一 戦略家たれ
「戦略」とは何か。ものの本によれば「相手の力と自分の力が同等、あるいは相手が勝っている場合であっても、相手に勝つために経営資源を見いだし、これを巧みに利用すること」とある。
とすれば、戦略者とは、「相手に勝つための経営資源の見いだせる者、それを巧みに利用することのできる者」ということができる。
ハイテク、 ニューメディア、バイオ等、あるいは国際化、競争激化のなかで生き残るためには、それに対応する知恵と勇気が必要なのである。しかも他より一歩先んずることが必要である。十年一日の如くというような化石人間はすべて機械に置きかえられることになる。
昭和三十年ごろである。アメリカのある業界のリーダーは、こう警告している。「われわれ一万三千の同業者は、あたかも蛹からとび出した蝶のようなものである。ある蝶は蛹からとび出すや地面に叩きつけられ、ある蝶は栄養失調になって空を飛んでいるに過ぎなくなる。その中にあって蜜を十分吸って空高く舞いあがるものもある。
地面に叩きつけられる蝶は将来を甘く考えている蝶と因襲にとらわれた蝶である。栄養失調になるのは他の真似をする蝶である。空高く舞いあがる蝶は、 コンピュータから出てくるデータを分析、調査し、予測して対応する蝶である」とのべている。
コンピュータが出始めたころであったため、 コンピュータと表現したと思う。これを「時代の変化」と読みかえてみると一層切実さが感じられよう。
当時私は銀行の証券、資金の課長を兼ねていた。さらに時代の進歩に対応するための改革プロジェクトチームが編成され私はそのチーフも兼ねることになった。
一
そこで、かねてより主張していた銀行の大衆化、それに必要な機械化を進めるべきだ、過 蜘
一
去のように特権階級者や一部の金持ち階級を顧客とする考えは古い、いま大衆は貧困であるが将来は有力な取引先となる、と説いた。銀行の経営戦略の大転換である。その計画の中にIBMの一四〇一という、いまではおもちゃ扱いされるほどのものであるが当時は最新鋭コンピュータの導入を加えた。賛同者は皆無に等しかったが、トップの決断で買い入れた。わが国でも草分けである。
それから三年ほどして企画部長を任命されたときである。今では全金融機関で共通使用しているデータ通信システムを一行だけで開始したが、これにも賛同する者は少なかった。このシステムを地方銀行協会で導入しようということになり各行に呼びかけたときも賛成は半分程度ではなかったかと思う。
当時の私は、先物食い、珍し物好きなどとよくいわれていたが、時の流れに乗れなかった人々は今どうしているのだろうか。
時代の変化に挑戦し成果をあげることが経営の要諦であり、変化をみようとしない者、対応しようにも戦略が立てられない者は経営者とはいえないのではないか。時代の先をみる、いわゆる先見ということについては後で詳しくとりあげることにするが、社長はこの戦略家としての任務を忘れてはならないと思う。
高度成長時代には造れば売れ、売れば儲かるという状況であったため戦略、戦術に重点をおくより、多く早く造り売ることで経営効率を高めることができた。現代では、商品一つとっても今日の新商品は明日の陳腐化商品ということになっている。従って、どのような商品を造り売るか、売る場をどこにするか、売り方をどうすべきか、まさに知恵出し競争時代といえるほどのすさまじさである。
そうなればなるほど、社長の戦略家としての任務は一層重要となり、企業の本当の強さを考えると、社長だけではなく社内にも戦略家を多く育てていかなければならない。機械は資金さえあれば買うことができるが、人の育成は急場に間に合わせることができない。温厚篤実なまじめ人間というだけで幹部に登用していたのでは、いつかは時代の変化にとり残される企業となろう。
漢の高祖劉邦は、戦いに勝つごとに功臣におしみなく賞を与えたが、なかでも最高の賞を爺何に与えている。本書の第一章ですでにのべたとおり、項羽が一人の池増も使えなかったのに対し、張良、韓信と蒲何の協力を得たから天下を得た、といわしめた爺何は、いわば内政・兵靖部門の責任者であり、最前線で武勲をあげた他の武将たちは不満である。
「われわれは固く重い鎧・兜に身を固め、鋭利な武器をもって戦場を駆け回り、多い者は百余戦、少ない者でも数十回も戦場に出ている。しかるに爺何はまだ一回も馬に汗をかかせたことはない。それでいながら位も上で、賞も多い。どうしたわけでしょうか」と。
すると劉邦はこう答えた。「諸君は猟を知っているだろう。獣を追いかけて殺すのは犬であるが、その大を解き放って、指図して捕えさせるのは人間である。今度の功名を猟にたとえれば、人(爺何)に指図されて、逃げる獣を捕えたに過ぎない。功は功でも犬の功で、爺何の功は、諸君を使いこなした人間の功である」と。
名戦略家、知将の名声高い張良o爺何を使いこなした劉邦こそ、彼らの上をいく戦略家であったといえる故事である。考えてみれば、銀行のコンピュータ化プロジェクトを、 一介の課長に任せた、当時のトップもまた、名戦略家であったのではないか。
一一 物心の基盤強化
昔から事業は三代で成るというが、会社の社風・社是社則など、どのような変化があっても揺らぐことなく、また、どんな事変にも動じないだけの経済力を築くことは一朝一夕にできるものではない。
「災いを未萌の内に除き、勝を百年の先に決する」とは、企業経営でいうと、将来の災いになることを芽の出ないうちに取り除き、遠い将来も勝者であるように経営基盤を固めることが経営者の任務である、ということになる。
ローマは一日にして成らずとか。現代企業にしても一朝一夕にして成そうとすることは、基礎を固めずに巨大な建造物を建てるに等しい。
たとえば、企業の人づくりにしても、 一人前の企業マンを育てるのに一年や二年でできるものではない。まして社員の意識改革など機械で物を造るようなわけにはいかないものである。
第二の会社の再建にあたり、借金の返済は二年半で達成したが、これで再建できたと思えるようになるまで十一年間もかかっている。私の怠慢のためでもあるが、社員の意識改革にそれだけの時を要したからである。
会社の財務的な再建などは、例外を除いて、勇気さえあれば誰にでもできるもので、さほど難しいものではない。財務を圧迫するすべてを取り除けばよいのである。
難しいのは、組織内の多くの人の心を入れかえることであって、財務改善だけで会社を再建したと考えることは極めて危険である。倒産の危機も、財務の悪化もすべて人間がおこしたことで、組織内の人々の心に病根が残っていれば、必ず再発することになるからだ。
関係した会社の再建当初に、主力銀行から「貸金元利を棚上げしてやるから、再建を速めよ」といわれたとき、即座に断った。まさに地獄に仏の申し出であったが、これでは会社の帳簿上赤字が黒字になるだけで、社内の安易・依存心を取り去るどころか、ますます増長させることになりかねないからである。「贅脳を落とせ」とは、再建当時よく私がいったことである。
減量経営の意味の″贅肉落し〃はよくいわれていることであるが″贅脳〃とは安易な考え方、自己中心、依存心など厳しい時代にもってはならない心である。しかし、人間は、どうしても苦より楽、自力より他力依存に傾きがちとなる。人間には意欲型人間と退嬰型人間の二通りがあるという。
贅脳でふくれあがっているのが退嬰型人間の特色で、自らの責任を他に転嫁して省みることがない。対して、意欲型人間は、すべてを自己の責任として反省して改めるから両者の差はあまりに大きい。さらに退嬰型はムードに弱く、意欲型は強い。たとえば、インフンに貯金は弱い、というムードがでれば、すぐ同調して浪費にはじるのが退嬰型。対して、意欲型は何をするにも先立つものはかねだ、と一時のムードに流されない。 .
いうまでもなく企業の発展を促すものは意欲型人間であり、不振に陥れるものは退嬰型人間である。しかし退嬰型人間は、住みごこちのよい安住の場に育ち繁ってきている。これを一朝一夕に改めることは難しい。早急に改めるには、百の説教よりも安住の場をとり去ることである。
それには、まずトップ自らが意欲的になることである。経営不振を社員のセイ、業績低下を不況のセイにしている向きもあれば、赤字転落をコストアップのセイにしている経営者も少なくない。はなはだしいのは、部下が他のセイにしているのを肯定しているトップがい
「どうもこの不況では受注減もやむを得ないと思います」「毎日ご苦労さん、これだけ環境が悪化すると、それも無理はない」とかえって慰めに回る)。
「こう忙しくては勉強もできない」といえば、「無理もない。僕でさえできない」と同調する。不況や多忙のせいにして省みることがない。これでは部下は安易に馴れてしまう。
「景気がよくなったら売れるというなら、不況の期間は月給を辞退しろ」というぐらいでなければ、意欲型人間には育たない。トップ自らが厳しさに挑戦し、退嬰型部下の言動には決して同調しないことである。
もう一つは、意欲型人間に限って用いることである。他のセイにして己の非力をカバーしようとするタイプは組織内からはずすことである。どんな些細なことでも他のセイにすることは許さないぐらいの厳しさが必要である。
現職時代に、二日酔いで遅刻した者がいた。「昨夜の宴会で皆から酌をされたもので飲みすぎた」というのが言いわけであった。次の会の時に「あいつにはただの一杯でも酌をしてはならない」と厳命しておいた。
彼は独酌で寂しそうに飲んでいたが、やがて私の席にきて「お酌をしてくれない理由がわかりました」といった。「それがわかればよい。私がお酌しよう」と笑い合ったことがある。
さらに安住の場をとり去るには、組織を独立会社に分社してしまう強引なやり方もある。地域o機能別に独立会社化すれば、親会社に対する依存心も払拭され、退嬰型人間の住む場所など、どこにも残されないことになる。
ところで、受け皿会社をもつところが近年目立ってきたが、これと独立分社とは異なるものである。
