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第二章 なぜ人間は集い群れるのか

影響を与え続けるもの なぜ人は集うのか 人は安全をどう手にいれる 共同体に生きる人々

第二章 なぜ人間は集い群れるのか影響を与え続けるもの 1人の人間のなかでなにが起きているかを理解するには、周囲に対するその人の態度を観察する必要があります。

人と人との関係は、ある面では運命的に与えられ変化していくものであり、またある面では、計画を立てることができるものでもあります。

計画的な人間関係はとくに、政治に関わる部分、社会構成、公共体で見られます。

これらの関連を同時に検討しなければ、人間の精神生活は理解できません。

人間の精神生活は、意のままにできるものではなく、環境などから設定される課題につねに直面しています。

こうした課題はすべて、人間の共生という当然の論理とわかちがたく結びついています。

これは、人生の主要条件の1つで、個人に絶え間なく影響を与えながらも、個人からの影響は少ししか受けつけません。

人間の共生の条件は、数が多すぎて完全に把握することができないうえに、いくらか変化します。

この点を考えると、眼前の精神生活の暗がりを完全に明らかにすることはほぼできないとわかります。

自分の環境から距離をおくほど、これは難しくなります。

ただし、人間を知るための基本事実として、人が集まるとルールが生まれるということは想定しておく必要があります。

集団のルールは、この世界で制限を受けながら人間の身体と働きをなんとか適応させるときに自ずと明らかになります。

こうしたルールを絶対の真理のように想定しておかなければなりません。

わたしたちは誤りを克服しながらゆっくりと絶対の真理に近づいていくしかないのです。

この基本事実の重要な部分は、マルクスとエンゲルスの唱えた唯物論的歴史観のなかにはっきりと現れています。

2人の論では、経済的な基盤や、国民が生活費を得るための技術が、「イデオロギー的上部構造」、つまり人間の思考や行動を決めています。

ここまでは、「人間の共生という論理」や「絶対の真理」が影響を与えるというわたしたちの見解と同じです。

けれど、歴史からわかるのは、また、個々の人生に対するわたしたちの洞察、個人心理学からわかるのは、人間の精神生活は経済的な刺激に誤った反応をしがちで、その誤りから逃れるには時間がかかるということです。

「絶対の真理」へ向かうわたしたちの道は、多くの誤りの先へと続いています。

なぜ人は集うのか 共生が求められることは、そもそも、家を建てて寒さから身を守るなど、天候の影響で人間に必要になることと同じくらい当然のことです。

共生の強制は(より理解しにくい形であったとしても)宗教にも見られます。

宗教では、理解可能な思考よりも、社会という形式をあがめることで共同体をまとめます。

人生の条件は、宗教の場合は宇宙や世界による制約を受けるとするなら、思考によって生きる場合は社会による制約を受けます。

人間の共生や、そこから自ずと生じるルールや法則性が人生の条件となるのです。

共生を求められて、人は関係を作ります。

人と人の交わりは最初から当然のこととして、「絶対の真理」として存在しています。

人間が個々に生きるようになる以前に共同体があったからです。

人間の文化の歴史に、社会的でなかった生活はありません。

人間が存在するところには必ず社会があるのです。

これは簡単に説明できます。

動物界全体の法則、基本性質として、自然に立ち向かえる能力を示せない種は、まず連携して力を集め直してから、改めて独自の方法で外界に向かいます。

連携は人類にとっても有効なため、人間の精神器官には、共同体で生きる条件がいくつもたたき込まれました。

すでにダーウィンが、単体で生きる弱い動物は見つからないと指摘しています。

そしてこれは、人間にはとくに言えることだと考えなければなりません。

人間は 1人で生きられるほど強くはないからです。

わずかしか自然に抵抗できない人間は、生活をして自己を維持するためにほかの動物よりも補助具を必要とします。

文化の補助具もなく、 1人でジャングルに立つ人の状況を想像してください。

どんな生き物よりもはるかに危険にさらされているように見えるでしょう。

その状況で、戦って身を守るための速く走れる足もなく、動物のような強靱な筋力もなく、肉食獣のような牙も、優れた聴覚や視覚もないのです。

まず生きる権利を確保し、破滅から身を守るために、途方もない労力が必要です。

食事は独特ですし、生活にはしっかりとした安全の確保が必要なのです。

条件が非常にいいときにだけ、人間が生きてこられたことがわかるでしょう。

けれど、こうした好条件は、集団で暮らすことでやっと手に入ったのです。

共生の必要性が判明したのは、個人が果たすべき課題を分業という形でなら達成することができたからです。

分業することでのみ、攻撃や防御の武器など、身を守るのに必要なすべてのものが調達できました。

これがいま文化という言葉でまとめられているものです。

子どもがどれほどの困難のもとに生まれてくるか、想像してみましょう。

個人がどんなに手を尽くしても足りないくらいの労力が、分業がなければ不可能なくらいの労力が必要になるか、とくに乳児期にはどれほど人間が病気になりやすく弱いか(動物より病気になりやすい)、思い描いてみましょう。

