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第三章ランダムをプログラミングする

目次

アンドロイド演劇

大阪大学が世界に誇る天才ロボット博士石黒浩先生(読者諸氏は自分にそっくりのアンドロイドを作った人として、テレビでご覧になったことがあるかと思う)と、ロボットで演劇を創るプロジェクトを始めたのは二〇〇八年。

二〇一〇年からは、より人間に近いアンドロイド型ロボットを使って作品を創り、すぐに世界各国を回る状態になった。

ロボット、あるいはアンドロイドと演劇を創っていて、よく聞かれる質問の一つに、「ロボットは人間を超えられますか?」という類のものがある。

あるいは、演劇関係者からの質問で「人間のような即興はできないでしょう?」という類のもの。

さて、この問いかけの意味は何だろう。

私たちは、ロボット演劇の研究を通じて、人間を人間たらしめているものは何かを追求してきた。

もう少し突き詰めて言えば、「人間が人間らしく見えるのは、どういった要素によるのか」を、工学と芸術の両方の側面から考えてきた。

そこでわかってきたことは、どうも私たちがロボットなりアンドロイドなりを「人間らしい」と感じるのは、その動きの中に無駄な要素、工学者がよく言うところの「ノイズ」が、的確に入っているときだという点だ。

正確に言えば、わかってきたというよりも、そのことにそれぞれ強い関心を持っていた私と石黒先生が、大阪大学で出会った。

私は、ここ一五年ほど、認知心理学の研究者と共同研究を行ってきた。そこで彼らから学んだことは、だいたい以下のような事柄だ。

人間は何かの行為をするときに、必ず無駄な動きが入る。

たとえばコップをつかもうとするときに、最初からきちんとコップをつかむのではなく、手前で躊躇したり、一呼吸置いたりといった行為が挿入される。

こういった無駄な動きを、認知心理学の世界ではマイクロスリップと呼ぶそうだ。

すぐれた俳優もまた、この無駄な動き、マイクロスリップを、演技の中に適切に入れている。

要するに私たちが、「あの俳優はうまい、あの俳優はへただ」と感じる要素の一つに、この無駄な動きの挿入の度合い(量とタイミング)があるということがわかってきた。

この無駄な動きは、多すぎても少なすぎてもいけない。うまい(と言われる)俳優は、これを無意識にコントロールしているのだろう。

人間は誰しも、演技をしようとすれば緊張する。この緊張が、マイクロスリップを過度にしたり、あるいはマイクロスリップを消してしまうことになる。

もう一点、研究の過程でわかってきたことは、この無駄な動きは、練習を繰り返すうちに少なくなっていく(埋没していく)という点だ。

だから演劇の場合、稽古を続けていると演出家から、「なんだか最初の頃の方がよかったなぁ」と言われることがままある。

プロの俳優は、同じ舞台を五〇回、一〇〇回とこなさなければならない。しかし演技を続ければ続けるほど、動作は安定するが、そこから無駄な動きがそぎ落とされ、結果として新鮮味が薄れていく。

もちろん、こういった演技の摩耗から逃れられる人もいる。世間は、それを「天才」と呼ぶ。

長期的な記憶はどこから来るのか

二〇世紀に開発された様々な演劇教育の技法の中には、「即興」が取り入れられているものが多い。

これは要するに、繰り返し稽古をしても常に新鮮さを保ち続けるような「精神性」を養う訓練ではなかったかと私は考えている。

それはそれで、一つの教育法として間違いではない。一方、これまで私が採ってきた方法は、まったく別の方向からのアプローチだった。

私は、俳優に様々な負荷をかけることによって、新鮮さが保てないかと考えた。

この方法論を簡単に説明すると、ある台詞を言うのと同時に、右手ではコップをつかみ、左足では近くの新聞紙を引き寄せるといった形で、俳優に複雑な動作を要求していく。

また同時に、その台詞を言っている瞬間に、何が視界に入っているか、どんな音が聞こえているかを強く意識させる。それを総称して、「俳優に負荷をかける」と呼んできた。

一つには、こうすることによって意識が分散され、台詞に余計な力が入らなくなることが、私のそもそもの発見だったのだが、もう一点、この方法を採ると、俳優の新鮮さ、あるいは新鮮に見える要因となっている「無駄な動き」が、普通の場合より長く持続することがわかってきた。

