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第七章  人間の生命の本来の面目

おおむね多くの人々は、知っていなければならないことは知らなくて、知っていて何もならない余計なことは知っている。

そのうえ、知っていると、かえって害になることまで、しっかりと覚えている。

たとえば、テレビでみる一部の企業のPRだとか、あるいはラジオの、ラジオドクターの衛生講話だとか、あんなものは聞く必要はないのである。

聞いても、何もなりはしないのだ。

「陽気の悪いとき、風邪を引かないようになさい」「今年の風邪はホンコン風邪で、どんなウイルスか判らないから用心をしなさい」と。

この間もやっていたが、「まだワクチンが発見出来てない。

どの種類に属するウイルスか判らないから、大いに用心なさい。

今年の風邪引きは命取りです」そうすると、それを聞いている教育ママなんかは、もう何か一端わかったような顔をして、「今年はホンコン風邪が流行して、それが命取りだそうですから、用心しましょうね」という。

どう用心するのか。

一番肝心なのは、どう用心するかということ。

用心する方法を知らないで、「用心しましょう」という。

こんなことは要らないことだ。

香港から風邪が流行してきて、ウイルスが判らなくても、それは医者の方の責任であり、こちらに責任はありはしない。

医者が一所懸命それを探究しているということを、報告するのならまだしも、「なるべく、多くの人を病に罹らせないよう一所懸命努力しています」というのならわかるが、「皆さん、用心なさい」とか「風邪を引かないようにして下さい」とか、そんな、無茶なことをいっても駄目だ。

用心に用心を重ねていても、風邪を引くことがあるということを考えなければならない。

だから、素人として、知らなくてもよいことは、知らなくてもいい。

やれ心臓がどうで、肺臓がどうで、肺臓がすべって、やれ腎臓がころんだ、なんてことは知る必要はない。

正直な話、私が病になりたてには、ちっとも神経が昂ぶらなかったのに、医学を研究してから、よりいっそう、弱くなったのである。

つまり、知らなくてもいいことを知ってしまうからだ。

だから、医者がその仕事のために覚える医学は必要だから、ぜひ天職を奉仕するために覚えなくてはならないけれども、素人が知る必要はないのである。

中には、素人のくせに、医者よりも自分の病を詳しく知っている〝馬鹿〟がいる。

こんなのは、私にいわせるならば、本当に〝馬鹿野郎〟だ。

現に、天風会副会長の安武貞雄が大学生の時代に、今から約五十年前になるが、私に対して、ぬけぬけとこういった。

「こと、腎臓に関するかぎりは、私は博士にも負けません」「なにしろ、私は幼少の折から、この病をわずらっているのだから、この病に関しては、トコトン研究しています」と。

「偉いなあ、偉いけれども、お前、もう少し馬鹿になったらどうだ」といったのである。

「いろんな知識を知っていて、それでいてちっとも治ってないじゃないか。

治ってもない知識ならあらずもがな。

止めてしまえ。

お前、もう少し馬鹿になれ!すべて忘れてしまえ!」と。

それで彼は、馬鹿になって忘れたから、立派に大学を出てこの年まで、元気で活きていて、そして副会長をやっているじゃありませんか。

あれが、利口になっていたら、駄目だ。

おおむね、多くの世の中の、オッチョコチョイども、女の方が教育ママになり、男の方が教育パパになっていたんでは駄目だ。

つまりそういうのは、知らなくてよいことを知っていて、知らなければならないことは、ちっとも知らないのだ。

そこで今日は、〝人間の生命の本来の面目〟というものを、はっきりと知らせてあげよう。

こういう問題に対して、諸君らは、どこまで理解しているのだろうか。

そもそも、〝人間の生命の本来の面目〟なんていわれると、何か、坊さんなんかの問答のように考えて、現在、自分が生きている、〝いのち〟を持っていながら、その生きている生命の、もっている〝本来の面目〟というものを知らずに、生きている人が多くはないか。

