『完訳7つの習慣人格主義の回復』発刊にあたって二〇一二年七月一六日、スティーブン・R・コヴィー博士が永眠しました。
二〇一〇年、二〇一一年と二年連続で来日し、いつかまたコヴィー博士の元気な姿をと多くの人が願っていましたが、それは叶わぬ夢となってしまいました。
そのときは、生きる支えを失ってしまったかのような大きなショックを受けましたが、私たちに課せられているのは、コヴィー博士のメッセージを一人でも多くの方々にお伝えすることだという想いが、徐々に大きくなっていきました。
そして『7つの習慣』から一七年、『完訳7つの習慣人格主義の回復』を皆さまにお届けできる運びとなりました。
今回の副題にもありますように、コヴィー博士が『7つの習慣』の中でもっとも言いたかったことは、「個性主義」ではなく、「人格主義」のパラダイムを持つことです。
スキルやテクニックも重要なことではありますが、言行一致という誠実さを持ち、人として成熟し、欠乏ではなく豊かさマインドを兼ね備えた人格の上に立つスキル・テクニックでなければ効果的な人生にとって意味はありませんし、長期的に望む結果を得続けることはできません。
この新しい『7つの習慣』によって、多くの人が本当の意味での持つべき「人格」に気づき、生きる勇気をもらい、新たな気づきを得ることで螺旋状の階段をまた一歩登って成長し、仕事でもプライベートでも他者の才能を見出し、より大きな成果を生み出すことが可能になると私は確信しています。
私は、辛いとき、うまくいかないときには、常にコヴィー博士のこの言葉を思い出し、自分に言い聞かせています。
そしてこれからも忘れることはないでしょう。
「間違うこともあるだろう。気まずい思いをすることもあるだろう。だが、毎日の私的成功を積み重ね、インサイド・アウトの生き方を一歩ずつ進んでいけば、結果は必ずついてくる。
種を蒔き、辛抱強く雑草を抜き、大切に育てれば、本当の成長の喜びを実感できるようになる。そしていつか必ず、矛盾のない効果的な生き方という最高の果実を味わえるのだ」コヴィー博士よ、永遠に。
二〇一三年八月吉日フランクリン・コヴィー・ジャパン株式会社代表取締役社長ブライアン・マーティーニ
『7つの習慣』へようこそ。
本書に出会い、川西茂氏とともに和訳し始めてから、早くも二〇余年もの歳月が経過し、一六〇万人もの日本人に愛読され、日本の歴史上第一位の海外ビジネス書としての確固たる地位を築いて参りました。
しかし、それより大切なことは、『7つの習慣』がその読者一人ひとりにとって、正しい原則に沿って生活する起爆剤になり、生活、家庭、ビジネスのそれぞれの場面において、劇的な変化をもたらしたということです。私自身もその一人にすぎません。
初めて、本屋で『7つの習慣』の原書を手に取ったとき、時間管理についてのテクニック本なのだろうというぐらいの意識しかありませんでした。
しかし、読み進めるにつれて、それはとんでもない誤解だということを思い知らされました。
これは、人生のすべての場面において、正しい原則を知り、それに沿って生活するための誘いなのです。
一つひとつ、コヴィー博士の言葉が心に染み込み、自分のやり方だけではなく、あり方そのものを見直すことになりました。
当時、私は零細企業を経営しており、業種は広報制作でした。
しかし、第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」を読んで、コヴィー博士に勧められて個人的なミッション・ステートメントを書きました。
そして、「私の人生の目的は、世界により良い生き方を教えることである」ということに気がつきました。
翌週から、前の会社を手放し、教育業に転身し、それ以降というものは、天地宇宙に後押しされるかのように、著書やセミナーを通して、何百万人の人生に影響を与えることとなり、そのきっかけを作って下さったコヴィー博士に感謝しても感謝し切れない思いでいっぱいです。
第3の習慣「最優先事項を優先する」の中で、正しい時間の使い方を知り、自分の人生のために時間がとれるようになり、生活が愛と冒険に満ちたものになりました。
第4の習慣「Win-Winを考える」を学ぶことで、ビジネスにおいて、相手方の立場を理解し、相手の利益を求めるようになったので、数多くのビジネス上の成功を見出すことができました。
また、第5の習慣「まず理解に徹し、そして理解される」を学ぶ中で、共感や正しい傾聴法を学び、生まれて初めて「聴き上手」という言葉をいただきました。
私の人生における成功も、幸せも、充実感もすべて、本屋でこの本に手を出したその日に起因すると言っても、決して過言ではありません。
その中で反省点もいっぱいあります。その一つは、私たちの翻訳作業に至らない点もあったということです。
前書は日本のリーダー層に向けて文書を綴り、そのために一般の方々にとって、やや読みづらいものになってしまいました。この度、新訳の発表では、この部分を改訂することになります。
