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第二章私のアート半生記

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第二章私のアート半生記

私とアートの半世紀此処で、私がクリスティーズで働くように為る以前の個人史も話しておきたい。

それは、このオークション・ハウスに於ける日本美術のスペシャリストである私が、美術に対し抱いている価値観とも関わるものだからだ。

私は東京神田の生まれの三代目、俗に云う「江戸っ子」だ。

亡くなった私の父は旅館の末っ子だったけれど、体が弱く、学者の道を選んだらしい。

日本古代史から始めた彼の研究生活は、次第に神道研究の方へと向いていった。

結局「日本最古の美術雑誌」である日本美術史誌「國華」に初めて書いた論文が垂迹美術についてだった様に、最終的に神道美術へと辿り着いた。

母は、秋田の山奥の歴史の古い神仏習合の神社のひとり娘で、進学した東京の大学で大先輩だった父と知り合ったらしい。

当初は神道美術研究を専門とした父だが、師事していた教授の、「君、〝天界〟の事を知りたいなら、先ず〝下界〟の事を知らなきゃ駄目だよ」の一言で浮世絵を勉強する事と為る。

結局死ぬ迄「天界」には戻れず、浮世絵の研究者として生涯を全うした。

そんな父は「今光琳」(絵師尾形光琳の事:遊び人で身上を潰しかけ、仕方なく絵を描いた)と呼んでも良い位の、良く云えば「趣味人」とも云える、所謂古いタイプの「遊び人」だった。

学生時代からの合気道は七段、お茶名を貰った裏千家茶道と観世流のお能を習い、他の趣味と云えば歌舞伎鑑賞と、カラオケで歌う演歌。

一方、当時未だ世間に沢山居た「日本男児」系父親の例に洩れず、長男の私を、跡取りとしての「日本美術史家」にしたがった。

そうして私は、物心がつくと、先ずは親族中で両親・叔母ふたりの計四人がやっていた茶道とお能を嗜まされた。

子供に取っては美味しくも無いお抹茶を足が痛くなる茶室で飲まされ、一〇分位居眠りをしてハッと起きても、舞台の上では何ひとつ変化の起きていない、退屈極まりないお能を観せられる生活を強いられたのだった。

「日本美術史家養成ギプス」

父が私に与えた、アニメ「巨人の星」の星一徹並みの「日本文化スパルタ教育」の真髄は、実はそんな物では無い。

例えばNHKの「大河ドラマ」は必ず父の隣に座って観ねば為らず、放映中は父からの急な質問に備えねば為らない。

例えば「関ヶ原の戦いで、西軍に付いた武将を三人云ってみろ」「三代将軍実朝を暗殺したのは誰だ?」と云った質問だったが、答えられない時は、「君(父は私を何時もその様に呼んだ)、そんな事も判らないの?駄目だねぇ……」と云う言葉に傷付きながら、父の書斎に駆け込み、調べ、答えを持って父の許に走り帰ったものだった。

極めつきは、小学校に入ってから行われた、京都・奈良旅行だろう。

それは父が私と私のクラスメイトをふたり連れ、在京都・奈良の神社仏閣や博物館を巡る勉強旅行で、湿った雰囲気の社寺や博物館で薄汚れた様にしか見えない仏像や建築、薄暗く地味な茶室や襖絵を数多観させられた末、疲れ切った帰りの新幹線ではまた、「聖徳太子が〝高麗尺〟で作った寺は何寺だ?」「聚光院の襖絵を描いたのは、狩野の誰だ?」等と父にテストされる。

答えられないと、何とお弁当を買って貰えないと云う、誠に酷い仕打ち。

この話を、現在最も忙しく活躍されている日本美術史家のY先生にしたら、「山口君、それって〝日本美術史家養成ギプス〟じゃん!」と笑われた程だが、「法隆寺の伽藍配置を図に描いてみろ」等と四六時中父親に問われる子供が、日本文化に関わる如何なる物をも大嫌いに為って行った事は、皆さんにも十分理解して頂けると思う。

音楽と映画で開かれた西洋文化への扉

「アートの遺伝子」を持って生まれ、「日本美術史家養成ギプス」をはめられた子供も、中高生に為るに連れ、次第に友人や、丁度その頃創刊された雑誌「ポパイ」等に、人並みに影響され始める。

そして其処で学んだ、其れ迄見た事も聞いた事も無かった音楽やスポーツ、アートや外国映画の数々は、「家」で培われた私の狭く「和」な価値観を粉々に砕き去った。

クイーンやレッド・ツェッペリン、ディープ・パープル等のブリティッシュ・ロックや、ドゥービー・ブラザーズやイーグルスのウエスト・コースト・サウンドにかぶれた日々。

また、スティーヴィー・ワンダーの「愛するデューク」のミュージックヴィデオを初めてテレビで観た時や、武道館でアース・ウインド&ファイアーの公演を観た時は本当に吃驚した。

