第三章 実戦心理の人望術
褒めるときは二人きり、叱るときはみんなの前 ビジネスマンは、人間関係の〝詰め〟が甘いのではないか。 ヤクザ社会を見ていると、つくづくそう思う。 たとえば「部下の褒め方、叱り方」だ。人望を集める基本とも言うべき技術で、ビジネス指南書の多くは「褒めるときはみんなの前で、叱るときは二人きりで」と教える。 みんなの前で褒めれば、当人は鼻高々でさらに頑張り、他の人間は「よし、俺も褒められるぞ!」と発奮する――という理屈だ。一方、叱るときにこれをやると、当人は謙虚に反省するどころか、「恥をかかされた」と恨みをいだく。皆も明日はわが身と萎縮し、組織は沈滞する。だから「叱るときは二人きりで」というわけだ。 ヤクザは違う。 逆だ。 褒めるときは二人きり、叱るときはみんなの前なのだ。 こんな例はどうか。 広域組織の下部団体同士がモメたときのことだ。駆け出しの S組員がドスを握って相手の事務所に乗り込み、男を上げた。だが親分は、組員たちの前で褒めることは一切せず、 S組員を自宅に呼んで、「よくやった」とねぎらってから、「いつも、おめぇのことを怒鳴ってばかりいるが、本当はおめぇがいちばん可愛いんだぜ」 と言ってやさしく微笑んで見せ、「まあ、飲めよ」と高級ブランデーをついでやったのである。 S組員はどうしたか。 泣いた。 怒声より灰皿を先に飛ばす厳しい親分が、「本当はおめぇがいちばん可愛い」と言ってくれたのだ。感激の男泣きだった。「あのとき、この親分に一生ついて行こうって腹をくくったんですよ」 とは後日、 S組員が語ってくれた言葉だ。 これがもし、ビジネス指南書の教えるがごとく、組員たちの前で褒めていたらどうであったか。 「Sの野郎はたいしたもんだ」 と褒めることはできても、「本当はおめぇがいちばん可愛いんだぜ」 とは、みんなの手前、親分は口にすることはできない。人心掌握のせっかくのチャンスでありながら、当の若い衆を心酔させるような〝殺し文句〟が使えないのだ。 しかも、 S組員はこれから確実に足を引っ張られる。「よし、俺も!」――と組員たちが発奮すると考えるのは〝机上の理屈〟であって、自分が抜きん出るためには、ライバルの足を引っ張るのが手っ取り早いと考える。この心理を経験則で知るヤクザ社会は、「褒めるときは二人きりのとき」というわけだ。 一方、叱るときは、みんなの前でガツンとやる。「バッキャロー! ヘタ打ちゃがって、てめぇ、何年ヤクザやってやがる!」 灰皿を飛ばせば、(ヤベェ、気をつけなくては) と一罰百戒になる。 一罰にされた組員が落ち込むようなら、ちょっとした手柄を立てたときに「本当はおめぇがいちばん可愛いんだぜ」とやれば、コロリと参ってしまうのだ。「カタギは、何か言うと組織論を持ち出すけどさ」 と語るのは、広域組織二次団体にあって「インテリ」として名高い本部長氏である。「部とか課とかという集合体があって自分があるんじゃなく、部下という個人があって自分があるんだ。つまり、いざというときに何人の部下が自分についてきてくれるかってこと。これが、その人間の力じゃないかな。カタギのビジネスマンは、そこんところを勘違いしているんじゃないの?」 インテリ本部長の言う「力」が、まさに「人望力」。組員の士気を高めるために、あえてみんなの前で褒める手法もあるが、個人を取り込み、心酔させるには、「褒めるときは二人きり」に限るのだ。
デキない部下、使えない部下はこう褒める 目をかけてくれる上司に、部下はシッポを振る。 これが人情だ。 人格的にイマイチの上司であっても、この人が自分を引き上げてくれる――となれば、シッポも振るだろうし、足にまとわりつきもするだろう。「打算」は「人望」へと昇華していくのだ。 だから人望を得たければ、部下に目をかけてやればいいということになるが、能力に劣る部下だと、あとあと厄介なことになる。 どうするか。 目をかけるフリをする――というのは通用しない。リップサービスして喜ぶのは子供だけで、大人の人間関係においては逆効果。調子のいい上司として敬遠されるだろう。 本気で目をかけるのだ。 ただし、「前提条件」をつける。 たとえば、ある組の本部長が一杯やりながら、こんな言い方をした。 「Aの野郎に身体を張る覚悟があるなら、めんどうをみてやってもいいんだがな」 その場にいない若い衆のことを名指しで言ったのである。数名の幹部が同席していたので、この話は A組員にすぐに伝わるだろう。 