MENU

第二章「世俗化」と「人格」概念

目次

Ⅰはじめに

「人格」概念は、十七世紀まではもっぱらスコラ神学の三位一体論の枠組のなかで理解されてきたが、ホッブス(1)以降、神学から切り離されて哲学的概念としての歩みを始め、ロックにおいては「心理学的人格」概念が確立され(2)、カントにおいては信仰や神学から独立して、純粋に人間的な立場から人格が絶対的価値(尊厳)を有することを主張する、哲学的な「人格」理論が構築された(3)、とするのが現在の哲学史・思想史の通説である(4)。

しかし、これにたいして私は、人間理性が信仰あるいは神学から自らを切り離してひとり歩きする、という意味での「世俗化」によって、「人格」概念は、いわばその生命と統一性の源泉から切り離され、崩壊し始めた、と見るのが現実の事態と合致する、と考える。

というのは、人格(ペルソナ)とは人間における神的なるもの(5)を意味表示しているのであり、人間存在を神との生命的な結びつきから切り離し、純粋に人間的な立場から理解しようと試みた場合には、人間を「人格」として理解すること自体が不可能となるからである。

通説によると、ホッブス、ロック、そして最終的にカントは、「人格」概念を神学の枠組から「解放した」とされるが、実際にはそのことによって(人間)人格は、それがまさしく人格として存在し、生き、行為している場所──それは「人格」概念が本来的にそこにおいて考察されるべき「場」でもある(6)──を奪われ、喪失してしまったのである。

なぜなら「全自然における最も完全なもの(7)」(idquodestperfectissimumintotanatura)であるところの人格は、そのような最高の完全性を、すべての存在するものの第一原因であって究極の目的であるもの(8)との直接的な結びつき(それが理性的本性にほかならない)にもとづいて取得しているからである。

したがって(人間)人格が、前述の「世俗化」によって、すべての存在するものの第一原因にして究極の目的であるもの(神)との直接の結びつきから切り離される過程は、人間がその本来の在り方を回復する「解放」ではなく、むしろ人格が人格として存在し、生き、行為する場所を喪失し、人格としての本質的特徴を奪われてしまう過程を意味するのである。

「世俗化」──そして「啓蒙」運動──は、通常、理性の名の下に推し進められるが、私はより正確に言えば、そこでは人間理性の最高そして究極の機能あるいは使命が見失われていると考える(9)。

「世俗化」や「啓蒙」において、人間理性は自らを超える規準や権威をいっさい拒否して、自分自身を最高の地位に高めているかに見えるが、そのことは実は人間理性を極度に矮小化し、弱体化することにほかならない。

なぜなら、人間理性の最高の能力(capacitas,受容可能性)はまさしく、自らを超えるものにたいして自らを開き、秩序づけることに存するからである(10)。

本章において私はこのような人間(理性)の自己理解にもとづいて、世俗化の過程を根本的に批判することを通じて、「人格」概念をより全体的ないし普遍的な視野において考察するための道を探究する。

具体的には、「人格」概念と密接に結びついているはずの「平等」「幸福」「自由」などの理念が、「世俗化」の過程を通じて、人格に内在する価値──尊厳──から切り離されて理解されるようになり、そのことが「人格」概念を空虚なものに変容させたことをあきらかにしたい。

Ⅱ「平等」観の世俗化

1こんにち、すべての人間は平等であるという事実、あるいは平等でなければならないという原則は、自明的なこととして語られている(11)。

平等は現代社会の第一の指導理念である、と言っても過言ではない(12)。

しかし、すべての人間が平等(equal)であるとは、実際のところ、どういうことなのか。

また、なぜすべての人間が平等でなければならないのか、とあらためて問いなおした上でそれに答えようとすると、すべての人を納得させるような答えを見出すことは容易ではない。

すべての「人間」と呼ばれる存在が、(それのゆえに「人間」と呼ばれている)何らかの共通性をそなえていることは確実であるとしても(13)、すべての人間が同じもの(same)ではないことは明白であり、また工場で大量生産される製品のように相互に全面的に類似的(similar)ではないことも容易に確認できる。

では、「同じ」でも「類似的」でもない人間が、「平等」であると言われるのはどのような意味においてなのか。

この疑問にたいして直ちに返ってくる応答は、人間の多様性──肌の色、体格、身体的および精神的能力、等々における──は明白な事実であり、平等の原則とは、まさしく、そのような多様性を理由に人間を差別してはならない、という要請なのだ、というものであろう。

つまり「平等」でなければならないのは、事実(factum)ではなく、事実上限りなく多様である人々に帰せられるべき権利(jus)なのである。

すべての人は、肌の色をはじめとする明白な多様性にもかかわらず、まったく同じ権利を認められ、保証されなければならない。

それがすべての人間は平等である、ということの意味である、と答えられるであろう。

そして、その上で多くの場合、すべての人間は(権利において)平等であるという言明、そして平等でなければならないという原則が自明的なこととして主張されているのである(14)。

2しかし、この言明ないし原則は本当に自明的であろうか。

たしかに、「自明的」という言葉が、或ることが、その真理や意味が十分に吟味・検討されないままにわかりきったこととして受け取られ、承認されていることを意味する(つまり「自明の理」(truism))のであれば、自明的と言えるかもしれない。

他方しかし、「自明的」が、それ以上さかのぼることのできない、それ自体によって知られる真理ないし第一原理(つまりprincipiapersenota)を意味するのであれば、こんにち万人の平等はけっして「自明的」ではない、と言わざるをえない。

なぜかといえば、すべての人はかれらを相互に区別する明白な多様性にもかかわらず、まったく同じ権利を保証されなければならないとの主張にたいして、なぜ「同じ」権利でなければならないのか、言いかえると、どのような根拠ですべての人間が同じ権利を与えられるのに値いするのか、と問い返したとき、それにたいする答えはけっして明白ではないからである(15)。

ここで、すべての人間は人間として根源的に平等であるからだ、という答えが与えられるのであれば、それは論点回避(begthequestion)の虚偽をおかすものである、と言わざるをえない。

