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第三章行為と人格

目次

Ⅰ問題

1「人格」という言葉の日常的理解はかなり標準化されており、ある程度の普遍性と恒常性をそなえている。

その中核にあるのは単なる「もの」として使用、操作あるいは処理することを許さない価値を含む「ひと」(persona)であるという理解である(1)。

そしてこの「ひと」はたんに外からの働きかけを受け取る「対象」ではなく、自分が何らかの働きの始源であるような能動的「主体」であり(2)、そのような主体であるかぎり自分以外のいかなるものによっても置きかえられることのできない存在であることが理解される(3)。

さらに、「人格」という言葉の日常的理解は、「わたし」という人称代名詞によって表現される自己意識(4)、人格が主体として行為することを可能にする自由選択・自己決定ないし自己支配の能力、といった要素をその構成内容としてふくんでいる(5)。

そして、そのような日常的理解は、人格とは自らの行為について責任を問われ、権利や義務が帰属させられる主体である、という言葉で表現されるのが普通である(6)。

2しかし、何らかの問題をきっかけに(7)、このような「人格」についての日常的理解を超えて、より厳密な「人格」概念を確立する必要が生じ、あらためて「人格とは何であるのか」と問うとき、われわれは困難な、ほとんど解き難く見える問題に直面する。

そもそも「人格」は他の何ものによっても置きかえることのできない「この」独自の存在を名づけたものであってみれば、「何であるか」と問うこと自体が問題となる(8)。

「何であるか」と問われるのは、何らかの普遍性をそなえた本質あるいは本性であり、「人格」は何らかの本性(たとえば人間本性)を有するにしても、それと人格そのものとは明確に区別しなければならないからである(9)。

また「人格」の日常的理解に含まれている、それを単なる「もの」から区別する「価値」についても困難な問題がある。

「人格」はかけがえのない存在であり、侵すことの許されない価値──尊厳──を有することが強調されるが、この価値は理論的にどのように説明され、基礎づけられるのか(10)。

人格は目的それ自体であり、絶対的価値を有すると主張し、「人格主義」の立場を確立したとされるカントも(理論理性によって遂行される形而上学的探究を断念したことからの当然の帰結として)人格の絶対的価値・尊厳を理論的に基礎づけてはいない。

カントが提示している人格の価値の基礎づけは、このような絶対的価値を有する人格の存在を認めることなしには道徳の全体が存在の根拠を喪失する、という道徳的信念の告白にとどまるのである(11)。

3たしかに「人格」をめぐる日常的理解を超えて、「人格」と呼ばれる存在ないし実在に近づき、理論的な「人格」理解に到達することは困難である。

安易な解決にまどわされないためには問題の困難さを正確に捉えることが必要であろう。

「人格」と呼ばれる存在を明確に理解することが困難なのは、それが本質的に感覚的、物質的な存在の領域を超える、精神(霊)の領域に属するからである(12)。

もちろんわれわれ人間が「人格」であると言うときの「人間的ペルソナ」は精神と身体との複合体である(13)。

しかし本来的に「ペルソナ」であるのは神(14)、天使、(人間)霊魂などの精神的存在であり、したがって「人格」について理論的に考察するに当たってわれわれが身を置かなければならないのは、感覚的、物質的な事物からなる自然的(物理的)世界ではなく、むしろ無限なる精神的存在である神を頂点とする多様な段階の精神的存在の世界に他ならない(15)。

ところが、われわれ人間の認識能力──いわば知的な視力──に釣り合った認識対象は、感覚によって捉えられる物質的な事物の本質ないし本性であって、知性のみによって捉えられるべきより完全な存在、すなわち精神的な存在ではない(16)。

この単純で決定的な理由によって、人格についての理論的考察はわれわれにとって極めて困難なものとならざるをえないのである(17)。

4あまりに単純明白であるために通常ほとんど無視されている、われわれ人間による「人格」認識の道にたちはだかる困難を確認した上で、厳密な「人格」概念の確立をめざすわれわれが取り組むべき課題に目を向けることにしたい。

まず、「人格」の概念は「三位一体」「托身」というキリスト教信仰の中心的神秘を探究する神学の長い歴史のなかで形成され、仕上げられてきたものであり(18)、この知的遺産をいかに継承するか、というところからわれわれの問題は始まると言える(19)。

ところで、神学の歴史のなかで形成されてきた「ペルソナ」の概念は、神的啓示によることなしにはまったく知りえない神的ペルソナについての考察、および人間知性によっても認識可能であるが、現実に啓示信仰に導かれて進められた人間的ペルソナについての考察にもとづくものである(20)。

