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第二章◉言葉の人望術

第二章 言葉の人望術

「キミにまかせるよ」のひと言で部下の目は輝く ヤクザは自己顕示欲が強い。 弱肉強食のヤクザ社会は、安目を売ったらメシの食いあげになるため、鼻差を競って相手の風上に立とうとする。「俺が俺が」――と自己顕示するのは、いわばヤクザの本能と言ってもいいだろう。 だから、知ったかぶりをするヤクザが少なくない。「凸凹一家が跡目争いでガタガタしているって話だな」「エッ、ホントかよ」 と目を丸くしたのでは、「なんだ、知らなかったのか」 とナメられる。 ここは初耳であっても、「ああ、その話か」と余裕の笑みを浮かべつつ、「だけど、話はついたらしいじゃねぇか」 さりげなくカマをかけて情報を得ようとする。 あるいは、「おっ、クルマを買い換えましたね」「特別仕様だから高いんだぜ」 と自慢するのはカタギの人で、ヤクザは違う。「たいしたクルマじゃねぇさ」 と軽くいなす。 謙譲もまた自己顕示の一つというわけで、この心理を知らず、「なるほど、たいしたクルマじゃないですね」 と、うなずこうものならボコボコにされるだろう。 ところが、その自己顕示欲の塊が「俺にはよくわからない」を口にすることがある。ことに人望家として知られる親分や幹部に多い。当然、そこには深慮遠謀があるのだ。 こんな例はどうか。 A組長が、資産家から不渡り手形の取り立てを依頼されたときのことだ。 組長はさっそく幹部の B組員を呼んで、「この手形、不渡りだそうだ。オーナーのところへ行って、ゼニを取ってきてやれや」 と命じてから、「俺はバクチについちゃ、ちょいとうるさいんだが、ゼニ勘定のことはよくわからねぇんだ。頼んだぜ」 と、つけ加えたのである。 これは異例のことだ。上意下達のヤクザ社会では、親分は命じて終わり。「よくわからねぇ」とか「頼んだぜ」とつけ加えることはない。それだけに、 B組員は張り切って取り立てに向かったのである。 上司から頼りにされて、喜ばない部下はいない。しかも「私は忙しいから、キミが代わってやりたまえ」というのではなく、「私にはよくわからないから、キミにまかせる」 と全幅の信頼を置かれたとなれば、張り切るのはヤクザもビジネスマンも同じ。そして「信頼された」という感激が、組長や上司の人望へとつながっていくのである。 さらに、 B組員はそのとき気づかなかったろうが、「まかせた」とは「責任はおまえにある」という言外の通告でもあるのだ。だから、必死で仕事をすることになる。 この人心掌握術は、大いに参考にすべし。「ボクは企画一筋できたから、営業のことはよくわからなくてねぇ。キミの力に頼るしかないんだ。頼んだよ」 こう言えば、「ハイ!」 部下は声を弾ませて返事をするだろう。やる気を喚起し、人望を得て、しかも責任を押しつけるのである。 ところが、凡庸な上司はミエにとらわれて、「俺にはよくわからない」というセリフが言えない。「ま、営業は熱意が勝負だな。私が一緒にいければいいんだが、時間がないから」 知ったかぶりをし、部下を自分の〝代打扱い〟にしたりする。部下が張り切るわけがないだろう。こんな上司は人望を得ることもなく、したがって仕事もできないのだ。