稽古を続けても、適度なマイクロスリップが消えていかないのだ。

これも認知心理学の方々から教えていただいた知見なのだが、どうも人間というのは、複雑な動きをきちんと記憶するときには、インプットとアウトプットを、同時に記憶しているらしい。

とこれだけでは、何を言っているのかわからないかもしれないので、実例を挙げてみる。

オリンピッククラスの体操選手が、いわゆるウルトラCといった新技を習得するときには、もちろん繰り返し、自分の筋肉や関節の動きを記憶し何度もシミュレーションをする。しかし同時に、天井や壁が、どの順番で、どのような角度で見えてくるのかを記憶していくそうだ。

要するに、人間は、主体的な筋肉や関節の動き(アウトプット)と、視覚というインプットを同時に、しかも脳内で何らかの形で関連づけて記憶しているのだ。

舞台の俳優にも似たようなことが起こる。舞台上、机の上に、新聞、ビール瓶、グラス、花瓶と様々な小道具が並んでいる。

そのどれか一つ、たとえばグラス一つを演出助手が置き忘れただけで、ある特定の台詞が出てこないということが往々にして起こる。

意識はしていないが「ある台詞を言うときには、グラスを見る」というように、その俳優の脳細胞が記憶しているらしいのだ。

私たちの脳は、このようにインプットとアウトプットを関連づけて記憶している。長期的な安定した記憶は、複雑な印象の絡みあいから起こる。

たぶん、そうらしい。

「たぶん、そうらしい」と書いたのは、まだこれは脳科学の世界でも、はっきりと確認されたわけではない事柄だからだ。

いまだこの分野では、認知心理学のような現象の解析からのアプローチの方が、少しだけ先を行っている。

脳科学の世界でも、短期的な記憶の分野は随分と分析が進んでいる。脳のここら辺の血流が盛んだとどうも記憶が活発になる、脳のここら辺が萎縮すると物忘れが激しくなるといった類である。

皆さんが日頃やっている「脳トレ」等も、こういった研究を根拠にしている。

これは短期的な記憶を扱う分野だから、ボケ防止などには確かに効果があるだろう。

しかし、これから数十年を生きなければならない子どもたちに脳トレをやらせて、さほどの効果があるとも思えない。

短期的な記憶を問う試験

いま、日本の教育界のもっとも大きな課題の一つは、子どもたちの長期的な記憶に関する部分だろうと私は考えている。

かつて「分数のできない大学生」という言葉が話題となった。しかし、これは言葉として正確を期すなら、少し間違っている。

「分数のできない大学生」ではなく、「分数を忘れてしまった大学生」と言わなければならない。本当に分数ができなかったら、その学生は進級、進学ができなかったはずだから。問題は、これまでの日本の学校教育のシステムは、この「短期的な記憶」しか問うてこなかったという点だ。

分数は期末試験までできればいい。英単語は大学入試まで覚えていればいい。学校での学びと、社会で有用な知恵が、ほとんど連結をしていなかった。もちろん、そのような試験にも意味はあったのだと思う。

そこで問われていたのは、おそらく「学力」ではなかった。そこで問われていたのは、「従順さ」と「根性」だった。

教師から、「期末試験に出すから、教科書のここからここまでを覚えてこい」と言われて、それを素直に履行する従順さと、それを時間内に覚えきる根性が問われていた。そして、それは、たしかに無意味なことでもなかった。

高度経済成長期には、そのような従順で根性のある産業戦士こそが、国家から求められる人材だったのだから。

第一章でも指摘したように、工業立国においては、「ネジを90度曲げなさい」と言われたら、90度曲げる正確性とその能力が求められてきた。

しかし、付加価値(人との違い)が利潤を生むサービス業中心の社会においては、90度曲げる能力、いわゆる従来の基礎学力に加えて、60度曲げてみようという発想や勇気、あるいは「120度曲げてみました、なぜなら……」と説明できる表現力やコミュニケーション能力がより重要視される。

ここでは、短期的な記憶を問うだけの従来型の学力試験をくぐり抜けてきた人材が有用とは限らない。現在、学力や学歴と、企業で個々人が発揮する能力にずれが出てきているのも、この点に由来している。

