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第九章恐怖を取り去れば、自由な生き方ができる

目次

恐れている対象をよく知ることは、その恐れを克服する唯一の手段である

、恐怖にとらわれないこと。

人間が作った悪魔にとらわれないこと。

七つの大きな恐怖は互いに力を強め合う。

その恐怖とは――。

貧困の恐怖、批判される恐怖、病気の恐怖、愛を失う恐怖、自由を失う恐怖、老いの恐怖、死の恐怖。

ただし、自分で作り出した恐怖と、自己保存のために必要な恐怖とは切り離さなければならない。

何かに恐れを抱いていると、あちらのほうからあなたを見つけ、危害を加えることが多い。

恐ろしいものをしっかりと見つめ、それを克服できるとあなたが知ったとき、それこそ偉大な助っ人が来てくれたことになる。

知ることは恐怖を克服する唯一の手段なのだ。

恐怖は最も強力な否定的モティベーションである。

この恐怖は、大変な「吸引力」のある恐怖である。

これは、持てば持つほどますます多くの否定的なものを引きつけてしまうのである。

貧困の恐怖は前進への踏み台に転化せよ

貧困に虐げられていながら、貧困を恐れている人がいる。

貧困を憎み、反抗しているのだ。

だが、そのような人たちはおおむね否定的感情によって頭が鈍くなり、勇気もなくなっている。

貧困とは、何も家計が著しく逼迫していることを意味するのではない。

どのレベルから貧困とか貧しいとかいうのかは、その人の主観に左右される。

いずれにせよその主観によって「私は貧しい」と考えているかぎり、その人は確かに貧しいのだ。

貧しいとき、その貧しさを嫌っているなら、それは金持ちになるための一つのステップだと思わなければならない。

そのときは、貧困の恐怖は脇へおこう。

今の貧困は、これから飛び立つ踏み台にすぎないのだという見方をしてほしい。

望ましくない条件(現在の環境)をよく知っているということを、これから望む条件(成功)へ向けて進んで行くときの励ましの力となるように転化させよう。

今、不本意にも倹約をしなければならない状態にあったら、それはあなたに金の力を気づかせるものだと思うことだ。

金利という名の適正な使用料を払いさえすれば、ほかの人の金を使うことができる。

資金の不足は、あなたにその方法を気づかせる手段だと思えばよい。

費用のかからない教育の多いことも知ってほしい。

学校教育より独学のほうが効果的な分野もあるし、広大な知識情報を無料で使うこともできる。

産業界では諸手を上げてあなたを待っていることを知ってほしい。

我々の経済社会は変化に富んでいる。

特別な才能があれば、それがどんな種類のものであっても、それを必要とする場所を見つけることができる。

そして我々の経済社会では、まだ満たされない需要がいたるところにあるのだ。

そしてあなたがそれを満たす人間かもしれないのだ。

貧困から身を起こした多くの有名人の名は、ここでは特に挙げないでおく。

そのような人々については折にふれてすでに述べてきたし、これからも述べていくつもりだからである。

貧困の恐怖を捨てて、前進せよ。

