第三章筋肉質の経営に徹する【筋肉質経営の原則】
1中古品で我慢する2健全会計に徹する「セラミック石ころ論」3「固定費」の増加を警戒する4投機は行わない額に汗した利益が貴い5予算制度は合理的か「当座買い」の精神
第三章筋肉質の経営に徹する【筋肉質経営の原則】
企業は永遠に発展し続けなければならない。そのためには、企業を人間の体に例えるなら、体の隅々にまで血が通い、つねに活性化されている引き締まった肉体を持つものにしなければならない。つまり、経営者はぜい肉のまったくない筋肉質の企業をめざすべきなのである。私はそのことを「筋肉質の経営に徹する」と表現しているが、それは私の会計学のバックボーンにもなっている。たとえば、会社の株式が上場されると、どうしても会社をよく見られたいという意識が出てくる。高い株価を維持したいという欲求にかられて、利益をはじめ、すべてのものをよく見せたいと思うようになるのである。しかし見えを張れば、ぜい肉ばかりがつき、不要な負担を増すばかりとなる。誰でも、人間は少しでも自分をよく見せたいという気持ちがある。もしこのような虚栄心が強い経営者であれば、その企業は見せかけだけ飾られた、ぜい肉だらけのものになるだろう。本質的に強い企業にしようというのであれば、経営者が自分や企業を実力以上によく見せようという誘惑に打ち克つ強い意志を持たなければならない。1中古品で我慢する京セラも初期のころは、会社としての余裕もなく、とにかく倹約を旨としていた。事務所の机や椅子も新しいものを買うのではなく、中古屋で山ほど売っている安いスチール家具を買ってきて使っていた。たとえ新入社員に対しても、事務作業をするのに新しい事務机や椅子が要るわけではないであろうと、中古の机を買って与えていた。他の会社が移転をするとき、今まで使っていたものを処分し、新品の何分の一という値段で売っているのである。製造設備を購入する場合も、どうしても現場の技術者は新品の機械を買いたがるが、私は「機械や設備は、もし中古で間に合うのなら、それで我慢をせよ」と言ってきた。性能が優れた機械があっても安易に買うことは許さず、現在ある機械をいかに使いこなすかを徹底的に考え、創意工夫をこらすよう教育してきた。創業間もないころ、初めて米国を訪問した際に、競合するアメリカのセラミックメーカ
ーの工場を見学する機会があった。そこには最新のドイツ製の素晴らしいプレス機械が整然と並び、リズミカルに動いていた。京セラでは、自ら設計したプレス機械を懸命に動かして苦労していたころである。最新鋭の工場を見て回りながら、ドイツ製の機械はスピードといい、性能といい素晴らしいのに驚き、「この機械は一台、いくらするんですか」と訊ねると、そこの工場長が、目の飛び出るような値段を答えた。そのときすぐに、私はこう考えた。「こんなに高価な機械だが、一分間で一体何個つくっているのだろう。京セラで動いている自作の機械でもこの半分は生産をしている。つまり、生産性は半分はある。この設備の投資総額に比べて、その何十分の一の値段の機械の生産性が半分あるなら、設備投資の効率から言えば、自作の機械の方が勝っているのではないか」普通は、あまりそういう計算はせず、最新鋭の機械がなめらかに動いているのを見て、これに追いつかねばならないと、一日も早くその機械を導入することを考えるのではないだろうか。そのような設備投資を行えば、生産性それ自体は必ず向上するであろうし、最先端の技術を使っているという満足は得られるかもしれない。しかし、実際はそれがそのまま経営効率の向上につながるとは限らないのである。こういった見えを張った過剰な設備投資を繰り返していくことは、かえって経営体質を弱めることになるし、限られた経営資源を大事に生かすということにもならないのである。2健全会計に徹する――「セラミック石ころ論」京セラのセラミック部品は、創業からしばらくはすべてが客先から「こういうものをつくってくれ」と言われた受注生産品であった。たとえば、テレビ用のブラウン管の絶縁部分にこういう形状の絶縁部品がほしいと言われて、客先のエンジニアなどと協議をしながら材質やデザイン等を決め、それにもとづいてセラミック部品をつくっていた。こうして製造されたセラミック部品は、客先がそのブラウン管を必要とするテレビを製造している間は価値があり、当方にも、客先にも利益をもたらす。ただしセラミックであるため、一度焼成してできあがると、もうほかのタイプのものに手直しすることはできない。それは工程の途中であっても不可能に近い。そこで問題となるのは、在庫として残ったものの価値をどう評価するかということである。たとえば、客先から一万個の注文をもらった場合、製造は歩留まりや継続する注文の納期対応などを考慮して一万二千個つくり、一万個を客先に納め、あとの二千個は会社に在庫として残すとしよう。一個が百円だとすると、それが二十万円分の在庫として帳簿に計上される。
