MENU

第三章 人間としての「幸せ」の構造

第三章 人間としての「幸せ」の構造

●目先の損得にとらわれるな ●気持ちのいい生き方をしているか ●どんなに優れた人でも苦労や困難が伴う ●「お金持ちは幸せになる」は幻想 ●「足るを知る者は富む」の本当の意味 ●本心から自分が望むことをすれば、人と比べなくなる ●人に期待をするほど生きづらくなる ●人間には「人を喜ばせたい」という本能がある ●私利私欲に走りすぎる人の末路

目先の損得にとらわれるな「損か得か?」という判断は、人が行動する際の重要な基準になります。

こと経済至上主義の世に生きる現代人にとって、自分が関わることが損か得かということは非常に気になる事柄だと思います。

しかし、何が損で何が得かという結論は、目先の計算だけではわからないことも多い。

「損して得とれ」というように、一見損な行動が回り回って得であることもままあります。

目先の小さな損得にいつもとらわれて行動するような人は往々にして、無意識のうちに大きな損をしていたりするものです。

たとえば部下や同僚と一緒に食事に行った際、一切おごることをせず、周りからひどいケチという評価をされている上司がいたとすると、その上司はそれだけで人望をなくすことになりかねません。

人望がなければ部下は上司に積極的に協力しようとはしませんし、上司のために頑張って成果を上げようというモチベーションにもつながらないでしょう。

上司は毎回節約できて得したと思っているかもしれませんが、見えないところで大きな損をしているわけです。

何か問題が起こったときに部下に責任をかぶせる言動をとりがちな上司は、自分の評価が下がるという損を回避しようと思って、そういう行動をとっています。

けれども部下をはじめとする職場の人間から見れば、上司のその行動はもっと大きな人間的なマイナス評価につながる結果を招いてしまうかもしれません。

この上司もまた自分の目先の得を考えるあまり、取り返しのつかない損をしています。

そんな上司とは対照的に、自分を犠牲にしてでも人のためによく動くタイプの人がいます。

こういう人は進んで自分の得を捨てているのでしょうか。

それは違うと思います。

たとえば、アメリカの企業経営者は会社の経営が傾いているとき、自分の年間報酬を 1ドルにするというケースがけっこうあります。

かのスティーブ・ジョブズもそういう時期がありました。

かくいう私も役員報酬をゼロにしたことがありました。

このようなとき経営者は、会社を立て直すことに全エネルギーを集中しています。

自分の報酬をなくしてまで会社に奉仕する姿は、従業員全員のために自分が犠牲になっているかのように傍には映ります。

しかし、将来において会社が立ち直ることは、経営者自身にとっても大きなプラスとなるわけですから、この無報酬ということは損する一方の自己犠牲とはいえません。

無報酬という一時の損よりも、もっと大きな無形の得を意識しているかもしれません。

もちろん自己犠牲的な行為のなかには純粋なものもあります。

電車が迫っているときに踏み切りで立ち往生してしまった老人を命がけで咄嗟に助けたりするような行為は、人間だけが持っている損得を超越したヒューマニズムといえます。

何も立派な人だと思われたくてするわけではないのですから、これ以上に無私な行為はないでしょう。

気持ちのいい生き方をしているか ではボランティアはどうでしょうか。

ボランティアは自己犠牲の精神に彩られていますが、それは純粋に相手のためだけの行動ではないと思います。

相手が喜ぶことが嬉しいという自己満足的な気持ちがあったり、自分が社会に必要な存在であるという納得感を得たりと、ボランティアに携わる人にとっても無形のプラスの行為なのです。

金銭的に得か損かという数字の計算がない分、ボランティアにはとても人間らしいものがあります。

金銭の損得の計算ばかりの人生は干からびて面白さも味わいも何もないものになりがちです。

そんな生き方は、いくらお金の面で得をしても心貧しいものです。

損得勘定ばかりの生き方から離れるためには、楽しいかつまらないか、面白いか面白くないか、あるいは気持ちがいいかそうでないかという選択肢をたくさん自分のなかに取り入れることです。

