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第三章 何が子どもの性格をつくるのか

人間のタイプは幼児期に決まる 身体的困難をかかえた子どもの苦しさ 愛を知らずに育った子どもの末路 甘やかされた子どもの弱さ 幼児のふるまいが意味するもの

第三章 何が子どもの性格をつくるのか人間のタイプは幼児期に決まる 共同体は多くのことを要求し、わたしたちの人生のあらゆる決まりや形式、そして思考器官の成長にも影響を与えます。

共同体の土台には身体器官も関わります。

人間に2つの性があることに、人がつながって生きることがすでに現れています。

他者と生きるからこそ、個々の生きる意欲は満たされ、安全と生きる喜びが保証されます。

孤立していては不可能です。

子どもの成長が遅いことを考えると、守ってくれる共同体があったときにだけ、人間は生きてこられたことがわかります。

また、他者とのつながりは、必然的に分業を生みだしました。

分業は人をわけるものではなく、結びつけるものです。

だれもが他者を助けなければなりませんし、他者とつながっていると感じる必要があります。

そうすることで、人間の精神に求められる大きな結びつきが成り立つのです。

子どものころから目にするこうしたつながりを、いくつか見ていきましょう。

共同体の助けを強く必要とする子どもは、環境から与えられ、同時に求められるようになります。

自分の欲求に従う子どもは、なんらかの困難に直面し、その克服に苦しみます。

そしてじきに、自分が子どもであることで苦しみが生まれていると気づくのです。

子どもは将来を予測できるような精神器官を身につけていきます。

支障なく欲求を満たし、それなりの人生が送れそうな方向性を探っていきます。

子どもは、自分よりもずっと楽に欲求を満たす人がいること、つまり自分よりも優れた人の存在に必ず気づきます。

そのため、ドアを開けられる背の高さ、物をもちあげられる力、命令して相手を従わせられる立場を評価するようになります。

子どもの精神には、他者と同じか、他者よりも強くなりたいという思いがわきあがります。

また、子どもが従うのが当然のように接してくる身近な人たちを超えたいと切望します。

けれど、こうした大人は子どもが弱さを見せると折れるので、子どものとる作戦は2つにわかれます。

子どもから見た大人の権力のふるい方を採用して自分の意志を押しとおすか、相手が折れずにはいられないような弱さを見せるのです。

精神の動きがこうして2つの方向に分岐する様子は、子どもたちにたびたび見られます。

この分岐で人間のタイプが作られはじめます。

一方は承認を求め、力を得て実行する方向に進みますが、もう一方は自分の弱さを計算に入れて、さまざまな形で提示するように見えます。

それぞれの態度や表現や目つきがどうだったかを考えれば、どちらかのタイプに振りわけられる子どもが見つかるはずです。

こうしたタイプわけは、子どもと環境の関係を理解してはじめて意味をなします。

子どもの動きもたいてい環境と関係しています。