ブラック・ミュージックが持つリズム、メロディー、ノリ、そしてダンスや衣装等の全てが斬新で、彼等の音楽は私の胸の奥底に隠されていた、そして今でも持ち続けようと心掛けている「ファンキー魂」の様な物を引き出してくれた。

川端康成もドナルド・キーン先生も驚く「ファンキーな日本の私」に為って行ったのである。

それは高校生後期から始まったディスコ通いや、大学生時代に齧っていたDJ、そして当時は将来一九年近くも住む事に為るとは思いもしなかった、数回に及ぶニューヨークへの旅を私にさせる事に為った。

人生に影響を与えたと云う点では、「映画」も忘れては為らない。

小学校高学年の頃、事情が有って家族は東京の郊外、中央線沿線の国立に引っ越した。

国立市は一橋大学を擁し、近くに音大や美大も多い。

所謂古き良き昭和的な、典型的な学生街だった。

また小説家やアーティストが多く住む(山口瞳、忌野清志郎も)、一寸アーティスティックでアングラっぽい街でもあった。

私が小学生から最も通ったのは、今は無き名画座「国立スカラ座」である。

この映画館には感謝をしてもし切れない恩義が有って、何故なら私は人生に関わる略全ての物事を、この映画館で学んだと云っても過言では無いからだ。

生まれて初めて神保町で観た映画が『男はつらいよ』だった私は、国立スカラ座でチャールトン・ヘストン主演の『十戒』(一九五六年)と云うモーゼを主人公とした一大スペクタクル長編(上映途中に休憩時間が有る)を観て以来、外国映画の魅力に取り付かれる。

それから毎週の様に一〇〇円玉を数枚握り締めて、恰も『ニュー・シネマ・パラダイス』(一九八九年)の少年の如く、国立スカラ座へと通い詰めた。

映画館の人は優しく接してくれたし、そして私はこの国立スカラ座で、その後の人生で経験する事に為る恋愛や嫉妬、人の命や運命、暴力と平和、親子や他人、自然や想像力、歴史と未来を予習し、ヴィスコンティやベルイマン、キューブリック、トリュフォーやゴダールからは「ヨーロッパ」を、マイク・ニコルズやロバート・アルトマン、シドニー・ポラックやコッポラからは「アメリカ」を学んだのだった。

新しいアートとの「第三種接近遭遇」

襖絵や仏像を散々強制的に観せられた一〇代の「和」少年が、そんな魅力的な洋楽と外国映画を一度知って仕舞ったら、歌舞伎や能、狩野永徳や横山大観なんかに興味を示す訳が無い。

気が付けば、私は父の書庫に積まれている浮世絵や日本美術の本を搔き分けて、ゴッホやロートレック等の印象派の展覧会図録を見つけては読み耽り、前述した「ポパイ」等の雑誌で紹介されていた、ウォーホルやリキテンスタインと云ったポップ・アートの画集やポスターを眺めたり、友人から借り出した(かなりエッチだった)メイプルソープの写真集等を、羨望の眼差しで眺めたりしていた。

特にポップ・アートとの邂逅は衝撃的で、「これって、唯の漫画なんじゃ?」としか思えないモティーフや、写真がキャンバスに印刷されていたり、ガラクタの様な物をキャンバスにくっ付ける技法、ポップ以外の所謂現代美術と呼ばれる中でも、「男子トイレ」をその儘置いたアート(今でこそ「あれを世に出したマルセル・デュシャンは凄い!」とか云ってるが)等、それ迄知っていた「アート」とは、全く体を異にする驚くべき作品ばかり。

因みに西洋アートに目覚めて仕舞った「外国万歳」男子の最初の海外ひとり旅は、大学に入った年に行った、ウィーンとパリ四泊六日のパック旅行だった。

この旅の目的は唯ひとつ……当時私がハマっていた、世紀末の巨匠グスタフ・クリムトによる一大傑作、《接吻》の実物を観る事である。

この退廃美の極致的な作品を私が知ったのは、高校生の時に国立スカラ座で観たニコラス・ローグ監督の映画『ジェラシー』(一九七九年)だった。

アート・ガーファンクルとテレサ・ラッセル主演の同作は、ウィーンを舞台にした物語。

トム・ウェイツやキース・ジャレット等、酷くセンスの良い音楽をバックに繰り広げられる愛憎劇で、当に原題の『BadTiming』に翻弄される男女を描いた作品だ。

劇中で重要なモティーフと為るのがクリムトの《接吻》で、この映画を観るや否や、私は居ても立っても居られず、将来外国に行く機会が有れば「先ずウィーンに行き、この絵を観よう」と心に決めていたのだった。