そして、二〇余年前に、私たちが到底なしえなかったような、一般の方々にわかりやすい、読みやすい、応用しやすい『7つの習慣』になったと確信しております。
そこで、この本を最大限に生かすための方法を提案したいと思います。
それは、斜め読みをせず、しっかりと読み込み、演習の一つひとつを実行し、自分の生活の各場面において、ここに提唱してある原則を応用してみるということです。
そうすれば、この『7つの習慣』は、あなたの人生に、私や他の読者にもたらしたと同じような劇的な変化をもたらしてくれるはずです。
そして、コヴィー博士が生前、切に願っていた正しい原則に基づいた社会ができ上がるに違いありません。
愛と感謝を込めて。
二〇一三年八月吉日『成功の9ステップ』著者・ライブセミナー講師ジェームス・スキナー
人生はドラマである。そして、その始まりはさまざまである。私たちのドラマは、ほんのささやかな出会いから始まった。ジェームス・スキナー二七才、川西茂三七才のときだった。
それは、ある財団法人が主催する洋上研修でのことだ。
ひょんなことから香港でタンポポを探すことになり、添乗員や香港に詳しい人たちにタンポポのことを尋ねて回った。
すると全員が「香港でタンポポなんて見たことがない」という返事だった。
しかし私たちは、あるかどうかわからないが、探すと決めた以上とにかく探そうということになり、香港の街に出かけることにした。
ところが一日中、足を棒にして探し回ってみたが、やはりタンポポを見つけることはできなかった。
そして、疲れ果て、船に戻るために港の近くまで帰ってきたとき、私たちの目の前に突然、並木道が現れた。
そして、その木々の根元に「黄色い花」が群生している情景が飛び込んできた。私たちは一目散に駆け寄った。すると、それはまさしく「タンポポ」だった。
誰もが「ない」と言った、そして一日中探しても見つからなかった「タンポポ」が目の前に咲き乱れていたのだ。
その瞬間、私たちは人生で最大の教訓を得たのだった。
「タンポポはないのではない。『見つけよう』という目で探していないから『見えない』のだ。
そして何事も『できない』のではなく、『やらない』からできないのだ」この一本の「タンポポ探し」から私たちのドラマは始まった。
それから半年後、私たちは会社を立ち上げた。
そして一週間後『7つの習慣』に出会い、一ヵ月後アメリカに渡った。
コヴィー博士に会い、一ヵ月後には日本で初めての『7つの習慣』のセミナーを開催していた。
さらに一年後、私は一六年間勤めた会社を辞め、家族を郷里に残し単身上京、全財産を投入し「7つの習慣」事業の展開に没頭した。ドラマは、猛烈な勢いで展開していった。
それからさらに三年間、私たちはセミナーの展開と『7つの習慣』の翻訳作業に全身全霊を傾け、息つく暇もなく、まさに泥の中を這いずり回るような生活を余儀なくされた。
しかし、コヴィー博士は正しかった。博士の教えの中に「中国の竹」というものがある。その竹は、種を蒔いても三年間はまったく変化を見せない。
ところが、三年後地上に少し芽を出すと同時にその竹はあっという間に二〇メートル以上にも伸びるという。
では、その竹は三年もの間、いったい何をしていたのだろうか?それは一気に二〇メートル以上も伸びる自身の体を支えるために、くる日もくる日も地中深く根を張っていたのである。まさに私たちの活動は、この教えの通りだった。
最初の三年間、土中を掘り進むようなまったく光の見えない営みは、まさしく「竹」が地中深く根を張るための営みそのものだった。
しかし三年後、『7つの習慣』の翻訳を終え、出版すると同時に私たちの「竹」は一気に一〇〇万部という途轍もない勢いで成長したのだった。
この事実を目の当たりにしたとき、私たちは、確信し、決意した。
「コヴィー博士の教え、そして『7つの習慣』は間違いない」この教えを「自分たちが実践する」ことで、世の中に伝えていくのだと。
今回、一七年ぶりに『7つの習慣』が新たに生まれ変わることになった。私たちは、当時できる限りのことはしたつもりだが、まだまだ理解が不充分だったかもしれない。
それが今回、新たな情報が付け加えられ完璧なかたちで皆さまの手に取っていただけることは、とても喜ばしいことだと思う。
家族の問題に直面したとき、友達などの人間関係で困ったとき、あるいは仕事や将来のことで悩んだり不安になったとき、そして人生そのものがわからなくなったとき、いつでも『7つの習慣』を紐解いてみていただきたい。
私たちがそうであったように、新しい『7つの習慣』を読まれる方々には、ぜひコヴィー博士の教えを信じて、実行してみていただきたい。
必ずや解決策が見つかるはずだ。
新しく生まれ変わったこの『7つの習慣』が、皆さんそれぞれのドラマを導く「人生の宝物」になることを心から祈ってやまない。
二〇一三年八月吉日株式会社ザ・アカデミージャパン代表取締役社長川西茂
『完訳7つの習慣』を推薦します「AskWhatYouCanDo」(あなたが何ができるかを問おうではないか)とケネディ大統領が説いたように、企業も地域も国家も、すべては一人ひとりの力にかかっています。