楽しいかつまらないか、気持ちがいいかよくないかといった価値観で行動を起こすようにすれば、損得勘定だけの窮屈な人生からは解放され、心豊かな日々を過ごせます。

本当に楽しく生きているな、面白い人生を送っているなと感じる人は、お金がなくても憧れの目で見られます。

実に気持ちのいい生き方をしているなと思う人は、見ていて清々しくなります。

それは楽しく面白く、そして気持ちよく生きられる人こそ、最終的には、もっとも「心豊かな人生」だからではないでしょうか。

どんなに優れた人でも苦労や困難が伴う 何をもって幸福と感じるかは人それぞれですが、幸福の尺度には他人がどう思おうと自分はこれを信じているという絶対的なモノサシと、他人との比較において自分はあの人と比べていい悪いといった相対的なモノサシがあります。

どちらかというと、絶対的なモノサシより相対的なモノサシで幸福をとらえる人のほうが多いのではないでしょうか。

絶対的なモノサシで心から幸せと思える人は、貧しいとか、家族がいなくて孤独だとか、病気や障害を抱えているとか、世間の価値基準からすると恵まれていないように思われる環境にあっても、自分は幸せと信じられます。

一方、相対的な幸福感といったものは、他人と比べて優越感を覚えたり、劣等感を抱いたりと、常に相対的な他人との比較のなかで感じているはずです。

しかし、相対的に勝っているとか劣っているといったことはかなり表面的なことで、外側と内側ではまったく違うこともままあります。

たとえば、傍からは順風満帆に見える人でも、いろいろな挫折や失敗が過去にあったり、人にはいえない苦労や不幸を抱えていたりします。

私は最初から最後まで順風満帆な人生など、ありえないと思っています。

生きることは基本的に困難や苦労がつきまとうものであり、そこから免れることは、どれほど優れた人であろうと不可能だからです。

仏教には、生老病死という大きな苦しみに加え、愛別離苦(愛する人やものとの別れ)、怨憎会苦(会いたくない人やものに会う)、求不得苦(欲しいものが手に入らない)、五陰盛苦(肉体があるゆえの苦しみ)の4つの苦しみを加えた四苦八苦が、生きることにまつわる苦しみであると説いた真理があります。

この8つの苦のうち、2つの苦しかないとか、5つの苦しかないというような人はいません。

いかなる人も、四苦八苦の原則から外れることは不可能です。

「あなたはいつも悩み事がないように見えますね」とよくいわれますが、滅相もないことです。

私だっていろいろな問題に直面しているときは、こんな人間社会を飛び出して、どこかで一人暮らしでもしてみたいと、ふと思ったりすることもあります。

しかし、生来負けん気が強いせいか、しんどいことや面倒なことに出くわしても、「なにくそ、負けてたまるか」と思って、いつも凌いでいるのです。

人からどう思われようと、最終的には自分との闘いに勝つことが大切であり、悔いを持って人生を終わらせたくない気持ちが人一倍強いのかもしれません。

「お金持ちは幸せになる」は幻想 現代人が相対的な幸福の尺度としてよく使うのは、やはりお金でしょう。

お金がない人がお金持ちの人を見ると、自分は恵まれていないとつい感じてしまう。

I Tベンチャーの若手経営者が贅沢三昧の暮らしをマスコミに喋っていたりすると「羨ましいな」と思い、逮捕されたカルロス・ゴーン氏が庶民からすればとてつもない額の報酬を得ていたなどと知ると、妬みが混じった怒りのような感情が湧いてくる。

では、お金持ちというのはお金の量に比例して幸せかというと、けっしてそうではないようです。

現実は往々にして違うものです。

ノーベル経済学賞を受賞した米国プリンストン大学のダニエル・カーネマン教授の研究によれば、年収 7万 5000ドルまでは感情的幸福が収入に比例して増えるものの、それを超すと幸福感は頭打ちになるそうです。