こうした単純な条件、つまり、弱さを克服しようとする子どもの努力は、多くの能力を伸ばす刺激にもなるのですが、その子を教育できるかという問題とも関わってきます。

子どもの状況はきわめて多様です。

環境が敵対的な印象を与える場合もあります。

つまり、世界は敵対的だと子どもが思ってしまうのです。

こう考えてしまうのは、思考器官がまだ十分ではないからです。

教育によって手を打たなければ、子どもの精神は、のちに外界を敵対の場としか見ないような育ち方をしかねません。

やや大きな困難に出くわすと、敵対の印象はすぐに強まります。

これはとくに身体器官に問題のある子どもに生じます。

彼らは、器官にそれほど問題がなく生まれた子どもたちとは異なる形で環境を感じとります。

器官の劣等は、低い運動能力、個々の器官の欠陥、抵抗力の弱さとなって現れてくるので、子どもは何倍も病気にかかりやすくなります。

とはいえ、困難の原因が不完全な身体ばかりにあるとは限りません。

理解のない環境から厳しい課題を与えられることが原因となっている場合も、むやみに課題が与えられることもあります。

要するに、子どもの環境が不十分なために、外界の困難が増すのです。

環境に適応しようとする子どもは、適応を妨げるバリアに突きあたってしまいます。

たとえば、勇気を欠いた悲観的な人たちに囲まれて育った場合がそうで、子どもも簡単に悲観主義になります。

身体的困難をかかえた子どもの苦しさ 子どもはさまざまな面から、さまざまな理由で困難に直面します。

子どもの精神生活は成長する機会がまだあまりありません。

であるなら、外界の避けられない条件に向きあわざるを得ないとき、子どもが誤った応答をすることを想定しておかなければなりません。

多くの誤りを見渡せば、それは一生続く精神生活の成長であって、前進してより正しい答えを返そうとしていることがわかります。

子どもが表現する動きのなかでとくに目に留めるべきことは、成長と成熟の途中にある人間が特定の状況で返す答えの形です。

どう答えるか、どういう態度をとるかは、精神の様子を知る手がかりになります。

そのときに忘れてはいけないのは、 1人の人間が表現する形を(また集団の場合も)、無造作にパターン化して判断してはいけないということです。

子どもは内面を成長させる過程で困難と闘いますが、たいていはごく不十分な形でしか共同体感覚を育てることができません。

こうした困難は2つにわけることができます。

1つは、文化が不十分であることから生じる困難で、家族や子どもの経済状況に現れます。

もう1つは、身体器官の欠陥から生じる困難です。

世界はそもそも、完全な器官の持ち主だけを対象に作られています。

子どもをとりまく文化はすべて、完全に育った器官の力や健康を想定しているため、重要な器官に欠陥があるせいで人生の要求に応えられない子どもができてしまうのです。

たとえば、歩きだすのが遅い子や運動全般が難しい子、話しだすのが遅い子、わたしたちの文化が想定する子どもより脳の活動の成長が遅くてなかなかうまくやれない子などです。