なぜなら、問われているのは、まさしくそれのゆえに万人に同じ権利が保証されなければならないとされる、その根源的な平等とは何なのか、ということだからである。

3つまり、すべての人にたいして、かれらの間に見出される様々の相違(それらの一つ一つが、或るときには望ましいものとして、或るときには望ましくないものとして評価される)にもかかわらず、同じ権利が保証されなければならないことの根拠は、すべての人々にそのような権利を認められるのに値いする価値が(人間として)内在している、ということでなければならない(16)。

しかも、その「価値」は、人々を多様化する様々のもの──時として、われわれはそのなかの一つ(たとえばナチズムにとってアーリア人種であること)を絶対視することがある──とは、比較することができないほど大きな価値であるに違いない(17)。

平等の原則が「自明的」であることができるのは、すべての人間に(人間として)内在しているこのような絶対的な価値が人々によって明確に理解され、肯定されている場合である。

しかし、そのような価値はこんにち人々の間で明確に理解され、肯定されているとはけっして言えない。

4ここに、こんにちわれわれの間で「自明的」とされ、疑問視したり、批判することを許さないほどの「権威」を認められている「平等の原則」の根本的な

いし致命的とも言える欠陥が見出される。

一言で言うと、その欠陥とは、平等の原則を根拠づける人間の価値についての明確な認識がないままに、平等の原則が自明の理として幅を利かせていることである(18)。

しかし、平等の原則を根拠づける人間の価値についての明確な認識が欠けているところでは、平等の原則は空虚な政治的スローガン以上のものではない。

なぜなら、その場合には、どのような意味ですべての人間が根源的に、すなわち、たんに現象や事実のレベルにおいてではなく、価値のレベルにおいて平等であるのか、なぜ諸々の多様性と差異(それらは時として高度に重要視され、熱烈に追求される)にもかかわらず、まさしくそれらとは比べものにならないほど大きな価値の平等さのゆえに、すべての人間に同じ権利が保証されなければならないのか、まったく説明が与えられないからである(19)。

5平等の原則が、それを基礎づける根拠である、すべての人間に内在する価値から切り離されて、政治的スローガンに堕してしまった、という事態はどのようにして起こったのか。

私はそのことを最も明白に示しているのは、通常互いに結びつき、連続的であるかのように見なされている、十八世紀の二つの人権宣言における平等の原則の表現に見られる、微妙な、しかし決定的な相違であると思う。

一七七六年のアメリカ合衆国独立宣言は「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に創造され、創造主によって一定の奪われることのできない天賦の権利を付与され……ていることを信ずる」と言明する。

これにたいして一七八九年のフランス革命における「人および市民の権利宣言」は「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と第一条で言明する(20)。

「平等なものとして創造される」と「平等なものとして出生する」との違いはたんに修辞学的なものであり、その意味するところは同一の事態、つまり人為以前の自然状態における平等である、と考える人が多いかもしれない(21)。

しかし私は、すべての人間が「平等なものとして出生する」と言われるときの「平等」は、人間がそれぞれの境遇や環境のなかで身につけてゆく諸々の社会的、制度的な付加物をすべて除去した、文字通り「裸の平等」以上のものではなく(22)、なんら価値の側面をふくんでいないのにたいして、「平等なものとして創造された」と言われるときには、神的創造の働きによってすべての人間に平等に賦与される人間固有の価値が含意されているという、決定的な違いを見落としてはならないと思う(23)。

実際に、「すべての人間が平等に創造された」ことを自明の真理として認め、この命題(proposition)の基礎の上に新しい国を建設したアメリカ建国の父祖たちの哲学(24)と、「自由・平等・友愛」の原理を神的な創造の秩序から完全に切り離した──つまり「世俗化」した──上で、新しい共和国の政治的原理としたフランス革命の哲学との間には、明確な断絶があるとしなければならない(25)。

前者においては、万人の平等という原則が、神的創造を通じて各人に賦与される絶対的価値によって根拠づけられているのにたいして、後者はただ万人の平等という原則を政治的原則として主張するのみで、この原則を根拠づける人間の絶対的価値は完全に視野の外に置かれているのである。

そして、このような各々の人間の絶対的価値の無視と忘却は、「平等」観の世俗化にともなって必然的に生じたものであった(26)。

Ⅲ人格と幸福

1次に、近代における世俗化の過程にともなって、人間の権利および人格の尊厳は自明のこととして語られたにもかかわらず、「人格」概念は変容し空虚化されるに到ったことを、人格と密接に結びついている「幸福」の概念の世俗化と関係させながら考察する。

考察はカントにおける「人格」概念と「幸福」概念との関わりを中心に進められるが、それはカントが哲学における人間的立場を決定的とも言える仕方で確立した(27)、との意味で哲学的思想の「世俗化」を最も徹底的な仕方で成就した、との想定にもとづいている。

私はここで、人間的立場の確立をめざしてカントが遂行したいわゆる批判哲学──理論・思弁的哲学と実践的哲学をふくめて──の企て、ないし体系構築の試みを批判するつもりはなく、またその資格もない。

むしろ私はカントの哲学的営為の全体にとっての目標であった、哲学における人間的立場の追求──哲学の「世俗化」──それ自体を批判的に評価することを試みたい。

なぜこのようなことを試みるかといえば、この「世俗化」の運動はあきらかにひとつの「人間」理解を前提としており(28)、そしてこの「人間」理解には重大な欠陥があった、と私には思われるからである。

カント自身はこのような「人間」理解を自明的なものとして受けいれるところから出発しており、この「人間」理解がふくむ欠陥について責任はない。

しかし、彼の「人格」概念および「幸福」概念はこの欠陥に禍いされており、それぞれ空虚化および陳腐化(banalization)を免れていない、というのが私の解釈である。

2カントが人格の尊厳を強調したことは広く知られており、その影響もあきらかである。

たとえば、こんにちわが国で「人格」という言葉は「道徳的にりっぱな人柄」を指す一種のかたくるしさを感じさせる仕方で用いられることもあるが、より一般的には、(人格とは)「道徳的行為の主体としての個人。