A組員はどう思うか。(俺は本部長に目をかけられている、頑張れば引き上げてもらえる) と胸を弾ませるに違いない。 この期待感が、本部長への忠誠と人望に昇華していくのだが、本部長は巧妙に〝保険〟をかけている。「本人のいない場面」ということと、「身体を張る覚悟があるなら」という仮定がそれだ。 もし本人に直接言えば、「わかりました。身体を張りますので何なりと命じてください」 と、迫られることになる。 また、「身体を張る覚悟があるなら」と仮定の言葉をくっつけることによって、「結果を出せなければめんどうはみない。すべては、おまえ次第だ」 と自己責任にしているというわけだ。 それでも A組員は小躍りする。本部長が目をかけてくれていると錯覚する。実際、前提条件を抜きにすれば、本部長は本気で目をかけていることになるのだ。だから A組員は感激し、シッポを振り、本部長は人望を得ることになる。 本部長がそこまで計算しているのかどうかはわからないが、その場にいない若い衆を名指しで、同じセリフを口にすることがある。そういう言い方をすれば、責任を負わずして若い衆の心をつかめることを経験則として知っているのだろう。事実、この本部長の人望は、業界でつとに知られるところなのである。 この手法は、ビジネスにおいても使える。 「× ×君が命がけで仕事に取り組むなら、育ててみたいね」 中堅社員たちと一杯やりながら、その場にいない若手のことをこう言ってホメておけばいいのだ。「めんどうをみてやってもいい」「育ててみたい」――という〝鼻先のニンジン〟は、永遠に届かぬものであっても、鼻先にニンジンがぶら下がっていることは事実なのだ。だから部下はシッポを振り、必死で駆け、それが人望に化けていくのである。
肩書きが上がったときが人望 U Pのチャンス お互いをどう呼ぶか。 ヤクザはここにこだわる。 たとえば初対面で、相手を「 ○ ○さん」と、さんづけで呼ぶときは、(私とあなたは対等です) という無言のメッセージとなる。 掛け合い(談判)なら、「お宅は――」 といった言い方をするし、相手が格上で、自分がへりくだるときは、「組長」「若頭」「本部長」など肩書きで呼ぶ。 これは私たちも同じで、総理大臣に初めて会って、 「○ ○さん」 と呼ぶ人はいないはずで、 「○ ○総理」 と肩書きで呼ぶし、相手がどんなにエライ人でも敵対関係になれば、「あなたの意見は間違っている」――と肩書きも、さんづけも素っ飛ばして代名詞で呼んだりする。ことほどさように相手をどう呼ぶかは、相手に対する自分の立ち位置を表明することでもある。 だから、メンツにこだわるヤクザは、お互いをどう呼ぶかに神経を尖らせる。自分より格下だと思っている人間に「 ○ ○さん」と気安く呼ばれれば、頭にカチン――というわけである。 余談ながら、取材で会ったウラ社会の方から暑中見舞いをもらったことがあるが、宛名を記した左下に、小さな文字で次のような文面が刷り込まれていた。《多々昇格の変更が有る為、御賢台様の肩書き等に誤りが御座いましたら平素よりの御厚誼に免じましてご容赦下さい》 彼らは、ここまで肩書きにこだわるのだ。 言い換えれば、肩書きへのこだわりは、これを逆手に取れば人望に大きく影響するということでもある。 具体例をあげよう。 関東の某組織で、本部長だった Q氏が跡目を継いで組長になった。 Q氏を兄貴と呼んで親しくしていた Z組員は、これからは狎れた口はきけなくなる。それがヤクザ社会だ。「ところがさ」 と、当の Z組員が居酒屋で酎ハイを舐めながら、「兄貴がさ、〝いままでどおり兄貴と呼んでくれていいんだぜ〟って言ってくれたんだ。さすが器量が違うよな。ホレ直したよ、うん」 感激の面持ちで語ったのだった。 Q組長のことも知っているが、さすが人間心理に長けた苦労人である。現実には、「いままでどおり兄貴と呼んでいい」と言われて鵜呑みにはせず、「組長」と呼ぶものだ。しかも Z組員は感激と同時に、「オレは別格扱いされている」という自慢から、この話をあちこちで吹聴して歩いた。 聞いた人はどう思ったか。 「Z組員はたいしたものだ」 と感心したわけではない。 「Q組長は太っ腹」「 Q組長は情がある」――と Q組長に敬服し、これが人望につながっていったのである。 これがもし、 Q組長が Z組員にこう言っていたらどうか。「おい、もう兄貴なんて呼ぶんじゃねぇぜ」 当然のことであっても、 Z組員はおもしろくない。気持ちが離れ、 Q組長の陰口を叩いたことだろう。こうした陰口が評判となり、人望の足を引っ張るのである。 会社でも同じだ。同期のなかで出世頭になったら、こう言うのだ。「いままでどおり、〝おい、おまえ〟でいいよ」 こう言われて、「おまえ」と呼ぶ同期はいない。その同期への嫉妬はもちろんあっても、「課長と二人のときは、〝おい、おまえ〟で呼んでいるんだ」 と余所では自慢するだろう。 株が上がるのは、そう呼んでいる当人ではなく、呼ばせている相手なのだ。 人望は、得るも失うも、自分の地位が上がったときがターニングポイントなのである。