すると、人間の社会をたしかに存続させるには、とてつもなく手がかかることがわかります。

そして、共生の必要性がはっきりと感じられます。

人は安全をどう手にいれる ここまでの内容から認めざるを得ないのは、自然という観点から見ると、人間は劣った存在だということです。

けれど、人間に備わったこの劣等、自分に足りない部分があって安心できないと感じさせるこの劣等は、ずっと続く刺激として働きます。

人生に適応し、将来の準備をし、自然における人間の立場のデメリットを補う状況を作っていく刺激になります。

適応や安全確保ができたのも、精神器官があったからです。

動物に近かったころの人間は、進化して、角や爪や牙のような、敵対する自然に抵抗するパーツをもつほうがずっと難しかったのではないでしょうか。

実際にすばやく人間を助けたのは精神器官以外になく、生命体として劣った部分を補ってくれました。

そして、自分は不十分だという絶え間のない感覚から生まれる刺激があったからこそ、人間は将来を予測する目を発展させ、思考をつかさどる器官、感情をつかさどる器官、行動をつかさどる器官として、現在見られるような精神を育てたのです。

精神器官に助けられたり適応を目指したりするときには、社会も重要な役割を果たすため、共同体で生きる条件が最初から考慮される必要がありました。

精神器官の機能はすべて、社会生活を土台として育てられています。

人間のどんな思考も、共同体に合うようなものでなくてはなりませんでした。

進歩の過程を想像すると、共生という論理の起源に行きつきます。

この論理は、だれにでも通じる普遍妥当性を求めます。

普遍妥当性のあるものだけが、道理に合うのです。

共生の明らかな結果は、言語にも見られます。

言語はあらゆる生物のなかで人間を際立たせる奇跡的な成果です。

言語という現象は、みんなに通じるという普遍妥当性を抜きに考えることができません。

これは、言語が人間の社会生活のなかで生まれたことを示しています。

言語は単体で生きる存在にはまったくいらないものです。

人間が共に生きることを想定していて、共生から生まれながら、同時に共生をつなぎとめるものです。

この関連を強く証明する一例として、他者とつながることが難しい状況で育った人、自らつながりを拒む人は、ほとんど決まって言葉や言語力の不足に悩まされることがあげられます。

まるで、他者としっかり接触したときにだけ、言葉のつながりが作られ、維持されるかのようです。

精神生活の成長に対して、言語には大変に深い意味があります。

論理的な思考は言葉がなければできません。

言葉が概念を作ることができるから、わたしたちは物事を区別し、自分だけでなくみんなで共有できる概念を創出できるのです。

わたしたちの思考や感情も、前提として普遍妥当性がある場合にだけ理解できるものになります。

美しいものに対して感じる喜びも、美と善の感覚や評価も、みんなで共有されなければならないことを理解したときだけ成り立ちます。

こう考えると、理性、道理、倫理、美的感覚といった概念は、人間の社会生活のなかでしか生まれないこと、そして同時に文化を崩壊から守るつなぎの役割もしていることがわかります。

個々の人間の状況を見れば、その人がなにをしようとしているかも理解できます。

意志とはまさに、不足感から充足感へ向かう動きです。

この動きのラインをぼんやりと感じて足を進めることが、「なにかをしようとする思い」なのです。

どんな思いも、不足感や劣等感から始まっています。

そして、満たされた完全な状態を目指す傾向を作っていきます。

共同体に生きる人々 ここまでで、人類の存続を確保するために必要だったルール、教育、迷信、トーテムとタブー(※訳注)、法規は、まず共同体の理念に合っていなければならなかったとわかりました。

その様子は宗教の制度にも見られました。

共生の要求は精神器官の重要な機能であること、個人の人生でも社会全般でも共生が求められることを目にしました。

わたしたちが正当とするもの、人間の性格で長所と見なすものは、基本的に、人間の共生から起こる要求を満たしています。

共生の要求が精神器官を形作ってきたのです。

ですから、信頼、誠実、率直、うそのなさなどは、共同体という普遍妥当の原則によって作られ、維持されている要求なのです。

わたしたちが言うよい性格、わるい性格は、共同体の観点からしか判断できません。

学問、政治、芸術の業績と同じように、性格も社会にとって価値のある場合にだけ、すばらしく、尊いと証明されます。

個々を測る基準になる理想像は、社会にとっての価値や利得を考慮した場合にのみ成立します。

わたしたちが個々を比較するときに用いるのは、共同体に生きる人間の理想像です。

つまり、目の前の課題をだれにでも通じる普遍妥当な形で達成する人、また、共同体感覚を育て、教育学者フルトミュラーの言うところの「人間社会のルールに従う」人です。

本書の章を進めていく過程で、意義深い人間になるには、共同体感覚を育てて十分に実行するしかないことが証明されるでしょう。

※訳注 1913年にジークムント・フロイトが同名の論文『トーテムとタブー』を発表しています。

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