25初戦をいよいよ翌日に控えた日、みなみはあらためて宮田夕紀の病室を訪れた。
そこで、この前のベンチ入りメンバー発表の時に覚えた予感について、夕紀に話した。
夕紀は、残念ながら夏の大会までに退院することはできなかった。
夕紀の母の靖代に聞いたところによれば、前に言っていた何かの数値が下がらず、なかなか退院の目処が立たないのだそうだ。
そのため夕紀の入院は、もうすぐ一年にも及ぶことになった。
そのため、みなみはだいぶ落ち込んだ。
夕紀に夏の大会のベンチに入ってもらうことが、みなみの悲願だったからだ。
それでも、お見舞いに訪れたこの日は、そうした落胆はおくびにも出さず、努めて明るく野球部の現状などを話していた。
「私、本当にリアルに予感したんだ」と、みなみは真剣な顔つきで言った。
「野球部は行くよ。
甲子園へ行く。
私のそういう予感て当たるんだから。
だから夕紀も、それまでにはちょっとでも外出できるようになるといいね」すると夕紀は、そうねと言って少し微笑むと、ふと何かを考え込むような表情になった。
それでみなみは、自分がまた何か余計なことを言ったのかと心配させられたが、夕紀はすぐに顔をあげるとこう言った。
「ね、みなみ」「ん?」「私……前に話したことあったよね。
私が、野球部に入った理由」「あ、うん……」それで、今度はみなみが顔をこわばらせた。
その時の複雑な気持ちを思い出したからだ。
しかし夕紀は、続けて言った。
「私、そのことをみなみに言えるようになるまで、すっごく時間がかかったんだけど、その時、思ったことがあったんだ」「……何?」とみなみは、恐る恐る尋ねた。
「うん……」。
それに対し、夕紀はちょっと考えてからこう言った。
「言うべきことは、言った方がいいって。
言わないと、後で後悔するって。
そうして、後悔するのはもういやだって。
私はもう、後悔はしたくないんだ」「え?」とみなみは、今度は一転、いぶかしげな顔になった。
「何?どうしたの?何かあったの?」すると夕紀は、首を振るとこう言った。
「あ、いや、ううん……別に、大した意味じゃないのよ。
ただ、前の私は、言いたいことがあってもそれを言えずに苦労してたから……。
だから、これからは言いたいことを言おうかなあって。
そうしないと、自分が苦しいだけだから」それに対し、みなみはますます心配そうな顔になって言った。
「私、夕紀に何か変なこと言った?」すると夕紀は、慌てて言った。
「あ、ううん。
全然全然。
そんなんじゃないのよ。
むしろその逆よ。
私、みなみに感謝してるの」「え?」とみなみは、その言葉に驚いて言った。
「なんで?」それに対し、夕紀はちょっと間を置いてから、一つひとつ言葉を確かめるように、ゆっくりとした口調で言った。
「私ね、本当に感謝してるんだ。
みなみは、その、私に感動をくれたから」「……前の、小学生の時のこと?」「ううん」と夕紀は首を横に振った。
「そうじゃない。
そうじゃなくて、みなみがマネージャーになってからのことよ。
みなみがマネージャーになってからのこの一年、私は本当に、みなみに感動させられたの」みなみは、それを黙って聞いていた。
夕紀はなおも続けた。
「この一年、私は本当に感動のし通しだったの。
それは、あの小学生の時の感動にも負けないほどだった。
この一年、みなみが野球部でしてきたことに、私は本当に多くの喜びと、感動と、それからやりがいと、生きる勇気も、そう、色んなものをもらったわ」「……」「みなみは、いつでも私に感動をくれた。
みなみは、私のヒロインなんだ」「……」「そのことを、言いたかったの」と夕紀は、照れ笑いのような表情を浮かべて言った。
「これを言うと、また変に思われるかもしれないと思ったけど、どうしても伝えておきたかったの。
伝えておかないと、また後悔すると思って。
ごめんね。
急に変なこと言って」「ううん、全然」と、みなみは首を横に振った。
「そう言ってもらえて、私も嬉しいよ」「みなみは、大したもんだよ」と夕紀は言った。
「これは本気で言ってるのよ。
私は、みなみを本当に大したもんだと思ってるんだから」それを聞いて、みなみはふと変な気持ちになった。
