第二章みなみは野球部のマネジメントに取り組んだ
5結局、野球部の定義は分からず終いだった。
そこでみなみは、もう一度『マネジメント』を初めからじっくりと読み返してみた。
本の中に書かれていることの意味を、もう一度しっかり読み取ろうとした。
すると、そこにはこうあった。
企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。
顧客である。
顧客によって事業は定義される。
事業は、社名や定款や設立趣意書によってではなく、顧客が財やサービスを購入することにより満足させようとする欲求によって定義される。
顧客を満足させることこそ、企業の使命であり目的である。
したがって、「われわれの事業は何か」との問いは、企業を外部すなわち顧客と市場の観点から見て、初めて答えることができる。
(二三頁)みなみは、いつもここのところでつまずいてしまった。
ここのところで分からなくなった。
つまずく原因は、「顧客」という言葉にあった。
この「顧客」というのが何を指すのか、よく分からなかったのだ。
もちろん、言葉の意味は分かった。
それは簡単にいうと「お客さん」という意味だ。
しかし、それが野球部にどう当てはまるのかが分からなかった。
野球部にとって「お客さん」というのが、誰を指すのか分からなかった。
『マネジメント』には、続けてこうあった。
したがって「顧客は誰か」との問いこそ、個々の企業の使命を定義するうえで、もっとも重要な問いである。
(二三~二四頁)――本当に、「顧客」とは一体「誰」なんだろう?みなみは考えた。
野球部は、そもそも営利団体ではない。
取引相手や、お客さんがいるわけではない。
もちろん、試合をすればお客さんは見に来るが、自分たちが彼らからお金をもらっているわけではない。
お金をもらわないことが、高校球児の大前提だったりするくらいだ。
それでは、野球部にとっての顧客とは一体誰なのか?それでも、球場に見に来るお客さんがそうなのか?しかしそれは、やっぱり違うような気がした。
野球部の定義が「野球をすること」ではないように、野球部の顧客が「試合を見に来るお客さん」というのも、やっぱり正しくないような気がしたのだ。
『マネジメント』には、「顧客は誰か」を問うことについて、こうあった。
やさしい問いではない。
まして答えのわかりきった問いではない。
しかるに、この問いに対する答えによって、企業が自らをどう定義するかがほぼ決まってくる。
(二四頁)ドラッカーの言うように、それが「やさしい問いではない」ことだけはよく分かった。
しかし、肝心の答えが出ないままでは、そこから先へ進めなかった。
そのため、みなみのマネジメントは、ここへ来て早くも大きな壁に突き当たってしまった。
夏休みに入ってすぐ、野球部の合宿が行われた。
合宿といっても、遠出をするわけではない。
学校に泊まって、練習はグラウンドでするのだ。
それは四泊五日の日程で行われた。
この合宿には、入院中の夕紀を除いて、全ての部員が参加した。
おかげでみなみも、そこでようやく全ての部員と顔を合わすことができた。
合宿初日、みなみは、部員たちに向かってあらためて自己紹介をした。
しかしこの時は、「野球部を甲子園に連れていく」という自分の目標にはあえて触れなかった。
それは、話してもどうせ否定されるだけだろうというのもあったけれど、それ以前に、もう少し野球部のことを知りたいと思ったのだ。
だから、この合宿期間は野球部の観察に充てようと考えていた。
まずは、野球部のことを見て、知って、分かりたいと思った。
目標を言うのは、それからでも遅くないと思ったのだ。
そうしてみなみは、合宿初日から野球部を観察し始めた。
するとそこで、すぐに気づいたことがあった。
それは、ある一人の部員についてだった。
その部員の醸し出す雰囲気が、部全体に大きな影響を与えていたのである。
その部員は、浅野慶一郎という二年生だった。
ポジションはピッチャーで、それも一年生の時から背番号1をつけている、押しも押されもしないエースであった。
この慶一郎が、ちっとも真面目に練習をしないのである。
グラウンドには出てくるものの、親しい仲間といつもおしゃべりをしている。
そうかと思うと、ベンチに寝転んで、何やら音楽を聴いている。
あるいは、ふらりとどこかへいなくなったりする。
時々キャッチボールをすることもあるけれど、それはいつでもおざなりで、緊張感といったものがまるでない。
ところが、そんな慶一郎に対して、誰も何も言わないのである。
部員が何も言わないのはもちろん、監督の加地までもが黙っているのだ。
それだけではない。
加地と慶一郎との間には、見えない壁のようなものがあった。
