第三章情報の活用
20すべての答えは現場にある21失敗という経験を積む22結果とは量ではなくて質で評価するもの23お客様と同じ方向を見る24お客様への価値提供は組織で行う25自分を信じてやれるのは自分26情報を資産にする
第三章情報の活用
20すべての答えは現場にある朝の八時。
まだ出勤している社員は少ない。
五十嵐は、佐伯のデスクの上に、使い捨てカップに淹れたコーヒーを置いた。
「おはよう」「あっ、部長。
おはようございます。
そんな、コーヒーなんて。
すみません」「気にしなくてもいいさ。
どうせ自分の分を淹れたついでだから」笑顔で答える。
「ありがとうございます」「ところで二カ月経って、営業マン全員の重点顧客への挨拶まわりも終わったことだし、そろそろ通常の営業活動に同行していきたいんだが」「それはかまいませんが、月初ですからね。
どの営業マンも、熟した案件はほとんどありませんよ。
見てもつまらないんじゃないですか?月末まで待っていただければ、私がクローズしているところを、いくつもお見せできますけど」佐伯としては、五十嵐に対して気を使ったのだろう。
その気持ちはありがたいと思う。
しかし、その言葉からして、今までも大村専務に同行してもらう場合などでは、社内営業か下手をしたら社内接待のように、お膳立てされた商談を見せてきた可能性があった。
その考え方は、自然と部下にも伝わる。
佐伯たちリーダーが同行を求められる際も、結果が見えているようなものが多かったに違いない。
営業マンにかぎらず、見せかけの仕事をさせられることほど、意欲を削ぐものはない。
御前会議のような結論ありきの会議や、報告のためだけの資料作成などもそうだろう。
「そういう商談を見ても、意味がないんだよ」「どういうことですか?」佐伯が訝しげな顔をしている。
「ハピネスコンピュータで、全社のリーダーの中から、業績上位と下位のそれぞれ五名ずつに対して、営業マンへの同行の状況をSFAを使って分析したことがあるんだ」「私と同じリーダーたちですね」佐伯が身を乗り出してくる。
「一カ月の同行件数は、全社平均で七十件で、上位五名の平均はそれを上まわる百件だった」「さすがですね」「優秀なリーダーたちばかりだからな。
それで下位五名も調べてみた。
いったい、平均は何件だったと思う?」「うーん。
おそらく全社平均以下でしょうから、五十件くらいだったんじゃないですか?」五十嵐がにやりと笑う。
「そう思うだろう。
でも、外れだ。
百件だった」「そんなばかな!上位五名と同じじゃないですか」「そうなんだ。
俺もおかしいと思った。
それで、もう少し詳しく調べてみると、おもしろいことが見えてきた。
同行しているタイミングに違いがあったんだ」「タイミングですか?」「一カ月の稼働数を七日間ずつ、月初、月中、月末に三分割して、それぞれの訪問件数を当てはめてみると……」五十嵐はホワイトボードに数字を書き込んでいった。
「業績のよいリーダーは月初に、業績の悪いリーダーは月末に、同行が偏っていますね」「佐伯リーダーなら、何が起きているかわかるだろう」佐伯が神妙な面持ちでうなずく。
「おそらく月初の同行の目的は、営業マンのセールススキルの確認や市場状況の調査、それから案件を創出するために、営業マンを支援することだと思います。
月末の同行は、あくまでも商談の『最後のお願い』ってやつですね。
もっとも、この段階でリーダーが一緒に行ったって、できることは一緒に頭を下げながら、価格をさらに値引くことくらいなものでしょうけど」「その通りだ。
すべての答えって、現場にあるんだよ。
部下の報告に依存したマネジメントでは、真実を見ることはできない」「すみませんでした」佐伯が決まり悪そうに頭を搔いている。
「二十九名全員に同行したいと思う。
とくに業績に苦しんでいる営業マンには、優先的に同行させてほしい」「わかりました。
こちらこそ、お願いします。
私も時間を作って、月初から営業マンたちと一緒に活動したいと思います」立ち上がった佐伯が、笑顔で頭を下げた。
21失敗という経験を積むその日の午前中、さっそく香乃に同行することになった。
彼女が運転する営業車に同乗して、一緒に担当地区へと向かう。
「すみません。
五十嵐部長の貴重な時間を割いていただいて」すっかり恐縮している。
重点顧客や大型案件でもないのに、上司に同行してもらうことなど、今まではなかったのだ。
「気を使う必要なんてないよ。
営業マンに同行するのも、営業部長の大切な仕事なんだから」できるだけ緊張を解きほぐそうと、柔らかな言葉と笑顔で答える。
香乃は少し安心したような表情を見せた。
「それから……マネジメント研究会のメンバーに選んでいただいてありがとうございました。
本当にいろいろと勉強になりました」運転しながらも、香乃がペコリと小さく頭を下げた。
「秋元さんのフレッシュな視点に、我々もたくさんの気づきがあったよ」「そんな……私なんて……」香乃の立場では、あまり目立ちたくないのかもしれない。
営業マンとしての業績を気にしているのだろう。
成績が悪いだけで、社内で目立つことも許されない雰囲気があるとしたら、それは間違った文化だ。
業績がよい営業マンは、そのことを評価して表彰すればいい。
同様に、社会や会社に別のことで貢献をした社員は、大いに称賛するべきで、それは業績とは別の次元の話だった。
業績の評価とは関係がない。
五十嵐からすれば、マネジメント研究会での香乃の発言の数々は、どれも参考になることばかりだった。
彼女がまだ秘めている能力を持っているのであれば、早く開花させてやりたいと思う。
「一つだけお願いがあるんだけど」「なんでしょうか?」「その、私なんてってやつ、やめないか」「えっ?」「自分ではあまり意識してないのかもしれないけど、口ぐせのようによく言ってる」「すみません」「秋元さんは決して『なんて』という存在じゃないよ。
秋元さんだからできることもたくさんあるはずだ」「私だからこそ、ですか?」「そう。
秋元さんならではの役割だよ。
組織にとって、大切な役割だと思う。
毎朝仕切ってくれているスピーチもすごくいい。
佐伯リーダーが言ってたんだけど、あのスピーチをやるようになってから、みんなの報告がすごく整理されていてわかりやすくなったそうだよ」「そうなんですか?」「ああ。
少しずつ成果になっていると思う。
継続は力なり。
これからもつづけてくれ」「はい。
ありがとうございます」香乃は少し恥ずかしそうに首まで桃色に染めながらも、うれしそうにフロントガラスの向こう側を見つめていた。
「五十嵐部長は、ハピネスコンピュータで伝説のトップセールスだったんですよね?」照れ隠しなのか、話題を変えてくる。
「まいったな。
そういう話は、尾ひれがついて伝わるものだからな」「でも、ずっとトップセールスだったって聞きました」「誰がそんなことを?」「ハピネスコンピュータで、うちの担当をしている辻堂さんが、みんなに言ってました」リーダーが部下とコミュニケーションを深めるには、いくつかの方法がある。
相手がある程度の能力があるようなら、リーダー自身のさらに豊富な経験や高度なスキルを見せることによって、尊敬と信頼を得ていくことができる。
極端な言い方をすれば、神として崇めさせるわけだ。
しかし、まだまだ未熟であったり、伸び悩んでいる部下が相手の場合は、むしろリーダーにも苦しんだり失敗したりしたころがあったことを伝え、同じ人間なのだと感じてもらえるようにする。