その言葉を、どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
しかしみなみは、それをどこで聞いたのかを思い出せなかった。
そこで話題を変えると、今度は一転、真剣な表情になってこう言った。
「でも、喜ぶのはまだ早いよ」「え?」「本番は、これからなんだから。
甲子園に出るのは、これからだからね。
今から感動してるようじゃ、甲子園に出た時には、大変なことになってるよ。
それこそもう、感動してもしきれないくらいになるよ」みなみは、最後はちょっと冗談めかしてそう言った。
ところが夕紀は、なぜか浮かない顔になった。
「あ、うん……」それでみなみも、再びいぶかしげな顔になって尋ねた。
「どうしたの?」すると夕紀は、なぜかちょっと悲しそうな顔をしてこう言った。
「もし……もしもよ?もし、仮に野球部が夏の大会で負けて、たとえ甲子園に行くことができなくても、私、それはそれで、いいと思ってるんだ」「ええっ?」とみなみは、驚きに目を見開いた。
「どういう意味?」「うん……聞いて。
あのね、私は別に、野球部が負ければいいとか、そういうことを言ってるんじゃないのよ。
うん、それは私だって、甲子園に行くことができたら、本当に嬉しいと思う。
どんなに感動するか分からない。
でもね……もしそれが実現しなかったとしても、私、それは、それほど重要なことではないと思うの。
あのね――」ここで夕紀は、ちらっとみなみの顔を見た。
しかしみなみは、夕紀の顔を見つめたまま黙っていた。
そこで夕紀は、さらに続けた。
「私はね、大切なのは結果ではないと思ってるの。
甲子園に行けたか行けないか、そのことではないと思ってるの。
それよりも、プロセスが大切だと思ってる
の。
甲子園に行くために、野球部のみんなが一丸となって取り組んだ、その過程の方が、だいじだと思ってるの。
だから――」と夕紀は、訴えかけるような眼差しでみなみの目を見つめると言った。
「たとえこの先、どういう結果が待っていようと、私、そのことは、それほど重要じゃないと思ってるの。
なぜなら、それによって、私がみなみからもらったこの感動は、少しも変わるところがないのだから」みなみは、黙ってそれを聞いていた。
マネジメントをやってきたこの一年間で、お見舞い面談にも数多く立ち会った経験から、みなみは、「相手の話を聞く」ということがどれほど重要か、身に染みて分かっていた。
だからこの時は、夕紀が話し終えるまで、ただ黙って聞いていた。
そうして、夕紀がもう何も言わなくなったのを見て取って、初めて口を開いた。
「夕紀の言うことは、分かるわ」とみなみは、夕紀同様、ゆっくりとした口調で言った。
「私を思ってそう言ってくれる気持ちも、とても嬉しい」「じゃあ――」「でもね――」と、二人の声が重なった。
そのため、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。
しかし、やがて夕紀がその先を促したため、みなみの方から口を開いた。
「でもね……私は、野球部のマネジャーとして、やっぱり、結果を大切に思わないわけにはいかないんだ」みなみは、鞄から一冊の本を取り出した。
それは、この一年間で何度も何度も読み返され、もうぼろぼろになったドラッカーの『マネジメント』だった。
その『マネジメント』のあるページを開きながら、みなみは、ちょっと申し訳なさそうな、それでも真剣な眼差しでこう言った。
「『マネジメント』には、こうあるわ」
組織構造は、組織のなかの人間や組織単位の関心を、努力ではなく成果に向けさせなければならない。
成果こそ、すべての活動の目的である。
専門家や能吏としてでなくマネジャーとして行動する者の数、管理の技能や専門的な能力によってでなく成果や業績によって評価される者の数を可能なかぎり増やさなければならない。
成果よりも努力が重要であり、職人的な技能それ自体が目的であるかのごとき錯覚を生んではならない。
仕事のためではなく成果のために働き、贅肉ではなく力をつけ、過去ではなく未来のために働く能力と意欲を生み出さなければならない。