批判される恐怖に対処する法

あなたの心は、夢を実現させる無限の力を持っている。

ただし、心が妨害されないで働けるようにしておかなければならない。

批判される恐怖ほど、心に圧力をかけるものは滅多にない。

それは、まだとりかかりもしないうちから、あなたの行動を止めさせる恐怖なのだ。

そのくせ、これは想像から生まれた否定的な幻影にすぎないのである。

批判される恐怖を持っている人間は、自分の行為や主張を否定されたくないと思うあまり、自分の考えを表に出そうとしないことが多い。

そうやって自分の優れた創造力や自信を失ってしまうのだ。

各分野で飛躍的な前進を遂げた人々の経歴を調べてみると、彼らが自分の脳力を発見し、それを効果的に使っていることに驚くことがある。

同時に、彼らが乗り越えなければならなかった多くの障害のことも知ることができる。

ところが、こういう人々がしばしば直面した「批判」については、私たちはほとんどわかっていない。

もし彼らがそれらの批判を恐れ、いつまでもくよくよしていたならば、彼らの思考と願望実現脳力は損なわれていたことだろう。

実際には、彼らは批判を恐れてはいなかったのだ。

そうでなければ、彼らの心は、前進する自由を持ち得なかったであろう。

自動車の生産ももちろんうまくいくはずはなかったし、飛行機だってそうだ。

ましてや宇宙飛行なんて、実現しなかったに違いない。

ヘンリー・フォードが自動車の大量生産にとりかかろうとしたところ、生産そのものはうまくいきそうだったが、猛烈な批判にさらされたものである。

そのような頼りない装置での大量生産は不可能だろうと嘲笑されたものだ。

「あれはもの好きな奴が作った実験室の装置さ」というのだ。

どこへ行っても誰も、ガソリンやゴムを分けてくれないし、ほかの原材料の入手の確約もとれなかった。

そのうえ、資金を握っていた銀行家たちは「このような高価な自動車が市場に出回っても、誰も買いやしないさ」とフォードを批判したものである。

フォードの計画を知った人々のほぼ全員は、何かの理屈をあげてはケチをつけ、脚を引っ張ることに夢中になっていた。

だが、フォードは、励まし続ける夫人の愛の助けで、自信を保持することができた。

なぜなら、フォード夫人は「誰が何と批判しようと、おやりなさい」とだけ言ってくれたからである。

もっと近いところでは、ヘンリー・ランドという男の話がある。

彼は、好んで自分の娘の写真を撮った。

娘は撮った写真をすぐ見たがった。

そこで彼は娘に、写真というのは全部撮り終わってから、フィルムを巻き上げてカメラから取り出さなければならないこと、それから暗室で特定の薬品を使って現像しなければならないことなどを説明した。

それだけではない。

ネガができあがったら、強い光を当てて別の印画紙に焼き付けをして、また薬品処理をしてようやく写真が仕上がるということを話した。

娘に説明しながら、彼の自由な心は「待てよ」と思った。

いきなり「仕上がる写真」の写せるカメラを作ることはできないのだろうか?写真のことを少しでも知っている人なら誰でも「まさか」と言って、それがとんでもない夢想だという理由を一ダース以上述べたてるだろう。