高令者や能力の限界に達した高給とりを受け入れる会社の存在は、いかにも温情あるやり方のようにみえるが、行かされる人間にとっては、御用済みの扱いで好ましいこととは考えまい。働き甲斐もなくただ時間つぶしということでは、結果は親会社に完全依存となり、負担軽減を狙ってかえって負担増となりかねない。将来の負担増を予測しながらの受け皿会社設立ということは、 一考を要するのではないか。
次に、物財による基盤強化である。
会社も生きもの、いついかなる事態に追いこまれるか計り知れない。万一の場合でも、いいわけの許されないのが会社経営である。とすれば、いいわけ無用といわれないために、いかなる場合にも対応できる準備が必要となる。
近年のように内外競争が激しくなるにつれ、利息o配当・処分益などの果実の得られる財産であれば、競争上有利になる。
本書の第七章「社長の財務」で、詳しくその辺のところはのべようと思うが、物財についての基盤づくりも経営者の大切な任務である。しかし、だからといって物財もまた、早期に築こうとすることには賛成しかねる。危険が伴うからである。投機的な土地投資や株式売買は儲けもあるが損もある。この当り前のことが見えず、急いで近道を通ろうとして、かえって遠回りすることになっている。
急がば回れとか。明治時代、横浜の生糸相場、いわば投機に明け暮れた雨官敬二郎は、後年、東京市電敷設などに活躍したが「蓄財とは急がぬこと」と述懐している。現代の企業にしても、物心両面の経営基盤を強化するには決して急ぐべきではない。着実に、執念深く、根気よく築きつづけることでなければならない。
戦国時代に書かれた荀子に「膜(駿馬)は一日にして千里をゆくが、駕馬も十日かければそこにつく」とある。
三 衆を養うを先とする
昔から名君といわれる人は、富国、つまり人民を富ますことを先にし、次いで強兵に心がけた。
言志四録に「五穀自ら生ずれども、未相を仮りて以て之を助く、人君の財成輔相も、ま
すき
た此れと似たり」(五穀は自然に生ずるが、人が鋤で助けないと立派に実らない。人民も自然に生まれるものだが人君が助けないと立派な民にはなれない)とある。
三国志の雄、蜀の劉備は八年間に五回もの大きな遠征をしている。並の指導者なら、国は乱れ人民は苦しみ、内部分裂を起しそうなものだが、それらの記述は残されていない。諸葛孔明という名参謀をえて、よほど治世に心したのではないか。また西漢の創立者である劉邦が、功労者の報賞に際して、内政の責任者である爺何に、第一等の賞を与えたことは既にのべたとおりである。このように、衆を養うことを先にして、しかもそれらの中から強兵を養っているのである。
現代の企業においても、大企業に飛躍しようとする者は、まず、人材を求め、育てることに重点をおいている。新入社員の学力・知力に大きな差があるとは思わないが、五年十年とたつ間に大きな差がついてくる。導き方の巧拙である。
先輩に甲乙つけ難い能力者が二人いた。 一人はまことに厳しい人であったが、後輩の教育に熱心で、面倒をみることも惜しまない。もう一人は、能力はあったが、お気に入りの部下を集め、それに君臨して得々としている人であった。いずれも常務の地位にあって、実力者として自他ともに許していた。
その結果をみると、前者の薫陶を受けた者の大部分は役員に昇進しているが、後者からの役員は五指に足りない。
前者の教育は極めて厳しかったが、将たるべき人間を育てるための教育であった。そのため、その部下もそれなりの勉強をすることになる。後者につく者は、勉強よりも、いかにして先輩の意にそうことができるかに腐心している。私は前者に従う一人だったが、夜学を卒えて挨拶に出向いたとき「これから何を勉強するつもりか」ときかれ、「毛筆習字を始めました」と答えたところ、「そんなことはどうでもよい。鉛筆一本で仕事をする人間を志せ」と一喝されたことがある。
また「活字を読まず行間を読め」といわれて面食っていたら「そこにあるものは誰にも見える。将来現われるものを見る習慣をつけろ」と教えられた。時勢洞察、先見力を養えという意味である。
そうかと思うと「君にも必ず退職ということが来る。退職後、現職時代より収入が減るようであったら、現職中怠けていたと思え」。これは三十才代に言われたことである。さらに、取締役に就任した五十才のときである。「役員になったら、平素は昼行燈でもよいが、公事に一旦緩急のときは自分を捨ててそれに当れ」、などなど記憶に新しい。
それらの教訓はいまも私の心に生きている。言志四録ではないが、上に教えられなければ、生まれながらの人間でしかない。教えられたから人並になっている。しかし、それだけでは先輩の恩に報いることはできない。これを自分の後輩に、より良くしてゆずるのが任務といえるのではないか。
社長は能力に優れ、やる気十分だが、従う者がはなはだしく劣るということでは、 エンジンばかり馬力が高くてもタイヤがバンクしているに似ることになる。
ある会社の社長が交替し新社長は「社員教育など費用ばかりかかって効果がない」といっているという。目先の小損を惜しんで、将来の大損を招くようなものだ。たまたま、その会社で講演する機会があり、前職時代の経験から話しだした。
「私が銀行の課長時代、昭和三十年頃の話である。新時代に対応すべく銀行の組織・制度を全面改正するため、プロジェクトチームが編成された。私がそのチーフを命ぜられたが、まず手をつけたのが行員の研修制度の確立であった。当時の金融界では、全社的な研修制度などというものがなかった頃だから、職員組合を中心に反対もあった。なにごとにも反対はつきもの、『人材教育なくして銀行の将来はない』と反対を押しきった記憶がある。
それから数年たち、業界の草分けとしての研修制度が定着した頃に、頭取室に呼ばれた。頭取自ら経費予算の審査をしているところであった。当時は節約合理化の徹底がさけばれ、審査というよりは削減といったほうが正しい。
『どうだ、このとおり一律十%の削減だ。これを見たまえ』といって一覧表を見せてくれた。見ると、行員研修費まで例外なく削ってある。そこで恐るおそるいった。
『研修費だけは削減しないほうがよいと思います。仮に年一千万円節約しても十年で一億円、半分税金で消えますから社内留保されるのは五千万円。これを年十%に運用したところで年五百万円の利益を生みだすに過ぎません。削減しないで、五千人行員の頭脳貯蓄をすれば、その利益ははかり知れないものがあります』
『それもそうだ。これは削らないことにしよう。しかし、これを減らさないことにすると、削減予定額に達しない。どうしたものか』
しばらくして頭取、『名案がある。君の月給、ボーナスをなしにすれば、いくらか補足できる。どうだ名案だろう』。まさか、タダ働きはさせまいと思ったから『結構です』といって引き下がった。トップの人材教育の熱意を知って嬉しく思ったものである」と。次に銀行からある会社に移ってからの話を続けた。
「新入社の日、社長から『私は技術屋だから、人事、財務など一般管理部門を任せたい、よろしくたのむ』といわれた。翌朝出勤してみると、課長会の幹事がきて、今朝課長会があるから新任の挨拶を願いたいと突然いわれた。そこで、『昨日社長から人事も任された。課長の皆さんの頭の中が空になったら部長にすることを約束します。挨拶はこれだけです』と話した。十秒ぐらいであったろう。
後刻、そのわけをききにきたから言った。『現在もっている能力を押さえ抱えして課長の地位を守ろう、としている課長に課長の資格はない。自分の能力のすべてを部下にゆずれ。ゆずれば頭の中は空になる。空にするほどの者は空にしっ放しということはない。次により優れた能力をえて、それをまた部下にゆずるだろう。こうして上司部下とも切磋琢磨して成長することになる』と話しておいた。それから二年はどたってからである。人事部長から相談を受けた。
『A課長は最近かすんで見えるようになった。課次長がめきめき能力を発揮するようになったからだ。この際A課長を閑職に回し、次長を課長に抜櫂したいと思うがどうか』というものである。
きくと、A課長の能力が落ちたわけでもなく、他の課長と見劣りするようになったわけでもない。課次長の能力が優れてきたからだ、という理由である。
『それでは結論をだそう。課次長を課長に抜櫂することには大賛成だが、A課長は閑職とするのは反対だ。むしろ、他部の部次長に昇格させるべきだ。それに、かすみもしない何十人かの課長は逐次閑職にして新進の抜燿に努めてもらいたい』と話した。
理由をきかれたので『A課長は自分より優れた部下を育て上げた能力と功績がある。昇格は当然である。他の課長は、部下を育てていないから自分がかすんで見えないだけだ。課長の資格はないといえるだろう』と話した。
『与えられた権力を乱用するよりも、与えられた権力を行使しないほうが悪徳である』といった人がある。部下の非を諭し、導く、賞罰を公平にするなど上に立つ者、つまり権力を与えられた者の任務、言い換えれば、権力者の最高の任務は己より優れた部下を育てることにある。それを怠ることは、権力を行使しない悪徳管理者といえるのである」。そして「部下後輩の指導は社長命令で管理職全員であたれということである」とつけ加えた。その社長はどう受けとめたか。
本書の各所でのべているが、私は、何から何まで人材育成に結びつけてきた。企業の公共性とは、人材育成をもって第一とする、とさえ考えているわけである。
さて、ここで私なりに考えていることがある。その前に曲学阿世の故事を紹介しておこう。前漢五代の武帝は天下の賢良の士を求めた。
まず詩人の転固生を呼び出した。固生は九十才にもなっていたが帝のお召しに感激して遠路出てきた。
だが、剛直な老爺にこられてはエセ学者たちにとっては煙たくてたまらぬ。帝に思いとどまらせようと悪口をいい出したが帝はこれを抑えて登用した。
そのころ、固生と同じ山東の生まれの少壮学者の公孫弘も召されていた。孫弘も、このおいばれ爺いぐらいに思っていたが固生は気にもせず、あるとき、こう語った。