(二〇〇頁)「だから、私にはやっぱり、成果よりも努力が重要だ……って言うことはできないの」「みなみ……」「それは、真摯さに欠けると思うの」と、みなみは言った。
「私には、マネジャーとして、野球部に成果をあげさせる責任があるわ。
野球部を甲子園に連れていくことが、私の責任なの」みなみは、穏やかだが、しかし決然とした口調で言った。
「その立場の人間が、結果ではなくプロセスを大切にするというのは、やっぱり真摯さに欠けると思うの」
26翌日、ついに夏の大会が開幕した。
それが、やがて高校野球に一大旋風を――そしてイノベーションを巻き起こす、「程高伝説」の始まりだと気づく者は、誰もいなかった。
それはとても静かな始まりだった。
野球部のトップマネジメントは、夏の大会を迎えるにあたって、そこで起こるであろうさまざまなできごとを、「甲子園に出場する」という目標と照らし合わせながら、考えうる限り洗い出してきた。
そうして、甲子園出場という目標の達成を、より確実なものにしようとした。
その中で、最も懸念されたのが、野球部の「経験のなさ」だった。
程高野球部には、圧倒的に経験が不足していた。
これまでの最高成績はベスト16で、それももう二十年以上前に、ただ一度あるだけだった。
そんな程高にとっては、勝ち進むということそのものが初めての体験であり、未知の領域だった。
もちろん、実戦不足を補うために、練習試合は可能な限り数多くこなしてきた。
それでも、そこで「公式戦で勝ち進む」という経験が得られるわけではなかった。
それは、やはり実際に勝ち進まない限り身につけようがなかった。
だから、程高野球部にとってそれは、想定される中では一番の弱点となるはずだった。
そこで加地は、一つの戦略を打ち出した。
経験不足で一番懸念されることは、接戦になった時に浮き足立つことだった。
緊張して、本来の力を出せなくなることだ。
だから、接戦になれば程高は不利だった。
それを避けるためには、なるべく大きな得点差で勝ちあがる必要があった。
そこで加地は、そういう戦い方をしようと――つまり大量得点差で勝つような試合運びをするという方針を打ち出したのだ。
それは冗談のような話だったが、しかし加地は本気だった。
加地は本気で、毎試合コールド勝ちを狙うような戦い方を、部員たちに指示したのだ。
一回戦からの登場となった程高の、初戦の相手は無名の私立校だった。
この試合、加地はとにかく全てにおいて積極的に攻めることを指示した。
ストライクは初球から振らせ、塁に出れば必ず盗塁させた。
守備は極端な前進守備で、どんな打球でも前へ突っ込ませた。
送りバントはもちろん使わずに、全打者に全打席ヒッティングをさせた。
この試合では、「ミスをすること」というのも一つの課題としていた。
今のうちからミスに慣れておくことで、勝ち進んだ時に浮き足立ったり緊張したりするのを防ごうとしたのだ。
その通り、この試合、野球部は多くのミスをおかした。
エラーは三つ、盗塁死は四つを数えた。
それでも、試合は12対2で勝利した。
打線が初回から爆発し、その後も攻撃の手を緩めずに、五回コールド勝ちを果たした。
夏の大会までに、野球部には一つだけ達成できなかった目標があった。
それはお見舞い面談だった。
お見舞い面談は、当初は六月一杯で終わる予定だった。
ところが、途中夕紀が体調を崩し、しばらく面談ができない時期が続いたのだ。
その後、夕紀の回復に伴って再開されたものの、スケジュールは大幅に遅れてしまった。
それでも、みなみは逆に、これを一つの好機ととらえていた。
というのは、お見舞い面談のまだ終わっていない部員には、レギュラー選手が多かったのだ。
だから、夏の大会が始まってからもそれを継続すれば、夕紀にも、より身近に夏の大会を感じてもらえると思ったのだ。
――お見舞い面談を通じて、夕紀にも、選手と一緒に戦ってる気持ちになってほしい。
そうした思いから、夏の大会に入っても、残った分を継続させたのである。
程高は、続く二、三回戦も危なげなくコールド勝ちし、四回戦へと進んだ。
ここまで来ても、程高に注目する人間はほとんどいなかった。
