポジティブになり、その都市での犯罪発生率が、有意に低減する」という仮説を実証しようとしたものである。
これは、「マハリシ効果」と呼ばれるものであるが、マハリシ国際大学によって、アメリカの各地域で様々な社会実験が行われ、統計的に有意ないくつもの結果を得たと報告されている。
このように、「集合的無意識」や「超個的無意識」の仮説は、空間を超えて人間の想念が伝わる現象や、何かのコミュニケーションを行わなくとも人間集団の間に一つの想念が共有される現象を、合理的に説明することができる。
しかし、この「集合的無意識」や「超個的無意識」の仮説では、「空間を超えたシンクロニシティ」は説明できるが、「時間を超えたシンクロニシティ」は、説明できない。
では、「時間を超えたシンクロニシティ」とは、何か。
なぜ、人は「この光景は、前に見たことがある」という既視感を覚えるのかそのことを説明するためには、第五の心の世界、「超時空的な無意識」の世界について述べる必要があるが、ここで、また、あなたに一つの質問をしたい。
あなたは、「デジャヴ」(既視感)という現象を経験したことがあるだろうか。
「デジャヴ」とは、「既に見た」という意味のフランス語「déjàvu」であるが、日常生活の何気ない瞬間に、「ああ、この光景と全く同じ光景を、以前に見たことがある」と感じる現象のことである。
この現象については、「視覚神経と脳神経が引き起こす錯覚である」と科学的に説明しようとする議論もあるが、この「デジャヴ現象」を経験した多くの人は、その説明では納得できないほどの現実感を覚える。
この「デジャヴ現象」は、特に、若い時代ほど経験すると言われるが、筆者も、中学校時代から高校時代までに、この「デジャヴ現象」を、かなりしばしば経験した。
あなたも、一度や二度は、その経験があるのではないだろうか。また、昔から、「夢に見たことが、現実になる」という経験も、多くの人々によって報告されている。
いわゆる「予知夢」や「正夢」と呼ばれるものである。
有名な例で言えば、米国の大統領、リンカーンは、自身が暗殺される一週間前に、それを予知する夢を見たと言われている。
筆者は、この「予知夢」や「正夢」の経験はあまり無いが、もしかして、あなたは、その経験があるかもしれない。
では、なぜ、我々は、「デジャヴ現象」や「予知夢」「正夢」という形で「未来が見えていた」や「未来が見える」という体験をするのだろうか。
これは、過去に見た光景や、過去に見た夢が、目の前の現実と、不思議な一致を示すという意味で、「時間を超えたシンクロニシティ」と呼ぶことができるが、では、なぜ、このようなことが起こるのだろうか。
いや、さらに言えば、「デジャヴ現象」や「予知夢」「正夢」だけでなく、我々の人生においては、未来を予見する「占い」が当たるときがある。
なぜ、「占い」が、当たってしまうのかあなたは、「占い」というものが当たると思われているだろうか。それとも、「占い」など迷信だと思われているだろうか。
実は、筆者は、世の中に溢れる「占い」というものをあまり信じていないのだが、それでも、自分の人生を振り返るとき、なぜか、不思議なほど「占い」が当たった経験が、いや、当たってしまったと言うべき経験が、いくつかある。
それは、筆者が中学二年生のときのことである。いよいよ高校受験を翌年に控えた時期、筆者は、都立のH高校への進学を希望していた。
当時の学校の成績を考えると、H高校への進学は、それほど難しくはなかったのであるが、あるとき、母が縁を得たある易者に、将来の進路を見てもらうことにした。
それは、当たることで有名な易者であったが、「私は、H高校へ進学できるか」を占ってもらったところ、何度、易を立てても、「H高校には進学できない」との卦が出た。
普通なら進学できるはずの高校に進学できないという占いの結果を見て、筆者は「受験日に病気にでもなるのだろうか」と、いぶかしげに思った。
しかし、年が明けて、中学三年生になったとき、予想もしなかったことが起こったのである。
その年から、東京都には「学校群制度」が導入され、H高校は他のK高校、M高校と一つの学校群になり、試験に合格しても、最後は抽選で、どの学校に配属になるかが決まるという制度になってしまったのである。
そのため、筆者は、仕方なく、国立のT高校に進学することにせざるを得なくなり、結果として、易者の占いは当たり、H高校には進学できなくなったのである。
「占い」が当たったもう一つのエピソードは、筆者が大学院を終えて、就職をするときのことである。
筆者は、大学院の指導教官、K教授からの誘いもあり、博士号を得た後、その研究室の助手になることが内定していたが、あるとき、新宿の街角で、ある易者の前を通りかかったとき、ふと感じるものがあり、自分の進路を占ってもらったのである。
すると、その易者の最初の占いでは、「あなたは、目上の人に引き上げてもらえる人生になる」との結果が出た。
「それは、たしかにそうだ…」と思っていると、「その目上の人が、どこに住んでいるかを占ってあげましょう」と言う。
そこで、その二番目の占いをしてもらったが、その占いの最中、筆者は心の中で、「自分は、K教授に助手に引き上げてもらう。そして、自分の家は東京にある。だとすれば、K教授は、湘南に住んでいるので、占いの結果は『南』と出るはずだ…」と思っていた。