「学問の道が乱れ、俗説が一般化している。このまま放っておいたら由緒ある学の伝統は姿を消すことになるだろう。貴公は若いが好学の士ときいている、どうか正しい学問を十分に勉強して、世におし広めてもらいたい。決して自分の信ずる学説を曲げて、世の俗物どもに阿ないように」。これが″曲学阿世″のいわれだが、孫弘も固生の立派な人格と、その学識、それに節を曲げない心に感じ入り、無礼を詫びて弟子入りしたということである。いまでも、働くことや、勤倹が悪徳視されたり、浪費が美徳とされたり、はなはだしくは人格までが無用視されている。
ことに近年では、わが国古来の美風までが海外からの非難攻撃などによって損なわれようとしている。これは、海外の他力依存から出た安易な考えや羨望からのものである。 つまり、わが国の美風を損ねることによって優位を取り返そうとしているかのようである。皮肉に考えれば美風を霧消しようとする謀略でもある。いわば曲学阿世でしかない。そこで、いいたいことは、社内教育にあたっても、海外の負け犬のいいぶんを、まともにきいて後輩を育ててはならない、ということである。
四 人は用い方
「群小人を役して以て大業を興す者は英主なり。衆君子を舎てて而して一身を亡ぼす者は闇君なり」(多くの平凡な人を使って大事を成した人は英邁な君主である。多くの優れた人を捨て用いずわが身を亡ぼした者は愚かな君主である)。
言志四録にある言葉だが、現代でも、平凡な人を能力者に育てたり、人事管理を巧みにして大成している人も少なくない。また、天下の能者、知者をかり集めてはいるが用いることができずに一敗地にまみれている人がある。能者を集める能はあっても用いる能がないからである。
だいたい人間のうち、どうにも始末に困るものは全体の五%ぐらいだろうといわれている。ということは、教え方、仕向けかたによっては九十五%は役立つ人間ということになる。また、当初は無用の人間と思っていた者が有用な人材になることもあるし、用いる人の引き出しかたが悪かったため、能力の発揮できないでいる者もある。中国戦国時代の故事である。
趙の国は大国秦の大軍に包囲され、首都部鄭も鼠一匹銭刀三十枚の値を呼ぶほど食糧に窮し、城の運命もここに極まらんとしていた。こうなっての生きる道は、他国の援助を受けるそこで王の一族である平原君が楚の孝烈王に救いを求めるため出発することになった。
平原君は前にもふれたように常に三千人の食客を養っていた。その中から二十人を選んで同行させようと考え、十九人は選べたが残り一人選びあぐねていた。そこへ毛遂という男が「ぜひ自分を」といって自薦してきた。平原君は驚いてきいた。
「あなたは、ここへ来て三年たつというが、賢士というものは、あたかも、錐が袋の中にあるようなもので、すぐ、きっ先を外に現わします。それなのに三年もいるのに人の噂にものぼっていないということは、たいした才能がない、といえるのではないか」。毛遂は「もし袋の中に入れて下さっていたら、錐の柄まで突き出ていたでしょう」(嚢中の錐の故事)。こうして毛遂は一行に加えられた。先方へ着いて楚王との交渉が始まったが難航していつ決まるかの見当もつかない。
一同からうながされた毛遂は、手を剣の柄にかけながら階段をかけ上がり「半日もかかって決まらないとは何ごとですか」と叫んだ。
趙の国は大国秦の大軍に包囲され、首都部鄭も鼠一匹銭刀三十枚の値を呼ぶほど食糧に窮し、城の運命もここに極まらんとしていた。こうなっての生きる道は、他国の援助を受ける以外にない。そこで王の一族である平原君が楚の孝烈王に救いを求めるため出発することになった。
平原君は前にもふれたように常に三千人の食客を養っていた。その中から二十人を選んで同行させようと考え、十九人は選べたが残り一人選びあぐねていた。そこへ毛遂という男が「ぜひ自分を」といって自薦してきた。平原君は驚いてきいた。
「あなたは、ここへ来て三年たつというが、賢士というものは、あたかも、錐が袋の中にあるようなもので、すぐ、きっ先を外に現わします。それなのに三年もいるのに人の噂にものぼっていないということは、たいした才能がない、といえるのではないか」。毛遂は「もし袋の中に入れて下さっていたら、錐の柄まで突き出ていたでしょう」(嚢中の錐の故事)。
こうして毛遂は一行に加えられた。先方へ着いて楚王との交渉が始まったが難航していつ決まるかの見当もつかない。
一同からうながされた毛遂は、手を剣の柄にかけながら階段をかけ上がり「半日もかかって決まらないとは何ごとですか」と叫んだ。
孝烈王の怒りにもひるまず「王がお怒りになるのは楚の大兵力を後にしているからでしょう。しかし、この場は違います。王と私の間は十歩に過ぎず、大兵力は役立ちません。王の命は私の手にあるといえます。それに、大国の楚たるものが、むざむざ秦の風下に立とうということ自体不可解な話。同盟を勧めるのは趙のためというより、楚のためである」と。孝烈王もなるほどといって盟約を承知した。こうして趙は危機を脱したのである。
毛遂は同行の十九人に言っている。「公等禄禄たり。所謂人に因りて事を為す者なり」(おまえさんたちは、そこらに、ごろごろしている石ころのようなもので何の役にも立たない。いわゆる人の力にたよって事をなすだけの人間である)。人を見る目を誇らていた平原君は毛遂にこう言って兜をぬいだ。
「毛先生には大変失礼致しました。先生は一度楚に行かれただけで趙の国威を″一ルぅ騰対呂″より重くしました。毛先生は、 ″三寸の舌を以て百万の師よりも彊し″というべきでしょう。これからはみだりに人物評をしないことにします」と、毛遂を絶賛するとともに自らの人物を見抜く力のなかったことを恥じたという。
九鼎大呂とは古代中国に伝わる天下の名宝のことで、九鼎は夏の高王が九州(当時の中国全土)から銅を献上させて造った鼎で、夏・殷o周三代に伝えられた。大呂は、周の祖先の廟にあった大鐘で、その音が大呂という音階であったので名づけたという。天下の名宝も、国難を救った口先三寸には勝てなかったということである。
現代の企業においても、磨けば玉になる人もいるはずなのに社長に見る目がなく、磨いてみようとしない。用いれば袋から柄まで突き出すような人材かもしれないのに、袋の中に入れようとしない。人材不足を嘆いて宝の持ち腐れに気づいていないのではないか。かつて関係した会社に技術者だが進歩の上まってしまった者と、事務屋だが、これも力の限界を思わせる中年男がいた。会社へ何をしにきているのか見当もつかない。
この人たちに女性一人を加え、分社経営移行を機会に独立会社を建てた。業務は用品の仕入れ、販売で、会社の消耗品、小物器具などが扱い品である。現金仕入れ、現金販売。薄利多売、いわば大きく儲けるより、早く売る方が収益を増やす道となる。その日、その日の利益がわかる。自分たちの月給やボーナス一ヵ月分の経費を、今月は二十日で稼ぎ出した、十日で稼ぎ出した。今月は来月分まで儲けた、という具合に自分たちの努力も評価できるため働き甲斐も出てくる。従来は他の稼ぎで自分たちの給与を賄ってもらっていたものが一年後には、すべてを自分たちの稼ぎで賄い、現在では社内積立を増やすほど稼いでいる。居候扱いされていた者が、居候をおく身分になっている。当時私は言ったものだが、 ハサミとバカは使いようによって切れるというが、切れるハサミも使える人間もバカが使うと切れなくなる、と。
人間、全くの例外を除いては使えない人間というものはない。どうも役に立たなくなったから窓際に移せ、受け皿会社へ転席してしまえ、と軽々しく言うべきではない。そういう人間こそ先に追い出されるべきなのである。世に無用というものはない。無用の用、という教えもある。
二卵を以て干城の将を棄つ
昔の人は、戦いに勝つためには飼いならされた馬に乗るより野生馬に乗れ、と教えている。なれた馬は乗る人の思いのまま動くが、野生馬は荒々しく何をしでかすかわからない。しかしそのぐらいの荒々しさがなければ、矢玉の飛び交う戦場に突入していくことはできない。
人間も同じこと。泥にまみれるのを恐れる者、べからず主義で教育された無難な者は、日立った失敗や欠点のない分、行動力は鈍く、感度はさらに鈍い。一方、個性をむきだしにして荒削りな者は失敗する危険もあるが思いきった発想・行動をするものである。
ところが、そうした個性的な人間はとかく危険人物視される。なるほど可もなし、不可もなし、温厚篤実人間からみると、危なっかしくて信用できないかもしれない。一つの大きな功よりも小さな過失を恐れるからである。
前職時代の上司に、二十余年間無事故運転をつづけていると自慢している人がいた。ところがご本人は殆んど自分で運転したことがないのだから無事故で当り前、過失もなければ成功もないということで、別に自慢にもならない。怪我をするくらいの子供の方が頼もしい、とよくいわれたものだが、多少のやんちゃをし、少々の失敗をしても、なすべきことを成せることの方が大事ではないか。
関係していた会社の社長から、取締役の人選についての相談をうけた。ある営業所長を取締役に抜燿したいのだが、問題があるという。
「この出張所長は先年、下取り商品を売って交際費に使い、罰俸処分を受けたことがある。額も小さく、使途も明瞭だったが、帳簿記入を怠った、という誤りであった。そういう人間を子会社といっても取締役にすることは、という理由で一部に反対者もいるが、どうしたものだろう」というものであった。そこで私はこう答えた。
中国の故事に「涙を揮って馬談を斬る」がある。これは三国志に出てくる蜀の劉備の軍師、諸葛孔明が将来の大成を楽しみにしていた馬談を軍律違反ということで斬った故事である。馬譲の過ちによって蜀は一時窮地に陥ったほどの大罪であったからだ。その所長がむかし犯した過ちを理由に「馬談を斬る」にならって取締役抜櫂を拒否するか、それとも「二卵を以て干城の将を棄つ」という故事に従うか。
孟子の師にあたる子思が衛に仕えていたときである。子思が荀変という男を将に取り立てようとした。衛公は「あの男は下っ端役人のころ領民から鶏卵二個を物納させて飲んでしまった者だ、そういう人間を取り立てることには反対する」という。 .
