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第三章 老年をいかに生きるか

目次

歳をとるとしんどくなる人と楽になる人の違い

歳をとると人は背負う荷物が増えて苦労が多くなるので、できるだけ荷物を下ろして身を軽くする工夫をすべきだということを、ある宗教学者の方がいっていました。

しかし、私は決して年齢とともに苦労が増えるとは思いません。苦労が増えるか減るかは、その人の生き方次第です。

たしかに歳をとれば、人間関係も広がり、家族も増え、仕事の責任も重くなったりしますから、心身ともに負担が増える部分はあるでしょう。

しかし、一方で歳を重ねれば、それまでの経験が生きて判断力が向上し、余計な思考や感情に引っ張られることが少なくなる部分もあります。

その意味では、判断力をつけ、思考力を磨いてきた人にとっては、歳をとるほど心はむしろ軽くなる部分があるのではないでしょうか。

苦労が増えたという人は、それまでの人間関係を疎かにしてきたのかもしれません。仕事関係にしても、家族関係にしても、人と丁寧につき合ってこなかった。そうしたことが原因になっている可能性はあります。

ストレスや悩みの原因の大半は人間関係にあるといわれるくらいですから、人間関係が不安定な人は、それだけ苦労が増えるのは当然です。

反対に人とのつき合いを丁寧にしてきた人は、人から助けられることが多くなるので、歳をとると感謝する機会が増えるのではないかと思います。

もちろん歳をとると若いときと違って、身体に故障が出てきますから、フットワーク軽く、どこにでも顔を出すわけにはいきません。つまり、不義理ができるのは、高齢者の特権だともいえます。

不機嫌でもいいじゃないか

歳をとると思うように身体がいうことをきかなかったり、どこか調子が悪かったりといったことが急速に増えてきます。

健康面で調子が悪くなるのは自然現象ですから、眉間にシワがより、口をへの字に曲げて不機嫌そうな顔をする高齢者がいても仕方ありません。

最近は機嫌が悪いのは罪だ、というようなことをいう人もいるようです。機嫌が悪ければ周りの人に不快な思いをさせたりして、悪影響を及ぼすというのです。

誰だってできれば機嫌よく生きたいものですが、そうできない事情があれば、無理に機嫌よく振る舞うことはないでしょう。

もちろん、基本的にはネガティブにものごとを考えるよりは、何でも前向きに考えて行動するべきですが、身体の調子を崩したり、どこか痛みがあったりすれば、上機嫌に振る舞うことなどできっこありません。

私はあまりテレビを見ませんが、たまにつけるとお笑い系の芸人がよく出演していて、番組を明るく盛り上げる役割を彼らが担っているのを感じます。

テレビ番組は暗ければ誰も見ないでしょうから、できるだけ明るい方向で演出されるのはよくわかります。

しかし、テレビに見られるこの躁のように明るい空気感は、世間においても、皆の前では明るく楽しく上機嫌に振る舞うのがいいことだという空気感になって浸透している気がします。

そうだからこそ、不機嫌な人は一層嫌われ、敬遠されるのかもしれません。

不機嫌は罪だ、だからいつも上機嫌でいるべきだというのは、痛みや病気を抱えて不機嫌にならざるをえない人からすれば、ちょっとした理不尽な圧力になります。

こういうお節介な考え方は不遜なものだし、人に押しつけるべきものではないでしょう。理由もなくしんどい。足を動かすと膝に痛みが走るので歩けない。腰を少しでも動かすと激痛が走る。

そんな状況にいる人が不機嫌な顔になるのは自然なことで、人前だからといって無理に明るく振る舞う必要はない。しかし、心を鍛える努力は必要だと思います。

要は健康な人にはない、心を鍛える機会を与えられたのだと考えるのです。私も八十寿をすぎ、身体のあちらこちらに年相応の問題を抱えています。

腰が痛いときは、おそらく私は不機嫌な顔をしているはずです。痛いときは、さすがに上機嫌にはなれません。痛いものは痛い。仕方ありません。

年配者が眉間にシワをよせているときは、それなりの理由があるのだと誰もが想像できるようになると、皆がもっと生きやすい世の中になるのではないかと思います。

人生 100年時代といわれるようになりましたが、誰もが 100歳まで身体の故障なしで過ごせるわけではないのです。人は不機嫌だったり、機嫌よくなったりと、波があるのは当たり前。