ところが、その予想に反して、易者の占いは、「北」と出た。
このときも、いぶかしく思って、その易者の所を辞したが、それからしばらくして、あろうことか、K教授から「助手のポストが空かなくなった」との相談があった。
深い落胆のなか、仕方なく、他の就職先を探したところ、ある財閥系企業M社のA取締役から誘いがあり、そのM社に就職することになったのである。
すると、後で知ったことであるが、このA取締役は、当時、埼玉に住んでおり、「北」に住んでいる人であった。
さらに不思議なことに、この易者は、その占いのとき、筆者に、こう付け加えていた。
「あなたを引き上げる人は、さらに高い地位に登っていくでしょう」そして、その易者の予見通り、このA取締役は、それから一四年後に、この財閥系企業M社の社長になったのである。
筆者のこうしたエピソードを聞かれて、あなたは、どう思われるだろうか。
もとより、こうしたエピソードを、「単なる偶然」と片づけることもできるのだが、世の中には、こうした形で「占いが当たった」という体験を持つ人は、決して少なくない。
そして、「占い」が当たるのは、実は、占い師や易者が「当てる」のではなく、占いや易を立ててもらう人の心の奥深くの「何か」が、その「占い」の結果を引き寄せるのであると言われるが、そうした意味で、筆者には、「占い」が当たるということだけでなく、従来の科学では説明できない不思議な体験が、数多くある。
その一つが、「未来の記憶」とでも呼ぶべき体験である。
なぜ、「未来」が見えるときがあるのか「未来の記憶」とは、あるとき遭遇した出来事が、あたかも自身の未来を予見していたかのように感じられる不思議な体験である。
これも、筆者のエピソードを、二つ述べておこう。
一つは、その財閥系企業M社で営業担当者として仕事をしていた一九八九年夏のことである。
いつものように、東京都内を営業先へ移動していたとき、乗っていたタクシーが赤坂見附から弁慶橋に向かった瞬間、なぜか、目の前に聳え立つビルが気になり、思わず客席から身を乗り出し、「運転手さん、あのビルは、何というビルですか?」と訊いたのである。
それに対して、運転手は、「ああ、あれは、最近できた紀尾井町ビルですよ」と答えた。
タクシーに乗ることは、実社会に出てそれまでの九年間で何百回とあったが、後にも先にも、目に入ったビルの名前を訊くことなど無かったこともあり、なぜ、このビルが気になったのか、不思議であった。
しかし、その年の暮れ、これも不思議な縁に導かれ、筆者は、勤めていたM社を辞め、新たに創設される銀行系シンクタンクに設立メンバーとして参画することになった。
そのことを決めた後、ふと気になって、そのシンクタンク設立準備室の人事担当部長に訊いたのである。
「ところで、このシンクタンクのオフィスは、どこに置くのですか?」その問いに対する部長の答えを聞いて、筆者は、驚きを隠せなかった。
なぜなら、その部長は、「ええ、オフィスは、紀尾井町ビルに置きます」と答えたからである。これは、「単なる偶然」なのであろうか。
あるとき、あるビルが目に入り、なぜか、そのビルが気になって、珍しく運転手に、そのビルの名前を訊いた。
しかし、そのビルは、それから数か月後に転職をする会社が入居するビルであった。それは、「単なる偶然」なのであろうか。
それとも、筆者が転職することと、そのビルで働くことになることを、自分の無意識は予見していたのであろうか。
もう一つのエピソードは、一九八五年のことである。筆者は、会社の仕事の関係で、米国のワシントン州、R市にある、ある国立研究所を訪問した。
そして、金曜日に仕事を終え、週末をホテルで過ごしていたところ、その研究所に勤める米国の友人が、私をドライブに誘ってくれたのである。
そのドライブの最中、友人が、知人への届け物があるということで、市内の、ある住宅街に立ち寄った。
そこで、彼が届け物をしている間、私は、カメラを取り出し、車を降り、その住宅街の風景を、何気なく、何枚かの写真に収めたのである。
しかし、その写真は、帰国後、他の海外出張の写真などと一緒に、無造作に写真箱に投げ込まれ、私の記憶からは全く消えていた。
そして、それから二年後の一九八七年、これも何かの縁に導かれ、筆者は、この研究所に客員研究員として勤めることになり、着任後、R市内に、ある住宅を見つけ、その家に住むことになった。
しかし、この研究所での一年半の勤務を終え、帰国のための荷造りをしているときのことである。
たまたま、その写真箱が目に留まり、過去の海外出張の写真を取り出し、懐かしく眺めていたところ、ふと一枚の写真が目に入ったのだが、その瞬間、驚きとともに、目が釘付けになった。
それは、三年半前のあのドライブのとき、何気なく撮った数枚の写真の一枚であった。
その写真は、ある住宅を真正面から写したものであったが、その住宅は、驚くべきことに、いま住んでいる家だったのである。
これも、「単なる偶然」なのであろうか。ドライブの最中、何気なく、一軒の住宅の写真を撮った。その市内に無数にある住宅のうち、一軒を、無意識に撮った。
一方、着任後、無数の住宅のうち、偶然、一軒の住宅を見つけ、そこに住んだ。
しかし、不思議なことに、その二つの家は、同じ家であった。それも、「単なる偶然」なのであろうか。
