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第三章 人間の本質を見抜く方法

第三章 人間の本質を見抜く方法

人を扱う感覚を磨け 空気を三分の一しか吸わない人々 自分の内、外、中心核を見る 厚みがどんどん薄くなる現代人 刺激と欲をコントロールせよ 平気で噓をつく人々 虚勢の人は大事なものがない人 「ながら生活」のすすめ ダメな性格は直さず「緩和」する 縦・横関係の十字ラインを持つ 「しがらみ」は存在の空洞をつくる 自分自身を救う方法 勝ったら、譲る リーダーとしての間合いの取り方

人を扱う感覚を磨け 普段はいい人なのに車を運転すると人格が変わる。

そんな人があなたのまわりにもいないだろうか? 車の中は、その所有者だけの空間だ。

自分の家といってもいいかもしれない。

だから、思わず地が出てしまうのだ。

車というのは鉄の固まりだ。

人間がぶつかればひとたまりもない。

だから人は車を避ける。

車を運転しているほうは、そうやって歩行者が避けてくれるから気が大きくなる。

大きな車に乗っていればさらに態度がでかくなる。

車を運転すると人格が変わってしまう人は、鉄の固まりの中という隔離された空間で自分の世界にどっぷりと浸かっているのだろう。

歩道を歩いているのも人間、車を運転しているのも同じ人間ということがわかっていない。

鉄と同化してしまっているから考え方は固く、柔軟な対応などもできやしない。

これは環境だけでなく、〝物質・モノ〟によっても人間が変わるというよい例だと思う。

人間関係において、自分がどう思われているか、自分の位置はどの辺りかといったことを気にする人は多い。

馬鹿にされたくない、意地悪されたくない、大切にされたい、そのほかいろいろ。

要は、まわりから一目置かれたいのだ。

そのもっとも手っとり早い方法が〝よいモノを持つ〟ということ。

よいモノを持っていれば(身につけていれば)、まわりの受け答え方、扱い方が変わってくる。

人間関係において〝扱う〟という感覚を持つことは大切だ。

人をどう〝扱う〟か、または人にどう〝扱われる〟か。

けっして〝使う〟とか〝使われる〟ではない。

〝こき使われる〟という表現もあるように、人間関係において〝使う〟という感覚はあまりよいものではない。

人間関係を良好に保つためには、人をどう〝扱うか〟が大切だ。

会社の部下をどう扱うか、自分の子どもをどう扱うか。

まわりの人間の扱い方がうまくなれば、自分自身の扱われ方も当然よくなる。

子どもには子どもの扱い方があるし、青年には青年の扱い方、老人には老人の扱い方、女性には女性の扱い方、それぞれにちゃんと扱い方があるのだ。

空気を三分の一しか吸わない人々 自然界に生きる動物は、二日も三日もエサが捕れないときがある。

それで飢え死にしてしまう動物もいるかもしれない。

だが動物は、エサが捕れないことが理由で心の病気になったりはしない。

ところが現代社会に生きる人間という動物は、ちょっと調子が悪いとすぐに鬱病になってしまう。

今は、もうほとんどすべての人が鬱病予備群だといっても過言ではない。

どうしてこんなふうになってしまったのか? 調子のよし悪しは誰にでもあることだ。

気分の調子、体の調子、いろいろな調子がある。

調子がいつも同じという人はいない。

いつの時代にも、その時代ごとの調子のよし悪しはあった。

調子の波、いわゆる〝バイオリズム〟と呼ばれるものだ。

それが今という時代だけ、どうして病気化してしまうのかというと、それは、すべてが〝能力〟で表されているからだ。

学力社会、結果至上主義がはびこる現代社会は、すべてを結果でとらえ、それを能力とする。

「その能力がその人のすべて」という観念を植えつけていく。

「失敗だ」「ダメだ」「どこか足りない」「負けた」というのは、調子が悪くてそうなっただけのことかもしれないのに、それを能力として自分の中で勝手に計って「俺はダメなやつだ」と決めつけてしまう。