自己決定的で、自律的意志を有し、それ自身が目的自体であるところの個人(29)」(である)という「人格」理解が通念として確立されていると言えるであろう。

ところで、このような人格の哲学的概念は基本的にカントに由来するものであり、そして「自己決定的」であり、「自律的意志を有」する、という言葉は、人格が必然的な因果の法則に支配される自然の領域を超え出る「自由」の能力をそなえた存在であることを示すものとされている(30)。

それにもまして「(人格は)それ自身が目的自体である(31)」という言葉は、人格が或る目的のための単なる手段として使用されることを断じて許さないことの言明であり、人格の尊厳をこの上なく明確に主張したものと受けとめられている。

3しかし、私はここであえて問いたい。

「人間(人格)はそれ自体における目的であり、常に目的それ自体と見なされなければならない」というカントの言明は、実際に人間の人格としての尊厳を明確に基礎づけることができるのであろうか(32)。

「もちろん」という断定的な答えが返ってきそうである。

われわれのまわりで絶えず起こりつつある人格の基本的権利にたいする侵害は、或る人間が自ら以外の人格をそれ自体における目的として尊重せず、たんに自らの目的を実現するのに役立つ手段と見なすことによるものではないか。

もちろん、われわれの社会においては、個々の人間は社会という全体を構成する部分であるかぎり(33)、全体の目的を実現するための手段と見なされることは避けられない。

しかし、それはあくまで部分という役割(34)に関するかぎりにおいてであって、その場合でも各々の個人は同時に人格であるかぎりそれ自体において目的であり、或る意味で「全体」であることを見失ってはならないのである。

もしもわれわれがこのように、各々の人格は常にそれ自体において目的であるとの自覚に徹したならば、人格の基本的権利が侵害され、人格の尊厳が否定されるという事態がけっして起こりえないことは明白だ。

──おそらく、このような答えが返ってくるであろう。

4この答えは多くの人にとって十分に説得的であり、それに異議を唱える余地はまったくない、と思われるかもしれない。

しかし私はあえて、そのような反応は、これまでカント解釈者たちによってうちたてられてきたカントの「権威」を無批判的に受けいれたものにすぎない、との解釈を提示したい(35)。

これにたいして、われわれがひとたび古代末期以来のキリスト教思想のなかで形成され(36)、深められてきた「ペルソナ」理解と人格の尊厳に関する洞察を徹底的にふりかえる労をとったならば、カントの見解は人格の尊厳の確立へ向けてたんなる「最小限」の条件を提示したにすぎず、人格の尊厳を理論的に確立する所まで到っていないことがあきらかに認められるであろう(37)。

このような言い方は多くの人を驚かせるかもしれない。

しかし、善(bonum)の意味をめぐる古代以来の形而上学的考察の流れのなかで見るならば、カントの「人格はそれ自体において目的である」という主張は、人格はたんに「われわれにとって」快いという意味での善(「快適善」(bonumdelectabile))、および「われわれにとって」役立つという意味での善(「効用善」(bonumutile))ではなく、それ自体において、内的に価値があるという意味での善(「高貴善」

(bonumhonestum))である、という初歩的なこと(38)を述べているにすぎないのである。

快適善や効用善は個々の人間が自らのものとして所有もしくは使用する善であるから、それらを所有し、使用する人間(人格)自身はそのような低次の善(39)にとどまるのではなく、またそうした低次の善と見なされてはならないことは言うまでもない。

それら低次の善を所有し、使用する行為主体、能動者(agens(40))である人間(人格)自体がより高次の善としての高貴善であることは確実であるが、問題はむしろそこから始まるのであって、「人格はそれ自体として目的である」と主張するだけでは、人格はどのような根拠にもとづいて尊厳であるのか、またわれわれはどのように人格の尊厳をより完全な仕方で実現できるのか、といった問題は、まったく触れられないままにとどまっているのである。

カントは確かに、「人格」と呼ばれる存在の内的価値・尊厳を自覚していたに違いないが、人格であるわれわれが、行為主体・能動者(agens)として、どのように行為することを通じて自らの人格としての存在を完成することができるか、という課題はまったく視野に入っていなかったように思われる(41)。

そのことをあきらかに示しているのが彼の「幸福」理解であり、そのような「幸福」理解へとカントを閉じこめたのが近代における世俗化の過程であった、というのが本章で私が提示している解釈である。

5カントは『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで、人間の幸福(Glückseligkeit)について様々の語り方をしているが(42)、その多くは人々が通常「幸福」と呼んでいるものをそのまま「幸福」の概念として提示するにとどまっている。

つまり、様々の欲望や傾向──それらは権力、富、名誉、健康などを対象とする──をあまさず満足させることが「幸福」にほかならないとされている(43)。

「幸福」の定義とも言うべきものとしては、『実践理性批判』において述べられる「幸福とは、世界のうちなる理性的存在者が、その存在の全体において、万事が望みと意志のままに運んでいるという状態であり、したがってそれは自然が彼の全部の目的に、したがってまた彼の意志の本質的な規定根拠に一致していることにもとづいている(44)」という言明を挙げることができるであろう。

ところで一般に受けいれられている幸福の本質をなすものが「万事が望みと意志のままに運ぶ」ことであっても、カント自身は、限りなく拡大されてやむことをしらない欲望や傾向のすべてがあますところなく充足された状態が「幸福」であると無条件に考えたのではない。

そのような「すべての傾向性の満足の総体」としての幸福とは、幸福そのものが目的として追求される場合の幸福であるが、カント自身は幸福それ自体を目的として行為するのではなく、「幸福に値いする」者となることをめざして行為すべきであると考えており(45)、それは道徳性ないし徳の完全な実現へと向けられた行為である。