それは、程高の残した成績が、それほど際立ったものではなかったからだ。
確かに三試合ともコールド勝ちをおさめてはいたが、同時にエラーの数も目立っていた。
また送りバントが一つもなく、盗塁失敗も多かった。
それは、一見粗っぽい試合運びに見えたのだ。
勢いは感じられたが、緻密さがなかった。
だから、誰も程高に注目しなかったのだけれど、もし注意深い人間が見ていたら、その裏に隠された奇妙な数字に目を留めていたに違いない。
程高は、三試合ともピッチャーの投球数が極端に少なかった。
また、打者がフォアボールで出塁する率が異常なまでに高かった。
しかし、それらはほとんど誰にも注目されないまま、程高は続く四回戦で、この大会最初の難関を迎えた。
対戦相手は、かつて何度も甲子園に出場したことのある、私立の強豪だった。
そのため、この試合には一般のファンをはじめ、マスコミ関係者や他校の部員など、数多くの人々が観戦に詰めかけた。
対戦相手の、私立の強豪を見るためである。
ところが、そこで彼らは、否応なく程高に注目させられることとなった。
彼らがまず注目させられたのは、その応援のボルテージの高さだった。
程高側のスタンドは、相手の倍はいようかという大観衆によって埋め尽くされていた。
しかもそこには、制服姿の生徒だけではなく、教師や生徒の保護者たち、指導してきた少年野球チームの子供たち、講演をしてもらった私立大学の学生たちなど、数多くの関係者がつめかけていた。
また、その応援の仕方も熱気あふれるものだった。
ブラスバンドは試合開始から終始賑やかな音楽を奏で続け、チアリーディング部の献身的な応援がそれに花を添えた。
それ以外の応援団はいつでも大きな声を出し続け、チャンスになると盛りあがり、ピンチになるとグラウンドのナインを励ました。
中でも特徴的だったのは、守りの時の応援だった。
この試合、先発した慶一郎が初めてピンチを迎えた三回の裏、突如静まったかと思うと、おもむろに歌を歌い始めたのだ。
それも、ブラスバンド抜きのアカペラによる合唱だった。
それは、慶一郎の一番好きな歌だった。
実は、その歌を好きな慶一郎が、ピンチになったら元気づけるために演奏してほしいとリクエストしていたのだが、彼らはそれに合唱という形で応えたのだ。
この歌に勇気づけられたこともあってか、ピンチを脱することのできた慶一郎は、その後も素晴らしいピッチングをくり広げ、相手打線を0点に抑えた。
試合は、あいにく打線が4点しか取れなかったためコールド勝ちこそならなかったものの、結局4対0で勝利をおさめた。
それは、私立の強豪相手に程高野球部が初めてあげた、会心の金星であった。
続く五回戦もコールド勝ちし、いよいよ未知の領域となるベスト8へ進出すると、野球部の周囲はにわかに騒がしくなった。
ここまで来ると、程高以外に勝ち残っているのは私立の強豪しかなく、自然、注目は唯一の都立校である程高に集まることになった。
その準々決勝の相手は、今大会チーム打率が唯一四割を超えている、強力打線が売り物の優勝候補の一角だった。
試合は、壮絶な打撃戦となった。
この日、先発した新見大輔は、根気強く投げ続けたものの、相手の強力打線を最後まで抑え込むことができず、結局8点を失った。
しかし、打線はそれ以上の得点を相手からもぎ取った。
この大会をここまで一人で投げ抜いてきた相手エースに対し、徹底的にボールを見極め、五回までに百二十球もの球数を投げさせると、六回、ついにつかまえることに成功し、八つのフォアボールを含む打者二巡の猛攻で、一気に14点をあげた。
試合は結局20対8で、程高がコールド勝ちをおさめたのだった。
27試合後、程高には多くのマスコミが取材に押しかけた。
それに対し、インタビューを一手に引き受けていたのは、大会直前にキャプテンに任命された、背番号10の二階正義だった。
正義は、インタビューの一つひとつに丁寧に、またサービス精神たっぷりに応じていた。
話は少し前にさかのぼるが、夏の大会を迎えるにあたって、野球部では、人事についての重要な決定が二つ行われた。
一つは、正義の新キャプテン就任だった。
実は、これを加地に進言したのはみなみだった。