親への気づかいについホロリ ヤクザを息子に持つ父親が、仮釈放のことで相談にやって来た。 息子の A組員は二十六歳。「傷害事件で二年六カ月の懲役刑に服しているが、仮釈放をもらうには組を抜けなければならないのか」——というのが相談の内容だった。私が保護司をしていることから、知人の紹介で拙宅を訪ねてきたのだ。「ヤクザをやめなければ仮釈は無理ですね」 と答え、仮釈放をもらうためには組織の〝離脱証明〟が必要であることを話した。 服役者が組を抜ける場合、まず「組織離脱支援願い」といった文書を刑務所長宛てに提出するなど、ヤクザをやめるという意志を明確にする。それを受けて、当局が所属する組の責任者から「組をやめることを認める」「除籍とする」といった一札を取る。書式はなく、便箋などにその旨を書いて署名捺印したもので、これが〝離脱証明〟となる。組をやめたからといって仮釈放が必ずもらえるというわけではないが、〝現役〟のままでは、まず不可能である。 そんな説明をすると、「そうですか……」 と、父親は顔を曇らせた。 無理もあるまい。一度、組に入ったら、そう簡単に抜けさせてくれないという思いがあるのだろう。離脱を認めたとしても、オトシマエと称して、あとで報復されるのではないかという危惧は当然だ。「大丈夫ですよ」 と、私は父親に言った。「いまヤクザ社会は当局の締めつけが厳しいですからね。やめたいという組員を無理に引き留めたりしないものです。ヘタなことをすれば、脅迫・強要で親分まで累が及ぶこともありますから」「そうですか、安心しました」 と喜んでくれたわけではない。「組をやめさせたくないんです」 耳を疑う返事だったのである。 よくよく話を聞いてみると、組を抜けないでいて仮釈放がもらえないものか——というのが相談の真意だった。だから離脱証明が必要と聞いてガッカリし、顔を曇らせたというわけである。私は保護司を拝命して十二年になるが、「組をやめさせたくない」という親は初めてのことだった。「どうして?」「親分さんには情があって、親身になって息子の面倒をみてくれているからです」 と真顔で答え、こんなエピソードを話してくれた。 準構(準構成員)という〝試用期間〟をへて盃を下ろされるとき、この親分はわざわざ A組員の実家に足を運び、「息子さんをウチで預からせてください」 と丁重に挨拶したという。「初対面でしたが、親分さんの態度を見て、実は安心したんですよ。ウチの息子は札付きの不良ですからね。放っておいたら、ろくなことをしない。それだったら、この親分さんのところで面倒をみてもらったほうがいいと思ったんですよ」 さらに親分は、その後もことあるごとに実家におもむき、「 A君は頑張ってますよ」「いい若い衆に育っていますよ」「将来が楽しみです」——と近況を告げたり、食事に招待してくれたりするという。 小さな組織だからそれができると言ってしまえばそれまでだが、なぜこの親分は、そこまで親に気づかいを見せるのか。 ヒントは、父親の次の言葉にある。「息子がたまに帰ってきたときに、親分さんが私たちに気をつかってくれていることを話したら喜んでね。いい親分だって、大感激してますよ」 私はこの親分を知らない。だから、気づかいが本心か、計算によるものかは判断できない。だが若手ヤクザの多くが、組を抜けるよう親や家族に足を引っ張られている現実を考えれば、この親分の〝家庭訪問〟は大きな効果をあげていることになる。しかも、若い組員は感激し、それが親分の人望になっていく。親分の意図がどうあれ、功を奏していることは、まぎれもない事実なのだ。見習わない手はあるまい。