そこで子思が言った「聖人が人を用いようとするときは、丁度大工さんが木を選ぶように短いのは捨て、長いのを選ぶ。長ければ数尺の朽ちたところがあっても削り取ってしまえば使えるからだ。いま君は、この戦国の世に、卵ニコのために国を守る大黒柱ともいえる将を捨てようとしている。こういうことは隣の国に聞かせてはならない」と。
過去の小さな過ちを根に思うか、それとも忘れてしまうか、いずれかでしょう。人事は社長の権限です、私は助言だけにしておく、とその判断をお任せしたわけである。
翌日、社長は出勤するなり「昨日のことは卵二つに決めました」といってくれた。その卵二つの彼は現在、子会社の代表取締役として立派な成績をあげている。部下を容れる心が大きいはど部下もまた大きく育つものである。
関係した会社が分社経営を実行した。創業三十年足らずの若い会社が二年の間に四十人の代表取締役、百二十人の取締役をどうして選んだか、よほど不思議に思ったのかよくきかれたものである。分社経営をテーマにした講演会などで必ずといってよいほどこの質問が出た。
「二百人の社員のなかから百二十人を選ぶのは困難だが男女一千二百人の社員のなかから選ぶので全く困難はなかった」
「能力、体験不足、若過ぎたり、役員としての条件に欠けたりの者も多かろうに」
「完全無欠な取締役を選ぼうと考えては百年たってもできますまい。取締役にしてから勉強して条件を満たしてもらえばよいと考えている」
「若い者に重い責任をもたして危険はないか」
「過ちを犯して会社をつぶしてしまうようなことは万に一つだ。それを恐れては何もできなかろう。危険を冒す勇気を買っているくらいだ。経営者として絶対欠かせないものは部下を信頼することだ。
それに、親より子、先輩より後輩のほうが優れていると私は考えている。優れている者を取り立てているだけのことだ」と説明しておいた。
かつて西漢の劉邦が項羽とはげしく覇権を争っていたころ、劉邦が食糧難で窮地に陥って項羽に和睦を申し入れたことがある。項羽がこれを受け入れようとしたが、亜父(父に次ぐ者)池増が、後日に悔いを残す、ここで打ち果たすべしと反対したため、劉邦の居城である榮陽を包囲した。困ったのは劉邦。和睦を申し入れて、味方の無力を敵に知らせ加えて籠城に追いこまれ、落城を待つばかり。
このとき、劉邦の知将、陳平は考えた。項羽が強いのは、池増がいるからだ。両者の間を割けばよい。そこで、楚軍の中へ間者をやり、ひそかに「池増は功賞に不満で項羽を怨んでいる」というデマをとばさせた。
項羽は、これにあわて、池増に内密に講和の使者をよこした。陳平は漢の首脳勢揃いで、この使者を歓迎し、最高の料理を使者の前に出し、丁重に言った。「亜父はお元気ですか」と。
使者たちは、主君、項羽の使者としてきたのに臣の荘増のことをきかれ、意外に思った。「私たちは項王の使者としてきたのです」と。
すると陳平は、わざと、これは、しまったといわんばかりに驚いたふりをして「亜父の使者とばかり思っていたのに項羽の使者だったのか」といって、 一度出した料理を片づけさせて粗末な料理と取りかえさせた。そして自分たちもその座を外してしまった。
まんまと、陳平の策に引っかかった項羽は、使者の話をきくと、施増に与えていた権限を奪らてしまった。
このとき、激怒した砲増は「天下の大勢は定まったも同然です(天下を得る者は敵の劉邦と決まった)。これからは、王自身でなんでもおやりになることです。私は骸骨を乞うて、民間に、うずもれることに致します」と申し出たとある。
現代でも、辞職する際「自分の一身は主君に捧げたものだが、そのむくろを下げ渡して下さい」という意味で″骸骨を乞う〃といっている。
項羽は、かくして、唯一人の知将を失なって次第に滅亡への道を歩みつづけることになる。
部下を容れる心のない狭量な将は、いかに、智o勇に優れていてもいずれは孤独になるものである。
六 厳しく育てる
「可愛い子には旅をさせよ」とは昔からよくいわれていることである。山河を渡渉し、時には食わず、眠るもかなわず、寒さ暑さに耐えるなど苦難を乗りきる体験は、教科書や人の日からは得られないことである。
「体験こそ学問」の教えも同じで、 一頁の経営書をも読まなかったであろう人が大成し、万冊の経営書を読んだ人が失敗している。前者は体験からすべてを学び、本物の動き、人の心まで見抜く徴妙な神経を養ったのに対し、後者は、時の変化・人の心・出方などの微妙な点を教科書から学べなかった。ここに大きな差が出てくる。
言志四録に「賤そぎう所の期難笙r、屈辱議謝・輝ポが事は、部天の磁若を若せしむるァ以にして、砥碩切嵯の地に非ざるはなし。君子は当に之に処する所以を.慮‐タベし。宿ヶに之を免れんと欲するは不可なり」(我々が出会う苦o悩み・変事、恥辱などの困りごとのすべては、神が自分の才能を老熟させるためのもので、自己形成の資である。これをどう克服すべきかを考えることが大切で、決して避けてはならない)とある。
西郷南洲の詩ではないが「幾度か辛酸を経て志始めて堅し」のように、辛酸の積教あげがすなわち大成、ということになろうか。
言志四録にこうも書いてある。「顛難は能く人の心を堅うす。故に共に娘難を経し者は、交を結ぶも亦密にして、党に相忘れるに能わず。糟糠の妻は堂より下さず、とは亦此の類なり」(顛難は人の心を堅固にする。したがって顛難を経てきた者は人と交わりを結ぶにも、緊密で互いに忘れることはない。糟糠の妻は堂より下ろさず、もこの類である)。
私の二十才のときに立てた生涯信条に「厳しさの挑戦」を加えたが、当時の私には、親から残された借金のために、別に挑戦しなくても厳しさを余儀なくされていたわけである。借金を完済して土地の権利書を債権者からとり戻し、先祖の仏前に供えたとき、母が涙を拭い .もせず「これでご先祖に申しわけが立った」と一言。これをきいて、人生の最高の喜びを知ったものである。もし楽を先にして土地を売り、借金苦から逃れていたら、この感激を味わうことはできなかったろう。
ふりかかる困難を避けて喜びはない。また、単に切り抜けただけでは平凡な喜びにしか過ぎない。最高の喜びとは厳しさを自ら求め、これを克服したときにある、と知らされたわけである。
会社経営にあたって、この最高の喜びを、社員にもぜひ味わってもらいたい、厳しさに挑戦して強く邊しくなってもらいたいと念じて、「厳しく育てる」ことを実行してきた。関係した会社で、無借金経営をたてた際、財務部長に二つの厳しい日標を指示した。一つは、五カ年計画の期間内に必ず無借金にすること。期日よりたとえ一日遅れても許さない。そのときは部課長の肩書きを返上してもらう。
二つは、返済にあたり見合預金に手をつけないこと。返済金に窮しても、預金を崩して返したのでは部課長は不要だ。定期預金が満期になれば郵送しても銀行は相殺してくれる。郵送ですむような仕事に部長や課長はいらない。部課長たるもの他に返済資金を求めなければならないという、厳しい注文をつけたわけである。
結局、借金は二年半で完済し、預金はむしろ増えている。しかも、返済に全力投球し、生産期間の短縮からあらゆる経費の節約まで全知を傾けさせることによって部課長の能力も大幅に向上することになった。少しの憐れみも求めず、与えず、まさに鬼となって再建を果たしたが、安易を求め厳しさを避けて有終の美は飾れないものである。同じ体験をさせるにも、厳しさに挑戦させることが肝要といえるのではないか。
とかく部下に何かを体験させようとするとき温情が先立つものであるが、これはかえって情のない仕打ちとなる。言い換えれば部下に将来の苦を与えることになる。この話は主従ではなく父子のことである。
中国の戦国時代、趙の国に歴戦の勇将の誉れの高い趙奢がいた。その子趙括は若くして兵法を学び天下広しといえども右にでる者なし、というほどになった。
あるとき、この父子で兵法を論議したが、父はやりこめられて一言の反発もできなかった。これをそばで見ていた括の母が「少しは褒めてやったらどうですか」といった。それに対し趙奢は「″兵は死地なり″(戦いというものは命がけである)。括はこともなげに論じたてているが実戦の体験がない。あれが将来趙の軍を率いるようになったら趙は滅亡するだろう」といった。
果たして父が予言したとおり、趙括が総軍を率いて秦と戦ったとき一戦で四十五万の兵を失ない趙を危地に陥れたという。括の体験のない生兵法が災いとなったのである。体験のない者には臨機応変の知がでない、勇もでない。これらの知、勇は学問からは学ぶことはできないのである。
現代でも、スポーツ選手、ことに力士はからだで覚えよといわれる、手とり、足とり、ロ移しにしても微妙な変化に瞬間に応ずる術を会得させることはできないからであるエジソンは「天才とは、九十九%の汗と一%の霊感」といっている。天才は天性ではなく体験から生まれるといえよう。
前職時代私は、あれもするな、これもするなという教育をやるな、それはノミのサーカス教育だといったことがある。ノミにサーカスを教えるには透明の器にノミと栄養食を入れる。ノミは元気になり、外へとび出ようとするが器に妨げられて出られない。しまいには、あきらめて跳ばなくなる。それからサーカスを仕込むという。形式・体面だけのべからず教育によって画一人間を造っていては、本当の厳しさに挑戦する人材は育たない。
ァメリカの著名な商業コンサルタントは、アルバイトで稼いだかねで居酒屋を飲み歩いた体験のほうが学校で学んだよりも役立っているといっている。
基本は学問から学ぶことができるが、応用は体験から生まれてくることを知っておきたい。自らも部下も、厳しさに挑戦し、挑戦させ、その体験から次の飛躍を学んではしいと思う。
七 赤心を推して人の腹中におく
「恕」相手を思いやる、といっても、恩着せがましかったり、私欲がからんでいるようであってはむしろ逆効果になるだろう。それが自然で、企むところがなければ相手は心から感激することになる。
たとえば、部下を叱る場合であっても、部下の非を直してやろうという真心があって叱るのと、部下を憎む心があっての叱りでは相手にはすぐわかる。もし、非を改めるものであれば、その場限りで終り、あとまでつづくことはない。また、叱られた者が逃げ口もない、いいわけもできないはど追いつめることもない。信長は怨みを後に残して光秀に殺されている。街道一の親分清水の次郎長は人前で子分を叱ることはなかった、という。
前職時代のトップは厳しく、雷の落されない者はなかった。しかし、思いやりの怒り、雷は落すが、そのあとは夕立が去ったような爽やかさであった。
ある夕方、外出しようとしているトップに出会った。「○○支店長をさっき、どなりつけたが、いまじぶん恰気ているだろうから慰めに行こうと思って」という。
トップが、わざわざ慰めに行ったら、落ちた雷の効き目もなくなりそうだが、実はこのはうが効き目も高まる。思いやりに感激するからだ。また、先輩常務と席を並べていたときである。
「いまトップに頭が上がらないほど怒られてきた。なにしろ、扇子で机を叩きながら怒るので扇子がバラバラになってしまった」
ところが翌朝、トップの部屋から出てきた先輩常務の顔はニコニコ顔。わけをきいたら「新しい扇子を買ってきて、いま届けにいったら″もう一度、バラバラにできるね〃といって大笑いしていた」という次第。心にくいまで相手の心を見通している。
ある部へ行ったとき部長が若い社員を叱りつけている。「貴様のような人間を生んだ親の顔がみたい」とまで言っている。後で私は部長を戒めた。「私が、部長を、そう言って叱ったら、どう思うかね。部下を叱るのに親まで引き合いに出すことはない。どうせ出すなら、親を褒めるがよい。『君の親は、そういう教育はしていないはずだ』といったら、親の立場を良くすることになる」。