今から三〇年以上前、《接吻》の前に立ったあの時の感動を、私は今でも忘れられない。

《接吻》の前に立った私は、三時間以上もその前から全く動けなくなって仕舞ったからだ!アートを生業とする今の仕事に就いて二七年、いや、アートを意識して観る様に為って四五年、これ程長くひとつの作品の前で動けなく為った事は未だに無い。

この作品が私にそれ程のインパクトを与えた最大の理由は、思うにこの《接吻》と云う絵に、何しろ未だ一〇代だった私が「考えざるを得ない物」ばかり見つけて仕舞ったからなのだと思う。

《接吻》は豪華な金色、赤や緑等の原色を多用した、派手で超装飾的な絵で(そして、まるで金砂子や金箔に見える技法や「藤花」文様等、此処にも「和」的な要素が!)、恰もマーラーの交響曲が金管を多用しているにもかかわらず陰鬱である様に、「退廃」や「絶望」と云った暗いイメージばかりを私に押しつけて来る。

そんな官能的な絵を私は嘗て観た事が無く、「堕ちて行く時は一緒」、或いは「道行」的と云っても良い、私に取っては限りなく未知の男女の愛を描いたこの作品の持つ、「淫靡な大人の薫り」を余りに魅力的に感じて仕舞った。

突然「和」の如く

そうして私は高校時代と浪人時代を経て、何とか大学の仏文科に入る。

大学でバルザックやモリエール等の仏文学に中々馴染めず悶々としていた私は、小説家や音楽家、印象派の画家達が集う一九世紀パリのサロンやカフェ文化に、やっと興味を見出した。

そして、一九世紀後半のパリでの芸術家交流と「ジャポニスム」の運動が、私に「日本回帰」へと大きな舵を切らせたのだった。

「アメリカ万歳・外国万歳」を日本の中心で叫んでいた私が、例えばモネやゴッホ、ロートレック等の後期印象派の画家達が、伊万里等の輸出陶器のパッキングに使用されていたと云われる浮世絵版画を発見し、多大な影響を受け、はたまた蒐集し、自らのアートにその模写や構図、技法の転用をした事、或いはドビュッシーが「交響詩『海』」の初版スコアの表紙に、今では「世界で最も有名な日本絵画」として名高い、葛飾北斎の《冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏》を使ったりした事を知った時の驚きは大変な物だった。

その驚きは次第に「日本美術もやるじゃん!」的な、「日本美術への尊敬」へと姿を変えて行ったのである。

それ迄のヨーロッパ絵画の概念をぶち壊した、大好きだった印象派の絵が、あれだけ私が毛嫌いしていた日本の、それも「和の鉄人」の父が専門とする浮世絵の影響下にあったなんて……。

若い時の価値観の崩壊なんて、意外と簡単に起こる物だ。

が、しかし私が思うに、日本のアートが世界の美術に大きな影響を与えたのは、美術史上で大きく云えば三度だけ。

それは先ず今迄述べた様に、印象派の画家達に「浮世絵」が多大な影響を及ぼした時。

次に一九世紀末のクリムトの絵画や、二〇世紀に入ってからのエミール・ガレやティファニー等のアール・ヌーヴォーに影響を与えた、装飾性の高い「琳派」の意匠の流行時。

その後アメリカでは、浮世絵のコレクターであった建築家のフランク・ロイド・ライトや、鈴木大拙によって戦後アメリカで禅思想が流行した時の作曲家ジョン・ケージ等への影響も有っただろうが、美術に於ける大きなムーヴメントとしての三回目は、嘗ては「サブカル」と呼ばれたが、今や英語と迄為ったマンガやアニメ、オタク、コスプレや「カワイイ」等が影響を与えている、「今現在」では無いだろうかと考える。

例えば世界的に活躍する現代美術家村上隆のアニメ風のアートには、実はその根源に日本美術の伝統的手法とコンセプトが有る。

また、草間彌生のドット・ペインティングは、「市松文様」を生み出した日本人が持つ、卓越した装飾性に溢れた作品である。

また、歌舞伎の語源「傾く」から生まれた「傾き者」が桃山時代に生み出し、その後「竹の子族」や「アムラー」、「ヤマンバ」に発達した日本のストリート・ファッション。

「絵巻物」を起源とする「アニメ」迄、世界のアート界は謂わば二一世紀の「プチ・〝ジャポニスム〟」的状況と云っても過言では無いからだ。

こう云った世界美術史の中での日本美術の重要性と影響力を考えると、ジャポニスムとの邂逅によって、成人して間も無かった私の身に突然起こった日本美術への尊敬と「和への回帰」は、或る意味当然の事だったのかも知れない。