私なんかは、痛みがあるときはなるべく人のいるところには近寄らないようにしていますが、基本的には人前で不機嫌な顔をしたって全然かまわないと思っています。

人にはそれぞれ、人にいったところでどうにもならない事情があるのですから。

余命 1年の宣告を受けたら

もし、あなたががんになって余命 1年の宣告を受けたとしたら、どうしますか? 人によってさまざまでしょうが、私自身はそれによって何も変わることはないと思います。

1年間の行動計画を立てたり、仕事のやり方や生活スタイルを変えたり、あるいは人生に対する考え方を変えたりといったことは、おそらくしないでしょう。

残された時間が 1年しかなければ、最後にあそこに行っておきたい、あの人に会っておきたい……そんなことを考えたりするかもしれません。

でも、どこかに行きたい、昔の友人に会いたいなどといっても、計画通りにはいかないものです。

ニューヨークに駐在していたとき、エンパイアステートビルの最上階に一度は行ってみたいと思いながら、結局 10年間の滞在中、実現することはありませんでした。

もちろん、ある場所に行って、やらなければならない用があれば、具体的に実行に移すでしょうが、漠然とああいうところに行ってみたいなと思っている限り、具体性を伴った計画は日々の忙しさにまぎれて、立てることすらできなかったりします。

学生時代の懐かしい友人に会いたいと思っても、先方の都合もあるでしょうし、地方に住んでいれば、なかなか会えるものではありません。

読みたい本をたとえば 30冊選んだといっても、仕事や日々の雑事に追われてその冊数を集中して読むのはけっこう難しいでしょう。

仮に時間がたっぷりあっても、病気などにより体調を崩して読む気分になれないかもしれない。

ことほどさように、たとえ 1年であっても、思い描いた計画はその通りにならないことのほうが多いと思います。

ですから計画通りにいかなくても、自分を責める必要はないし、そもそも死を目前にしながら計画を立てて何かをしようなどと思う人はあまりいないでしょう。

家族ともっと長い時間を過ごしておけばよかった、古い友人に会っておけばよかった──死が間近に迫っている人が後悔することの上位には、そうしたものがよくあがるそうです。

しかし、それまでの人生で、家族と一緒に過ごすことより仕事や趣味のことを優先してきたのは、そのときはそれが大事だと思ったからでしょう。

古い友人に会っておけばと悔いても、連絡をとって会うための時間を割くより、仕事に集中することのほうが自分にとってはベストだと感じたわけです。

仮にそれが世間体や体面を気にしての行動だったとしても、やはりそれは、その人にとっての最善のことだったと私は思います。

ですから死の間際にもっとこういうことをやっておけばよかった、しまったなどと思うのは、いささか欲張りで、往生際が悪いかもしれません。反省なんか、しなくていいのです。

最後のときに、後悔というよりさまざまな思いにかられるのは、人間の業なのだと思います。反対に後悔やさまざまな思いがまったくないという人は、ある意味で普通の人とはどこか違うのかもしれません。

自らの人生を振り返って悔いることよりも、その日その日を自分なりに精一杯生きる。それで、十分ではないでしょうか。

「終活」をする必要はない

先日、あるインタビューで「終活はされていますか?」と聞かれました。

終活とは、人生の死期が近くなっていることを見越して持ち物を整理したり、死後、家族に迷惑がかからないよう遺言状をつくったり、お墓の準備をしたりすることだそうです。

終活はブームのようですが、以前に比べて社会に寛容さがなくなってきていることも、多少影響しているのかもしれません。

つまり、人が人に迷惑や面倒をかけることに対して、社会の許容度が小さくなってきている。

誰かに面倒をかけて生きるのは、人間である限り、ある程度仕方ないことです。

もちろん、面倒をかけないにこしたことはありませんが、最近は何かあるとすぐバッシング騒動になるネットの影響もあって、人に迷惑や面倒をかけることに対して、世間の眼が必要以上に厳しくなってはいないでしょうか。

終活にいそしむ人は、そうした世間の空気をどこかで感じているのかもしれません。私自身は、終活らしきことは何もやっていません。

まず終活をするような時間がないし、もし時間があるとしても、終活に時間を割くくらいなら、好きな本をもっと読むことを選ぶでしょう。つまり、終活そのものに、さして関心がないということです。