リーダーは神ではなく、手の届く目標なのだ。
たとえが適切かどうかはわからないが、学校の教師が高校生を相手にするときは、人間としての成熟度を表に出し、小学生を相手にするときは、腰を屈めて目線を合わせて話すようにするみたいなものかもしれない。
辻堂は、五十嵐の営業所長時代の部下だった。
優秀な営業マンで、今では五十嵐の跡を継いで、その営業所のリーダーをしている。
辻堂としては、他社に出向した五十嵐を応援しようと気を使ったのかもしれないが、これはあとで注意しておこうと思う。
「初めから業績がよかったわけじゃないさ。
入社して四年くらいは、まったく売れない営業マンだったんだ。
営業の仕事がいやで、社長に退職願を持ってったくらいなんだから」「退職願って……ほんとですか?入社して四年って、今の私と同じくらいですね」「そうだね」香乃が小さく溜息をつく。
「どうしたら、売れるようになりますか?」「秋元さんは、売れるようになりたいの?」「それは……営業を仕事に選んだ以上は、やっぱり売れるようになりたいです。
でも私は、あんまり向いてないのかなって、最近では思ったりもして……。
お客様と商談していても、うまく言いたいことが言えないんです」佐伯に叱責されながら、表情を強張らせていた香乃の姿が思い出された。
緊張すると、身構えてしまうところがあるのかもしれない。
「それは営業マンにとって、すごい強みだね」「えっ?」「言いたいことが言えないのは、それを言うことによって相手がどう思うのかを、無意識のうちに深く考えてしまってるってことだよ。
配慮や思いやりがある優しい性格ってことじゃないかな。
きっと、お客様に感謝してもらえるような、よい営業マンになれるよ」マイナス思考の人は、自分で自分を悪いほうへと追い込んでしまうことがある。
それが本当に、誰がどう考えても短所であるとしても、視点を変えることによって、まったく反対の意味に捉えることもできる。
発想を逆転させることにより、部下のモチベーションを高めることも、リーダーの大切な役割だ。
「ありがとうございます。
部長にそう言っていただけると、なんだか本当にそんな気がしてきました」香乃が少し照れた様子で笑みをこぼした。
本当によい笑顔をする。
これを引き出すだけでも、香乃の業績はもっと上がりそうに思えた。
「これ、リフレーミングっていって、今までと違った視点で物事を見直して評価するというカウンセリング手法なんだ。
自分でもできるよ。
ちょっとやってみよ
うか?」香乃は半信半疑のような表情をしながらも、素直にうなずいた。
「身近な人たちの短所を考えてみよう。
まずは私の性格だけど、意地っ張りなところがあって、それで時々失敗をしてしまうことがある。
これを逆転させてみると?」ちょうど信号が赤になり停車した。
香乃が、五十嵐の顔をじっと見つめながら考え込む。
「意志が強くて、やり遂げる性格……でしょうか?」「いいね。
ありがとう。
そう言われたら、長所に思えてきたよ。
うれしいなぁ。
それじゃ加藤主任ならどうだろう?彼は、少し優柔不断なところがあって、他人の意見に流されやすいかな」「ははは。
さすが部長、よく見てますね」「彼には内緒だよ」「はい」「それで、逆転すると?」「それって、協調性があるってことじゃないですか?」「そうそう。
じゃあ、秋元さんの短所は?」「要領が悪いって、いつも佐伯リーダーに怒られてます」「それを逆転させると?」「うーん。
何事にも丁寧に取り組む真面目な性格ってことでは?」香乃が照れたように微笑む。
「その通り!」「もしかしたら、そうかなって思ってました」二人で顔を見合わせて笑った。
「こうやって見ると、我が社は素晴らしい人材ばかりじゃないか」五十嵐の言葉に、香乃はさらに声を上げて笑った。
信号が青になった。
車を発進させる。
「私でも、売れるようになりますか?」三分の一ほど開けられた窓から、さわやかな風が入り込み、香乃の柔らかそうなボブヘアがサラサラと揺れている。
「売れる営業マンになるって、難しいことだよな。
私も若いころ、まったく同じ質問を上司にしたことがあった」「なんて言われたんですか?」香乃が目を輝かせている。
「営業マンは、商品を売ることなんて考えなくていいって言われたよ。
ただ、お客様に感謝されるにはどうしたらいいか、それだけを考えろって」「感謝……ですか?」「仕事って、いかにやるかじゃないんだ。
なぜやるか、だと思うんだ。
仕事のために人生があるんじゃなくて、人生の一部として仕事がある。
目標は仕事の予算を達成することじゃない。
自分や家族や友人が幸せになるということだよ」「未来の履歴書ですね」「ああ。
自分の人生と本気で向き合っている人は、きっとお客様のことだって真剣に考えることができるはずだ。
商品を売りたいのではなく、お客様に感謝されたいって。
営業の成果である利益は、お客様からの感謝の分量に比例するんだ」「感謝の分量なんて、素敵な言葉ですね」「その上司の受け売りだけどね」「尊敬されているんですね。
その方のことを」「ああ。
いつか追いつきたいと思ってる」一瞬、五十嵐は何かを思い出すように、遠い目をした。
「秋元さんは、どうして営業という仕事を選んだの?」五十嵐の問いかけに、香乃が少し迷うそぶりを見せる。
言いづらいことなら無理に話す必要はないと口にしようとしたところで、香乃が顔を上げた。
「私の家は、母子家庭だったんです。
幼いときに父を事故で亡くして以来、母が働きながら、私を育ててくれて。
母の仕事は、生命保険の営業だったんです。
ずっと成績はよかったみたいで、子供ながらに、いつも母のことをかっこいいなぁって思ってました」香乃が父親を亡くしていることは、人事ファイルを見て知っていた。
「秋元さんの自慢のお母さんなんだね」「はい!」香乃がうれしそうにうなずいた。
「今でもまだ現役で働いてるんです。
いつもお客さんのところを飛びまわってます。
母は、私にとって目標みたいなものなんです」「それで営業マンに?」「母みたいになれたらいいなって思って。
けっこうミーハーな理由なんですけど……。
こんなの、だめでしょうか?」五十嵐は、大きく首を横に振る。
「そんなことはないさ。
うちの女性営業マンは秋元さん一人だからな。
どんどん活躍してもらって、女性の採用を増やすきっかけを作ってほしい。
将来はリーダーになって、後輩を引っ張ってくれよ」香乃の担当地区に到着した。
営業車をコインパーキングに入れる。
「私、リーダーなんかになりたくないです」「えっ?」「営業という仕事は頑張りたいと思いますけど、リーダーはいやです」香乃の言葉は、五十嵐には意外だった。
「どうして?」「だって……佐伯リーダーを見てると、大変そうだから。
つらくて忙しいのに、それが報われてないっていうか、なんだか割に合わない仕事っていうか。
それにそもそも私なんか、リーダーに向いてないと思います」「リーダーに向いているとか向いていないとか、そういうのはないと思うけど。
誰でもリーダーにはなれるんじゃないかな。
問題は、なりたいという強い思いがあるかどうかだ」「強い思いですか?」「長崎県に九州教具という会社があってね、組織長を立候補制にしていて、全国の企業経営者から注目されているんだ」「組織長に立候補するんですか?」香乃が驚いた顔をする。