「ワイはええねん」と常に〝第三者〟のスタンス「第三者」のスタンスを常にキープする。 これが賢いヤクザの攻め方だ。 たとえば借金の取り立て。「必ず返済しますから、もう少し待っていただけませんか」「ワイに頭さげてもしゃあないで。頼まれただけやから」 ポーンと突き放し、「ワイはええねんけど、頼まれて来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかへんで」 恐い顔で相手をビビらせ、なにがしかの金品を剝ぎ取っていく。 これが「第三者」でなければ、貸した「当事者」の立場になってしまう。「もう少し待っていただけませんか」「期日、過ぎとるやないか」「そこを何とか」「あかん」「お願いします」「あかん言うとるやないか!」 懇願に対して反論と恫喝をしなければならなくなり、キリトリ(債権取り立て)の〝入り口〟で足踏みということになる。相手も必死だから、これではキリトリはうまくいかない。だから関西極道なら「ワイはええねん」、関東ヤクザなら「俺は構わねぇけど」と枕に振り、「第三者」の立場で追い込んでいくというわけである。 人間心理に通じたキレ者幹部は、この手法を人心掌握術として若い衆に用いる。 たとえば、広域組織の枝(末端組織)で、若い衆がキリトリに行ったときのことだ。のらりくらりの相手に激高してブン殴ったところが、「警察へ通報したるど!」と居直られてしまったのである。 キリトリどころか、訴えられたらパクられてしまう。しかも、お客さん――取り立ての依頼者も暴力団排除条例でヤバイことになる。若い衆は、業界用語で言うところのヘタを打ったというわけである。 キリトリを命じた X幹部としては、「刺してこんかい!」 と怒鳴りつけたいところだが、そんなことをすれば大ごとになる。組長は使用者責任を問われるだろうし、本家も黙ってはいない。しかもキリトリはパーで、客もただではすまなくなる。 そこで、 X幹部はどうしたか。「このドアホ!」 という怒声をぐっと呑み込んで、「やったもんはしゃあない」 と穏やかな声で言った。「おまえのことについては、ワイが指詰めて親分に詫びればええこっちゃ。心配せんでもええ。せやけど、親分の顔をツブすわけにはいかんやろ。手ぶらじゃ、親分も客人に合わせる顔があらへん」 これが「ワイはええねん」という〝枕〟で、「ワイが指詰めて親分に詫びればええこっちゃ」という言葉に若い衆は感激し、「親分の顔を立てるのが、幹部に対する自分の務め」と決意するのだ。「それで、わしの女――四人ほどおってんけど、みなソープに沈めましてん」 と当の若い衆が語ったものだ。さらに八方駆けずりまわって一千万円をつくったのだという。親分は客に対して顔が立ち、 X幹部は親分に対して面目を保つと同時に、若い衆の人望も得た。一方の若い衆は女たちから恨まれ、しかも五百万円の借金をしょって四苦八苦するのだが、 X幹部に心酔する気持ちに変わりはない。「ワイはええねん」という一語は、使い方次第で、これほどの威力を発揮するのだ。

他人の自慢話を我田引水する「ムニャムニャ話法」 部下に自慢することのない上司は、人望を得ることは難しい。 自慢話がいやらしく聞こえるのは話し方の問題であって、自慢に値するようなエピソードは本来、その人の来歴を物語るものとして、聞いていて楽しいものなのである。したがって、酒席で語るべき自慢話も武勇伝もない上司は、人望と無縁ということになる。このことを弁えているからこそ、自慢話に乏しい上司は友人知人を引き合いに出して自慢することになる。 たとえば、某社の広報課長氏は、社内誌の打ち合わせをした後の居酒屋で、「友人に、 IT関連の会社をやっているヤツがいるんだけどさ」 と部下たちに話しはじめた。「毎晩のように飲み歩くんだけど、店に居合わせた人間にもバンバン奢っちゃうもんだから〝 I T業界の勝新太郎〟と呼ばれているんだ」「豪快っスね!」「しかも酔っぱらうと、みんなを誘っちゃうんだ。だから二軒、三軒とまわるうちに知らない人間がゾロゾロ、なんてこともあってさ」「太っ腹!」「課長の友達って、すごいっスねぇ」 口々に感心しているが、部下が感心しているのは「課長」ではなく「課長の友人」なのだ。