したがって、(神学との結びつきを排除するのではないが)原則的に哲学的な視点からこの後の考察を行おうとしているわれわれは、「人格」の概念にかかわるこの知的遺産を受容するにあたって、まず哲学的探究によって到達可能な洞察を、啓示信仰によってのみ到達可能であるような洞察から区別しなければならない。

5この区別をどのような仕方で行えば、神学の歴史のなかで形成されてきた「人格」概念から、われわれの哲学的な考察に寄与しうるような「人格」に関する哲学的洞察を豊かにくみとることができるか(21)。

これが次の問題であるが、私の考えでは次の方法がそのための最善の方法であると思う。

それは、われわれがすべての人にたいして開かれた経験から出発して「人格」と呼ばれる存在ないし実在についての厳密な知的理解への道を探究する、という方法である。

それは「人格」概念への経験的アプローチであり、「人格」概念の経験的基礎をあきらかにしようとする試みにほかならない。

経験から出発して、すべての恣意や予見を排除し、ひたすら経験が指し示す実在を浮かび上がらせようとする試みを「現象学」と呼ぶことが許されるならば、ここでの試みを「人格の現象学」と呼ぶことができるであろう(22)。

この方法が最善であるのは、神学の歴史のなかで行われてきた「人格」概念の形成をさらに進展させ、また補完するような仕方で、そこにふくまれている「人格」についての哲学的洞察を浮かび上がらせることができるからである。

「人格」概念の明確化をめざす神学的考察においても、様々の仕方でこの概念の経験的基礎をあきらかにしようとする試みは為されていた(23)。

しかし、神学的関心が主要的であったことのゆえに、こうした試みが主題的ないし体系的に遂行されることはなかった。

したがって、われわれは神学の歴史のなかで推進された「人格」概念の探究を視野に入れつつ「人格」概念の経験的基礎を主題的・体系的に考察することによって、神学的な「人格」理解のうちにふくまれている経験的側面──「人格」についての哲学的洞察──に光をあてることができるのである。

6本論に入る前に、経験から出発して「人格」についての厳密な知的認識への到達をめざす試み──それは「自己(わたし)認識」の試みである──が予想しなければならない二つの異論にふれておこう。

その一つはヒュームが『人性論』のなかで、われわれが通常「自己」(self)と呼んでいるもの(それを「霊魂」「精神」と言いかえても同じことであるが)の存

は、経験的にはけっして確認されない、と主張している議論である。

わたしのことを言えば、わたしが「わたし自身」とわたしが呼んでいるもののうちにもっとも親密に入り込むとき、わたしは熱あるいは冷、明あるいは暗、愛あるいは憎、苦痛あるいは快楽などの何らかの特定の知覚にいつもぶつかる。

わたしはどんなときでも知覚なしに「わたし自身」をつかまえることはないし、当の知覚のほかは何も見てとることはできない。

……もし誰かが真剣で偏見のない反省にもとづいて、自分は「自分自身」について別の考えを持っていると考えるのであれば、わたしはもはや彼とは議論できないことを告白せざるをえない。

……彼は多分彼が「彼自身」と呼んでいる単純で連続的な何者かを知覚しているのかもしれないが、私は自分のうちにそのような原理は何もないと確信しているのだ(24)。

ヒュームのこの有名な議論については長々しいコメントや反論はいっさい必要ない。

ただ、ヒュームはどうして「自己」(「霊魂」あるいは「精神」)が感覚的に知覚できるようなものだと考えたのだろう、いったい「自己」はどのようなものとして感覚に現れると期待したのだろう、という疑問を投げかけるだけで十分であろう(25)。

7次にわれわれがここで企てている、経験から出発して「人格」──「わたし」「精神」「霊魂」──についての知的認識に到達しようとする試みは、カントが『純粋理性批判』のなかで批判している(26)、われわれのいっさいの思惟に伴う「わたし」の表象、つまり思考の論理的ないし文法的機能にすぎない自己意識をそのまま自己認識と取り違える合理的心理学の誤謬の繰り返しと見なされるかもしれないので、その点について一言しておきたい。

たしかにカントが指摘するように、思考一般の論理的解明にすぎないものを客観・対象の形而上学的規定とみなす誤謬(27)──「わたし」がこの世界風景のなかのひとつの事物を指示するものであるかのように考える誤謬──は避けなければならない。

しかし、この誤謬が不可避になるのは、カントの批判がその限界のうちに閉じこめられているデカルト的精神物体二元論の枠組のうちにおいてであって、われわれの試みはそれとはまったく異なった形而上学的ないし存在論的前提を有するものであることを指摘しておきたい(28)。