「おもしろいだろう?」「おもしろいとかそういう問題じゃないような気がしますけど」「思いがある人こそ、リーダーになるべきなんだよ」五十嵐は自分自身に言い聞かせるように、そう繰り返した。
九州教具株式会社は、事務機器販売を手がけるソリューション事業部と、ビジネスホテル四軒を運営しているホテル事業部がある。
ソリューション事業部は複写機メーカーであるリコーの販売代理店として、全国でも屈指の好業績を達成しつづけていた。
ホテル事業部が運営する一番新しいビジネスホテルであるホテル・ブリスヴィラ波佐見は、オープン半年で、旅行予約サイトの「じゃらん」において、顧客の評価を順位づけする「泊まって良かった宿ランキング」で、九州地区第一位の栄冠に輝いている。
「社長の船橋さんとお会いしたことがあるんだが、組織力強化の上で、とても興味深い話が聞けたよ」九州教具では、船橋社長が専務時代の一九九九年に、役員も含めてすべての組織長を解任したことがあった。
事の発端は、組織階層の多層化と硬直化という中小企業の多くに見られる問題に対して、社員たちから疑問の声が上がったことだった。
──そもそも、なんでこんなに組織長がたくさんいるのだ。
当時はまだ六十人ほどの従業員数にもかかわらず、組織長は九階層もあった。
年功序列で管理職になった者もいる。
船橋社長はすべての組織長を解任した上で、復職したい者は立候補するように通達した。
条件はただ一つで、A4判一枚程度の自薦書を義務づけただけだった。
「それで何人が立候補したと思う?」「それはやっぱり、全員がしたんじゃないでしょうか?」五十嵐は、おもしろそうにかぶりを振った。
「ゼロだったそうだ」香乃があまりの驚きに、目をまん丸に見開いた。
そこですべての社員に対象を広げ、立候補を受けつけることにした。
最終判定は経営陣がするとはいえ、選ばれるのはあくまでも立候補した人たちの中からのみだ。
社員としての年次や経験は不問とした。
もちろん、「飛び級」もありだ。
自分が組織長になったら、どんな仕事をしたいのか。
リーダーとしての「思い」だけが、登用の判断基準だった。
以来十数年に亘り、その制度はつづいている。
ソリューション事業部とホテル事業部で部門を横断する者も含め、様々な階層に、経験を問わずに新しい組織長が誕生している。
なお、降格人事も本人による立候補だ。
「経験を問わないって、すごいですね」「もちろん選考過程の中で、経験がまったく考慮されないというわけではないだろうが、かならずしもそれがすべてというわけではない。
船橋社長には、『失敗によって経験をさせる』という強い信念があるんだ。
失敗は仕事上の損失ではなく、新たな価値を生み出すための経験であって、むしろ貴重なステップだと考えているんだろうな。
だから若い人たちでも、失敗を恐れないし、逃げることもない。
どんどん新しい仕事にチャレンジしている。
そして、強い思いを持って、組織長に立候補してくる」信用は過去の実績のみから生まれるが、信頼は未来への思いも含めて醸成される。
リーダーにとっては、信用だけでなく信頼も大切なのだ。
「リーダーって、女性もいるんですか?」香乃が控えめに口にする。
「ああ。
もちろんだよ」船橋社長から聞いた、柏崎舞子という女性リーダーの話をする。
ホテル事業部が募集した中途採用に舞子が応募してきたのは、十年ほど前のことだ。
船橋社長は、今でもそのときのことを鮮明に覚えているという。
舞子は目の覚めるような金髪と、白いパンツに黄色のハイヒール姿で現れた。
当然ながら、面接官を務めていた幹部社員は、全員が驚きを隠せない。
それはそうだろう。
採用面接といえば、黒かグレーのスーツに膝丈のスカート、パーマを落とした黒髪という普段の姿とは似ても似つかぬ格好で、口にするのは誰もが決まり文句のように、「御社の将来性に惹かれました」である。
顔色を変えて咎めようとする他の面接官を制し、船橋社長は舞子にその服装で来た理由を訊いた。
彼女はエステティシャンで、その格好はお客様を迎えるのに相応しいものだと言う。
エステサロンに来るお客様は、少しでも美しくなりたいと思っている。
華やかな服装で接客するのは、お客様の思いに応えるための、おもてなしの心だった。
舞子は仕事帰りにそのまま面接を受けに来ただけで、転職にかける思いには、少しの迷いもなかった。
ホテル業という仕事を通して、お客様におもてなしをしたいと新しい挑戦に夢を持っていた。
船橋社長は舞子を採用した。
そんな彼女が「管理職立候補制度」を使って、リーダーに立候補をするまでには、何年もかからなかった。
舞子はいくつものプロジェクトを推進し、大きな成果をおさめている。
勤務するクオーレ長崎駅前は、ビジネスホテルとしては珍しく、女性専用フロアを有している。
このレディスフロアのリニューアルの際、地元にある活水女子大学の生活デザイン学科とコラボレーションをするという、驚くべきアイデアを出し、それを実現させたのが舞子だった。
地元の女子大生たちのデザインで女性専用フロアをリニューアルする。
地域創生、女性視点の活用、未来を担う優秀な人材の登用など、その効果は計り知れない。
しかも、地元テレビ局とタイアップし、コンペ開始から表彰までを番組にして、多大な宣伝効果も上げてしまった。
「ついでに付け加えると、柏崎さんは、三人のお子さんのママだそうだよ」「すごいです!」香乃がキラキラと瞳を輝かせる。
「もちろん、柏崎さんだって、何度も大きな壁にぶつかって失敗してきたんだと思う。
それでも逃げずに立ち向かった。
だからこそ失敗を糧として、斬新で大胆な発想を生み出すことができたのだと思う。
柏崎さんの活躍は本当に素晴らしいし、さらにそれを支えた、『失敗によって経験をさせる』という会社の文化や制度も、高く評価されるべきだね」「いつか、柏崎さんに会ってみたいです」「そうか。
うん、そんな機会があるといいな」五十嵐と香乃は営業車を降りると、元気よく歩き出した。
22結果とは量ではなくて質で評価するもの香乃の顧客訪問に同行するため、五十嵐は肩を並べるようにしながら、彼女の担当地区を歩いていた。
「いつもは、一日に何社くらい訪問するのかな?」「新規開拓をするときは三十社以上まわることもありますが、通常はルート営業が基本なので、午前中に二社、午後に三社くらいです。
もう少し多い日もありますけど、長い商談があれば、一日一社なんていうこともあります」「意外と少ないんだな」「最近は残業しないように、佐伯リーダーからも言われてますし、夕方には会社に戻って提案書や見積書を作らないといけないので」言いわけにならないように、香乃は気をつけて言葉を選んでいるようだ。
「たしかに会社としては、人件費削減の必要性からも、残業を極力しないように打ち出してはいるけど、なにも残業そのものを否定しているんじゃないんだ。
家族や友人とすごす時間を大切にしたいとか、勉強や趣味の時間を増やしたいとか、ワークライフバランスを見直すことで、むしろ仕事のやりがいが高まると思うんだ。
佐伯リーダーだって、会社の方針だけで言っているわけじゃなくて、秋元さんのことを思って指導してるんじゃないかな。
お付き合い残業やサービス残業はやめるべきだけど、やるべき仕事があり、やりたい思いがあるなら、残業だってきちんと上司に申請してかまわないんだよ」「それはわかってるんですが……」業績が伸び悩んでいる香乃としては、言いづらい雰囲気があるのだろう。