そして、どんどん自分から心の病になっていく。

現代に鬱病の人が多いのは、結果至上主義の能力社会の弊害なのだ。

調子のよし悪しは誰にでもあることだから、昔はそのことを病気だなんていう人はいなかった。

「今日、調子いいね」とか「今日、調子悪いね」とはいっても、「おまえ、病気だろう」などという人はいなかった。

しかし、今の能力社会では、もうそれが立派な病気になってしまう。

なぜ、そうなってしまったのか、私なりの考えを述べてみよう。

たとえば秋葉原で無差別殺人を犯した青年。

彼も、子どもの頃はある程度勉強ができて能力もあった。

そこの能力社会で満足していた時代があって、その後、あるレベルまで行ったら、今度はその能力が全然通用しなくなってしまった。

彼はそこで初めて、能力社会の壁にぶつかったのだ。

「今まではできたはずなのに」と。

それまでずっと上を目指してやってきたから、そこで一挙にがくっと落ち込んでしまった。

そういうとき、その人にとってはまわりの空気が三分の一になってしまう。

それまでは当たり前に吸えていた空気が、まるで三分の一ぐらいしかないように感じてもがき始める。

人間は、能力ばかりを追い求めるとある種の酸欠状態になってしまうのだ。

すると、脳に酸素がいかなくなる。

その症状がさらに進むと、妄想や幻想が起こってくる。

酸素の薄いエベレスト(チョモランマ)などの高山を登っていると、登山家たちは幻覚を見ることがあるという。

これはあくまで生理学的に起こる現象だが、人間は、その心理作用で酸欠状態に陥ってしまうことがある。

そして、自ら鬱の世界に踏み込んでいってしまうのだ。

人前に出て緊張する、あがってしまうというのも、すべてはその酸欠状態から始まっている。

「頭の中が真っ白になる」という言い方もあるが、これも結局、緊張状態となり、脳に酸素が三分の一ぐらいしかいっていないから起こる状態だ。

だから真っ白になって、さっきまで覚えていた言葉が繫がらなかったり、出てこないといったことが生じるのだ。

これらはすべて、本当に空気が足りなくなっているのではなくて、勝手に自分の体がそのように反応してしまっているだけだ。

そういうときは、酸欠状態にならないように、あらかじめ自分のスタイルを持つようにするといい。

「うまくやらなきゃいけない」とか、「よく思われたい」などという能力社会で植え込まれた考えを捨てるのだ。

私は、人前で話すときも「いい話をしよう」とか、「感動させよう」などと思ったことがない。

そのときそのときで、浮かんできた言葉をそのまま表現しているだけだ。

これは、麻雀でも同じ。

その場その場で最善の手を打っているだけ。

そうすると、相手が勝手に崩れていってくれる。

能力社会で植え込まれた「勝ちたい」という気持ちだけでは、これもまた酸欠となってしまうのだ。

自分の内、外、中心核を見る 最近、鬱病の人が増えていると聞く。

確かにまわりを見渡してみてもそういった人が多い。

鬱病までいかなくてもどこか沈んだ感じの人、肩が落ちている人、伏し目がちな人など、鬱病の一歩手前のような人もたくさん見かける。

鬱病を考えるにはまず、人間の精神というものをしっかりと理解する必要がある。

精神は、人間誰しもが持っているものだが、その本質を理解している人は意外に少ない。

少ないがゆえに鬱病の人が増え、さらには鬱病という病を誤解している人も増え続けている。

人間の精神は〝外〟と〝内〟、さらに〝内〟の中にある〝中心核〟のようなものから成り立っている。

外と内と核、この三つがあって初めて精神が生まれ、人は人としての道を歩むことになる。

人は知らず知らずのうちに、外と内と核、この三つでバランスをとっているのだ。

シーソーでいえば、その両端が宙に浮いている状態がもっとも望ましい状態だ。

しかし、現代社会で生きる人々は、シーソーの両端を宙に浮かせておくことがなかなかできない。

必死にバランスをとろうと、もがき苦しんでいる人もたくさんいる。

シーソーのバランスが崩れてしまったとき、偏りが生じ、人は精神を乱し、病になる。

バランスをとろうと必死になるあまりに病になることもあるだろうし、自分を取り巻く環境に影響されてその均衡が破れ、病になってしまうこともあるだろう。

精神のバランスを保つためには、シーソーの真ん中に立っている感覚を持つことが大切だ。

それによって自分の中に〝核〟という軸ができる。

球技で使うボールにしても、真ん中があるからコロコロと転がっていく。

地球も、中心核があるから一定のリズムで自転している。

そもそも、太陽系自体が自転と公転のバランスの上に成り立っているのだ。

その中心には、必ず核となる軸が存在する。

多くの人は、その精神のバランスが内側に傾いてしまったときに鬱病になると思っているようだが、それは違う。

人のせいにしたり、社会のせいにしたり、そうやって外側に崩れてしまう鬱病もある。

昨今頻発している無差別殺人の犯人たちも、外側に崩れてしまった人たちばかりだ。

しかし、そうした無差別殺人の犯人たちにも、最初は内側のぶつかり合いがあったと思う。

その対象は家族であったり、友達だったり、職場の同僚だったりするだろう。

いずれにせよ、いわゆる〝身内〟との対立を経て、今度はその矛先が外側へと向いたときに大きくバランスを崩し、自分とはまったく関係のない人々を殺傷するという通り魔的な犯罪に走ってしまったのだ。

