およそ人間として、ひとたびこの世に生をうけたからには誰でも人生というものを活きなければならない。
この大事な人生を活きるのに、人生がいかなる法則により支配されているかを知らずに活きている人がいかに多いことか。
もっとも「哲学的思索」の経験や、知識も少ないので無理からぬところではある。
しかも現代の教育は、いわゆる科学教育であり、大事な人生に対する案内に関しては、よく理解させられていない傾向がある。
まして今から半世紀も前に、人生を考えようと思っても、何をきっかけに自分の人生に対する思索を進めてよいか、そのきっかけを見いだすだけでも、長い長い間苦心をしたものである。
人間の心というものは、一方においては、人間の運命や健康その他人生の一切をよりよく建設する力があると同時に、またこれと反対に人生をより悪く破壊する力もある。
すなわち積極、消極の両方面の作用が心にはあるのである。
しかしそれを理解しただけではいけない。
形容のできない、強烈な心の作用を正しく理解すると同時に、これを正しく応用しないと、いかに完全な人生を活きることを望んでも、それは不可能なことである。
そこで人生を支配する法則について、正しく理解する必要がある。
この世のすべてのものというものは、動物、植物、鉱物の三つに分けられるが、これらはすべて一つのものから生み出されている。
すなわち万物創造の根源であり、絶大な力を持つ「霊妙」な気がこの一切を作る根拠をなしているのである。
その気が作ったもの一切を包んでいる。
というよりむしろ、その気の中に作られたものが存在しているという方がよいであろう。
すべてのものが、この霊妙な気の中に終始いかなるときでも存在しているのである。
これを忘れてはいけない。
ちょうど、水の中に住む魚のように、水がなければ魚は生きていけないが、魚自身は水の中にいることを忘れているであろう。
人間も、この霊妙な気の持つ力の中にいるからこそ生きていられるのである。
空気の中にいるから生きているのではない。
万物創造の霊妙な働きをなす気が空気を作り、この気の中に空気が作られているのである。
そして空気の中にある酸素、窒素などが我々の肉体生命の新陳代謝を行なうために命の火を燃やしているのである。
空気の中に気があるのではない。
作られたものが、作ったものではないことを忘れてはいけない。
この〝気〟を哲学では、「精気」、「霊気」あるいは「先天の一気」などと呼んでいる。
天風哲学では〝宇宙霊〟と呼ぶが、それは『真理瞑想行』を説明するときに、いわゆる大自然に対する我々の修行上の尊敬念を、よりいっそう深くするために、仮に〝宇宙霊〟と名付けたのである。
宇宙の一番おおもとの気という意味であり、ただ便宜上、〝宇宙霊〟という言葉を使うのであると考えればよい。
神、仏、天之御中主神、天にまします我らの父、何でもよい。
呼び方はどうでもよい。
神韻縹渺たる働きを持つこの霊妙なる気は、いわゆる超極微粒子で、形容のできない小さなものである。
しかも普通の場合絶対に感覚的に認識できない。
しかし感覚できないからないとはいえない。
一切の、ものというものが作られ、存在し、この雄大な宇宙が作られている厳粛な事実を考えると、自分に感覚的に感じないからないという議論は成り立たない。
ただ、無邪気、無条件に、観念的に確かにそうだと認定する、つまり思いこむ以外に認定の方法はないのである。
もし我々が無批判、無条件な、純真な気持ちで観念的にその想定ができると、この世界、宇宙というものは、目に見える物質的存在は第二義的なものであり、本源は詮じつめると精神的なものであると気が付くのである。
「観念的に想定するより、認定の方法はない」これを思索の根本点において、この宇宙というものを考えてみよう。
これをインドの山の中で、ひとり静かに座って考えたのである。
いわゆる科学教育を受けた者は、それを証明する事実なりデータがないと、いかに理論的に説明されても、それを無邪気に信ずることができない。
一に一をたして二にならないと承知できない。
しかし、心を澄まし、山の中で考えていくうちに次第に魂の夜明けがきたのである。
「自分が生きているこの周囲に、目には見えないが、一切の存在を確保している、しかも認識できない気が存在しているな」と、証拠はつかめないが、観念的にこれを想定することはできる。