結果として、上司が帰ったあとに、こっそりサービス残業することになれば、モチベーションの維持も難しくなってくるはずだ。
そもそも仕事とは、どれだけやったかではなく、何を成し遂げたかで評価すべきなのだ。
いっぽうで、営業プロセスにおいて質を高めようとするならば、経験値を上げるために顧客接点活動量の増大は絶対条件となる。
質を求めるからこそ、まずは
量を優先するべきだ。
ただし、時間は誰にも有限だ。
行動量を増やすためには、他の業務の削減が必要となる。
社内における営業付帯業務の効率化も、営業組織の生産性向上にとって重要なテーマなのだ。
これも営業部のみならず、会社全体で考えていかなければならない課題の一つだった。
五十嵐は、香乃がアポイントを取っていた花井貿易を一緒に訪問した。
ヨーロッパのアンティーク雑貨を、大手百貨店に卸したり、チェーン展開している飲食店に販売したりしている会社だ。
総務部の窪ノ内課長と面談する。
窪ノ内は大変明るくて気さくな性格で、香乃に紹介された五十嵐とも、すぐに打ち解けて会話は弾んだ。
香乃の話ぶりからすると、窪ノ内は最近になって他部署から異動してきたようだ。
購買担当になって、まだ数カ月らしい。
「今回も弊社にご相談をいただきまして、ありがとうございます」一通りの世間話もすんだところで、香乃が商談を切り出した。
「大村事務機さんには、前任のころからお世話になっていますからね。
私としては初めての相談になりますが、よろしく頼みますよ」五十嵐が窪ノ内の言葉を受ける。
「ありがとうございます。
ご期待に応えられるように頑張ります。
今回のご相談は、ノートパソコンの購入ということでよろしかったでしょうか?」五十嵐は、営業鞄から取り出したタブレットPCを立ち上げる。
「新人の営業マンが十人入ったので、その分の新規購入と、現在使っているものの中で、OSが古くて不安定なものが三十台くらいあるので、併せて入れ替えも検討したいんです。
パソコンの設定もそうですが、アプリケーションやデータの移行について、スムーズにいくかどうか不安なんですよね。
うちの社員は、ITに弱い者が多いですから」窪ノ内が対象機器のリストを示しながら言った。
四つの部門に亘り、三十三台のパソコンが入れ替え対象に指定されていた。
「それぞれのパソコンの設定や、入れ替え対象機のデータ移行など、共有サーバーからプログラムを提供することで、ワンクリックで簡単に行うことが可能です」「それ、いいですね。
業務を停滞させるわけにはいきませんから。
それから、会議室やショールームなど、ノートパソコンを持って移動する機会が増えているので、社内で無線LAN環境を構築したいと思ってるんです」「これを機会に、社内のフリーアドレス化なども検討されてはいかがですか?」「営業部や販売促進部などからは、そういう声も上がってはきていますが」「そうなると、セキュリティ対策もさらに重要になってきますね」窪ノ内からヒアリングした内容を、タブレットPCにタッチタイピングしながら箇条書きにしていく。
図表描画の機能を使って、共有サーバーに置かれた引越しアプリケーションが部門ごとに異なる設定を自動で行い、パソコンごとにデータ移行していく様子を、簡単なイメージ図に描いた。
予算や納期などの確定している要望と、窪ノ内からヒアリングした不確定な希望を整理し、五十嵐が感じた疑問点なども付け加えて記載していく。
想定される心配な点はピンク色にマーキングして、そこに提案内容の注釈を付け加えた。
テーブルの上にタブレットPCを置いているので、窪ノ内がずっと覗いている。
「指定いただいた入れ替え対象機以外でも、御社にメリットがありそうな場合は、ご提案させていただいてもよろしいですか?」「たとえば?」「同じOSでも、プリインストールされたものとアップグレードされたものが混在し、ハードウェア的には世代格差が生じていますので、まずはスペックからくる作業効率の格差改善ですね。
それに最新のノートパソコンは消費電力も低いのでコスト削減になりますし、バッテリーによる駆動時間も長いですから、災害時のBCP(事業継続計画)の一環にもなります」「それを具体的な数値で比較した資料はありますか?」「もちろん、ご提案できます。
せっかくの機会ですから、社員のみなさんにアンケートを実施し、業務上で感じている不具合や要望などを取りまとめて、窪ノ内さんに報告させていただくというのはいかがでしょうか?」「というと?」窪ノ内が意外そうな顔をする。
「そもそも営業マンの方たちと社内のスタッフでは、仕事の仕方が違いますよね?」「それはそうです。
営業マンは取引先の百貨店や飲食店に打ち合わせに行ったり、展示会を主催してエンドユーザーに商品を案内したりなど、社外での活動が中心になります」「だとしたら、パソコンも社外で利用することを検討されてもいいんじゃないでしょうか?業務処理だけでなく取引先やお客様へのプレゼンなど、活用方法も広がっていくと思います」窪ノ内が難しい顔をする。
「営業部からは、そういった要望も来てはいるんですけど。
外に持ち出すとなると、管理側としては、セキュリティ対策など不安も多くて……」「そもそも御社の営業のあるべき姿をどうするかだと思うんです。
理想と現実にギャップがあるのなら、それを埋めるために当社がお手伝いをさせていただきます」窪ノ内をまっすぐに見つめる。
「わかりました。
上司の許可を取りますから、アンケートを実施する方向で準備していただけますか?」「ありがとうございます」「予算の上限で提案をまとめるのではなく、ご提案も含めた複数のパターンで考えてみてください」五十嵐は、改めてタブレットPCの画面を窪ノ内に見せて、「では、うかがったお話を整理すると、こんな形でよろしいですか?他に何か不安な点などございませんか?」内容について確認してもらう。
記載された項目を指先で追うようにしていた窪ノ内が、「あっ、廃棄するパソコンに残っているデータの破棄については大丈夫ですよね?」急に思い出したように顔を上げた。
「かなり重要なデータもあるということですね?」「取引先の大切な情報もありますから」「消去ソフトを使ったものから、消磁装置による物理的な消去まで、いくつかの方法がありますので、詳しくご紹介させていただくようにします。
どんな些細なことでも、不安を持たれたことは、なんでも相談してください」「ありがとうございます。
五十嵐さんの提案なら、何も心配はなさそうですね」窪ノ内が満足そうにうなずいた。
「本日お聴きしたことを踏まえて、一次提案書を作らせていただきます。
次回は、いつがよろしいでしょうか?」五十嵐は次回のアポイントを取りながら、机の上に置かれた窪ノ内の名刺を見て、タブレットPCに何かを打ち込んでいる。
「来週の月曜日の午後一時だと助かります」「承知しました。
今、窪ノ内さんに今日の議事録としてこの内容をメールしましたので、間違いや足りないことがございましたら、いつでもご連絡ください」五十嵐がタブレットPCの画面を見せながら言った。
「もう送ってくれたんですか?」窪ノ内が驚いている。
「はい。
すでに送信完了しています」五十嵐が笑顔でうなずいた。
花井貿易を出ると、香乃が目を輝かせて話しかけてきた。
今にも飛びつかんばかりに興奮した様子だ。
「五十嵐部長、すごいです!」「どうしたんだよ。