〝生活する〟ということにしても、〝内と外〟の関係抜きには語れない。

家の中に閉じこもっているだけでは飯は食えない。

だから人は、外に出て仕事をする。

外の仕事を重要視しすぎると、人は仕事人間になってしまう。

仕事人間が増えれば確かに経済はよくなるかもしれない。

だが、内の部分、家庭を蔑ろにしてしまうと、今度は離婚、家庭崩壊など、いろいろな問題が生じてくることになる。

私は、「個は全体なり、全体は個なり」という言葉をよく用いるのだが、精神もそれと同じで、「内は外なり、外は内なり」なのだと思う。

外と内、さらにその真ん中が存在することによって精神ができているという感覚。

外と内だけでなく、内のさらに内側に〝中心核〟があるという感覚を持ったときに、精神というものが理解できるような気がする。

厚みがどんどん薄くなる現代人 電車に乗っているときなどに強く感じるのだが、今の人たちは、ほかへの関心が非常に薄れてしまっている。

大きな声でおしゃべりしたり、携帯電話で話したり、足を投げ出して座ったりしている。

まるで、車両には自分しか乗っていないかのような傍若無人な振る舞い。

自分中心でしかものごとが見られず、ほかの人、ほかのことへの関心がとても希薄になっている気がしてならない。

ほかのものごとへの関心が希薄になってしまった理由のひとつに、現代社会が便利になりすぎたから、ということが挙げられる。

便利な社会は、人と関わらなくてもなんでも簡単に手に入る。

情報だってそうだ。

昔だったら、なにかひとつのことを調べるのにも図書館で一日かけて資料を探したりしたものだが、今は、パソコンがあれば必要な情報を瞬時に入手することができる。

なんでも簡単に手に入ってしまうから、人は手間隙かけることを敬遠するようになる。

人づき合いにしても、ものづくりにしても、生活のすべてを最小限の手間で楽に済ませようとする。

昔に比べて現代ははるかに効率的になっているのだろうが、その分、ほかのものごとへの関心は急激に薄まっている。

これは、今という時代があらゆるものごとに対して希薄になってしまっている証でもある。

だから、人間もそれに伴って薄くなってしまった。

江戸時代に生きていた人たちの人間の厚みが五〇センチだとすれば、現代人の厚さは五センチ程度。

体の見かけは昔に比べれば大きくなったものの、人間がすっかり平面化し〝薄い時代〟になってしまったのだ。

便利がいいのはわかるが、これ以上人間が薄くなってしまったらどうなるのだろうという危機感を私は持っている。

人間が昔の厚みを取り戻すには、なによりもまず〝額に汗する〟ことが大切ではないだろうか。

手間隙を惜しまず、損得勘定も抜きにして、いろいろなものごとや人と相対してみる。

そうすることで人間の厚みが増し、次の時代へと続く新たな道もきっと見えてくるはずだ。

刺激と欲をコントロールせよ 人間は本来、刺激を欲する生き物だ。

誰もが、多かれ少なかれ、刺激を求めて生きている。

しかし、刺激の欲求もあまりに過ぎると人間が壊れてくる。

人間の欲求というものはエスカレートするものだ。

刺激に限らず、人間の欲求はすべてがエスカレートしていく。

それは人間の持つ欲というものが、エスカレートするようにできているからだ。

エスカレートした欲によって己が破壊されないようにするためには、欲のコントロールが必要だ。

それにはまず、「自分には欲がある」ということをしっかりと自覚しなければならない。

そのうえで欲をコントロールする。

そうしないと、エスカレートした欲は気づかぬうちに〝狂〟へと変貌を遂げ、人はその深い闇の中で身動きがとれなくなってしまう。

そもそも〝刺激〟には、一人では得ることのできないものがたくさんある。

自分一人だけで得られる刺激というのももちろんあるが、刺激のほとんどは人に対したとき、あるいは人と接したときに受けるものが多い。

男女間、親子間、仲間内などから得る刺激。

しかしその刺激を求め、なにかがんばったり、こだわったりしているうちに、問題が起きることもある。

たとえば、自分の子どもに「厳しさ」という刺激を与え育てているうちに、子どものほうは堪えられなくなって、親の考えている方向とはまったく違う方向へ行ってしまったりする。