借金を申し込まれたときの人心掌握術 借金を申し込まれるのは、イヤなものだ。(返ってこないかもしれない) と危惧するからだ。 これがもし返済が保証され、利子がたんまりつくとなると喜んで貸すだろう。当たり前のことだが、お金が無いから借りに来るのであって、期日に返済できるかどうかはあやしいのだ。 しかも、断るのにウソのひとつもつかなければならない。その気まずさが余計、腹立たしくなってくる。「借金は友を失う」という先人の教えは、このことを言うのだ。 だが、借りる側も同様にイヤなものだ。物乞いのごとく頭を下げ、相手の慈悲にすがらなければならない。どうしてもお金が必要で、世知辛い世間――すなわち、地獄で仏を探すのが借金なのである。 この心理を知れば、借金の申し出を頭から拒絶するのは相手に恨みを残すことになる。勝手に申し込んできた借金だから、断っても構わない――というのは頭で考える理屈であって、感情はそうではない。頭を下げ、それで断られたならば誰だって不愉快になるだろう。 目端のきく兄貴分は、若い者から借金を申し込まれたら、人心掌握の好機と見る。「兄貴、三十万ほど貸して欲しいんですが」「何につかうんだ」 と訊くわけではない。 貸すなら、黙って気持ちよく出す。それも若い者が口にした金額ポッキリではなく、「ほら、五十だ」 色をつけてポーンと渡してやるのだ。 借金を申し込む場合、ギリギリの額を口にするものだ。借りたい金額より、貸してくれそうな金額――というわけで、本当は五十万円借りられれば助かるのだが、無理を言って断られたら元も子もないため、三十万円と少なめに言うのが人間心理。 そこを見越して「何に使うのか知らねぇが、三十じゃ苦しいだろう」と言って五十万円を差し出されれば、「ありがとうございます!」 地獄で、お釈迦さんにひょっこり出会ったような気分になる。「月末にはきっちり返済ますんで」「わかった」 と応じたのでは、相手の喜びも半減。「無理しなくていい。ゼニができたときに返してくれればいい」 これがトドメ。「兄貴!」 と映画なら感涙の場面になるのだ。「だけどさ」 と苦笑するのは兄貴分のひとり。「オレたちだって、金にゃ年中ピーピーしてるよ。いくら稼ごうが、入った以上に出ていくのがこの世界。だけど、若い者に頼られて渋い顔したんじゃ、誰もついちゃ来ないさ」 借金の申し出額にいくら色をつけるか。これを「器量」というのだ。「感激」は「器量」に比例し、「人望」は「感激」に比例するのである。「先輩、月末がちょっと厳しいんで三万円ほど貸していただけませんか?」「それがオレも今月は苦しくてさ」 と弁解するようでは、後輩の人望を得ることはできない。「わかった」 と三万円を渡したのでは、後輩も嬉しさ半減で〝死に金〟になる。「そうか、大変だな。これ、持っていけ」 色をつけて五万円を渡す。「ありがとうございます! 給料が出たらお返します」「無理しなくていいぞ」 と鷹揚に笑ってこそ、後輩の心をわしづかみにする。 それに「無理しなくていいぞ」と言われて、「はいそうですか」とシカトする人間など、ひとりもいないのだ。
孤立した部下を活かす裏技「将棋も仕事も〝捨て駒〟を持たなきゃ勝てまへんで」 と言ったのは、関西系極道の幹部氏だ。「なんぼ角と飛車が力があるゆうても、角と飛車だけじゃ勝てへんやろ。〝歩のない将棋は負け将棋〟ゆうて、歩が大事なんや」 早口でまくし立て、ひとりでうなずいている。詭弁勝負の世界だけに、理屈を言わせたらヤクザの右に出る者はそうはいないだろう。余談ながら、ヤミ金業者が追い込むときはこんな〝正論〟で攻めていく。「借りたら返す。これ、当たり前のこっちゃ。借りて返さへんことを世間じゃドロボー言うんや。おのれ、ドロボーか!」 違法金利は棚に上げて、うまいことを言うものだと感心したことがある。 さて、〝捨て駒〟とは何か。「鉄砲玉や」 幹部氏は即座に言った。 鉄砲玉とは、他組織の縄張に放たれる組員のことで、地元組織とわざとトラブルを起こし、攻め込む口実をつくるのが役目。鉄砲の弾はズドンと発射されたら行きっ放しで、決してもどって来ることはない。口実としては殺されてくれるのが一番であることから鉄砲玉――すなわち、行ったきり帰ってこないという意味でそう呼ぶ。もっとも、現代ヤクザ気質と、当局の締め付けが厳しいことから、鉄砲玉を飛ばすご時世ではなくなってきたが、それでも〝捨て駒〟は何かと必要というわけだ。「若頭、 × ×市に産廃施設ができる言う話ですわ」「ならウチの支部出して、一枚嚙んだらええやないか」「せやけど、 × ×市は凸凹会がおりまんがな」「凸凹会がなんぼのもんじゃ。鉄砲玉飛ばしたらんかい!」 こんな調子で組員を × ×市に飛ばし、凸凹会とモメさせ、それを口実に本隊が乗り込んで行く。