一度、加地が慶一郎に話しかけたことがあった。
それは、何かを注意したり、怒ったりしようとしたのではない。
もっとたわいもない、連絡事項のようなことを伝えようとしただけだ。
ところが、それを慶一郎が無視したのである。
聞こえなかった振りをして、そのままぷいと向こうへ行ってしまった。
しかし、それはちゃんと聞こえていたはずだった。
端で見ていたみなみにも、それは分かった。
慶一郎は、あからさまに加地のことを無視したのだ。
それでも加地は、そんな慶一郎に注意を促したりすることはなかった。
合宿期間中、二人が接触したのはこの時だけで、後はお互いがお互いを避けるように、距離を縮めることはなかった。
それでみなみは、一年生女子マネージャーの北条文乃をつかまえて聞いてみた。
「ね、浅野くんのことなんだけど」「え?あ、はい」と文乃は、びっくりしたような顔でみなみを見た。
文乃は、みなみが話しかけると、いつもびっくりしたような顔をした。
みなみとはもう何度となく顔を合わせているのに、彼女はいまだに慣れるということがなかった。
「浅野くんて、なんで真面目に練習をしないわけ?」「え?」「ていうか、なんで監督がそれを許してるの?ううん。
私には、監督が浅野くんを避けてるように見えるんだけど」
「え、あ、はい」「あの二人、どういう関係なの?浅野くんは、なんでいつもあんな態度を取ってるのかな?」「え、あ、はい」え、あ、はい――というのが、文乃の口ぐせだった。
何かを聞くと、いつもこれが返ってきた。
そこでみなみは、「え、あ、はい」以外の答えを引き出そうと、しばらく文乃を黙って見つめた。
しかし文乃は、それっきり口をつぐんだまま、何も言わなくなってしまった。
それでみなみは、とうとう堪えきれなくなってこう言った。
「……あの、質問したんだけど」「え?」「私、今、あなたに質問したんだけど」「え?あ、はい、す、すみません!」と、文乃は再びびっくりしたような顔をして、頭を下げて謝った。
ところが、その時だった。
不意に「あ!」と声をあげた文乃が、みなみの後ろに目をやった。
それで、みなみもつられて後ろを振り向いたのだが、その瞬間、文乃がいきなり向こうへ向かって駆け出した。
文乃は、そのままみなみのもとから逃げていった。
それはあっという間のできごとだった。
声をかけるいとまもないくらいで、みなみはただ呆然と、文乃の背中を見送るのみだった。
そのためみなみは、仕方なくキャプテンの星出純に尋ねてみた。
すると、彼も言いにくそうにしていたが、しぶしぶという感じで教えてくれた。
それによると、ことの発端は夏の大会にあったそうだ。
夏の大会で、ピッチャーの慶一郎は、監督の加地に降板させられたのだそうである。
その交代のさせられ方に、納得がいかなかったらしい。
というのも、慶一郎は確かに点を取られはしたけれども、きっかけは野手のエラーだった。
だから、慶一郎としては、交代させられるいわれはないと考えていたのである。
ところが、そこであっさりと交代させられてしまった。
それ以来、ずっとくさっているのだという。
今の態度は、そこからきているのだろうということだった。
6合宿は、一事が万事、こんな調子だった。
みなみは、部員たちとコミュニケーションをはかることがなかなかうまくできなかった。
おかげで、部員たちを観察するという計画も、思うようにはかどらなかった。
本当は、エースの慶一郎や監督の加地とも話してみたかったのだけれど、なかなかチャンスをつかめなかった。
慶一郎は、いつも少数の決まった仲間と一緒にいるか、一人の時は誰も寄せつけない雰囲気を醸し出していた。
一方加地も、さすがに寄せつけないというほどではなかったが、部員とあまり話をしたがらない雰囲気があった。
加地は、慶一郎だけではなく、他の部員たちとも距離を置いていた。
監督のくせに、どこか他人行儀なところがあった。
そのため、みなみもなかなか話すチャンスをつかめなかった。
合宿も最終日になる頃、みなみは、やることなすこと空回りするようで、暗澹とした気持ちにさせられていた。
滅多なことでは落ち込まないのだが、それが四日も続くと、さすがに暗い気分になっていた。
それでも、へこたれるわけにはいかなかった。
そんな時、みなみはもう一度『マネジメント』を読んでみるのだった。
読んで、その中からあらためて、状況を改善するためのヒントを見つけ出そうとした。
『マネジメント』を読み始めて以来、みなみには一つの信念が芽生えていた。
――迷ったら、この本に帰る。
答えは、必ずこの中にある。
そう思うのに、はっきりとした理由があるわけではなかった。
それは単なる直感にすぎなかった。
しかしみなみは、その直感をだいじにした。