「自然現象と過去は変えることは出来ないが、未来と社会は人々の努力で変えられる」そして、その人生とは、自分が何者であり、何をやるべきなのかを問い続ける旅に違いない。
世界中のリーダーに読み継がれてきた本書を、その旅の海図としていただきたい。
しかし、旅をどのようなものにするかを決めるのも、あなた自身です。
経済産業大臣茂木敏充私のキーワードは「マグネット」です。磁石のように人を引き付けるチカラを持とうと常日頃から訴えています。
「マグネット日本」「マグネット神奈川」「マグネット学校」「マグネット企業」…。
この本は「マグネット人間」になるにはどうすればいいかを懇切丁寧に記したものです。きわめて実践的で、教則本的な内容です。
ところが同時に、いつのまにか、心奪われ読み進んでしまう、魅力あふれる「マグネット本」でもあります。
神奈川県知事黒岩祐治一人ひとりが元気でなくて、国も社会も企業も元気になるわけがない。
一度きりの人生を最大限に生かし、自分のため、家族のため、社会のために何かやってやろうというパッションこそが世界を変えるのだ。
異なる結果を出したければ、自分の最終ゴールを再設計しなければならない。
コヴィー博士が『7つの習慣』で説くように、自分の中に軸を確立し、常に基本原則に基づいて行動するべきだ。
そして、二項対立に陥らず、さまざまな智恵を融合し、イノベーションによって新たな価値を創出することが、今こそあらゆるセクターに求められている。
一橋大学イノベーション研究センター教授米倉誠一郎リーダーシップを発揮できる人の基軸は、ぶれないこと。
モチベーションを鼓舞できる人の基軸は、主体的に自らを鼓舞できること。
自分なりの言葉で励みとなる持論を持つのが大事だが、まず『7つの習慣』を実践し、羅針盤が自分の中に存在する生活、原理原則に導かれた生活を味わおう。
行動を導く「心の習慣」を若いときから身につけ始め、名リーダーになる頃には、それを基に自分の言葉で語る生き方、働き方の持論を持つ人間になってほしい。
神戸大学大学院経営学研究科教授金井壽宏地球環境、エネルギー、安全保障、少子高齢化、IT社会の進展といったさまざまな分野における急速かつ重大な変化を鑑みれば、現代は少なくとも過去の延長線上に単純に未来が来るような時代ではなくなっている。
そんな単純系から複雑系に、確実性から不確実性へと混迷の度を深める世の中を生き抜くには、不動の座標軸を持たねばならない。
コヴィー博士が人類の叡智を結晶させた本著を常に思考と行動の原点にしていただきたい。
千葉商科大学教授・政策情報学部長宮崎緑もし、『7つの習慣』を世界中の大人の必読書とし、すべての子どもたちの教科書にしたなら、輝かしい未来を手に入れることができるだろう。
人生のゴールとは自分で創るもの。そして、その幸せを追い求めるプロセスこそが充実した人生と言えるのだ。
本書は、自分らしい幸せを獲得するためのアクションを引き出してくれる実用的な現代のリベラルアーツと言えるだろう。
明治大学大学院グローバルビジネス研究科教授野田稔『7つの習慣』には、日本人が古より大切にしてきた和の精神とつながる、人類が共有すべき普遍的な思想がある。
『古事記』『日本書記』に描かれた歴代の天皇が民のために大事業を成し遂げつつ、同時に家庭を大切にする姿とも相通じる。
そして、自分がどうなるかより他者のためにいかに生きるかという、大震災をきっかけに呼び覚まされた、人と人の絆を尊ぶ我が国の美徳が底流に流れている。
本書を自己を映す鏡、自らを護る玉とし、日々剣を研ぐことで、人生の「三種の神器」を手にしていただきたい。
作家・慶應義塾大学講師竹田恒泰科学者だった祖父の遺稿集に「吾人の任務」という言葉があった。
つまり、「自分の任務とは何か?」という問いかけだ。
個人も企業も社会もビジョンを明確にすることが何より肝要である。
それを常に念頭に置きつつ、無限大の可能性を信じて、邁進し続けることが成功の要諦だ。
『7つの習慣』は、そのための最適なガイドブックである。本書によって、心・技・体を陶冶し、人間力を養っていただきたい。
そして、「世の中を変えたい」と本気で思う創造と変革の同志が一人でも多く、この国に現れんことを祈る。
グロービス経営大学院学長堀義人歴史上二〇〇年にわたる成功者の人生と人格に関する、コヴィー博士による研究の集大成である本書は人類全体の財産である。
ここに示されている普遍的な原則は、読者をして、周囲の人々にプラスの効果を与える人間へと生まれ変わらせてくれるに違いない。
お客様への心のこもったおもてなしと快適さを提供することをもっとも大切な使命と考える私どものホテルにおいても幹部研修の中心教材である。
あらゆる方々に、ビジネス上はもちろんプライべートにおいても、人生の道標としていただきたい。
ザ・リッツ・カールトンホテル地域統括総支配人マーク・レッテンビクラー他人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられるのだ。
