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第七章 どうして男と女は関係するのか

第七章 どうして男と女は関係するのか

人間の基本をつくる六つの要素 「男尊女卑」はつくられたもの? 「男らしさ」というプレッシャー 男は女に不安を抱いている 「女であること」に対する社会のおしつけ 「女性の役割」から逃げだす少女たち あきらめて順応した女性たちの反乱 勝ち気な美少女の女王願望 なぜ女は潔癖症なのか 「男らしさ」に自信がない男たち 「劣等感」を押しつけられる女たち

第七章 どうして男と女は関係するのか人間の基本をつくる六つの要素 ここまででわかったのは、次のようなことです。

精神生活には2つの要素があって、あらゆる精神の現象に影響し、作用しています。

人生の諸条件をつくって維持するとき、そして、3つの主要な課題(愛、仕事、社会)を果たすとき、人は共同体感覚を体現し、評価や力や優越を求めて努力することがあるのです。

わたしたちは、どんな性質の現象であっても、2つの要素がどのような質と量の関係になっているかによって判断していかなければなりません。

そして、少しでも精神を理解したいのであれば、この2つの要素を調べなければいけません。

なぜなら、2つの要素の程度によって、人間の共生という当然の論理をどのくらい理解できるか、共生が求める分業にどのくらい適応できるかが決まってくるからです。

分業は、社会の維持に絶対に欠かせない要素です。

分業するには、だれもがなにかしらの立場で自分の責務を果たす必要があります。

もしこの要求にくみしなければ、共生の維持、ひいては人類の存続を否定することになります。

仲間としての役割から抜け落ち、共生を乱す存在になってしまうでしょう。

そうひどくなければ、悪癖、迷惑行為、孤立、ひどい場合には、奇行、非行、のちには犯罪となって現れます。

こうした現象が非難されるのは、共生から離れていて、その要求と相いれないからです。

ですから、分業という面で割りふられた立場をどのように果たすかによって、人の価値は決まるのです。

共生に同意することで、人は他者にとって意義のある存在になり、綿々と続く鎖の一環になります。

これは人間が生きていく基本で、多くの人が無視すれば社会生活は崩れてしまいます。

個人の能力によって、人は社会の生産プロセスでの立場を割りあてられます。

ただし、ここには多くの混乱が生じています。

力の追求や支配欲などの誤りが、分業の成功を邪魔したり妨げたりしています。

人間の価値を判断するおかしな基準が確立されてもいます。

あるいは、なんらかの理由で自分の立場とつりあっていないこともあります。

また、力の追求や誤った野心からは、いくつもの困難が生まれています。

個人の利益だけを求めて、共生や協働が妨げられるのです。

ほかにも、混乱が生じる原因には社会階層があります。

個人の権力や経済的な利害関係が、職業領域の割りあてに影響を与え、喜びも権力も多く与えられる職が社会の特定の層に向かい、それ以外の層が締めだされます。

こうした現象のなかで、力の追求がどれほど大きな役割を演じているかに気づけば、なぜ分業のプロセスが滞りなく進んでこなかったのかが理解できます。

権力が絶え間なく介入して、一方には特権になるような仕事、もう一方には抑圧になるような仕事が作られてきたのです。

この種の分業は、人間に2つの性があるということからも行われています。

一方の性である女性は、身体的な特徴を理由に、最初から特定の仕事から締めだされています。

対して、男性には、もっとほかにできることがあるのだからしなくてよいとされている仕事があります。

こうした分業は、本来、偏見のない基準に従って行われなければならないでしょう。

女性解放運動ですら、興奮してやりすぎないかぎり、こうした分業の論理を受け入れています。

女性解放運動というのは、女性から女性性をとり除いたり、それぞれの性に合った就労機会を得るために男女の自然な関係を壊したりするようなものではありません。

人類が発展する過程で、それまでは男性がしていた仕事の一部を、女性が引き受けるようになってきました。

おかげで、男性の力をさらに活用することができるようになっています。

これによって労働力が活用されなかったり、精神的・身体的な力が悪用されたりしないかぎり、こうした分業を不合理と言うことはできません。

「男尊女卑」はつくられたもの? 文化が力の追求に向かって発展してきたこと、とくに、特権を確保したい個人や社会階層が奮闘してきたことで、分業はおかしな方向へ進みました。