7万 5000ドルという金額は日本でいうと、物価や為替などを考慮すれば約 800万円といったところでしょうか。

なぜ年収 800万円を超えると、感情的幸福がさほど大きくならなくなるのでしょうか。

いくつかの理由が考えられます。

経済的な厳しさから生活のことを常に考えなくてはならないレベルの収入であれば、幸福度はおそらく低いでしょう。

どうやって食べていこうか。

家族をちゃんと養い、子どもにもしかるべき教育を受けさせることができるのだろうか。

などなど、いつもお金のことを心配しなくてはいけない状況にあれば、必然的に不幸な気持ちが芽生えてくるかもしれません。

年収が 800万円を超してくれば、そんな煩しさが減ってくるということなのでしょう。

もう一つの理由としては、 800万円を超してくれば、将来への安心感は別として、お金によって得られる生活の喜びが小さくなるからだと思います。

800万円より年収が下のときは、それが上がっていくにつれ感情的幸福は増します。

欲しかったものが買えた。

お金に余裕ができて年に何度か家族旅行が実現した。

そんな喜びを味わう機会が、年収が上がるのに比例して増えていくわけです。

ところが、喜びを与えてくれる体験や消費であっても、収入が増えることで何度も経験できるようになると、満足度は下がっていくものです。

これはよくたとえられる例ですが、ビールは 1杯目がもっとも美味しくて、 2杯目、 3杯目と進むにしたがって美味しさが減るという「限界効用逓減の法則」です。

大阪大学の行動経済学の研究グループも幸福度と収入の関連を調べていて、それによると幸福度の相関曲線は年収 500万円が分岐点になるそうです。

500万円までは相関曲線のカーブは鋭角的に上昇しますが、それを超すとぐんと緩やかになり、年収が 1500万円を超すと今度は逆に下がっていくということが報告されています。

ここで興味深いのは、年収が 1500万円を超すと、幸福度がむしろ下がってくることです。

それは収入が多いこと自体が、心配の種になるからだと思います。

つまり、お金やものをたくさん持っていると、今度はその生活水準を保ちたい、そこからレベルが下がるのが怖いという不安感情を持ち始めるのです。

脳科学では、人は一度手にしたものを失うことに本能的に強い苦痛を感じるそうですが、そのこともまたお金の不安感情の背景になりそうです。

また収入を増やすには仕事をそれだけ一生懸命にしなければなりませんが、その分、家族サービスや健康、趣味の時間や自由といったものが犠牲になります。

仕事によって得る報酬と犠牲になるもののバランスが悪ければ、これだけ稼いでいるのに割に合わないという気持ちになります。

そうなると、たとえ年収が多くとも幸福度は下がるわけです。

年収の多寡が幸福度と比例しないというこれらの研究報告を見ると、お金持ちは羨ましいと思うことには錯覚があるように思われます。

お金持ちなりの苦労を見ずして、お金という結果だけを見るからそうなってしまうわけです。

世界で 1、 2位を争う資産家、マイクロソフトのビル・ゲイツやアマゾン CEOのジェフ・ベゾスと、いまだ文明社会との接触を拒んでいるアマゾン奥地の先住民族の人たちの幸福度を比べたら、果たしてどちらが上かわかりません。

お金がありすぎることからくる苦労をたくさん抱えているであろうアメリカの大富豪よりも、アマゾンの先住民族のほうがおそらく幸福度は高いのではないかと私は思います。

人はつい他人と自分を比べて、恵まれているとか不幸だとか思いがちですが、多くの場合、視界に入ってくるある部分だけを切り取ってそう判断しているわけです。

ですから、こうした相対的な比較からくる幸福度の強弱ほど、当てにならないものはないのです。

「足るを知る者は富む」の本当の意味 貪欲に己の利得ばかり追い求めてやまない現代人を戒めるものに、老子がいったとされる「足るを知る」という言葉がしばしば取りあげられます。