また観念的に想定しなくても、あるものはあるので、そのあるものがある以上、自分の観念で想定できないからといってこれを否定するという乱暴なことはできない。
だからこれは、無邪気、無条件に、観念的に想定する以外に考えるしかないのではないか。
さらに一歩進んで、「一切の事物の根底に横たわるただ一つのものは、この霊妙な神韻縹渺たる気である。
そして、宇宙の一切が、この気から作られている事実を考えると、所詮は純精神的なものだといわねばならない」と思ったのである。
目に見えない、証拠をつかむこともできないものである以上、ただそう思うより仕方がないのである。
またこの気の持つ働きをよく考えてみると、全智全能の漲っていることに気が付いたのである。
そこに気が付けば、人生は非常に優れた進歩の階段を一歩のぼったことになる。
この精神的な宇宙の根本主体の気の中に働かされている計り知れない霊智、まさに全智全能、本当に幽玄微妙、形容のできない霊智、現象界の一切を見るときに「なるほど」と思うに違いない。
眼前の草、そして樹、青く澄んだ空、流れ行く白い雲、また落ちる滝の水、どれを見ても、人間の力で作られたものは何一つない。
陽が西に落ちれば夜になり、夜が明ければ朝が来る。
春から夏、夏が去れば秋、やがて寒い冬が来る。
この整然たる秩序、一糸乱れぬ自然の状態を想い、またその自然の法則を考えたときに、その気の持つ働き、全智全能のあらわれは、人間の知識などでは、到底計り知れない広大無辺なものである、と気が付いたのである。
またそのいいようのない微妙な霊智の尊さを感じたのである。
幽玄微妙というか、神韻縹渺というか、現象界の一切を見れば見るほどなんとも形容の言葉がない。
生きとし生ける生物にしても、小さな虫に至るまで、生きるに必要な器官、機構が完全な組織のもとに存在している。
そして、「何とありがたいかな、山の中に今座っている自分は、この霊智の力、いわゆる全智全能の働きを持つ気とともにいるのではないか。
いや気に包まれているではないか。
そしてここに座っている。
だから自分は生きているのだ」ここまで思いついたとき、誰もいないヒマラヤの山奥にただひとり座っていながら、何の淋しさも感じない。
何とも形容のできない心強さを感じたのである。
同時にその霊妙な万物創造の力ある気と、その気の持つ幽玄微妙な霊智とは、なんと、「人間の心の態度で、これを受け入れる分量が、非常に相違してくる」ということを私の心が考えてくれたのである。
人間の心が、病や運命を気にしないという積極的状態であるとき、すなわち心が無念無想に近い状態であれば、宇宙に隈なく遍満存在している、幽玄微妙な気の持つ霊智を受け入れる分量が多くなるが、肉体や、肉体から発生する本能とか感覚に心が縛られて、心の融通性の極めて狭い消極的な心になると、その受け入れ態勢を妨害することになり、この尊い力も、働きも十分に生命の中に受け入れることができない。
事実をもって、これを自分の体で経験したのである。
それまでは、何をしてもいっこうに丈夫にならず自分が学位を持っている医者でありながら、その知識は自分の病を治すのに何の役にも立たない。
ただ死を待つばかりの哀れな運命の上に立つ自分としか思えなかった。
それが、薬も頼れない、特に栄養の補給もできない絶対的境地に入れられ、ただ山へ行って座って考える毎日が繰り返されているうちに、事実が自然に、誰に教えられるともなく私にこの悟りを開かせてくれたのである。
それまでは、刹那刹那を、哀れな、心細い、か弱い心で生きてきたのに、中へはいってからは、病や、肉体のことばかり考えていられなくなってしまった。
にもかかわらず肉体は自然に、より良い方向へ変化していることに気付いたのである。
結局、自分の心の態度が、今までの消極から、積極に振り替えられただけで、このようになったのだと、何となく感じられたのである。
もちろん、当時はまだ無学な人間で、深くわかろうはずがないが、ただ事実によっておぼろげながらも日一日と感じてきたのである。
そして、人間の運命も健康も、それを完全なものにするには、結局心の持ち方だと思った。