〝本来の面目〟とは、本当の目的ということだ。

そのままの〝すがた〟ということだ。

人間の生命の本来の面目は何だろう。

少し考えてごらん。

それは、〝創造の生活〟である。

これが、生まれたときから、お互の生命に与えられた、本来の面目なのである。

ところが多くの人々は、これを全然自分の念頭におかない生活をしていやしないか。

ただもう、自分だけのことを本位として、食うこと、着ること、儲けること、楽しむこと、遊ぶことだけ。

なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的に出来ているのか。

それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのである。

まだわからないか。

ではこういうことを考えてみよう。

それは、どんな人間でも、気が狂ってないかぎりは、「何ものをも完全であらしめたい。

完全につくり上げたい」という気持ちが、誰にでもあるはずである。

すなわち、ものの破壊や消滅を好まず、ものの成就や完成を好むという気持ちには、共通的にいわゆる完全を喜ぶという気持ちが、その心の中にあるはずである。

誰しも代償のない破壊を好むものは、ないはずである。

これもやはり、人間の生命の中にある、自然傾向であるからである。

いわば自然に与えられた活動的能力である。

だから、この自然傾向を確実に応用しさえすれば、健康なんてもう問題じゃない。

もう死ぬまで丈夫でいられるし、そのうえ自分のやっている仕事は、すべてみんな成功する。

成功せずにはいられないのである。

ところが、この自然傾向を確実に応用しないで、脱線すると、事業に失敗したり、あるいは不運に見舞われたりするのである。

よく考えてみよう。

何人といえども、たとえ自分が美術家でなくても、創作家でなくても、人間誰しも、何事をも完全であらしめたいという意欲、観念を、みんな共通に持っているのである。

自分自身をよく考えてごらん。

物事の、完全につくり上げられることを喜ぶ気持ちが、自分にあるだろうか、それとも完全に出来上がると、それを叩き毀してしまいたくなるだろうか。

どんな人間でも、代償のない破壊や消滅を喜ぶものはないはずだ。

だから、ちょっと手元のものを粗忽に取り落してもすでに割れてしまってどうにも元の形にならないということがわかっていても、それを拾い上げ継ぎ

合わせ元の形にしてみようとする心がありはしないか。

そして何となく惜しい気持ちが起こるのは、つまり、完全を欲する意欲が、心の中にあるからではないか。

そのことがとりもなおさず、人間の生命の本来の面目が創造的であるという証拠ではないか。

実際、女性ほどに着物に執着を持たない男でも、立派に仕上げられたものは、何となく嬉しく感ずるものだ。

呉服屋が仕立おろしを持ってきたのに、それをいきなり泥水の中に漬けて、喜んでいるものはないだろう。

そうした簡単な事実を考えただけでも、「人間の生命の本来の面目は、なるほど、創造的であるなあ」と、はっきり理解できるはずである。

特に、私が声高くしていいたいのは、どんな老年になっても、自分の心から、この意欲をピンボケにしてはいけないということである。

若いうちは、こういうことを、たとえわかっていなくても、とにかく自分というものをもっと優れ、より秀でたものにしたいという意欲で、心の中は相当に燃えている。

しかし、もう五十が過ぎ、停年が気になり、六十を過ぎると、早くも生命の老い先の短さを感じて、そそっかしい人間になり、この創造の意欲が薄くなってくる。

昔の人は、そういうのが多かったと見えて、六十の手習いなんていうが、私は「六十から手習いしなさい」というのである。

ところが、五十、六十になって、自分の、いままでの努力が実らない人になると、「もう、俺はどうせ駄目なんだから……」といって、もう自己に見限りをつけてしまって、自己認証ができない、ずいぶん程度の低い人が多い。

自分の日々の生活が何となく希望のない、希望があったとしても、その希望がピンボケで、ただ「生きているから生きているんだ」というような、だらしのない活き方をしている人間が多くはないか。

こんな人生は、無価値な、無意味な人生で、それ以外の何ものでもない。

だから、こういう犯すべからざる事実から推定しても、どんなに年をとっていようと、自分の心の中で創造の意欲という情熱の炎をえんえんと燃やしていなければいけないのだ。

ただし、だからといって、世の中の多くの人々のように、卑しい希望や汚れた欲望から出発した創造意欲や創作意欲は、むしろ、あらずもがな、断固、排斥すべきものである。

なぜならば、そうした気持ちでの希望や意欲というものは、満たされない場合が多く、よしんば満たされたとしても、結局、価値のない人生に陥る怖れがある。

思うこと一つかなえばまた二つ三つ四つ五つむつかしの世や自分の〝分〟を知らなけりゃ、卑しい希望や汚れた宿望を炎と燃やしていても、ろくな仕事は出来ないし、不渡りを喰う結果がくるのだ。