それとも、筆者が米国で働くことになること、そして、そのとき住む家を、自分の無意識は予見していたのであろうか。
この二つのエピソードは、まさに、あるときの出来事が、あたかも未来を予見していたかのように感じられる現象であり、「未来の記憶」とでも呼ぶべき現象である。
もとより、こうした出来事もまた、現在の科学では説明のつかない現象であり、やはり「単なる偶然」として片づけることもできるが、実は、筆者には、こうした「未来の記憶」と呼ぶべき体験が、極めて多くある。
あなたは、これまでの人生において、こうした体験、自分の未来を「予感」したり、「予見」したような体験はないだろうか。
筆者は、折に触れ、内々の会話として、色々な知人に、こうした体験の有無を聞いているが、予想以上に、こうした「予感」や「予見」の体験を持った人は多い。
ただし、それらの知人は、こうした体験を語ることが、周囲の誤解を受けることを懸念し、あまり積極的に口に出しては言わないことも、一面の事実である。
筆者もまた、そうした誤解を受けることを懸念する人間であり、本書で、こうした体験を語ることに、正直に言えば、ためらいはある。
そして、何度も述べてきたように、筆者は、科学的教育を受け、工学研究者としての道を歩んできた人間でもあり、こうした現象を、すぐに「霊的世界」や「背後霊」、「超能力」や「UFO」といった思考停止的な解釈に結びつける非科学的説明には、全く納得がいかない人間でもある。
だが、一方で、筆者は、そうした科学的・研究者的バックグラウンドを持つがゆえに、現実に自分自身が何度も体験する「予感」や「予見」、さらには「未来の記憶」と呼ぶべき出来事について、何らかの科学的説明が存在しないのかを考える人間でもある。
では、なぜ、我々の人生においては、こうした「予感」や「予見」、「未来の記憶」と呼ぶべき現象が起こるのか。そうした現象に、科学的説明はできないのだろうか。
最先端の量子科学が解き明かす「運気」の正体そもそも、こうした「予感」や「予見」、「未来の記憶」のような現象は、過去に見た光景や、過去に撮った写真が、未来に起こる現実と、不思議な一致を示すという意味で、「時間を超えたシンクロニシティ」と呼ぶべき現象であるが、では、なぜ、こうした現象が起こるのか。
本書においては、誤解を恐れず、敢えて、現代科学の最先端で議論されている一つの「仮説」を述べよう。
ただし、以下に述べることは、一見、我々の日常的な常識を超えた理論と思われるかもしれないが、それは、決して怪しげな理論ではなく、原子力工学の博士課程で学んだ筆者の知見から見ても、一つの科学的仮説として検討に値するものである。
では、その仮説とは何か。
それは、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」と呼ばれるものである。
この「ゼロ・ポイント・フィールド」(ZeroPointField)とは、端的に言えば、この宇宙のすべての場所に遍在するエネルギー場のことであるが、この場に、宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されているという仮説である。
こう述べても、分かりにくいと思うが、現代科学の最先端の量子物理学(QuantumPhysics)においては、何もない「真空」の中にも、膨大なエネルギーが潜んでいることが明らかにされている。
このことは、「真空=無」と考える一般の常識からすると、なかなか理解できないことであるが、量子物理学では、「量子真空」(QuantumVacuum)と呼ばれる極微小の世界の中に、膨大なエネルギーが存在していると考えられている。
そのことを象徴するのが、現代の最先端の宇宙物理学が提唱する「インフレーション宇宙論」である。
これは、我々の生きるこの宇宙が、どのようにして誕生したかという「宇宙創成」の理論であるが、この理論においては、一三八億年前には、この宇宙は存在しなかった。ただ、そこには、量子真空が存在した。
しかし、その量子真空が、あるとき、ふと「ゆらぎ」を起こし、その直後に、急激な膨張(インフレーション)を生じ、大爆発(ビッグバン)を経て、この宇宙が誕生したと考えられている。
このように、量子真空は、その中に、この壮大な宇宙を生み出すほどの膨大なエネルギーを宿しているが、この量子真空の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場が存在し、その場に、この宇宙の過去、現在、未来のすべての出来事が、「波動」として「ホログラム的な構造」で記録されているという仮説が、現在、注目されているのである。
ここで、この宇宙で起こったすべての出来事が「波動」として記録されていると述べると、あなたは驚かれるかもしれないが、それは、実は、現代の最先端科学の視点から見ると、極めて合理的な仮説である。
なぜなら、先ほどの量子物理学が明らかにしているように、我々の目の前にある「物質」というものは、本来、存在しないからである。
こう述べると、さらに驚かれるかもしれないが、我々が「物質」と思っているものの実体は、すべて、「エネルギー」であり、「波動」に他ならず、それを「質量を持った物質」や「固い物体」と感じるのは、我々の日常感覚がもたらす錯覚にすぎない。