どんなに自慢したところで、自分の株が上がるわけではないにもかかわらず、課長は自分がウケているものと勘違いして〝友人自慢〟を続ける。同席していた私は「それに引き替え、あなたはどうなの」――とツッコミを入れたくなったものだった。 このテの自慢話はヤクザも同じだ。チンピラはともかく、人間心理に通じた一端のヤクザともなれば、言いっ放しにはしない。いかに話せば自分にプラスになるか、ちゃんと計算しているのだ。 たとえば、某会中堅の Y組員が、新入り三人を連れて飲みに行った席でのことだ。「凸凹親分が若い衆だったころ、拳銃握って事務所に乗り込んでバンバン! 当番が四人いてよ。皆殺しにするつもりで弾いたところが、みんな這いつくばって両手を合わせたってんだ。命乞いされちゃ、殺るわけにはいかねぇもんな」 と、著名な長老の〝自慢〟をしたあとで、「だけど凸凹親分の気持ち、俺にも経験があるんで、よくわかるぜ」 と、話題を自分に振ったのだ。「エッ、兄貴も?」 新入りが身を乗り出したところで、「まあな。相手はいまも現役張ってるからくわしくは話せねぇけど」 と胸をそらせながら、「殺るつもりで、その野郎の自宅を襲ったことがあるんだ。チャカ構えたら土下座されちまってよ。そうなりゃ、弾けるもんじゃねぇ。だから凸凹親分の気持ちはよくわかるんだ」「そうでしたか」 と若い衆が、あこがれの目で Y組員を見た顔が、私には印象深く残っている。 Y組員にそんな武勇伝があったとは寡聞にして知らなかったが、本当であれウソであれ、〝長老自慢〟を言いっ放しにするのではなく、自分に活かし、新入りの心をつかんだことは確かなのである。 他人の自慢をするときは、〝我田引水〟にするのだ。前述の「二軒、三軒とまわるうちに知らない人間がゾロゾロ、なんてこともあってさ」――といった〝友人自慢〟をしたならば、「だけど、俺も彼の気持ち、わからなくもないな。俺も昔は、よくそんなこともやったもんさ」 と〝我田引水〟にもっていく。「へぇ、課長がですか?」「うん。いま思えば、きっと仕事も遊びもトコトンだったんだろうな」 あとはムニャムニャでいい。部下は勝手に〝 I T業界の勝新太郎〟に上司を重ね合わせ、「ウチの課長、結構やるじゃん」 と再評価し、同僚に吹聴することになるのだ。

〝若い衆〟も感激! 仏教名句が心に響く 親分には魅力的な人間が少なくない。 社会的存在としては否定されようとも、そこに棲息する人間の魅力は別の価値観と言ってもよいのではないか。選良たる政治家や、聖職のはずの教師に〝社会悪以下〟の人間が存在する現実を見れば、そんな思いに駆られる。(殺れ!) という阿吽の呼吸で若い衆を走らせるには、「親分のため、組のため」といったヒロイズムを刺激するだけの人間的魅力もまた、親分にそなわっているということでもあろう。 では、その人間的魅力はどこからくるのか。 二つある。 一つには、若い衆の権力への憧憬。高級外車を乗りまわし、いい女を抱き、肩で風切って歩くカッコよさへの単純なあこがれのことで、これには説明はいるまい。 ポイントは二つ目で、人望のある親分の多くが求道的であることだ。「求道」とは悟りを求める心のことで、ヤクザに悟りとは俄に信じ難いだろうが、これは事実である。そして修羅場をくぐり抜けてきているだけに、彼らが語る人生論は、坊主のヘタな説法よりはるかに説得力があるのだ。 こんなことがあった。普段、威勢のいいことを口にしている新入りが、いざ抗争事件が起こったらビビってしまった。「テメェ、それでもヤクザか!」 と親分が怒鳴りつけていたら、この若い衆から心酔されることはなかったろう。手打ちのあとで、親分は若い衆を呼んでこう語りかけたのだ。「昔、空海という偉ぇ坊さんがいた。名前くらい聞いたことがあるだろう?」「ハッ」「その空海に、こんな言葉がある」 と言って、「能く誦し、能く言うこと鸚鵡もよく為す。