すでに知られているとおり、こうした子どもは何度も壁に当たり、対処に時間をとられ、心身ともに苦しみます。

自分たちのためには作られていない世界と快適な関係をもてないことは明らかです。

発育不全が原因となる困難はとてもよく見られます。

時間がたつうちに、自然と埋め合わせが行われ、あとに害も残らないことはあるでしょう。

ただしそれは、苦しい思いが沈殿していない場合です。

こうした子どもは精神的な危機に苦しんで育ち、たいていは経済的にも困窮しています。

沈殿した苦しい思いは、成長してから感じられるようになることがよくあります。

彼らが人間社会の絶対的なルールになかなか従えないことは簡単にわかるでしょう。

彼らは自分のまわりで展開する世界の動きを不信の目で見て、すぐに孤立し、課題から逃れようとします。

人生の敵意をするどく感じとって誇張します。

人生のよい面よりもわるい面にずっと関心を示します。

多くの場合、どちらの面も過剰に感じとるため、生涯ずっと闘う姿勢を崩さず、強く注目されることを求めて、他者より自分のことを考える傾向があります。

人生の要求を刺激というよりも困難ととらえ、闘う存在として過剰に用心しながらすべての体験に対峙するため、周囲とのあいだには深い隔たりができます。

真実や事実からどんどん離れていき、何度も困難におちいるのです。

愛を知らずに育った子どもの末路 家族の愛情がある程度を下回る場合、同じような困難が生じることがあります。

この状況も子どもの成長にとって重大な結果をもたらします。

愛情を知らず、その用い方がわからないことで、子どもの態度は影響を受けます。

人を愛する欲求が育たないのです。

この欲求が家庭のなかで発揮されなければ、そうした環境で育った人に、大きくなってから愛情の活発なやりとりをうながすことは難しくなります。

愛に満ちた気持ちや関係をつねに避けるようになるのです。

親や教育者などの周囲がなんらかの教育信条をもちだして、愛情を意味のないこと、滑稽なことと感じるように働きかけている場合も同じ影響があります。

愛情が滑稽な印象になるように、子どもが導かれていることは少なくありません。

これはとくに、よくあざけりの対象にされる子どもに起こります。

彼らは感情に臆病になっているので、他者への優しい気持ちも愛情も、滑稽で、男らしくなくて、他者に従わせられ、軽んじられることになる感情ととらえます。

こうした人は、子どものころからすでに、将来のあらゆる愛情の関係に対して一線を

引いています。

愛情の欠如はだいたいにおいて厳しい教育につながり、優しい気持ちはすべて無視されます。

すると、子どもは優しい気持ちを封じ込め、いら立ち、すねて、周囲の小さな輪から外れていくようになります。

けれど、優しい気持ちを得て、精神生活にとりこんでいくことは、本当はとても重要なのです。

つながりをもてる人が周囲に 1人でもいれば、その人ととくに濃い関係を作りあげます。

そしてたいてい、 1人の人としか関係を築けず、それ以外の人とはつながれなくなるのです。

先にあげた例、母親の愛情が弟に向いていることに気づいて傷つき、幼いころから手に入らなかった温かい感情を求めてさまよった男性の例は、こうした人が人生で出合う困難を示しています。

ここまでが、ある種の圧力を受けて教育された人のタイプです。

甘やかされた子どもの弱さ 失敗はまったく反対の方向でも起こります。

特別な優しさをともなって教育が行われ、子どもが甘やかされることで、人を愛する欲求が限度を超えて発達した場合です。

子どもはごく限られた人と密接に結びつき、相手から離れようとしなくなります。

子どもの愛情はさまざまな誤りによってあおられるので、子どもは自分が愛したら相手にはなんらかの義務が生じると考えます。

たとえば、大人が「わたしはおまえが大好きだよ。

だからこれをしないとだめだよ」などと言う場合、子どもも同じような考えを簡単にもちます。

家庭内にこの種の考えが根づいていることはよくあります。

こうした子どもは、他者のやり方にすぐに気づいて利用します。

同じ手段で、今度は自分の愛情につりあうように相手を従属させようとするのです。

家族の 1人に対するひいきには、いつも注意しなくてはいけません。

こうした偏った教育は、人間の運命にマイナスの影響を与えます。

そのときに起こることはいろいろあります。

たとえば、相手の愛情が離れないようにきわどい手段に出て、ライバル(たいていはきょうだい)をおとしめようと、わるい行いを暴いたり、わるいことをするよう、そっとうながしたりするかもしれません。

とにかく親の愛情を浴びるために手を打つのです。

もしくは、親に負担をかけてなんとか注意を引こうとしたり、あらゆる手段をとって前に出て、きょうだいよりも重視されようとしたりします。

もっとかまってもらうために怠惰になったり態度がわるくなったりすることもあれば、他者からの注目を報酬のように受けとるために行儀よくなることもあります。

子どもの人生でとられるこの種のプロセスからは、精神生活でひとたび方向が決まれば、あらゆることが手段になることがはっきりとわかります。

目標を達成するためにわるい面へ向かって成長することも、同じ目標をかかえてとても行儀よくなることもあるのです。

荒々しいふるまいで注意を引こうとする様子や、狡猾にしろそうでないにしろ、よい子になって注目を求める様子はよく見られます。

甘やかされた子どものグループには、ほかにも、あらゆる困難を片づけてもらい、風変わりなところも苦笑いで受け入れられ、なにをしてもたいした反対もなく許される子どももいます。