そして、目に見えないが、宇宙の一切を支配する不思議なエネルギーを我々の生命に受け入れるのも、またそのエネルギーを全生命に分配するのも、これは神経が行なっている。
そして、その神経は肉体の中にあるが、肉体の中に存在するだけで、肉体から受ける影響も全然ないことはないが、それは相対的であり、心から受ける影響の方が絶対的である、ということがわかってきたのである。
そこでこの厳粛な事実から、今までのように証拠を見なければ安心できないというのは大変な間違いであり、所詮、この大宇宙というものは、物質的に考えようとするから失敗するので、大宇宙の根源にさかのぼって考えれば、非物質的なものではないか。
見ることも出来ない、感じることも出来ないものから生まれてきている。
一番の大もとは達磨大師ではないが、廓然無想、自然というものだけではないか。
ひとりでに発生したという、自然というものではないか。
世界の本質が自然から作られ、自然の中に計り知れない働きを行なう霊智があり、その霊智が見えない人間の生命の中にある心というものの態度で、その受け入れ方が違ってくるなら、自分を完全に活かすには、心の態度を取り替えるのが先決問題ではないか。
また考えようによれば、このまま山の中で死んでしまっても、心配しながら死ぬよりは、死ぬまであの満州で捕えられ死刑の宣告を受けて刑場に立たされたときのような勇ましい気持ちでいた方が、いい換えるなら、「死」から自分の心を遠ざけて活きている方が、同じ死ぬにしても死ぬ刹那まで気楽ではないか。
これは、当時の無学な頭で考えた方法であるが、現在のように相当人生に関する研究をして、人生に関する学問、知識を豊富に持つようになった今日考えても、当時の考え方は少しも間違っていなかったことを、いつも感じるのである。
所詮、人生は心一つの置きどころ。
人間の心で行なう思い方、考え方が、人生の一切を良くもし、悪くもする、というのが人生支配の根本原則である。
自然の法則は、まことに峻厳侵すべからず。
幸い医学を研究していたので、心と神経との関係に気付いたが、でなければそこまで考えつかなかったかもしれない。
また研究したのが臨床医学でなく基礎医学であったことも、よりいっそうそれに早く気付いた原因だろうと思う。
自分の病を、自分の医学知識で治そうと思うことがすでに不思議であるし、そのようなことを考えそうもない私がさらに医学を手がける気になったのも、後になると自分で不思議で仕方がない。
すべてが、今日かくあるために、それこそ思いつきでなく、宇宙根本主体の霊智の働きが、私の心の中に反映したのだと思わざるを得ない。
しかし、不思議な因縁でこの悟りを簡単に与えられると、自分自身が苦労していないので、価値の認識を誤るおそれがある。
「簡単に得たものは、失いやすい」これは最近のことであるが、東京のある婦人が、「先生、けさ、富士山に登ってきました」というので、突然でもあり、妙な話でもあると思っていると、「本当ですよ先生、今は五合目までバスで行けますから箱根より楽なんです」と答えた。
我々が学生時代には、麓から三日三晩歩いて登った。
一合目まで登るのでも大変であったし、またその眺めもすばらしいと思った。
それを冷房のはいったバスで、数時間で行って帰ってくる。
それで富士山に登ったと思っている。
富士登山の苦しさ、楽しさは全然味わっていない。
実は、それと同じではないかと懸念するのである。
将来人生を完全なものにしようとする若い人達は、特に、およそ心で行なう思考ぐらい人生に対して重大な影響をもつものはない、ということを常に念頭におかなければいけない。
知る知らざるを問わず、宇宙には、このような事実が厳として存在していることを決して忘れてはならない。
何事においても、そのときの心の態度が、成功を生み、また失敗にも追いやる。
ちょっとしたことでも例外ではない。
紙に一本の線を引くにも、丸を画くにも、心の在り方いかんですぐ乱れがきてしまうのである。
人間は誰でも、大した経験や学問をしなくても、完全な人間生活、いわゆる心身を統一できる人間であれば、男でも、女でも、誰でもひとかどの成功ができるようになっているのである。