高齢になればたしかに余命は少ないわけですが、それでもいつ死ぬかなどということはまったくわかりません。神のみぞ知る、です。

将来に向けてモノを整理するといっても、あと何年生きられるかわからないわけですから、使うモノは容易に捨てられないし、そう簡単にばさばさ処分できなかったりもする。

本はたくさんありますが、モノはそうたくさんはありません。私が死ねばこうしたモノは全部まとめて一度に捨ててくれればいいだけのことです。

葬式をこういうスタイルでやってほしいとか、戒名まで決めて準備する人もいますが、葬式は私が生前お世話になった人を呼んで普通にやってくれればそれでいい。

戒名も家族が私らしいなと思うものをつけてくれれば、それでいい。モノの整理といえば、 10年ほど前にたくさんあった蔵書を中国に寄贈したことくらいです。きっと終活らしき終活を、私は死ぬまでしないでしょう。

亡くなってから家族の手を煩わせたくないという思いから終活をするのは悪いことではありませんが、死んでいく人間が生前使っていたものを残すことは当たり前ですから、そこに罪悪感のようなものを覚える必要はないと思います。

遺品の片づけは残されたものにとって面倒でしょうが、人が亡くなるとは、そういうものなのです。

老いていいことはあるのか

「老いていいことなんて何もない」 多くの高齢者はよくそういいます。しかし、本当に何もないなんてことはありえません。

若い頃と比べてできないことが増えるから、あれもできない、これもできないとなって不幸な気分を募らせたりするのです。たとえできることの数が減ろうと、できる範囲で楽しめることは、いくらでもあるはずです。

「できない」ではなく、「できる」ことに目を向ければ、老いて身体が衰えようとも、生きる喜びはたくさんつくることができます。

では老いることは、すべてにおいて「できない」ことが増えていくだけのものでしょうか? 私はそうは思いません。

たとえば老いるということは、それだけたくさんの経験を積んでいるということです。その経験をどう生かすか。うまく生かせば、豊かな生き方ができるはずです。

仕事でもボランティアでも趣味の会でも、こんな場合はこうするといいといった知恵があれば、問題ごとや滞っている作業が解決できるでしょうし、下の世代に対してもいいアドバイスができるでしょう。

つまり、経験を積んでいれば、ある状況やものごとに対する総合的な判断力の質がそれだけ上がるのです。

感情にあまり左右されることなく、対象と距離を置いて冷静にものごとを見られるようにもなる。

問題となっているポイントをつかみ、解決への道筋がすっと見えたりする。

経験をベースにした判断力や思考力が冴える点が、老いのアドバンテージではないでしょうか。懸命に生きてきた人であれば、確実に人としての器も大きくなっているはずです。

老いると何もかも衰え、ダメになっていく。そんな固定観念にとらわれていると、老いはますますつまらないものになっていきます。

老年なりの人生の楽しみ方がある

私は最近になって 20歳の頃愛読したロマン・ロラン( 1866 ~ 1944年)の長編小説『ジャン・クリストフ』に再チャレンジしました。

この本を読んだときの感動と情熱が懐かしく、また今の自分なら、それをどう感じるだろうかという興味があったのです。

ところが全部で 2000頁近くもある本ですから、それを読み通すだけの情熱がどうにも湧かない。

昔なら読み流していたようなくだりに面白さを覚えたりもしたのですが、結局、全 4巻のうち 2冊を読んで本を置きました。

若いときはそれこそ寝食も忘れるくらい読み耽りましたが、あれから 50年以上もの歳月が流れ、さすがに往時の熱い気持ちは甦りませんでした。

このように読書では同じ本でも、そのときどきの年齢や条件によって感じ方やとらえ方が変わってきます。

人生経験がまだ浅いときにはピンとこなかったものが、中年をすぎるとその深い味わいがわかったり、その反対に若いときには胸躍るようなストーリーが、年老いてから読むとそうでもなかったりすることがある。

読み手にとっての旬の時期というものが、本にはあるんだと思います。

深く感じたり、いろいろな気づきを多く与えてくれるタイミングが、いわば旬ということです。ことです。本に限らず、ものごとには何でも旬というものがあると思います。

たとえば、アスリートは心技体のバランスがもっとも整っているときが旬といえるでしょうし、仕事ではあの人は脂がのっていると評されるときが旬なのです。

時宜を得て成功したプロジェクトは旬をつかんだといえるし、タイミングが早すぎたビジネスモデルは旬をつかみ損ねたともいえます。面白いのは、仕事や人生には旬がいくつもあるということです。

壮年期には勢いのあるエネルギーを生かした仕事の仕方があるでしょうし、中年期をすぎれば、若いときには持ちえない熟練した技を生かした仕事がある。

あるいは仕事の内容や環境によっても、その人の持ち味が発揮される場面は変わってくるでしょう。持てる力を一番いい形で使える旬の時期や場面が、人生にはいくつもあるわけです。