親が、「あれ? そんなはずではなかったのに」と思っているうちはまだよくて、親子がとても不幸な状況に陥ってしまうこともままあることだ。

たとえ話で親子の関係を出したが、ここで述べた〝厳しさという刺激〟の根底にあるのは、競争意識だ。

人と比べるという競争意識が自分の存在感を表し、癖にもつながっていく。

競争意識は欲と同じで、人間とは切っても切り離せないものだ。

どんな人の中にも、競争意識は潜んでいる。

欲と同じで、この競争意識もコントロールしていかなければならない。

競争意識は、農耕文化が生まれた頃から人間に刷り込まれ、半ば本能のようになったものだ。

畑を耕すことで定住し、家族がいくつか集まって集落ができる。

そこで「隣の畑より」という競争が生まれ、その次に「隣の集落より」になり、競争意識がどんどん広がっていく。

専門家や集落を仕切る人間が生まれ、そこには権力や格差も生まれる。

以来、長い年月をかけて競争意識は人間に刷り込まれてきたのだ。

そしてそれは、現代でも同じ。

子どもは学校で競争、親は会社や地域コミュニティの中で競争と、家族みんなが毎日の生活の中で息つく暇もない。

こんな世の中では、いろいろな問題が起きてくるのも当然だと思う。

本来、家族とは社会構成の基礎を成す共同体で、人間一人ひとりの帰るべき場所、居心地のよい場所であったはずなのに。

平気で噓をつく人々 平気で噓のつける演技のうまい人種がいる。

あなたも、マスコミ報道などで、たびたびそういう人たちを目にしていることだろう。

もしかしたら、あなたの身の回りにもそういう人がいるかもしれない。

テレビの中の話なら「なんだこいつは」で済むが、実際に身の回りにそういう人がいる場合は他人事では済まされない。

客商売をしている人も、演技のうまい部類に入るだろう。

商売のテクニックとして演技を磨く。

生きていく知恵、知識として演技を教え込まれている。

心の通う接客ならよいが、現代の接客方法はマニュアル化されたものばかりだ。

まるで機械でも生み出すかのように、演技をする人を次々とつくっているのが現代社会なのだ。

商売をしていかないと生活できないのはわかる。

しかし、現代社会はあまりに度が過ぎている。

客を人間ではなく、金の固まりとでも思っているかのようだ。

接客態度をマニュアル化して徹底すれば、経済的には確かに伸びるかもしれない。

しかし、それはやがて人間の崩壞へと繫がっていく。

媚を売ればモノは売れる。

でも、媚を売るということは、自分を売るということと同じだ。

自分を売り続けていたら、やがてその人は壊れてしまう。

昔、私が雀荘「牌の音」を始めたばかりの頃、雀鬼会のメンバーに接客態度に関してこういったことがある。

「とにかく媚だけは売るな。

媚売って銭もらおうなんて、こんな格好悪いことはない。

それはやめろ。

その代わり、客一人ひとりを人間として大切にする気持ちを忘れるな」と。

だから今でも、雀鬼会のメンバーは「牌の音」にやってきた客に対して媚を売ることはない。

客を一人の人間として大切にもてなすということをずっと続けている。

たしかに、世の中には巧みな演技で人をだまそうとする者もたくさんいる。

店員の接客態度にだまされてモノを買ったり、サービスを利用したりしてしまい、後悔するはめになった人も少なくないだろう。

近年、社会問題となっている「振り込め詐欺」も、演技で人をだます典型的犯罪といえる。

しかし、もう少し視野を広げると、じつは社会全体が人を〝だまし〟にかかってきていることに気づく。

食の流通ひとつとっても、そのシステムはとても複雑になっている。

複雑にすればわかりにくいし、だましやすい。

食品偽装が横行するのも、当たり前のシステムになっている。

店員や店、会社というミクロなレベルだけでなく、社会全体の仕組みそのものが〝だまし〟になっているのだ。

つまり、この社会の中で生きているということは、それだけでもうすでに〝だまされている〟ということなのだ。

その観点からいえば、冷凍餃子にメタミドホスが混入していた事件など、特別なことではない。

現代社会に生きる我々は、もっといろいろなことで巧みにだまされている。

我々は〝だまし〟の空の下で生きている。

このことにもっと多くの人が気づくべきだろう。

今の社会はけっして正当や良識といったものから成り立っているわけではないのだ。

別に反社会的に生きる必要はないが、我々はそういう仕組みの社会で生きていることを認識し、それに対する心構えを持っておくべきだと思う。

虚勢の人は大事なものがない人 ただ単に虚勢を張っている人と、堂々としている人の違い。

それは内面から滲み出るその人の〝資質〟だ。

もちろん、これは、目に見える違いで確認することもできる。

なにか事が起きたときのリアクションを見れば、それが虚勢か本物の落ち着きだったのかがだいたい判別できるものだ。

本物の落ち着きを持っている人は、多少のことでは動じない。

それは心身の両面でいえることだ。

内面からその人のよい生きざまが滲み出ている人は格好いいし、そういう人を見ると頭が下がる。

たとえ言葉づかいが乱暴でも、格好いい人もいれば、一言もしゃべらないのに、なぜか頭が下がってしまう人もいる。

「今の政治家で頭を下げられる人がいるか」といったら、残念だが一人もいない。

頭が下がる人は巷にもたくさんいる。

とある山中、農家のおばあさんが蓑笠姿で、向こうから歩いてきたときに、「なんだか頭が、下がるなあ」という気持ちが湧き起こったことがある。

たぶん、その人の生きざまがぱ ーっと出ていたのだろう。

「なにかを大切にしているな」ということも強く感じた。

それは畑なのか、家族なのか、つくった野菜なのか、自分の生き方なのか、それともそれらすべてなのかはわからない。