まるでペットショップで売られている仔犬みたいな目をしてるぞ」五十嵐がからかうと、香乃の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
それでも勢いは止まらない。
「商談中に議事録を書いて、アポイントを取りながらその場で提出してしまうなんて、そんなことする人、初めて見ました」「商談は情報が命だから。
お客様のニーズを共有し、課題や問題に迫っていくためには、少しでも情報収集の精度を上げなくてはならないだろう。
そのためには、自分でまとめるより、お客様の力を借りたほうが絶対いいに決まってる。
こちらだって帰社してからだと、記憶が曖昧なところもあるしな。
議事録だけじゃない。
場合によっては、提案書だって、お客様と一緒に作ってしまうことがある」「提案書まで?」「そのほうが、お互いに新たな気づきもあるだろう」香乃がうなずく。
「さっきの議事録だけど、お客様にメールしたときに、秋元さんをCCの宛先にしたのはもちろんだけど、佐伯リーダーにもBCCで送っておいたから、帰社したらみんなでレビューしながら、提案の方向性について話し合ってみよう。
一日は二十四時間しかないんだ。
これは誰にも平等だから、商談の量を増やそうと思ったら、仕事の流れを工夫していくことが大切なんだ。
営業マン全員にタブレットPCを用意してもらうように、坂巻部長にお願いしているから、配布されたら、秋元さんも積極的に活用してくれよ」「はい。
わかりました!」「さあ、次のお客様のところに行くぞ」五十嵐と香乃は、颯爽と歩きはじめた。
23お客様と同じ方向を見る結局その日、五十嵐は香乃と一緒に、花井貿易を含めて七社の顧客を訪問した。
一社目の花井貿易だけは積極的に商談に参加したが、残りの六社については、できるだけ香乃に任せるようにした。
香乃が顧客にどのように対応し、それがどう評価されているのか、商談に同席することで確認していく。
夕方、大村事務機に帰社した。
同行結果について、佐伯と振り返りの打ち合わせをしていると、香乃が興奮した様子でやってきた。
「すごいです!」香乃のいつもとは違った話しぶりに、「どうしたんだ?」佐伯は驚いた顔をしている。
五十嵐は二人を見て、にこにこと笑っていた。
「今日同行していただいた花井貿易の窪ノ内課長から、もう返事のメールが来てるんです」五十嵐と佐伯の会話に割り込む非礼にも気づかないほど、香乃のテンションは上がっている。
「それで、なんだって?」「気づいたこととして、要望がいくつか追加されていました」「そうだろうな。
誰だって、振り返れば新たな気づきがあるものだから。
商談直後の記憶がはっきりしているうちなら、とくにその傾向は強い。
そのメール、私には来ているだろうけど、BCCだった佐伯リーダーには返信されていないから、秋元さんから転送しておいて。
このあと、三人で提案についてレビュー会をやろう」「はい、わかりました」香乃が満面の笑みを浮かべている。
商談をしていて、お客様から素早い反応があったことが余程うれしいようだ。
「なんですぐに返事が来たんだと思う?」花井貿易の窪ノ内からは返信が来たが、他に訪問した六社からは、とくに反応はないようだった。
「それは……五十嵐部長が、商談しながらタブレットPCで議事録を作って、それをすぐにお渡ししたからじゃないですか?」「本当にそうかな?もちろん、お客様と一緒に議事録を作ったことは効果的だとは思うけど、そのあとだって、レポート用紙を使って商談をしてもらっただろう?コピーを置いてきてるじゃないか。
なんで花井貿易だけが反応が早かったんだろう?」「それは……」香乃が言葉につまる。
悩んでいるようだ。
五十嵐と香乃のやり取りを、佐伯が興味深そうに見ている。
「すぐに返事が来たのは、窪ノ内課長が、そこにニーズを感じたからじゃないのかな」「ニーズですか?他の商談だって、商品ができることについて、きちんと説明させていただきましたけど……」香乃は納得できないといった顔をしている。
「商品ができること?」「はい。
商品がお客様にどんな価値を提供できるかということです」「今日、秋元さんの商談を見せてもらったけど、それを伝えるには、少し一方通行だったような気がするな」言葉を選んだつもりだったが、香乃はかなりショックを受けたようだ。
さっきまでの笑顔が、一瞬のうちに強張ってしまった。
「それは……たしかに五十嵐部長みたいにじょうずにはしゃべれませんでしたけど、今日訪問したお客様は、どこも担当して一年以上経っているところばかりなので、担当者の方と気心も知れているし、私なりに一生懸命にお話しさせていただいたつもりだったんですが……」香乃はすっかりしょげてしまった。
肩を落として、暗い表情をしている。
かわいそうだとは思ったが、それでもここは大切なポイントなので、はっきりと伝えることが必要だった。
佐伯だけでなく、大手営業課の他のメンバーも五十嵐と香乃のやり取りを見ている。
みんなの顔を順番に見ながら、最後は香乃に向かって語りかけるように話しはじめた。
「こういう話がある。
ある大型スーパーの店長のところに、歯磨き粉のメーカーの営業マンが来たそうだ。
新商品が発売になる。
それがいかにライバル会社の製品よりも優れているかを力説し、人気の女優を起用したテレビCMも流すので、間違いなくたくさん売れるとも言った。
だから商品棚での位置をもっとお客様から見やすいよい位置に変えて、面積も増やしてくれとお願いしてきた。
たくさん売れて儲かりますよって。
店長はなんて答えたと思う?」香乃が悩んでいると、隣の地域営業課の加藤が横から口を挟んだ。
いつの間にか、営業部の全員が五十嵐と香乃を囲むようにして話を聞いていた。
「それはもちろん、OKしたに決まってますよ。
新製品で宣伝もたくさんしているなら、今までよりたくさん売れるでしょうから、棚の面積を増やしたほうが、スーパーだって得じゃないですか」五十嵐がおもしろそうに答える。
「外れだ。
店長は断った」「どうしてですか?儲かるってわかってて断るなんて、おかしいです」加藤はいかにも納得がいかないという顔をする。
「たしかに有名女優を起用してのテレビCMが流れれば、その歯磨き粉の会社の新製品は、今までよりたくさん売れるかもしれない。
そのために商品棚のよい場所に移し、面積を広げるのは効果があるだろう。
その歯磨き粉についてはね」「あっ……」トップセールスの加藤は、すぐに五十嵐が言わんとしていることを理解したようだ。
苦笑いして頭を搔いている。
「その新商品を商品棚のよい場所に移し、面積を広げるということは、裏を返せば、今までそこに置いてあった別のメーカーの商品が、他の場所へ移動されてしまい、面積も狭くなってしまうということだ。
スーパー全体の面積は変えられないからな。
その営業マンの頭の中にあったのは、自社の商品を売ることであって、スーパー全体の利益ではなかった。
店長としては、多少の売上増は見込めたとしても、そんな身勝手な営業マンとは付き合いたくないと思ったんだろう」「自分たちの商品を売ることに一生懸命なあまり、お客様のことが見えなくなってしまったんだな」
突然の大村専務の声に、そこにいた全員が振り返った。
一番後ろで腕組みをしていた大村専務が、真剣な顔つきで話をつづける。
「営業マンの見るべき方向は、お客様のほうではなく、『お客様が見ている方向』なんだろうな。