若いときにヒット作に恵まれ一躍脚光を浴びた俳優が、中年になって人気が陰り出し、いつの間にか姿を見なくなることがあります。

ところが老年になってから、人生経験を重ねたことで醸し出される人間的な味わいが評判になり、映画やテレビドラマで引っ張りだこになる。

こういうケースを見ると、仕事や人生には年齢や年代に応じて、いくつも旬の時期があるんだなと感じます。だから、もう自分の旬はすぎたなと感じている人は、嘆くことはない。

目標を持って努力をする、日々工夫をして面白い生き方をする……その人なりの努力を地道に重ねていれば、いつまたどんな形で旬がやってくるかはわかりません。

もちろん高齢になって、死ぬ直前で旬を迎えることもありうる。それまでの潮目が変わって、旬の季節が違う形で再びめぐってくる。

人生の醍醐味とは、そういうものだと思うと、老年になっても人生は捨てたもんじゃないと思えるのではないでしょうか。

身体が老化しない人はいない

高齢になると、それほど長くは生きないんだから健康診断を受けても仕方ないという人がいます。

たしかに歯や眼や耳や足といった部位は衰えが目に見えてわかりますし、それが老化であることは明白なので、そうしたところの検査は不要かもしれません。

ただ人の身体は健康診断を受けないとわからない部分もたくさんあり、年齢に応じてかかりやすい病気もありますから、ちゃんと診てもらったほうがよいときもあると思います。

人間がつくったものにはすべて耐用年数がありますが、人の身体も同様に耐用年数があります。

たとえば、眼や耳などの器官、肺や心臓などの臓器は個人差があるでしょうが、専門家によれば、人の身体はおおよそ 60年の耐用年数で設計されているといいます。

仮に 60年とすれば、そこから先どれだけ長持ちさせるかは、努力次第ということになります。反対に使い方が雑だったりすれば、耐用年数よりも早くガタが来てしまうわけです。

老化にはシワができたり、背中が丸くなったりと外見にはっきりと現れるものもありますが、身体の内側においても同じように老化は進んでいます。

ですから、胃もたれするなど消化が悪くなったり、排泄がスムーズでなくなったりと、いろいろなことが起きるのは当たり前です。

もちろん衰えを少しでも軽減する努力は大事でしょうが、必要以上に老いという自然現象にあらがっても詮ないことです。

繰り返しになりますが、私は高齢者だからといって健康診断は要らないとは思いません。

個人によって身体の条件も違うでしょうし、ここは診ておいてもらったほうがいいなと判断されるものは、最低限しておいたほうがいい。

悪化する前の初期段階で治療したほうが、完治はしなくても苦痛が軽減されることが多いからです。現代は医療の発達などによって、かつてないほどの長寿社会が実現されています。

寿命のスパンが著しく長くなったので、実年齢に 7掛けしたものが感覚的には一昔前の年齢に相当する、という医療の専門家もいます。

仮にこの計算でいくと、 50歳の人は 35歳、 70歳の人は約 50歳です。

それが妥当かどうかは別にして、たしかに一昔前の同じ年齢より見かけも気持ちも若い人が増えたのは事実です。しかしながら健康の落とし穴は、そこにあると思います。

たとえば、 60歳、 70歳になってもまだまだ自分は若いと、意識的には 40代や 50代くらいの感覚でいる。でも身体のほうは間違いなく 60歳、 70歳なわけです。

ところが、自分は若いという意識が強すぎて、身体の老化や衰えを正しく認識できずに暴飲暴食を続けたり、無理を重ねたりする人がいます。

身体にどこか異変を感じても、まだ若いんだから大丈夫だと言い聞かせて、受診を見送ったりする。

これはふだんから健康に自信のある人が、気づいたときには重篤な病にかかっていたという、よく見聞きするケースに通じるものがあります。

ですから、まだ自分は若いという意識があっても、身体は年齢相応に老化しているという認識はきちんと持っておくことです。老いを生きやすくするには、そうした割り切りも必要だと思います。

人生の計画を立てることに意味はあるか

会社をもうすぐ引退するという知人が先日、「僕は 90歳まで生きることにしているんだ。それを前提にあんなこと、こんなことをしようと計画を立てていくつもりなんですよ」と喋っていました。

そう考えるのはもちろん自由だし楽しいことですが、私はそれを聞いてあまり意味があるとは思えませんでした。なぜなら人生なんて明日どうなるか、誰にもわからないからです。