ただ、本当の意味でなにか大切にしているものがあるということが、その人の歩く姿から見えたのだ。

人間はまず、自分を大切にしなければいけない。

そのうえでかけがえのない大切なものをいくつか持てば、人は間違いを犯さないと思う。

最近は、とんでもない事件を起こす若者が後を絶たないが、彼らは、大切なものを持っていなかったに違いない。

家族も大切ではないし、親のこともどうでもよくなってしまったのではないか。

むしろ、「大切なものを持っていない自分は被害者だ」というような気持ちがあったかもしれない。

いずれにせよ、自分を大切にできない人が、人を大切に思うことなどできるわけがない。

大切なものはいくつあってもいいと思う。

でも、その中に〝人〟も入れておくことを忘れてはいけない。

「大切な人がいる」というのは、人生においてなにより大切なことなのだ。

「ながら生活」のすすめ 子どもの頃、「ひとつのものごとに集中しなさい!」と叱られたことはないだろうか。

日本ではとくに「なにかをやりながら」ではなく、「ひとつのことを集中してやる」ことが美徳とされているようなところがある。

しかし私は、昔から「 ○ ○しながら」の「ながら」推進派だ。

ひとつのことをあまりに意識してしまうと、人間は本当の力が出なくなってしまう。

つまり、意識を一点に集中しすぎないようにするための「ながら」だ。

オリンピックなどでも、走る前に音楽を聴いている選手がいる。

あの行為も、ひとつの「ながら」だといえる。

音楽を聴くからよいのではなく、意識がレースから離れ、リラックスするからよいのだ。

これを音楽のおかげとする専門家もいるが、私は別に、音楽ではなくても、落語でも、漫才でも、リラックスできるもの、意識を分散できるものならなんでもよいと思う。

また、人が集中するとき、その集中の仕方を見ると、ちょっと踏み外した集中をしている人が多い。

一点にこだわるあまり、「おまえ、なんでこんな大切なことをやっていないの」ということになる。

そうなると相手は、「いやあ、僕、これに集中していました」というのだが、それこそまさに見当違いの集中なのだ。

「集中してひとつのものにぶつかりなさい」というだけで、その集中の仕方もろくに教えてくれないような指導者には注意が必要だ。

ダメな性格は直さず「緩和」する 癖は直すことができるが、こと性格となると、総じて直すことは難しい。

「神経質なところを直したいんです」と相談されることもあるが、直すのは難しいだろう。

では、性格を直せないのならどうすればよいのか? それには〝直す〟のではなく〝緩める〟という感覚を持つことが大切だと思う。

カゼを引くと咳が出る、鼻水も出る。

しかし、ずっと出ているわけではなく、少しずつ緩んでいく。

性格も、この感覚で少しずつ緩めていけばよいのだ。

性格を緩めるにはまず、その的となる性格を注視しなければならない。

注視している間は薬を与えているのと同じだから、その間は性格も緩まるだろう。

性格は持病のようなものだから、また出てきたり、悪化したりもするだろう。

だから、注視することをくり返しくり返し行い、気になる性格を少しずつ緩めていくしかない。

「神経質なところを直したい」と相談された場合、私は、私の神経質ではない生き方の話をするようにしている。

神経質な人から見たら信じられないような話を、私の過去の出来事から選び出して話して聞かせるのだ。

すると、「そんな生き方、やり方もあるのか!」と相手も気づき、理解する。

それが、その人にとって薬になる。

雀鬼会の道場生にも、極度に神経質な者が何名かいる。

中には、仮病が本当の病気になってしまう者までいる。

カゼがいつでも引ける。

カゼという病気を自分でつくり出してしまうのだ。

私は、そういう神経質さを抱えた道場生たちに対して、無神経な部分を見せたりすることがある。

使用期限切れの目薬を差したり、潔癖症の子には汗かきの子の顔を触らせたりする。

もちろんこれは、私と道場生の間に信頼関係があるから成り立つことだ。

汗かきの子の顔を触らせた潔癖症の子には、まず、私が最初に見本を示した。

私が汗かきの子の顔を両手で触り、「大丈夫だよ。

なんてことはないんだ」と教える。

その後、何度かそういうことをくり返しているが、潔癖症の子の過敏は徐々に薄まってきているように思う。

やはり性格は、一気に直すのではなく、少しずつ緩和していくことが大切なのだ。

過剰な恐怖感を抱いてしまう道場生には、「固くなる」ことを緩和するために、ボクシンググローブをはめた女の子に一分間殴られ続けるという遊びをさせたこともあった。

ほかの道場生であれば一分間なんとか持ちこたえるのだが、この恐怖感を抱く道場生は、鼻血は出るは、唇は切れるはのボコボコ状態。

過剰な恐怖感を抱くことによって、体は固くなり、パンチを避けるどころか、ガードをすることすらままならなかった。

すると、その道場生はその後、ほかのメンバーに「ガードの仕方を教えてください」というようになった。

ガードをすれば堪えられるということに気づいたわけだ。

だから私は、「ガードは固くなったらダメ。

柔らかくガードしないとパンチは流れないから」と教えてあげる。

神経質さは、心の固さから派生しているものが多い。

神経質な道場生たちは、きっと親や教師に「固い意志を持て」と育てられてきたのだろう。

たしかに、そのことによって得たものもあるに違いない。

それは否定しない。

しかし、「固い意志を持て」と植え付けられたことによって生じたもっと大きなマイナス要素があるのも事実なのだ。

縦・横関係の十字ラインを持つ「親子は、友達のような関係がよいのでしょうか? それとも親の威厳を示し、厳しく接するべきなのでしょうか?」 こんなことをたまに聞かれることがあるが、そういうとき、私は「両方でしょうね」と答える。