Ⅱ人間的行為と習慣

1われわれの課題は、すべての人に対して開かれた経験から出発して、「人格」と呼ばれる実在についての厳密な知的理解に到達することであるが、われわれが出発点として選ぶ経験とは、人間が人間として行う行為、その意味での人間的行為である(29)。

言うまでもなく「人間的行為」「人間が人間として行う行為」といっても、「人間」をいかなる存在として理解するかに応じて、その意味は極めて多様とならざるをえない。

しかし、この後の議論を意味のあるものとするため、異論があるかもしれないが、「人間的行為」の意味をつぎのように規定しておきたい。

行為はすべて或る目的のために為されるのであり(30)、人間という存在にはそれに到達することによって、人間としての存在の全体が最終的に完成され、実現されるような究極目的があるはずであるから(31)(そうでなければ当の人間が存在し、生き、行為すること自体が無意味となる)、「人間的行為」とは最も包括的な意味では、人間が自らの究極目的への到達をめざして行う行為の全体である(32)、と言うことができる。

各々の人間は現実の生活のなかで、その時々の必要、願望、機会などに応じて自ら何らかの目標を立て、その実現にむけて行為するが、そうした様々の目標を超えて、自らが人間であることからしてそれの実現にむけて行為せざるを得ないような究極目標がある(33)。

人間的行為は根本的に言ってこうした究極目的との関係において成立するものであり、また究極目的を視野に入れることなしには、人間的行為という経験を通じて「人格」についての知的認識に到達することもできないのである(34)。

2人間的行為、すなわち単に外から観察される人間の動作ではなくて、人間が人間として自ら行う行為といえば、当の人間がそこで主動的役割を果たし、それを自らの支配下においているような行為、一言で言えば「自由な」行為である、と考えられるかもしれない(35)。

人間が自らの行為を自らの支配下に収め、いわば自らの行為の支配者・主人となるのは、理性および意志という理性的能力によってであり、理性と意志は自由選択ないし自己決定の能力としての自由意思(liberumarbitrium)を成立させる(36)。

したがって、人間は自由意思によって自らの行為の主人となり、自由な行為、すなわち人間的行為を行う、というふうにひとまずは考えられる。

たしかに行為する各々の人間が自らの行為の主人であり、その意味で自由に行為するということは、人間的行為の必要条件であり(37)、人間的行為についての重要な洞察をふくんでいる。

実際にカントは自らの行為の主人であるという自由を自律(Autonomie)の自由と解し、それにもとづいて人格の絶対的価値を主張した(38)。

通常、人格ないし人格性を成立させるのは自由であると言われるときの「自由」はこの意味に解されている。

3しかし、人間的行為をこのような意味での「自由」にもとづいて「自由な」行為と解するかぎり、人間的行為という経験を通じて「人格」についての知的認識に到達することはできない。

自由意思という能力によって拓かれる自由の領域は、自然界の事物を支配する因果性、およびその必然性を超え出ており、人間的行為がそこから出てくる根源としての「人格」について何らかの示唆を与えてはくれるが、その核心に属するものに到達することはできないのである(39)。

たしかに自らの行為の主人であるという意味での「自由」は、人間を自然の因果的必然性に服している非理性的動物およびすべての物質的事物から区別する徴表ではあっても、それだけでは人間の内的価値を明確に示すものではない。

また、このような「自由」の領域を拓くかぎりにおいての理性や意志は、それらが理性的能力として有する可能性──それはまさしく無限への可能性である──のたんなる発端的機能を示したに過ぎず、理性的能力を行使する能動的根源としての「人格」がいかなる存在であるかを示すには足りないのである(40)。

4人間的行為をより完全に捉えるためには、つまり経験としての人間的行為をその成立根拠をも視野に入れるような仕方で十分に理解するためには人間的行為によって生ぜしめられる固有の結果(41)に目を向ける必要がある。

ところで、人間的行為が生ぜしめる固有の結果とは、人間が自らの外なる世界(そこに生きている他の人間もふくめて)に働きかけることによってそこにつくりだすものではなく、行為する人間自身の内部に生ぜしめる変化である(42)。

このことは、人間的行為を遂行する主要な能力である理性と意志はその働きが自らに立ち帰り、自らを完成する(挫折や失敗もふくめて)ような精神的能力であることからの当然の帰結である(43)。

たとえば、われわれは近代科学技術が環境世界を大きく変化させた、という言い方をするが、そのような大きな変化を生ぜしめた原因としての「科学技術」と呼ばれる知識(技術知もふくめて)こそは、事物の原因を探究し、あきらかにするという人間的行為の固有の結果にほかならない(44)。