パートナーになるって、同じ視点を持つことなんだから」大村専務の言葉を受けて、「だから、秋元は売れないんだよ」佐伯が厳しい口調で言った。
香乃がうなだれてしまう。
佐伯は悪い男ではなかったが、若くして出世した人間にありがちなタイプで、思ったことをすぐに口に出してしまうところがあった。
それほど悪気があるわけではない。
ただし、なんでも当たり前にできてしまう人間には、それができない人間のことは理解できない。
売れる営業マンには、売れない営業マンの気持ちは、なかなかわからないものだ。
トップセールスからリーダーになって失敗する人の多くが陥る落とし穴は、部下の営業力の基準を、無意識のうちに自分自身に置いてしまうことだ。
自分が営業マンとして経験したことは、単なる一つの事例とするくらいに客観的に捉えることが求められるが、実は優秀なプレイヤーだった人ほどこれが難しい。
「まあ、誰もが佐伯リーダーのようにはいかないさ。
いいじゃないか。
秋元さんは秋元さんで、そうやって失敗を繰り返しながら、一つひとつ成長していけば」「成長してくれればいいんですけど」「佐伯リーダーがついていてくれるんだ。
大丈夫だろう」五十嵐は笑顔で、ポンポンと佐伯の肩を叩く。
「まあ……それはそうですけど……」「第十六代アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンって知ってるか?」「たしか、『人民の、人民による、人民のための政治』って演説した人でしたっけ?」佐伯に対してうなずくと、五十嵐は話をつづける。
「そのリンカーンが、『あなたが転んでしまったことに関心はない、そこからどう立ち上がるかに関心があるのだ』って言ったそうだよ。
リンカーンみたいな気持ちで、秋元さんを助けてやってくれよ」「私がリンカーンですか?」佐伯は苦笑いしているが、まんざらでもないようだ。
24お客様への価値提供は組織で行う「ちょうど全員がそろっているようだから、いい機会なんで、みんなに話したいことがある」三人のリーダーを含め、営業部全員が五十嵐に注目した。
大村専務も五十嵐に視線を注ぐ。
「新しいルールとして、副担当制を採りたいと思う」聞き慣れぬ言葉に、営業マンたちは顔を見合わせていた。
ホワイトボードを使って、副担当制について説明をはじめる。
営業部のメンバーが、二名ずつチームを組む。
原則はベテランもしくはトップセールスに対して、若手か業績低迷セールスが組むことになる。
期初に提出した攻略ターゲット五十社の中の重点顧客十社について、このチームパートナーが互いに副担当となるのだ。
重点顧客に対しては、必ず副担当を伴って訪問することがルールだ。
商談は当然のこと、定期訪問や集金業務でさえ、例外なしに同行する。
必然的に、訪問にはすべてアポイントが必要になってくる。
顧客とだけではなく、副担当とのスケジュール調整も求められることになる。
若手はベテランの経験豊富な商談を、案件創造から成約まで一貫した流れとして、間近で見ることができる。
まさに生きた営業研修だ。
いっぽうでベテランは若手の商談を常に共有することで、マネジメントを学ぶ機会を日常的に得ることができる。
これは営業プロセスの最適化を確認する作業となり、自分自身の営業活動においても、セルフマネジメントの品質を高める結果に繫がる。
高度な商談プロセスが求められる重点顧客をチームセリングすることで、案件発生率や成約率も高まり、会社としても業績拡大になるのだ。
「それはわかったんですけど、組み合わせはどうするんですか?」声を上げたのは、大手営業課の係長の田所浩二だ。
地域営業課の本多には水をあけられていたものの、大手営業課においては売上の稼ぎ頭だ。
社歴は佐伯よりも一年ほど長いだけだったが、すっかり薄くなった髪と突き出た腹の貫禄で、どちらが上司かわからないほどだった。
田所はあまり乗り気ではなさそうだった。
トップセールスほど、自分独自のやり方を乱されたくないものだ。
しかし、だからこそ、個人の営業プロセスを組織で共有する仕組みが必要なのだ。
トップセールスやベテランセールスのノウハウは、組織の財産としなければならない。
「田所係長の相手は、もう決めてある」「誰ですか?」「秋元さんだよ」「ええっ!秋元かよ」田所があからさまに不服そうな顔をする。
「まあ、そう言うな。
秋元さんみたいな素敵な女性と一緒にいられるんだから、悪い話じゃないだろう。
ちなみに今月から、重点顧客での売上は、すべて副担当と折半での評価とするから」「ちょっと待ってください!」「半分も取られちゃうんですか?」「それはおかしいでしょう」これにはベテランたちが一斉に不満の声を上げた。
五十嵐は横目で三人のリーダーの反応を確認する。
高橋は無表情のままだった。
佐伯と中川はおもしろそうに笑みさえ浮かべている。
営業マン同士が重点顧客の売上を折半し合ったとしても、営業課の合計は変わらないので、彼らを束ねるリーダーとしてはまったく影響がない。
「いろいろと意見もあるだろうが、これは営業部長として、私が決定したことだから。
自分の重点顧客の売上が半分になったとしても、副担当の持っている重点顧客の売上だって半分がつくんだ。
減った分は、パートナーを応援することで取り戻してくれ」「ちょっと待ってください。
まさか、ヒグチハウジングもじゃないですよね?」田所が真っ青な顔をしている。
「もちろん、例外はない」ヒグチハウジングは大村事務機にとって、民間企業では一、二を争う売上高の重点顧客だった。
地場大手のハウスメーカーであり、プレキャスト・コンクリートという工場生産した鉄筋コンクリートパネルを現場で組み立てる工法で、地震や火災に強い高耐久住宅を製造販売している。
従業員数は、本社、展示場、工場を合わせると千二百名を超える。
田所が担当していて、年間の取引は億を下らなかった。
田所が高い売上業績を上げつづけていられるのも、ヒグチハウジングのおかげだといっても過言ではない。
その売上が半分になれば、田所の立場はかなり厳しいものになる。
「いくらなんでも、それは勘弁してください!」「言った通り、例外は一切認めない」「なんで私の数字を、秋元にやらなきゃならないんですか!」田所が香乃を睨みつける。
香乃は猛犬を前にした仔猫のように、身体を縮こませて目を伏せていた。
「お客様は田所係長のものじゃない。
大村事務機という会社で取引してるんだ」「それはそうかもしれませんが、案件を作っているのは私です」「繰り返すが、自分の重点顧客の数字の半分が副担当につく代わりに、副担当の数字だって半分が返ってくるんだ。
副担当と協力してやってくれ」「そんな……」田所はまったく納得がいかない様子で、完全に不貞腐れている。
空気が凍りつく。
若手たちも戸惑いを隠せない。
「お客様への価値提供は、組織で行うんだ」
毅然と言いはなつ五十嵐に、田所はそれ以上は何も言わなかった。
その夜、駅前の居酒屋で、五十嵐は三人のリーダーと吞んでいた。
安い焼酎のボトルを入れ、焼き鳥を肴に水割りを舐める。
「副担当制のこと、どう思う?」中川が五十嵐のグラスに新しい水割りを作りながら、その問いかけに答える。
「部長だって、いろいろとリスクがあることもわかった上で踏みきったんですよね?だったら、私は何も言いません。
部長の覚悟に付き合うだけです」中川は、「覚悟」という言葉を使った。
まだ知り合って二カ月だというのに、案外よく見ている。