従って、「この宇宙で起こったすべての出来事」とは、それが、銀河系宇宙の生成であろうが、この地球の誕生であろうが、あなたが地球上に生を享けたことであろうが、いま、この本を読んでいることであろうが、究極、すべては、この宇宙の中で起こった「エネルギー」と「波動」の動きに他ならず、その「波動」のすべての痕跡が、「波動干渉」の形でホログラム的に記録されているという仮説は、ホログラムというものが、ほぼ無限に近い膨大な情報を記録できることを考えるならば、科学的に見ても、一定の合理性を持っていると言える。
この「ホログラム構造」については、後ほど、説明しよう。
すでに、「未来」は存在するのか
ただ、こう述べると、あなたは、次の疑問を持たれるのではないだろうか。
「いま、『未来のすべての情報』と言ったが、未来とは『未だ来たらず』という意味であり、まだ存在していないから『未来』ではないのか?」たしかに、「未来」とは「未だ来たらず」という意味の言葉であり、「過去」とは、「すでに過ぎ去った」という意味の言葉である。
そのため、我々は、「過去」とは、一度生起し、存在したものであるが、「未来」とは、まだ生起しておらず、存在していないものであると考える。
そして、この「時間は過去から未来に向かって一方向に流れていく」という感覚は、我々の日常感覚そのものでもあるため、我々は、「未来とは、まだ、存在していないもの」であるということを「常識」と思っている。
筆者の日常感覚も、当然ながら、その通りである。
しかし、驚かれるかもしれないが、実は、現代物理学の世界では、過去、現在、未来は、同時に存在しているものとされている。
例えば、かつて、天才的物理学者、アルバート・アインシュタインは、良く知られる「相対性理論」(TheoryofRelativity)において、我々が生きる三次元の「空間」に、第四の次元として「時間」を加え、四次元の「時空連続体」(SpaceTimeContinuum)という考え方を提唱した。
この「時空連続体」においては、過去、現在、未来は、同時に存在するものとして扱われている。
また、やはり、現代の最先端物理学者、ポール・デイヴィスは、時間というものを「タイムスケープ」(TimeScape)として捉えている。
それは、丁度、「ランドスケープ」(LandScape)、すなわち「風景」と同様、地図を広げると、すべての山や河や地形が一目で見て取れるように、この宇宙の空間的な広がりのすべてと、宇宙の時間的広がり(歴史)のすべてが、一目で見て取れるものである。
この「タイムスケープ」においても、過去、現在、未来は、同時に存在するものとして捉えられている。
このように、現代物理学における時間の捉え方は、我々一般の人間の「日常感覚」としての時間の捉え方とは、大きく異なっているため、「過去、現在、未来のすべての情報」と言われると強い戸惑いを覚えるが、ひとたび、この捉え方を受け入れると、なぜ、我々が「予感」や「予見」「未来の記憶」といったものを感じるのか、その理由を理解するための扉を開くことができる。
ちなみに、アインシュタインが、友人との書簡の中で、次の言葉を残していることは、良く知られている。
「我々物理学者にとっては、過去、現在、未来というものは幻想なのです。それが、どれほど確固としたもののように見えても、幻想にすぎないのです」
我々の「未来」と「運命」は、すでに決まっているのか
しかし、こう述べても、なお、あなたは、次の疑問を持たれるかもしれない。
「そのゼロ・ポイント・フィールドに、『過去』と『現在』だけでなく、『未来』の情報も記録されているということは、我々の人生の未来は、すべて決まってしまっているのか?我々の運命は、すべて決まってしまっているのか?」これも、当然の疑問であろう。
しかし、この疑問に対する答えは、「否、我々の人生の未来は決まっていない」である。
なぜなら、先ほど、未来の出来事を夢の中で見る「予知夢」ということを述べたが、世の中では、この予知夢を見た結果、それが現実になった事例と、予知夢を見て行動を変えた結果、それが現実になることを回避した事例の両方が存在するからである。
前者の事例としては、先ほど述べたリンカーン大統領の予知夢があるが、一方で、自分が乗った船が沈む夢を見て乗船を取りやめたら、その船は沈んだが、自分は助かったという事例も存在するからである。
では、なぜ、こうした正反対のことが起こるのか。
実は、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に記録されている未来は、「可能性の未来」だからである。
言葉を換えれば、このフィールドに繋がることによって予見される未来は、無数にある未来の可能性の中で、最も起こりそうな未来だからである。
従って、現在の行動が変わることによって、その最も起こりそうな未来ではない、別の未来が実現することも大いにある。
少し難しい専門的な話になるが、量子物理学の世界では、例えば、電子の位置は、観測する前は、様々な場所に存在する可能性の集まり、すなわち「確率分布」としてしか分からない。
しかし、観測することによって、その位置が「確定」するのである。