最近、いつ会っても元気のかたまりのような友人が、階段から落っこちて背骨を折る重傷事故を起こしました。

そのため寝たきりになってしまい、今後どうなるやらわからない状況です。昨日まで溢れるようなエネルギーで仕事をこなしていた人間が突然、そうなってしまう。人生、本当に何が起こるかわかりません。

もちろん数カ月くらいなら、ある程度の予測は成り立つかもしれませんが、 2年も 3年も先のこととなると、予想なんてほとんど当てにならないでしょう。

ですから件の人のように、リタイアから 30年もの長いスパンで人生設計を思い描いたところで、ただの空想で終わるかもしれない。長期にわたる計画は、たいていは三日坊主で終わってしまうのが関の山です。

たとえば 5年以内に田舎に移住して農業を始めたいと思って、いざ具体的な計画を立てると、現実の厳しさが見え始めて頓挫してしまったり、あるいは気が変わって別のことをやりたいと思うようになるかもしれない。

一方で農業をすることなどまったく人生計画になかった人が、何かのきっかけである地方に出かけ、そこでたまたま人の縁ができ、住み着くことになり、やがて農業を始めるというケースは十分ありえます。本に限らず、ものごとには何でも旬というものがあると思います。

たとえば、アスリートは心技体のバランスがもっとも整っているときが旬といえるでしょうし、仕事ではあの人は脂がのっていると評されるときが旬なのです。

時宜を得て成功したプロジェクトは旬をつかんだといえるし、タイミングが早すぎたビジネスモデルは旬をつかみ損ねたともいえます。

面白いのは、仕事や人生には旬がいくつもあるということです。

壮年期には勢いのあるエネルギーを生かした仕事の仕方があるでしょうし、中年期をすぎれば、若いときには持ちえない熟練した技を生かした仕事がある。

あるいは仕事の内容や環境によっても、その人の持ち味が発揮される場面は変わってくるでしょう。持てる力を一番いい形で使える旬の時期や場面が、人生にはいくつもあるわけです。

若いときにヒット作に恵まれ一躍脚光を浴びた俳優が、中年になって人気が陰り出し、いつの間にか姿を見なくなることがあります。

ところが老年になってから、人生経験を重ねたことで醸し出される人間的な味わいが評判になり、映画やテレビドラマで引っ張りだこになる。

こういうケースを見ると、仕事や人生には年齢や年代に応じて、いくつも旬の時期があるんだなと感じます。だから、もう自分の旬はすぎたなと感じている人は、嘆くことはない。

目標を持って努力をする、日々工夫をして面白い生き方をする……その人なりの努力を地道に重ねていれば、いつまたどんな形で旬がやってくるかはわかりません。

もちろん高齢になって、死ぬ直前で旬を迎えることもありうる。それまでの潮目が変わって、旬の季節が違う形で再びめぐってくる。

人生の醍醐味とは、そういうものだと思うと、老年になっても人生は捨てたもんじゃないと思えるのではないでしょうか。

身体が老化しない人はいない 高齢になると、それほど長くは生きないんだから健康診断を受けても仕方ないという人がいます。

たしかに歯や眼や耳や足といった部位は衰えが目に見えてわかりますし、それが老化であることは明白なので、そうしたところの検査は不要かもしれません。

ただ人の身体は健康診断を受けないとわからない部分もたくさんあり、年齢に応じてかかりやすい病気もありますから、ちゃんと診てもらったほうがよいときもあると思います。

人間がつくったものにはすべて耐用年数がありますが、人の身体も同様に耐用年数があります。

たとえば、眼や耳などの器官、肺や心臓などの臓器は個人差があるでしょうが、専門家によれば、人の身体はおおよそ 60年の耐用年数で設計されているといいます。

仮に 60年とすれば、そこから先どれだけ長持ちさせるかは、努力次第ということになります。

反対に使い方が雑だったりすれば、耐用年数よりも早くガタが来てしまうわけです。

老化にはシワができたり、背中が丸くなったりと外見にはっきりと現れるものもありますが、身体の内側においても同じように老化は進んでいます。

ですから、胃もたれするなど消化が悪くなったり、排泄がスムーズでなくなったりと、いろいろなことが起きるのは当たり前です。

もちろん衰えを少しでも軽減する努力は大事でしょうが、必要以上に老いという自然現象にあらがっても詮ないことです。

繰り返しになりますが、私は高齢者だからといって健康診断は要らないとは思いません。

個人によって身体の条件も違うでしょうし、ここは診ておいてもらったほうがいいなと判断されるものは、最低限しておいたほうがいい。

悪化する前の初期段階で治療したほうが、完治はしなくても苦痛が軽減されることが多いからです。現代は医療の発達などによって、かつてないほどの長寿社会が実現されています。