凸凹会を呑み込むか、有利な条件で手打ちにするかは、それぞれ組織の器量というわけだ。 ならば、どうやって〝捨て駒〟をつくるか。「お宅がさっきから言うとる〝人望〟や」 幹部氏がニヤリと笑って、人間心理について、こんな解説をする。「できの悪い子ほど可愛い――言うのは家庭での話や。わしらの世界やったら灰皿で頭カチ割られるだけやろ。会社かて、できの悪い部下に目を細める上司はおらへん。ちゅうことは、みんなに相手にされんようになった人間は行き場がないっちゅうことや。こいつらを抱いてやったらええ」 ヘタ打った若い衆や、落ち目の組員にやさしく声をかけ、たまに一杯飲ませたり、相談に乗ってやったりすることで取り込むというのだ。組織のなかで敬遠されたり相手にされない人間は、これで気持ちがグラリ。恩義に感じることになる。そのうえで「頼みごとがあるんやけどな」ともちかければ、無理な頼みごとでも断れなくなるのだと幹部氏は言う。「ただしや」 と幹部氏が続ける。「恩きせがましい言い方はあかん。無理なことを頼んだら、すかさず〝イヤならええけど〟とつけ加えるこっちゃ。判断するのは、あんたやで――と相手に振るのがミソで、〝面倒みたやないか、やらんかい〟と強制したら、誰かて反発するもんや」 この〝捨て駒〟は、会社で言えばドロをかぶってくれる部下や先輩、あるいは面倒な仕事を引き受けてくれる人間ということになろうか。「どうした。このごろ元気ないじゃないか」「ボク、みんなに嫌われているんです」「なに言ってるんだ。どうだ、今夜、一杯つきあえよ」 人間関係で孤立している部下や後輩は、とりあえず〝捨て駒〟としてがっちりキープしておいて、「ちょっと困ったことがあってさ」 ともちかけ、ビンボーくじを引かせることもできる。〝捨て駒〟の使い道はいろいろで、ヤクザならずとも、「人望」は残酷な一面を持っているのだ。
「ホメる」効果を倍加させる人間関係術 本書で繰り返し述べてきたが、褒め言葉を口にせずして、人望は得られない。 人心掌握の鉄則である。「さすがだね」「キミは頑張り屋だな」「私はいい部下を持ったよ」 歯が浮くような褒め言葉であっても、部下はうれしいものだ。上司に対する日ごろの鬱憤も吹き飛んでしまうことだろう。だが喜びは束の間であって、冷静になるにつれて「待てよ」――という懐疑が部下の心に芽生えてくることを知る上司は少ない。(なぜ、上司は私を褒めたのか?)(何か魂胆があるのではないか?)(ひょっとして、無理難題を持ちかけてくるのではないか?) 裏読みをし、真意を探ろうとする。 これが「喜びの揺りもどし」なのだ。ホメられて有頂天になるのは子供だけで、利害が複雑に絡み合う大人社会にあって、面と向かって口にした褒め言葉を額面どおりに受け取る人間がいるとすれば、それはただのノーテンキにすぎまい。 ところが、同じ褒め言葉でも、第三者の口を介して耳にしたらどうか。我が身に置き換えてみればわかるように、これは素直にうれしいものだ。したがって「喜びの揺りもどし」もなく、裏読みすることもない。私はこれまで、人間関係術をテーマとする一連の著作において、「褒め言葉は第三者を介して伝えよ」 と書いてきたが、実は、このノウハウこそ「ヤクザ式」なのである。 指定暴力団三次団体の M組長は気難し屋で、短気で、およそ人望にはそぐわない性分なのだが、若い衆から人気がある。それをずっと不思議に思っていたが、あるときふと気がついた。本部長が、若い衆にこう言ったのだ。「おめぇのこと、みどころがあるって、オヤジが言っていたぜ」 このひと言に若い衆はパッと顔を輝かせたのである。 M組長が、当人たちがいない席で若い衆をよく褒めていることにこのとき思い当たり、人望の〝源泉〟がわかったような気がしたのだった。 では、なぜ第三者の口を介すと、「喜びの揺りもどし」がこないのか。 それは、褒め言葉そのものよりも、「自分のいない席で、自分のことが話題に出た」という事実がうれしいからだ。考えてみていただきたい。「みどころがあるって、オヤジが言っていたぜ」と、褒め言葉にすればわずか一語だが、おそらくこの席で、自分についていろんな話題が出ただろうと推測する。組長が褒めてくれているのだから、批判はなかったはずだ。(ひょっとして、組長付にしてくれるのかな)(いや、とりあえず本部長付かな)(何にしても、オレ、組長に目をかけられているみたい) あれこれ想像し、自分の都合のいいように想像の翼を広げていくというわけだ。 