考えることが得意ではない彼女にとって、直感は、これまでずっと自分を助けてきてくれた大切なナビゲーターだった。
その声に、ここでも従おうとしたのである。
合宿最後の夜も、夕食が終わった後、誰もいなくなった食堂で、みなみは一人、『マネジメント』を読んでいた。
不思議なことに、『マネジメント』を読んでいると、みなみは落ち着くのだった。
また、失った自信も取り戻せたような気になった。
それを読むと元気が出た。
この頃のみなみは、そんなふうに、自分を鼓舞する意味でもその本を活用していた。
そうして、いつしか夢中になって読みふけっていた時だった。
「何読んでるの?」と、突然後ろから声をかけられた。
それで、飛びあがるほど驚いたみなみは、にらむようにして後ろを振り向いた。
初めは、キャッチャーの次郎におどかされたと思ったのだ。
しかし、そこに立っていたのは次郎ではなかった。
二階正義という、二年生の補欠の選手だった。
みなみは、正義のことはもちろん知っていた。
彼は、合宿で初めて会ったのではなく、夏休み前の練習にも参加していた、数少ない真面目な部員の一人だったからだ。
また、正義には大きな特徴もあった。
それは、部員の中でも一番野球が「下手」だということだった。
正義の下手さ加減は誰の目にも明らかだった。
キャッチボールさえまともにできないのだ。
投げたボールが相手の胸元へ収まることはほとんどなかった。
その実力は、もしかするとマネージャーの文乃以下かもしれなかった。
文乃も、球拾いをした時などにボールを投げることがあったが、正義よりよっぽどしっかりしたコントロールをしていた。
その一方で、正義はまた真面目さでも群を抜く存在だった。
練習にはいつも一番乗りで、グラウンドを後にするのもいつも一番最後だった。
しかも正義は、後片づけなど他の部員がいやがることも率先してやった。
彼がいつもグラウンドを最後に後にするのは、誰よりも遅くまでグラウンド整備をしているからだった。
この頃までに、みなみはそれなりに正義と親しく話すようにはなっていた。
雑談くらいは交わすようになっていたが、それでも、自分の目標を話したことは一度もなかった。
それは、万年補欠の正義に、甲子園の話をしても仕方ないと思っていたところがあったからだ。
その正義が、食堂に入ってきた。
彼は何やら手に持っていて、見るとそれはゴミ袋だった。
明日合宿を終えるのに備えて、今日のうちから掃除をしていたのだという。
彼は、そういうふうにどこまでも真面目なところがあった。
そんな正義に、みなみは『マネジメント』の表紙を見せながら言った。
「ああ、これ?こういう本」「あれ、ドラッカーじゃないか」「え?」とみなみは驚いた。
「知ってるの?」「知ってるも何も、おれ、ドラッカーならほとんど読んだぜ」。
そう言って、正義はちょっとはにかんでみせた。
「おれ、大ファンなんだ」みなみは、意外そうな顔をして正義を見た。
「へえ。
ドラッカーなんて、よく知ってたね」
すると正義は、ちょっとむきになったような顔をして言った。
「それはこっちのセリフだよ。
そっちこそなんで『マネジメント』なんて読んでんだよ。
あれ、川島もアントレプレナー志望なの?」「アントレプレナーって何?」「え?アントレプレナー、知らないの?アントレプレナーってのは、その……『キギョウカ』って意味だよ」「キギョウカ?」「キギョウカっていうのは、『起こす業の家』と書く起業家。
『事業を興す人』という意味だよ。
簡単に言うと社長。
川島も、会社始めたりする気なのか、って聞いたの」「全然――」。
みなみは、きょとんとした顔で答えた。
「川島『も』ってことは、二階くんは社長志望なの?」「そうだよ――」と正義は、今度は胸を張るようにして答えた。
「おれは、将来起業したいと思ってるんだ。
野球部に入ったのも、そのためさ」「えぇっ?」とみなみはすっとんきょうな声をあげた。
「どういう意味?」すると正義は、起業家になるために野球部に入った経緯を説明し始めた。
彼はもう、小学生の頃から将来は起業して実業家になりたいという夢を抱いていた。
そのため、色々勉強したり準備をしたりしていたのだけれど、その一環として、高校から野球部に入ったということだった。
理由は、日本においては「体育会系」というキャリアが、ものすごく有利になることに気づいたからだそうだ。
日本の実業家には、なにしろ「体育会系」出身者が多かった。
彼らの中には、学生時代の運動部での人間関係を、人脈作りの基盤としている者が多かった。
また、運動部出身の人間は、多くの場面で重宝されたり、肩書きとして重んじられたりした。
その最も顕著な例が、企業の採用だった。