心身を統一し、人間本来の面目に即した活き方、どんなときも、「清く、尊く、強く、正しい積極的な心」であれば、万物創造の力ある神韻縹渺たる気と、計り知れない幽玄微妙な働きを持つ霊智が、量多く人間の生命の中に送りこまれてくるからである。
人間はあくまで人間である、という考え方で、人間を本当に考え得るようになると、心の態度も自然と清く、尊く、強く、正しくなってくる。
ところが、このようなありがたい条件があるにもかかわらず、この世の中には運命的にも、健康的にも落伍している人が多いのは、この真理の逆をいっているからである。
日常生活が、感覚の世界にばかり活きているからにほかならない。
つまり折あるごとに、心を感覚の世界から遠く離して、感覚の世界を作った大もとの宇宙の真実相の世界に心を預け入れ、静かな気持ちになり得る方法を知らずに生きているからである。
朝から晩まで、欲と感情と感覚に追い回されて、せかせかあたふたと落ち着かない生活ばかり送っている人間に、良い運命や健康が得られるはずがない。
ところが、「ひかれ者の小唄」とはよくいったもので、体が丈夫にならない、また良い運命に恵まれないという人は、生まれつき体が弱いからとか、人が自分を認めないからとか、何か罪が他にあるかのように考えて、いっこうに自分を反省しないという傾向がある。
このような人間は、一生うだつのあがらない哀れな、虐げられた生涯を送ってしまうことになる。
だから、今まさに豁然として悟られたに違いないこの宇宙真理を心に据えて、運命や健康を完全にする万物創造の建設的作用を行なうプラスの気を、何をおいても、自分の生命に常に分量を多く受け入れるようにしなければならない。
そのためには、いかなるときにも、心の思い方、考え方を積極的にし、仮にもその反対であらしめないことである。
「悟れば、一瞬にして幸来たる」この真理が心の中に輝くと、健康も運命も、ともに求めずとも完全になるようにできているのが人間なのである。
それは、心と神経との関係を考えればすぐ実証される。
そして、この宇宙エネルギーを自分の生命に受け入れるのも、またその宇宙エネルギーを全身に分配するのも神経系統が行なっていて、その神経系統が直接、または間接に心の支配を受けているためであるとわかれば、どんな人間でも、この厳粛な事実のうえから、自分の心に立派な論定ができるに違いない。
「この現象界に存在する一切の事物の根底は、科学的にのみ見れば、物質的なものであるが、哲学的に観察すれば、どこまでいっても非物質的な、精神的なものである」すなわち、眼にも見えないし、観念で想定しなければ想定できない〝宇宙霊〟という一つの気が、全宇宙を支配し、それが宇宙の本質になっている、ということである。
とすれば運命も、健康も、自分の心の思い方、考え方で、良くも悪くもなるのだということがすぐわかるはずである。
これが私はわからなかった。
医学博士が自分の体も治せず、体の悪いのは親譲りであると思っていた。
しかし本当は自分の心の態度が、自分の運命と健康を悪くしていたのである。
「病は治らないのではないか、きっと治らないに違いない。
戦争で死ぬべき運命を、神はいたずらに戦争で殺さず、今頃になって、病でのたれ死にするように苦しめているに違いない」と、神も仏もあるものかと思った。
考えてみれば、自分の心の行なう思考が、運命や健康を急速に悪化させていたことに気付いていなかったのである。
二ヵ年のヨーロッパの旅で何も得られず帰る途中、どこに見どころがあったのか、私を連れていってくれた哲学者の導きによって、私の汚れた魂は根こそぎ洗い清められてしまったのである。
本当にありがたいというより形容のできないほど、偶然の機会でインドへ行ったのであるが、それまでは人間の心の行なう思い方考え方が、人生の万事を良くも悪くもするのだということを知らなかった。
知らないのも無理はない。
人間の心こそ、宇宙一切の造り主である宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを、交流結合させる回路であるということを知らなかったからである。
これを正しく心のものとするために、『真理瞑想行』を行なっているのである。
天風哲学の根本的な考え方は、「この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。