菜根諄に「人の悪を攻むるには、はなはだ厳なることなかれ、その受くるに耐えんことを思うを要す。人を教うるに善を以てするに高きに過ぐることなかれ、まさに、それをして従うべからしむべし」(人の悪を責めて善をさせるのにもあまり厳しすぎてはならない。その人が心から服し、実行できるように心がけなければならない)とある。ところが、トコトンまで追いつめてぐうの音も出なくする者がある。楚の項羽が部下から見放された理由の一つは峻烈な″怒″にあったようだ。
項羽に従ったことのある劉邦の臣韓信が項羽を評して「項羽が怒ると、そこにいる家臣はみな恐怖にかられ、ひれ伏してしまう。しかし彼は部下に任すということを知らない。部下を信頼できない者は、いかに威厳を現わしても、 一凡夫の勇で大事はできないものです。
また、項羽は表面、礼儀正しく、人の悲しみには涙も流します。ところが部下が大功をたてても賞を与えることをためらいます。あれは、婦女子の情けに過ぎません。そのため私は項羽を見限ったのです」と主である劉邦に告げている。項羽はこの韓信に亡ぼされているのである。いわば、相手の立場も考えない怒りが身を亡ぼしたともいえよう。
「父の道は当に厳中に慈を存すべし、母の道は当に慈中に厳を存すべし」(父は厳格の内に慈愛。母は慈愛の内に厳しさがなければならない)。言志四録にある文句だが、職場などでの指導も、これであれば部下も反感を抱くことはない。
「赤心を推して人の腹中におく」は、真心を相手の腹に押しこむ、という意味である。
後漢の始祖劉秀(光武帝)が銅馬の諸賊を討ち、ことごとく降服させた。しかし、部下諸将のうちには果たして心から降服したかどうか信じ難いと考える者があるし、降参した諸賊もこれからどうなるのか不安でならなかった。
そこで劉秀は降った将兵を各自の陣営に帰して整列させ、その中を武装もせずに馬に乗り悠々と巡視して回った。これを見て、降服した連中がいうには、「爺王(劉秀のこと)は自分の真心を他人の腹の中に推し込んで、少しも疑っていない。どうして、この人のために、死力を尽くさずにおられよう」と。
これは、相手の心を推察し不安を解消させた、いわば、相手の立場になった効果である。こうして劉秀は賊将までも心服させ天下統一に成功したのである。
昔、殷の始祖湯王があるとき外出すると、猟師が鳥や獣を捕える網を四方に張りめぐらして神に祈っている。「天より降り地より出で、四方より来るものは皆、わが網にかかれ」と。これを見て湯王は「やれやれ、四方八方からくるものをことごとく捕えたら、すっかり捕り尽くしてかわいそうだ」といいながら、その網の三方を解き放して、改めて神に祈った。
「左へ行きたいものは左へ行け、右に行きたいものは右へ行け。それもいやで、せっかくの私の思いやりを受けないものは、止むを得ない、わたしの網にかかるがよい」と。
これを伝えきいた諸侯は、「湯王の深い愛情は人間のみならず、鳥獣にも及んでいる」と。これら諸侯は、湯王の深い愛情を知っていたので、湯を補けて、夏の条王を亡ぼし、殷の国を建て天子の位についてもらうことにした、と十八史略にある。湯の徳が無言で諸侯を率いた、ということになる。
現代の組織内でも、怒り、叱るなど過ぎた権力をふるまって部下を腐らせ、前進ラッパをふいている人がある。どれはど高くふかれても勇みたつ人はなかろう。
八 情に過ぎれば
情けは人のためならず、というが情に竿させば流されるともいう。要は、情というものは必要だが過ぎてはかえって仇となる、ということである。
かねに苦労をした人間は、かねに困っている人への同情心が仇となりやすい。私も乞われるままに、かねを用立てた時期がある。憐れみを乞う言葉に、つい釣りこまれてしまうからだ。ところが貸したが最後、音沙汰なしが大部分。返さなくて済ましているのだからさぞ裕福にしているかと思うと、その多くは依然その日暮し、貸したかねが役立っているのであれば生きたかね遣いとなるが、ドブに捨てたも同然である。むしろ貸さずにおいたほうが相手に役立ったかもしれない。
同じようなことが、企業についてもいえないか。たとえば、部下の欠点・失敗を訓戒するとき、気を悪くしては、自信を失なっては、失敗しようとしてやったわけではないからと思いやって欠点をそのまま残し、かえって本人のためにならないということが多いようである。部下に対する過ぎた思いやりは害にこそなれ益にはならない。
だいたい、情に過ぎるといっても心からのものは少ない。部下への思いやりというのは表面で、実は己可愛さ、嫌われたくないいわば八方美人が本音、むしろ公に忠実を欠くといえるだろう。
心からの情がある人間であれば賞罰を公平にして会社のためにもなり、部下の将来にも役立つ手段を考え行なうだろう。
ァメリカ駐在の日本商社員が休日に競馬場に行くためスピードを出し過ぎた。警察官に呼びとめられ理由をきかれた。「一番レースに間に合うためスピードを出した」と話した。警察官は「それなら私のオートバイについてきなさい。間に合わせてやろう」といってくれた。なんと親切なことだろう、と思っていた。
競馬場へ着いたらスピード違反の罰金の請求書を出した、という。時間に間に合うように先導してくれたのは親切、情である。しかし法律違反とは別なのである。
要するに上司たる者は部下を思う情に欠けてはならない。しかし情に過ぎてはならない、ということである。昔、中国春秋時代に五覇の一人とされた宋の裏公が楚の大軍を漱水で迎え撃ったときである。
楚軍が続々河を渡り出したがまだ渡りきれないでいた。日夷という仁徳に富んだ側近が「敵は多く味方は少ないのですから、敵陣の整わない今のうちに討つべきです」といった。ところが襄公は「相手の弱みにつけ込むではない。敵の整わないうちに攻めるのは卑怯である」といって攻めようとしない。敵は河を渡り終えたが、十分陣が整備されていないのを見て目夷は再び攻撃を進言した。「敵の弱点に乗ずることこそ兵法の常」といっても襄公は腰をあげない。奇妙ともいえるほどに聖人君子を気取っていた。やっと敵陣が整うのを見てから攻撃命令をだした。しかし弱小な宋軍はさんざんに破れ、襄公も傷をうけ、翌年には死んでいる。まさに無用な情であったのである。現代でも、経営責任者は会社を守るのが最大の任務である。最大の情でもある。これを忘れて小さな情にとらわれて倒産した例も少なくない。
「大義親を滅す」という言葉があるが、「大情、小情を滅す」ともいえそうである。かつて倒産寸前の会社から相談を受けた。一度も顔出ししたことのない名ばかりの監査役をしていた会社であった。
昭和四十九年の正月に創業者の長男が訪ねてきた。創業者が死んでから七年ぶりである。珍しく年頭の挨拶かと思っていたが、帰ろうとしない。用件をいおうともしない。
そこで私から話しだした。「お父さんが亡くなられてから七年になる。そろそろ社長になってはどうか」「父が死んだとき会社の幹部や親戚の人たちが私を社長にといったら、井原さん一人が、学問はあるが体験がないという理由で反対した。それが、いま急に社長になれ、というのはどういうわけか」「昭和四十二年当時は高度成長時代で誰が社長になってもつとまった。しかし、いまは石油ショックで企業環境としては悪い時期。こういうときに社長になれば立派な社長になれると思ったからだ」「わかりました。しかし、いまは、それどころではなく会社をやっていくことが難しいことになりました」。正月早々容易ならぬことをきいたわけである。
実状は一億余りの繰り越し欠損があり、担保余力はなく追加借入は困難になっている。年末の社員ボーナスは一・五ヵ月で組合と話し合いはついたが一カ年の分割払いということで身動きもできないありさま。
それでも、会社を潰すわけにはいかない、なんとかならないでしょうか、ということであった。名ばかりの監査役でも、私にも責任があるし、創業者への義理もある。
その月に七度、その会社へ足を運んでいるが最初に訪ねたとき、年若い社員に話をきいた。「われわれが、ボーナスを分割払いで承知したのも会社を潰したくないからだ。しかし、どうしたらよいかわからない」と真剣に答えた。中間管理者の何人かも同じように答えている。
そのあとで社長以下役員、幹部社員のいる会議室へ入った。 一同が首をたれて通夜の晩のようである。一時間ほど実情説明をきいたあとで「風前の燈火という言葉があるがこの会社の燈火は消えたようなものだ」と言ったところ、顔は青ざめ手を震わせている者もある。
「ただし、これから話す私の話をよくきいて、直ちに実行に移すなら再生する可能性も残されている。それには、まず、赤字を黒字にし、累積欠損を解消して借金を減らすことだ。そのため、従業員二百名を一年間に限って、再建したら呼び戻すということで、五十人減らすこと。パートを含めた年間給与平均二百万円として五十人なら一億円支出減になる。これで累積欠損の大部分が消えるはず」
蘇生の可能性があるといっただけでホッとしたのか「いま人を減らすどころではない、新聞広告して募集しようと思っていたところだ」という声が出てきた。「明日つぶれる会社に人を入れてどうしようとするのだ。人が不足なら仕事を減らせばよい。多品種少量生産も赤字になった原因だ。年商十億が八億円になってもよいから生産品目を思いきって減らせ」
「売上げが減っては金繰りがつかなくなる」「減らしたほうが金繰りはつくはずだ。とにかく五十人減らせ」。
「次に、雑費が年七千二百万円、月平均六百万円。このうち月七、八十万円が交際接待費になっている。これで会社を潰したとあっては先代に申しわけがたつまい。月十万円に減額すべきだ」「それではゴルフの接待もできない」「皆さんは技術屋で、接待の意味を知らないらしい。ゴルフを接待された人が、心おきなく楽しいプレーをしてはじめて接待といえる。
いまのゴルフの接待をうけて気がねなく楽しめる人がいるだろうか。一億からの累積欠損を隠すことはできても十二ヵ月分割払いのボーナスを隠すことはできなかろう。相手は当社のピンチを知り抜いているはず、それでもゴルフを求めるなら、その会社と縁を切れ。それでも潰れるなら先代も許してくれるだろう」「十万円ぐらいで何をするのか」「昼、夜の来客に弁当を出すのは会社の礼儀でもある」「次の大口支出は宣伝費で、費用の大部分を占めるカタログ代月四、五十万円をゼロにする」「それでは町内会のお祭りの寄付もできない」「それでは月一万円を認める」。このようにして雑費を半分程度に削ってしまった。これを即時実行することが再生への唯一の道だ、と。
ところが、小田原評定に終っていたのか最後の七回目になって実行に移さない。「会社の生死をわけることをなぜ実行しないのか。判断・決断・即断を私は″三断の勇″といっている。今晩徹夜しても具体案を作り明朝から実行に移れ」と強くいった。夜十時半にもなっていた。「冷えましたが弁当を」と出してくれた。全員に、その土地では最高級の弁当を、である。「この弁当は、あす潰れる会社の人間が食うものではなさそうだLといって手をつけずに帰ってきた。
それから一年後の正月四日に二代目が訪ねてきた。
「累積欠損は減ったが、二千万円ほど残ってしまいました」「私の計画では二千万円程の黒字になるはずだった。なぜそうなったのか」。
「五十人の減員といわれたが四十人きり減らせなかった。六十才以上の役職員が十人はどいるが、父と一緒に苦労してきた人だし、いまは、残業をしても残業手当は払えるようになるまで取らない、といっている。それに、分割払いのボーナスを納得させてくれたのも、あの人たちだ。せがれの私から辞めてくれとはいえなかった」