「ニューヨークへ行きたいか?」

そうして「日本回帰」への舵をほんの少し取った私を次に待っていたのは、人生の最大事「就職」問題だった。

当時一寸勉強していた映画や、DJをしていた音楽、そして大好きだったアート、その何れかを生業にしようと漠然と考えていたのだが、結局自分の「本当にやりたい事」が見つからず、映画・音楽・アートの内のどれひとつにも仕事を決められなかった私は、先輩の甘言に乗って当時大盛況で大量に人を採っていた、広告会社へと入社したのだった。

私が入社した半外資系の広告会社での仕事は、タレントを起用したテレビCMを花形クリエイター達と作ったり、当時珍しかった、番組の途中にCMを一切入れずにDJが音楽を繫ぎっ放しにすると云う、FMラジオ番組の制作に関わったりして意外と面白かった。

だが、何せバブルの好景気の時代。

夜一〇時頃迄仕事をした後、銀座や赤坂、六本木に繰り出して領収書を貰う為に吞み、その後またステュディオに戻って朝迄広告撮影したりする、と云った異常に忙しい毎日に、私は体調を崩して仕舞った。

「これが本当に自分のやりたい事なのか?」と思っていた矢先の事、大学で教鞭を執っていた「和の鉄人」である父が、サバティカルイヤー(研究等の為の長期休暇)を取り、一年間ニューヨークをベースに、アメリカの美術館に収蔵されている浮世絵の調査をする事に為ったのだ。

父が云うには、「自分は全く英語が話せないから、〝鞄持ち兼家事手伝い〟で一緒に来い。

一年間喰わせてやる」との事。

確かに「学者バカ」だった父は、ひとりでは如何なる切符も買えないに違いない。

のこのこ付いて行った私は、父に連れられて倉庫迄入れて貰ったMETやボストン美術館、シカゴ美術館等で、国宝・重要文化財クラスの奇跡的な品質と、丁寧に保存された素晴らしい状態の、膨大な量の日本美術品を目の当たりにする事に為る。

「何故アメリカの美術館は、これ程の量の日本美術をお金を出して買い、保存し、世界から来る人々に観せているのだろう?」この大きな疑問はやがて、後に私の日本美術人生に於ける指針と為る。

こうして、私の「日本回帰」は決定的な物と為っていくのである。

クリスティーズとの縁

此処から先は、クリスティーズでの私のキャリアの話に為るが、今回は最小限に留めておこうと思う(何時かまた、別の機会に書く事が出来れば幸いです)。

父親との慣れないニューヨーク生活を終えた後、私は、嘗ての父の教え子の仲介で、クリスティーズの「研修社員」と為った。

この人は当時クリスティーズ・ニューヨークの日本・韓国美術部門の部長(後の私のポジション)を務めていた英国人Sで、私は先ず彼の母国でもあるイギリス・ロンドンで一年間、続いて再びニューヨークに戻り、Sの部署でインターンとして一年間働いた。

予想以上の言葉の壁や、未知の領域での仕事に悪戦苦闘したが、少しずつオークション・ハウスに馴染んで行き、遂に正規社員と為ってクリスティーズのジャパン・オフィスに送られた。

当時の日本法人クリスティーズジャパンの社長Hさんにも心底お世話に為り、そして学ばせて頂いた。

当時、一九九〇年代後半の日本は、バブル経済が崩壊した後の時期。

私の主な仕事は、バブル期に購入した絵画を持ちきれなく為った個人宅や一般企業の社屋、また美術品を担保に取っていたり、不良債権化させて仕舞った金融機関の倉庫に印象派・近代絵画のスペシャリストを伴って赴き、査定をする事だった。

そしてその査定結果を元に、今度は出品交渉を行うのだ。

そして、そんな営業職と同時に、日本絵画の「アシスタント・スペシャリスト」の肩書きが私に付けられ、日本絵画をオークションに出す為に、少しずつ査定し始めたのもこの頃だ。

そうして営業部長や副社長を務めたりしたが、或る日、メンター(指導者)Sの後任でニューヨークの「日本・韓国美術部」部長をしていた人が急に辞める事に為った。

そして会社は、私にその後任を探す様依頼をして来たのだが、この人選は困難を極め、候補者が本当に見つからなかったので、意を決して本社人事に申し出た……。

「あの、私じゃ駄目ですか?」会社の最初の反応はNO。

が、粘り強く交渉を続けた。

探しても他の候補者が見つからないのだから仕方無い。

交渉の結果、「私が相応しい」と云うよりは、「他に人が見つからないので」と云う理由で、私はまたもニューヨークへと旅立った。

此処でスペシャリストとして勤務した後、二〇一八年、古巣のクリスティーズジャパンの代表と為って今に至る。

当に人生とは、予期出来ない「ロード・ムーヴィー」その物である。

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