この世は、本質的に楽しい、嬉しい、そして調和した美しい世界なのである」ということである。
ところが、多くの人は、これを信じないどころか思おうともしないで、苦痛と、苦難と、失望と、煩悶に満たされているのが、この世界であると考えている。
「ああ、幸せだなあ、と思うようなことは、運命的にも、健康的にも、一度も味わったことがない。
だからそう簡単には思えない」という人がいるならば、それは結局、心の態度が変わっていないからで、心の態度を変えないかぎり、思いたくとも思えない。
第一、思おうとする気持ちが出てこないのである。
さびついた車は、回そうとして油を注いでも回らない。
まず、さびを取ることである。
そうしないと、苦痛や苦難をそのままいきなり自分の心のものにしてしまう。
天風哲学は、たとえ人生に苦難や苦痛はあろうとも、それを心の力で喜びと感謝に振り替えていくのである。
心が積極的になれば、振り替えることが出来るのである。
振り替える方法をいつも教えているではないか。
天風哲学が、世界的にユニークであるというのはここであり、同時にここが最も重要な点である。
であるから天風哲学は、神秘的な宗教的な信仰で導くような、価値のない教え方を断じてしないのである。
どこまでも真理そのもので導いていく努力をしているのである。
「いかなる場合にも、常に積極的な心構えを保持して、堂々と人生を活きる」ここに天風哲学の最も重点が置かれていることを忘れてはいけない。
さらにわかりやすくいえば、腕に自信のある船乗りは、静かな海より、荒波を乗り切る航海の方が張り合いがあるという。
これと同じく、病や苦難から逃げたり、避けたりせず、「矢でも鉄砲でも持ってこい」と、苦しみ、悲しみに挑戦し乗り越えていき、自分の力でこれを打ち砕いていく気持ちになれ、というのが、天風哲学の真髄である。
そのような心を作るための方便の第一として、人間らしい自己認証をしなければならない。
すなわち、人間はそれ自身を宇宙の創造を司る偉大な力を持つ宇宙霊と自由に交流、結合し得る資格をもっている。
資格があるから、同時にこれと共同活動を行なわせることもできるのは当然のことであり、そうすることによって万事を想うままに成就できるのである。
その資格は、身分でもなく、学問のあるなしでもなく、器量の良し悪しでもなく、人間であればどんな人間でも持っている。
だから本当に生き甲斐のある人生を活きるには、これと共同活動をすればいいわけである。
これを悟れば、実に堂々とした人生を活きられることになる。
このことが正しく理解され実行されてはじめて、人間としての本当の生き甲斐ある人生が築けるのである。
これを忘れてしまうからいけない。
離れ離れになってしまうので自分だけ放り出されたような気持ちになる。
それはとんでもない誤りである。
生きていることが、人間が宇宙霊の力に抱かれている証拠である。
この荘厳なる事実を絶対に忘れてはいけない。
私がインドで、病のためにすっかり体が弱ったときに先生が、「お前は、世界一の幸せ者だなあ」と私の顔を見ながら、しみじみといわれた。
しかし、その時は腹が立った。
いくら偉いといっても、やはり山の中で一生暮している人だから、人の気分を損じるということを知らないのだろうか。
いつ死ぬかわからない重い病を持っている人間に対して、世界一の幸せ者とはいったいどういう気持ちなんだろう。
冷やかすにもほどがあると思って、「その意味が私にはわかりません」と不満な顔をすると、「それがわからないかなあ、お前は。
それじゃあ不幸だと思ってるのか」「そりゃ、私は世界一不幸だと思っています。
今まで何も大して悪いこともしないのに、こんな病に取りつかれて苦しんでるんですから」「おい、よく考えろ、もっと奥を。
苦しい病に虐げられながらも死なずに生きているじゃないか。
その生きているという荘厳な事実を、なぜ本当に幸せだと思わないのだ。
苦しいとか、情ないとか思えるのも、生きていればこそではないか。
生きているのは、造物主がまだ殺す意志がないから、守ってくだされているのだ。
それを幸せと思わないのか。
お前は罰当りだ」この言葉に声も出なかった。
それまでは知らないこととはいいながら、自分の蒔いたとおりの花を咲かせ、実を実らせていたのである。