正義は、三月の初めにマネジメントに参加するようになって以来、その仕事に精力的に取り組み、これまで数多くの成果をあげてきた。
特に、アイデアマンとしてさまざまなことを企画し、また渉外役としてさまざまな交渉を重ね、それらを実現させてきた。
その成果が、ここへ来て一気に表れるようになった。
六月に入ってから野球部が集中して練習に取り組めるようになったことや、今のこのスタンドの盛りあがりを引き出した最大の功労者は、間違いなく正義だった。
そんな正義に対し、みなみは何らかの形で応えたいと思った。
『マネジメント』にはこうあった。
成果中心の精神を高く維持するには、配置、昇給、昇進、降級、解雇など人事に関わる意思決定こそ、最大の管理手段であることを認識する必要がある。
それらの決定は、人間行動に対して数字や報告よりもはるかに影響を与える。
組織のなかの人間に対して、マネジメントが本当に欲し、重視し、報いようとしているものが何であるかを知らせる。
(一四七頁)みなみは、正義の取り組みに対し「人事」という形で応えたいと考えたのだ。
彼にはぜひともベンチに入ってもらいたかった。
それも、誰もが認めるような、身分が保障された形で入ってもらいたかった。
しかし、誰よりも野球の下手な正義が、選手としてベンチに入れる可能性は皆無だった。
そこで、彼をキャプテンにすることを思いついた。
そうすれば、たとえ下手でも大手を振ってベンチに入れる。
そして、マネジメントが本当に欲し、重視し、報いようとしているものが何であるかを、組織の中の人間に対して知らせることができる。
さらにそれは、キャプテンであることを煩わしく思っていた、星出純の負担を軽くすることにもつながった。
純は、野球部の中心選手であり、またその誠実な人柄で、みんなの尊敬を集める存在だった。
だから、キャプテンとしては申し分なかったのだが、一つだけ問題があった。
それは、彼自身がキャプテンをするのを煩わしく思っていたことだ。
自分の実力を試すために野球部に入り、ただプレーすることに集中したかった純には、キャプテンという立場は重荷だったのである。
だから、その人事異動は、正義と純、双方ともを生かす提案でもあったのだ。
みなみによってそれが提案されると、正義を抜かしたトップマネジメントにおいて検討され、最後は加地の判断で決定された。
するとこの人事は、野球部に二つのメッセージをもたらした。
一つは、マネジメントが求めているのは必ずしも「野球が上手いこと」ではないということ。
もう一つは、成果をあげれば、マネジメントはそれにしっかりと応えるということだった。
そのため、特にレギュラー以外の部員たちに対して、この人事は大きな励みと強い動機づけを与えることとなった。
もう一つ行われた人事についての重要な決定は、朽木文明がレギュラーから外れたことだった。
夏の大会までに、文明はもともと速かったその足にさらなる磨きをかけていた。
今では、陸上部員としても短距離の全国大会に出られるほど、その走力を高めていた。
ところが、攻撃力や守備力はそれほど向上しなかった。
そこで、これは加地からの発案だったのだが、文明をレギュラーから外すことにしたのである。
代わりに、彼の入っていたレフトのポジションには、田村春道という一年生が抜擢されることとなった。
ただ、この人事にも、単に文明を外すというだけではなく、彼の強みを最大限に生かすという狙いもあった。
文明の走力を、出塁率の悪いレギュラー選手としてくすぶらせておくのではなく、ここぞという時のピンチランナーとして活用しようとしたのだ。
そうして、文明のレギュラー落ちが決まったのだが、いざそれが知らされると、以前は「レギュラーであることに引け目を感じる」と言っていたにもかかわらず、文明もさすがに落ち込んでいた。
しかし、加地からその新たな役割についての説明を受けると、すぐに気を取り直し、今度はそれに向かって前向きに取り組んでいった。
加地が文明に求めたのは、ピンチランナーとして塁に出て、相手チームをかき回すことだった。
それも、ただ単に「盗塁」をするというのではない。