プラス発想をすればプラスに人生に作用し、次々と良い出会いにつながって行く。良いときは感謝し、〝難〟が〝有〟るときは、それをひっくり返して〝有り難う〟と言う。
そうすれば、ピンチもチャンスにできるのだ。あなたの夢は何だろう?人生は夢に向かって行く過程こそが最も楽しいし幸せなのだ。夢は見るものじゃなくて叶えるもの。
本書をあなたの夢が実現した世界に向かうパスポートにしよう!ブリキのおもちゃ博物館館長北原照久どんなに波の高い大海原でも、目指すべき灯台を定め、それに向かって前進して行けば、決して航路は見失わない。
目指すべき灯台となる人生の夢、目標を見つけられれば、進むべき筋道が見えてくる。達成期限とゴールを決め、そこを目指して、努力を積み重ね、諦めずに頑張り続ければ必ずや夢は叶う。
本書はその人生の航海の心強いパートナーとなるに違いない。自分の人生の船長は自分自身なのだ。幸運をお祈りする。
GMOインターネット代表取締役会長兼社長・グループ代表熊谷正寿ITの進化はリーダーの役割を大きく広げようとしている。
瞬時にさまざまな情報源からデータを集め、分析し、自ら学習する「コグニティブ(認知)コンピューティング」の時代が到来している。
コンピューターは、リーダーにとって膨大な情報から価値ある洞察を発見する手助けとなる。直感や経験に依存しない、客観的で的確な判断が素早くできるようになるのだ。
リーダーはこの変化を理解し、使いこなすスキルが求められている。
日本アイ・ビー・エム代表取締役社長マーティン・イェッター不確実性に満ちた時代を生き抜くためには「原則」が必要である。そして、それは人生を、社会を、そして未来を豊かにする。
とりわけ「依存」から「自立」、そして「相互依存」へと進化する過程で人間は大きく成長を遂げる、とコヴィー博士は言う。
この成長メカニズムについて深く知ることは、あるべき人間社会の理想郷を見通すうえでも、きわめて重要である。
スポーツジャーナリスト二宮清純偉大なスポーツ選手になるために、勝利を追求し勝ち取ることはとても重要なことだが、すべてではない。
スポーツ選手の前に人間なのであり、人間力を高めることが、真の一流選手になる必須の条件だと思う。
『7つの習慣』で紹介されているように、私が尊敬する偉大な選手は、例外なく高い人格と能力を兼ね備えていた。
ヤマト卓球株式会社代表取締役社長松下浩二あなたにお勧めしたい本書の読み方がある。
それは繰り返し、一〇〇回は読むことだ。「7つの習慣」は深く、正しく理解する以上に実践することに大きな価値がある。
幾多の人生の成功者が、その歩みの手引としている習慣が実践として手に入れば、あなたの人生はあなた自身の手によってより良く導かれることを保証する。
本書の一ページ目を開き、習慣を知識から実践に発展させる創造的な活動の一回目を始めよう。
株式会社パジャ・ポス代表取締役/経営コンサルタント池本克之新しい世界に挑み、そして味わう厳しさの中で、何度もこの本に助けられた。
心底、成長を願う者にとっては、内容を腑に落とすことができる一冊だ。
テラモーターズ株式会社代表取締役社長徳重徹『7つの習慣』と出逢い、私の人生は大きく変わりました。
未だに出会った頃の衝撃は冷めず、むしろ、毎日が新しい気づきの連続です。
それほどまでに一人の人生を変え続ける本が、今回、新たな訳となり、多くの方の手に届くことを心から嬉しく思います。
これからも『7つの習慣』は私の人生を大きく変え、また、多くの方の人生を変えてくれることでしょう。
『7つの習慣小学校実践記』著者/公立小学校教頭渡邉尚久『7つの習慣』で学んだことは時代の流れに左右されない。
社会人になって間もない頃にむさぼり読んだが、そのエッセンスは今も夢を実現する指針となっている。
『7つの習慣』は、自分自身と向き合い、変化の激しい時代をブレずに生きる人生のバイブルだ。
社会が大きく変わろうが、農業経営者はもちろんビジネスパーソンにとっても、素晴らしい人生を送るための原理原則は変わらない。
株式会社みやじ豚代表取締役社長/NPO法人農家のこせがれネットワーク代表理事宮治勇輔『7つの習慣』は、生きる原則を教えてくれます。
本質的な問題の解決へと導く「7つの習慣」。あなたは本当になりたい自分を見出し、そこに向かうことができるでしょう。さあ、勇気を出して自らの扉を開けてください。
『7つの習慣』を一〇〇回読んだTOKYO油田(株式会社ユーズ代表取締役社長)染谷ゆみ私の人生の羅針盤です。
読み返す度にそのときに必要な気づきを与えてくれます。学生から読むべき本を問われたとき、いつも『7つの習慣』を勧めています。
なぜなら、自分の可能性に気づき、本来あるべきあなたになってほしいからです。充実したあなたらしい人生を歩んでほしいからです。
株式会社ジョブウェブ代表取締役会長佐藤孝治「7つの習慣」は、人生において良いことを習慣化させ、人格を高め、対人関係を競争から協力のWin-Winの生き方にさせる。