家庭だけでなく、今の世の中は、〝縦の線〟と〝横の線〟の両方を教えるべきだと常々感じている。

〝縦の線〟とは上下の関係、〝横の線〟とは仲間意識だ。

〝縦の線〟の一例として、私の家庭を例に挙げてみよう。

我が家の茶の間は、暗黙のうちに私の座る場所が決まっている。

主の座る場所であり、私が茶の間に入ったとき、たとえばそこに息子が座っていたとしても、私を見た瞬間にパッと席を移る。

家族みんなが、その席は私の席だとちゃんとわかっている。

また、部屋の中を歩いていても、息子は私の進路を優先する。

けっしてぶつかることはない。

それが〝縦の線〟である。

〝大黒柱〟という言葉があるように、家庭にも一本、縦の線がビシッと入っていなくてはならないと思う。

もちろん、〝横の線〟についても教えている。

〝縦の線〟だけで生活していると、信頼関係がなくなってくる。

〝横の線〟を入れることで、そこに信頼関係が生まれるのだ。

〝横の線〟が意味するのは、「みんなと同じだよ」「遠慮することはないよ」ということだ。

そして、〝横の線〟を教えるには、教えている側が自ら横にならなければならない。

上の立場の者が横にならないと、下の立場の人間は横にはなれないからだ。

私は、家庭でも道場でも、臨機応変に下へ降りたり、横になったりしている。

「ここは縦だぞ」「ここは横だぞ」と判断するには、センスも必要だ。

これは上下の立場に関係なくいえることだ。

私が「横になるぞ」といっているのに、「僕は嫌です」という者もたまにいる。

そういうときに拒否する者は、どこかで自分を計算したり、ずるかったりする。

今までの人生において〝縦の線〟だけ教えられてきた影響などもあるのだろう。

〝縦の線〟と〝横の線〟。

ふたつが交差して良好な人間関係が築かれる。

家庭でも、学校でも、会社でも、〝縦の線〟と〝横の線〟が交わった〝十字のライン〟が必要なのだ。

「しがらみ」は存在の空洞をつくる 私は、いわゆる〝業界〟というものが嫌で、なるべく距離を置くようにしている。

狭い世界での嫉みやひがみ。

誰かとつき合うと、あっちの誰かが文句をいったりする。

〝業界〟はしっかりと管理されていて、助かる場合もあるが、たいていは羽も満足に伸ばせず、窮屈なことこのうえない。

しかし、この世の中で生きていれば〝業界〟から距離を置くことはできても、人間同士の関係と無縁ではいられない。

よい人間関係もあれば、悪い人間関係もある。

世間では、悪い人間関係を〝しがらみ〟といったりもする。

だいたい、〝しがらみ〟という言葉の響きからしてよくない。

なにか絡みつくような感じがある。

しがらみに囚われている人は、その人全体を見たときにどこか窮屈さを感じる。

南洋の島の森などを訪ねると、一本の大木にツルがびっしりとまとわりついているのを見ることがある。

ツルにまとわりつかれた大木は、中身を全部吸い取られてしまい、中が空洞になっている。

私はその様子を見たときに、なぜか〝しがらみ〟という言葉を頭に思い浮かべた。

〝しがらみ〟に囚われた人間にも、私は同じような印象を受けるのだ。

〝しがらみ〟にすべてを吸い取られ、空洞化してしまっているような印象を。

〝しがらみ〟を背負っている人は、自分という存在がありながら、その内部をどんどん空洞化させている。

〝しがらみ〟とは吸血鬼のようなものなのだ。

私は、人間関係において〝しがらみ〟というものはあまり意識しない。

悪い人間関係でも、〝しがらみ〟という形では捉えない。

悪い関係の相手に出くわしたら、「囚われないように、囚われないように……」という意識を働かせている。

囚われてしまうから内部を吸い尽くされてしまうのであって、囚われなければなんてことはないのだ。

まわりの仲間を見渡してみると、中には「本当にどうしようもないな」と思う人もいる。

野球でたとえれば、打てば三振、守ればエラーというタイプだ。

しかし私は、そういう人との関係を〝しがらみ〟とは捉えない。

チームメートがダメなのは最初からわかっている。