人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり。

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。

足るを知る者は富む、強めて行う者は志有り。

「足るを知る者は富む」という意味合いで、それを平たく解釈して「身分相応に生きろ」といったニュアンスで使われることが多いようです。

しかし、老子はもっと深い意味でいっていると思います。

「人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり。

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し」は、人を知る者は知恵があるが、自分を知る者はもっと聡明である。

人に勝つ者は力があるが、自分に勝つ者は真に強い、というふうに読めます。

その上で「足るを知る者は富む、強めて行う者は志有り」という言葉があるわけです。

すなわち足るを知り、志を持ったよい生き方ができるには、己をよく知り、己に勝たなくてはいけない、ということです。

ですから、自分のことを知らず、己に勝つ強さもない人に、いきなり「分相応に生きろ」といったところで、それは不可能な話なのです。

自分は本当のところ何を望み、何を求めているのか? どういう状態であれば、心は本当に満たされるのか。

などなど、自分をよく知らなくては「足るを知る」ことなどできないわけです。

本心から自分が望むことをすれば、人と比べなくなる 人はつい他人と比べてものごとを判断したり、欲望を方向づけしたりします。

あんな贅沢がしたいとか、あんなふうに人から賞賛されたいとか、財産や地位といった目に入るものに基準を求めてしまう。

しかし、それではいつまでたっても、「足るを知る」ことはできません。

「足るを知る者は富む」になるには、有形ではなく無形のものに目を向ける必要があります。

他人と比べることで優劣を感じるのではなく、本心から自分が望むこと、やりたいことを見つめるのです。

そうすれば、人と比べることは自然となくなります。

そして心の内側にあるものをさらに突き詰めれば、自分がいまここにいるという源にあるもの、すなわち生命というものにいきあたります。

生きていること自体がどれだけ有り難いことか、われわれはそのことになかなか気づきません。

ふだん、食事をしたり、仕事をしたりすることは当たり前のことのように思っていますが、それは命があるからこそできるわけです。

生きていなければ何もできない。

たとえば、手の骨を折って手が使えなくなれば、ふだん意識もせずに使っていた手の機能がどれだけ有り難いものかを感じます。

病気になって長い間寝たきりの状態になれば、普通に体を動かして生活することが、どれほど有り難いかがわかります。

ですから、この世に生を享け、存在しているということは、それ自体とても有り難いことだと知ることです。

毎日食事をしたり、家族や友人とお喋りをするといった当たり前の日常生活が送れることは、宇宙や地球の長い時間と歴史を考えれば、実は奇跡のようなことなのかもしれません。