そして、このような知識(scientia)は、実は理性という能力が高度に現実化された完成態であり、理性がその働きを通じて取得した結果としての自己完成である(45)。

5ここでわれわれは、経験としての人間的行為から出発して「人格」についての知的認識に到達しようとする、われわれの探究全体を支える概念を手にしている(46)。

それは「習慣」(habitus)の概念である。

すなわち、右に述べた人間的行為の固有結果とは、理性的能力が行為の結果として取得した、能力の完成態としての習慣にほかならない。

「習慣」という言葉および概念は、「よい習慣」(habitusbonus)としての「徳」(virtus)の概念と同様に、近代においては無視と忘却の歴史をたどった(47)。

習慣は、それが本来、哲学的な人間理解および倫理学において与えられていた中心的位置から脱落して、無意識的ないし自動的な動作の反復、さらにこうした反復を通じてわれわれがそのなかに閉じこめられる目に見えない束縛と同一視されるに到っている。

「慣れ」としての「習慣」がわれわれの生活において何らかの効用を持つことが認められる場合でも、「習慣」といえば型にはまった惰性的なものとされ、創造性を発揮するちから、という概念からは遠くへだたっている(48)。

ところが、「学知」(scientia)や「徳」(virtus)を代表的な例とする古典的な「習慣」の本質は、理性的能力が、自らの働きを通じて、限りなく自らを完成し、いわば自らを超えて出てゆく過程にほかならないのであって、習慣は惰性であるどころか、自己超越的であり、創造的であることをその本質的な特徴とするものである(49)。

理性的能力が習慣を獲得することを通じて、よりよい仕方でその働きを為しうるようになるということは、理性的能力が当初から有していた自己の行為に対する支配──すなわち自由──が、習慣の獲得を通じてより完全なものになるということであり、一言で言うと人間は習慣の獲得を通じて限りなく自らの自由を完成する(その挫折および失敗の可能性もふくめて)のである(50)。

人間が習慣(より厳密にはよい習慣としての徳)の獲得を通じて自らの自由をより完全なものにする、という言い方は、「人間は習慣の奴隷である」という警句に共感を覚える人々を驚かせるかもしれない。

しかし、習慣が獲得されたことを示す経験的徴表(51)としての行為の斉一性と確実性、迅速さ、行為にともなう快感などは、当の行為がより大いなる「自由」をもって行われていることを物語っており、人間は習慣を通じてより完全な自由を取得する、という主張は、一見逆説的に響くかもしれないが、真理である。

人間は自由を行使することを通じて習慣を形成するのであり、習慣は自由の軌跡であると言えるが、それと同時に習慣は真の意味で人間の自由を拡大し、完成する(52)。

さきに触れたように、カントは自律としての自由にもとづいて人格の尊厳を主張した。

しかし、自由にもとづいて人格の尊厳を理解しようとする場合、当の自由は単なる自由意思による自由選択、自己決定ではなく、習慣ないし徳を通じて完成された自由でなければならない(53)。

そうでなければ自由はけっして人格という存在の核心に達することはできず、人格の尊厳を十分に示すものではありえないのである。

6さらに、古典的な「習慣」の定義は、自然本性(natura)への根本的な方向づけ、ということをふくんでいる(54)。

アリストテレスはいくつかの著作(55)のなかで、「習慣は自然本性のごときものである」と述べており、後世この言葉は「習慣は第二の天性」(consuetudosecundanatura)という形で伝えられている。

習慣は「第二の」自然本性であるどころか、習慣こそはわれわれが現実に経験する自然本性そのものではないか、という考え方はパスカルによって繰り返し表明されており(56)、W・ジェームズは『心理学』のなかで「習慣は第二の天性!習慣の方が十倍も天性である」とあのウェリントン侯が叫んだ、という逸話を紹介している(57)。

「習慣は第二の自然本性」という格言は習慣が人間の生まれつきの本性に劣らない程度に、あるいはそれ以上にわれわれの振舞いを支配するちからがあることを言いあらわすものであるが、習慣が(人間の)自然本性への根本的な方向づけ、ないしは本質的な結びつきを有することは、習慣は常によいもの、あるいは悪いものと解されている、という日常的経験にてらして確認することができる(58)。

習慣は人間が有する様々の性状、能力、気質などと同じく「質」(qualitas)の範疇に属するとされるが、たとえば脚が速い、腕力が強いといった能力、陽気あるいは陰気という気質などが、それ自体ではよい・悪いという評価の対象にはならないのにたいして、習慣は常によい習慣であるか悪い習慣である、とされる(59)。