だが、彼はそうした批判を恐れはしなかったのだ。

こうして、娘に話したことがきっかけとなってポラロイド・カメラが開発された。

そのカメラは、娘の希望どおりの働きをした。

ランド・コーポレーションの誕生である。

批判というのは、純粋なアイディアだけの分野をも損なうものだ。

私がPMSプログラムの実現に乗り出そうとしたときには、頭までどっぷり埋まってしまうような批判が降りそそいだものである。

批判のほとんどは、身近な親族からのものだったので、それだけにその対応に苦労したものだ。

当時は私を駆り立てている力を言葉で表現することができなかったから、十分な説明もできなかった。

しかし私は、自分の心を障害物ではなく、目標の上において進み続けた。

最初の実用的な「成功プログラム(PMSプログラムの前身)」は、アンドリュー・カーネギーの全財産よりも多くの富をユーザーにもたらした。

カーネギーは世界一の大富豪ではあるが、このプログラムがもたらした富にははるかに及ばない。

アドヴァイスを与える資格のある人間からアドヴァイスを受けるのと、批判を受けて心に傷を負うのとでは大きな違いがある。

批判の多くは、何でも批判したがる人間から出るものだということに注目してほしい。

特に、そういう人は、成功を目指して努力している人々を誰かれとなく批判するのだ。

失敗は、ほかの不運と同様、仲間をほしがっているのである。

批判される恐怖を捨てて、前進せよ。

病気の恐怖は実際に病気を呼び込む

あなたが、バカの一つ覚えのように健康の話題――というよりはむしろ不健康の話題を会話に持ち出す人ではないことを祈る。

不健康な話題を会話に持ち出す人は、手術から受けた恩恵よりも、手術を受けたときの話を長々と述べるだろう(彼らが手術を受けたとしての話だが)。

彼らは頭のてっぺんから爪先にいたるまで、丹念に症状を探して一日の始まりとする。

そして「病気」のひそかな徴候を見つけては、それを話題にして友人たちをうんざりさせるのだ。

手当たり次第にあやしげな薬を買ってみたり、今流行の健康法に飛びついてはみるが、やがてそれが有害な方法であることがわかったりする。

彼らは病気を想像し、病気を恐れ、そして病気を自分のところに持ち込んでいるのだ。

それこそ、心の「否定的な力」である。

私が成人になってからすでに六〇年は過ぎたが、この間に心身症についての研究は非常に進歩した。

我が意を得たりという気がする。

もっとも、人類の始まりから、人間の病気のほとんどはストレスによって引き起こされているのは明白な事実である。

健康を維持するためのあなたの最初のステップは、病気のイメージを思い浮かべないことである。

心というものは、信じ込んだことのすべてを、それ相応の身体的なものに変えてしまいがちである。

それなら、自分の頭のてっぺんから爪先まで健康そのものだということを思い描けばいいのだ。

たとえ実際に病気にかかったり、ケガをしたとしても、これはただ不運な出来事であって、必ず克服できると考えることだ。

信念と自信にあふれた心には、健康を回復した状態が見えてくる。

そしてこれは、医薬以上の効果をもたらすこともある。

その信念は心の中で創出したものだから、かぎりなく強い力を持っていることを知るべきだ。

信念は最も優れた治癒者である。

信念は病気を予測し、病気を治し、今後の病気に対する抵抗力をつけ、励ましてくれる。

過信してはいけないが、健康に対して健全な信念を持つことは大切なことだ。

そうすれば、病気そのものが消え失せてしまうだろう。

会話の中から病気の話は追い出そう。

心の中から病気を追い出そう。

年に一度か二度、人間ドックに行って、病気に対する恐怖に面と向かい、全身をすっかり見てもらうことも、あなたの信念を補強するだろう。

そしてあなたのその信念を「身体の健康の騎士」の中に反映させれば、この騎士が番をしてくれる。

それは無敵である。

さらに「不健康を信じるのをやめる」ことだ。

病気の恐怖を捨てて、前進せよ。

本物の愛には恐怖などない

相手を本当に愛している人間は、嫉妬の鎖で相手をつないだりはしない。

鎖でつなごうとするのは、恐怖があるからだ。

愛を失うという恐怖である。

本物の愛には恐怖はない。

さらに愛は要求するものではなく、与えるものである。

与えることをやめたら、愛はもはや存在しない。

愛の終わりは楽しいものではない。

といって、前もって愛を失うのを恐れることは、自分の死を前もって思い描くのと同様、有害なことである。

ある人間への愛が失われてしまっても、愛そのものは失われることはない。

愛は心臓の鼓動とともに脈打っている。

愛は別の相手を求め、一人の人間に対する愛は、別の人間への愛に転換することができる。

別の人がいるのだ、ということを知ってほしい。

愛はまた、それ自体が素晴らしい達成と巣晴らしい奉仕に変わるのだということも知ってほしい。

チャールズ・ディケンズ(一八一二〜一八七〇)の最初の愛は、それが報われないことがわかったとき、悲劇となって終わった。

彼は自分の愛を、書くことへ転換した。

彼の最も有名な小説『デヴィッド・カパーフィールド』は、その悲劇のあとで書かれた作品である。

惜しみなく愛すればよい。

十分に愛するのだ。

あなたが愛をとらえるとき、愛は永遠に偉大な力となる。

しかし、愛があなたをとらえると、愛はあなたを破壊することもある。

愛とはすべての感情の中で最も崇高なものである。

それにもかかわらず私がこういう言い方をするのは、ひねくれているとあなたは思うかもしれない。

いや、そうではない。

私はこの本の目的に沿って人生そのものの教訓を伝授しているのだ。

いかなる恐怖も、あなたを引き止めて、あなたを傷つけてしまうものだということを知っておいてほしい。

愛を失う恐怖を捨てて、前進せよ。

あなたは本当に自由だろうか?