企業が人材を採用する際、運動部に所属していたという経歴は大きなアドバンテージになった。
「だから、野球部に入ろうと思ったんだ」正義は、中学校までスポーツとは無縁の生活を送っていた。
しかし、心身を鍛えるという意味でも、またそこで人脈を築いたり、人間関係のスキルを育んだり、という意味でも、運動部に所属することは将来のためになると考えたのだ。
そこで、どの部に入ろうか検討した結果、どうせなら日本で最もメジャーなスポーツがいいと思い、野球部に入ったのだそうだ。
それを聞かされたみなみは、驚くと同時に感心もした。
そんな理由で野球部に入る人間など、これまで聞いたことがなかった。
それに、下手でも誰よりも真面目に取り組むその姿勢に、大きな感銘を受けた。
そのことを率直に伝えると、正義は、またちょっとはにかみながらこう答えた。
「大したことねえよ。
それより、そっちこそなんで『マネジメント』読んでんだよ。
起業家にならないのなら、そんな本読む必要ないだろ?」「必要は大ありよ」とみなみは、心外だというふうに答えた。
「私は、これを読んでマネジメントするつもりなんだから」「へ?」と、今度は正義がすっとんきょうな顔になった。
「マネジメントって、何をマネジメントするの?」「野球部よ」とみなみは、ムッとして言った。
「私をなんだと思ってるの?私は『マネージャー』よ。
マネージャーのすることといえば、マネジメントしかないじゃない。
私は、野球部をマネジメントするの」それを聞いた正義は、しばらくポカンとしていた。
そうして、みなみの顔と、みなみが読んでいた『マネジメント』を、交互に見比べた。
「野球部の女子マネージャーが、野球部のマネージャーに。
『マネジメント』を読んで、野球部をマネジメント……」それから、いきなり「まじかよ!」と叫ぶと、腹を抱えて笑い始めたのである。
7正義は、たっぷり一分近く笑っていた。
それに対し、みなみは仏頂面になって正義をにらんでいたが、やがて笑い終わった頃合いを見計らうと、こう言った。
「何がおかしいのよ?」「いや……」と正義は、なおもくっくと思い出し笑いをしながら言った。
「女子マネージャーがマネジャーとは、最高のダジャレだと思ってさ」「私は冗談で言ってるんじゃないのよ」。
みなみは、うなるような低い声音で言った。
「真剣なんだから」「あ、いや――」と正義は、今度は慌てて言い訳するように言った。
「もちろん、それは分かってるよ。
おれは別に、バカにして笑ったわけじゃないぜ。
真剣だというのが分かったからこそ、笑ったんだ」「なんで真剣だと笑うのよ?」「だって、それこそ最高のシャレじゃないか!」。
正義は、目を輝かせながら言った。
「女子マネージャーがマネジメントなんて、思いもしなかったよ。
しかし、言われてみると確かに面白い。
むしろ、なんで今まで思いつかなかったのか不思議なくらいだ。
マネジメントは、必ずしも企業だけのものではないからね。
それに、大人だけのものでもない。
何より、高校野球のような非営利組織に適用させようというのが素晴らしいじゃないか!」みなみには、正義が何を言っているのかはよく分からなかった。
ただ、少なくとも彼がバカにしているわけではないというのは分かった。
それで、一応は仏頂面を解いたのだけれど、その時ふと、あることを思いついて尋ねてみた。
「ね、一つ聞いてもいい?」「ん?」「あなたも、『マネジメント』を読んだことがあるんでしょ?」「もちろん」と正義は、胸を張って言った。
「それは一番初めに読んだよ。
しかも、くり返し読んできた。
おれは、川島が持ってるその『エッセンシャル版』だけじゃなくて、最近発売された『完全版』も持ってるんだぜ」「じゃあ、聞きたいことがあるんだけど」「ん?」「野球部の『顧客』って誰なのかな?」「え?」「私、それが分からなくて、ずっと困ってたんだ。
この本にはさ、『企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。
顧客である。
顧客によって事業は定義される』って書いてあるんだけど、これは顧客が誰で、どんな人であるかによって、野球部が何であって、何をすべきかが決まってくるってことだよね?そこまでは分かったんだけど、肝心の『顧客』っていうのが誰なのかが、さっぱり分からなかったんだよね」「ふむ」と、その質問を受けて、正義も真剣な表情になった。
「ちょっと見せて」と、みなみの持っていた『マネジメント』を受け取ると、パラパラとページをめくって、それからこう言った。
「ああ、ここ、ここ。
『マネジメント』には、こう書いてある」一九三〇年代の大恐慌のころ、修理工からスタートしてキャデラック事業部の経営を任されるにいたったドイツ生まれのニコラス・ドレイシュタットは、「われわれの競争相手はダイヤモンドやミンクのコートだ。