そして幸福はこのような道徳性の完全な実現にともなって与えられる、ということをわれわれは希望できるのである。

ではカントは、このような道徳性ないし徳に相応する幸福についてどのように考えているか。

カントは道徳性の完全な実現は現世においては達成不可能な目標であると考えており、道徳性の完全な実現のために霊魂の不死が実践理性によって要請されるとしているのであるから、道徳性に相応する幸福も現世のみに限られるのではなく、来世においても道徳性の実現に応じて確保できるようなものでなければならない。

カントはそのような幸福──あるいは、ここでは「傾向性の満足」としての幸福にまつわる一切の偶然的原因が除外されているところから、むしろ「浄福」(Seligkeit)と呼ぶべきであろう(46)──を一貫して「自らの状態に安んずること(47)」(ZufriedenheitmitseinemZustande)と表現しており、そこでは結局のところ徳(それは常に困難さの側面をふくむものである)の達成にともなってもたらされる内的な心の平和が考えられていた、と言えるであろう。

そして現世においては、こうした心の平和は様々の外的条件を充足することなしには確保することが困難であるところから、カントは諸々の欲望や傾向性を適度に満足させるという意味での「幸福」をも、道徳性に相応する幸福のうちにふくめて考えていたのである(48)。

6これまでの簡単な概観は、カントにおける「幸福」概念の記述としてけっして十分なものではないが、本章で私が指摘しようとしているカントの「幸福」概念の問題点はすでに明確に浮かび上がっていると言える。

それは、カントにおいては、アリストテレスおよびキリスト教思想の長い伝統が無視されて、最高善(summumbonum)としての幸福がまったく視野の外に置かれている、ということである(49)。

理性的存在者(人格)であるわれわれがその実現をめざして生きるべき最高善(dashöchsteGute)の概念が不在であるというのではない。

しかし、カントの考える最高善は何らかの曖昧さ・二義性(Zweideutigkeit)をふくむものであって、意志(実践理性)が究極の目的として追求する最上善(dasobersteGute)としての徳と、それに相応する幸福との結びつきが最高善と呼ばれている。

言いかえると、万人がそれに到達することを望み、それに向かう自然的な傾向性をもつ幸福はそれ自体として最高善ではなく、最高善はそのような幸福を必然的にふくむような最上(supremum)にして完成された(consummatum)善として捉えられているのである(50)。

7このような最高善の概念、および幸福の位置づけは、カントが自らの思索を通じてたどりついた結論であり、カントの哲学体系全体との関係においてのみ正当に評価ないし批判をすることができるであろう。

ここでは前述したように、「人間の立場」の徹底化をめざしたとされるカントの哲学的営為の前提になっていると思われる「人間」観との関係において彼の最高善および幸福の概念に目を向けると、そこでは人間の究極目的としての最高善の探究──伝統的哲学の中心課題──がまったく哲学の主題となっていないことを指摘したい。

言うまでもなく、このような見解にたいしては、カントは古代以来の哲学の長い伝統であった、徳と幸福を(その一方を他のものに還元することによって)一元化することによって、人間の究極目的としての最高善を規定しようとする試みが根本的に誤りであることを見てとった上で、「人間の立場」の明確な表現としてこのような「最高善」と「幸福」の概念を確立したのだ、との反論が為されるであろう(51)。

しかし私は、そのようなカントの「意図」を考慮に入れてもなお、彼においては世俗化された「人間」観のゆえに人間の究極目的としての最高善の探究──「幸福」の本質の明確化──は原理的に不可能であったことを指摘したい(52)。

8カントの「幸福」概念の問題性は、たとえば次のような箇所においてあきらかに認めることができる。

彼は『道徳形而上学の基礎づけ』において、「幸福の概念は大いに不明確な概念であって、人は誰しもそれに到達することを望んでいるが、彼が本来的に何を望み、意志しているかを明確に、そして本心から言うことはけっしてできない程であるのは不幸なことだ(53)」と述べ、その不明確さのよって来る原因を次のように説明している。

すなわち、幸福の概念に属するすべての要素は経験から借りてこなければならないのに、幸福という理念のためには、私の現在と将来のあらゆる状態にわたって、絶対に万事が最大限にうまく運ぶことが必要とされる──これはあきらかに経験を超えている──のであってみれば、最高の明察と能力を備えていても、有限な存在であるかぎり、自分が本来的に望んでいること、つまり幸福について明確な概念を形成することは不可能である、というのである(54)。

いいかえると、カントの考える幸福は多様で、偶然性に支配される経験の領域に属するものであり、そしてこのような無限な経験の領域の全体について誤りのない判断を下すことは有限者である人間には不可能である、との理由でカントは幸福の概念は不明確なものにとどまらざるをえない、と結論する。

しかし、このような結論はそもそもカントが幸福を日常経験的な場面(来世についての想像もふくめて)で捉えるという選択をあらかじめ行っていることに由来するのであって、もしカントが、幸福は人間が生涯にわたる道徳性の追求を通じて到達することを熱望する究極目的・最高善である──たんに欲望や個別的意欲の「対象」ではなく──という伝統的哲学の基本的立場にもとづいて幸福の問題を考察していたならば、幸福の概念は不明確なものにとどまらざるをえない──それは探究の出発点である日常経験の場では自明的なことである──という結論(55)に甘んずることはありえなかったであろう。

そして、カントにおいて人間の究極目的・最高善としての幸福──それは伝統的哲学の用語をかりれば、人間の自然本性の最高の実現ないし完成である──の探究が哲学の主題となりえず、幸福の概念が日常的経験の場面に限定されたのは、前述のように、彼の哲学的営為の根本的前提であった「人間」観が世俗化されていたことによるものであった。

9同じことの言いかえになるが、カントは「幸福」の名で呼ばれるものを、道徳性──「徳」ないし「義務」の名で語られる事柄──よりも基本的に低く位置づけている(56)。

前述のように、幸福は経験の領域に属し、主観性を免れず、偶然性に左右されるのにたいして、道徳性は実践理性によって普遍的・必然的な仕方で確立される法則に関わる。

別の言い方をすると、「幸福」の名で呼ばれるものの全体が「自然」の領域に属するのにたいして、道徳性は本来的に、「自然」を超える「自由」の領域に属するのである(57)。