ところが、客先がもうその型式の機種はつくらないということになれば、その在庫は無価値になってしまう。しかし、通常帳簿のうえでは在庫として残り、資産として扱われることになる。すでに実質的には無価値になっているのだから、余分となった二千個を資産と思うこと自体が現実に合わない。いかにコストをかけてつくり、物理的に「良品」であっても、それはすでにセラミック部品としては役立つものではなく、いわばそのへんの「石ころ」にすぎない。この考え方にもとづき、このような在庫を無評価にしていたところ、税務調査において問題とされた。「なぜ、この在庫の評価がゼロになるのですか?これは一個百円で売ったもので、原価が五十円だから、原価で評価をして計上すべきものです」「しかし、それはもう売れる見込みもない、捨ててもいい製品です」「捨てるのは構いませんが、捨てるまでは資産ですよ」税務署は捨てればいいと言うのだが、実際そうするのは少しもったいない気もするし、かといって置いておけば資産と見なされてしまう。「では、これは一応ゼロにしておいて、売れたら税金を払えばいいんでしょう」「そうはいきません。売れたときに払えばいいというものじゃありません。資産だと見なせば、その分所得を増やして税金を取ります」いつ売れるという見込みもない、むしろ売れないと考えておくべきものなのに資産とされて税金を取られる。それでは健全な会計とはまったく逆になり、企業の体質は弱くなっていく。やむなく、当分注文の見込めないセラミック部品は、文字通り「石ころ」として捨てることにした。強い筋肉質の会社にするために、不良資産を抱えないことにしたのである。これが私の言う会計学における「セラミック石ころ論」の意味するところである。メーカーの場合では、とくに受注生産をしている場合、中でもOEM(相手先ブランドによる委託生産)で生産している場合に一番この問題が起こりやすい。たとえば工作機械三台の注文をもらうとすると、部品は念のために四台分発注し、トラブルに備えるとする。しかし、運よく三台とも問題なく良品ができた。ところが、あと一台分の部品がまだ残っている。もちろんその機械は客先仕様で受注したものであり、ほかに売れるものではない。また、次の注文がいつくるというあてもない。そのような場合、いつまでも部品を抱えておくのではなく、できるだけ在庫評価をせずに帳簿から落とすべきなのである。メーカーの在庫販売や一般の流通業の場合でも、どうしても仕入れた中には売れ残るものが多かれ少なかれ出てくる。このようなものを含めて、在庫は仕入れた値段で棚卸されているのが普通である。また、実際の棚卸は、経営者が自ら行っているのではなく、担当
者がもののあるなしだけで通常実施している。そうしていると必ず長期間にわたりまったく売れていない品物が、今後も売れる見込みもないのに倉庫でほこりをかぶり、何度も棚卸されているケースが出てくる。すなわち、すでに価値のないものが財産として置いてあり、資産となっているのである。こうして結果としては、利益が見かけ上増えて、不必要な税金を払っているという場合が出てくるのである。その意味で棚卸は人任せにせず、本来経営者が自分の目で見て、自分の手で触れて行うべきものである。自分も一緒になって倉庫で検品をして、「これは三年前から一向に売れていないではないか、これはもう捨てなさい」と言ってこまめに見て回るようにすべきものである。このように、こまめに気を配って、会社の資産をスリムにしなければならないというのが、「セラミック石ころ論」の真意なのである。これは健全な経営を行ううえで非常に大事なことである。しかし、最初のうちは誰でもそう思い不良資産を落とそうと思っていても、決算が近づくと、会社の実績を少しでもよく見せたいと思うようになる。そうすると、売れないものであってもできるだけ資産に計上したいという衝動に駆られてしまう。