足りないものを数えるのではなく、すでにあるものを再発見して深く感じ、味わう。

そんな視点から自分をいま一度見つめ直す。

そうしたことの積み重ねにより、少しでも「足るを知る者は富む」の心境に近づけるのではないでしょうか。

人に期待をするほど生きづらくなる 先進諸国や日本はかつてないほど物質的に豊かな社会を実現してきました。

そこそこのお金さえあれば、欲しいものはたいがい手に入るし、その気になれば快適な生活を送ることもできる。

しかし、その一方で心が常に満たされないという生きづらさを訴える人も増えています。

そんな生きづらさに拍車をかけているのが、「期待の心理」です。

期待というのは平たくいえば、人に絶えず何かを依存し、期待する気持ちです。

自分が人に何かをしたり与えたりするのではなく、人に依存し、甘える方向に気持ちがいく。

そんな人がいま、とても多くなってきている気がします。

人への期待が大きければ大きいほど、必然的に不満は膨らみます。

そもそも自分でさえはっきりしていないことが多いのに、期待通りに人が動いてくれることは、まずありません。

上司が動いてくれない。

部下が思うような結果を出さない。

奥さんが同じ料理しかつくらない。

親は叱ってばかりで褒めてくれないなどと不満を募らせる前に、自分は何を目標にしているのか。

誰に、社会に、何を期待しているのか。

少しははっきりしておくことが第一です。

自分のことはまず自分で行う。

人に依存しないことが第一です。

目標や期待は常に裏切られるものでもあるからです。

勝手に期待して相手がその通りにやってくれないと、喧嘩の原因にもなったりもします。

夫婦喧嘩なんかはたいがい、相手にこういうことをしてほしいと望んでいるのに、そうならないという期待外れから起こることが多いようです。

私は人にあれこれ依存しないようにしているので、取り立てて不満を持つことは少ないのですが、相手はたまに私に不満があるように感じ取れることがあります。

でもそういうときは、内心うるさいなと思いながら、反論しても仕方ないので「ふんふん」と頷きながら、とりあえず聞くことにしています。

そうやって流すような気持ちを持つことも、ちょっとした生活の知恵というものでしょう。

自分自身に対してだけでなく、他人にも期待はあまりしすぎないほうがいいとはいっても、ある程度期待を求めるのは自然なことだし、それがいい結果をもたらすこともよくあります。

部下がいい仕事をしたら、上司は「こいつ、やるな」と思って期待をしますが、その期待が部下のモチベーションを上げることもあります。

このように期待がいい循環を生むように工夫をすることは大事です。

過度な期待は禁物ですが、程よい期待をかけることがいいキャッチボールになる可能性があるなら、そのことを相手にさらっと伝えてもいいのです。

ただ、その期待が、過剰にならないようにすることです。

期待したら、あとはそのことを忘れる。

そんな感覚を持つのもいいでしょう。

また、相手に何かを望むのであれば、その前に自分でできることはないか確認することも大切です。

もしできることがあるなら、可能な限り自分でやるようにすることです。

そんな努力もせずに相手に期待すれば、それはただの依存になってしまう。

その結果、自分の思い通りにいかないと、何でも人のせいにする人が増えていきます。

とくに一人っ子の多い世代になってから、その傾向は強いように見受けられます。

実力を発揮できないのは会社が悪い。

上司が協力してくれないからプロジェクトがスムーズに進まない。

悪いのは会社だ、上司だ、部下だ。

そんな考え方をする人は「くれない症候群」と呼ばれています。

うまくいかない原因が周りにあるというのは、自分に対する言い訳だと思ったほうがいい。

思うような結果が出なかったのは自分に原因があるのでは、と謙虚に自問しなくては、人間は成長できません。

他人ではなく、まずは自分を変えていく。

「くれない症候群」から抜け出すには、そんな心がけが必要です。

人間には「人を喜ばせたい」という本能がある いつも期待ばかりしている人は依存心が強いわけですから、自分で人生を切り開くことで摑む幸せとは無縁です。

もし期待や依存の生き方をやめようと思うなら、まずは自らできる努力を精一杯することです。

それと同時に大切なのは、人から何かをもらうこと( take)より、与えること( give)を心がける生き方を選ぶことです。

相手が喜ぶ顔を見たい。

家族が喜ぶ顔を見たい。

多少しんどくても自分が何かをすることで周囲の人が喜んだり、幸せになるなら、それをやった当人にとっても、非常に幸せなことです。

人間は本来、他の人を思いやったり、相手のために何かをしてあげることに喜びを感じるという、貴重な感情を誰もが同じように持っているはずです。

チンパンジーやゴリラにも仲間のためにそのような行動をとることはあるのかもしれませんが、何千キロと離れたところに暮らしている見ず知らずの他人に共感したり、その人のために自己犠牲的なことを行うなどといったことは、人間にしかできないことです。

人を助けたり、誰かのために何かをしたときに喜びを感じるのは、助け合わないと生きていけない生物であるゆえ、おそらく本能のようなものとしてプログラムされているのだと思います。

心理学の専門家などによると、人は 2種類の目標を持つとよいといいます。

一つはこういうことを実現したいという「 become」の目標。

もう一つはこういう人間になりたいという「 being」の目標です。

「become」の目標は学生であれば試験の点数、ビジネスマンであれば売り上げや利益の数字、アスリートであれば記録といったものになります。

しかし、「 become」の目標だけを持ってやっている人はその目標を達成しても、その後が続かないそうです。

自分は人としてこういう存在になりたい、こういう生き方をしたいという「 being」の目標を同時に持っている人は、「 become」だけの目標で進む人と比べて、伸びしろがまったく違ってくる。