いわゆる因果の律をそのまま行なっていたのである。
およそ人生には、人生を厳格に支配している一つの法則がある。
それは原因結果の法則である。
そして人生というものは、その人が自覚するかしないかを問わず、この法則を応用する度合に比例する。
すなわち、「蒔いた種のとおり花が咲く」という法則なのである。
俗にいう善因善果、悪因悪果の法則である。
人間の運命の中に地獄を作り、また極楽を作るのも、この法則があるからである。
それは人生におけるあらゆる悲劇、あらゆる喜劇を生み出す秘密の手箱である。
であるから、それを知って巧みに使う者の人生は、自由と自在とを得て、いつも理想的な生き甲斐のあるものになる。
二度と生まれ変わることのできない人生を活きているこの刹那刹那は、自分というものがいつも、自分の人生の完全な主人公でなければならない。
それには心が積極的でなければいけないが、そうなり得ると、運命や境遇以上の力が出てくるのである。
この原因結果の法則の内容に関する第一の自覚は、「宇宙霊なるものは、霊智ある大生命である」ということを正しく考えることである。
自然界と称するところの眼に見える宇宙ができあがるまでには、眼に見えない宇宙が、その以前からすでに厳として存在していたに相違ないのである。
これを考えなければいけない。
なぜならば無から有は生じないからである。
この目に見えないものから、目に見えるものを作った、幽玄微妙な事実こそ、宇宙霊が偉大なる霊智的大生命を持つ証拠である。
であるから宇宙の最初は、ただこの宇宙霊のみであったといえる。
否、その外に何ものもなかったのである。
そして、次第に現在あるような世界が、その無限の霊智によって造られたのである。
だから、この一切を考えたとき、世界を作った一切の材料も、また宇宙霊の中から生まれたものといわねばならない。
特に宇宙霊の分派分量を一番多く与えられている人間の生命と、宇宙霊の持つ生命とは、その内容において、まったく不可分、同一なものである。
したがって、その霊智も同じ程度に到達し得るものであると断定できるのである。
このような様子を結合して、考察を結論するなら、「この宇宙ならびに世界の本質は、実に宇宙霊なるものだけである」といえる。
そしてこの宇宙霊なるものに、無限の霊智が存在しているのは、宇宙霊そのものの創造的本性を完遂するため、いい換えるなら、「あらゆる、すべてのものを創り出さんがため」である。
だから宇宙霊は、休むことなく働いている。
創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。
だからこそ、この宇宙は常に更新し、常に進化し、向上しつつあるのである。
このような見地から考えると、この宇宙は驚くべき生ける世界なのである。
常に創造的活動をしている、霊智と心の体系を持つ生命体である。
真理がそうある以上、それをまず正しく信念しなければならない。
それは、心が何かを思ったり、考えたりすると、ただちに宇宙霊が、その心の状態のとおりに働きだすということである。
人間が真理を思うとき、宇宙霊は人間の心を通じて、その正しい思考を表面に現わそうとする。
反対に人間が悪を思えば、宇宙霊はやはり、そのとおりの事実を人生に作り出そうとする。
宇宙霊のもつ創造の力は、その心にきざまれる思考、観念に従って、積極方面にも消極方面にも活動する。
特にその思考、観念が強烈であればあるほど、よりその活動力を増す。
人間はその本質が霊であるため、その本源である宇宙霊を呼び寄せる働きを持っているのは当然の事実である。
だから、これを確固たる信念として心に植えつけねばならない。
「人間が、ものを考えるとき、その心の背後には、宇宙霊、およびそれより発生する力が、十分な用意をして控えている」さらに詳しくいうなら、「人間の背後には、人間が何を欲するにも、また何を人知れず思うにも、その一切を現実の形として現わそうと待ち構えている宇宙霊が控えている」ということである。
そして人間が心に思い浮かべたことを鋳型として、いろいろのものを作り出すという創造能力を活動させる。
これが実に天風哲学の尊い発見であり、それを応用すると同時に、人々の反省と自覚とを現実にしようとするものなのである。