このようにカントにおいて幸福は道徳性よりも低いところに位置づけられているにもかかわらず、道徳性の限りない追求と、その完全な実現(最上善)だけでは不十分であって、最高善への到達のためには道徳性に「相応する」幸福との結びつきが必要であると主張されていることは、或る意味では一般的な「幸福」観にたいする配慮というカントの「良識」を示すものであるが、理論的には整合性を欠く、奇妙な見解であると言わざるをえない(58)。

なぜなら、「幸福に値いするように」道徳性・徳の完全な実現をめざすべきであると言われるとき、本来ならば、幸福は道徳性・徳よりもより高い次元の価値であるはずであろう。

というのも、Aを受けるに値いするようにBを為す、という言い方においては、AはBよりも卓越した報賞を意味するのが当然だからである。

それにもかかわらず、カントが徳に相応する幸福として考えているのは、単なる傾向性の満足にとどまる幸福ではないにしても、「自らの状態に安んずる」という、何らの卓越した価値もふくまないありきたりの幸福にすぎない。

カントはどうして、道徳性の完全な実現をめざしていわば苦しい競争を走りぬいた者が受けるに値いする栄冠として、もっと卓越した価値をふくむ幸福──それこそ最高善と呼ばれるにふさわしい──に考え及ばなかったのであろうか(59)。

10ここでカントの「幸福」概念の問題点をあらためて明確にしておきたい。

カントが、最高善としての幸福をあたかも現在の生におけるわれわれの願望、欲求ないし個別的な意志の直接的対象であるかのように追求すべきことを説く幸福論を斥けるのは正しい(60)。

そして彼が、人間は現在の生においては道徳性の完全な実現をひたすら追求すべきであって、幸福に関しては、われわれがそれを受けるに値いする者になることを希望するのが適わしい在り方である、と論じているのも正しい(61)。

しかしカントが「幸福」概念に関して「傾向性に満足」ないし「自らの状態に安んずる」といった、道徳性以前とも言うべき通俗的で陳腐な「幸福」理解にとどまって、最高善ないし人間の究極目的としての幸福、つまり道徳性の完全な実現をめざす道徳的営為の全体がそれへと秩序づけられているような幸福の考察を、自らの哲学の主題としなかったことは極めて大きな見落としであると言わざるをえない。

なぜなら、人間が行為的あるいは能動的主体(agens)として人間的ないし道徳的行為を行うのは、根源的に言って、究極目的つまり最高善としての幸福によってその能動的原因性が発動させられるからであって、究極目的としての幸福を視野のうちにおくことなしには人間の道徳的行為そのものが説明できなくなるからである(62)。

いいかえると、カントは幸福論の立場を斥けるにあたって、道徳的行為、つまり道徳性・徳の完全な実現をめざす人間の道徳的営為が、幸福への秩序づけからは独立に、それ自体で完結した自律的行為として成立するかのように考えているが、それは誤りである。

ここで詳しい議論に立ち入ることはできないが、実際には、無限なるものへの能力(可能性)を有するわれわれ人間のうちには、善そのもの・最高善への自然本性的な傾向性(これはカントのいう経験の領域における多様で特殊的な傾向性とは区別しなければならない)──それは人間の自然本性の完全な実現へ向かう傾向性である──が存在しており、われわれの道徳的行為の全体がこの自然本性的な傾向性によって発動させられ、またそこから規範を受けとっているのである(63)。

したがって善そのものへ向かうこの自然本性的傾向性──それは幸福へと向かう意志の自然的傾向性である──なしには、人格が人格として行う働きとしての道徳的行為が意味を喪失し、したがって「人格」概念も空虚化されることを免れない。

カントの「人格」概念において起こったのはこのような空虚化であった、というのが私がここで提示している解釈である。

11ではカントはなぜ、彼が正当にも幸福論的な「幸福」概念を斥けたとき、それなしには道徳的行為そのものの成立が説明できず、したがってまた道徳的行為の行為全体としての人格の概念もまた空虚化されてしまう最高善・究極目的としての「幸福」概念をも無視してしまったのであろうか。

あるいはそのような究極目的としての幸福を視野に入れることなしに道徳的行為の成立を説明できると考えたのであろうか。

それは中世後期以来、着実に進行していた神学からの哲学の分離(64)(啓示信仰からの人間理性の独立)の結果として、「人間」観の根元的な世俗化が行われていたことによる。

すなわち、人間という存在は、その存在の第一の根源であり究極の目的である神との直接的な結びつきなしに──これは神の存在、あるいは神にたいする人間の関わりを否定することを意味しない──それ自体において完結した存在(65)として理解できるという近代的「人間」観がすでに自明的なものとして広く受けいれられており、カントもそのような「人間」観を前提することによって彼の哲学的営為を出発させたのである。

12ではより具体的に言って、このように世俗化された「人間」観を前提した場合、なぜ最高善・究極目的としての「幸福」概念は理論的に排除され、他方、なぜそのような「幸福」概念なしにも道徳的行為の成立を説明することが可能になるのか。

私はここでこの問題についての包括的な考察を行うことはできないが、次の二つの点を指摘することには意味があると思う。

第一に、すべての存在の第一原因にして究極目的である神との直接・無媒介的な結びつきなしに人間を理解するということは、人間の自然本性をそれ自体で完結したものとして捉えることを意味する(66)。

そのことは、言いかえると、人間本性が本質的に完成されている──身体的ないし精神的成長ないし成熟は、現象的にいかに顕著であっても、付帯的なものにとどまる──ことを意味する。

したがって、その場合には人間本性の「実現」ないし「完成」が語られたとしても、本質的・根源的な意味での「実現(現実化)」「完成」ではなく、程度の問題にすぎない(67)。

これにたいして、人間をすべての存在の第一根源・究極目的である神との直接・無媒介的な結びつきにおいて理解する立場においては、人間本性はそれ自体において完結しているのではなく、むしろ神的本性にたいして根源的に開かれている。