寿命のスパンが著しく長くなったので、実年齢に 7掛けしたものが感覚的には一昔前の年齢に相当する、という医療の専門家もいます。

仮にこの計算でいくと、 50歳の人は 35歳、 70歳の人は約 50歳です。

それが妥当かどうかは別にして、たしかに一昔前の同じ年齢より見かけも気持ちも若い人が増えたのは事実です。

しかしながら健康の落とし穴は、そこにあると思います。たとえば、 60歳、 70歳になってもまだまだ自分は若いと、意識的には 40代や 50代くらいの感覚でいる。

でも身体のほうは間違いなく 60歳、 70歳なわけです。ところが、自分は若いという意識が強すぎて、身体の老化や衰えを正しく認識できずに暴飲暴食を続けたり、無理を重ねたりする人がいます。

身体にどこか異変を感じても、まだ若いんだから大丈夫だと言い聞かせて、受診を見送ったりする。

これはふだんから健康に自信のある人が、気づいたときには重篤な病にかかっていたという、よく見聞きするケースに通じるものがあります。

ですから、まだ自分は若いという意識があっても、身体は年齢相応に老化しているという認識はきちんと持っておくことです。

老いを生きやすくするには、そうした割り切りも必要だと思います。

人生の計画を立てることに意味はあるか 会社をもうすぐ引退するという知人が先日、「僕は 90歳まで生きることにしているんだ。

それを前提にあんなこと、こんなことをしようと計画を立てていくつもりなんですよ」と喋っていました。

そう考えるのはもちろん自由だし楽しいことですが、私はそれを聞いてあまり意味があるとは思えませんでした。

なぜなら人生なんて明日どうなるか、誰にもわからないからです。

最近、いつ会っても元気のかたまりのような友人が、階段から落っこちて背骨を折る重傷事故を起こしました。

そのため寝たきりになってしまい、今後どうなるやらわからない状況です。

昨日まで溢れるようなエネルギーで仕事をこなしていた人間が突然、そうなってしまう。

人生、本当に何が起こるかわかりません。

もちろん数カ月くらいなら、ある程度の予測は成り立つかもしれませんが、 2年も 3年も先のこととなると、予想なんてほとんど当てにならないでしょう。

ですから件の人のように、リタイアから 30年もの長いスパンで人生設計を思い描いたところで、ただの空想で終わるかもしれない。

長期にわたる計画は、たいていは三日坊主で終わってしまうのが関の山です。

たとえば 5年以内に田舎に移住して農業を始めたいと思って、いざ具体的な計画を立てると、現実の厳しさが見え始めて頓挫してしまったり、あるいは気が変わって別のことをやりたいと思うようになるかもしれない。

一方で農業をすることなどまったく人生計画になかった人が、何かのきっかけである地方に出かけ、そこでたまたま人の縁ができ、住み着くことになり、やがて農業を始めるというケースは十分ありえます。

企業の計画だって、あまり当てにならない。

中長期で売上げをいくらにするだの、海外のどこそこに 5年以内に進出するだのといった目標など、その通りにはならないことのほうが圧倒的に多いからです。

ところで、あらゆる目標やそれに付随する計画は、基本的にはよい方向へ向かうという予測を前提として考えるものです。

反対に悪い予測をすることは、よい予測をするよりも十分、現実的な意味を持ちえます。

リスクヘッジになるからです。

会社の業績が絶好調のときは、「こんなことはずっと続かないぞ」と気を引き締め、先々躓きかねない要素を事前に分析して、対策を練ることができます。

健康診断で何の問題もないという診断結果が出ても、この先年齢的にどうなるかわからないと思えば、節制した生活を続けることができます。

よい予測を元に長期で立てる計画は現実性に欠けるものの、反対に悪い予測をすることは、より現実的な効果があるわけです。

仕事をリタイアした後の第二の人生は独立してバリバリやろうと思い描いている人が、意外とその通りにならなかったりするのも結局、誰にとっても未来のことは当てにならないからです。

第二の人生というと、それまでの人生をリセットするというイメージですが、同じ人が同じ人生を生き続けるのですから、ガラッと変わることはほとんどない。

今まで培って得たものを土台に、しかるべき準備を着々と進めておくことが、何より大切です。そうすれば、仕事を辞めた後の人生にもうまくつながっていくのではないでしょうか。