ついでながら、批判も同様で、「おめぇのこと、だらしないって、オヤジが言っていたぜ」 と言われれば、自分に関していろんな批判が出ただろうと想像する。想像は、悪いほうへ悪いほうへと広がっていき、ゴクリと生唾を呑みこむことになる。これが、第三者を介することの威力なのだ。 若い衆は、親分から面と向かって褒められたら緊張する。ヤバイ仕事を命じられるかもしれないと思うからだ。だが、褒め言葉を口にせずして若い衆の心をつかむことはできない。だから第三者の口を借り、若い衆を舞い上がらせるというわけだ。 実戦心理術のプロであるヤクザが編み出した人望力である。
〝昔の苦労話〟を人望力に転化させる 貧しかったころの苦労話は、聞く人の胸を打つ。「いまも苦しいで」――となれば、無心されたら大変と敬遠されるだろうが、功なり名を遂げた人であればその心配がないから、聞き手は安心して胸を熱くすることができる。言い換えれば、人望は、苦労話が効果的ということになる。 この心理を知ってか知らずか、ヤクザも親分クラスになると、駆け出し当時の苦労話をよく口にする。 たとえば正月、ある親分宅で雑煮をご馳走になったときのことだ。親分が餅を箸でつまみ上げながら、傍らの幹部に、「金がなくて、餅を半分にして食った正月があったな」 と感慨深げに言った。「よくおぼえていますよ。どん底の時代でしたね」「それが、いまじゃ、これだけの所帯を構えるまでに出世したんだからな」 とは言わなかったが、ふたりのやりとりを聞いていた部屋住みの若い衆たちは、そう思ったことだろう。大きくうなずきながら、感激の面持ちで耳をかたむけていた。 あるいは、中堅組織の某組長はグルメとして有名で、和洋中と連日の贅沢三昧だが、食事のシメに必ず生卵とライスを持ってこさせる。自分で卵を割って醬油を垂らし、箸でリズミカルに混ぜ合わせると、茶碗のご飯にかけて食べるのだ。「卵かけご飯がさ、ガキのころ、いちばんのご馳走だったんだ。ウチ、貧しかったからね。どんな料理より、これがうまいんだ」 組長の幼年時代に思いを馳せると、胸がジーンとしてくるのである。 そういえば、ある関西の組長は〝葬式饅頭〟が大好物だと、一杯やりながらテレ臭そうに語ったことがある。「親父が病弱やったから、赤貧洗うがごとき生活やね。昔のことやし、甘いものなんか、めったに食べられへん。ところが、誰ぞの葬式があったんやろうね。仏壇に葬式饅頭が飾ってあった。それが食べとうて食べとうて、はよう〝お下がり〟にしてくれへんかと、生ツバ呑んだもんや」 葬式饅頭のおいしかったこと。それから大好物になったのだと冗談めかして言ったが、とても笑える話ではなく、むしろこの組長に親近感をおぼえたものだった。 親分に限らず、人望家として知られるヤクザの多くは、貧しかったころのことを隠さない。意地悪く言えば、苦労話を人望を得る手段としてうまく利用しているように思える。そして――ここが肝心なところだが――彼らは自分たちの苦労を引き合いに出すことで、「いまの若い者は」と聞き手を絶対に批判しないのだ。批判すれば反発心を起こさせ、苦労話の感動を削いでしまう。実戦心理術に通暁する彼らは、ちゃんとそのことを心得ているということなのである。 人望ということから言えば、貧しかった時代の話は隠すのではなく、積極的に利用することだ。貧しくなかったのならば、誇張したってかまわない。「家が貧しくてね。一匹の魚を兄弟で切り分けて食べるんだ。だから尾頭のついた魚を見ると、いまでもすごく贅沢をしているような気分になるんだ」 居酒屋で、部下にしみじみこんな話をしてみるがいい。部下があなたに寄せる気持ちは確実に変わってくるはずである。
叱って人望を得るただ一つの方法 叱責してなお、人望を得ることはできるか? できない、が現実だ。 私は空手道場の館長として指導するほか、保護司として非行少年や仮出獄者の更生にも当たっているが、その経験からも、叱責がそのまま人望につながることはないと思っている。歳月がすぎたのち、「あのときの一喝はありがたかった」――と当時を振り返ることはあるかもしれないが、叱責されたときに感謝する人間は、まずいないものだ。 なぜなら、自分に非があるとわかってはいても、それを咎められるとムッとする。盗人にさえ三分の理があるように、誰でも〝言い分〟がある。「確かに失敗はしましたが、でも――」 と〝三分の正当性〟を主張し、(そこまで怒らなくてもいいじゃないか) と、上司に不満をいだく。 