言って行わずんば何ぞ猩猩に異ならん」という言葉を口にしてから、「口だけならオウムでも言えるし、口ばかり達者で行動がともなわねぇなら、猩猩と同じだという意味だ。猩猩ってな、猿に似た想像上の動物でな。ヤツらは人間の言葉を理解し、酒を飲むんだそうだ。おめぇは猩猩じゃねぇ、俺の若い衆だ。そうだろ?」 若い衆はうつむいていたが、「申し訳ありませんでした!」 両手をついて謝ってから、「親分、いまの言葉、もう一度教えていただけませんか」 と頼んだのである。「字が難しいから書いてやるよ」 親分はそういって、筆ペンでさらさらと書きつけて渡すと、「自分の一生の宝にします」 若い衆は感激の面持ちでそう告げたのだと、当の若い衆――十年後のいまは組の大幹部に出世した K氏は回想するのである。「それから傷害事件や何やかやで都合五年ほど懲役に行くんだけど、親分がそうだったように俺も仏教の本を読んでさ。若い衆に話をするときに、名句をさらりと口にしたらカッコいいな、と思っててさ。俺が感激したように」 刑務所で、宗教に目覚めるヤクザは少なからずいる。抗争事件で人を殺めた者もいるだろうし、長い期間を塀のなかで過ごしていれば否応なく人生というものを考えるだろう。獄中で仏教関係の書物を読みあさり、仏教名句に「ヤクザという生き方」を重ね合わせ、みずからを納得させるのである。 ケツを割りそうになった新人に、ある親分は「最下鈍の者も、十二年を経れば、必ず一験を得る」という最澄の言葉を引いた。この言葉は「どんなに才能のない人間であっても、ひとつのことを十二年続けていれば、必ず一つは秀でるものをつかむことができる」という意味で、親分は「黙って辛抱していれば必ず芽が出る」と説いてきかせたのである。 私は僧籍に身を置く一人だが、時代の風雪にさらされて現代に伝わる仏教名句は、誰の口を借りようとも、それ自体が人の心を打つということなのだ。部下を叱責するとき、褒めるとき、励ますとき、仏教名句は相手の腹にズシンと響くのだ。

会話に「社長が」「専務が」とはさんでみる 仕事でドジを踏めば青くなる。 ドジを踏んだこと自体にではなく、ペナルティーを恐れて青くなるのだ。反対に、ちょっとした手柄を立てれば得意になってアピールする。これもまた、上司の賞賛を期待してのことである。「だから経営トップや上司たる者、賞罰の権限を手放してはならない。社員や部下は罰を恐れ、賞を喜ぶのだ」 と、中国の思想書『韓非子』は説く。 これは紀元前三世紀、帝王が天下を治める要諦として韓非が著したもので、権力の扱い方とその保持について書かれている。ちなみに、かの秦王政は本書を熟読して中国最初の皇帝(始皇帝)になったと言われ、一般的に「強者の管理学」とも呼ばれる。 その『韓非子』が、「罰と賞の二つの権限を握っていれば、部下を思いのままにあやつることができる」 と言うのだ。 二つ――というところがポイントで、「賞」を与えるのは楽しいものだが、「罰」は恨みを買いそうで気が重い。それでつい、賞は自分が与え、罰は下の者にまかせ、〝いい顔〟をしようとする。だから部下にナメられる。車輪の片方がないクルマが走れないのと同様、賞罰の権限を持つ立場にあるなら、絶対に両者を手放してはならない。これまで述べてきたように、上司・部下という人間関係において人望は「畏敬」とセットなのだ。 問題は、上司ではあるが賞罰の権限を持たない立場。いわゆる中間管理職である。「おまえなんかクビだ!」 と怒鳴ったところで、賞罰の権限を持たないのだから部下はビビらない。ビビるどころか、権限がないにもかかわらずパワハラで経営トップに直訴でもされれば、ヤバイことになってしまう。 だが、権限がなくとも部下をうまく動かすことができなければ、上司として失格になる。 どうするか。 