顧客が購入するのは、輸送手段ではなくステータスだ」と言った。
この答えが破産寸前のキャデラックを救った。
わずか二、三年のうちに、あの大恐慌時にもかかわらず、キャデラックは成長事業へと変身した。
(二五頁)「これを参考にすれば、『顧客は誰か』っていうのも分かるんじゃないかな」
「どういうこと?」「つまり、ドラッカーがここで言ってるのは、自動車というものの定義も、単に『輸送手段』だけではないということだろ。
例えばキャデラックだったら、そこに『ステータス』が加わる」「うん」「それが分かったのは、ニコラス・ドレイシュタットが『顧客は誰か』ということを考えたからなんだ。
そして彼は、『ダイヤモンドやミンクのコートを買うお客さん』という答えを導き出した。
だから『ステータス』という定義づけをすることができたんだ。
これと同じように、野球部の場合も、まず『顧客は誰か』というのを見極めることから始める。
そうすれば、野球部が何で、何をすればいいかというのも分かってくるんじゃないかな」「うん。
だから――」とみなみは、ちょっと苛立たしげな顔になって言った。
「その『顧客は誰か』というのが分からなくて困ってるんじゃない。
球場に来るファンが顧客というわけではないでしょ?分かりやすい答えが、そのまま正しいということはほとんどない、って書いてあるんだから」しかし正義は、涼しい顔をしてこう言った。
「何も堅苦しく考える必要はないよ。
確かに、野球部は球場に見に来るお客さんからお金をもらっているわけじゃないけど、それでも、タダでやってるわけじゃないだろ?ちゃんと、野球をやるためにお金を出してくれたり、お金は出さないまでも、協力してくれている人たちがいるじゃないか」そう言われて、みなみは全く不意に、そういう人たちがいるということに初めて思い至った。
「あ!」「だから、そういう人たちを野球部の顧客と考えればいいんだ。
彼らなしには、野球部は成り立たないからね」「あ……あ……」と、みなみは興奮したように正義を見た。
「そうなると、例えば『親』が顧客ということになるの?親が学費を払ってくれてるから、私たちは学校に行けるし、部活動もできてるわけで」「そうだな」と正義は答えた。
「それから、野球部の活動に携わってる『先生』たちや『学校』そのものも、顧客ということになるだろうな」「だったら、その学校にお金を出してる『東京都』も顧客ということになるよね?」「うん。
その東京都に税金を払っている、『東京都民』も顧客だ」「なるほど!」と、みなみは興奮して大きくうなずいた。
「あ、じゃあ『高校野球連盟』も顧客かな?彼らが、甲子園大会を運営してくれてるわけだから」「そう。
それに全国の『高校野球ファン』も、やっぱり顧客ということになる。
ぼくらは、彼らから直接お金をもらってるわけじゃないけど、彼らが興味を持って球場に足を運んでくれたり、新聞の記事を読んだり、テレビを見てくれたりするおかげで、スポンサーがお金を出して、そのお金で甲子園大会が運営されているわけだからね」「ふむふむ、そうなんだ……そう考えると、高校野球に携わるほとんど全ての人を、顧客ということができるよね」この時、みなみの頭の中にはもやもやするものが芽生え始めていた。
それは予感だった。
「野球部とは何か」ということの定義を導き出せそうだという感触だった。
それは、いつもの直感だった。
いつもの直感で、みなみは、自分がその答えにあと一歩のところまで来ていることを感じたのだ。
しかしその答えは、なかなかはっきり姿を現そうとしなかった。
なかなか具体的にならなかった。
おかげで、みなみはイライラさせられた。
それは、喉元まで出かかった人の名前がなかなか思い出せないような感覚だった。
――ああ、もうここまで出てるのに!と、そう思った時だった。
正義がこんなことを言った。
「それから、忘れちゃいけないのは、ぼくたち『野球部員』も顧客だということだな」「え?」とみなみは、驚いた顔で正義のことを見た。
「どういうこと?」「だってそうだろ」。
正義は、当たり前のことを言うような顔で言った。
「ぼくたち部員がいなければ、野球部なんて成り立たないわけだから。
それに高校球児が一人もいなくなれば、甲子園大会だって成り立たない。
だから、ぼくたち部員というのは、野球部の従業員であると同時に、一番の顧客でもあるわけだ」その瞬間だった。
みなみは、頭の中のもやもやが一気に晴れたような感覚を味わった。
それと同時に、喉元まで出かかっていたその答えが、はっきりと姿を現した。
分かりかけていた野球部の定義というものを、具体的に認識することができたのである。