だったら自分が投げて、打って、守ればいいのだ。

チームメートが三振しようが、エラーをしようが、自分の生きざまは変えない。

絶対に譲らない。

ツルにまとわりつかれても、内部を吸い尽くされることなく、うまくやっていくにはそういう意識を持てばよいのだ。

自分自身を救う方法 真綿でじわじわと首を絞め上げられているような、そんな息苦しい現代社会の中で、人々は〝救い〟を求めている。

そういう人が確実に増えている。

得体の知れない新興宗教のようなものにはまってしまうのもそのことの表れだ。

しかし、人は誰しも、自力で自分を救うことができる。

たとえば自分の大切な子どもを、大事に大事に育てていく。

そういう気持ちを持つこと、〝大切にする〟ということをずっと続けていれば、その間、人間は救われると思う。

「じゃあ、子どものいない人間はどうすればいいんだ?」という人もいるかもしれない。

でも、そういう人にも〝大切にする〟ものがきっとなにかあるはずなのだ。

仕事であったり、友達や仲間であったり。

ただ、救われるには素直な気持ちで、自然体でいろんなものごとに取り組む必要がある。

仕事にしても、そこに邪心や打算など余計なものが入ってくるから、ほとんどの人が救われなくなるのだ。

巨万の富を築いたビル・ゲイツも、結局自分が救われていないことに気づいたのだろう。

彼は今、ビジネスの第一線を退き、慈善団体の活動に身を捧げている。

発展途上国の子どもたちへの支援なども行っているようだが、じつは彼は、この活動の中で子どもたちを救っているのではなく、自分を救っているのだ。

ボランティアは、そういう意味では、自分を救うためにやっているようなところがある。

「人のために生きる」ということは、自己満足とけっして無縁ではない。

これは、私も含めてすべての人にいえることだ。

「いや、俺、人のために生きているんだよ」という言い方をしていては、絶対に救われない。

どこかで自虐的に「自己満足かもしれない」といっていたほうが、救われる。

もはや生活の一部になっている雀鬼会での活動に対して、私が「いや、そんなことない。

自己満足じゃない。

本当におまえらのためにやっているんだ」といい切っていたら、たぶん私は救われないだろう。

勝ったら、譲る 現代社会は「格差社会」などと呼ばれている。

その中で、裕福な層は〝勝ち組〟などと呼ばれているようだ。

〝勝ち組〟の人たちは、きっとビジネスで大成功を収めたのだろう。

しかし、この〝勝ち組〟は、ビジネス以外の部分ではたいそう〝欠けている〟人が多い。

商売、企業、政治など、仕事で大成するには、正義感があったらまず無理だ。

本当の正義感だけを追っていたら、大成などできっこないのだ。

日本にも、世界に名を馳せる経営者が数多く存在する。

しかし、その誰もが正義感をどこかで売っている。

本当の正義感をどこかで振り払わなければ、彼らの存在はあり得なかっただろう。

正義感だけで上まで上り詰めた人というのは、ほぼ皆無だ。

稀にはいるかもしれないが、ほぼいないといってよい。

彼らは、社会で揉まれているうちに子どもの頃に持っていた正義感というものを消失してしまった。

そして、仕事の中で利益を生み出し大成していったのだ。

それが〝大人である〟と大人の言い訳をしながら……。

子どもには正義感を出しなさい、と教える大人の中に、はたしてどれだけ本当の正義感を出し続けている人がいるだろうか。

会社であろうが、なにかの集団であろうが、人は上に立つと譲らなくなる。

逆にいうと、上に立つ人は譲らなくて済むから上に立ちたくなる。

上に近づけば近づくほど、社会的な地位や名誉、あるいは金銭などいろいろなものが増えてくる。

そうなると割り込まれることも必然的に増えてくる。

それを極力押さえたいがために、人はさらに上を目指すのだろう。

割り込まれても譲らなくて済む高みを目指して。

しかし、人間はいつも自分のことだけを考えているわけにいかない。

とくに上に立つ人間は、まわりの人間のことも考えなければならない。