私が感心するのは中堅組織 Z会の N組員である。三十代半ば。名刺の肩書きには「本部長付」とあるが、ヤクザは中堅ともなればシノギの都合上、何がしかの肩書きが付くもので、 N組員の場合は、賞罰の権限を持たない中間管理職といったところか。 本来なら軽く見られるところだが、 N組員は若い者から一目置かれている。「オレがオレが」と〝上げ底〟の自慢話を吹聴する世界にあって、彼はひと言も〝上げ底自慢〟をしない。そのかわり、さり気なく会話の流れの中で「会長が」「理事長が」「本部長が」――と、賞罰の権限を持つ組トップと最高幹部のことを持ち出し、「このあいだ会長にハッパかけられて、まいったぜ」 と、こんな調子で口にする。「何かあったんスか?」「ちょっとな」 軽く笑って言葉を濁す。 あるいは、「理事長が、おめぇらのことをホメてたぜ」「そうスか!」 若い者は喜色を浮かべながら、 Nの兄貴は会長や最高幹部と近しい関係だと勝手に想像するため、賞罰に間接的に関わる存在になるというわけだ。 N組員は中間管理職にすぎず、会長や最高幹部と親しく口をきける立場にはなく、ハッタリをカマしているわけだが、人間心理に通じていると部下に感心させるためにはカマしすぎないことが肝心だ。「オレ、会長とはよくサシで話をするんだ」 と自慢げに言ったのでは、(ホントかよ) と疑われてしまう。自慢するわけでもなく、さりげなく、ごく当たり前のような口調で話すからリアリティを持って相手に伝わるというわけである。 話題は何だっていい。「社長が」「専務が」「部長が」――と、賞罰の権限を持つ人間の名前を会話にちょこっとはさむだけで、部下は「おや?」と心に引っかかりをおぼえることになるのだ。

叱ったあとに効く〝あとづけ〟のひと言 演出なくして人望はあり得ない。 思うままに生きて人望を得られるほど大人社会は甘くなく、人望は、演出という人間関係術の延長線上にあるものなのだ。 では、人望を得るための演出とは、具体的にはどんなことか。 結論から言えば、自分の行為を人望に転化させる〝あとづけのひと言〟だ。 たとえば、こんな例がある。 ヤクザ業界を取材するフリーランスのライターが広域組織の本部長を取材するため、組事務所を訪れたときのこと。「バカヤロー! ケジメ取ってこんかい!」 本部長が若い衆を叱責する場面に出くわした。怒声と同時に灰皿が飛び、若い衆は額から血を滴らせながらもまなじりを決し、事務所を勢いよく飛び出して行ったのである。 本部長は、その場に固まったライターに席を勧めてから、出て行った若い衆について、「しょうがねぇ野郎だ。まったく、頭にくるぜ」 と言ったわけではない。「かわいそうだけど、ああしてやらなきゃ、ヤツも踏ん切りがつかないと思ってね。若い衆を育てるのも楽じゃないんだ」 と言ったのである。 これにライターはいたく感激。「ウワサには聞いていたけど、人情味があって、たいした人ですよ」 と本部長のことをホメちぎった。若い衆のためにあえて心を鬼にした――という意味の〝あとづけのひと言〟に心を揺さぶられたのである。 本部長がもし、「まったく頭にくるぜ」と吐き捨てていたなら、「頭にきたから灰皿でブン殴った」という〝腹いせ〟となり、評価は百八十度変わっていただろう。間違っても「人情味があって、たいした人」とは言うまい。 そしてライターは、この目撃談と本部長のセリフをあちこちで披露することだろう。「ウワサどおりの人ですよ」「実は、こんなことがありましてねぇ」「人情味があって、たいした人ですよ」――と感心してみせ、額を割られた当の若い衆に対しては、「本部長は、心を鬼にして灰皿を投げたんだぞ」 と、得意になって本部長の真意を話して聞かせることだろう。額の痛みは、感激に変わるに違いない。 私は本部長とは旧知だが、人望家としての彼の評判は、このような〝あとづけのひと言〟にあるものとニラんでいる。