「習慣」という言葉を身体的動作と結びつけて考えがちなわれわれにとって、「よい・悪い」という評価が習慣の本質に属する、ということは理解し難いかもしれない。

しかし、習慣は本来的に理性的能力──理性による秩序づけ・支配に服する能力もふくめて──に付加された何らかの完全性としての質であり、習慣の獲得は必ず自由意思の行使を通じて実現されるものであることに注目すれば、習慣は常によいもの、あるいは悪いものとして解される、という日常的経験が確証されるであろう。

7習慣は自然本性への根本的な方向づけ、結びつきをその本質とする、ということを、習慣は常によいもの、あるいは悪いものと解されるという日常的経験にもとづいて確認したが、この議論は自然本性が究極目的ないし最高善としての側面をふくむことを前提しないかぎり無意味なものである(60)。

そして、われわれは実際に、人間は自らの自然本性の実現ないし、完成──それを至福(beatitudo)と呼ぶことができる──を究極目的ないし最高善として追求する、ということを基本的に前提しつつ考察を行っている(61)。

この基本的前提を、それを否定する論者に対して弁証することは別の機会に委ねることにして、ここでは、われわれがそれのためにすべての人間的行為を行うような究極目的ないし最高善を認めないならば、われわれが人間として存在し、生き、行為すること自体が意味を失うことをあらためて確認したい(62)。

そしてこのような究極目的とはそれに到達することによって人間としての存在の全体が最終的に完成されること、すなわち人間の自然本性の実現である、という見方は、アリストテレス以来の倫理学の長い伝統によって支えられているものであることを付言しておきたい(63)。

8さきに「習慣」の概念は、経験としての人間的行為から出発して「人格」についての知的認識に到達しようとする、われわれの探究全体を支えるものであると述べたが、習慣がそのように人格の知的認識を可能にする鍵であるのは、さきに述べたように習慣と(人間の)自然本性との間の根本的な結びつきによるものである。

人間の理性的な自然本性は感覚的・物質的な事物の場合のように、観察された事実や現象にもとづいて知的に認識することは不可能であり、われわれはそれを知的に認識することを可能にしてくれるような経験から出発しなければならないのであるが、そのような経験が習慣にほかならない。

すなわち習慣は、それの形成、およびより高度の完全性へ向かっての習慣の自己超越を通じて、人間の理性的な自然本性そのものの変容と完成をもたらすのであり、われわれは習慣の形成と自己超越の過程をふりかえることによって、自然本性をいわば内から眺めることができるのである(64)。

そして、人間の自然本性と「人格」のそれぞれが厳密にどのように理解されるとしても──自然本性とペルソナの問題は「三一なる神」および「受肉した神」をめぐる神学論争における最大の争点の一つであった(65)──「人格」が語られるのは理性的本性を有する存在についてのみであることは明白であるから、われわれが「人格」についての明確な知的認識に到達しうるためには、習慣についての詳細な考察を通じて、人間の理性的な自然本性についての全体的で根元的な理解をかちとることが何よりも必要とされるのである。

Ⅲ習慣と人格

1しかし、ここでわれわれは重大な疑問に直面する。

われわれはこれまで、「人格」の知的な認識にとって不可欠な人間の理性的な自然本性なるものは、人間的行為の固有の結果として形成される習慣──「第二の自然本性」──のいわば彼方にある、と考えてきた。

われわれは人間として生まれてくるのであり、存在の発端から理性的な自然本性を有するのであるが、われわれの理性的能力である理性や意志が当初はきわめて不完全で無力であることからわかるように、自然本性そのものも当初はきわめて不完全である。

「第二の自然本性」と言われる習慣は直接的には理性的な諸能力に付加される完成態であり、いわば獲得された「ちから」であるが(66)、習慣の形成を通じてこれらの能力の根底に存在するはずの人間自身、その自然本性が実現され、完成される、というふうに考えてきたのである。

疑問とは、一言で言えば、習慣こそは経験的につきとめられるかぎりでの人間の理性的な自然本性そのものではないのか、というものである。

われわれが経験に忠実であろうとするかぎり、自然本性についての探究は習慣の詳細な考察をもって終結すべきであって、それを超える「自然本性」について語ることは無意味ではないか、と言いかえてもよい。