したがって、人間本性の完全な実現とは、可能なかぎりでの神との一致あるいは、神的本性の分有にほかならない(68)。

このような「人間」理解を前提とする場合には、それ自体における最高善である神との一致がそのまま人間本性の完全な実現としての幸福であり(69)、それが人間の究極目的としての最高善にほかならないのである。

このような「幸福」概念はけっして神がかり的な妄想ではなく、人間が理性的存在であることについてのふりかえりを徹底させることによって到達された結論である(70)。

第二に、人間本性がそれ自体において完結したものとして理解された場合、人間の最高の能力である理性は、自らを超える存在(神)と関わることをもってその最高の活動とするのではなく、むしろ人間自身が創造的主体として自由に創りだす秩序(道徳的秩序)に関わることをもって自らの最高の活動と見なすことになろう。

言いかえると、人間理性の最高にして最終的活動は実践的なのである。

このような人間の最高の実践的活動、つまり道徳的行為を「幸福」と呼ぶことは、カントをまつまでもなく、あきらかに不可能である(71)。

これにたいして、人間本性は根源的に自らを超える神的本性にたいして開かれている、という「人間」観を前提とした場合には、人間理性の最高の活動は、最終的には神の本質の直視(visioDeiessentiae)にまで到達することをめざす神的なものの観照に存することが結論される(72)。

そして人間本性は、このように人間の最高の能力である理性による最高の活動である神的なものの観照において完全に実現されるのであるから、この人間の最高の活動が人間の究極目的である幸福にほかならない(73)。

このような「幸福」概念にたいして多くの強力な反論があびせられるであろうことは容易に予想できる。

たとえば「神的なものの観照」という言葉でアリストテレス『形而上学』ラムダ巻(74)で語られている「思惟の思惟」である神の観照──アリストテレスはこの観照を人間にとっての(束の間ではあるが)最善の生であり、最大の快楽であると述べている──を思い浮かべる者は、そのような「幸福」は、もしあったとしても人類のエリート中のエリートであるごく僅かの人間だけが手にしうるものにとどまる、と反対するであろう。

また「神の本質の直視」についても、キリスト教信仰を前提とすることによってのみ意味がある、とい

う言明で切り捨てられるであろう。

しかし、人間の究極目的としての幸福は、人間が具えている最高の能力(生得的ではなく、習慣ないし徳によって完成された能力(75))による最高の活動であるという、アリストテレス『ニコマコス倫理学』のなかで提示されている定義(76)は、原則的に、われわれが幸福とは何であるかについて考えるさいの最善の指導原理であり、それにもとづいて考察を進めるとき、前述の「幸福」概念は十分に可知的であり、またわれわれが「世俗化」された「人間」観から脱却するのに応じて、より説得的なものとなりうるのである。

また神的なものの観想が人間の究極目的としての幸福であるという立場においては、道徳的行為の全体──それは意志を、したがってまた意志によって動かされる人間的生の全体を究極目的へと方向づけ、究極目的への到達のための態勢(dispositio)をつくりだすことを課題とする──がいわば幸福への道として規定される(77)。

幸福が人間本性の完全な実現としての活動であるように、道徳的行為はそのような人間本性の究極的完成に向けて人間本性をより完全なものへと形成してゆく過程なのである。

カントが徳を「最小限の道徳」とも言うべき義務と結びつけたのにたいして、伝統的哲学によれば、徳とは人間本性の究極的完成に向けて形成される「第二の本性」であり、まさしく「幸福への道(78)」(viaadbeatitudinem)なのである。

13これまでの考察によって、「世俗化」された「人間」観から出発したカントにおいて、なぜ彼の倫理学の中心に最高善としての幸福を据えるという考えが浮かばなかったのかがあきらかになったであろう。

「人間本性」がそれ自体で完結されているという立場を前提とするかぎり、人間の最高の活動は、自らが能動的主体として、自由を行使しつつ人間的・道徳的秩序を創りだす活動、すなわち道徳的行為なのである。

そして義務の観念と結びついた道徳性の完全な実現をもって「最上善」であるとしたカントが、そのような道徳性・徳に相応する幸福については陳腐とも言える「幸福」概念を提示するにとどまったことは、むしろ論理的な帰結であったと言うべきであろう。

Ⅳ人格と自由

1次に近代における「自由」観の世俗化がどのように「人格」理解の変容をひき起こしたのかについて考察する。

「自由」という言葉によって理解される事柄は多様であるが、古代ローマ時代には、従属者・奴隷(servus)ではない自由な市民のみが「ペルソナ」としての身分を認められていた(79)。

その後、身分としての「自由人」ではなく、理性や自由意思の能力によって自らの行為を支配することができるかぎりにおいて人間は自由であるとの意味で自由な人間すべてが「人格」と呼ばれるようになった(80)。

このように自己支配ないし自己所有という意味での自由が人格の根本的特徴とされてきたことは、中世─近代を通じて変わりがない(81)。

こんにち「近代的自由」という言葉が広く用いられているが、「理性により自律し、人間が個人として行動の主人(すなわち人格)であり得る(82)」という自由にもとづく「人格」理解は、中世─近代に共通であって、それをとくに近代に特有のものと見なす通説は偏見にすぎない。

しかし他方、「自由」観が中世と近代の間で著しい変化をこうむったことは確かである。

この変化はあえて単純化すれば、神の法と摂理の下での秩序づけられた自由から無制限で絶対的な自由への変化、と言いあらわすことができるであろう(83)。

古代から中世にいたるキリスト教思想の伝統のなかで形成された「自由」観は、すべての存在するものが最高善であり究極目的である神へと秩序づけられていることを前提としており、自由は人間が神へとたんに秩序づけられるのみではなく、直接的に親密な仕方で秩序づけられていることの証しであった(84)。