こうした子どもには、今後の人生に欠かせないトレーニングをしておく機会がありません。

つまり、他者と正しい方法でつながる努力をし、実行する練習をしていないのです。

これは相手につながる意欲がある場合でもそうです。

ましてや、相手も子ども時代の困難で迷い、人とつながることが難しくなっている場合はなおさらです。

甘やかされた子どもは困難の克服を練習する機会を与えられていないので、その後の人生に対する準備がほぼできていません。

温かい雰囲気の小さな領域から出て人生に向きあえば、ほぼ決まって反動を受けます。

そこには、ひどく甘い親のように、過剰に義務を果たしてくれる人はいません。

この種の現象ではどれも、子どもは多少なりとも孤立します。

たとえば、消化器に欠陥のある子どもは食事の仕方が違ってくるため、消化器が正常な子どもとは異なる成長をする可能性があります。

器官に劣等がある子どもは、特殊な生き方を示して、徐々に孤立していきます。

こうした子どもは周囲とのつながりをあまりはっきりとは感じず、場合によっては拒絶します。

仲間を見つけられず、同年代の子どもと遊ばず、うらやましそうに眺めるか、見下すようにして 1人で静かに遊びます。

ひどく厳しくされるなど、教育で強い圧力を受けて育った子どもも、孤立する恐れがあります。

彼らにとっても人生にはよいイメージはありません。

くりかえし、いたるところで、わるい印象を受けると予測しているからです。

彼らは自分のことを、すべての困難をおとなしく受け入れて耐え忍ぶ人か、敵と思った周囲をいつでも攻撃する用意のある戦士だと感じています。

そして、自分の人生や課題は特別に困難だと思っています。

ですから、破綻が起きないように注意しながら自分の境界を守ろうとし、いつも不信の目で周囲を見ているのです。

過剰に用心して苦しみながらも、やや大きな困難や危険を察知する傾向を育て、軽はずみに敗北の運命に身をさらしたりはしません。

こうした子どもに共通するもう1つの特徴、そして共同体感覚があまり育っていないことをよく表す特徴は、他者よりも自分のことを考えるという点です。

この特徴ははっきりと見られます。

全体的に世界を悲観的に見る傾向があり、誤った人生の型から解放されなければ、人生を楽しめなくなっています。

幼児のふるまいが意味するもの ここまでで、個人の性格を明らかにできるのは、その人の状況を見つめて判断し、理解した場合だけだということを示してきました。

わたしたちが言う状況とは、世界におけるその人の立ち位置、身近な周囲への態度、そして仕事・人とのつながり・周囲との関係などの絶えず出くわす課題への態度です。

その過程で、環境が人に与える印象が、人生に対する乳児の態度、のちに子どもや大人になってからの態度に深い影響を与えることが確かめられました。

生まれて何カ月かですでに、子どもが人生に対してどうふるまうかが確認できるのです。

人生への態度に関して、 2人の乳児をひとくくりにするようなことはもうできません。

だれもがはっきりとしたタイプを示し、その個性はどんどん明確になって、一度備わった方向性が失われることはないからです。

子どもの精神で育つものは、社会との関係によって強化されていきます。

最初は生まれつきの共同体感覚が姿を見せ、身体器官の制約を受けながら愛情が育ち、子どもは大人に寄りそうようになります。

他者に愛情を向けようとする様子が必ず観察されるのです(フロイトが言うように、自分に向けてではありません)。

これにはさまざまな段階があり、人によっても異なります。

2歳以上の子どもでは、この違いが言葉にも現れます。

他者と結びつく感覚、他者と生きる共同体感覚は子どもの精神に根を張っていて、精神生活がひどく病んで乱れたときにだけ失われます。

共同体感覚は、ぼやけたり、制限されたりしながらも一生ずっと存在しつづけます。

順調なときには、家族だけでなく、種族や民族、人類全体にまで広く向けられます。

こうした境界を越えて、動植物や無生物、さらには宇宙まで拡大することもあります。

人間を理解しようと目指すうちに、わたしたちは助けとなる重要な視点を得られました。

それは、人間を社会的な存在として見なければならないことです。

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