「感動!」とみなみは叫んだ。
それで正義は、びっくりした顔でみなみを見た。
「え?な、何……?」みなみは、そんな正義に勢い込んで言った。
「そうよ!『感動』よ!顧客が野球部に求めていたものは『感動』だったのよ!それは、親も、先生も、学校も、都も、高野連も、全国のファンも、そして私たち部員も、みんなそう!みんな、野球部に『感動』を求めてるの!」「ふむ……なるほど――」と正義は、しばらく考えてからこう言った。
「その解釈は面白いね。
確かにそういう側面はある。
『高校野球』と『感動』は、切っても切り離せないものだからね。
高校野球の歴史そのものが、感動の歴史と言っても過言ではない。
高校野球という文化は、これまで多くの感動を生み出してきた。
だからこそ、ここまで広く、また深く根づいたというのがあるだろうからね」「そうよね!合ってるよね!」とみなみも、興奮して激しくうなずきながら言った。
「私、知ってるの。
一人、野球部に感動を求めている顧客がいることを!そうなんだ、彼女が顧客だったんだ。
そして、彼女が求めているものこそが、つまり野球部の定義だったんだ。
だから、野球部のするべきことは、『顧客に感動を与えること』なんだ。
『顧客に感動を与えるための組織』というのが、野球部の定義だったんだ!」
8こうして、野球部の定義が定まった。
次いで、目標もすぐに定まった。
それは、「甲子園に行く」ということだった。
これは、もともとはみなみ個人の目標だった。
しかし、野球部の定義づけがなされた今、あらためて部の目標として設定されたのだ。
というのも、「甲子園に行く」というのは、「感動を与えるための組織」という野球部の定義に最も適う目標でもあったからだ。
もし本当に甲子園に行くことができれば、多くの人に感動を与えるだろうことは想像に難くなかった。
この目標があらためて設定されたことに、みなみは喜ぶと同時に自信を深めた。
もともと考えもなしに決めた目標ではあったが、それに「野球部の定義」という裏づけがされたことで、自分の直感が正しかったのを証明されたような気持ちになったのだ。
定義と目標が決まったことを受け、みなみが次に取り組んだのは、マーケティングだった。
『マネジメント』にはこうあった。
企業の目的は、顧客の創造である。
したがって、企業は二つの、そして二つだけの基本的な機能を持つ。
それがマーケティングとイノベーションである。
マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。
(一六頁)さらに、『マネジメント』にはこうあった。
これまでマーケティングは、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。
それではまだ販売である。
われわれの製品からスタートしている。
われわれの市場を探している。
これに対し真のマーケティングは顧客からスタートする。
すなわち現実、欲求、価値からスタートする。
「われわれは何を売りたい
か」ではなく、「顧客は何を買いたいか」を問う。
「われわれの製品やサービスにできることはこれである」ではなく、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」と言う。
(一七頁)この一節を読んで、みなみは気づかされたことがあった。
それは、「自分はすでにマーケティングをしてきた」ということだった。
例えば、夕紀の話を聞いたことがそうだった。
彼女に「どうしてマネージャーになったの?」と問い、「感動をしたいから」という答えを得たことが、すなわちマーケティングだった。
みなみはそこで、夕紀という顧客の「現実、欲求、価値からスタート」していた。
だから、「顧客に感動を与えるための組織」という定義を導き出すことができたのだ。
あるいは、夏の合宿で野球部を観察したのも、やっぱりマーケティングだった。
そこでは、「野球部を甲子園に連れていく」という自分の欲求を言うのではなく、まず観察から始めようと思った。
それは、「われわれの製品からスタート」するのではなく、「顧客からスタート」しようとしたことに他ならなかった。
部員という顧客が「価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」というのを調査することから、マネジメントを始めようとしたのだ。
この時は、まだ部員たちが顧客だと分かっていなかったから意識していなかったが、みなみはすでに、ちゃんとマーケティングをしていたのである。
ただ、それはいまだにはっきりとした成果には結びついていなかった。