五貫目の力しかないのに、十貫目のものを持ち上げると、どんな結果になるか、ということを考えることだ。

自己認証ということは、自分の分を知るということ。

これが本当の自己認証である。

ところが諸君は、自分の分が、十あるのに四くらいしか知らないのである。

そして、四くらいしか使えない能力でもって、十のものを持ち上げようとするからいけない。

自分の分を忘れた希望や、念願というものは、結局、満たされないものが多いのである。

成功しない場合が多いのである。

そんな人達は、しらずしらずに、自分自身を葬る墓穴を掘っていることになるのである。

だから、自分の情熱から消してはいけないけれど、分に過ぎた考え方というのはもはや創造意欲ではない、一つのアンビッションなのである。

アンビッションは価値がない。

そして、自分の生命に貫禄や力量を度外視した度外れな考え方、これを欲望というのである。

意欲の中でも、低級で自己本位な欲望である。

要するに、この生命の本来である創造意欲は、常に価値の高い目標で定めねばならない。

もっと目標の高いものを標準として、自分の創造意欲に情熱の火を燃やさなければならない。

それは、第一に、〝自己向上〟ということである。

自己向上を正しく念願しないでいて、仕事なり、運命なりを向上させようとすることは、今もいったとおり、力足らずなのである。

十貫目持ち上げる力しか出せないくせに、十五貫目のものを持ち上げようとしているのと同様である。

十五貫目のものを持ち上げたかったら、それだけの力をつけなくてはならない。

だからそうしないものは事業などで思わざる失敗をやってしまうのだ。

また年をとると、すぐ創造意欲も消えてしまって、引っ込み思案になり、「もう俺も、この年じゃ……」というふうになる。

年によって、創造意欲というものを上げたり下げたりすることはない。

もし、そういう考え方をする人があったら、自分の人生の価値を、全然認識していない人だと、遠慮なくいおう。

第一、人間が年齢を考えて、うんぬんするということは滑極まる話ではないか。

もう幾つで余命があといくばくもないから、今更それをしたって仕様がないなどと、そういう考え方を持っていたら、なおさら仕様のないことである。

そもそも出発点を間違えているから、へんてこな理屈になるのだ。

そんな生き方をしている生き方というのは、文字通り、酔生夢死だ。

生きていられるから生きているという、あわれ惨憺たる人生ではないか。

そのような人は、自分で、自分の焼き場の扉を開きに行くのと同然だ。

人間、時が来れば、一度は死ぬけれども、しかし、生きている間は死んでないのだから、生きていられれば、齢なんか関係ないではないか。

諸君が、少年のとき、壮年のとき、老年のとき、どれも同じ人間のはずじゃないか。

それとも、どこかで、取り替えてきたのか。

「ああ、十年前、あの風呂屋で変った」なんてことはないだろう。

同じ人間のはずである。

ただ変わったと思うのは、心の中の知恵分別や、体の発達の状態、あるいは身分などで、人間そのものは、変りはないはずである。

変りのない人間であったら、ますます研ぎ上げたらどうだ!そうすることが、つまり活きている間に、一日一刻といえども、完全に活きることが、この貴重なる生命を与えてくれた造物主への正当な義務である。