意図して粉飾決算をしようとするわけではない。しかし、会社や自分の評価を気にして、このような誘惑に負けるようなことがあってはならない。そのためにも、経営者は自らを律する確固たる経営哲学を持っていなくてはならないのである。3「固定費」の増加を警戒する設備投資は、減価償却費として固定費の増加をもたらす。また、人件費も固定費の中で大きな部分を占めており、正社員が増えれば、それだけ固定費も増加するのである。とくに間接部門では、いつのまにか人が増えているということになりやすい。そこで筋肉質の経営をするために重要なことは、原材料費などの操業度に連動する変動費を下げるだけでなく、固定費を一定もしくはできるだけ下げて、利益率を高めるということである。すなわち、図で示すように、総費用をできるだけ下げていくこと
で、損益分岐点を下げていき、結果として利益を増やしていくことである。
先ほど述べたドイツ製の高価な機械の例であれば、当時の自社製の機械はその何十分の一という値段であり、固定費は非常に少なくてすむ。またそのころは人件費の水準もドイツより日本の方が低かったために、設備の生産性がたとえ半分であっても十分に対抗できるというわけである。エンジニアや経営者も、優秀な最新鋭の機械をほしがり、それを買わなければ競争に負けると思い込みやすいが、逆に設備導入により固定費を大きく押し上げて、経営体質を弱くすることがあるということを十分に認識しておかなければならない。このように設備にしろ社員にしろ、会社経営にとって固定費の増加は、十分警戒しなければならない。経営者が前向きに経営を進めていると思いながら、ふと振り返って見れば固定費が信じられないほど増加しており、もうあと戻りもできなくなってしまっていることがよくある。積極的な手を打ったつもりが、かえって経営体質を脆弱なものにしてしまうというケースは珍しいことではない。固定費は増やすまい、減らそうと、つねに意識していないと、あっという間に増加し、企業の体質を悪化させてしまうものなのである。しかし、実際に経営を行う際には社員に固定費の増加を警戒することの意義が十分理解されていないと、それが社員の事業拡大や生産性の向上への意欲を低下させてしまいかねない。固定費を減らし筋肉質の経営体質を実現することは、会社をより強くし、さらなる事業拡大へチャレンジするために必要な努力であることを全社員によく理解してもらわなくてはならない。4投機は行わない――額に汗した利益が貴い私にとって投資とは、自らの額に汗して働いて利益を得るために、必要な資金を投下することであって、苦労せずに利益を手に収めようとすることではない。私の会計学には投機的利益をねらうという発想は微塵もない。だから余剰資金の運用については、元本保証の運用が大原則であり、その中に投機的な資金運用のための「リスク管理」などはまったく含まれていない。かつて「財テク」という言葉が当たり前のように使われ、企業の経理・財務部門でも一時的な運用利益を追ったあげくに、最終的には会社の根幹を揺るがすほどの甚大な被害をもたらすという例が数多く見られた。このようなことが起きるのは、自ら働いて得る利益を尊ぶという原理原則を経営者が無視した結果である。
一九七三年十月に始まる第一次石油ショックによる日本経済の混乱がまだ続いているころ、ある都市銀行の支店長が訪ねてきて、こう言われたことを覚えている。「二年くらい前から不動産が値上がりしています。みなさん土地を買って、転売して儲けておられます。御社は、利益が上がった分当行に預金をしていただいて、それはそれでありがたいのですが、世間では金を借りてでも土地を買っておられます。今は手持ちの資金にさらに銀行から借りて上乗せして土地を買う時代です。御社には、当行はいくらでもお貸しします。値上がり確実な不動産もたくさんありますので、ぜひご紹介をさせていただきたいのですが」私は、「自分で額に汗して稼いだものしか利益ではない」と思っている旨を述べて、この話を聞くだけですませた。その半年か一年後に、当時のバブルが弾けて、名の通った会社がつぎつぎに経営破綻に追い込まれた。そのころ京セラはまだ小さな会社だったが、いくつかの雑誌や新聞の記者が訪ねてきて、こう聞かれた。「今回の倒産劇を見てどう思われますか。どの企業も値下がりした不動産を抱え込んで困っていますが、京セラさんにはそういったことが一切なかったと聞いています。