「佐伯リーダーは?」ワイシャツの袖をまくり上げて、グラスの水割りを一気に空けた佐伯が、「私は賛成です」少し赤らんだ顔で言った。
「ただ、田所が心配なんだ」「大丈夫か大丈夫じゃないかは、私にもわかりません。
だけど、今のままでは業績がジリ貧だってことだけはわかります。
我々も田所も、腹を括らなきゃいけないときなんです。
部長がうちに来てから、いろんな新しいことに挑戦してますよね。
こうなったら、毒を喰らわば皿までですよ」たとえが少し違うような気もしたが、佐伯が力になってくれようとしていることだけは感じられて、それがうれしかった。
「ありがとう」「やだな。
礼を言うのは、こっちのほうですよ。
部長のおかげで、なんだか仕事がとってもおもしろくなってきたんです。
最近、自分が変わってきたような気がしてね。
今から思えば、以前はマネジメントってことを、なんにもわかってなかったんだなって」そこまで言って恥ずかしくなったのか、佐伯がトイレに立ってしまった。
その背中を見ながら、高橋が言った。
「おもしろくなってきたっていうのは、私も同じです。
だから、心配せずに走りつづけてください。
しっかり、ついていきますから」普段はあまり感情を表に出さない高橋が、満面の笑みを浮かべている。
そのぎこちなさが、かえって彼の素直な思いを伝えてきた。
彼らの思いに応えるためにも、まだまだ改革の手をゆるめるわけにはいかない。
五十嵐は込み上げてくる熱いものを押しとどめるように、あわててグラスの残りを吞み干した。
25自分を信じてやれるのは自分枕元の時計を見ると、まだ四時前だった。
起床時刻の五時半よりだいぶ早かったが、すっかり目が覚めてしまった。
神経が高ぶっているのだ。
五十嵐はベッドから起き上がった。
月曜日の朝。
また一週間がはじまる。
大村事務機に出向してきて、あっという間に二カ月がすぎてしまった。
組織の体質や文化を変えるべく、抜本的な改革を断行するには、最低でも半年は必要だ。
やらなければいけないことは山ほどあった。
持続可能な仕組みを構築し、それを定着させるには、時間はいくらあっても足りなかった。
その間も組織は生きている。
業績は待ってくれない。
ファンゲームの大型一括案件によって、業績計画は一息ついているように見えた。
しかし、それはあくまでも一時的な数字によるもので、改革によって営業力が強化されたわけではなかった。
ファンゲームの数字を外せば、業績計画は未達であり、状況は何も改善していない。
五十嵐は、黒字化までの期間を三カ月としていた。
改革を同時進行させながらも、四カ月目からは月次計画を達成していくだけの基礎体力を作る。
七カ月目からは貯金態勢に入り、年度では黒字化を実現する。
ハピネスコンピュータとは違う。
大村事務機の体力を考えれば、悠長なことはいっていられない。
とにかく、時間が足りなかった。
もっとスピードを速めていかなければならない。
先日も営業革新への投資のことで、坂巻とやり合ったばかりだった。
五十嵐が提出した、営業マン全員へのSFA導入とタブレットPC配布の起案書は、まったく進んでいなかった。
経理責任者である坂巻のところで止まっていた。
坂巻が握り潰している。
業績を上げる仕組みの構築を急ぐ五十嵐に対して、坂巻の回答は、業績が低迷している現時点での大規模投資はできないというものだった。
仕組みを変えなければ、業績は上がらない。
業績を上げなければ、仕組みを変える金は出せない。
どちらの主張も正しい。
ただし、それでは「鶏と卵、どちらが先か」だ。
病気を治すための手術には、痛みを伴うのだ。
だからといって何もしなければ、急変することもないが、病気が治ることもない。
じわじわと悪化していくだけだ。
──五十嵐さん、あんたの給料は、ハピネスコンピュータから出てるからいいが、うちはね、去年、二人もリストラしてるんだ。
このままの業績なら、今年も追加でやらなきゃならない。
そんなときに新規で投資をするって?どうかしてるんじゃないか。
いいよな、どうせあんたはうちが倒産したって、帰るところがあるんだからな。
坂巻の言葉が、頭から離れなかった。
銀行から切り捨てられて来た坂巻と、社長の肝煎りで派遣されてきた五十嵐とでは、出向といっても同じではない。
坂巻には帰るところがない。
それに設備投資をしても業績が回復できなければ、新たなリストラにより大切な仲間を失うことになる。
それは坂巻の言う通りだと思う。
だからといって、いつまでも対症療法をしていても業績は回復しない。
体質を改善し、基礎体力を強化して、病気に打ち勝つ治癒力を蓄えなければならない。
──俺は正しいのだろうか?洗面台の鏡の前に立つ。
ひどい顔だった。
日頃から笑顔を心がけてきたが、今の五十嵐の顔は、まるで病人のようにやつれて見えた。
洗顔料をチューブからたっぷりと手に取り出し、冷たい水でバシャバシャと顔を洗うと、少し気持ちがすっきりした。
ついでに朝食前ではあるが、歯も磨くことにする。
鏡を見ながら、丁寧に時間をかけて磨いていく。
磨き終えて、うがいをしようとコップに水を注いでいるとき、口の中に違和感を覚えた。
──これ、違うぞ!口の中いっぱいに、気持ちの悪い味が広がっていた。
歯磨き粉だと思って歯ブラシにつけていたのは、洗顔料だった。
いくら似たようなチューブに入っているとはいえ、歯を磨き終わるまで気がつかなかったとは……。
洗顔料で歯を磨ききってしまった。
「うわぁっ!」あわてて何度も口を濯いだ。
「どうしたの?」顔を上げると、妻の美姫がいた。
美姫も、いつもよりだいぶ早い。
「いや……ちょっと……」「間違っちゃったの?」「うむ。
まあ」美姫が呆れた顔をしている。
「大変なの?」「何が?」「仕事よ」
一瞬、言葉につまった。
「……大丈夫さ」「そんなふうには見えないけど」「そうか。
いや、ほんとに大丈夫だよ」美姫が五十嵐に微笑みかける。
「思った通りにやったらいいんじゃない。
それで失敗しちゃっても、家族四人くらいなんとかなるわよ」「でも──」「私はあなたに、出世してほしいなんて、一度だって言ったことないじゃない。
あなたが自分を信じないでどうするのよ」「自分を信じる……か」「大丈夫。
あなた、きっと間違ってないから」「うん。
そうだよな」美姫が何事もなかったように、キッチンへと向かう。
その後ろ姿に、五十嵐は声をかけた。
「あのさあ……」「なあに?」美姫が振り返った。
「ありがとう」「ばかね」美姫が照れたように微笑む。
五十嵐は手にしたタオルで顔を拭った。
26情報を資産にする「だいたい、うちの営業マンにタブレットPCなんて持たせたって、どうせ玩具にして遊んでしまうだけだろう」会議室に大声が響き渡る。
五十嵐は、IT投資の起案の件で坂巻と対峙していた。
この件では、これが三度目になる。
「なぜ、そう言いきれるんですか?」「私はずっと経理一筋できた。
正直、営業のことはわからない。
だけど、営業マンっていうのは、そういうもんなんじゃないのか」五十嵐の書いた起案書を、坂巻が会議テーブルの上に放り投げた。
バサリと冷たい音がする。
会議室には二人きりだった。
坂巻は、歯に衣着せぬ物言いをする。
五十嵐の手が微かに震えた。
人は平常時ではなく、本当に追いつめられたときにこそ、その本性が露になる。
逃げるのか、それとも戦うのか。
五十嵐はゆっくりと深く息を吐いた。