「それはいいことをしてくれた。あなたは、お父さんの気持ちをよく引き継いでいる。お父さんは厳しい人だったが情深い人だった。葬儀のとき僧侶の読経の声がきこえなくなるほど大声で泣き出した女子社員のことを知っているだろう。
昭和三十年の不況のとき親に死なれたその社員が社長のところへ前借りにきた。社長は奥さんの晴着を質入れして届けた。それを後でその社員が知って感激していた。それが社長との別れに爆発したわけだ。その老社員に退職を強いなかったことは結構なこと、累積欠損を残したことを責めるより、辞めさせなかったはうが嬉しい」
「あなたは、生涯社長をやるだろうが、去年一年間の経験を生涯つづけるがよい」
帰るときつけ加えておいた。私は監査役を辞任すること、再び私と会わぬことの二つであった。つれない仕打ちのようであるが、依存心を絶たせるためであった。以上の話からも真の情、過ぎた情がわかるのではなかろうか。
九 功労者の処遇
生者必滅は世の常、幼あれば老あり、就職あれば退職のあるのも常である。
会社にしても、入っては去り、去っては入る人たちによって保たれている。しかも、手数やかねのかかる幼時は親や国に任せておいて、 一人前に働けるようになってから会社に入れて働いてもらう、働けないようになったら定年退職という制度のもとに追い出す。人間のいいところだけを吸いとって経営しているのが会社といえるのである。もちろん、法人税などの形でその代償を払ってはいるが、見方によっては虫のいいやり方といえるだろう。近年のように人生八十年、働ける期間も長くなると、定年を延長するなど、それなりに救われているわけだが、それでも定年で去る人間にとっては淋しい限りである。
ここでいいたいのは、会社に功のあった者には、会社の恩人としての心遣いをしてはどうか、ということである。言い換えれば、長年の功労者を決められた退職金を払うだけで無縁者扱いしてよいものか、ということである。
従業員の中に、一家で二代、三代と続いて勤務する会社がある。その会社の創業者は無一物で山林業から出発して、いまに残る大会社を築いた人だが、部下を思う心が並ではなかった。
一例が、従業員の立派なお墓である。創業者の墓も立派だが、ともに働いてくれた従業員の墓がこれまた立派である。つまり、功のあった者には死後も、それに報いた。それが子や孫にまで、感謝として伝わっているといえるのである。だから昔の大名に仕えた家臣のように忠勤に励むのである。
第二の会社で、功労のあった定年退職者のために特に一室を設けてもらった。退職後に功労者が会社を訪れたとき腰をかける場所もないということでは申しわけない、専用の机と椅子のある部屋を設けるべきと考えたからである。
それに対し社長は「それでは、なにか肩書きをつけ月々手当を出すことにしよう」といってくれた。退職した人に、さらに会社の仕事に役立ってもらおうということではない。在職の人たちが、退職者へのこういう処遇を知って悪く思う者はいない。会社、そして社長の心を知り、より精進することが大事なのである。
また、分社した後に、各社の代表取締役を前に、こう話したことがある。「まだこれからの会社だからすぐ制度化するわけではないが、無定年構想をもっている。
社内で、定年まであと何年と指折り数えている人を見るほど哀れに感ずることはない。定年その日に退職辞令と退職金を渡し、形ばかりの送別会を開いて、はい、長い間ご苦労様というだけで、企業が高令化社会の義務を果たしたと考えるならこれほど冷酷なことはない。
定年が迫るにつれて働く意欲が落ちるのでは、相互のマイナスである。定年後も、再就職運動もせずに働くことができるなら、定年不安は解消するだろう。そこで、新工場を建てるとき、貸工場用のスペースを設けてもらいたい。退職者に工場・設備を貸し、請負仕事をしてもらう。販売担当者が定年になれば、歩合販売をしてもらう。事務担当者には、委託で決算事務や事務処理をしてもらうようにしたい」と。
いかにも社員のことばかり考えているようであるが、いずれは会社に大きく、好ましくハネ返ってくるのである。
昔、中国後漢の光武帝は「柔らかなものが、かえって強いものを挫き、弱いものが、かえって強いものを挫く」と兵法にあるが、自分も柔の道をもって天下を治めようと思うといって、戦争の話さえ慎んだという。
また帝は、建国の大業に功労のあった臣の老後を安楽に過ごさせるために、三度と戦争に関係させず、ことごとく諸侯に封じ、立派な邸宅に住まわせ、政治も三公に責任をもたせ、功臣には政務をさせないようにした。つまり、戦争で戦死させたり、政治で失敗し失脚させないようにしたわけである。そのため功臣、諸将は、晩節をけがさず名誉を全うし、無事に生涯を閉じることができたという。心にくいばかりの思いやりである。
社員の定年日だけは間違わずに、退職辞令と規定どおりの退職金を渡し、長い間ご苦労といってあかの他人になる、どこかの社長とは大きく違っている。
光武帝は、中国史上随一の名君として現代でも評価されているが、その理由の有力なものは、功労者に、功労者としての名誉を最後まで全うさせたことにあるといえるだろう。
前述したように、私は、関係した会社で分社経営を実施した際、無定年制度をとり入れようと考えた。六十才の定年を過ぎた人でも功のあった者にはひきつづいて働くことのできる制度である。これも功ある人に報いる道であると考えたからである。
す
十 水清ければ魚棲まず
「水至って清ければ、則ち魚無く、本直に過ぐれば則ち蔭無しとは政を為す者の深戒なり」
(水が清いと大きな魚は棲まなくなり、木が直立に過ぎると日蔭ができない。政治もきれいすぎると人は集まらない。これは政治をする人=指導者の深い戒めである)と言志四録にある。
人間社会でも神のように厳正にふるまう人には近寄り難い。論語から抜けだしてきたのではないかと思われる人と話しても肩ばかり凝り親しみが全くでてこない。人間味に欠けるからだ、時には、バカ・冗談の一つもいえる人には親しめてくる。
これは企業マンにとっても必要なことでジョークはど相手をなごませるものはない。人柄もわかり、疑いもなくなってくる。相互の心も自然に通うようになる。その昔、ァメリカの銀行業界を視察したとき、ある銀行の人事担当副社長の話をきいた。
三十分の説明の中に三回ほどタイミングよくジョークを入れる。話もわかりやすく、楽しみながらきくこともできる。聞く人の立場を考えた話術である。
「当行の女子行員のうち三分の一は一年間に退職していく。私は人事については多くの権限を与えられているが、彼女たちのおなかの大きくなるのをストップさせる権限までは与えられていない」
なぜ退職していくのか質問をする必要はない。ジョークが説明になっている。私事だが、交渉の行き詰まりをジョークのやり取りで切りぬけたことがある。
輸出価額交渉で初めて中国北京へいったときである。こちらは値上げしたい、先方はされては困る。過去の交渉はかけ引きがはなはだしかったからいわば相互不信であったためか、腹の探り合いで一致点が見いだせない。 一日目は平行線、二日目に無言の行になったときであった。相手の責任者が突然、こういい出した。
「井原先生は花木園芸が趣味だときいているが、日本にどのくらいの土地を持っているのですか」ときかれた。相手は私の土地面積をききたいわけではない。話のきっかけを得ようとしているに過ぎない、と考えた。
そこで「土地は持っていますが、中国の領土よりも狭いので話にもなりません」。これで爆笑となり、交渉はとんとん拍子に進んだことがある。
翌年の交渉のときである。価額交渉も円滑に進み、契約書を書くことになった。私が「今度の契約書には一カ条加えていただきたいことがある。それは、当社の製品を一番多く買って下さるのは中国ですが、この一位を子々孫々まで続けるという一条を加えていただきたい」。
中国の責任者も早速「それは承知したが、こちらでも一カ条加えたい。それは、昨年井原先生は歓迎会でマオタイ酒の乾杯を十六回したが、これから来中する度に一杯ずつ増やしてもらいたい」と応じてきた。
こうなると疑心など全くなくなってくる。最初から私はかけ引きなしで交渉に臨んでいたがそれでも不信は解けそうもなかったが、ジョークなどで心が解け合ってくると自然に解消してくる。
その翌年だったか「御社の機械は良いが、それでも四千メートルを超えるチペットの高山で使うと若干狂うことがある。狂わないようにしてもらえまいか」と頼まれた。
「早速検討して改善します。そのかわり、中国側でも一つ協力してもらえないだろうか。われわれの希望としてはその高い山を削り取って幾分低くしてもらいたい」と。このときは通訳のほうが笑いだしてしまって、しばし話が途絶えてしまった。
ジョークが通じてくれば心も通じ合う。人柄がお互いにわかってくるからだ。それ以上に人間味というものがジョークのなかから感じとれるからである。
会社内でも権力者から四角四面のやぐらの上で四角四面の顔で、四角四面の説教をきかされたのでは従う者は地獄の苦になるだろう。「小言は言うべし酒は買うべし」と昔の人はいったが、時には赤ちょうちんや縄ノンンをくぐるのもよい。ほどよく人間味をふりまくのも相手の肩の荷をおろしてやることになる。つまり、水を幾分濁らせ、魚のかくれ場をつくってやる思いやりが必要ということである。
「水清ければ」の故事は次のとおりである。
東漢時代のこと、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」で知られる班超が西域都護の職を退き任尚がこれに代わることになった。任尚は先輩の班超に都護としての心得をききにきた。それに答えていうには「あなたの性質は、厳しく、性急のようでもある。水清ければ大魚なしというように、あまり細かくては、住みにくいといって住民にきらわれます。寛大、緩やかに治め、なにごとも簡単、わかり易くしたほうがよろしかろう」と。きいた任尚は知人に「前任の班超さんは長い経験もあることだから普通の人では気づかないような、立派な策でもきかせてくれるかと思っていた。あんなことなら誰でも知っていることです」ともらしたという。そう言った任尚は次第に西域諸国とうまく解け合わず失敗してしまった。
前にものべたが前職時代のトップは扇子を叩いてばらばらにしてしまうほど激怒することもあるが人間味もあった。私が課長時代、命を受けて特別任務につき、それを果たしたあとの慰労会を開いた。宴も酷のとき突然トップが酒持参で入ってきてねぎらってくれた。しばらくして階下へ降りたトップが私を呼んでいる。「三百円貸してくれないか。いまパチンコをやろうとしたらかねがない。自動車の中においてあるが運転手が食事にでもいったらしい」。
翌朝わざわざ私の席まで三百円を返しにきた。私が利息は、と冗談にいった。「借りたかねでパチソコやっても出ないものだ。利息は勘弁しておけ」と哄笑しながら出ていかれた。幾日かあとでトップに会った。「きのうは結婚式の帰りにパチンコやったがダメだった。モーニングじゃパチンコは出ない」。閻魔顔も恵比寿顔に見えてくるから不思議である。
かつて子会社の代表取締役を決めるとき一人の社長候補者に異議が出された。あの男は、どことなく釘が一本抜けた感じがするので代表には不適当、という理由。そこで私がいった。「私のように二本抜けては不適格だが、 一本ぐらい抜けているから最適ではないか」ということで押し切った。その代表、子会社の業績ではいつも五指に数えられている。釘でビシッと締めつけられているよりも一本ぐらい抜いてある人のほうが上下の意思も通じるのである。
十一 権限のゆずり方を間違うなかれ
権限委譲には経営上きわめて深い意味がある。