常に心の中に積極的な思考や観念をえがくことに努力し、それを宇宙霊の心に反映させ、これを見える形に変化させることに心掛けねばならない。
そうすれば健康も運命も、否、人生の一切が美化善化してくるのである。
要するに、この『真理瞑想行』の重点は、この尊い法則の活動と応用を会得させ、人生を人間として最高の、また最も豊かな現実生活に到達させることにある。
人生はただ食べて、寝て、起きて、何十年か過ごすために人間として生まれてきたのではない。
何のために万物の霊長たる人間として生まれてきたのかは、私も知らなかった。
知らなかったというより誰にも聞いたことがなかった。
アメリカにも、ヨーロッパにも長くいて、世界的に有名な学者、高名な識者にも数多く会ったが、この大事な質問をしてくれた人はひとりもいなかった。
それがインドの山の中へ行ってはじめて、「お前はこの世に何をしにきたか知っているか」と聞かれた。
この先生というのは、我々が常識的に考えていないようなことを時折いうのである。
しかも、その言葉は悟りを開いた人でないとわからないという極めて階級の高いものであるが、聞く方の程度が低いので、つまらないことをいっているようにしか思えない。
このときも、口には出さないが、心中思ったのは、「この世の中に自分で注文して出てきた奴はいないじゃないか。
誰でも、そのようなくだらないことを考えるわけがない」ということであった。
ところが、本当はそれを考えなければいけないのである。
しかし当時は自分の人生の目的など考えたこともないし、また質問されたこともないので答えようがない。
仕方がなく負け惜しみに、「わかってはいますが、言葉ではいえません」と答える。
すると先生は、「私が今まで考えていたより、お前は馬鹿なんだな。
それにしても、ここへ来てよかったね。
もし来なければ、そのまま病と取り組んで、病と組打ちしてそのままこの世を終わるだけだ」とおっしゃった。
なにしろ知識としてあるのは医学だけであり、哲学的なものがないので、なかなか考えられなかった。
人間が万物の霊長であるというのも、人間が自分で付けたのだから、結局、我田引水ではないか。
犬や猫や猿が寄り合って人間が一番優れていそうだから、万物の霊長に推薦しようといったのならまだしも、人間が勝手に決めただけのことではないか。
また、名ばかりは大変結構だが、見るかぎり、知るかぎり、他人はいざ知らず、自分は今まで万物の霊長たるありがたい思いをしたことは一度もない。
いつも人生に味わうのは不幸な面ばかり。
万物の霊長どころか、人間というものは、この世の中にさいなまれ、苦しみにきたのではないか、と思ったのである。
だから、平気な顔をして先生にそのように答えたところ、一月ほど首の廻らないぐらい張り倒されたのである。
禅の問答と同じように、答えが違うとだまってなぐるのである。
それからまた考えた。
「我、いずこよりきたり、いずこに行かんとす。
何のためにこの現象世界に人間として、生まれ来しや」考えて、考えて、考えつくまで半年かかった。
しかし考えていくうちにだんだん魂の夜明けがきた。
そしてようやく、宇宙の根本主体の持っている働きの方から人間を考えてみようという考え方が出てきたのである。
人間それ自身の存在だけを考えると、いかにも哀れな、不幸なものに感ずることもあるが、宇宙の根本主体の持つ幽玄微妙な働きと、人間の生命との関係を考えると、これは大変な見当違いから生み出された間違いだと気付いたのである。
秩序と均整のとれた、宇宙根本主体の働きによって支配されたこの現象界に、生み出されたものの中で、一番優れた存在である人間が、この世の中に苦しみにきたと思うのが間違っている。
人間は万物の霊長といわれるが、その優れた点は何か。
「ぜいたくをしにきたのでもないし、病をわずらうために出てきたのでもない。
何か人間以外にできないことを人間にさせるために、他の生物にない力を与えられている。
その力があるから万物の霊長なのだなあ」と思った。
結局、この世界に存在する進化と向上が宇宙の根本主体の意志であるのをみると、「人間は進化と向上に順応するために生まれてきたのではないか」と思った。
もちろんそのとき、確固たる信念はない。