だから叱責は人望にはつながらないというわけだ。「こんなに親身になって私を叱ってくれたのはあなたが初めてです!」 と涙を浮かべる感激シーンは、ドラマの世界だけのことなのである。 だが、部下を持つ立場の人間としては、叱責を避けては通れない。意にしたがうよう教育していかなければ、組織として機能しない。同時に、そのための手段として人望も欲しい。 ――叱責と人望。 この二律背反に、どう折り合いをつけるか。 私が感心したのは、関東で売り出し中の O組長だ。若手で、組としてはまだ小さな所帯だが、しつけが行き届き、組員の態度がキビキビして実に気持ちがいい。頭の下げ方ひとつとっても「しつけられているな」と感心する。こうした組はめずらしくないが、たいてい怒声と鉄拳で仕込むもので、組員は上の人間を恐れ、人望とはほど遠い関係にある。 だが、 O組長は違う。組員を怒鳴りつけない。殴りもしない。他組織の若い衆を引き合いに出して、批判するのだ。 たとえば、こんな言い方をする。 「× ×一家の若いもんは、だらしがねぇな。組長が事務所へ入っていっても、ノロノロと立ちあがってよ。直立不動とまでは言わねぇが、もうちょっと態度にメリハリがあってもいいんじゃねぇか」 これを聞いた組員たちは以後、 O組長が事務所に入ってきたら直立不動で迎えることになる。 他組織の人間を批判するということは、「そうであってはならない」 という叱責であると同時に、「ウチはそうじゃない」 という言外の褒め言葉になっている。 だから組員たちは悪い気はしない。 O組長に信頼を寄せる。しかも、こういう言い方をされれば、実際はだらしない態度であっても、自然と礼儀正しくなっていくというわけである。本当に × ×一家でそういうことがあったのかどうかはともかく、あえて他組織の人間を批判してみせることで礼儀を教えこみ、人望をも得ていることになる。 「A社の営業マンはだらしないね。挨拶ひとつできないんだから」 たとえば上司がこんなセリフを口にすれば、「それに引き替え、わが社の営業マンは素晴らしいね」 と、部下に対する〝言外の賞賛〟となって喜ばせると同時に、それを聞いた部下は以後、態度や挨拶の仕方に気を配るようになることだろう。「叱責」と「人望」は、こうして折り合いをつけるのだ。
「彼、いいねえ」と思わせる口コミ演出術 ヤクザに「いい人」はいない。 人格の問題ではなく、これは存在理由に根ざす。ヤクザが他の人間を食うことで生きていく〝肉食獣〟である以上、「いい人」であっては務まらないからだ。草食のシマウマは、逆立ちしてもライオンにはなれない。 ところが、それでいて評判のいいヤクザは少なくない。「いい親分さんだ」「ヤクザも大物になると腰が低いんだねぇ」「カタギには絶対に手を出さないんだってさ」――等々、「いい人」と呼ばれている。エサになるはずのシマウマがライオンを褒めているようなものだが、これぞまさしく「いい人」の演出にほかならない。 では、なぜ「いい人」を演出するかと言えば、ヤクザビジネスは〝受注産業〟であるからだ。インネンをつけて金品を巻き上げるのはチンピラのやることで、まっとうなヤクザは債権取り立てや〝ケツ持ち(用心棒)〟、地上げなど、クライアントから持ち込まれた各種トラブルを解決することで収入を得る。だから受注産業であり、クライアントが依頼するのは、解決能力が高いと同時に親分が評判――すなわち「いい親分さん」の組織ということになる。いくら解決能力が高くても、相手は肉食獣。ヘタすりゃ、自分も食われる危険があるからだ。 ここに、口コミという演出術が介在する。 たとえば、こんな例がある。 K組の若い衆が、縄張内の商店街に路上駐車し、周囲に迷惑をかけていた。そこへたまたま幹部を引きつれた親分が通りかかり、「バカ野郎! あれほどカタギ衆に迷惑をかけるなと言ってんだろ!」 親分の一喝で、ノンキに煙草を吹かしていた若い衆は幹部たちに車外に引きずり出され、ボコボコにされたのである。 これを遠巻きに見ていた商店街の旦那衆はどう思ったか。「たいした親分さんだ」 と親分の株は一気にあがり、「この親分さんなら、話がわかるのではないか」 という期待感までいだくことになる。 親分が本気で怒ったのか、それともパフォーマンスであったかはわからないが、受注産業のヤクザにとって旦那衆は大事な〝お客さん〟だ。