世界で三〇〇〇万人以上の人々に影響を与えたコヴィー博士の成功哲学の定本である『7つの習慣』を、さらにわかりやすく訳し直した「目と心と行動で読む人生の書」をぜひ座右の一冊に!株式会社ハーレーダビッドソンジャパン株式会社元社長奥井俊史一冊の本との出合いが人生を変えるとは本当のことだ。
『7つの習慣』は読む者にレゾンデートル(生きる意味)を見出させてくれる覚醒の書である。
人間とは習慣の束だ。日々の思考と行動によって人生はかたちづくられる。良き習慣をつけるも悪しき習慣をつけるも自分次第。
本書を繰り返し紐解くことで、自らの心に一隅を照らす灯火を灯し続けよう!マーケティングコンサルタント西川りゅうじんスティーブン・コヴィー氏は人間のあり方に関するすばらしい本を書いてくれた。
誰もが内面に抱えている不安や心配を見抜き、巧みな文章で表現している。個人の生活にとっても、組織にとっても非常に有用な一冊である。私はこの本を知人全員にプレゼントしようと思う。
『本物のリーダーとは何か』著者ウォレン・ベニススティーブン・コヴィーはアメリカのソクラテスである。
価値観、家族、人間関係、コミュニケーション──これら「永遠なるもの」に、あなたの心の目を開かせることだろう。
作家、企業コンサルタントブライアン・トレーシーマネジメント、組織、そして人間について、スティーブン・コヴィー氏ほど長きにわたり深く考え、探究している人はいないだろう。
『7つの習慣』はハウツー本ではない。
コヴィー氏自身の深く鋭い洞察を通して、自分自身の内面、他者に与える影響を見つめなおす機会を与えてくれる素晴らしい本である。
あなたの人生を変える一冊になるだろう。
『エクセレント・カンパニー』著者トム・ピータース
はじめに
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣成功には原則があった!』の初版以降、世界は劇的に変化した。
私たちの生活ははるかに複雑になり、より多くのことが要求され、ストレスは増す一方である。
世の中は産業時代から情報・知識時代へと移行し、それによってもたらされた結果には深い意味がある。
個人のレベルでも、家庭やさまざまな組織のレベルでも、ほんの一〇年前や二〇年前には考えられなかったような困難や問題にぶつかっている。
かつてない規模であるばかりか、まったく新しいタイプのチャレンジに直面しているのである。
このような社会の劇的な変化、デジタル化するグローバル市場への移行が進む中、私はよくこのような質問を受ける。
「今の時代にも『7つの習慣』は有効なのだろうか?」「一〇年後、二〇年後、五〇年後、一〇〇年後でも通用するのだろうか?」この重要な問いに対して私は、「変化が大きいほど、困難なチャレンジであるほど、『7つの習慣』の持つ意味も大きくなる」と答えたい。
私たちが抱えている問題、感じている痛みは普遍的なものであり、問題の数も、痛みの度合いも増している。
しかしその解決方法は、歴史の中で長く繁栄した社会すべてに共通する原則、不変にして普遍の原則、自明の原則に基づいている。
これらの原則は私が考え出したものではない。私はただ、これらの原則を明確にし、体系づけただけなのである。
私はこれまでに多くの教訓を学んできたが、その中でも特に興味深いのは、「自分の最高の望みを達成し、最大の困難を克服したいならば、自分が求める結果を支配している原則や自然の法則を知り、それを適用する」という教訓である。
どのように原則を適用するかは、個々人の強みや才能、独創性などによって大きく変わってくるだろう。
しかし突き詰めれば、いかなる成功も、その成功に結びついている原則に従って行動することによって手にできるのである。
ところが多くの人はこのようには考えない。少なくとも意識してはいない。逆に、原則に基づいた解決策はこの時代の常識や考え方とはまるで対照的だと感じるだろう。
どのように対照的なのだろうか。私たちが今直面している困難を例に挙げて説明していこう。恐れと不安昨今、多くの人は何がしかの恐れにとらわれている。
将来を恐れ、職場での自分の弱さを恐れ、職を失い家族を養えなくなるのではないかと恐れている。
このように気弱になっていると、安定した生活を望み、職場や家庭でお互いにもたれ合う共依存関係になりがちだ。
もたれ合いの共依存関係から抜け出すには、各々が自立する他ない。現代社会では、このような問題に対する一般的な解決策は「自立」とされているからだ。
これは、「私は『自分自身と自分のもの』を大切にしよう。自分の仕事をきちんとこなし、本当の喜びは仕事以外に見出そう」という態度である。自立は重要だ。それどころか不可欠であり、達成しなければならないものである。
しかし私たちの社会は相互依存で成り立っているのだから、自立という土台の上に、相互依存の能力を身につけなくてはならない。