この支配と影響はいまも続き、男性がひどく重視される文化ができあがっています。

分業の形は、優遇された側である男性に特権が確保されるものになっています。

優位な立場にある男性は、生産プロセスにおける分業で、自分に有利なように女性の立場に影響を与えます。

女性の人生の枠をあらかじめ指示し、男性に都合のよい人生の形を押しとおし、女性にはこの男性的見解に従う人生の形を指定するのです。

現在までの状況を見れば、男性側は女性に対する優越を求めつづけ、女性側は男性の特権に不満をいだきつづけています。

両性は密接な関係にあるので、このように緊張して精神の調和が揺さぶられていれば、さまざまな障害につながるのは当然です。

そこから生まれる心理は、男女どちらともが非常に苦痛と感じるものになります。

わたしたちの制度、伝統的な決まり、法律、風俗習慣はすべて、男性の特権的な立場を証明しています。

すべてはその立場に従って整えられ、固持されているのです。

こうした決まりは子どものもとにまで伝わって、子どもの精神に多大な影響を与えています。

この関連について子どもがよく理解しているとは言えないでしょうが、子どもの感情を深いところから支えていると感じざるを得ません。

たとえば、少年がむりやり少女の服を着せられそうになって激しく怒りだすといった現象が見られれば、関連を追求する理由は十分にあります。

別の面から力の追求を検討することができるのです。

少年の認められたい欲求がかなり強い場合、少年はいたるところで感じられる男性の特権によって保証されていそうな道を選びます。

すでに述べたとおり、現代のような家庭の教育をしていけば、力の追求をうながすことになり、ひいては男性の特権を高く評価して追求する傾向を育てることになります。

なぜなら、権力のシンボルとして子どもの前に立つのは、男性、父親だからです。

家から出かけたり帰ってきたりする父親は、母親よりずっと子どもの関心を引きます。

やがて子どもは、先頭に立ち、指示を出し、すべてを管理する父親がもつ優越した役割に気づきます。

みんなが父親の命令に従い、母親がいつも頼っている様子を見るのです。

子どもからは、どう見ても、父親が強くて力のある存在に思えます。

あまりにも偉大に見えるので、父親の言うことはすべて神聖だと思い込む子どもや、自分の主張を強めるために「お父さんが言ってた」としょっちゅう口にする子どももいます。

父親の影響がたいして見えないところでも、子どもは父親が優越しているという印象をもちます。

家族の負担がすべて父親にかかっているように見えるからなのですが、実際は分業しているからこそ、父親は自分の力を有利に使えているのです。

男性優位の歴史的な起源については、自然に始まったわけではないことを指摘しなければなりません。

これは、男性の支配を確保するために、まず多くの法律を作る必要があったことを考えればわかります。

このことは同時に、男性の優位を法的に定める前には、その特権がたしかでなかった時代があったことを示しています。

実際、この時代は歴史で証明されています。

母権の時代です。

当時、生活のなかで、とくに子どもに対してより重要な役割を果たしていたのは、母親、女性でした。

子どもを養うことは一族の男性すべてで行っていました。

いまでもドイツ語で、子どもに対しては血縁関係のない男性のことも Onkelや Vetterと呼ぶ慣習などから、このことがうかがえます。

母権から父権へ移行する前には、大変な闘いがありました。

このことからは、男性が現在、当然の権利のように言っている優越権は、最初から所有していたものではなく、闘って得なければならなかったものだということがよくわかります。

男性の勝利は、すなわち女性の屈服を意味しました。

法律制定の記録を見ると、この屈服がどう行われたのかがはっきり示されています。

ですから、男性の優位は当然のことではなかったのです。

はじめは近隣の部族との闘いが続くなかで必要になって、男性に重要な役割が与えられました。

それを使って男性は、支配権を完全に奪いとったのでした。

この動きとともに、私有財産と相続権も作られていきました。

これらの権利が強化されたのは、取得し所有するのは基本的に男性だという点で、男性の優位の基盤を作るためです。

思春期の子どもはこうしたことを本で学ぶ必要はありません。

なにも知らなくても、所有し、優先権をもつのは男性だということの影響力を感じます。

たとえ、賢明な父母が対等になるために古い時代からの特権を捨てようとしていても、子どもは感じるのです。

家事をする母親が男性と対等なパートナーであることを子どもに説明してわからせるのは、非常に難しいことです。

男児が、生まれたときからいたるところで男性の優位を目にするとき、それがどんな意味をもつのか想像してみてください。

男児は誕生の瞬間から女児よりもずっと喜んで迎えられ、王子として祝われます。

親が息子をほしがるのは、よく知られ、よく見られる現象です。

男児は自分が男の子孫としてひいきされ、高く評価されるのをいたるところで感じていきます。

向けられるさまざま

な言葉や、ふと耳にした言葉によって、男性の役割のほうが重要だとくりかえし教えられます。

男性優位の原則は、ほかにも、女性があまり尊重されない家事を担うという形で、また、周囲の女性も必ずしも男性との対等を確信できないまま暮らしているという形で、男児の目に入ってきます。