そうではないかなあと思っただけである。
半信半疑ながら、「まあいいや、間違えたらまたなぐられるだけだ」と、ちょうど不勉強な学生が試験場にはいるような気持ちで、先生のところへ行ったのである。
「きょうは人間が何しにこの世にきたか、という質問の答えを持ってきました」なぐられるのを覚悟だから一間ばかり距離をおいて、手が挙がったら逃げだそうと思っていた。
「人間は、宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきたのだと思います」すると先生がニコッと笑って、「うん、よく出来た」このときは嬉しかった。
つまり人間はそれ自身、この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙根本主体である宇宙霊と自由に結合し得る資格を持っている。
と同時に、共同活動を行なう一切の力が与えられている。
これを理解して活きる者が、生き甲斐のある人生を造り得るのである。
この悟りが開けて以後は、人生は「天馬空を行く」状態である。
他の追従を許さない幸福で毎日を活きているのである。
だから、いかなるときでも忘れてはいけない。
「不孤」自分というものは、ひとりでいるのではない。
常に宇宙霊というものに包まれていて、しかも宇宙霊は全智全能の力を持っている。
それと結び付いている生命を自分が持っているのである。
つまり自己というものを無限大に考えてよい。
霊智によって作られ、宇宙の中に最も優れたものとして、自分は造られたのだという事実を、断固として信念しなければいけないのである。
それだけのことが心の中にしっかり決められれば、何も大した努力をしなくても、恵まれた幸せな人生を造りあげることができる。
大変難しいようだが、よく考えてみれば易しいことなのである。
人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。
人生を、あまり難しく考えない方が良い。
難しく考えるとわからなくなる。
真理は足もとにある。
高遠な学理の中にあるのではない。
もとより軽率な考え方ではいけないが、なまじ学問をした人は、真理は遠く大海の底、深山幽谷の奥山にあるような思い違いをすることが多い。
人間それ自体の生命存在を、思索の中心において考えれば、大きな的はずれをしないですむはずである。
何はさておき、人生を支配する法則にのっとり、自分の心を断然消極的にしない覚悟を堅持しなければならない。
そのために、緩もうとする心、乱れようとする心をしっかり押さえつけてくれる暗示の誦句を与える。
この誦句は、黒豹の群がるインドの山の中で、あちらこちらにある大理石に、悟りを開いた人達の言葉がサンスクリットで彫りこまれてあった。
その言葉をもとに作ったものである。
あの偉大なヨガ哲学を学んだ人々が、こうした真理で彼らの人生を守り抜いてきたに違いない。
当時、まだサンスクリットを深く理解する語学力はなかったが、このときには脇に立っていた先生が、英語でその意味を説いてくれたのである。
それまでは、朝に晩に病を気にし、運命の非を嘆き、
「何と皮肉な運命だろう、戦地で死ぬならまだしも、こんな名もないインドの山奥で死ぬのか」と、来る日も来る日も、暗い重い気持ちでいた。
汚れたきたない魂に、大きな鉄槌を加えられたような目覚めがきたのである。
通りいっぺんの言葉として覚えているだけではいけない。
毎日の人生に活きる瞬間、瞬間の心の鏡にするために、苦心して日本語に作り直した誦句である。
一言、一言を魂に明確に刻みこむように口にするがよい。
思考作用の誦句我は今、宇宙霊の中にいる。
我はまた、霊智の力とともにいる。
そもそも宇宙霊なるものこそは、万物の一切をより良く作り更えることに、常に公平なる態度を採る。
そして、人間の正しい心、勇気ある心、明るい心、朗らかな心という積極的の心持ちで思考した事柄にのみ、その建設的なる全能の力を注ぎかける。
しかりしこうして、かくのごとくにしてその力を受け入れしものこそは、またまさしく力そのものになり得るのである。
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