何であれ重要な成果をあげるにはどのようなスキルにもまして、相互依存の能力が必要なのである。今すぐ欲しい人はモノを欲しがる。それもすぐに欲しがる。
「もっとお金が欲しい。立派な家や車が欲しい。娯楽施設で楽しみたい。全部を手に入れたいし、全部手にして当然だ」と考える。
クレジットカードが普及し、「今手に入れて支払いは後回し」というスタイルが当たり前になっている。
しかし、経済的な問題はいずれ訪れる。自分の支払い能力を超えてモノを買ってはいけないことに後から気づき、痛い思いをすることもある。
それに懲りて、もっと堅実に生活しようとしても、長続きしない。あるいは利息の請求がしつこくつきまとい、いくら一生懸命働いても追いつかない羽目に陥ることもある。
テクノロジーがめまぐるしく変化し、市場や技術のグローバル化で競争が激化する時代にあっては、賢明に生活するだけでなく、常に自分を再教育し、自己改革していかなくてはならない。
時代の波に乗り遅れないためにも、絶えず知性を磨いて研ぎ澄まし、自分の能力を伸ばすことに投資していなければならない。
職場で上司から結果を求められるのは当然のことである。競争は熾烈であり、組織の生き残りがかかっているからだ。そのような現実の中で、経営者は今日の成果を求める。しかし真の成功は持続性と成長である。
たとえ四半期の目標を達成できたとしても、その成功を一年、五年、一〇年という期間にわたって維持し、さらに増大させていくために必要な投資をしているか、と自問しなければならない。
ウォール街に代表されるような私たちの社会は、今すぐに結果を出せと叫んでいる。しかし、今日の結果を出す必要性と、明日の成功に結びつく能力に投資する必要性とのバランスをとらなければならないのだ。
それと同じことは、自分の健康、結婚生活、家族の絆、自分が所属するコミュニティのニーズについても言える。非難と被害者意識人は何か問題にぶつかると、他者に責任を押しつける傾向がある。昨今は被害者ぶることが流行にでもなっているかのようだ。
「もし上司があんなに無能でなければ……、もし貧乏な家に生まれていなければ……、もしもっと良い場所に住んでいれば……、もし父親の短気が遺伝していなければ……、もし子どもがこんなに反抗的でなければ……、もし他の部署が受注の間違いを繰り返さなければ……、もしこんな斜陽業界にいなければ……、もし社員がこれほど怠け者でなければ……、もし妻がもっと自分を理解してくれれば……、もし……、もし……」
こんなふうに、自分の抱えている問題や困難を他人や状況のせいにすることが当然のようになってしまっている。
そうすれば一時的には痛みが和らぐかもしれない。
しかし実際には、自分とその問題をつなぐ鎖を強くするだけなのである。謙虚な人は自分が置かれた状況を受け入れ、責任をとる。
勇気ある人は、主体的に困難に取り組み、創造的に克服していく。こうした人たちは、自ら選択することによって大きな力を得るのである。
絶望非難されてばかりいる子どもは、人に対する不信感と絶望感を内面に育ててしまう。置かれている状況で自分は被害者だと思ってしまったら、希望を失い、生きる意欲を失い、やがて諦めと停滞の状態に慣れていく。
「私はただの駒、操り人形だ。歯車の歯にすぎないのだから、自分ではどうすることもできない。何をすればいいのか指示してほしい」──聡明で有能でありながら、こんなふうに感じ、落胆と憂鬱の連鎖に陥っている人のなんと多いことか。
多くの人たちは今の社会で生き残るために、「何かあったときに落胆しなくともすむように、人生に対する期待のハードルを最初から下げておけばいい」というような態度をとっている。
しかしこれは、人間の長い歴史を通して見出された成長と希望の原則「自分の人生は自分で創造する」とは正反対の態度である。
バランスの欠如
携帯電話は私たちの生活をますます複雑にしている。より多くのことが要求され、ストレスは増し、本当に疲れさせられる。
時間を管理して少しでも多くの成果をあげよう、現代のテクノロジーの驚異をうまく駆使して効率を高めよう、有能な人間になろうと、誰もが必死で努力している。
それなのになぜ、ますます仕事に追われ、健康、家族、誠実さなど、自分にとってもっとも大切なものを仕事のために犠牲にしなければならないのだろう?生活を維持するエンジンである仕事が問題なのではない。
仕事の複雑化や早すぎる変化でもない。問題は、「もっと早く出勤し、もっと遅くまで残業しなさい。もっと効率的に働きなさい。今は忍耐あるのみ」という現代社会の要求である。
だが実際には、こうした社会の求めにただ応じていたら、心の平和やバランスのよい生活は得られない。
自分にとってもっとも重要な事柄を明らかにし、それを誠実に実行して初めて得られるのである。
「利己主義」
現代社会は、「人生で何かを得たいなら、一番を目指さなければならない」と教えている。
「人生はゲームだ。レースだ。競争だ。だから勝たなければ意味がない」というわけである。
同級生、職場の同僚、家族までもが競争相手に見え、彼らが勝てば勝つほど、自分の取り分が少なくなると感じる。