女性はたいてい、従属的で下におかれた役割を演じています。

本当なら結婚前に男性に聞くべき重要な問い、「家庭や文化における男性優位の原則をどう思うか?」という問いが明らかにされることは、ふつうは一生ないでしょう。

その結果、女性は男性と対等の立場を強く求めることもあれば、一種のあきらめが人によってさまざまな程度で示されることもあります。

反対に男性は、男として重要な役割を果たさなければならないと確信して育ち、一種の義務を感じています。

そのため、直面する人生や社会の問いに対して、いつも男性の特権のことを考えて答えを返すのです。

「男らしさ」というプレッシャー 子どもはこうした関係から生じる状況をすべて体験します。

そして、女性の存在に対して、よくないイメージや見解を多数もちます。

男児の精神はこうして男性的に成長していきます。

男児が力を追求するときに、努力する価値がある目標だと感じることができるのは、ほぼ例外なく男性的な特徴や態度です。

先ほど述べた力関係からは、一種の男性的美徳が生まれます。

そしてこの長所自体が、男性が優位であることを示しています。

特定の性格が「男らしい」とされ、別の性格が「女らしい」とされますが、なにかしらの基本事実があってそう評価されているわけではありません。

なぜなら、男児と女児の精神状態を比べ、こうした分類が確認できたように見えたとしても、当然の事実だと言うことはできないからです。

確認できたように見えるのは、その人がすでに特定の枠にはまり、力について偏った判断をして人生のラインを狭めているからです。

力関係を信じる人たちは、その認識を育てていくしかなくなります。

要するに、男らしい性格と女らしい性格の区別には、正当な理由はないのです。

男女の性格がどのように力の追求という要求を満たすかを見ていきましょう。

従順や服従などの「女らしい」手段でも、力を行使することはできます。

子どもは従順であることのメリットによって、ときには、反抗的な子どもよりもずっと有利な立場に立つことができます。

けれど、どちらの場合にも力の追求は働いているのです。

人間の内面の洞察が難しいことが多いのは、力の追求が要求の達成のためにさまざまな性格に入り込んでいるためです。

男児が大きくなると、男らしくあることの重要性はほとんど義務になります。

野心と、力や優越の追求が完全に結びつき、男らしくあることの義務と同じになります。

力を追求する子どもの多くは、男らしいと意識するだけでは満足せず、自分が男であり、特権があるということをつねに示して証明しようとします。

自分を目立たせて男性的な性格を強調しながら、周囲の女性に対しては暴君のようになり、相手の抵抗に応じて攻撃するのです。

強情や激しい怒り、あるいは狡猾な手段を使って、自分の優越を示そうとします。

だれもが特権のある男性性という理想の基準によって比べられるため、男児もつねにこの基準で見られます。

しまいには自分をこの基準で測り、自分の人生も男らしく進んでいるか、自分は十分に男らしいかなどと自問し、観察します。

現在、なにが「男らしい」とされるかは、だれにでもわかります。

ごく利己的なもの、自己愛を満たすもの、つまり他者よりも優越することです。

これらはすべて、一見前向きな性格を利用します。

たとえば、勇気、強さ、自尊心、あらゆる種類の勝利、なかでも女性に対する勝利、役職や学位や称号の獲得、女性的な感情をはねのける傾向などを利用します。

これは個人の優越を求める絶え間のない闘いです。

優れていることが男らしいとされているからです。

こうして男児は、当然のように、男性(とくに父親)だけを手本にした性格を身につけていきます。

人為的に育てられたこの誇大妄想の痕跡は、いたるところで見られます。

男児は幼いころから、権力と特権の過剰な確保を目指すように導かれます。

権力と特権は男児にとって「男らしさ」とほぼ同じ意味です。

ひどい場合には、粗暴や残虐といったよく知られる現象になります。

男らしくあることで何重にも得られるメリットは、人を強く引きつけます。

女児でも、男性的な理想を人生のラインとしてもっている例はよく見られるのです。

それは、かなわない憧れだったり、自分の行動を判断する尺度だったり、身のこなしや動き方だったりします(「現在の文化のなかでは、女はだれでも男になりたいだろう」)。

一部の女児は、抑えがたい衝動にかられて、身体的にはむしろ男児に向いているような遊びや活動をしたがります。

木に登ってまわったり、男児に交じって遊んだり、女性的な仕事をまるで屈辱であるかのように拒否したりするのです。

だいたいにおいて、男性的な活動でしか満足を得られません。

こうした現象はすべて、男性性の優位から生じていると理解できます。

優位を求めて闘い、優越を追求するときに、現実や実際の立場よりも、見せかけの姿に目が向けられている様子がはっきりと見てとれます。

男は女に不安を抱いている 優位を正当化するため、男性は、この立場は自然に与えられたと言うだけでなく、女性は劣った存在だとも述べます。

女性が劣っているという見解は、まるで全人類の共有財産かと思えるほど広く行きわたっています。

ここにあるのは、男性のある種の不安です。

きっとこの不安は、母権と闘った時代から来ているのでしょう。

実際、当時の女性は男性を不安にさせる原因でした。

歴史や文学では、こうした様子がよく見られます。

あるローマの作家は「女は人間の破滅のもとである」と言っています。

カトリック教会の公会議では、女性に魂はあるかという論題が活発に話しあわれ、そもそも女性は人間かという問題について論文が書かれました。

魔女妄想が火あぶりをともなって何百年も続いたことは、この問題における当時の誤った認識、強い不安や混乱を悲劇的に証明しています。

女性が世界のあらゆる災いの原因とされることは多く、聖書では原罪として書かれ、ホメロスの『イリアス』では、たった 1人の女性の存在が民族全体を不幸にした様子が語られています。

あらゆる時代の伝説や童話が、女性が道徳的に劣っていること、女性が忌まわしく、邪悪で、不実で、気まぐれで、信用できないことを伝えています。

法律制定の論拠として「女性的無思慮」という言葉が使われることまであります。

同じように、女性は能力についても過小評価されています。

あらゆる民族の慣用句、小話、ことわざ、冗談は、女性を過小評価する批判でいっぱいで、争いを好む、時間を守らない、了見が狭い、愚かである(スカートは長いのに、短慮で考えが足りない)と非難しています。

女性の劣等を証明しようと、頭の切れる人が数多く集まっています。

一連のメンバー(作家のストリンドベリ、神経学者のメビウス、哲学者のショーペンハウアー、哲学者のヴァイニンガーなど)のなかには、少なくない数の女性もいます。

彼女たちはあきらめのなかで、自らも女性は劣っていると考えるようになり、与えられる従属的な役割を果たすようになったのです。

女性の仕事の報酬も、男性の仕事と対等かどうかを考えもせずに、ずっと低く設定されています。

ここにも、女性の評価の低さが現れています。

能力検査の結果を比べると、実際、数学など特定の教科では男児が、語学などでは女児が能力を示していました。

男性の仕事の予習となるような教科では、男児のほうが能力が高かったのです。

けれど、これはただそう見えるだけです。

女児の状況をよく観察すれば、女性のほうが能力が低いという話は作り話であり、真実のように見えるうそだとわかります。

「女であること」に対する社会のおしつけ 女児はいたるところで、毎日のように、さまざまな形で、女性は無能であり、簡単で従属的な仕事にしか向いていないと聞かされます。

そうなれば当然、言われたことが正しいかどうか、幼くて判断できない女児は、女性の能力のなさを変えられない運命だと思い、自分は無能だと信じるようになります。

勇気をなくした女児は、数学のような教科に対して(そもそも学ぶことができればですが)、必要な関心を最初から示さなくなったり、まったく関心を失ったりします。

外からも内からも準備がなされていないのです。

こうした状況では、女性に能力がないことが証明されているように見えてしまいます。

この誤った認識には、2つの原因があります。

誤りを育てている1つの原因は、(何重ものごく利己的で偏った動機をよりどころにして)人間の価値を、仕事という観点から成果を測って判断していることです。

この観点からは、成果と能力がどのくらい精神の成長と関係しているかという問いの答えを追求しないですみます。

もし精神の成長にもっと注目すれば、もう1つの原因も見えてくるでしょう。

女性のほうが能力が低いという誤った認識は、おもにこの原因のせいです。

見落とされていることが多いもう1つの原因とは、女児は幼いころから世界中から偏見を吹き込まれているということです。

この偏見はまさに、女児が自分の価値を信じる思い、女児の自信を揺るがし、なにか立派なことができるという希望をむしばみます。

偏見が女児のなかでただただ強まり、女性には従属的な役割しか割りあてられないと思うよう

になれば、勇気を失い、仕事に協力しなくなり、人生の課題から後ずさるようになります。

こうなってしまえば、たしかに能力がなく役に立たない存在です。

けれど、もしもわたしたちがだれかと対立し、全体のルールとなっている尊敬を相手に強要し、なにかできるという相手の将来性を否定して勇気を削った上で、相手がなんの成果も出せないと思うのならば、その状態で自分が正しかったと言ってはいけません。

反対に、すべての不幸は自分が招いたことを認めなければならないのです。

現在の文化で、女児が自信や勇気をもちつづけることは簡単ではありません。

一方、能力検査では、おもしろい事実が判明しています。

14 ~ 18歳の女児の一部が、男児を含めたどのグループよりも優れた能力を示したのです。

調べてみると、こうした女児の家庭では、母親も、あるいは母親だけが自立した職業に就いていました。

つまり、女児たちは家庭で、女性のほうが能力が低いという偏見がない状況、または偏見をほぼ感じない状況にあったのです。

これは、母親が才腕で生計を立てている様子をじかに目にしたことが理由です。

そのため、女児たちはずっと自由に自立して育つことができ、女性への偏見につきまとう妨害からほぼ影響を受けずにすんだのです。

女性への偏見に対する反論には、他にも、かなりの数の女性が、文学、芸術、技術、医学などのさまざまな領域で、優れた成果を残しているということがあります。

その業績は、男性のものとまったく同等です。

余談ですが、成果を示さない男性、とても能力の低い男性も大変に多いので、同じくらいの数の証拠をあげて、男性は劣っているという偏見も主張できるでしょう(もちろんこれも不当な主張です)。