夏の合宿では、みなみは思うように野球部をマーケティングできなかった。
例えば、一年生女子マネージャーの北条文乃は、いまだにみなみに心を開いていなかった。
だから、彼女から聞き出せたことは何一つなかった。
あるいは、キャプテンの星出純に対しては、それなりに話せるようにはなったが、しかし一方では、目に見えない壁のようなものも感じていた。
純は、質問すれば一応は答えてくれるものの、それをあまり快く思っていないようなのだ。
しかしその理由も、みなみはいまだに分からないままだった。
監督の加地誠やエースの浅野慶一郎との距離感はそれ以上で、ほとんど口さえ利けていなかった。
そんな中で、唯一うまくいったのは二階正義へのマーケティングだった。
みなみは、ひょんなことから、彼の「将来は起業家を目指す」という欲求や、「心身を鍛えたり、人脈を作ったりするために野球部に入った」という価値を知ることができた。
これこそがマーケティングに他ならなかった。
これこそが成果だった。
それは小さな一歩ではあったが、しかし確かな前進であることには間違いなかった。
だからみなみは、こういう小さな一歩を積み重ねていくことによって、今後もマーケティングを進めていきたいと考えた。
そこで、合宿が終わるとすぐ、夕紀の入院している病院を訪れた。
夕紀に、合宿でのできごとを報告するのと同時に、今後のマーケティングのやり方について相談しようと思ったのである。
どうしたら、もっとみんなの現実や欲求や価値を知ることができるか。
どうやったら、それを聞き出せるか。
あるいはどうすれば、彼らの頑なな心を開くことができるか――そうしたことをアドバイスしてもらおうと思ったのだ。
ところが夕紀は、みなみがそれを話すと、いぶかしげな顔になってこう言った。
「みんな、そんな頑なじゃないと思うんだけどなぁ」「だって――」とみなみは反論した。
「文乃なんて、いまだに何聞いても『え、あ、はい』しか答えないんだよ。
それ以上問い詰めると、今度は走って逃げちゃうし」それを聞いて、夕紀はウフフと笑った。
「きっと、彼女は緊張してるのよ。
かなり人見知りするところがあるからね。
だけど、一旦仲よくなると、すっごく明るいし、おしゃべりな子なのよ」「夕紀、文乃と仲よしなの?」とみなみは、ちょっとびっくりして尋ねた。
「仲よしってほどじゃないけど、それなりに話はするわよ」「そうなんだ……ね、文乃って、一体どんな子なの?」「そうねえ。
彼女は、まずはなんといっても大秀才ね」「そうなの?」「そうよ。
彼女はね、入試の時からずうっと、テストの成績が学年で一番なのよ」「そうなんだ!へえ、すごいね」「うん。
だから、東大合格間違いなしだっていわれてるわ」「そっか……全然知らなかったよ」「それもね、ただのガリ勉ていうだけじゃなくて、実際すっごく頭がいいのよ。
部員の名前とか、一度聞いたら全部覚えちゃうし、教えたこととか、誰かが言ったことなんかも、なんでもかんでも覚えてるの。
私、いつも感心してたんだ。
私なんかとは、頭の構造が全然違うんだろうなあって」「ふうん。
でもなんで、そんな子が野球部のマネージャーをやってるんだろ?」「さあ、そこまでは、私も聞いたことがないな。
そこまでは、やっぱり聞きづらいところもあってね。
そういう意味では、確かに壁があることはあるわね」「でしょ?やっぱ夕紀でもそうなのか……じゃあ、他には何かある?」「そうねえ。
文乃は、頭がいい半面、とっても頑固なところがあるわね」「あ、それは分かる気がする」「前にね、一度すごい怒られたことがあるの」「怒られた?夕紀が?」「うん、怒られたというか、怒らせちゃったというか……。
それはね、彼女が入ってすぐの頃だったんだけど、あんまり頭がいいもんだから、感心して言ったことがあったの。
『やっぱり、優等生は頭のできが違うねえ』って。
私、別にいやみで言ったわけじゃないのよ。
その時は、心から感心して、誉め言葉としてそう言ったの」「うんうん、分かるよ」「ところがね、その時、急に大声を出して、『私、優等生なんかじゃありません!』って」「文乃が?」「そう!だから、私もびっくりしちゃって。
それこそ、グラウンド中に聞こえるような声だったから、みんなも一斉に振り向いて」「へえ」「それで、彼女もそれに気づいたんだろうね。
今度は恥ずかしくなったのか、急に顔を真っ赤にして、そのまま向こうへ逃げていっちゃった」「あ、それは私もやられた」「だから、彼女の中では『優等生』って言葉がすごくいやだったのかなって、後になって反省させられたんだけど……」「ふうん。
そんなことがあったんだ」続いて、今度は監督の加地誠のことを聞いてみた。
すると夕紀は、こんなふうに答えた。