それ以前に、塁上で大きなリードを取って、相手守備陣にプレッシャーをかけることだった。
塁上で、盗塁するぞするぞと見せかけることで、より大きな心理的負担をか
けることだった。
文明は、それに応えて素晴らしい活躍を見せた。
20対8と強豪相手に大差で勝った準々決勝でのこと、結果的に14点もの大量得点をあげた六回表、まだ6対8と2点差で負けていた状態でピンチランナーとして一塁へ出た文明は、いきなり大きなリードを取って、相手エースにプレッシャーをかけたのだ。
文明のリードには、大きな特徴があった。
ベースを離れる際、あたかも歩測をするかのように大股でゆっくりと歩きながら、合計で七歩リードをするのだ。
これに目をつけた応援団は、いつしか文明がリードを始めると、その歩みを大声で数えるようになった。
「イーチ!ニーイ!サーン!」と、歩数を全員で唱和するのだ。
すると、これがさらなるプレッシャーとなって、相手エースを苦しめた。
おかげでこの回、すっかり制球を乱した相手エースは、それ以降連続して三つのフォアボールを出した。
そのため文明は、自慢の足を披露するまでもなく、歩いてホームまで帰ってくることとなったのだ。
続いて準決勝が行われた。
今度の対戦相手は、プロ入りが有力視されている本格派の好投手を擁する、やっぱり私立の強豪だった。
この試合は、満を持して慶一郎が先発した。
ここまでの試合、程高はその「ストライクとボールを見極める」作戦によって、相手投手に多くの球数を投げさせてきた。
それによって体力を消耗させ、集中力を途切れさせたところにつけいって、大量得点を奪ってきた。
しかしそれは、ボール球を打たせるタイプの投手にこそ通用したものの、ストライクコースにどんどん投げ込んでくる本格派の投手にはなかなか通用しないところがあった。
そのため、この試合は大量得点が期待できなかった。
だから、ピッチャーにはなんとしても少ない失点で抑えてもらいたかったのだ。
その通り、慶一郎は素晴らしいピッチングをくり広げ、相手打線を無得点に抑え続けた。
そうして試合は、初回に一点を先制した程高のリードで、1対0のまま九回裏の相手の攻撃を迎えた。
程高は、これまで加地の打ち出した「大勝する」という方針通りの試合運びばかりだったから、僅差のゲームを経験したことがなかった。
おかげで、この試合が初めての接戦となり、部員たちの緊張はいやがうえにも高まった。
しかし、そんな中にあってマウンドの慶一郎は、終始落ち着いたピッチングをくり広げていた。
投手にとっては最も緊張を強いられる最少得点差の試合展開だったにもかかわらず、彼は、最終回に入ってもペースを崩さず、一番気をつけなければならない先頭バッターを、まずセカンドゴロに打ち取った。
さらに、次のバッターもショートゴロに打ち取ったのだが、ここで思わぬできごとが起こった。
ショートの祐之助が、これをトンネルしたのだ。
そのため、本来ならツーアウトランナーなしになるところが、ワンアウト一塁となってしまった。
ただ、こうした事態は程高には織り込み済みのことでもあった。
この時のために「エラーを恐れない」練習をくり返してきたのだ。
その効果は、ここでもすぐに表れた。
ショックの大きなエラーだったにもかかわらず、ナインには浮き足立った様子もなく、みんながエラーをした祐之助に慰めの声をかけていた。
また祐之助自身も、以前のように顔色を青白くさせたりはせず、マウンドの慶一郎のもとに謝りに行くだけの落ち着きを保っていた。
慶一郎も、そんな祐之助に笑顔で応答し、気負うようなところは露ほども見せず、次のバッターに相対していった。
そうして慶一郎は、さらに次のバッターを簡単なショートゴロに打ち取った。
絶好のゲッツーコースで、これで試合終了となるはずだった。
ところが、誰もがそう思った瞬間、ショートの祐之助が、これを二塁に悪送球してしまった。
そのため、ボールはライトまで転がり、この間にランナーはそれぞれ進塁して、ワンアウト二、三塁という一打サヨナラの大ピンチを招いた。
球場は一気に騒然とした雰囲気に包み込まれた。
祐之助は、さすがに今度は平静を保つこともできず、顔色を青白くさせた。