すでにふれたとおり、女性は劣っているという偏見が、概念の奇妙な二分化を生んでいる状態は、重大な結果をともないます。

この状態は慣習のなかに現れていて、男らしいという概念は、価値が高い、力強い、無敵であると同じとされ、女らしいという概念は、従順である、尽くす、従属的であると同じだとされています。

この考え方は人間の思考に深く入り込んでいるため、現在の文化では優れたものはすべて男性的と見られ、あまり価値がなくて受け入れられないものは女性的と見なされます。

よく知られているところでは、男性にとって女のようだと言われるほど許しがたいことはありませんが、女性にとって男らしいということは、まったく不利なことではありません。

女性を思わせるものは、決まって、劣っていると見なされます。

つまり、女性への偏見の証拠となる数々の現象は、よく観察すると、精神の成長が妨げられたからこそ生まれたものなのです。

わたしたちは、どんな子どもも、通常言われる意味で「才能がある」、能力が高い人間に育てることができると主張するつもりはありません。

けれど、子どもを才能がない人間に見えるようにすることはできると思います。

もちろん、そんなことをしたことはありませんが、それに成功した人たちがいることは知っています。

この運命に見舞われるのが男児よりも女児に多いことはすぐにわかります。

わたしたちは、こうした「才能のない」子どもが、ある日、別人になったように、才能のある子どもとして現れるのを見てきました。

「女性の役割」から逃げだす少女たち 男性の優位は、女性の精神の成長に重大な障害をもたらし、その結果、女性は自分の役割に不満をもつようになりました。

女性の精神生活は、自分の立場のせいで強い劣等感をもつ人と同じ道を進み、同じ条件をかかえています。

さらに、女性の精神の成長には、困難になる要因として、女性は生まれつき劣っているという誤った偏見も加わります。

それでも、多くの少女がある程度の埋め合わせができているとすれば、それは人格形成がうまくいっていたり、知性があったり、場合によってはなんらかの特権があったからです。

ただし、特権の場合は、誤りが誤りを呼ぶことになります。

この特権というのは、女性の役割からの解放、贅沢な暮らし、もてはやされる扱いなどで、女性が尊重されているように見えるので、少なくとも表面的には優位にあるように見えます。