さらに、人間的行為とはわれわれ自身がそれの主人であるような「自由な」行為であり、そして「人格」とは、「自由に」行為する能動的主体であるとすれば、理性的な諸能力をより完全な「ちから」へとたかめることを通じて行為にたいする支配をより完全なものたらしめ、人間の「自由」を拡大し、完成する習慣こそは「人格」の名に値いすると言うべきではないのか。

われわれがここで企てている、経験としての人間的行為を通じて「人格」についての知的認識に到達しようとする試みは、「習慣」としての「人格」において終結すべきではないのか。

2実は右に述べた、経験に即して人間的行為を考察するかぎり、人間的行為の根源であり、また人間的行為を通じて実現され、完成される人間の自然本性とは習慣にほかならない、という見解は、J・デューイにおいて明確に表明されているものである(67)。

デューイによると、行動する人間とは具体的・経験的には形成・変容されつつある習慣にほかならず(68)、ふつう人間本性と呼ばれているものは実は習慣として理解しなければならない。

人間は始めから何か完結されたものとして人間であるのではなく、人間であることは主体の側の能力と客観的な諸条件との統合という生命的過程を通じて実現されるものであり、この生命的過程が経験であり、また習慣である、というのがデューイの基本的立場である(69)。

デューイによると、ふつう不可変の人間本性があると主張する保守派は生具的本能の恒久性をよりどころにしており、人間本性はどのようにでも改変できると主張する改革派は習慣や慣習の可変性をたのみにしている。

しかし、これらの主張は、デューイの見るところでは、いずれも誤った前提にもとづくものであって、実際には生具的本能はどのようにでも容易に変容せしめられることが可能であり、他方ひとたび形成された習慣や慣習は最大の惰性をもって改変に抵抗するのである。

そしてデューイ自身の立場は、人間本性はたしかに可塑的であり、可変的であるが、しかし恒久性をもち、容易に変動することのないもの、すなわち習慣にほかならない、というものである(70)。

さらにデューイは、ふつう人間の「自我」、行為の「主体」と呼ばれているものは、実は習慣にほかならない、と主張する。

デューイは、習慣がわれわれに対して強力な制御力や支配力をふるうものであり、きわめて親密かつ根源的な仕方でわれわれ自身を形成するもの、あるいはわれわれ自身の部分を構成するものであることは広く認められているとした上で、次のように結論する。

「われわれがとらわれぬ目で自己を眺めるならば、習慣がこのような力を有するのは、それが極めて親密にわれわれ自身の一部をなすものだからだ、ということを認めるであろう。

習慣がわれわれにたいして支配力をふるうのは、われわれが習慣だからである(71)」。

このようなわれわれ自身の「自我」と習慣との同一視にたいしては、習慣のなかにはわれわれの意志に反して形成されたものもある(72)、という反論が予想されるが、デューイの応答は明快である。

「すべての習慣はなんらかの種類の活動への要求であり、それらは自我を形成する。

およそ意志という言葉が意味のある仕方で理解されるかぎり、習慣こそ意志である(73)」。

つまり、なんらかの目的の実現へとわれわれを現実に導いてゆくような行動の習慣を有するということが、経験的な意味でその目的を「意志する」ということなのである。

そして、このように形成された習慣をはなれて行為の主体なるものは存在しないのであり、その意味で習慣こそ人間の自我、主体と呼ばれるものを構成する、というのがデューイの基本的立場である(74)。

3前述の疑問、そしてそれにいわば同調するデューイの立場に対してはどのように応答すべきであろうか。

ここでわれわれは、さきに人間的行為をたんに自由選択ないし自己決定という意味での「自由な」行為と解することの不十分さについて述べたことを想起しなければならない。

自由選択は理性的能力である自由意思によって行われ、このような理性的能力によって人間は(自然の因果的必然性に服している)他のすべての存在から区別され、そのことは理性的能力の卓越性を示すものではあるが、それだけではそのような卓越した理性的能力を有する人間の内的価値はなんら明確にされていない。

言いかえると、人間を自らの行為の主人たらしめ、自由であることを可能にする理性的能力に目を向けるだけでは、人間の理性的な自然本性に十分な光をあてることはできないのである。

たしかに、「自由」であること、すなわち自らの行為の主人であり、その意味で自己を「支配」「所有」するということは、裏から言えば、他の何者によっても「支配」「所有」されないことであり、それこそ理性的な存在としての人間の尊厳を示すものであり、そこに人間の理性的な自然本性を見てとる者がいてもおかしくない。

しかし、さきにも述べたように、このような「自由な」能力(75)としての理性や意志は、まだ人間の理性的な自然本性の発端を示すにとどまっているのであって、理性的な自然本性そのものは理性的能力をさらに行使することを通じて形成ないし完成されなければならないのである。