メチャクチャに教えた方がいい

では、一体、これからはどのような授業が求められるのだろうか。

長期的な記憶のメカニズムは、あまりよくわかってはいないが、どの脳科学者、あるいは認知心理学の専門家に聞いても、ある程度明らかなのは、先ほども触れた通り、「どうも長期的な記憶は、様々な新鮮な体験の組みあわせによって起こるらしい」という点だ。

ぶっちゃけて言えば、「メチャクチャに、子どもの興味の赴くままに、いろいろと教えた方がいい」という話になる。

とこれでは乱暴な議論なので、現場の先生方には、私は以下のように説明している。

「教室で習う星座の名前より、キャンプ場でお父さんから習った星座の名前を、子どもたちはよく覚えているでしょう」「教室で習う花の名前よりも、散歩の帰りにお母さんから習った花の名前を、子どもたちはよく覚えているでしょう」いま大事なことは、この「よく覚える」という点だ。

「たくさん覚える」「早く覚える」という教育から、「よく覚える」という教育へ、教育の質を転換していかなければならない。

キャンプ場では、たき火の残り香や、川のせせらぎの音、そして何よりお父さんの優しい笑顔と共に、子どもたちは星座の名前を記憶していく。

体操選手が、天井や壁の角度と自分の筋肉の動きを同時に記憶していくように。ここにおそらく、教室での教育よりも、体験教育や科目横断的な総合学習がすぐれている根拠がある。体験教育が、子どもたちの思い出に深く残ることは、現場の先生方なら誰でも知っている。

一九世紀以降に登場した多くの先進的、実験的な教育理論も、多くはこのような複合型の学習方法だろう。

そこで、もしも、こういった長期的な記憶に関する脳科学などの研究が進めば、それらの教育理論を、ある程度まで科学的に裏づけることができるようになるかもしれない。

理想論や抽象論を言っているのではない。日本では、ゆとり教育批判と並んで、総合的な学習の時間も風前の灯火になっているが、世界の趨勢は逆だ。

ヨーロッパの多くの国では科目の融解とも言える現象が始まっている(もちろん、教育は常に試行錯誤を繰り返すので、ヨーロッパでもいわゆる基礎学力を重視する動きも同時に起こっているのだが)。

私がかつて訪れたスイスのある州は、小学校では科目という概念がほとんどなかった。算数が週に三コマほど残っているくらいで、あとはすべて総合的な学習のようなイメージの授業が続く。

だから子どもたちに「どの科目が好きか?」と聞いても、きょとんとして答えが返ってこない。

具体的にどんな授業になるかというと、たとえば、いまなら「なでしこジャパン」について二週間でも三週間でも授業をする。校庭でサッカーもするし、ナデシコの花についても学ぶ。応援の唄を歌い、ポスターを作り、代表選手に向けて手紙を書く。また、日本における女性の社会進出を考えることもできる。バナナシュートはなぜ曲がるのかを考える授業だって可能だ。

子どもの関心にあわせてトピックを決めて、その中に、様々な教科の学びの要素を埋め込んでいく。

教科書会社も教育委員会も、そのような授業の素材を提供するだけで、授業の組み立て自体は教師が自分で工夫していく。もちろん、これをいまの日本で、すぐに実現することは難しい。日本の先生方は、世界で一番忙しいから。

ヨーロッパの多くの国々では、基本的に、午後三時を過ぎたら、子どもは家庭と地域社会で面倒を見ることになっている。学校でのクラブ活動などもないから、教員は三時以降は、明日の授業の準備に充てられる。

私は、何もかもをヨーロッパと同じにするのがいいとも思わない。

たとえば、日本型の学校単位でのクラブ活動の良さもあるだろう。ただ、少なくとも、教育の地方分権、学校分権、そして教員分権を進めることと、教員の数を大幅に増やすことは必須だと考える。そのうえで、子どもの関心にあわせた授業展開のプログラムを構築することが必要となってくる。

ランダムをプログラミングする

だが、こういった教育方法には、当然落とし穴もある。教える側には、なんだかんだと言っても、発達段階に応じて教えておかなければならない知識や技術というものがある。

しかし、こういった体験重視の教育では、教え漏れや遅滞が起こる可能性が高い。せっかくキャンプ場で星座の名前を教えようと思っていても、空が曇ってしまっては台無しだ。

こういった体験型、双方向型の授業、ワークショップ型の授業のファシリテーター(先導役)を志す学生たちには、「一回のワークショップで教えなければならないことなど、何もない」と教えている。