そして、なんらかの理想化がなされるのですが、結局は男性の利益になるような女性の理想が作られるのです。

ある女性はかつて「女性の美徳は、男性の見事な発明である」と的確に言い表しています(訳注:ジョルジュ・サンドの言葉)。

女性の役割に対する闘いでは、おおむね女性を2つのタイプにわけることができます。

1つのタイプについては、すでにふれました。

能動的で「男らしい」方向へと育つ少女です。

このタイプは非常にエネルギッシュで、野心が強く、勝利を求めて闘います。

兄弟や男友達を超えようとし、男性がする仕事に就きたがり、さまざまなスポーツをしたりします。

恋愛や結婚といった関係に抵抗することもよくあります。

もし恋愛などの関係にいたっても、相手より優れた存在、支配する側になろうとして関係を壊します。

家事はとにかく嫌がり、直接的にやりたくないと公言するか、間接的に家事の素質がないと言ったり、ときには家事ができないことを証明しようとしたりもします。

これは、一種の男性性を用いて災難を埋め合わせようとするタイプです。

女性の役割に対する抵抗の態度が、彼女たちの根本的な特徴です。

ときには「男女」と呼ばれることがあります。

けれど、この表現の根底には誤った考えがあります。

その結果、多くの人が、こうした少女には生まれつきの要素がある、抵抗の態度を強いるような男性的な体内物質があるなどと考えるのです。

ですが、文化史全体を見れば、女性が現在も受けている抑圧や制限は人間にとって我慢できないもので、人を反乱に追い立てるものだとわかります。

この反乱が「男性的」と感じられる方向をとる場合、その理由は、この世界をうまく渡っていく方法が2つしかないことにあります。

つまり、理想とされる女性の形に従うか、男性の形に従うかしかありません。

そのため、女性の役割から外れることはすべて男性的に見え、その反対も同じように見えるのです。

とはいえこれは、謎めいた物質が働いているからなどではなく、空間的にも精神的にもそうするしかないからです。

ですから、どんな困難のもとで少女の精神が育つのか、わたしたちは頭に入れておかなければなりません。

男女が同権にならないかぎり、現在の文化における人生、状況、共生の形に女性が抵抗をやわらげることは期待できません。

あきらめて順応した女性たちの反乱 もう1つのタイプは、一種のあきらめをもって生きながら、信じられないほどの適応、従順、謙虚さを見せる女性です。

このタイプは、一見したところどこにでも順応してふるまいますが、あまりにも不器用で視野が狭いので、自分からはなにも進められず、周囲からもそう思われます。

あるいは、神経症的な症状を作りだして、弱くて配慮されるべき存在だと示します。

そして同時に、他者に配慮を求めることで神経症に苦しみ、社会で生きていけなくなってもいます。

彼女たちは世界でもっとも善良な人たちではありますが、残念ながら病んでいて、与えられる要求を果たすことができません。

やがては、周囲の満足も得られなくなります。

彼女たちの服従、謙虚さ、自己抑制の根底には、1つ目のタイプと同じ反乱があります。

この反乱は、「これは喜びに満ちた人生ではない」とはっきり伝えているようです。

また、女性の役割を拒否してはいないものの、劣った存在として従属的な役割を演じるしかないという意識に苦しむタイプの人もいます。

こうした人は、女性は劣っていて、能力の要る仕事には男性だけが就けると確信しています。

ですから、男性の特権的な立場も肯定しています。

こうして、いっそう、仕事の能力は男性だけに与えられていると考えるようになり、男性が特別な地位に就くべきだと求めるのです。

まるで承認とよりどころを求めているかのように、自分を弱いと思う感覚をはっきりと示します。

けれど、この態度もまた、ずっと用意されていた反乱の現れです。

結婚している女性がよく、自分がすべき仕事を夫にすぐに押しつけ、これができるのは男だけだと言い放つのは、この反乱から来ています。

人生の課題でとても重要で難しいものである教育は、女性は劣っているという偏見が広まっているにもかかわらず、ほとんどが女性に任されています。

そこで、各タイプがどのような教育者なのかを考えてみましょう。

各タイプの違いがさらにわかってくるはずです。

人生に対して男性的な態度で向かう最初のタイプは、暴君のようにふるまい、大きな声を出してはくりかえしおしおきを与え、子どもたちに強い圧力を加えます。

子どもたちはもちろん逃げようとします。

この方法でできるのは、よく見ても調教で、そこにはなんの価値もありません。

子どもが受ける印象としてみれば、こうした母親は能力のない教育者です。

わめいたり、口やかましく言ったり、仰々しく騒いだりすることは、ひどくマイナスに働きます。

娘は母親を模倣し、息子はずっとおびえて生きる危険があります。

こうした母親の支配を受けてきた男性のなかには、苦い思いをして、まるでもう女性を信頼できなくなったかのように、強く女性を避ける人がたくさんいます。

こうして男女の不和が続くことになるのです。

わたしたちはこれを明らかに病的ととらえていますが、「男性的物質と女性的物質の配分がわるい」などとまだ言っている人もいます。

ほかのタイプの女性も、教育者として成果を出せません。

用心深く接するので、自信のなさをすぐに子どもに気づかれ、もてあますようになります。

母親は新たな挑戦をくりかえして、延々と言い聞かせたり、ときには父親に言いつけると脅したりもします。

けれども、いつも男の教育者を求めることで、自分の教育がよい成果を出すと信じていないことがわかってしまうのです。

まるで男性だけが有能なのだから、教育にも欠かせないという考えを正当化することが自分の課題であるかのように、教育でも後ずさる方向に目を向けます。

あるいは、できないという感覚をかかえて、教育そのものを拒絶し、責任を夫や家庭教師に押しつけます。

女性の役割に対する不満がもっと極端に現れる少女がいます。

それは、特別な「もっと高い」理由のために、人生から後退する少女で、たとえば、修道院に入ったり、独身主義に結びつく職業に就いたりします。

こうした少女も、女性の役割と折り合えないまま、本来の仕事への準備をやめています。

早くから働こうとする少女もたくさんいます。

働いて自立すれば、簡単に結婚させられないための防御になると思っているのです。

こうした態度にも、伝統的な形の女性の役割に対する反感が、推進要因として現れています。

たとえ結婚して、女性の役割を受け入れたように見えても、結婚が役割との折り合いをつけた証明になるわけではないことはよくあります。

典型的な例が、いまたしか 36歳の女性のケースです。

女性は神経症的な症状をいくつも訴えました。

女性は第一子で、高齢の父親と支配欲の強い母親から生まれていました。

とても美しい女性だった母親が年配の男性を夫とした状況からすでに、この結婚には女性の役割に対する異議が関係し、配偶者の選択に影響を与えたことがうかがえます。

両親の結婚生活はうまくいきませんでした。

母親はわめいて主導権をとり、はばかることなく自分の意志を貫きました。

高齢の父親はなにかにつけて隅に追いやられました。

父親はソファに身体を伸ばして休むこともろくに許されなかったと、患者は語っています。

母親は、自分が決めた、だれもが守るべき原則に従って、つねに家庭をとりしきろうとしていました。

勝ち気な美少女の女王願望 患者はとても出来のよい子として育ち、父親に甘やかされました。

対して、母親は彼女を評価することはなく、つねに敵対していました。

その後、弟が生まれると、母親は弟を非常にかわいがり、家族関係はひどく耐えがたいものになりました。

父親はふだんは横着で弱腰なものの、娘のことになると激しく抵抗を示せたので、父親をよりどころにできるとわかっていた患者は、母親と執拗に争い、憎しみをもつようになりました。