これが、量子力学における「波動関数」(WaveFunction)の考え方であるが、量子真空を実体とする「ゼロ・ポイント・フィールド」も、同様に、様々な「未来」の可能性を「確率分布」の情報として持っているのであり、それが「現在」になった瞬間に、一つの可能性が「現実」として「確定」するのである。
従って、我々が「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がって「未来」を予見するとき、それは、確実に到来する未来を予見しているのではない。
それは、最も起こりそうな、高い確率の未来を予見しているのである。
そして、我々が具体的な行動を通じて、その「可能性の未来」を「現在」にしたとき、一つの未来が確定するのである。
こう述べても、まだ分かりにくいと感じられるかもしれないが、紙幅の許す範囲で説明すると、これが「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」が教える「可能性の未来」である。
なぜ、我々の心が「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がるのか
さて、もう一つ、やはり専門的な話になるが、大切なことを説明しておこう。
先ほど、「ゼロ・ポイント・フィールド」には、すべての情報が「波動」として「ホログラム的な構造」で記録されていると述べたが、これは、正確には、波の干渉を使った「ホログラム」の原理で情報が記録されているという意味である。
ホログラムとは、人気映画『スター・ウォーズ』で、主人公、ルーク・スカイウォーカーの前に、レイア姫が、小さな投影機から三次元の立体映像として浮かび上がるシーンがあるが、あれが、ホログラムである。
このホログラム技術は、「波動干渉」を利用して情報を記録する技術であるが、角砂糖ほどの大きさの媒体に、国立図書館の全蔵書の情報が収められるほど、膨大な情報が記録できるものである。
従って、「ゼロ・ポイント・フィールド」がホログラム的な構造で情報を記録しているのであれば、ほぼ無限に近い膨大な情報を記録することが可能である。
そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」は、我々の「心」が、この「ゼロ・ポイント・フィールド」と量子レベルで繋がっており、そのため、我々は、「ゼロ・ポイント・フィールド」から情報を受け取ることができ、また、この場に情報を送ることができるという仮説でもある。
これも、我々の日常感覚では理解し難い仮説であるが、実は、現代の最先端の脳科学の世界では、この仮説を裏付ける「量子脳理論」(QuantumBrainTheory)に注目が集まっている。
この理論は、理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフによって提唱されているものであるが、分かりやすく言えば、我々の脳の働きにおいて、量子的プロセスが深く関与しているとの観点から、意識の問題や脳内コミュニケーションの問題を解明しようとするものである。
従って、もし我々の脳が、そのコミュニケーションに量子的プロセスを使っているのであれば、この脳が、「ゼロ・ポイント・フィールド」と量子レベルで繋がっていることは、大いにあり得ることである。
ただし、冒頭の記述で、「脳」ではなく「心」と書いたのは、脳科学の研究が進んだ現在でも、「心」というものが「脳」の作用から生まれてくるものなのか、それとも、「身体全体」の作用から生まれてくるものなのか、さらに、それ以上の何かなのかが、明らかになっていないからである。
この点は、先ほどの「量子脳理論」とともに、「量子生物学」の分野が進展することによって明らかになっていくであろうが、いずれにしても、我々の「心」が、量子的プロセスで「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がっているという仮説は、十分、科学的検討に値するものであろう。
なぜ、「引き寄せの法則」というものが存在するのかそして、もし、この「ゼロ・ポイント・フィールド」のホログラム仮説と「量子脳理論」の仮説が正しければ、なぜ、我々の心の中に存在する想念が、それと似たものを「引き寄せる」のかについても、合理的な説明がつく。
なぜなら、「ゼロ・ポイント・フィールド」に記録されている情報は、それが先に述べたホログラム的な記録であるならば、「波動」として記録されており、また、我々の脳や心の中に存在する想念も、それが量子的プロセスで存在しているのであれば、これも「波動」として存在しているからである。
そして、物理学の世界で良く知られているように、一つの波動は、その波動と「類似の周波数」のものと「共鳴」を起こすからである。
従って、我々の脳や心の中にある想念は、脳や心が「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がるとき、そのフィールド内にある「類似の情報」と「共鳴」を起こし、「引き寄せ」を起こすと考えられる。
それが、我々が心の中に抱いた想念は、それと「類似のもの」を引き寄せるという「引き寄せの法則」が存在する理由であると考えられる。