暴力団排除条例で、一般市民もヤクザに依頼ごとをすれば利益供与で引っ張られる時代になったが、それでヤクザがいなくなったわけではないし、法律で解決できないトラブルがなくなったわけでもない。シノギはやりにくくはなったろうが、「評判の親分さん」はこれまでどおりカタギから受注しつつ、組織を維持しているのが現実だ。 ビジネスマンも同じだ。私が知る若者は東日本大震災の直後、ボランティアで被災地に入り、帰京してから現地の様子を熱っぽく語り、いまも語り続けている。「彼、意外に正義感が強いんだね」 という評判は、まさにこの賜と言っていいだろう。 あるいは営業会議で上司の意見に異論を唱え、激しい論戦を挑んだ新人は社内で評判になり、「骨のあるヤツ」 だと一目置かれるようになった。 評判というやつは火事と一緒で、いったん燃えはじめたら、あとは勝手に燃え盛っていく。要は、最初の火をどうつけるか。マッチ一本が火事の元であるなら、評判もまた、演出というマッチ一本で火がつく。「彼、いいねぇ」 という評判が立てば、仕事も人間関係もトントン拍子。〝人気商売〟はヤクザに限らないのだ。
周囲がモミ手ですり寄る「ヤクザ流」禁じ手「一罰百戒」という言葉がある。 前でも触れたが、ひとりの罪や過失を罰することで、他の多くの人々が同じような過失や罪を犯さないよう戒めとすること――の意味だが、実はこれ、人望力にも応用できるのだ。ちょっといやらしい手法かもしれないが、効果はバツグンであり、人間心理を知る上でも参考になるので紹介しておきたい。 某組織に、親分からいつも怒鳴り散らされている中年組員がいる。挨拶の声が小さいと言って灰皿を飛ばされたり、「なんだ、その目つきは! オレの言うことが気にいらねぇのか!」 テーブルの栄養ドリンクを投げつけられたり……。 イジメである。 それでも組にしがみついているのは、足を洗ったのではメシが食えないからだ。いまでも生活は苦しいが、組の看板があれば何とかシノギになっているのだろう。 親分にどやされるたびに、「また、 Sの野郎か」 と組員たちから冷笑されているが、私の見るところ、彼が飛び抜けてデキが悪いというわけではない。ヤクザ組織というのは、ひと握りの優秀な組員を除いて、あとは似たり寄ったり。一般社会から落ちこぼれた人間が多いのだから、それも当然だろう。「バカでなれず、利口でなれず、中途半端じゃ、なおなれず」と言われる社会だけに、優秀な人材は、そうはいない。 では、なぜ S組員だけが親分から目のカタキにされるのか。 若手組員の次のひと言で合点がいった。「親分に嫌われたら Sさんみたいになるから、ヤバいっスよ」 言われてみれば、組員たちはみな、嫌われまいとして親分のご機嫌を取っている。むろん、どこの組織でも親分のご機嫌を取るものだが、ここの組員はモミ手ですり寄る――といった感じなのだ。 親分が事務所に顔を出せば、若い衆が最敬礼で、「エアコン、二十三度に設定しましたが、よろしいっスか」 と〝モミ手〟すれば、幹部は幹部で、「きのう × ×町のクラブに飲みに行ったんですが、親分のことが大評判で、自分も鼻が高かったですよ」 と、スリスリする。「そうか。ま、カタギ衆あってのヤクザだぜ。楽じゃねぇが、これも任俠のうちだ、ガハハハハ」 と、のどチンコが見えるほどに呵々大笑してから、一転、「こらッ、 S! テレビの前に突っ立って、どかねぇか!」 目を剝いて怒鳴るのである。 この親分がどこまで計算しているのか知らないが、これはスケープゴートを利用した「人望力」なのだ。若い組員たちは、イジメられる側になるのはいやだという無意識の恐怖感から、親分にすり寄って行く。つまり、親分は、スケープゴートを利用してグループの結束を図り、モミ手させていくというわけだ。 そして、人間心理はまことに不思議なもので、モミ手しているうちに、それが尊敬へとすり替わっていく。いや、尊敬しているような錯覚に陥る。そうしなければ、モミ手に自己嫌悪をおぼえ、精神的に自分を苦しめることになるからである。 ある意味、この手法は人間として〝禁じ手〟ではあるが、これもまた「人望力」の一面の事実なのである。 ちなみに、スケープゴートの対象は、若者と年配との中間層の人間がいい。下の者から見れば「ああはなりたくない」であり、上の者からすれば「ああはならなくてよかった」と、上と下の両方にとって見せしめにすることができるのだ。
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