もちろん外見上は他者の成功を応援する寛大な人間のように振る舞うが、内心では他人の成功を妬んでいる。
私たちの文明の歴史を振り返れば、偉大な業績の多くは、自立した個人の揺るぎない決意のもとで成し遂げられたことがわかる。
しかしながら、この知識労働者時代においては、個人ではなく「私たち」という概念を心から理解し、実践し、内面化した人こそが、最大の機会、無限の可能性を手にできる。
すべての人に成功が行きわたってなお余りあると考える「豊かさマインド」を持つ人、他者を尊重し、お互いの利益のために無私の気持ちで働く人によってこそ、真の優れた業績はなされるのである。
理解されたいという渇望人が持つ欲求の中で、他人から理解されたいという欲求ほど切実なものはないだろう。
「私の声に耳を傾けてほしい」「私に敬意を払ってほしい」「大切にしてほしい」という欲求は、他者に対して影響力を持ちたいという欲求でもある。
ほとんどの人は、影響力の鍵はコミュニケーション力にあると思っている。
自分の言いたいことをわかりやすく、説得力を持って伝えられれば、他者に影響を与えられるはずだと考えている。しかしわが身を振り返ってみてほしい。
誰かと話をしているとき、相手の話を理解しようと真剣に聴くどころか、相手が話し終わった後のリアクションを考えながら聞いていないだろうか。
あなたが相手に影響を与えられるのは、相手があなたに影響を与えていると感じたときからである。
自分が理解されていると感じたとき、あなたが本心から真剣に話を聴いてくれたと感じたとき、あなたが心を開いてくれたと相手が感じたときに初めて、その人に影響を与えられるようになるのである。
ところがほとんどの人は、感情的な未熟さゆえ他者の話を真剣に聴くことができず、自分の考えを伝えることばかり考え、相手を理解することに神経を集中しようとしない。現代社会においては、理解と影響力が大事だと声高に叫ばれている。
しかしながら影響力を与えるということは、たとえ一人でも真剣に聴いてくれる他者との相互理解という原則に基づくものなのである。対立と相違人間には多くの共通点がある。
しかし同時に相違点も多い。
人それぞれに考え方は異なるし、価値観やモチベーション、目的が相反することもある。こうした違いによって、自然と対立が引き起こされる。
競争社会においては、お互いの考え方の違いから生じる対立を解決するとなると、どうしても「可能な限りたくさん勝ちとる」ことにエネルギーが向けられてしまう。
妥協は、両者がそれぞれの立場を明確にし、お互いに受け入れられる中間点まで歩み寄るという巧みな解決策と言えるかもしれないが、それでも双方ともに満足する解決策ではない。
考え方が違うからといって、解決策を最低の共通点まで引き下げなければならないのは、何とももったいない話だ。
妥協せず、創造的協力という原則に従えば、双方が最初に持っていた考え方を上回る素晴らしい解決策を生み出せるのだ。
私的停滞感人間の本質には四つの側面がある。肉体、知性、心情、精神である。
これら四つの本質に対する現代社会と原則のアプローチの違いを見ていこう。
・肉体現代社会の傾向:生活習慣を改善せずに、健康上の問題は手術や薬で治療する。
原則:健康に関して、すでに確立され受け入れられている普遍的な原則に沿ったライフスタイルによって、病気や健康上の問題を予防する。
・知性現代社会の傾向:テレビを見ながら娯楽にふける。
原則:幅広く深く読書し、継続的に学ぶ。
・心情現代社会の傾向:私利私欲のために、他人を利用する。
原則:敬意を払い、話を真剣に聴き、他者に仕えることが真の達成感と喜びをもたらす。
・精神現代社会の傾向:世俗主義と皮肉が増長する風潮に身を任せる。
原則:人生を前向きにとらえることができるもの、人生に意味を見出そうとする基本的なニーズの源には原則があることを認識している。
その自然の法則の源として私が個人的に信じているのは、神である。
あなた自身が抱える個人的な問題やニーズだけでなく、これまで挙げた社会における普遍的な問題も常に心に留めておくことを勧めたい。
そうすれば、問題の解決策とそこに至るまでの道筋を見出せるだろうし、現代社会のアプローチと時を超えた不変の原則に基づくアプローチとの対比がはっきりと見えてくるはずである。
最後に、私がいつもセミナーなどで尋ねる質問をここでも投げかけてみたい。
死の床で自分の人生を振り返ったとき、もっと多くの時間をオフィスで過ごせばよかった、あるいはテレビをもっと見ればよかったと悔やむ人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。
答えは簡単だ。一人としているわけがない。死の床にあって思うのは、家族や愛する者のことである。人は誰かのために生き、最期はその人たちのことを思うのだ。