もとより、これは、現時点では、一つの「仮説」にすぎないが、この「仮説」は、なぜ、「引き寄せの法則」というものが、古今東西、多くの識者によって一つの「理論」として語られ、また、多くの人々によって「体験」として認められているかについて、科学的な説明の光を当てることができるものであろう。
さて、少し難しい説明になってしまったが、もう一度要点を述べるならば、「量子真空」を前提とした、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、次の三つを柱とする仮説である。
- 第一この宇宙のすべての場所には、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれるエネルギー場が遍在している。
- 第二そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」には、我々の生きるこの宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されている。
- 第三従って、我々の心が、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に何らかの形で繋がったとき、我々は、過去、現在の出来事はもとより、未来に起こる出来事をも、予感、予見することができる。
すなわち、我々の心の世界には、この「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がる第五の世界、「超時空的な無意識」の世界があり、このフィールドには時空を超えたすべての情報が集まっているため、この「超時空的無意識」の心の状態になると、「空間を超えたシンクロニシティ」だけでなく、「時間を超えたシンクロニシティ」が起こると考えられる。
「死後の世界」や「前世の記憶」「生まれ変わり」は、全くの迷信なのか
そして、もし、「量子真空」の中に存在する、この「ゼロ・ポイント・フィールド」の性質が科学的に明らかにされ、「時間と空間を超えた情報伝達」が起こることが説明できるならば、これまで科学が説明できなかったがゆえに、「偶然」や「錯覚」、「誤解」や「幻想」、「思い込み」や「迷信」などとされてきた、次のような現象についても、合理的な説明が可能になる。
「以心伝心」「テレパシー」「透視」「遠隔透視」「予知」「予言」「デジャヴ」「未来の記憶」「枕元に立つ」「夢枕に立つ」「霊的交信」「背後霊」「前世の記憶」「生まれ変わり」こう並べると、筆者が、極めて怪しげなことを述べていると思われるかもしれないが、それは、逆である。
こうした言葉で表される不思議な現象や体験は、昔から極めて多くの人々によって報告されているが、科学的に、その存在の有無が証明できないがゆえに、多くの人が、「超能力」や「死後の世界」「霊的世界」「前世」といった、その実体の分からない「ブラックボックス」的な概念を、半信半疑ながらも、受け入れている。
それに対して、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」は、そうした不思議な現象や体験が生まれてくる理由を、それなりに科学的な基盤のうえに説明しようとするものであるため、「ブラックボックス的思考」、すなわち、実体の分からない概念を無条件に受け入れ、思考停止に陥ってしまうという落し穴を避けることができるのである。
ただし、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」は、我々の誰もが心の奥深くに抱いている「死への恐怖」と、そこから生まれてくる「死んでも命はあると思いたい」「死後の世界があって欲しい」という願望に対して、冷静かつ客観的に、その願望とは別な解釈を提示してくる可能性もある。
その意味は、また別の機会に語ろう。
昔から多くの人々が信じてきた「神」や「仏」というものの実体は何か
以上述べてきたことが、現代科学の最先端が解き明かしつつある「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれるものであり、本書において第五の心の世界、「超時空的無意識」の世界と呼ぶものであるが、もし、現代科学によって、この「ゼロ・ポイント・フィールド」の性質が解明されるならば、それは、数千年の歴史を超え、人類が永く抱いてきた最も重要な問いに、答えを出す可能性がある。
それは、「神」「仏」「天」というものの実体は何か、という問いである。
もし、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」が正しければ、このフィールドには、この宇宙の過去、現在、未来のすべての出来事の情報が記録されており、そこに生まれたすべての叡智が記憶されている。
そして、このフィールドに繋がることによって、様々な「引き寄せ」が起こり、様々な出来事が起こるとすれば、このフィールドこそが、人類の歴史始まって以来、多くの人々が信じてきた「神」「仏」「天」と呼ばれるものの実体に他ならない。
そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がる方法が、昔から、様々な信仰や宗教において、「祈り」や「祈祷」、「ヨガ」や「座禅」、「瞑想」と呼ばれてきた諸種の技法に他ならない。
そうであるならば、こうした技法によって、我々の心が、ポジティブな想念を持ち、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に深いレベルで繋がるとき、様々な「引き寄せ」の現象が起こり、「直観」「予感」「好機」「シンクロニシティ」「コンステレーション」といったことが起こり、「良い運気」を引き寄せていくことは当然であろう。
すなわち、こう考えてくるならば、多くの人々が、「神」「仏」「天」の存在を信じ、「祈り」や「祈祷」を通じて、「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がり、「良きもの」を引き寄せたとき、「神の加護」「仏の慈悲」「天の導き」が与えられたと感じることにも、合理的な理由があると言える。
なぜ、最先端の科学の知見と、最古の宗教の直観が一致するのかところで、先ほど、「ゼロ・ポイント・フィールドには、この宇宙の過去、現在、未来のすべての出来事の情報が記録されている」と述べた。
もし、それが本当であるならば、このフィールドに繋がることによって、この宇宙の始まりの瞬間の情報も、我々は、知ることができるのであろうか。
そのことを考えるとき、「最先端の科学の知見」と「最古の宗教の直観」の間に起こっている不思議な一致に気がつく。
なぜなら、現代科学の最先端宇宙論によれば、先ほど述べたように、この宇宙は、一三八億年前に「量子真空」から生まれたとされているからである。
そして、その「量子真空」が、あるとき「ゆらぎ」を起こし、急激に膨張してインフレーション宇宙を生み出し、続いて、大爆発を起こしてビッグバン宇宙を生み出し、このビッグバンの直後に、この宇宙は、「光子」(フォトン)で満たされたとされているからである。
こう述べてくると、科学と宗教の間に、不思議な一致があることに気がつく。
なぜなら、仏教の経典『般若心経』においては、「色即是空、空即是色」と語られており、この「世界」(色)は、すべて「真空」(空)から生まれてきたと述べているからである。
また、キリスト教の『旧約聖書』、天地創造を語った創世記の冒頭の一節は、「神は『光あれ』と言われた」と書かれており、神がこの世界を創ったとき、最初に「光」(光子)が生まれたと述べているからである。
これは、単なる「偶然の一致」であろうか。この「最先端の科学の知見」と「最古の宗教の直観」との一致は、単なる偶然なのであろうか。
しかし、もし、この『般若心経』を著した仏教の僧侶や、『旧約聖書』を著したキリスト教の聖職者が、「祈り」や「祈祷」を通じて「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がったのであれば、この宇宙が誕生した瞬間の記憶を、「宗教的な直観」として把握したとしても、決しておかしくはない。
さて、ここまで、筆者の考えを率直に述べてきたが、もとより、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」は、いまだ、科学的に証明された「実証理論」ではなく、現時点では、あくまでも「仮説」にすぎない。
しかし、この仮説は、現代科学の最先端の量子物理学や量子生物学の知見に基づいて考察されたものであり、筆者は、今後、様々な形で科学的検討をしていくに値する興味深い仮説であると考えている。
ちなみに、世界賢人会議ブダペストクラブの創設者、アーヴィン・ラズロ博士は、宇宙の過去、現在、未来のすべての情報を記録する、この「ゼロ・ポイント・フィールド」を、古代インド哲学で語られる「アーカーシャ」、すなわち、宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報が記録されている場の名称にちなんで、「アカシック・フィールド」(AkashicField)と呼んでいる。また、同様の概念は、実は、仏教の唯識思想にも存在する。
すなわち、唯識の思想に基づけば、我々の意識の奥には、「末那識」があり、さらにその奥には、「阿頼耶識」と呼ばれるものがある。
そして、この「阿頼耶識」には、過去のすべての結果であり、未来のすべての原因となる「種子」が眠っているとされている。
なぜ、天才は、アイデアが「降りてくる」と感じるのかところで、先ほど、我々の心は、この「ゼロ・ポイント・フィールド」と量子レベルで繋がっており、我々の心は「ゼロ・ポイント・フィールド」から情報を受け取ることができ、また、この場に情報を送ることができると述べた。
もし、そうであるならば、我々が発揮する直観力や想像力、発想力や創造力といったものは、実は、我々の「脳」が生み出すものではなく、「ゼロ・ポイント・フィールド」から与えられるものであるとも言える。
このこともまた、現時点では「仮説」にすぎないが、もし、このことが科学的に実証されるならば、我々が、自らの「才能」や「能力」というものを考えるときの、根本的なパラダイム転換をもたらす可能性がある。