自由は、人間を神へと直接的に秩序づける──言いかえれば、神との親密な交わりのうちに置く──能力であるから、人間はそれを乱用して神から離反することもできる。

しかし、それはあくまで乱用であって、人間の自由は本来的に言って秩序づけられた自由、最高善である神へと──あるいは単純に善へと──方向づけられた自由であった。

2これにたいして、十四世紀の後期スコラ学に始まり、十六世紀の宗教改革を経て明確な表現をとるにいたった近代の「自由」観においては、後の徹底した啓蒙主義に見られるように神がまったく排除されるのではないが、人間の自由は、人間を超えるいかなる権威および秩序づけにも従属しないという意味での自律として理解された(85)。

自律(autonomy)は単に法への盲目的従属から区別された自発的な順守であるにとどまらず、文字通りの自己立法を意味するのであって、自由であるかぎりの人間は最高の立法者と見なされたのである(86)。

このような「自由」観は人格を最高の位置にたかめ、人格に絶対的な価値ないし尊厳を付与するものと思われるかもしれない。

しかし事柄の真実に即して言えば、このように人格を最高の位置に高めることは、あらゆる人格的活動がそこから活力をくみとってくる目的を排除することであり──「すべての能動原因は目的のゆえに働きを為す(87)」(omneagensagitpropterfinem)──自らがそれのゆえにすべての活動を為すべき目的を喪失した人格は、人格とは名ばかりの空虚な存在へと還元される道をたどる(88)。

真の目的を見失った人格は自己中心的となり、自己の関心と欲望を追求し、他者を自己に従属させることに専念するほかないのである。

そして実際に近代的な「自由」観が支配的となることによって近代の「人格」概念がこうむった変容は、人格を最高の位置に高める近代の「神話」とは裏腹の人格の空虚化であった、というのが以下において提示しようとする解釈である(89)。

3ではこのような「自由」観の根元的な変化はいかにして起こったのであろうか。

人間の意志(voluntas)を自由選択ないし自由意思(liberumarbitrium)と同じ能力であると見なしつつも(90)、根本的には意志を、究極目的・幸福を自然本性的に欲求する能力として捉えた(91)トマス・アクィナスと、意志を何よりも自由の能力として捉えた(92)ドゥンス・スコトゥスとを比較するとき、そこには信仰と神学を純粋なものとして保つために、恩寵ないし超自然に関わる神学を自然的秩序に関わる哲学から分離しようとする動きが始まっていることが認められる。

この動きが明確な形をとるのはウィリアム・オッカムにおいてであり、そこでは自然的秩序に関わりつつも恩寵に対して開かれていた伝統的な形而上学──それは神学と哲学を媒介しうるものであった──は崩壊して、神学と哲学は別々の道を歩き始めている(93)。

その結果、人間の自由ないし自由意思は、恩寵・超自然の領域から切り離され、そこにおいて人間が自由な選択を行いうる自然的秩序との関係においてもっぱら考えられるようになったのである。

このように人間の自由(自由意思)が、恩寵から切り離された自然的秩序との関係で理解されるようになったことは、アウグスティヌスやクレルヴォーのベルナルドゥスにおける恩寵と自由意思の関係をめぐる議論と、十六世紀のモリナ(LuisdeMolina,一五三五─一六〇〇)が関わった恩寵と自由意思をめぐる論争をくらべて見ることであきらかにできる。

前者においては自由意思の役割は認められつつも恩寵によって完全に包み込まれているのにたいして(94)、後者においては恩寵と自由意思は相互に調整を必要とするような二つのちからであるかのように理解されており、自由意思が恩寵から分離された自然的秩序の内部に位置づけられていることを示しているのである。

4このように自由な選択の能力としての自由意思、ないし人間の自由を、恩寵・超自然から切り離された自然的秩序──人間および人間が関わる世界──の内部において理解する立場が明確に確立されたのはルター(MartinLuther,一四八三─一五四六)においてであった。

すなわち、エラスムス(DesideriusErasmus,一四六九─一五三六)を論敵として行った自由意思をめぐる論争において、エラスムスが自由意思を人間の固有の能力として(恩寵を視野に入れつつも)もっぱら自然(本性)の秩序において論じたのにたいして、ルターは信仰および救いという、恩寵の秩序に関わるかぎりでの自由意思に目を向けた。

そして、そこにおいては恩寵(による救い)か自由意思かという二者択一があるのみで、エラスムスの言う恩寵に依存して働きをなす自由意思なるものはまったくの矛盾であるとしてきっぱりと斥けたのである(95)。

この論争に関するかぎり、ルターにとっては、自然(本性)の秩序に属するものとしての、つまり人間に固有の能力であるかぎりでの自由意思なるものがあるか

どうかはまったく問題ではなかった。

しかし、ルター自身は理性と共に人間に与えられた能力としての自由意思そのものを否定しているのではなく、むしろ現実にそれは罪の奴隷となっているため、「神の前」ではまったく無力であり、けっして「自由」とは言えないと主張しているのである。

他方、「人々の前」では人間の自由意思は有効にその働きを為すのであり、そこにおいて人間が自由であることはけっして否定されていないことに注意する必要がある(96)。

5すなわち、ルターは「神の前」という言葉で指示される領域である「天上の国」と、「人々の前」の領域である「地上の国」という二つの王国を峻別する。

そして人間に固有の能力である理性と自由意思が有効に活動しうるのは後者、つまり人間相互、および人間によって管理、使用されるべき事物の領域においてのみであることを主張しているのである(97)。

このようにルターが恩寵の秩序と自然(本性)の秩序という二つの王国を切り離して、人間の自由意思ないし人間的自由は後者、すなわち「地上の国」においてのみ有効であり、意味を持つとしたことは、まだ「自由」観の世俗化とは言えないであろう。

なぜなら、ルターが意図しているのは、罪の奴隷である人間の自由意思は救いと恩寵の秩序においてはまったく無力であり、なんらの働きも為しえないことを主張することであって、人間的自由の観点から神との関係を排除してしまうことではないからである。

しかし、ルターによる二つの王国の峻別ないし分離は、彼自身の意図とは関わりなく、「自由」観の世俗化への道を開いたとは言えるであろう。

「天上の国」から切り離された「地上の国」における人間の自由意思の行使というルターの「自由」観から、いっさいの他律を排する、人間の完全な自律(人格による道徳的法則の自己立法)というカントの「自由」観へと到る道の間には何の断絶も飛躍もなく、ただ哲学においては人間的立場に徹するという選択のみで十分だったのである(98)。