不精を自分に許す

生活というものは、雑事の連続です。仕事だって半分くらいは雑事かもしれません。そのくらい人生は雑事で覆われている。

ですから雑事だからといって、いつも雑にすませていると、本筋の仕事も、生き方そのものも雑になってくると思います。

雑事といえども、一つひとつを丁寧に、ある程度の速さをもってこなしていく。こうした姿勢は大事なことです。

ただ、人間は完璧な生き物ではありませんから、雑事の中でもこれはそれほど大事なことじゃないから後回しでいいやとか、ほどほどのところでやっておけばいいやと手抜きをしたりしてしまいます。

私なんかは家で何か雑用があっても、読みたい本があれば、そっちを優先してしまったりする。

それで後からワイフに小言をいわれたりするのですが、人に迷惑をかけない限りの不精は許されると思っています。

不精というのは、いい意味で生活におけるガス抜きです。

不精ばかりしていれば怠けものになってしまいますが、適度に不精をするのは、むしろ生活や仕事をうまく回していく潤滑油になります。

高齢になってくると、若いときと違って身体は活発に動きませんから、自分が不精することをたまには大目に見てもいいのではないでしょうか。

上手な不精の仕方といったものがあるかどうかは知りませんが、ほどほどの不精は許されるという気持ちでいることは、こと高齢者にとっては精神衛生上もいいと思います。

永遠に続くフリーな時間をどう過ごすか

「退職してから、することがなくて困っています。どうしたらいいでしょう?」 そういって、私のところに相談にみえる人がたまにいます。

大きな会社の役員までいったある方は、仕事から退いた直後、これからは好きなゴルフがやり放題だと嬉しそうに話していました。

ところが、しばらくはゴルフ三昧の生活を送っていたそうですが、そのうち飽きてしまって、何もすることがなくなってしまったそうです。

何もすることなんてない、時間を持て余して苦痛だと嘆く人に、私は「じゃあ仕事でもすればどうですか?」とすすめますが、たいてい「今さらできる仕事なんてありませんよ」と返されます。

とはいえ、その気になれば、アルバイト的なことなど、ちょっとした仕事はあると思います。たとえば、スーパーの自転車置き場で自転車の整理をしたり、駐車監視員になって違反車両を探したりする高齢者の方を近所でもよく見かけます。

いくつになっても人の役に立とうと懸命に働いているのは、とても立派だと思います。

また、家でごろごろしているよりは、健康を第一に考え、外へ出て身体を使って何かできればという気持ちを抱いている人は少なくないと思います。

仕事は何も、お金を得るためだけのものとは限りません。

道路や公園の清掃をするボランティアや、貧困や介護が必要で困っている人を援助する NPO法人だってある。その気になれば、どんな仕事だって見つけられるはずです。

私は会社を退いてからも、幸いなことに人様からいろいろと仕事を与えていただいていますが、もしそうしたものが一切なければ、何かのボランティアでも、身体を使ったちょっとしたアルバイトでも、気楽にトライしていたと思います。

仕事を狭い意味でとらえず、広い意味でとらえて自分には何ができるのか、あるいは社会への恩返しのような行動はできないのか。

自分が持っている可能性について、よくよく考えてみるといいと思います。人の役に立ちたいと思って行動を起こせば、必ず道は拓けていくものです。

「無聊を託つ」という言葉がありますが、リタイアした人がすることがなくて困りがちなのは、現役時代のときとの意識の落差が大きな要因になっている気がします。

一線で頑張ってきた、それなりにいい思いもした、辛いことも少なくなかったけど、努力をした分、納得感はあった──そんな気持ちの根っ子には、プライドがあります。

しかし、このプライドこそが、現実の行動を妨げる軛となっている可能性はありそうです。その点、高齢の女性を見ていると、総じて男性より元気に生活を送っている印象です。

へんにプライドに縛られたりせず、生活の変化に応じて柔軟に人生を楽しむ術を心得ている人が多い気がします。

私は会社にいるときから、部長であっても社長であっても、会社の看板を外せば「ただの小父さん」だと思っていました。

高級車での送迎を断って毎日電車通勤したり、接待でワインを出されるときは必ず 1万円以下のワインにしてもらったり、一皮めくれば「ただの人」にすぎないことを忘れたくなかったために、こと社長のときは自らの行動にさまざまな規範を課していました。