「become」の目標だけであれば自分のことにしか目が行きませんが、「 being」の目標を持つと、自分が社会のなかでどのような存在でいたいかという、一段上の次元にベクトルが向かいます。

ですから「 being」の目標を突き詰めていけば、人や社会のためにどう自分が役に立つかという思いや発想が自然と湧いてくるのです。

このような話をすると、では社会や周囲のために自分を生かすことのできない立場にいる人はどうすればいいのか? と思われる方もいるかもしれません。

たとえば介護を受けている老人であれば、人からしてもらうばかりで自分からは何もできないではないかと寂しく残念に思うこともあるでしょう。

しかし、そんなことはありません。

介護を受けている老人は、介護をしてくれる相手に「ありがとう」という言葉を贈ることができます。

「ありがとう」は相手の存在に対する感謝であり、その人を生かす最高のものではないでしょうか。

ですから、体を動かして人のために何かができなくても、「ありがとう」の言葉があれば、それだけで相手に大切なものを与えることができるのだと思います。

私利私欲に走りすぎる人の末路 カルロス・ゴーン氏は私利私欲に走りすぎてしまったようですが、十分にお金を持っているのに「もっと、もっと」と際限なく多くのものを望む欲望のあり方は、ゴーン氏に限った話ではありません。

一方で、お金至上主義を極めて本当に幸せになった人はどれほどいるのでしょうか。

拝金主義が行き過ぎた感のあるこの商業資本主義社会においては、こうした欲望は、それこそスケールの差こそあれ、きっと無数にあるのでしょう。

資本主義社会は構造的に利益をあげることを目標とする社会ですから、貪欲に自分の利得を追い求めるタイプの人が大量に生まれるのは必然のことです。

しかし、こんな風潮のなかで生きていると、損得の計算という間尺ばかりに振り回され、人間としての心そのものを失っていきます。

自分が努力して手にしたお金やモノは手放したくない。

それらを得る過程ではさまざまなことを犠牲にし、苦労もしたわけだから、得たものを人に譲ったり、与えたりすることなど考えもつかない。

自分の得ばかり求め続ける人は、そんなふうに感じているのでしょう。

人に与えることや譲ることをしない私利私欲型のタイプが増えれば、どうしても社会はギスギスした心貧しい空気に覆われてしまいます。

ところが田舎などに行くと、いまだに交換経済で支えられているような地域がたくさんあります。

小さな島では漁師と農民がそれぞれ獲った魚と野菜を交換し合ったり、収獲の多い漁師が少なかった漁師に自分のものを分け与えたり、といった原初の互恵型社会の感覚が根づいているところが多々あります。

それは人と人との関係が密な共同社会だからこそ可能なものだともいえます。

しかし都会の生活においては、過干渉やお節介は余計なお世話だという声も少なくありません。

しかし、人間は社会的動物であり、お互いが無視することなく挨拶を交わし、交流をしたがるものです。

都会の生活でも周囲と丁寧に付き合おうと思えば、与えたり譲ったりといった気持ちや行為はおのずと生まれてくるのではないでしょうか。

自分のことばかり考えずに、関わりのある人にだけでも目を配り、心を配る。

ときには田舎から箱詰めのリンゴが届けば、近所におすそ分けする。

仕事で帰りの遅い母親の子どもを預かって食事をつくってあげる。

隣に暮らす一人暮らしの老人に声かけをし、生活の不便があれば手伝ってあげる。

そんな迷惑にならない程度の何気ない心を配る行為があるだけでも、生活の風通しはよくなります。

与えるとか譲るといった行為は見返りを求めてするものではありませんが、そういうことを常にしていると、人間関係において自然といい循環が生まれてくるのを感じます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次