接客態度がなっていないとホステスを怒鳴りつけたときは、オロオロするママに、「あの子のためだ。誰かがガツンと叱ってやらなきゃな」 と言って、ママを感激させた。 私が本部長と待ち合わせ、彼がめずらしく十分ほど遅れて来たことがある。このとき彼はこう言ったのだ。「今日は前組長の月命日なんで墓へ参ってきたんだ。帰りの道が混んでいて……。おっと、時間に遅れといて月命日もねぇな。悪かった」 こう言われた私は、(月命日に墓参りとは律儀な人だな) と感心したが、意地悪く勘ぐれば、本当に墓参りに行ったのかどうか私にはわからない。時間に遅れたというネガティブなことさえも、〝あとづけのひと言〟によって、本部長は「律儀な人」になってしまうのだ。「演出なくして人望はあり得ない」とは、こういうことを言うのである。「そんなことで仕事が務まるか! いますぐ先方に行って土下座してきたまえ!」 頭にきて、思わず部下を怒鳴りつけたならば、「叱るのもつらいね。でも、彼のためなんだ」 とでも周囲にもらすことだ。 この〝あとづけ〟のひと言によって、評価はガラリと変わってくるのだ。

「優秀な部下をお持ちですね」とサラリ「褒め言葉」が人望力のキーワードであることは、先に述べた。直接、相手を褒めるのではなく、第三者を介する効用についても、事例をあげて記した。この項では、応用として、取り引き先の上司と部下をセットで搦め取る〝決めゼリフ〟を紹介しよう。ヤクザ社会でよく口にされるセリフなのだが、これを商談がまとまったビジネスシーンなどで用いると、効果はバツグンなのである。 バブル華やかな時代の話。某組織からヤクザ専門雑誌に、関西の武闘派組織から強烈なクレームが来て、担当編集者と編集長がお詫びのため下りの新幹線に飛び乗った。クレームの内容は、誌面に掲載された組長の写真である。ちょうど首の部分に窓枠が写っていて、まるで首がちょん切られているかのように見える――というものだった。 いまはこんなバカげたクレームは少なくなってきたが、ヤクザがイケイケで驀進していた当時は、ちょっとした記述ミスや写真にインネンをつけ、競うようにして訂正文を誌面に掲載させたものだ。「詫び文を載せんかい」「承知しました」「よっしゃ。ほなら表紙から裏表紙まで全部、詫び文で埋めたれ」「そ、それは……」「何やと! おのれ、いま詫び文を載せる言うたやないか!」 こんな世界なのだ。余談ながら、故人となった関西系の某組長は「わしは × ×誌に四百二十字の〝お詫び〟を書かせたでぇ」と私に自慢したものだ。 ついでに書いておけば、ヤクザ専門雑誌の編集部では、発売日の電話は誰も取りたがらないと言われていた。「こらッ、 × ×一家のもんじゃ!」――なんてヤクザからのクレームが来るからで、相次ぐクレームに三日で逃げ出す新人編集者もいた。 で、冒頭の二人はどうなったか。「緊張しまくりで、新幹線の中でお互いにひと言も口をききませんでした」 と、のちになって編集長氏は語ったものだ。 しかし、彼らには意外な結末が待っていたのである。 事務所を訪ねると、親分はいきり立つ若い衆を制して、こう言ったのだ。「まあ、待て。こうして大阪まで駆けつけとるし、この担当者は、責任はみな自分にある言うとるやないか」 そして笑みを浮かべると、編集長に向かって、「ええ社員を持っとるやないか」 このひと言に、二人の気持ちはグラリ。「ホッとしただけでなく、何となく嬉しくなっちゃいましてね。すっかり親分のファンになりましたよ」「まったくだ。あの親分はさすが人物だな」 担当編集者と編集長は居酒屋でうなずきながら、熱く語ったものだ。 私はその後、取材を通じて何人ものヤクザの親分に会うのだが、人間心理に通じた親分の常套句が、「ええ若い衆を持ちましたな」 という一語であることに気がついた。 