また他の選手たちも、やっぱり慰めの言葉をかけることができず、雰囲気に飲み込まれるのを免れることはできなかった。
それを見ながら、みなみは「やっぱり恐れていたことが起きてしまった」と思った。
夏の大会を勝ち進むうえでは、経験のなさや、そこからくる接戦への弱さが懸念されたのだが、それがここへ来て現実のものとなってしまった。
それでも、後ろを振り返っているひまはなかった。
キャッチャーの次郎は、バッターボックスに相手の四番打者を迎え、ベンチに作戦を仰いだ。
この四番を歩かせて満塁策を採るか、それとも勝負か。
しかし、監督である加地の腹は初めから決まっていた。
勝負だった。
野球部の最も基本的な指針である「ノーボール作戦」を、ここへ来て曲げるわけにはいかなかった。
そのサインにうなずいた慶一郎は、渾身のストライクボールを相手バッターに向かって投げ込んだ。
するとそれは、打者の懐深くに食い込み、バットを詰まらせることに成功した。
そうして見事、内野フライに打ち取ったのである。
ところが、それはまたしてもショートへあがった。
バックホームに備え前進していた祐之助は、それを捕球しようとバックした。
しかしその足取りは、誰が見ても危なっかしい、よろよろとしたものだった。
その通り、すぐに足を絡ませた彼は、そのまま横向けに音を立てて転倒した。
その瞬間、ワッというどよめきが球場を包み込んだ。
ベンチのみなみは、戦慄に背中を貫かれ、あまりのショックに目の前が真っ暗になった。
また、ショックを受けたのは彼女だけではなく、チームの誰もが大きな衝撃を受け、絶望に支配された。
文乃に至っては、気が遠くなって失神しかけたほどだった。
ところが、そこで思いもよらないことが起こった。
どこからか駆け込んできた選手が、そのフライをダイビングキャッチしたのである。
それは、レギュラー落ちした文明に代わってレフトのスタメンに入っていた、一年生の田村春道だった。
ほとんどショートの定位置にまで駆け込んできた彼は、そのフライをダイビングキャッチすると、すぐさま立ちあがって、今度は二塁ベースを踏んだ。
それで、試合は終了だった。
祐之助が倒れたのを見た二塁ランナーが飛び出しており、アウトとなったのだ。
その瞬間、今度はドーンという地鳴りのような歓声が湧きあがって、程高のベンチとスタンドは歓喜に包まれた。
しかし、その中にあってみなみは、一人だけ喜びとは別の感覚にとらわれていた。
みなみは、グラウンドに目が釘づけとなっていた。
程高の勝利が決まった瞬間、ベンチをものすごい勢いで飛び出していった朽木文明が、ファインプレーをした春道に飛びついていったのだ。
文明にとって、春道はレギュラーの座を奪われたライバルであった。
だから、その彼が好プレーをしたことは、自分がレギュラーの座からますます遠のくことでもあった。
それにもかかわらず、文明は誰よりもこのプレーを喜んでいた。
それは、プレーをした春道以上の喜び方だった。
誰よりも先に春道のもとに駆けつけた文明は、そのプレーを称え、彼を掲げるように抱きあげていた。
その光景に、みなみは人間というものの不思議と、組織というものの力を、あらためて感じていたのだった。
28準決勝の後、いつものように学校に戻ってミーティングが開かれた。
ところが、全体ミーティングが終わった後のマネージャーだけで行われたミーティングで、正義がこんなことを言い出した。
「明日、祐之助は外した方がいいと思います」正義の主張はこうだった。
「これまでさんざん見てきたように、祐之助は緊張した場面に弱い。
肝心なところで決定的なミスをする。
しかも、一旦落ち込むとなかなか立ち直れない。
今日の試合も、春道のファインプレーに救われたからよかったものの、そうでなかったら負けていた。
明日の決勝は、今日以上の緊張を強いられる。
だから、祐之助がまたエラーをする可能性は高い」それに、文乃が賛同した。
「私もそう思います。
祐之助くんの、緊張してエラーをしちゃうというのは、彼の弱みなんです。
組織というのは、弱みを消して、強みを生かすもの。
だとしたら、明日の決勝戦は、他の選手を使うべきです。