私は、最近刑期を終えて出所したある男についての話を読んだ。

彼は前科のあることを正直に言ったため、なかなか仕事が見つからなかった。

そのためしばらくの間、家族のもとへ帰ることができなかった。

家族ですら彼を信用しなかったからだ。

しかし、彼は、心の中で自分は生まれ変わったと思っており、粘り強くがんばった。

その甲斐あって、どうにか仕事にありつくことができた。

彼は、生活費を得るために働けるという特権と、生活を設計したり家族や車を持つ特権を手に入れることができたといって喜んだ。

「でもこうした恩恵は、もっと大きい恩恵が基礎になっているのです。

私には今、自由があります」と彼は言った。

一つの国が自由を失うと、その国民がどうなるかということは、数億人の人間が体験している。

生命の維持に必要なものすべてがあり、贅沢なものがたくさんあるとしても、自分の心を語り、自分自身の人生を生きる自由がなくては、すべては茶番に見えてくる。

私の言う自由とは、放任のことではない。

もし、私たちにそれぞれ自分のしたいことをする完全な自由があれば、文明はなくなり、無秩序の世界になるだろう。

心の平安は、現代社会の法則や慣例と歩調を合わせ、バランスを保つということも含まれているのだ。

少し前のことだが、私は一時的に身体の自由を失って、思いのまま出歩くことができなくなったことがある。

私は三日間寝込んだ。

もし私に心の平安がなかったら、仕事のことや、キャンセルしなければならない約束のことなどが気になり、イライラしたことだろう。

だが私は心を落ち着かせ、この本のアウトラインを書くために時間を使った。

これは、長い間やりかけていた仕事だった。

またもや私は「逆境にはすべて、それに相当するかそれ以上の利益の種子がある」という法則の正しさを証明したことになる。

「時間」の観念は「自由」の観念と密接につながっている。

時間も富の一種である。

だが金銭と違って、使ってしまうと戻らない。

約束の時間ぴったりに到着したのに訪問先で待たされてしまったというようなときは、自分の時間を使う権利が踏みにじられたと感じるだろう。

交通渋滞もそうだ。

そこで、このような経験の多いビジネスマンやOL、それにセールスパースンに私は言いたい。

控え室での時間は、自分のセールスポイントを見直し、交渉や販売がうまくいくような準備に使うのもよいだろう。

ただぼんやりと待つという習慣は捨て去ろう。

交通渋滞に巻き込まれたときでも、心を平安に保ち、思索すればよい。

こういうときには、潜在意識がよく働くのだ。

長い間気にかかっていた問題や疑問の答えを出してくれることもある。

あるいは自分の脳力開発に役立つカセットテープを聴くのもよいだろう。

こうすると、時間はあっという間にたってしまう。

心の平安は、多様な輝きを持つ素晴らしいものである。

そこで、これを先ほど述べたことと関連させてみよう。

つまり、「時間も富であるが、金銭と違って、使ってしまうと戻らない」ということについてである。

心の平安はあなたの健康全体にとってきわめて有益である、そのお陰であなたの寿命は伸びるし、晩年でも長く活動的で生産的でいられる。

だから「失った」時間は、ある意味で「取り戻す」ことができる。

しかも大切な時期にそれができるのだ。

自由の中には心の平安があり、また反面、心の平安は自由の基本である。

そこで「私は自由だ」と言う前に、次の質問に答えていただきたい。

①状況の変化によって、予定していなかったことに私の時間を使わなければならなくなったとき、私はその時間を有益に使うだろうか?②私は仕事のスケジュールをきちんと立てているだろうか?③私が自己主張をし、それが社会的に受け入れられるということがわかったら、私はその方法で他人の思惑にとらわれずに主張し続けるだろうか?④私の仕事や私生活を妨害してきた家庭の習慣、地域や文化的な習慣からも自分を解き放つことができるだろうか?⑤他人からの質問に対して「それが決まったやり方だ」と、決めつけないようにしているだろうか?⑥私は、自分が金のために働いているのではないことに気づいているだろうか?あなたがこの質問にすべて「イエス」と答えることができれば、あなたは本質的に自由な人間である。