とくに攻撃の対象にしたのは、母親の潔癖なところです。

母親のこだわりは極端に向かい、たとえば、家政婦がドアノブにふれると、あとで拭かずにはいられませんでした。

患者はおもしろがって、身汚い格好で歩きまわっては、あらゆるところを汚しました。

母親が期待するものとは反対の性質ばかりを育てたのです。

この状況は、性質は生まれつきのものだという考えを明らかに否定しています。

もし子どもが母親を死ぬほど怒らせるような性質ばかりを育てているなら、そこには、意識的にしろ無意識にしろ、なにか計画があるはずです。

2人の争いは続き、これ以上ないほど激化します。

患者が 8歳のころには、およそ次のような状況になっていました。

父親はいつも娘の味方をし、母親は険しく怒った顔をして、皮肉や非難を言います。

娘である患者は生意気で、頭の回転が速く、あきれるほどの機転で母親のどんな努力もふいにします。

しかもさらに、母親のお気に入りで甘やかしている弟が心臓弁膜症になり、母親の注意はいっそう弟に集中しました。

子どもたちに対する両親の努力は食い違いつづけます。

患者はこうした環境で育ったのです。

そして、患者は神経症になりました。

なにをどう病んでいるか、だれにも説明できませんでしたが、本当に苦しんでいるようでした。

彼女はいつも恐ろしい考えに苦しめられていました。

その考えは母親に向けられたものでしたが、しまいにはすべてを母親に邪魔されていると信じ込むようになります。

そして突然、宗教に没頭しました。

しかし、成果はありませんでした。

しばらくすると、恐ろしい考えは消えました。

どれかの薬が効いたのだろうとの話でしたが、たぶん母親がやや守勢に回ったことが関係していたのでしょう。

ただし、妙に雷を怖がる症状だけが残りました。

患者は、自分にやましいところがあるから雷が来る、こんなひどいことを考える自分には雷がいつか災厄になると信じ込んだのです。

ここからは、患者が母親に対する憎しみから解放されようと自ら努力していることが見てとれます。

患者はこうして成長を続け、すばらしい未来が待っているように見えました。

ところが、女性教師の言葉が彼女にひときわ強い印象を与えます。

教師は「しようと思えば、あなたはなんでもできる」と言ったのでした。

この言葉自体はたいしたことのないものですが、患者にとっては「押しとおそうと思えば、押しとおせる」という意味でした。

この解釈によって、彼女は母親とさらに貪欲に争うようになりました。

思春期になると、彼女は美しい少女に成長しました。

結婚できる年齢のころには、多くの男性から求婚されました。

しかし、物言いが辛辣なために、いつも可能性が途中で断たれます。

近くにはもう年配の男性しかおらず、彼女もその人に惹かれていたので、まさか結婚するのではないかと周囲は心配しました。

けれど、しばらくするとこの男性もいなくなり、彼女は求婚されることもなく 26歳まで過ごしました。

この状況は、彼女のいる環境では妙に目立ちましたが、彼女のこれまでを知らない周囲には、どういうことかよくわかりませんでした。

子どものころから母親と激しく争っているうちに、彼女はけんか腰で協調性のない人になっていました。

勝利を得るには闘うことが一番だったのです。

母親の態度に刺激され、つねに勝利を狙うようになっていました。

とげとげしい口論は、彼女がもっとも好むものでした。

ここには彼女の虚栄心が現れています。

「男性的」な態度も、相手を負かすことが重要な遊びばかりを好んだところに原因がうかがえます。

26歳のとき、彼女はとても立派な男性と知りあいました。

男性は、すぐに争う彼女の性質にかまうことなく、真剣に結婚を申し込みました。

彼はとても謙虚にふるまいました。

親戚が彼と結婚するよう迫りましたが、彼女はどうしてもいい感情をいだけないし、結婚してもうまくいかないと思うとくりかえし説明しました。

彼女の性格を考えれば、こうした予測も無理のないことです。

2年抵抗したのち、彼女は結婚を承諾しました。

そのときは、夫を奴隷にして、望んだとおりにできると確信していました。

いつでもなんでも彼女に譲った父親と似たところが夫にもあるだろうと、ひそかに期待していたのです。

その考えが間違っていたことはすぐに明らかになりました。

結婚して数日後には、夫はパイプを片手に腰をおろし、ゆったりと新聞を読んでいました。

毎朝、仕事場に向かい、食事の時間どおりに戻り、用意ができていなければ文句を言いました。

夫は彼女に、清潔で、優しく、時間を守ることを求めました。

これは彼女にとっては不当なことで、想定外のことでした。

2人の関係は、父親のときのものとはかけ離れていました。

彼女の夢ははかなく消えたのです。

彼女が要求すればするほど、夫はその望みに従わず、夫が主婦の役割を指摘するほど、それが実行されることはなくなりました。

その際、彼女は、「わたしはあなたのことなど好きではないとはっきり言っているのだから、主婦の役割を求める権利はあなたにない」と異議を唱えつづけています。

けれど、夫はまったく意に介しませんでした。

夫は頑として要求を続け、彼女は未来を思って暗い気持ちになりました。

正直で義務感の強い夫は、夢中になった陶酔のなかで彼女に求婚しましたが、たしかに手に入れたと思うとすぐに陶酔は消え去っていたのでした。

2人のあいだの不和は、子どもができても変わりませんでした。

彼女には新たな義務が増えました。

母親との関係はどんどんわるくなっていました。

母親が彼女の夫を積極的に味方につけていたのです。

家庭内の争いは続き、そのものさしは厳格だったので、夫がわがままで不愉快なふるまいをすれば、彼女のほうが正しいと認められることもありました。

このような夫の態度が生まれたのは、彼女が女性の役割を受けつけず、折り合うことができなかったからです。

もともと彼女は、つねに自分が支配者となることで女性の役割を果たせると考えていました。

まるで自分の望みをすべてかなえる奴隷を従えるようにして生きていけると思っていたのです。

夫が望みをかなえてくれていたら、本当に可能だったかもしれません。

では、彼女はどうすればよいのでしょう? 離婚して、母親のもとに戻り、敗北したと説明すればよいのでしょうか? いまから自立することはできません。

彼女にはその準備がありませんでした。

離婚をしたら、彼女のプライドや虚栄心を傷つけることになったでしょう。

人生は彼女にとって苦しみでした。

夫からは文句ばかり言われ、母親からは強烈に否定され、いつも清潔にきちんとするよう説かれました。

そして彼女は急に、清潔できちんとするようになったのです。

一日中、洗濯や掃除をしはじめました。

母親がしつこく言ってきた教えをやっと理解したように見えました。

最初は、母親も好意的にほほ笑んだでしょうし、夫も、彼女が箱の中身を出したりしまったりして急に几帳面になったことを多少喜んだことでしょう。

けれど、人はやりすぎることがあります。

今回のケースでもそうでした。

家中に糸くず 1本落ちていないほど洗ったり磨いたりして、あまりの熱心さのためにだれもが彼女の片づけの邪魔になり、また彼女もだれかが片づけをすることを嫌がりました。