「十年前ならともかく、今の営業マンたちにサボるなんて、そんな考えも時間もありません。
それに私たちが彼らを信じてやらなくてどうするんですか!」気がつくと声を張り上げていた。
「熱い思いもけっこうだが、それだけじゃ業績は上がらんだろう」「だから、仕組みを作るんです。
我が社の営業マンたちは、いまだに紙に印刷された週報をリーダーに提出しています。
結果の報告は、対話です。
私も含めて三十人の営業マンが、毎日一人五件ずつで百五十件の商談をしているんです。
一週間で七百五十件、一カ月で三千件、一年間では三万六千件以上も蓄積できるはずの商談履歴が、日々、営業マンたちの記憶というゴミ箱に捨てられている。
これを蓄積していけば、いつでも必要なときに、必要な人が、お客様との商談履歴を参照できるようになるんです。
誰と、どんな目的で、なんの話をして、何がわかり、何がわからなかったのか。
曖昧な記憶ではなく、その日に記録された正確な事実として、将来に亘って自由に引き出せるようにするべきなんです。
情報こそが、お客様に最高の価値を届けるために、我が社の営業マンを助けてくれる、強力な支援者になるんです」「それを実現するためには、SFAが不可欠だと言うのか?」「そこまでは言いません。
ただし、SFA導入が情報を会社の資産とする近道であることはたしかです」坂巻が腕組みをして、目を閉じた。
「タブレットPCも必要なのか?」「SFAを導入すれば、営業マンの業務負荷は増えます。
いくら営業プロセスの品質を高められるといっても、今まで破棄されていた情報を、システムを使って入力するんですから、これは仕方がないんです」「だから、営業付帯業務の効率化とセットで取り組まなければならないということか?」「情報蓄積の品質が担保できなければ、活用で効果が期待できません。
そうなれば、投資そのものが失敗ということにもなりかねないんです」「私を脅すつもりか」坂巻が目を見開く。
五十嵐はかぶりを振った。
「違います。
私の覚悟を聞いてほしいんです。
我が社の営業マンが、お客様先でどんな商談をしているかわかりますか?支給されているケータイはガラケーです。
ノートパソコンはISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)のポリシーが厳しくて、社外への持ち出しを禁止されている。
それで電話帳みたいに分厚い紙の提案書を持っていって、『ペーパーレスオフィスの実現によるセキュリティと環境対応の強化』なんて商談をしているんです。
もはやコントですよ。
坂巻さん、もしも自動車の営業マンが、免許もなく自転車に乗ってきたら、その人から買いたいと思いますか?」「あんた、そりゃいくらなんでも言いすぎだろう」坂巻がものすごい形相で、五十嵐を睨みつける。
「言葉がすぎたのなら、いくらでもお詫びします。
でも、この起案だけはどうしても通してください」「勝算はあるのか?」坂巻が冷たく尋ねてくる。
「私もインフラを整備すれば、それで業績が上がるなんて思っていません。
道具は所詮、どこまでも道具です」「それで、どうする?」「前にも説明した通り、営業力強化の四つの重点要素を徹底します。
まずはビジョンの共有で、全社員に対して、今回のインフラ整備によって、我が社の営業プロセスをどう変えるのか、私の口からとことん説明します。
その上でインフラ活用を個人に任せるのではなく、組織としてしっかり情報提供していく仕組みを作ります」「たとえばどんなことを考えているんだ?」「SFAについては、活用と日常業務を紐づけるんです。
すでにマネジメント研究会によって、営業プロセスごとにやるべきことは定義できています。
これを使っての案件共有を徹底する仕組みとして、見積書や提案書はすべてSFAの案件状況に応じてレビューを受けたもののみ、提出を許可します。
月末の積上も営業マンが提出してくるのではなく、SFAの案件進捗と受注確度判定をもとにリーダーが判断します。
すべてをSFAで会話するんです。
初めのうちは混乱もあるでしょうが、強い意志を持って徹底することにします」「それがポイントだな。
中途半端に踏みきれば、かえって営業マンの負荷を増やすだけだ」五十嵐はつづける。
「タブレットPCについては、カタログやデモンストレーション動画など、すべてをクラウドで管理し、利用ログを取って、これを全員に公開します」「使ってないやつを吊し上げるのか?」五十嵐はかぶりを振る。
「管理するのは、人ではなく、情報のほうです」「どういうことだ?」「カタログや動画などのダウンロードのログを公開することにより、よく使われている資料とあまり使われていない資料を明確にするんです。
ランキング上位の
資料なら、自分も使ってみたいと思うはずですし、トップセールスの使っている動画などは、若手なら興味があるはずです」「資料にランキングか。
『食べログ』みたいだな」強張っていた坂巻の表情が、少しだけやわらいだ気がする。
「教育も徹底します。
生きた教育として、案件レビューを制度化したいと思っています。
たとえば期初ターゲット五十社については、一定の金額以上の商談が発生したら、SFAによる案件進捗のレビューを義務づけるんです。
チームレビューを受けないと、提案書も見積書も提出してはいけないこととします。
全員で仲間の案件を共有することで、SFAの活用を日常に取り込んでいきます。
タブレットPCについては、導入教育だけでなく、業績別にフォロー教育も継続していくことを考えています。
多少は無茶な面もありますが、SFAやタブレットPCの活用習熟度と個人業績は、因果関係があるという前提で進めるつもりです」「それがいいだろうな」「トップセールスのロープレや商品マニュアルなどは、動画コンテンツにして、空いた時間などにタブレットPCで観ることができるようにします」ふーっと、坂巻がゆっくりと深く息を吐いた。
「この設備投資のことを知ったら、去年、リストラされた者はどんなふうに思うかな」五十嵐は目を伏せ、両手を握り締める。
「穏やかな気持ちではいられないでしょうね」「それがわかっててもやるのか?」「私が座っている椅子と机は、去年リストラされた社員のものです」「そうか……」「それでも、他に五十名の社員が残っているんです。
その社員には、家族もいます。
我々は、その人たちの生活を守らなければならない」坂巻は腕組みをしたまま、ふたたび目を閉じた。
そのまま口をつぐんで、黙ってしまった。
沈黙の時間が流れる。
ほんの数秒にも、数時間のようにも感じられた。
坂巻はゆっくりと目を開くと、もう一度深く息を吐いた。
「わかった」「えっ?」「だから、今日中に起案書に判を押しておく」「ほ、ほんとですか?」「それでいいんだろう」「ありがとうございます!」「ハピネスコンピュータと違って、うちのように吹けば飛ぶような小さな会社には、これは大変な賭けなんだ」五十嵐はまっすぐに坂巻を見つめる。
「すべては私の責任として取り組みます」「ばかを言え。
あんたにそんなことを任せられるか。
経理の責任者は私だ。
その私が判を押すんだぞ。
手伝えることがあったら、なんでも言え。
営業のことはわからないが、それでも協力はする」「坂巻さん……」坂巻がにやりと笑った。
「一緒に我が社を変えるぞ」五十嵐は笑顔でうなずいた。
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