4実は「自由」の領域を拓くとの意味で「自由な」能力である理性と意志は、より高次の働きへの可能性をふくむ能力である。

「自由な」能力としての理性とは実践的理性(76)であり、より高次の働きを為すかぎりでの理性は観想的ないし思弁的理性(ratiocontemplativaspeculativa)であるが、ここでは観想的理性について述べることはできない(77)。

むしろここでは、通常「自由な」能力、すなわち自由選択の能力としてのみ理解されている意志(78)には、実はより高次の働きへの可能性がふくまれていることをあきらかにしたい。

さきに「人間的行為」を定義して「人間が自らの究極目的への到達をめざして行う行為の全体である」と述べたが、究極目的、すなわち最高善ないしそれへの到達としての至福を固有の対象とするところの意志とは、「自由な」能力としての意志ではないことに注意する必要がある(79)。

最高善、すなわちすべての善いものがそれによって、あるいはそれに与ることによって善であるような善とは、何らか特定の、あるいは限定された善ではなく、無限な善ないし全的な善(80)(bonumuniversale)でなければならない。

人間の意志が根源的にこのような善を固有の対象とするような欲求能力であることは、われわれが自らの意志による様々の善いものの欲求の根底にあるものをふりかえることを通じて確認することが可能である(81)。

実は理性にせよ、意志にせよ、何らかの無限なものを固有の対象にするということが、それら理性的能力の本質に属することなのである(82)。

5究極目的あるいは全的な善を意志するかぎりでの意志の働きは「自由」ではなく、むしろ自然必然的である(83)。

意志の働きが必然的であるというのは、自己矛盾のように響くかもしれないが、この場合の「必然性」は自由と対立する意味での必然性ではなく、かえって自由を可能にする根拠としての「必然性」である(84)。

意志の固有的対象は意志能力のふくむ可能性の全体を現実化しうるような対象であり(85)、意志はいわば自らの自然本性からしてそのような対象を意志せざるをえない。

このように、意志が自らの固有的対象を意志する働きは、意志の自然本性にもとづくものであるかぎり、意志的(voluntarius)であって自然必然的なのである(86)。

ところで、究極目的ないし全的な善へと向かう意志の必然的な働きは、自由と矛盾・対立するものではなく、むしろ根源的に自由を可能ならしめる根拠であることは次のように説明できるであろう。

われわれが究極目的ないし全的な善を意志するのは、常に、何らかの特定の善という側面においてではなく、むしろわれわれが直接に意志する特定の善(いもの)を善ならしめる根拠という側面においてである(87)。

そして、われわれの意志が全的な善へと固着せしめられるかぎりにおいて、われわれが直接的に意志する諸々の特定の善はすべて相対化され、われわれはそのいずれをも「自由に」意志することが可能となるのである(88)。

いうまでもなく、われわれは常に人間の真の究極目的を明確に認識しているのではなく、また意志の固有的対象である全的な善についての哲学的な理解を有するわけでもない。

しかし、われわれは特定の善いものを意志するときにはいつでも、それを善たらしめる根拠である究極目的を何らかの仕方で、漠然と意識しており(89)、その究極目的──全的な善──との関係においてそこで直接的に意志される特定の善いものが相対化されるがゆえに、当の対象に関して「自由」を経験するのである(90)。

「自由」といえば、通常、いずれの可能な選択肢へも確定、あるいは傾向づけられていない「無関心・中立の自由」(libertasindifferentiae)が考えられがちであるが(91)、われわれが選択の「自由」について注意深くふりかえるとき、このような「無関心・中立の自由」がいわば真空状態において成立しているのではないことはあきらかである(92)。

われわれが可能な選択肢──それらはいずれも何らかの意味で「善いもの」である──のいずれにも確定されず、「自由」であるのは、それらがすべてより高次の善いもの、最終的には究極目的との関係において「善」であると同時に、(必然的に欲求されるところの)究極目的との関係において相対化されているからにほかならない。

6前述のように、われわれは必ずしも人間の真の究極目的を明確に認識しているのではなく、またわれわれの行為の全体がそれの実現へと秩序づけられているのでもない。

実は人間の真の究極目的──人間の自然本性の完全な実現──へと意志を不動・確実な仕方で固着させ、行為と生の全体をそれへと秩序づけるのは、善い習慣としての徳──とくに倫理徳──にほかならない(93)。

徳はまさしく人間の真の究極目的への「道」なのである。

ところで、究極目的への道である(倫理(94))徳は、意志を究極目的へと固着させることによって、われわれを他の諸々の目的ないし善に関してより自由ならしめ(95)、その意味でわれわれの自由を完成する。