それが『甲子園に出場する』という、野球部の目標にも最も適うものだと思います」加地は、黙ってそれを聞いていた。
それから、やっぱり黙ったままのみなみの顔を見て、「川島はどう思う?」と尋ねた。
この時、みなみは考えていた。
みんなの意見を聞きながら、必死に『マネジメント』の内容を思い出していた。
――『マネジメント』には、これについてなんて書いてあっただろう?これについて、何か答えはなかったか?しかしみなみは、それを一向に思い出すことができなかった。
頭がちっとも働かなかった。
みなみには、正義と文乃が言った言葉はもっともだと思えた。
それについて、反論するところは何もなかった。
――それでも……。
みなみには、なぜか心に引っかかるものがあった。
それはいつもの直感だった。
いつもの直感で、みなみは、なぜだか祐之助は外すべきではないと感じていたのだ。
そこで、みなみはこう話し始めた。
「二人の言うことは、よく分かるよ。
でも……私は思うんだ。
去年の秋、慶一郎がストライクが入らなくなって負けた時、そこで慶一郎を代えていたらどうだったんだろうって」みなみは、ミーティングに参加した全てのマネジャーたちに向かって、静かに語りかけた。
「あの時、もうストライクが入りそうにないからって、慶一郎を大輔に代えていたら、今の慶一郎はなかったんじゃないかって、私はそう思うんだ。
あの時の経験が、今の慶一郎を作ったんじゃないかって。
あの時の悔しい気持ちが、慶一郎を育てたんじゃないかって」みなみは、一同の顔を順々に見ながら、いつしか訴えかけるような口調になって言った。
「私は思うの。
あの時、ストライクが入らない慶一郎を代えなかったから、今の慶一郎が、そして野球部があるんじゃないかって。
だから、祐之助も代えたくないの。
祐之助も、今ここで使い続けることで、いつかきっと、あの時、代えなくてよかったって、そう思う時が来ると思うの」「だけど――」と正義が口を挟んだ。
「慶一郎は、秋の大会だったからまだよかったけど、今度は夏の大会なんだ。
おれたちには、これが最後なんだ。
ここで負けたら、もう取り返しはつかないんだぜ?」それを聞いて、みなみはハッとしたような表情になって押し黙った。
他のみんなも、やっぱり黙った。
それで、その場をしばらく沈黙が支配した。
やがて、みなみが口を開いた。
「それでも――」みなみは、みんなにというよりは、自分に言い聞かせるように言った。
「それでも、たとえ負けることになろうとも、彼の成長を信じて使い続けることが、私は、マネジメントのすることだと思うんです」結局、祐之助は明日も使うということが決まった。
最後は加地がそう判断し、みんなもそれに従った。
それでも、みなみは気が重たかった。
その判断が正しかったのかどうか、自分でもよく分からなかったからだ。
――何より、明日の試合、祐之助のエラーで負ける可能性だってある。
その時、自分自身は後悔しないだろうか?そうした疑問が、みなみに重くのしかかった。
考えれば考えるほど、後悔しないと言いきれる自信は少なくなった。
そのことがまた、彼女の気を重たくさせた。
みなみは、夕紀に相談してみたいと思った。
夕紀は、ちょうど先週、まだ残っていた祐之助のお見舞い面談をしたところだった。
彼女なら、祐之助の処遇について、何かいい解決策を持っているかもしれなかった。
彼女なら、いいアドバイスをくれるかもしれなかった。
そこでみなみは、携帯電話を取り出すと、夕紀にメールを打とうとした。
と、そこで初めて、夕紀から着信があったことに気がついた。
それは、メールではなく電話の着信だった。
記録を見ると、三十分ほど前だった。
みなみは、珍しいなと思った。
入院している夕紀から、メールではなく電話が来ることは希だった。
そこでみなみは、夕紀に電話をかけることにした。
――きっと、夕紀も祐之助のことが心配になって電話をかけてきたのだろう。
何か言いたいことがあるに違いない。
呼び出し音を聞きながら、みなみはそんなふうに考えていた。
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