自由を失うかもしれないという恐れを持っていないことになる。

特に最後の質問に注目してほしい。

私は金持ちの中には心の平安を持っていない人が結構多いのを知っている。

金を大事に思う気持ちはいいことだが、強すぎる金銭崇拝は、結局、幸福を破壊してしまう。

覚えておいてほしいのは、本書はいかに富を得、なおかつ心の平安を保つかということを強調していることだ。

自由を失う恐怖を捨てて、前進せよ。

老いのハンディは心の中にしか存在しない

「私はアマチュア野球ではショートでならしたものです」と七五歳の人が言った。

そして「それなのに今じゃ、時速二キロのゴロを受けとめられないんですからね」と嘆いた。

これは、老いを恐れている人の典型的な言い方であって、最も報われるべき時期に、心の平安が得られない人だ。

老いは確かにハンディである。

しかし、特定の身体の動きについてのみハンディがあるだけではないか。

自然は同等の価値を持った代わりのものを授けてくれる。

代わりのものを置かずに、すべてを持ち去ってしまうことは絶対にない。

もし自然が若さを奪ってしまったら、その代わり知恵を置いていく。

若い人は体力がある代わりに、成熟した人間の経験などを持つことはできない。

老いは不利だと嘆く前に、このことを考えてみるとよい。

四〇を越した、五〇を越した、七〇を越した、というだけでハンディが増えたと思い込んでいる人々を見るにつけ、私は胸が痛む。

こんなハンディは、この人たちの心の中にしか存在しないのだ。

彼らは、若い人たちの考えが自分の熟した考えさえも圧倒してしまうのではないかというコンプレックスを持つのだ。

彼らは、若さが過去のものとなっていることがまるで恥であるかのように詫びている。

そして人々を先導したり、創造力をかき立てたり、自分の湧いてくる勢いというものを自ら否定している。

だから、「若々しい」資質が感じられない。

若い弾力のある筋肉を失うことは、頭の中にある力を失うことと同じだと思い込んでしまう。

しかしその気持ちが起こってくるのは、老いを恐れたときだけなのだ。

私は八〇歳を越えてから、いくつかの都市に、まったく新しいシリーズの脳力開発セミナーを開設した。

成功するための積極的思考法、PMSとその用い方を習得するためのものだ。

そこでは、あらゆる年齢層の人が参加している。

私のような年齢(八〇歳を越えている)の人間が、このような企てに乗り出すことは不自然だろうか?恐れを抱き、障害を持つ心だけが、それを不自然だと思うのだ。

また、私は心の平安を保っているが、四〇年前にはこれほど強くはなかった。

老人は多くのものを失っているはずだという固定観念が、人々を恐怖に追い込んでいる。

ある人はそうでないことを示すために、ことさら若いふりをしてみせるが、それは滑稽であり、悲しいことだ。

周りの世界すべてに身体ごと関わる必要はないのだ。

その世界ときちんと連絡をとっていればいいのだ。

通信手段は進歩し、情報革命すら起こっている。

世界中の出来事は、瞬時にして茶の間に入ってくる。

私の若いころ、周りの出来事を知る機会が今日ほど恵まれていたら、人々はもう少し賢くなっていたことだろう。

老年は、あなたの人生で最も有意義な時期なのだ。

死の恐怖は死ぬときにはすでにない

私の父は、やたらに地獄の業火の恐ろしさを私に吹き込んだ。

私は善良な少年ではなかったから、父は私の行動を改めさせようとして、私に地獄の恐ろしさを叩き込もうとしたらしい。

私だけではない。

このような恐ろしい考え方で多くの子供が育てられていたのだ。

しかし、幸いなことに私はそんなことにこだわらなかった。

したがって、私には死を恐れるという気持ちは起こらなかった。

死後の恐怖の世界を説く宗教もある。

もしあなたが、死の恐怖を捨ててしまうために自分の宗教を無視するしかないのなら、そうすればいい。

ある問題についてほかの人が私よりずっとよく知っていると信じられないかぎり、私は誰の意見も求めてこなかった。

人は死後どうなるかについては、多くの意見を聞いてきたが、この問題について「よく知っている」という人には会ったことがない。

死後どうなるかわからないといって、ことさら恐れる必要があるのだろうか。

私は状況には二種類あることを確信している。

第一のタイプは、自分がコントロールしたり修正したり、避けたりできる種類の状況である。

このタイプには注意を向ける必要がある。

第二のタイプは、自分でコントロールできない状況である、死はその中で最たるものである。

だから私は、できるだけ努力をして健康を保ち、精神を健全にし、生命を脅かすものは避け、自己保存のモティベーションをうまく使うようにしている。

決して、死そのものを考えてはならない。

コントロールできないもののことを思いわずらってどうなるのだ。