偉そうに社長という目線で世の中を眺めていては、常識からどんどんズレていくでしょうし、人々が何を求めているのかも見えなくなってしまいます。

現役のときであっても、会社や職業といった属性を外せば、誰しも同じように「ただの人」であることに変わりありません。

ところで、あらゆる目標やそれに付随する計画は、基本的にはよい方向へ向かうという予測を前提として考えるものです。

第二の人生というと、それまでの人生をリセットするというイメージですが、同じ人が同じ人生を生き続けるのですから、ガラッと変わることはほとんどない。

今まで培って得たものを土台に、しかるべき準備を着々と進めておくことが、何より大切です。

「何もしない」ときの質を上げる

私の最大の休息は「寝る」ことです。

社長の頃は目を配っていなくてはいけないことが絶えず山のようにあり、考えるべき案件も限りなくあり、起きている時間は一分一秒たりとも疎かにできませんでした。

寝ることは、そんな緊張状態から解放される唯一の時間でした。どんなにエネルギッシュな人であっても、フル稼働で動き続けることはできません。

機械でもたまに休止して油を差したり、点検して調子が悪いところを調整すれば、長持ちします。

動かし続けているばかりでは、すぐにダメになってしまいます。人間も同じように働きっぱなしでは、どこかで心身の調子を崩してしまう。

私の場合は、いくら考えても仕事のいいアイデアが浮かばないときや、これ以上動くのはしんどいなと感じるときは、ともあれ寝るようにしています。

どんなに脳細胞が興奮していても、生まれつき寝つきがいいのか、すぐに寝入ることができます。現代人は睡眠が足りていないといわれています。ことに日本人は、その傾向が強いようです。

経済協力開発機構( OECD)の国際比較調査によると、日本人の睡眠時間は加盟国の中で一番短く、アメリカ、フランス、イギリスなどの欧米先進諸国と比べて 1時間以上短いそうです。

睡眠不足は心身の不調を引き起こし、病気の原因にもなりやすいことから睡眠負債と呼ばれ、睡眠負債をいかに減らすかが健康的な生活をする上で、とても重要だといわれています。

人は起きているとき、絶えず何かを「する」状態にあります。こういうことをしよう、ああいうことをしようと常に目的を持って動いている。

寝ることは「する」ことを一切止め、自分を何も「しない」状態に置くことです。

少し前からビジネスマンの間で流行っているマインドフルネス(瞑想)なんかも、あえて「する」ことを一時中止し、「しない」状態をつくることで、深い休息を得たり能力を活性化させようとするものです。

マインドフルネスは坐禅の影響を受けたもので、グーグル、フェイスブックなどアメリカの I T企業に勤める社員の間で流行り、それが日本に入ってきて話題になりました。

「しない」ことは、「する」ことのための充電方法であり、「する」ことを生かすための条件です。

ですから、「しない」ことの質を上げることは、「する」ことの質を上げることにつながるはずです。だからこそ、いい睡眠や休息が求められるのでしょう。

私は自分の睡眠が質のいいものかわかりませんが、あまり夢を見ることもないので、自分では深い眠り方をしていると思っています。

疲れがたまったり、思考が行き詰まったり、オイルが切れてこれ以上前に進めないというときは、寝るに限る。

私にとって、転寝やいい睡眠に勝る習慣は今のところないのです。「何もしない」ときの質を上げる 私の最大の休息は「寝る」ことです。

社長の頃は目を配っていなくてはいけないことが絶えず山のようにあり、考えるべき案件も限りなくあり、起きている時間は一分一秒たりとも疎かにできませんでした。

寝ることは、そんな緊張状態から解放される唯一の時間でした。どんなにエネルギッシュな人であっても、フル稼働で動き続けることはできません。

機械でもたまに休止して油を差したり、点検して調子が悪いところを調整すれば、長持ちします。動かし続けているばかりでは、すぐにダメになってしまいます。

人間も同じように働きっぱなしでは、どこかで心身の調子を崩してしまう。

私の場合は、いくら考えても仕事のいいアイデアが浮かばないときや、これ以上動くのはしんどいなと感じるときは、ともあれ寝るようにしています。

ですから、「しない」ことの質を上げることは、「する」ことの質を上げることにつながるはずです。

だからこそ、いい睡眠や休息が求められるのでしょう。

私は自分の睡眠が質のいいものかわかりませんが、あまり夢を見ることもないので、自分では深い眠り方をしていると思っています。

疲れがたまったり、思考が行き詰まったり、オイルが切れてこれ以上前に進めないというときは、寝るに限る。

私にとって、転寝やいい睡眠に勝る習慣は今のところないのです。

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