もし彼女が洗ったものをだれかが触ったら、それはもう一度洗わなければならなかったし、洗っていいのは彼女だけでした。

なぜ女は潔癖症なのか このいわゆる洗浄強迫は、非常によく見られる現象です。

こうした女性はみんな女性の役割と闘っていて、一種の完全性のなかで、あまり洗わない他者を見下そうとしています。

この奮闘は無意識に家庭の崩壊に向かいます。

けれど、彼女の場合はもともと、ほかにないほど不潔でした。

問題だったのは潔癖

潔癖ではなく、彼女による妨害でした。

女性の役割と折り合っているように見えても、実際にはうわべだけであるケースはとても多いのです。

彼女には友人がなく、人と出かけもせず、思いやりがなかったと聞いても、そう意外ではありません。

次の時代の文化が果たすべきことは、人生とよりよく折り合っていけるように、少女を教育することです。

なぜなら、どんなに環境がよくても、今回のケースのように、人生との折り合いはつかないことがあるからです。

現在の文化では事実でなく、あらゆる賢人から否定されているのに、女性の劣等が法的にも伝統的にもいまだに認められています。

ですから、わたしたちはつねに目を見開き、社会が見せる誤った態度のからくりを見極めて、闘わなければなりません。

これは、病的に誇張された女性崇拝などを理由にするのではなく、わたしたちの共生に害があることを理由に行われなければなりません。

この関連で、もう1つふれておかなければならない現象があります。

この現象も、女性を見下す批判によく使われるからです。

それは、危険な年齢と言われるものです。

50歳あたりに見られる現象で、特定の要素が強くなります。

身体の変化とともに、女性は、必死に主張してもわずかしか得られなかった評価の最後の残りが、完全に失われるときが来たと思うのです。

ますます厳しくなる条件のなか、さらに努力して、自分の立場を守るために役立つことをすべて固持しようとします。

現代は能力主義が支配し、高齢者にとって状況はよくありません。

女性であればなおさらです。

価値を削られることで高齢女性がこうむる損害は、わたしたちの人生が一日一日の積み重ねを評価されないかぎり、形を変えてどの世代にも起こります。

活力に満ちた時期になしとげたことは、活力を失った時期にも財産として評価されなければならないでしょう。

年をとったからといって、人を精神的財産や物質的財産から締めだしてはいけません。

しかも、女性の場合は、罵倒のためにいっそうひどい手法が使われています。

思春期の少女が、いつか訪れるこの時期を思ってどれだけ不安になるか、想像してみてください。

女性であることも、 50歳で失われたりはしません。

それ以降も人間の尊厳は衰えることなく続きますし、またそう認められなければならないのです。

「男らしさ」に自信がない男たち こうした現象すべての根底にあるのは、わたしたちの文化の誤りです。

ここに偏見が入り込めば、いたるところに混入し、いたるところで見つかることになります。

女性は劣っているという偏見も、それに関連した男性の横柄な言動も、男女の調和を乱しつづけます。

その結果、大きな緊張が生まれ、とくに恋愛関係を侵食し、幸福の可能性をとにかくおびやかして壊すのです。

この緊張によって、わたしたちの愛情生活は毒され、干からびて荒れ果てます。

調和のとれた結婚生活があまり見当たらず、子どもが結婚をひどく困難で危険なものと思って育つ原因はここにあります。

これまでに述べてきたような偏見や、似たような思考プロセスは、子どもが人生を正しく理解することを幾重にも妨げます。

結婚を一種の緊急避難先としか見なしていない少女のことや、必要悪としか思っていない男女のことを考えてみればよいでしょう。

男女間の緊張から生まれる困難は、現在、非常に大きくなっています。

押しつけられた役割を拒絶する少女の傾向が、子ども時代から強ければ強いほど、また、どんな不条理が潜んでいても特権的な役割を演じたがる男性の要求が強いほど、困難は大きくなるのです。

男女がうまく折り合い、バランスがとれているときにはっきりと見られる特徴は、仲間として生きている状態です。

民族間の関係と同じように、男女間の関係でも、従属した状態というのは耐えられないものです。

従属によって男女それぞれには、ひどく大きな困難や負担が生じます。

ですから、だれもがこの問題に注意を払うべきでしょう。

この問題はあまりにも広く及ぶので、だれの人生にも関わります。

また、わたしたちの文化が子どもに、異性と対立するような態度を選ぶよう課していることで、問題はとても複雑になっています。

落ち着いて教育にとりくめば、この困難を終わらせることもできるでしょう。

けれど、わたしたちの毎日は慌ただしく、本当にたしかな教育原理もなく、さらに、競争が一生続くために、影響は子どもにまで及び、のちの人生に向けたコースが作られています。

恋愛関係が成立する前に多くの人が尻込みしてしまうのは、策略や「攻略」であろうととにかく男らしさを示すことが男性の課題になっていて、それが恋愛における公正や信頼を壊すからです。

ドン・ファンという人物はきっと自分の男らしさに自信がなかったのでしょう。

だから、女性を攻略して何度も自分の男らしさを証明しようとしたのです。

男女のあいだによく見られる不信は、どんな信頼もむしばみ、全人類を苦しませています。

誇張された男性性の理想が意味するのは、要求、ずっと続く刺激、永遠の不安です。

これは必ず、虚栄心、自分の利得、特権的な立場を求めることにつながりますが、どれも人間の共生という自然の条件に反しています。

わたしたちには、自由と同権を求める女性解放運動のこれまでの目標に反対する理由はありません。

むしろ、積極的に支持しなければなりません。

人類の幸福と生きる喜びは、女性が自らの役割と折り合えるような条件が作られるかどうか、また、男性が女性との関係という課題をどうやって解決できるかにかかっています。

「劣等感」を押しつけられる女たち 男女間の関係を改善するためにこれまでに行われたとりくみでは、もっとも重要なものとして男女共学制があげられるでしょう。

この制度はだれもが認めているわけではなく、反対者も賛成者もいます。

賛成者が共学のおもな利点としてあげているのは、男女が早いうちから知りあう機会があること、それによって、害のある結果をともなう誤った偏見の発生を防げる可能性が高いことです。

反対者のおもな意見としては、入学時にすでに強く見られる男女の対立は、男児が圧迫を感じるために、共学によって強まってしまうことがあげられています。

これは、幼少期に、女児のほうが精神の成長が早いことと関係しています。

特権の重みを背負い、有能であることを証明するはずの男児は、自分の特権が現実の前では消えるまやかしでしかないことを突きつけられるのです。

共学によって男児が女児に対して臆病になり、自信を失うことを確認したと主張する研究者もいます。

たしかに、こうした研究や議論に正しい部分はあります。

とはいえ、それが適切と言えるのは、より有能であるという勝利を求めた男女の競争として共学を解釈している場合だけです。

教師や生徒がそう理解しているのなら、共学はもちろん有害です。

そして、共学をよりよく理解する教師がいなければ、つまり、共通の課題にとりくむ未来の協働への準備、トレーニングだと理解していなければ、また、こうした理解をもとに教師の仕事をしていなければ、共学の試みは失敗します。