実際、これまで世に現れた多くの「天才」と呼ばれる人々は、研究や学問、芸術や音楽など、分野を問わず、職業を問わず、そのアイデアや発想がどこから生まれてくるのかを問われたとき、誰もが、例外なくと言って良いほど、「どこかから降りてきた」「天啓のごとく与えられた」といった表現をする。
「頭で考え抜いて、思いついた」といった表現をする人は、あまりいない。
そうであるならば、我々一般の人間と、「天才」と呼ばれる人間の違いとは、生まれつきの脳の構造の違いでも、遺伝子的なDNAの違いでも、先天的な能力の違いでもなく、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれるものと繋がる能力の違いであり、その能力は、「心の世界を変える技法」を修得することによって、後天的に身につけられるものであるとも言える。
そして、本書の主題に戻って言えば、「良い運気を引き寄せる力」の違いというものも、実は、「持って生まれた運の強さ」といったものではなく、このフィールドに繋がる能力の違いであり、やはり、その力は、「心の世界を変える技法」を修得することによって、後天的に身につけられるものである。
こう述べると、あなたは、当然、次の疑問を持たれるだろう。では、その「心の世界を変える技法」とは、何か。
その技法については、この後、第四話、第五話、第六話において、詳しく語ろう。
無意識は、さらに深い心の世界への入り口にすぎないさて、以上、この第二話においては、我々の心には「五つの世界」があること、それぞれの世界で、どのような形で「引き寄せ」が起こり、どのようにして「良い運気」を引き寄せるのかについて述べてきた。
そして、我々の心が、どの意識のレベルと繋がるかによって、起こる現象が違ってくること、「運気」の表れ方も違ってくることを述べた。
では、我々が、人生や仕事において、「良い運気」を引き寄せるためには、この「心の五つの世界」にどう処するべきであろうか。
まず、ここまでの話を振り返ってみよう。
第一話では、我々の「心の状態」が、その心と共鳴するものを「引き寄せる」ことを述べ、従って、「良い運気」を引き寄せるためには、心の世界が「ポジティブな想念」で満たされていることが必要であることを述べた。
第二話では、我々の心には、次の「五つの世界」があることを述べ、それぞれの世界で何が起こるのかを述べた。
第一個人的な意識の世界
第二集合的な意識の世界
第三個人的な無意識の世界
第四集合的な無意識の世界
第五超時空的な無意識の世界
では、これらの話を踏まえ、我々が「良い運気」を引き寄せるためには、この「五つの世界」に、どう処すれば良いのか。
最初に結論を述べるならば、これら五つのうち特に重要なのは、その中心にある「個人的な無意識」の世界である。
この「個人的な無意識」とは、世の中では「潜在意識」や「深層意識」とも呼ばれるものであるが、本書では、この後は、短く「無意識」と呼ぼう。
そして、「個人的な意識」を「表面意識」と呼ぼう。では、なぜ、この五つのうち、第三の「無意識」の世界が重要なのか。三つの理由がある。
第一の理由は、人間集団や組織や社会における「集合的な意識」や「集合的な無意識」の世界は、小さな人間集団を除いて、個人の「表面意識」では直接的に働きかけることが難しいからである。
第二の理由は、「無意識」の世界の方が「表面意識」の世界よりも強力だからである。そのため、「無意識」の世界にネガティブな想念が満ちていると、「表面意識」の世界に、どれほどポジティブな想念があっても、「ネガティブなもの」を引き寄せ、「良い運気」を遠ざけてしまうからである。
第三の理由は、「無意識」の世界は、「集合的な無意識」の世界や「超時空的な無意識」の世界への入り口であり、この「無意識」の世界を通じて、さらに心の奥深くにある二つの世界に繋がることができるからである。
従って、「無意識」の世界をポジティブな想念で満たすことができると、「集合的な無意識」の世界や「超時空的な無意識」の世界でも「ポジティブなもの」を引き寄せ、「直観」や「予感」や「好機」、「シンクロニシティ」や「コンステレーション」という形で、「良い運気」を引き寄せることができるからである。
そして、先ほども述べたように、この「無意識」の世界をポジティブな想念で満たすことができるならば、「ゼロ・ポイント・フィールド」から、必要なものを、必要なとき、必要な形で引き寄せるため、ただ「良い運気」を引き寄せるだけではなく、直観力や想像力、発想力や創造力が大きく高まり、我々の中の「能力」も大きく開花していく。
では、「良い運気」を引き寄せ、「能力」を開花させるために、どうすれば、この「無意識」の世界をポジティブな想念で満たすことができるのか。
しかし、実は、この「無意識」の世界をポジティブな想念で満たすことは極めて難しい。
これまで多くの書籍や文献で「無意識を変える方法」として、表面意識にポジティブな想念を強く持てば、それが無意識の世界にも浸透し、「良い運気」を引き寄せるということが語られてきた。
だが、実際には、そうした方法を実践しても上手くいかないという人が多い。効果が得られないという人も多い。
それは、もしかすると、あなたも感じているのではないだろうか。では、なぜ、従来の方法が上手くいかないのか、なぜ、効果を発揮しないのか。
その理由を、次の第三話で明らかにしよう。
コメント