女の人も、孫が出来て、ひ孫でも出来ると、すっかりおばあちゃんになってしまって、何の意欲もなくなり、「ただもう、お寺参りでもするのが楽しみで……」とかいう。

何をいっている。

いくつになっても、いかなる場合も、自己向上を怠らないようにすること、これが自分の生命の本来の理想的な活き方なのだ。

そういう気持ちを持っていると、いつまで年老いても、極めて壮健で元気よく、人並み以上の若さと潑剌さに満たされ、その生命というものは、活躍してくれるのである。

そしてまた、そうした活き方をする人の言葉や行ないというものは、何も自分で意識的にしなくても、期せずして、進化と向上に順応することになるのである。

だから、自分の生命を萎縮させることが断然ないのである。

我々の生命は、常に伸びよう伸びようとしているのだ。

これを忘れてはいけない。

創造的なものなのだから。

その証拠に、諸君が、知らないことを一所懸命復習していれば、だんだんわかってくるようになる。

そしてわかってくれば、どんどんと、熟練してくるじゃないか。

それは、伸びよう伸びようとする自然傾向があるからである。

やるに従ってだんだん下手になってくるものは、伸びようとしない人間だが、そんなことはない。

だから、自己向上の意欲の薄くなった人は、どうしても老衰を早める。

そうなる理由は、造物主から与えられる、生命を支える活力を受け入れる口をわざわざ自分で塞いでいるからだ。

どんな時代が来ようと、どんなに齢をとろうと、我々は進化向上の自然法則の中で活きている。

特に、現在、病のある人、あるいは運命のよくない人も、決して、その病や、運命に、心をこだわらせないことだ。

こだわれば、こだわるほど、病も癒りが遅いし、運命だって、挽回するときが遅いのだ。

人間というものは、浮き沈み、波の高低のあるところに活きて

いる。

晴天の日もあれば、雨の日もあれば、風の日もある。

そのたびに、自分の心を苦しめていたらどうなるか。

病のときに、病にこだわれば、病に負けてしまう。

運命のよくないとき、運命にこだわれば、運命に負けてしまうではないか。

だから、病でも運命でも、消極的な気持ちにしないこと。

そうするのには、まず相手にしないようにすることが一番である。

病は忘れることによって治る!こういうと「忘れたら、どうなるだろう」という人があるが、忘れてしまえば、一番いいじゃないか。

それを、忘れたら大変なことのように思っているのだね。

自分の持っているものを、どこかへ忘れてきたと同じように思っているのだね。

欲が深くて何でもかんでも欲しいんだから。

いいか!ズバリ一言いおう。

「人間は、健康でも、運命でも、心が、それを、断然乗り超えて行くところに、生命の価値があるのだ!」私は、ヨガの聖者からこの言葉を聞いたときに、「そうだ!」と思った。

それまでは、組み敷かれていたから、乗り超えられなかったのだ。

竹一つ切るんだって、そうだ。

気持ちが乗り超えていれば、パサッと切れるじゃないか。

「切れるかしら?」と思ったら、もうそれは駄目だ。

「断じて行なえば、鬼神もこれを避く」「陽気の発するところ、金石もまた透る」だから、心を、決して消極的にしてはいけない。

若々しい、力強い精神状態を、常に、自分の心に持たせるのだ。

我が心を、常に戒め励ましていかなければいけない。

それが、たのもしい精神活動をする要素なのだ。

もう、どんなに年をとっても、自分の生命からそれを失ってはいけない。

その気持ちが、薄くなってしまったら、もう戒名書いてもらって、さっさと焼き場へ行ってしまった方がいい。

そんな者は、居たって、何の役にも立ちはしない。

この世の中に、造糞器は要らない。

もう立派に化学的肥料が出来ている。

とにかく、生きている間は、造物主からの力を受け入れる口を、自分で広く、伸び伸びと広げなさい。

そうするには、常に、自己向上を意欲として、健康や運命を完全にするという、本当に成功の人生を自分で創らなければいけない。

常に正しい希望を、我が心の中に輝かせていなければならない。

今日の誦句も、そのまま嚙みしめていくと、なるほどと、その意味がとれる誦句だから、よく聞きなさい。

統一箴言人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊と一体である。

そして人の心は、その宇宙霊の力を自己の生命の中へ、思うがままに受け人れ能う働きをもつ。

嚙みしめていくと、なるほどと、その意味がわかってくるだろう。

しかもこうした偉大な作用が人間に存在しているのは、人は進化の原則に従い、宇宙霊とともに創造の法則に順応する大使命を与えられているがためである。

私は心から喜ぼう、この幸いとこの恵みを!多くの人は、知らないから、心から喜ばないよ。

私は今、人の世のために何事をか創造せんと欲する意欲に燃えている。

これは天風会員だけがいいうる言葉だ。

そしてかくのごとくに意欲を燃やしていれば、いつかは、宇宙霊は私に何をなすべきかを教えたもうにきまっている。

私が事業家にいいたいのは、ここだ。

宇宙霊から、これをしろといわれないのに、自分の欲望でもって、しようとしたことは、そう滅多に成功するものではない。

事業に成功するのは、自分が欲望から離れて、何かを考えたときに、また、その考えたことを実行したときに成功するのだ。

同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう」という気持ちでやるのとでは、その結果が全然違うのである。