「監督はね、怖がってるのよ」「怖がる?何を?」「それはね……部員を」「部員?どうして?」「うん……」夕紀は、前に加地から聞いたという、彼が部員たちと距離を置くようになったきっかけについて話した。
加地誠は、二十代後半の、まだ若い社会科の教師だった。
彼は、この程高のOBであり、また野球部のOBでもあるのだそうだ。
「ええ?そうなの?全然知らなかった」「うん。
しかも先生は、東大出身なのよ」「ええっ!」程高を卒業した加地は、一浪して東京大学に進んだ。
また、大学でも野球部に所属していたのだが、その後、なぜか教員になって母校に戻ってきたのである。
「なんで?」「はっきりとは言わなかったけど、夢があったみたいなの」「夢って?」「うん。
加地先生の夢は、高校野球の監督になって、甲子園に行くことだったらしいの」「ええっ?」とみなみは驚いた。
「だったらなんで、あんなにやる気がないというか、真面目に指導に取り組まないの?」「それはね、この学校に赴任してきてからのできごとに理由があるらしいの……」程高に赴任した加地は、初めは野球部の監督ではなく、コーチになった。
その頃には、他に監督がいたからである。
ところが、入って早々に、その監督がクビになってしまった。
練習中、部員に暴力を振るったかどで、部員の親に訴えられたのだ。
「ちょうどね、タイミングも悪かったのよ。
ほら、体罰って、ちょうどその頃、そういうのはよくないっていうので、なくそうってことになったらしいのよね。
そんな時に、部員の親から訴えられたものだから、学校側も、誰もかばってくれなかったらしいのよ」「それで?」「それでね、その先生は、責任を取らされる形で、野球部はもちろん、この学校も辞めさせられたらしいの。
加地先生は、その後任として、野球部の監督になったのよ」夕紀は、ため息を一つつくと、言葉を続けた。
「そのことが、加地先生にとってはショックだったらしいの。
というのは、加地先生にとってその先生は、憧れの、尊敬する人物だったらしいのよね。
だから、その先生が辞めさせられたのがまずショックだったし、自分がその後釜になったのも、やっぱりショックだったの」「なんで?」「その先生を、自分が追い出したような気持ちになったらしいのよね。
だから先生は、憧れていた高校野球の監督に、考えられる限り最悪の形で就任することになったわけ」「ふうん……それはまあ、確かにちょっと気の毒な気もするけど、でも、それでなんで、真面目に指導しなくなったの?」「だから、怖くなったのよ、部員たちが」「どうして?」「真面目に指導をしていたら、自分もいつかクビにされるんじゃないかと思って」「ええっ!」とみなみは呆れたような顔をして言った。
「何それ?意味が分からない」すると夕紀は、ちょっと悲しそうな顔をしながら言った。
「だから、混乱しちゃったのよ。
わけが分からなくなっちゃったのね。
一体、どうやって指導をしたらいいのかって」「そんなの、暴力を振るわなければいいだけのことじゃん!」と、みなみはうんざりした顔つきで言った。
それから、今度は一転、感心した顔つきになると、夕紀に言った。
「でも、すごいね夕紀は。
だって、そんな先生でも、夕紀には心を開いてそのことを話したわけでしょ?」「開いたかどうかは分からないけど、話してはくれたわね」「開いてるよ。
だって、分かるもん。
夕紀にはそういうとこあるって。
夕紀って、なんか話しやすいんだよね。
聞き上手なんだ。
夕紀に話していると、もやもやしてることとか解決する。
現に、私がそうだもん。
私も今日、夕紀に話したら何か解決策が見つかるかもしれないって思って来たんだし。
実際、色々話せて、だいぶすっきりした。
夕紀のおかげで、野球部のことも、だいぶ分かるようになっ――」と、そこまで話した時だった。
みなみは不意に、一つのアイデアを思いついた。
「そうだ!」とみなみは言った。
「夕紀にしてもらえばいいんだよ!」「え?」と夕紀は、驚いた顔でみなみを見た。
「するって、何を?」「マーケティングだよ!」とみなみは勢い込んで言った。
「私が聞いたからダメだったんであって、夕紀に聞いてもらえばよかったんだ。
そうだ。
部員みんなに、一人ひとり、お見舞いがてらにここまで来てもらえばいいんだ。
そこで、彼らの現実、欲求、価値を、夕紀に引き出してもらえばいいんだ。
私は、その横にいて、それを黙ってメモしてればいい。
横にいるのがダメというなら、あそこのロッカーに隠れてたっていいよ。
そうやって、マーケティングすればいいんだ。
そうだ、それならあの浅野くんからだって、何か話を聞けるかもしれないし!」
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