反対者はこの失敗を自分の見解の証明くらいにしか思いません。

この問題について詳細なイメージを描くには、詩人のような表現力が必要でしょう。

ですから、要点だけを指摘しておくことにします。

前の章で書いたタイプはここでも関係しています。

多くの人は、生まれつき身体器官に問題のある子どもについて見たときと同じ思考プロセスに気づくでしょう。

思春期の少女もよく、自分が劣っているかのようにふるまいますし、劣等感の埋め合わせについて書いたことも思春期の少女に当てはまります。

異なるのは、少女の場合、劣っているという思い込みが外部からももち込まれることです。

少女の人生はあまりにもこの方向に引き込まれれるので、思慮深い研究者でさえ偏見の影響を受けていることがあります。

この偏見が働くと、男性も女性もしまいには威信をめぐるかけひきの渦に巻き込まれ、自分の手に負えない役割を演じることになります。

すると、人生のどうということのないところが複雑になり、関係の公正さが奪われ、偏見でいっぱいになって、あらゆる幸福の見込みが消えてしまうのです。

追求は事実よりも、見せかけに向かって進みます。

目標を達成して第一子を超えるか、闘いに敗れて後退し、場合によっては神経衰弱になるまで止まりません。

第二子のかかえる気分は、資産をもたない階級のねたみに似ています。

つまり、不利な扱いを受けた者によく見られる気分です。

第二子の目標はひどく高いので、一生苦しみ、内面の調和は乱されます。

これは、妄想や虚構、つまらない見せかけのために、人生の事実を無視したからです。

一人っ子の特別な状況 一人っ子もまた特別な状況にいます。

周囲からの教育は一人っ子に集中します。

両親には言ってみればほかに選べる対象もないので、教育の熱意をすべて一人っ子に傾けます。

一人っ子は自立が困難になり、だれかが道を示してくれるのを待って、つねに支えを求めます。

ひどく過保護にされ、困難があるなどとは思わなくなります。

いつもだれかが事前にとり除いてくれるからです。

つねに注目の中心にいるので、自分には特別な価値があるという感覚を容易にもちます。

一人っ子の立ち位置は、誤った態度をとることがほぼ避けられないほど難しいものです。

ただし、こうした状況にどんな意味や危険があるのかを両親がわかっていれば、さまざまな事態を防げる可能性はあります。

それでも困難は必ず残ります。

両親が非常に慎重であれば、人生そのものをひどく困難に感じ、過剰に用心して事を進めます。

これは子どもには強い圧力として感じられます。

子どもの無事をつねに心配していると、子どもも不安になり、世界は敵対的だと思う方向に進みます。

子どもは困難に直面することをずっと恐れながら、なんのトレーニングも準備もせずに成長します。

人生の快適なところしか与えられてこなかったからです。

こうした子どもには自立した仕事は難しく、生きていくのが困難になります。

また、失敗もしやすいでしょう。

彼らの人生はときに、他者に世話をさせて自分はただ楽しむ寄生者の生き方と似ています。

兄弟姉妹が互いに競争する組み合わせにはさまざまなものがあります。

そのため、個々のケースの判断はいっそう難しくなります。

とくに難しいのは、姉妹のなかに男児が 1人というケースです。

こうした家では女性の影響が優勢で、男児は後ろに押しやられていることが多く(とくに男児が末っ子の場合)、自分が閉鎖的な集団と向きあっていることにそのうち気づきます。

認められたいという男児の欲求は、行動に移すたびに妨害されます。

四方八方から攻撃される男児は、わたしたちの遅れた文化が男性に与える特権に気づくこともなく、不安がちになります。

びくびくとおびえ、ときには、男性の立場のほうが弱いと感じることまであります。

勇気や自信がすぐに揺らぐこともあれば、刺激となって働いて偉大な業績を達成することもあります。

どちらの場合ももともとの状況は同じです。

こうした男児がどう育つかは、当然ながら、もっとこまかい事情で変わってきます。

けれど、一貫した特徴というべきものは、そこに見られるはずです。

子どもの性格に遺伝は関係ない 子どもが生まれつきもっているものが、子どもの立ち位置によって形を与えられ、色を加えられる様子がわかったでしょう。

これがわかったことで、教育にとってきわめて有害な遺伝説は不要になったと思います。

もちろん、遺伝の影響がたしかにあるように見える関連やケースはあります。

たとえば、両親と接触せずに育った子どもが、親と似たような特徴や同じ特徴を示す場合などです。

これを奇異に思ったとしても、子どもが成長するときの誤りがどれほどよくあることなのかを思い返せば、すぐに理解できます。

たとえば、生まれつき身体の弱い子どもは、器官の障害が原因で、周囲からの要求によって緊張が引き起こされます。

もし父親も生まれつき身体が弱ければ、同じことが起こるでしょう。

こう考えると、性格は遺伝するという学説は根拠が弱いように見えます。

子どもを誤った成長の犠牲者にしないために こうした点から見ても、成長する子どもがさらされる誤りのなかでもっとも重大なのは、他者を上回りたいと思い、自分を有利にする力と立場を得ようとする誤りです。

わたしたちの文化で当然とされるこの考えが人の精神を満たせば、その人の成長の仕方はほぼ強制的に決まります。

それを防ごうとする場合、どれだけ難しいことか認識して理解しなければなりません。

もしあらゆる困難を切り抜けるのに役立つ画一的な見解があるとすれば、それは共同体感覚を育てることです。

共同体感覚を育てられれば、あらゆる困難は些事になります。

けれど現在そのような機会はあまりないので、困難は重要な問題なのです。

この問題を認識していれば、あまりにも多くの人が一生のあいだずっと自分の存在をかけて闘い、人生をつらく感じている様子を目にしても驚かないでしょう。

彼らが誤った成長の犠牲者で、そのせいで人生に対する態度も誤っていることがわかるでしょう。

ですから、わたしたちは判断の際は慎重にならなければなりません。

とくに、道徳的な判断、つまり人の(道徳的な)価値を判断したりしてはいけません。

それよりも、相手との向きあい方を変え、自分たちの知識を活用しようとしなければいけないのです。

なぜならわたしたちは、もう人の内面についてずっとよくわかっているからです。

教育についても重大な観点がわかっています。

誤りの大本を知ったことで、働きかけの可能性がたくさん得られています。

精神の成長を観察することで、目の前の人から、その人の過去だけでなく未来の一部も読みとることができます。

こうすることで、相手がやっと本当に生きた存在として現れてきます。

単なるシルエット以上のものになり、わたしたちはその人の価値について、現在の文化でよく見られるものとは異なる判断をすることができるのです。

※訳注 1 ヨセフはイスラエル民族の祖ヤコブの子。

兄たちを従えることを暗示する夢を見て、のちにエジプトの宰相となり、大飢饉から国を救いました。

※訳注 2 弟ヤコブは、父が授ける長子の祝福を兄エサウのふりをして奪いました。

謝辞 本書のなりたち この本では、個人心理学の揺るぎない基本とはどのようなものか、人間を知ることに対して個人心理学がどれほど有用か、また、他者とつきあい、自分の人生を作っていく上でどれほど重要かを、できるだけ多くの読者に示そうとしています。

本書には、ウィーンの国民集会所で何百人もの聴衆を前に行った 1年間の講座がまとめられています。

そのため、本書の主題は、社会におけるわたしたちの問題行動は個人の誤った態度から生まれたと理解すること、自分の誤りを認識すること、そして社会のつながりのなかにさらに踏み込んでいくことになるでしょう。

商売や学問で誤ることはたしかに残念でダメージのあることですが、人間の理解における誤りは多くの場合、命に関わります。

わたしたちの学問に熱心にとりくむ人ならば、自分のいる輪から踏みだして、すでにある立証や経験を先人と同じように見つめようとするでしょうし、わたしはそう期待しています。

この場を借りて、ブローザー法学博士に心からの感謝を申しあげます。

博士はわたしの講座のほぼすべてをこまかく記録し、整理してまとめてくださいました。

博士の助けがなかったら、この本はほとんど成立しなかったと言ってもいいでしょう。

わたしの娘で医学博士でもあるアレクサンドラ・アドラーにも感謝します。

わたしがイギリスとアメリカで個人心理学の新たな仲間を得ようとしているあいだ、校正して、本書を完成させてくれました。

S・ヒルツェル出版は、模範的な形で本書の出版を助け、こまかな配慮で準備を整えてくださいました。

この点について、個人心理学は大いに感謝しなければなりません。

ウィーンでの講座と本書が、人類の進む道に光を当てるという目的に貢献することを願っています。

ロンドン、 1926年 11月 24日アルフレッド・アドラー

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