しかし、カントの場合、自律ないし自己立法が意味するのは、義務にもとづく道徳的行為が成立するためには自律としての自由がなければならぬということであって、そのように人間主体によって確立された道徳法則の究極の源泉としての神が否定されているのではない。

その意味でカントの「自由」観も完全に世俗化されているとは言えないであろう。

「自由」観の完全な世俗化は、無神論が自明の理として受けとられている人々の間においてはじめて完成されるのである。

そして、われわれがそのなかで生きている社会は、その意味で世俗化された社会なのである。

6ここで、さきに述べた近代の世俗化された「自由」観は、人間の自由が人間を超えるいかなる権威にも従属させられることのない自律として理解されているかぎりにおいて、人格を最高の位置にたかめ、人格に絶対的な価値ないし尊厳を付与するように見えながら、実際には人格を空虚化するものである、という考え方に立ち帰り、私が近代的自由をそのように批判的に解釈する理由について述べなければならない。

その理由とは、要約して言えば、人間が人格であり、人格としての尊厳を有することをあきらかにするためには、人間が自らの行為にたいする自主性(dominiumsuiactus)を有し、単に働きをこうむるのみではなく、自らによって能動的に働きを為す(99)との意味で自由であることを示すことは、たしかに必要不可欠であるが、それでは十分ではない、ということである。

たしかに自らの行為の主(支配者)であるのでなければ人格は人格として行為することはできない。

しかし、人間が人格として行為するのは自らを人格として完成する──いいかえると自らの人間本性を完全に実現する──ためであり、そのような行為がどのようにして為されるかをあきらかにしないかぎり、人間が人格であることの意味を十分に説明したことにはならないのである(100)。

前節で述べたように、行為を行う主体である能動原因(agens)は、諸々の原因の原因である目的のゆえにのみ、そして目的によっていわば活性化されて行為するのであり、したがって「行為の主」である自由な主体としての人格は最高善である究極目的によってのみ、能動原因としての働き(行為)を為すのである。

そして注意しなければならないのは、究極目的を意志し、追求することに関しては、自由な主体である人格はもはや自らの行為の主ではない(101)、ということである。

私の見るところ、世俗化された「自由」観に対応する「人格」概念における致命的な欠落は、人格が自由であり、自らの行為の主であるという側面のみを強調して、人格にはそれに関してはもはや自らの行為の主ではないような側面──しかもそれは人格が人格として行為するために不可欠である──があることを見落としたことである。

最高善である究極目的は、それへの到達によって人間本性が完全かつ最終的に実現される善であり、人間はそれを自然本性にもとづいて必然的に意志するのであって、自由選択という仕方で欲求するのではない(102)。

その意味で究極目的の意志に関するかぎり、自由選択としての自由はありえない。

しかし、自然本性にもとづいて「必然的に」とはいっても、強制という意味での必然ではなく(103)、むしろ選択の自由のための「場」を開く、より根源的な意志の「意志的」働き(actusvoluntarius)であって、けっして自由と矛盾するのではない(104)。

むしろ、究極目的へと秩序づけられた意志の自然本性的で根源的な「意志的」働き──そこにおいて意志は自然本性的に善へと傾かしめられているかぎりにおいて、この働きは「受動的」である(105)──を認めないかぎり、(自由選択という意味での)自由な行為は行為として成立しないのであり、したがって行為の「主」である人格も、行為の「主」としての意味を喪失し、空虚化されざるをえないのである。

人格が人格であるためには、すなわち自らの行為の「主」であるためには、自らがその「主」であるような自由な行為の根底に、もはやそこにおいては自らが「主」ではないところの究極目的への根源的な秩序づけがあることを肯定しなければならない、という主張は甚だしい逆説あるいは背理と思われるかもしれない(106)。

しかし、この逆説はおそらく人格(personahumana)という深い神秘(107)に直面するときにわれわれが肯定せざるをえない逆説である。

そして、それを斥けて人格を自己支配的ないし自己所有的であるような側面のみに限って、すなわち自由な主体としてのみ理解することは、繰り返し述べたように、人格の価値を最高に高めるように見えて、実はそれを空虚な存在たらしめる誤りであることをあらためて強調したい。

Ⅴ結論

本章では、こんにちわれわれの間で平等の原理が自明的とも言える仕方で影響力をふるっているにもかかわらず、すべての人間は人格として平等である、という主張が「世俗化」の過程のなかでその根拠を喪失してしまったことの指摘から出発して、通説では「人格」概念そのものの誕生・確立であるかのように語られている近代の「人格」概念の成立は、実は古代以来、キリスト教思想の歴史のなかで形成されてきた「人格」概念の空虚化の過程にほかならないのではないか、という解釈を提示した。

あらためて言うまでもないが、私が主張しているのは近代の「人格」概念においては人格の「概念」が空虚化されているということであって、近代の「人格」概念の成立、およびその影響の拡大が、現実に、人々が人格として生きることを不可能にした、ということではない。

しかし他方、「人格」概念の空虚化は、人間の人格がまさしくそこにおいて人格として捉えられるべき「場」の喪失であり、そのような「場」とは、人格がそこにおいて人格として存在し、生き、行為する「場」と重なるのであるから、近代における「人格」概念の空虚化は、人々が人格として存在し、生き、行為するという現実の課題と無関係ではないことも言うまでもない。

このように見てくるとき、本章で私が提示した解釈は、あまりにも単純化された近代批判という印象を与え、説得性を持つには程遠いものと受け取られるであろう。

本章の議論をより説得的なものとするためには、ここでキリスト教思想の長い歴史のなかで形成されてきたと言われている「人格」の概念を、人格的行為の現象学、人格の存在論、人格の倫理学、さらに神学的考察もふくめて、体系的に解明し、展開することが必要であり、これに続く諸章でこの課題と取り組むことにしたい。

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次