そのくらいの覚悟がないと、自分の作ったプログラムに縛られて、「あれも教えなきゃ、これも伝えなきゃ」と焦ってしまうのだ。

ワークショップでは、子どもの反応に応じて、柔軟にプログラムを変えながら、「あ、ここではこれが伝えられた」という程度でかまわない。

だが、年間を通じて子どもを預かる学校の教員となれば、そうもいかないだろう。

そこで現場の先生方や教員志望の学生には、「これからの教師には、ランダムをプログラミングする能力が求められるのではないか」と話すようにしている。

授業計画(シラバス)はきちんと書かなくてはならない。

しかし、裏シラバスも用意して、柔軟性を持って対応し、一学期、一学年をかけてすべての事柄が教えられるような弾力性を持った授業が求められるようになるだろう。

偶然性を授業計画の中に埋め込んでいくこのような授業を、年間を通して遂行していくことはとても難しい。技術も経験も、そして情熱も要求される。また何よりも、先に書いたように、少人数での教育、教員増が求められる。

いままでの日本の教育は、子どもの関心の伸びる方向を無視して、教師の教えやすいように教えてきたのではなかったか。

教え漏れがないように、全国一律、疎にして漏らさない(つもりの)ような授業が求められてきたのではなかったか。もちろん、教育の方法に絶対的な正解はない。試行錯誤を繰り返し、バランスをとっていくしか道はない。

従来のやり方がすべて間違っているとは思わないし、ここに記したような新しい方法論が、すべてを解決するとも思っていない。

だが、子どもの在り方自体が多様化している以上、教育のプログラムに大きな柔軟性を持たせることが急務なことは確かだろう。

再びアンドロイドについて

教育の話が長くなった。再び、アンドロイドについて。

さて、そういうわけで私は、俳優が、無駄な動き(=マイクロスリップ)をいかに持続させ、安定して出力できるかということを、これまで研究してきたわけだが、ここに、いくら本番を繰り返しても新鮮さが摩耗しない存在、無駄な動きを永遠に継続できるロボットというアイテムが登場した。

この章の冒頭に掲げた「人間のような即興はできないでしょう?」という問いかけは、だから、ここでは意味をなさない。

即興は、即興そのものに意味があるのではない。即興が生み出す、適度なランダムさ加減、マイクロスリップが演技に新鮮さを生み出してきたのだ。

だとすれば、その新鮮さを凍結して何度でも繰り返せるのなら(そして、天才と呼ばれる俳優にはそれができているのだから)、それに越したことはないではないか。

「舞台に出来不出来があった方が人間らしくていい」という人もいるかもしれない。しかしそれは、「人間らしい」ことを至上とする、極端な人間中心主義ではあるまいか。

実際の観客は、最高の演技が安定して観られるなら、そちらの方にお金を出すだろう。

さて、実は、石黒先生もまた、ロボットを人間らしく見せるには、このノイズ、マイクロスリップが重要な要素になることには気がついていた。

ただ、それを人間工学や認知心理学の研究から応用しても、なかなか思うようにいかなかった。なぜなら、こういった学問が結論づける統計は、結局のところ平均値が出てきてしまうから。平均値では「無駄」は数字の中に埋没、解消されてしまうのだ。

そこで、ランダムな動きを取り入れることになるのだが、では、どのような頻度でランダムなノイズを入れていけばいいのか、これが難しい。

そして、その点に関しては、私たち演出家の方が、一日の長があった。いや、演劇二五〇〇年の蓄積があった。

さらに私は、認知心理学の研究者との交流があったために、いきなりロボット研究の領域に入っていっても語彙を共有できるという利点もあった。

人間のリアルな動作とは何かという問いかけの同じ大きな山を、まったく別々の方向から登っていた二人が、大阪大学のキャンパスで出会ったということだ。

ここでの私の仕事は、いかに無駄な動きを数値化してプログラムするかということになる。こういった事柄を、専門用語ではパラメーターと呼ぶらしい。

私自身は、この「パラメーター」のなんたるかもよくわからないのだが、とりあえず、ここでもやはり自分の仕事は、「ランダムをプログラミングする」ことだと考えている。

石黒先生は、最近よく、「芸術家は答えを先に知っている。工学者は、それを解析するだけでいい」と言っている。実際に、石黒研究室では、私の生み出したパラメーターを、特許として申請している。演劇の演出が特許になる時代が来た。

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