その先見性はどこから出てくるんですか」私は率直に答えた。「みなさんが言われるような先見性があったのではないんです。ただ私は浮利を追うのが好きではありません。それだけのことです。不動産を転がすような金儲けは嫌だったというだけのことです」その後、一九九〇年代初頭のバブル崩壊までに、幾度かバブルが膨らんではじけている。一度火傷をしても、過ぎてしまうとたちまちにその痛さを忘れ、同じことを繰り返しているのはなぜだろうか。株や土地がいつまでも上がり続けるとはとうてい思えないのに、自分だけは損をしないと信じ込んでしまう。世の中の動きにあおり立てられると、それに逆らって自分の意志を貫くということは難しいことなのかもしれない。しかし、多くの社員に対して責任を負う経営者は、他人を見てその真似をするのではなく、あくまでも自分の中にある原理原則や行動の規範に従うべきである。時勢に付和雷同し、流されるような経営をしてはならない。
投機というのは、「ゼロサムゲーム」と言われるように、基本
的に誰かがほかの者の犠牲の上に利益を得ることである。だから、もし投機的な利益を得たとしても、それは世の中に対して新たに価値を創り出したことにはならない。本当の経済的価値、すなわち人間や社会にとってプラスになるような価値は、投機的活動によって増加するわけではないのである。企業の使命は、自由で創意に富んだ活動によって新たな価値を生み出し、人類社会の進歩発展に貢献することである。このような活動の成果として得られる利益を私は「額に汗して得る利益」と呼び、企業が追求するべき真の利益と考えている。投機的利益の追求は射幸心をあおるようなゲーム的性格を強く含むためか、不幸にして多くの人々をひきつける。何ら創造的な活動ではない投機が、たちまちのうちに人を夢中にさせる魔力を持つのである。しかし、その魔力に負けて社員を不幸にさせることがないよう、経営者はあくまで自分の原理原則を堅持し、何が正しいのか、会社の使命とは何かというところから行動をする必要がある。5予算制度は合理的か――「当座買い」の精神通常、来年度の事業計画を立てる場合、「売上は前期売上の何%増しにしよう、それには当然、マンパワーも要るだろうから、人員はこれだけ増やそう。さらにこれだけの売上を上げるためには新たな支店を設けよう。そのための営業経費も増えるだろうから……」というように必要な経費項目を全部挙げて予算をつくる。私は今までこのような予算制度を実施してこなかった。なぜなら、人を増やそう、支店を増やそうという経費に関するものは、計画通りにどんどん進んでいくが、肝心の売上が計画通りに増えないことが多いからである。「売上はなぜ増えないのか」と尋ねると、「いや、頑張っているんですが、今は不況でなかなかうまくいきません」というような答えが返ってくる。そのうえ「現状を挽回するためには、さらに思い切って人員を増やす必要があります」というように、経費のみがさらに増えていく場合が多い。もともと計画した売上を達成するため経費を使っているのだから、売上も経費にともない増えていくべきなのだが、実際にはそうならず、費用だけが増えていく。つまり、使う方の予算だけは厳守され、入ってくる方の売上は期待通りには増えない。それが予算制度の実態ではないだろうか。それゆえに、私は「予算制度は要らない。要るお金はその都度、稟議を出せ。その都度決裁をする」という方法で経営をしてきた。さらに京セラでは、原材料などの購買について、毎月必要なものは毎月必要な分だけ購入するようにしている。場合によっては、毎月ではなくて、毎日必要な分だけを買うようにしているケースもある。私はこれを「一升買い」と呼び資材購入の原則としてきた。たとえ、一斗樽でまとめて買えば安くなりますと言われても、今必要な一升だけを買うようにしてきたのである。