しかし、このような完全な自由は、われわれの意志が人間の真の究極目的へとより完全に従属させられることによるものである。

そして、人間の自然本性そのものの完全な実現はまさしくこの後者において見出されるのである。

言いかえると、人間の自由の完成とは、本来的に言って、それが絶対的な自由へとたかめられることではなく、またそのような絶対的な自由は人間の自然本性の完全な実現ではない。

むしろ人間の自由が最終的に完成されるのは、徳を通じて意志が最高善である究極目的へと完全に従属させられることによってであり(96)、このような意志の究極目的への完全な従属を通じて人間の自然本性は完全に実現されるのである。

このように見てくるとき、われわれが「自由」を行使することを通じて形成する「第二の自然本性」である習慣を、人間の自然本性そのものとは同一視できないことはあきらかであろう。

習慣ないし善い習慣としての徳の全体は、自然本性そのものの完全な実現──究極目的──へ向かってわれわれが形成する「ちから」(virtus)である(97)。

この「ちから」は人間の理性的な自然本性を或る意味で完成するものであり、たしかに人間にとって「自然本性的(98)」(naturalis)なものである。

しかし、それは自然本性そのものとは明確に区別すべきであり、またそれをデューイのような仕方で、われわれ自身──われわれの「自我(99)」──と同一視することもできないのである。

Ⅳ結論──「人格」概念の明確化のために

1これまでの考察がわれわれを導いてゆく結論はかなり逆説的なものであると言えるかもしれない。

最初に述べたように、「人格」という言葉の日常的理解によると、人格とは単なる「もの」から区別された価値をふくむ能動的「主体」であり、自らの行為の「主人」「支配者」として「自由」であることをその本質的な特徴とする理性的な存在であって、そこに人格としての「尊厳」も存在する、とされている(100)。

しかし、人間的行為へのふりかえりを通じてわれわれが行った考察によれば、このように人間が自らの行為の主人であるという意味で「自由」であることは人間の理性的本性の一徴表にすぎない(101)。

人間の理性的な自然本性を全体的・根元的に認識するためには、われわれはそこからさらに先に進んで、そこにおいては理性的能力である意志がもはや「自由な」能力ではなく、その固有的対象である究極目的ないし全的な善を自然必然的に──しかしあくまで意志的に──欲求するところまで考察を進めなければならない(102)。

言いかえると、もはやそこにおいては人間は自らの行為の支配者ではないような人間的行為の深層──なぜなら究極目的の欲求はあくまで意志的ではあるが、自然必然的に為されるのであるから──まで考察を進めなければならないのである(103)。

本節のはじめで、われわれの考察を通じて浮かび上がってきた結論は「逆説的」なものである、と述べたのはこのことを指している。

われわれは、そこにおいては人間は自らの行為の支配者であるような人間的行為にもとづいてではなく、むしろそこにおいては人間が究極目的(それは前述の意味で最高善であり、全的な善である)へと従属させられているところの人間的行為にもとづいて「人格」を捉えなければならないのである。

言いかえると、「人格」は、理性的存在である人間が、それによって、必然的な自然の因果性に従属している他のすべての事物に優越するとされる「自由」にもとづいてではなく、むしろ人間が自らを無限に超える最高善である究極目的に向かって自らの存在の全体を秩序づける「従属」にもとづいて理解しなければならないのである。

「人格」理解へのこのようなアプローチは、人格の尊厳に関する現在の標準的理解に完全に逆行するものであり、その点でも極めて逆説的と受けとられるであろう。

すなわち、通説によれば人格は「自由」「自己決定」ないし「自己所有」という優越的な在り方のゆえに侵すことのできない尊厳を有する、とされるのに対して、われわれの理解に従えば、人格の尊厳は最高善、すなわち絶対的価値である究極目的への従属によって基礎づけられているのである。

したがって、人格の尊厳を明瞭に認識し、確実に基礎づけるためには、われわれ自身にではなく、まずわれわれの存在の全体がそれへと秩序づけられ、そこからすべての価値を受けとっている究極目的に目を向けることが必要不可欠である。

人格の尊厳が輝きでるのは、自らの欲望を限りなく充足しようとする自己中心的な生き方においてではなく、むしろ自らを絶対的価値の実現のために捧げつくす、自己放棄ないし自己否定の生き方においてであることは、すべての人が自らの心の奥深いところで確認することの可能な真理であり、「人格」概念の明確化をめざすわれわれの試みを導き、支えているのもこの真理なのである。

 

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