その一つは、企業の責任者の管理の限界にある。限りある力ですべてを行なうことは困難で、規模が大きくなるにつれて行き届かない点がでてくる。当然に新天地を開拓する余裕もなくなり、時代の変化に対応する暇さえなくなる。すべてが中途半端になり、部下の統率もできなくなる。
よく企業規模が一定水準までいくと行き詰まったり、衰退していくことがある。また、最高指導者が、過去の実績を誇り、自分一人の能力に頼って気鋭の才能を得なかったため他の後塵を拝せざるをえなくなった例も多い。
時代は進み、企業規模は大きくなるが、独裁者は老い、能力・活力も衰えてくるということでは人後に落ちるのはむしろ当然である。その二は、部下が育たない、ということである。私は、権限委譲の最大目的は後継者の育成、人材教育にあるとしている。
会社経営の目的が、組織の活性化と人材育成にあることは、すでにのべたところだが、分社して任せれば、与えられた権限を果たすためにも自ら学ばざるをえなくなる。
課長が子会社の代表取締役になると、本社の課長であれば、自分の課の業務に精通すればこと足りるが、代表となれば経営全般を学ばざるをえなくなる。責任の自覚が、親がかりのときとは雲泥の差になるからである。人材教育の場を特に設けなくても、権限委譲そのものが人材教育となる、ということである。
権限を委譲することは、いかにも自分の権限が縮小されるかのように考えがちだが、部下に任すことで度量ある上司としての尊敬が得られる。任すことのできない者は小心、臆病のそしりをまぬがれまい。また、己より優れた部下を育てる上司としての最大の任務を怠っていることになるだろう。
前職時代、私は幹部役職員に「われわれには定年退職もあれば天命ということもある。しかし、会社の寿命は永遠でなければならない。限りある人間が限りない会社の寿命を維持する道は、己より優れた後輩を育てあげるだけである。そのためには、それぞれがもつ能力のすべてを部下にゆずれ、次に仕事をゆずれ、魂もゆずれ、最後に会社の財産をゆずれ」といってきた。会社を退くとき子会社の代表会で挨拶して、突飛もないことから話し出した。
「唐の詩人、李白は″酒を把って月に問う″と題して、こう詠んでいる。 〃白兎薬を濤いて秋また春、婦蛾孤棲して誰と隣せん、今人、古時の月を見ず、今月曾経て古人を照らせり、古人今人流水の如く、共に明月を看て皆此の如し……」(月の世界では白兎が春、秋を通じて薬を犠いている。館蛾― 夫の仙薬を盗んで月に逃れたという伝説の女性― がただ一人そこに住んでいる。今の人は昔の月を見ることはできないが、今の月は昔の人をも照ら ・していたのだ。古人も今人も水の流れるように流れ去りつつ、みなこのように月を見ていたのだ……)。
さて、去ろうとしている私が、この詩から話しだしたわけは幾つかある。一つは、月は昔から地球を照らし、将来も変わることはなかろう。しかし、時代は進歩して止むことを知らない。昔も今も人間に変わることはないが人知は進んでこれにも終着駅はたとえば、飛行機が開発されて実用化されるまで十四年、テレビジョンは十年、宇宙通信衛星は五年とスピードアップされている。自動車が四十年を要したのに比べれば、その変革の著しさに驚く。将来の進歩はさらに加速されるに違いない。つまり、進歩の激しさを認識してもらいたい。
二つに、皆さんは販売会社の代表であるが、ここで最高の任務を認識してもらいたいということだ。
販売会社の最高責任者であれば、売上げを増やし、年々業績を高めることが最高の任務と考えているだろうが、最高の任務の上にある任務を忘れては困る、ということである。
いま月の話をしたが、ソ連が人工衛星を打ち上げてから十二年後に米国は月着陸に成功している。近く日本人が乗った衛星が打ち上げられることになっているが、それに乗せる健康管理機の一部は当社開発の機械である。機械が宇宙まで上げられるわけだが当社がそれほど高く飛躍するためには、現在のわれわれの能力では及ばなかろう。みなさんが、部下を教なさん以上に優れた人材に育てあげることによってはじめて可能になる。
ということは、みなさんの最高の任務が人を育てることであることを知るだろう。そのためには、みなさんは本社社長の絶大な信任をえ、 一社経営の権限を与えられたが、皆さんも可能な限り部下に権限をゆずりなさい。ゆずることは獅子が子を谷に蹴落すにたとえられるが、それでこそ子は遅しく育つものである、と話した。
さて、この項の終りにのべたいことは、トップが権限を委譲するにしても、 一人の部下への全権委任は避けるべきではないか、ということである。
韓非子は、 一人の部下に任せることは危険であるとして次の話をのせている。
史上の名君として知られる斉の桓公が、国政の最高責任者として、これも名宰相といわれた管仲を用いようとして重臣に語った。
「管仲に国政を任せたいと思う。ついては賛成する者は門の左側、反対な者は右側に並んでもらいたい」
それぞれ並んだが、東郭矛という重臣は間の真ん中に立った。
「真ん中に立った理由はなにか」
「管仲は天下を経営するほどの知謀をもっていると思いますか」「そう思っている」
「それでは、管仲は大事を任せられるほどの決断力をもっていると思いますか」
「思っている」
「それでは申しあげます。管仲は天下を経営するほどの知謀と、大事を処する決断力のもち主。それに国政の実権を与えようとしておられる。そうした能力のあるものが、国王の権勢を借りて、この国を治めれば、公自身の地位が脅かされることになりかねないでしょう」
桓公は、これで、国の政治は管仲に、朝廷内の政務は限朋にまかせ、国政を二人に分担させた、という。
といって任せる者が複数であれば、それでよいともいいきれない。次のような例もある。
秦の始皇帝は、 丞相の李斯と側近の趙高に後を託し、太子の扶蘇を位につけるよう遺言して死んだ。しかし、李斯と趙高は、遺言を無視し、弟の幼い胡亥を立てて皇帝にした。賢い扶蘇を皇帝にするより、凡庸な胡亥を立てたほうが、あやつりやすかったからだ。胡亥は帝位につくと「朕は天下のあらゆる快楽を尽くして一生を送りたい」といったというから一物ある者にとっては、まことにもって御しやすい。
趙高はこれに答えて「まことに結構なお考え。それには法を厳しくし、刑を苛酷にし、法の恐ろしさを知らしめるのが第一。第二に旧臣を全部除き、陛下の好きな者を重く用いれば、それらの者は身を粉にして政治に励みますから安心して楽しみつづけることができます」と。
こうして趙高はライバルの李斯を殺し、先帝以来の功臣、忠臣を殺して丞相に登り、実権を握った。そうなると皇帝の地位が欲しくなる。
しかし、宮廷の臣たちがどう考えるか、胡亥に味方しているのか、自分についているかを確かめなければならない。そこで趙高は、ある日、鹿を皇帝に差し出し「馬を献上致します」と口上をのべた。
胡亥は笑って居並ぶ家臣に向かって「これは鹿か馬か」と尋ねた。馬と答えた者は自分の味方、正直に鹿と答えた者は胡亥の味方として区別し、鹿といった者を記憶しておき、無実の罪をきせて殺してしまった。それのみか、趙高は胡亥まで殺し、扶蘇の子である子嬰を秦の三世とする。ところが、趙高はこの三世に殺され子嬰は劉邦に降り、そのあと項羽に殺されている。始皇帝から三代、十五年で滅亡しているが、突きつめれば悪臣趙高に後を託したために、滅亡を早めたともいえるのである。
現代でも、任せる人を選ぶことは極めて難しいことで、誤ることのない人選びもトップの重要な任務といえる。
十三 社長の自覚
三国志に登場する三雄、曹操、劉備、孫権は、いずれも将の将たる人物であるが、学ぶべきではない共通点がひとつある。その一点とは、後継者づくり、である。
魏の曹操の後を継いだのは曹不であるが、二人の実弟を窮地に追いやるほどの狭量人物。蜀の劉備玄徳は地位を息子の劉禅にゆずったがその器といえず、呉の孫権の子は相続争いを起している。親の責任か子の怠慢かは別として、いずれもその責を果たしていないといえる。
現代の企業にしてもトップの座にある者の最高の任務は後を継ぐ者を育てることにある。
これを私は駅伝競走の選手にたとえているが、 一人の失格選手が現われても、チーム全体が負けとなるか、失格となるはず。過去にどれほど輝かしい成績をあげつづけてきたとしてもすべて無になるだろう。
永遠に企業の生命を保つためには一人の選手の失格も許されない。社長たる者はこの自覚を強くもつべきだ、ということである。
中国の歴史をみても、夏は名君高によっておこり、十七代四百余年にわたる長期政権を保ったが条王の悪政により民心を失なって殷の湯王に亡ぼされている。その殷も、三十一代、六百二十九年の長きにわたったが村王の悪虐無道の政治が災いして周の武王に亡ぼされている。いずれも代々名選手がつづいたため長期政権を保つことができたが一人の失格者が現われたための断絶である。
史上まれにみる強国といわれた秦は三代十五年の短命、後の隋が三代三十七年で終っている。早々に失格者が現われたからである。
わが国でも豊臣は二代の短命、徳川は十五代三百年の長期。この差も名選手が出現したかどうかによって定まっているのである。
いまの企業にしても、人命には限りがあるが、企業の生命は永遠でなければならない。限りある人間が限りない企業の生命を保つためには、後継者をより優れた選手に育てることを欠くことはできない道理。そうした意味から、現職社長の最高の任務は後継者育成にあり、としたわけである。
現社長が子を後継者に選ぶ例は多い。決して非難すべきではない。代々の蓄積を子にゆずることはむしろ当然といえるだろう。
しかし、これは無条件で許されることではない。
前記の三国志に出てくる蜀の劉備は、死に臨んで、補佐役ともいえた諸葛孔明に後を託し「子の劉禅が後を継ぐにふさわしい、と考えたら継がせてもらいたい。もし、任に耐えないと判断したら、貴公が後継者となって国を治めてもらいたい」といい残している。内心はどうか計り知るよしもない。親として当然子にゆずりたいと願うだろうが、国を守ることは公
であり、子を思うことは私である。私事をもって公事を害すことは許されない。
孔明は劉禅が君主の資格なし、と知りながら劉禅を補佐しようとしたが病に倒れ蜀漢は亡びることになる。
以上から、ここでいいたいことは、事業を子にゆずるなら、後継者に相応しい人物に育てるべきだ、ということである。
事業と財産をゆずればよい、と考えるほど無責任なことはない。企業経営者たるの能力と魂をゆずれ、ということである。相続税など恐れるに足らない。恐るべきは無能な後継者なのである。
賢明な経営者は子を後継者と定めた場合、社員以上の厳しさで教育し、社員から、親の七光的に見られないように努める。言い換えれば、あの二代目ならあとについていけるといわれるはどの能力者に鍛えあげるのである。親の威光で地位を得ている後継者に心から服する者はないからである。よく、二代日、三代目が企業の危機という。
二代、三代目は創業者より近代的な学問も終え、築かれた有形無形の財産もある。創業者の無とは全く違い、恵まれているはずである。にもかかわらず、なぜ危機が忍びよるのか。一言でいえば、心の緩みである。二、三代目がこの緩みを起さぬよう、心を鍛えてやることが先任者の任務といえるだろう。
唐の太宗の故事に「創業守成」がある。
唐の始祖太宗が、重臣たちにこう下問したことがある。
「創業と守成といずれが難きか」(業を始めるのと、それを守り存続させるのとではいずれが難しいか)と。
これに対し重臣の一人、房玄齢は答えた。「天下は乱れ群雄を攻め破って降服させて天下を統一するのですから創業のほうが難しいと思います」
しかし、魏徴はこう答えた。
「昔から帝王の位を顛難の間に得て、これを安逸の内に失なっていますから、守成のはうが難しいと思います」