実はこの考え方は私の子供のころの体験からきている。私の実家は、印刷と紙袋の製造を業としていた。家の離れに工場があり、従業員も十数人いて、その中で父親も母親も働いていた。母親は明るく快活な女性で、父親は実直でまじめな、本当に仕事一途の人間であった。父親は、鹿児島市内から十五~二十キロ離れた田舎の出身であり、そこから親戚の農家の人がよく近所までサツマイモや里芋など、いろんな野菜を乗せて大八車を引いたり、天秤棒を担いだりしてやって来ていた。夕方になると帰っていくのだが、そのときに売れ残ったものがあると、田舎まで持って帰るのは重たいものだから、知り合いの家に必ず寄っていく。よく私の家にも「ちょっと寄らせてもらいました」と訪ねてきた。母が「ご苦労さま」とお茶を一杯出してあげると、農家の人は「売れ残ってしまったので、安く置いていきます。持って帰っても仕方がありませんから」と言う。そうすると、私の母親は、何でも調子に乗る人の良いところがあったので、可哀想だと同情し、主人の田舎から来た遠い親戚だし、何よりこんなに安いのだからと、野菜をありったけ買ってあげていた。小学生のころだが、それを見ていた私は子供心に「なかなか善いことをするな」と思っていた。ところが夕ご飯になったとき、無口で真面目な父は、台所に積まれた野菜をちらと見て「また無駄なものを買いよって」と怒る。母も負けていない、「あなたの遠い親戚の誰それさんの奥さんがわざわざ来られたんですよ。市内の八百屋さんなんかとはくらべものにならないほど安くしてもらったんです。あなたに怒られる筋合いなんかどこにもありません」と口答えする。私はだまってご飯を食べながら、口べたな父親がムッとして黙ってしまうのを横目で見て、「そりゃあ、母が言うのは正しいな」と思っていた。ところがある夏の日、私が学校から帰ってくると、母が庭先を掘っている。だいぶ前に埋めていたサツマイモを掘り出しているのだが、かなりいたんでいる。お手伝いさんまで呼んで、大きなスコップを持ち出して掘り出しては、「あれあれ、もうこんなにいたんでしまって」などと言いながら、悪くなったところを包丁で削り落とす。そうすると大きなサツマイモが、見る見るうちに小さくなってしまう。母はその小さくなった芋をそれでも機嫌よく大きな釜でどっさりゆがいて、竹のザルに山盛りにして、「お友だちを呼んでいらっしゃい」と言う。私はガキ大将だったから、近所の友だちをみんな呼んできて、食べきれないぐらいのサツマイモをみんなにごちそうする。友だちはおなか一杯になって喜んで帰るものだから、母は善いことをしたと思って喜んでいる。私はそのときになって初めて、「ハハーン、親父が怒ったわけがわかった。いやこういう嫁さんなら所帯が潰れてしまうかもしれない」と思った。
このような子供のときの経験から私は、まとめて買えば安くあがったように思うけれども、実はそうではないということを学んだ。人間というのは面白いもので、「五升買えば安くします」と言われれば、ついつい買ってしまって余分に使ってみたり、乱暴に使ってこぼしてしまったりするものなのである。しかし今使う分しかなければ、それを大事に使うようになる。だから、今一升要るなら、一升しか買ってはならない。このようにして「当座買い」の重要性を学んだ私は、京セラ創業後も経理部長に「一升買い論」としてよく説いていた。しかし、経理部長の方は「そんなことは経営学でも、経理の考え方でも常識に逆行することです。世界中のどんな経営学や会計学の本を見ても、安いものを買いなさいということはあっても、高いものを買いなさいなどということは言っていません」と言い張った。私は「そんな常識はどうでもよろしい。とにかく要る分だけを買いなさい」と言って頑張ったことを覚えている。そうやって反発していた経理部長が、しぶしぶ言われた通りにやっているうちに、「なるほど」と気づき始めたという。使う分だけを当座買いするから、高く買ったように見えるが、社員はあるものを大切に使うようになる。余分にないから、倉庫も要らない。倉庫が要らないから、在庫管理も要らないし、在庫金利もかからない。これらのコストを通算すれば、その方がはるかに経済的である。セラミックのように腐らないものならまだしも、腐るものを扱う場合には、気がついてみたら使えなくなっていたということになりかねない。そのことがわかってきたのである。私は自分の母親の話をしたが、これと似たことは、どこの会社や家庭でもよく起こることではないだろうか。経理部長も私に「社長のご両親の話を笑い話みたいに聞いていましたけれども、素朴な話の中に含まれる真理が、本当は大切なことであると気づきました」と言うようになった。これを「当座買いの原則」、または「一升買いの原則」と京セラでは呼び、現在も経営の鉄則として受け継がれている。
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