私は今、私の生命の中に、新しい力と新しい元気とを感じる。

私は今、心も肉体も新生しつつあるのである。

同時に私は今、限りなき喜びと輝く希望とに雀躍する。

それは、私は今、宇宙霊の叡智を真実に自分の生命の中に受け入れる秘訣を会得したからである。

それゆえに私の創造の力は、最も旺盛でかつ完全である。

したがって私の人生は、昨日までの人生でなく、潑剌とした生気が溢れ、敢然とした勇気で漲っている。

そして何事をも怖れず、また何ものにも怯まず、人生の一切を完全に克服し、ただ一念宇宙霊の心と一体化して、あまねく人類幸福のために、創造に勇ましく奮闘せんとするのみである。

さあ、この暗示の誦句を聞いただけでも、こうやって、毎日諸君が尊い修練に志しているのも、結局は、あまねく人類幸福のために、創造に勇ましく奮闘せんとする自分を、正しくつくっているんだということに気が付いたであろう。

ただ、利己的な考え方で、自分自身をつくっているんじゃないということに、標準を置かなければいけない。

自分だけ丈夫になって、もっとうまいものを食べようとか、もっといい着物を着ようとか、もっと事業が成功したら、うんと別荘でも造って、いろんな遊びをしてみよう、なんていう考えを持ったなら、とんでもないことだ。

修養ばかりでなく、何を志すときでも、自己向上を目的とする。

そして、その目的とする自己向上は、ただ単に自分の幸福だけのためにするんじゃない。

自他の幸福のためにするんだ、という広い意味を忘れてはいけない。

そうしてはじめて、自分の勉強にも努力にも、非常なぞくぞくするような力が湧いてくるのだ。

学生なんかは、「いやだなあ。

試験のために、しょっちゅう勉強しなければならない」というが、試験を受けるために勉強しているんじゃない。

自己を

向上させるために、勉強するんだから、試験は楽しいものでなくてはいけない。

試験がなければ、自分が進歩したかどうかわからないじゃないか。

それなのに試験が嫌いになった学生は、すでに学生としての資格を、自分でスポイルしていることになる。

学生諸君も、自分自身で、よく考えなさい。

俺は試験が好きか嫌いか。

今までは試験が嫌いであったろう。

しかし今日からはもう、試験が、あこがれの的であるくらいの人間にならなければいけない。

そうして初めて、自分自身というものが、どれだけのものであるかということを、知り得る試金石になったことになる。

結局、「観念要素の更改」を毎晩毎晩やりなさい。

そうすれば、ぐんぐんそういう人間になれるものなのだから。

健康をよくするのも、事業をよくするのも、常に、世のために、自分と同じ幸福を手広く分けてあげようというつもりになることだ。

さあ!一緒についてきなさい!

統一箴言人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊(=神仏)と一体である。

そして人の心は、その宇宙霊の力を、自己の生命の中へ思うがままに受け人れ能う働きをもつ。

しかもこうした偉大な作用が人間に存在しているのは、人は進化の原則に従い、宇宙霊とともに創造の法則に順応する大使命を与えられているがためである。

私は心から喜ぼう、この幸いとこの恵みを!私は今、人の世のために何事をか創造せんと欲する意欲に燃えている。

そしてかくのごとくに心を燃やしていれば、いつかは、宇宙霊は私に何をなすべきかを教えたもうにきまっている。

私は今、私の生命の中に、新しい力と新しい元気とを感じる。

私は今、心も肉体も新生しつつあるのである。

同時に私は今、限りなき喜びと輝く希望とに雀躍する。

それは、私は今、宇宙霊の叡智を、真実に、自分の生命の中に受け入れる秘訣を会得したからである。

それゆえに私の創造の力は、最も旺盛でかつ完全である。

したがって私の人生は、昨日までの人生でなく、潑剌とした生気が溢れ、敢然とした勇気で漲っている。

そして何事をも怖れず、また何ものにも怯まず、人生の一切を完全に克服し、ただ一念宇宙霊の心と一体化して、あまねく人類幸福のために、創造に勇ましく奮闘せんとするのみである。

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