太宗は、これをきいて「玄齢は自分とともに百死に一生を得るような思いで天下を得たので、創業の難しさを知っている。魏徴は自分とともに天下を治め、騎奢は身分が高くなったり財産ができることから生じ、禍乱はものごとをいい加減にするところから生ずることを知っている。すなわち守成の難しさを知っている。もはや、創業の難しさの過ぎたいま、守成の難しさを知って、諸公とともに慎もう」と。
この大宗の二十三年の治世を貞観の治といい、次帝の高宗の永徽の治、玄宗の開元の治とともに初唐三代の治といわれ後世の鑑とされたものである。
徳川家康が三百年の基礎を築いた施政の手本としたのは大宗の貞観政要といわれている。このような名君も人の子。太宗は東征を諫められても聞かず、次第に奢修にながれ、三代日高宗は自分の妻の則天武后に背かれ、六世の玄宗は楊貴妃の色香におばれ、安禄山の反逆から城を捨て成都まで落ちのびている。
この悲しみを詠んだのが杜として、
甫である。有名な句があるので参考に書いてみる。題は「春望」「国破れて山河在り、城春にして草木深し、時に感じては花にも涙を濃ぎ、別れを恨んで
にうか さんがつ か しよばんとん あ はくとう か すべ
は鳥にも心を驚かす、峰火二月に連なり、家書万金に抵たる。白頭を掻けば更に短く、渾て管に勝えざらんと欲す」(国都は破壊しつくされたが、山や河の姿はもとのままであり、長安城にはまた春が巡ってきて草木は青々と繁っている。この変わりはてた時世に感じては花を見ても涙をそそぎ、家族との長い別れを悲しんでは鳥の声にも心を驚かせる。戦いのノロシは三ヵ月もつづいており、家族の便りは万金に値するほど待ち遠しい。心配のあまり、しらが頭を掻けば、短い毛ばかり残っているだけで、いまでは冠を支えるかんざしもさせなくなってしまった)。現代でもこれに類した例が少なくない。守成の難しさを後継者に教えることも欠かせないことである。隆盛をきわめた会社の跡を訪ねてはこの感を味わっている人もあるのではないか。
十三 独走とリレー
十八史略の太古に、天皇氏の統治期間が一万八千年で、十二人の兄弟が順に同じ年数を治めたと前にものべた。兄弟全部で二十一万六千年統治したことになる。もちろん、神話である。国亡び、人は死んでも山河は在る。次に治める者が現われて絶えることがない。企業にしても、経営する者は変わっても企業は残る。残さねばならないものである。
しかし、同じ条件で出発しながら、百年もの歴史を誇り、将来一層の発展が期待されているものもあれば、すでに消え去ったものもある。また、過去の繁栄から気息奄奄の状態に陥っているものもある。
また、十年一昔どころか、二代、三代と代は変わり、年を経てもうだつの上がらない向きもある。
この違いはどこから生じてくるか興味ある問題である。
これには、いろいろな要因が考えられるが、私は、五十キロを一人で独走するのと、十人リンーで走るのとでは、どちらが速いか、という発想をしてみた。
本書の第一章でものべたが、中小企業の多くは、二十年、三十年と長期にわたって一人で社長を務める。大企業になると、二年一期として一人の任期は、長くて四期八年程度である。一般的には二、三期、四、六年である。
中小企業の多くは一人で長距離ランナーとなるが、大企業では、新進気鋭の継走者が次々に現われる。もし、独走者が、大企業の継走者と同等の学力、能力を補給しつづけられるなら競走に負けることはない。
しかし、これは言うべくして実行は困難といえる。むしろ体力的にも衰え、補給も及ばなくなる。
一方、先任者から早く引き継ぐ者は、社内から選びに選びぬかれた者で、時代の変化に対応できる能力もあれば、近代感覚にも優れた者といえる。因襲にとらわれることもなければマンネリに陥ることもない。
しかも、後継者に万一のことがあっても、それに代わる者も少なくない。これでは、企業経営という長距離競走の勝敗は明らかといえるだろう。
そこで、言えることは、もしこの弊を避けるに、 一つは、長期独走を考えるなら、時代の進歩に遅れない躍けの勉強をすることである。もし、これを厭うなら早く後継者にトップの座をゆずることである。
一己を知って、後継者にゆずるなら、企業にとっては大きな功績を残したに等しい。己を知りながら、権力の座に居すわる者は、企業の発展を阻害した不忠の経営者といえよう。
さて、そうはいっても、ここに困ることがある。それは、己の因襲、時代感覚のズレなど自身の足らない点を知れ、といっても、過去の成功を誇って、唯我独尊になり、自分の知恵だけに頼るということである。さらに、己を知りながら改めない者もある。これは、長期滞留病とでもいえるもので不治の病といえる。周囲が知恵を巡らして神棚へあげ、実際の経営から遠ざける以外にない。
ある会社では、死ぬまで社長をやると頑張っている社長を、地方の名誉職に祭りあげたり、ゴルフ会の会長など会社以外の仕事を与え会社の経営から遠ざけて成功した。父の社長は創業者で頑固一徹でまさにワンマン経営者である。長男は、見識もあり近代的経営に徹したいが、父というカベがある。そこで、父の旅行趣味を利用しようと考え、海外視察の名目で旅行に出すことにした。子のほうは、せっせと資料を集め、スケジュールまでたてて父を誘って経営介入から遠ざけた。三年後には長男に経営権までゆずっている。またある会社では、社長の父の経営がいかにも時代遅れ、さればといって社長退陣を迫るわけにはいかない。そこで、父の胸像をたてた。父も人生のひと区切りと考えて経営を任せてくれるものと考えて。
除幕式の当日、当の父が挨拶した。「社長という権力の座というものは、なかなか去り難いものだが、こうして、鋼製の像になってしまうと、経営には手足、日出しはできなくなる。いい退き時をせがれが与えてくれたことは、せがれが経営に自信をもったからだと思う。これからは、だまって見守っているだけだ」と。
あとで、子の二代目社長いわく「子を見ること親に如かず、というが、おやじは俺の腹の中までお見通しだった」
十四 忙中閑をもつ
人体ほど精巧にできている機械はないというが、機械は機械で長い間使いつづければ、疲れもでるし、故障もするようになる。物を造る機械には感情というものがない。そのため心労ということがない。ノイローゼをはじめ、神経性の病気などは人間特有の病である。
その代わり、人間には、それらの病気を癒す、楽しい、美しいなど、忘我という妙薬があスリ。
ことに、働き蜂、仕事の鬼などといわれているビジネスマン、とくに企業経営者は、この薬を常備薬とすることが肝要といえる。この常備薬を服用している人は、肉体の疲れはあっても心の疲れはない。疲れれば、すぐ服用して治してしまうからだ。
ある人は、休日ともなれば、魚釣り、盆栽、野菜作り、ゴルフ、散歩など、好きなことに時間を費やす。その間は、それに没頭して無我の境地に入る。頭にあったもろもろの感情は、いずくともなく散ってしまう。碁、将棋に熱中すると親の死に目にも会えぬ、といわれているが、なるほどと思う。
かねを出して魚を釣り、釣ちた魚は放してしまう。バカなまねをしていると思うが、魚よりもストレス解消という獲物のほうがよいのである。
ある大証券の社長(故人)と話し合ったとき「私は休日は一人で海釣りに行くが、船頭さんに、こちらから話かける以外は口をきかないでくれ、とことわって舟に乗る。ほんとうは、海の中の脚立の上で唯の一人で釣るほうがよいのだが」といっていた。船頭さんとでも話しながら釣ったはうが楽しいと思うのだが、全くの孤高の境地に自分をおきたいのである。果物、しかも南洋果実を作っている人がある。また、野菜作りを楽しんでいる人もある。
バナナ一本何千円につくのか、大根一本何千円にもつくのではないかと思う。散歩のついでに八百屋さんに立ち寄りしてもよさそうだが、頭脳洗濯代と考えれば大根は一本一万円でも高くはないのである。
前職時代の先輩が、盛んにゴルフを始めろといって奨める。そのわけをきいたら、君が始めてさえくれればブービー賞がもらえる、といっていた。その先輩は、いくつ叩いたかわからなくなるからマッチの棒を一打一本ずつ右のポケットから左に移すことにしているというから、「ここにマッチの大箱があります」といって笑い合ったことがある。なんといわれようと、それで食うわけではない。食うものを得つづけられる元気を得ればよいのである。
「ゴルフをやるやつは国賊だ」といっていた友人から三年ほどして葉書がきた。「ゴルフをやらずに死んでいくはど人生不幸なことはない」と。よほどご利益があったに違いない。
ある社長は「魚釣りなどやるやつは、よほどのひまな人か、のんき屋がすることだ」と吐き捨てるように言っていた。
それがいまでは、社長室は魚拓で飾られている。社員と旅行に行き、釣堀で虹マスを釣ったのが病みつき、いまでは何万円もする竿を何本も持っている、と。「よほどのひま人になりましたか」とからかったら「忙しいから行くんで、ひまだったら行きませんよ」。
忙しければ忙しいなりに、頭も疲れる。それを一時の閑を得てとり去れば、仕事も能率よく運ぶ。
そのこと私も家にいるときは、朝は野鳥とともに起床し、イワシを必ず食べるから、朝はイワシ定食と決めてある。その後は夕食までフル操業で、読むか、書くか、植木畑か野菜畑へ出る。植木の手入れも季節に関係ない。もっばら、読み書きに疲れるととび出す。原稿など熱中して書きつづけていると、簡単な字が書けない。いわゆる、胴忘れというものである。そこを空白にしておくわけだが、疲れがたまってくると空白も多くなる。ところが、剪定鋏を持って植木畑へ行き、三、四十分間剪定してから原稿用紙に向かうと辞書を見ないで空白が全部埋まる。なんとまあ情けない頭だろうと考える。
現職時代は植木の手入れなど休日に限られる。昼が長くなると、帰って、背広を脱ぎ、作業服に着がえる。よく、芝居の早変わりよりも早い、といわれたものである。
休日に、植木畑にいたら、なにかのセールスマンが近寄り、「井原さんはご在宅でしょうか」ときかれた。こちらは僅かでも時間が惜しい。「ご在宅ではありませんね」といったら、名刺とパソフレットを手渡され「お帰りになりましたら、よろしく」といって立ち去った。あとで女房から異議を申し立てられたが、それはど没頭するわけだ。精神衛生上、没頭ほどの妙薬はない。
それに、翌朝まで前日の、悩み、気がかりごとを残すこともよくない。私は、これを前日の借金といっているが、そうした借金はすべきではない。借金利息以上の負担増になる。
その点私は、先憂後楽主義で悩みごと、困難などは先に始末してしまうことにしている。決済、相談を求められれば即断にし、負担を後に残さない。
それが高じたためか、魚料理を食べるときも、食えない骨など全部取り除いてから食べ始める。先年、家内と二人での夕食を見ていた幼い孫が「おじいちゃんは、おばあちゃんのお魚の骨をとって食べさせている」と母親に話したという。私としては、目ざわりだから二人分の骨を取っただけであるが、孫の目にはそう映ったらしい。活動している人でないと休む楽しみは味わえない。
「世の中に寝るほど楽があればこそ、浮き世のバカは起きて働く」とある。いかにも怠け者のようであるが、寝るほど楽、といえる者は、働いて疲れた人に限られる。寝る楽しみが味わえることは、働けず、寝ている人よりもはるかに幸せなのである。
近年私のベッドにいる時間は冬は夜八時から朝六時の十時間だがよく眠れる。昔は、五、六時間の睡眠ですんだが八十才近くにもなると疲労の回復が遅いらしい。そのかわり、昼の仕事中ねむくなることは全くない。これを貧乏性、仕事の鬼とでもいうのであろう。
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