わざわざ当の若い衆がいる前で、その上司にあたる組長や幹部に告げるのだ。「いやいや、ハンパ者ですよ」 と組長や幹部は笑みを浮かべながら謙遜してみせ、当の若い衆も頭を下げながらニカッとするのだ。「ええ若い衆を持ちましたな」――という一語は、言葉としては若い衆に向かって直接褒めているわけではない。親分や幹部を直接褒めているわけでもない。いわば客観的な視点で言っているにすぎないのだが、客観的視点とは「評価」のことであり、誰だって言われて悪い気はしないものなのである。 商談がうまくまとまり、相手側の担当者と上司が同席していれば絶好のチャンス。「優秀な部下をお持ちですね」 と、ひと言つけ加えること。上司と担当者をダブルで搦め取ることもできるのだ。

説教には「人生体験」を付け加える 坊主の説法を聞いて、「なるほど」 と腑に落ちるか、「そんなきれいごとで、世間が通るか」 と、腹のなかでアッカンベーをするか。 どっちに転ぶかは、その説法が、話し手である坊主の「人生体験」に裏打ちされているかどうかで決まる。 たとえば、ある坊主が説法するとしよう。「エー、日本天台宗の開祖最澄に、こんな言葉があります。『道心の中に衣食有り、衣食の中に道心無し』。道心とは、仏道を学び実践する心のことで、目標を定め、それを究めたいと思うなら、衣食のことなど考えてはならない。志を貫けば衣食はおのずとついてくる――という意味ですな。ま、ひらたく言えば、生活の心配なんかしていては事は成せないということ」「なるほど」 とは思いつつも、「せやけど、現実問題として、生活のこと心配せずに生きていけまっか?」 という思いが頭をもたげてくるだろう。 腹のなかでアッカンベーである。 ならば、このような説法ならどうか。 最澄の言葉を紹介してから、「こんなきれいごとを言って、生きていけるのか――私は腹が立ちましてね。田舎の貧乏寺ですから、毎日が生活の心配や。だけど、心配したからといって、お布施が増えるわけじゃない。そこで、〝よっしゃ、寺がつぶれてもええ、餓死してもええ〟と居直りましてねぇ。一心に仏道に励んだんです」 その結果、いまもこうして元気で生きてるし、メシもちゃんと食えている――と説法を展開すれば、「なるほど、人生っちゅうのはそんなもんか」 と納得するだろうし、「この坊さんの話、もっと聞きたいな」 ということにもなる。 これが「人生体験」の重みというやつで、この重みなくして部下の人望を得ることはできない。仕事につまずいて落ち込んでいる部下に、「なあに、いいときもあれば、悪いときもあるさ。人生なんて、そんなもの」 と言って励ましても、説得力がない。(この野郎、人ごとだと思ってノンキなこと言ってやがる) と反発だってするだろう。 ところが、「なあに、いいときもあれば、悪いときもあるさ。あれは、私が入社して三年目の夏のことでね。大事な取り引きで……」 と、自分の失敗談を話しつつ励ませばどうか。(そうか、そうなんだ!) と勇気づけられ、この上司に信頼感をいだくに違いない。 私が感心するのは、ヤクザの親分や幹部で、組員の人望が篤い人間は、なぐさめや励ましが実にうまいことだ。「実は、オレも若けぇころにな……」 と、自分の人生体験を持ちだし、その上でなぐさめたり励ましたり、諭したりする。 人生体験というリアリティがポイントで、「エッ、親分にもそんなことが!」 と若い衆を感激させるのだ。 人生体験が乏しいからといって、気にすることはない。人望を得るために大切なことは、人生体験の有無ではなく、相手の納得感。つまり、体験があるかのように話せばいいだけのことなのである。

 

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