あなたは死後、自分の財産を愛する人たちの手に渡るようにしたいと思っているだろうか。

よろしい。

これはコントロールできる部分である。

私たちは自分は死なないなどとは思っていない。

死を避けることのできないものとして受け入れる哲学を身につけたら、もう恐れることは何もない。

あなたの心は、死から生へと向かう。

ノーからイエスへだ。

憶測から現実へである。

死の恐怖を捨てて、前進せよ。

人は自分の心を所有して生きるように作られている

人間を作ったのが誰であるにせよ、この素晴らしい生き物には、ほかのどんな動物にもないものが与えられている。

自分の心を所有する権利が与えられているのだ。

正当な恐怖は自己保存の一部でもある。

人間は恐怖を感じる脳力を持っているということだ。

ジャングルの中で人喰い虎に出遭ったら、誰であれ、我が身を守ろうとするだろう。

それと同様に、危険の付随する状況では、どんなときでも私たちは注意深くなる。

ドライブをする人には、安全運転に注意を払ってハンドルを握ってほしいと望む。

子供が道路を渡るときは左右を見て確認するように教える。

しかし自分で作った恐怖は、また別の話である。

どうやら人間の心は、自家製の恐怖を簡単に受け入れるものらしい。

しかし、心理学上からいっても、常識的な面からいっても、自家製の恐怖は不健康だし有害なのだ。

自分の心をしっかり所有すれば、この種の恐怖から解放されることができる。

人生の中で自分自身をきちんと見極めたら、このような恐怖を感じる必要はないし、苦しめられることもない。

繰り返そう。

恐怖心を払い落とすために、自分の宗教を無視しなければならないのなら、ためらうことなく、そうすればよい。

自分の住む社会の習慣を超えて成長する必要があるなら、思い切って、そんな人々とは絶縁したほうがよい。

あなたにとっても良い雇い主や、もっと良い顧客、もっと良い友人たちがこの世にはたくさんいるのだ。

自分の食べ物に毒でも入りそうになったら、あなたはどんな手段を使っても排除するだろう。

心の毒である恐怖にしても同じことだ。

恐怖は人間が作った悪魔である。

自信を持つという信念は、この悪魔を倒すための武器である。

また、輝かしい人生を築くための道具でもある。

しかも、それだけではない。

自信は、大自然の偉大な力と結びついて、人の後押しをしてくれるのだ。

失敗や敗北は一時の経験にすぎないからと、気に留めない人の後押しをするのだ。

またもや〝大いなる秘密〟はあなたにもたらされた。

むしろ、その秘密の全部を、あなたに与える時期が刻々と迫ってくるのを感じる。

サクセス・エッセンス⑨

1恐れの害を見つめよう恐れることにより、私たちは否定的で破壊的な力に圧倒されることになる。

恐れを抱けば、恐れなかったときよりずっと多く、あなたに害が及ぶ。

このことは貧困の恐怖についてはとりわけよくあてはまる。

この恐怖は、貧困から抜け出そうとするために必要な勇気をことごとく消してしまうのである。

2あなたの心には、願望を実現させる無限の力がある有益な願望を実現させるためには、心が何ものにも邪魔をされずに自由に働かなくてはならない。

批判される恐怖は、知的な心でさえも損なうことがある。

成功した人々の多くは、いろいろな障害を克服してこなければならなかったが、同時に批判をも乗り越えなければならなかったのだ。

有害なのに、実現してしまう願望もある。

それは、みんなが持ちたくないと思っている願いである。

病気の恐怖がもたらす病気への願望だ。

そのような恐怖にとらわれている心からは、さまざまな病気が現われる。

信念は、最高の生命維持力であり、最高の治癒者である。

3愛や自由を奪うのは恐怖だけである本当の愛は、所有するものではない。

愛する力はその愛が拒否されても残る。

愛は要求するものではなく、与えるものである。

自由は自分の心の中で生きる。

外部の状況には関係がない、自由の喪失も、心の中で起こる。

たとえ「自由」らしく振る舞ったとしてもだ。

自由は、多彩な輝きを放つ素晴らしいものであるから、自由を失って恐怖の奴隷が幅をきかせるようになったら、それをなくした場所へ探しにいかなければならない。

4若さの去った年齢は、あなたの最も良き人生になりうる自然はいつも奪っていったものに対して補償をしてくれる。

肉体的な活力を手放すと、代わりに年齢相応の知恵と経験が手に入ってくる。

死の事実は否定する必要はないが、死のカーテンの向こうに何があるのかは誰にもわからないのだから、無理にのぞく必要はない。

いくら歳がいっていようとも、絶えず積極的な姿勢を保てば、死の恐怖が心の中に住みつくことはない。

 

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