自分の仕事だけやりやすくなってもしようがないのだ。

集団としてやっていくには、まわりの人間の仕事もやりやすくしてやらなければならない。

そう思えば、そこに譲ってあげる気持ちが出てくる。

私は、まわりから見たら譲らなくていい立場の人間なのかもしれないが、その場を少しでも楽しく、仕事をやりやすくしたいから常に譲る気持ちを持って生きている。

上に立つ人間にこそ、譲りの精神がなければならないと思う。

これは、謙虚さを売れということではない。

譲るところは譲ってやる。

上に立つ人間は、それをごく自然にできるようにしないといけない。

私が人間関係を柔軟かつ良好に保ってきたのは、この〝譲り〟の精神があったからにほかならない。

リーダーとしての間合いの取り方 私は、雀鬼会という麻雀道場を主宰している。

そこでの私の立場は〝会長〟。

だから、どこへ行っても「会長」と呼ばれることが多い。

だが、「会長」だからといって権威を振りかざしたり、その立場に胡座をかいたりすることはない。

仲間たちとコミュニケーションを取るときでも、まわりに合わせてぐっと自分を下げることもある。

そうすると「え、会長、立場があるでしょう?」といわれるのだが、私は「そんな立場はいらない」と思っている。

そんなことはどうでもいいのだ。

リーダーとしての立場というのは、もっと違うところにある。

リーダーとしての立場。

それはたとえるなら、海に行ったときに岩の上から潮の流れを見て、危険な場所を仲間に知らせるというようなことだ。

環境、状況を見て判断を下し、それを仲間に知らせる。

それがリーダーとしての立場であって、地位とか権力とかそんなものではないのだ。

リーダーは、リーダーとしての立ち位置を常に考えておく必要がある。

あの人の場合はどこに立ってやったらよいのか、この人を最良の状態にするにはどこに立ってあげたらいいのか、間合いを計り、加減を見ながら、臨機応変に立ち位置を変えていくのだ。

ちなみにここでいう〝立ち位置〟とは、物理的・心理的両面での位置を指す。

物理的には、実際に道場の中で私がどの場所にいるか、対戦を行っている麻雀卓をどの場所から見るのか、そういったことが含まれているし、心理的には相手との心の距離感、間合いを意味する。

立ち位置を決めるときは、その場や相手の明るさ、陰りなども感じなければならない。

どこに陽差しがあって、どこが陰っているのか。

常に最善を考えながら仲間を導いてやるのがリーダーの立場というものなのだ。

さらに、集団のリーダーには、統率力や判断力、責任感といったさまざまな力が要求される。

個性や考えの異なる人たちを引っ張っていかなければならないわけだから、ある程度の強引さも必要だろう。

しかし、この強引さのさじ加減がちょっと難しい。

強引に引っ張っていったことが成功に繫がるなら問題はない。

でも、強引にやったことが失敗に終わるということだって十分あり得るからだ。

私は、リーダーの強引さを非難するつもりは毛頭ない。

強引にやったことで集団がよい方向に導かれるのならば大いにけっこう。

ただし、強引さを用いて悪いことが起きた場合、その影響力は強引にやった分だけ広範囲に及ぶということだけは知っておいてほしい。

つまり、強引に引っ張っていくには、リーダーとしてそれなりの注意や覚悟が必要だということだ。

確固たる自信も欠かせない要素だ。

この強引さのさじ加減はやってみないと覚えられない。

頭の中のシミュレーションだけで学ぶことはできないのだ。

ただ強引なだけでは、リーダーシップをとることはできない。

みんなで相談して決める、みんなに任せる、そういったいくつものバリエーションも持っていないといけない。

〝個〟で引っ張った後は〝全体〟の力に委ねる。

〝全体〟に委ねた後は、再び〝個〟の力で引っ張る。

そういう「相反するもの」を使い分けられるのが、本当のリーダーシップなのではないだろうか。

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