偉大な心理学者のアブラハム・マズローも、人生を終えるとき、自分自身の自己実現欲求(マズローの説く「欲求の段階」の最終段階)よりも、子孫の幸福、達成、貢献を願ったという。彼はそれを自己超越と呼んでいた。それは私にとっても同じである。
「7つの習慣」に含まれている原則のもっとも大きな力、もっとも満足感を与えてくれる力は、自分の子や孫たちを思う気持ちから生まれるのである。
たとえば私の一九歳の孫娘シャノンは、あるきっかけから、ルーマニアの孤児のために仕えたいという気持ちを抱いた。
ある日、病気の子どもがシャノンの目の前で嘔吐し、彼女に抱きつこうとした。シャノンはその瞬間、「私はこれ以上、自己中心的な人生を送りたくない。
私は自分の人生を奉仕に使わなければいけない」と決意し、私と妻のサンドラに手紙を書いた。それから彼女はルーマニアに戻り、今でも同じ場所で奉仕活動をしている。
私の子どもたちは皆結婚したが、彼らは配偶者とともに原則と奉仕を中心に据えたミッション・ステートメントを書いている。
彼らがそのミッション・ステートメントを実践する姿を見るにつけ、私は自分の子孫たちから真の喜びを得ることができるのである。
これから『7つの習慣』を読み始めるあなたに、刺激に満ちた学びの冒険を約束しよう。あなたが学んだことを愛する人たちに教えてあげてほしい。そして何よりも、学んだことをすぐに実践してほしい。実行に移さなければ、本当に学んだとは言えない。
知識を持っていてもそれを実行しないのは、知っていることにはならないのである。私自身も「7つの習慣」を実践する努力を続けてきた。
上達していくにつれて、スキー、テニス、ゴルフなどのスポーツと同じように、チャレンジの中身そのものが変わっていく。
私は「7つの習慣」の原則を実践するために毎日真剣に奮闘している。
この冒険にあなたもぜひ歩み出してほしい。
二〇〇四年ユタ州プロボ市にて
完訳7つの習慣人格主義の回復
第一部パラダイムと原則
インサイド・アウト
正しい生き方なくして真の成功はありえない。──デイビッド・スター・ジョーダン
私は二五年余にわたり、コンサルティングの仕事を通して、企業や大学、家庭生活などさまざまな場面で多くの人々と接する機会に恵まれてきた。
こうして知り合った人の中には、社会的に大きな成功を遂げている人も大勢いたが、見た目の成功とは裏腹に、彼らは虚しさを覚え、本当の自分を探し求め、あるいは深く豊かな人間関係に飢えていた人が少なくなかった。
彼らが打ち明けてくれた悩みの一部を紹介しよう。あなたにも思い当たることがあるかもしれない。
・仕事で達成したいと思っていた目標はすべて成し遂げました。ずいぶん出世しましたよ。ところが、それと引きかえに私生活と家族を犠牲にしてしまった。今じゃ妻も子どもたちも他人同然です。さらに自分のことすらわからなくなっている。私にとって大切なことは何なのだろう。まったく、今までやってきたことは何だったのだろう。
・またダイエットを始めました。今年に入ってもう五回目。ご覧のとおり太っていますからね、何とかしたいんですよ。新しいダイエット本が出れば必ず読みます。減量の目標を立てて、「絶対にできる」と自分に言い聞かせ、やる気満々で始める。でも続かない。
二~三週間もすると、やる気はどこへやら。自分との約束をどうしても守れないんですよね。
・管理職セミナーにはいくつも出ています。部下には大いに期待していますし、自分も気さくで公平な上司になろうと努力しています。しかしそれが部下には伝わらないのですよ。私が病気で会社を休みでもしたら、無駄話に花が咲くでしょうね。私がこれほど努力しても、彼らには責任感や自主性というものが育たない。見込みのある人間がどこかにいないものでしょうか。
・高校生の息子がおります。
反抗的で、ついにドラッグに手を出しました。私の言うことなんか聞きやしません。困り果てています。
・やらなければならないことが山積みだ。いつだって時間が足りない。一年三六五日、朝から晩まで時間に追われている。時間管理のセミナーも受講したし、システムやツールだっていくつも試した。
多少役には立ったが、望んでいたようなバランスのよい生活を送っているとはとても思えない。
・子どもたちに仕事の大切さを教えたいんですよね。でも、家の手伝いをさせるにしても文句たらたらで嫌々やるって感じですし、私がいちいち指示しなくちゃいけません。自分でやったほうがよっぽど簡単ですよ。言われる前に進んでやったためしがありません。子どもというのはどうしてこうなんでしょう?
・目が回るほど忙しい。こんなことをしていて将来のためになるのだろうかと不安になることがある。振り返ってみて意味のある人生だったと思いたい。自分の存在が何かの役に立ったと思いたいんですよ。
・友人や親戚が成功したり何かで認められたりすると、笑顔でおめでとうと言うけれど、内心は嫉妬でおかしくなりそう。どうしてそんなふうに感じるのかしら?
・ええ、私は押しの強い人間です。だいたいは自分の意見を通せます。自分の思いどおりの結果になるように人を説得することもできます。
もちろんその時どきの状況をよく考え、自分の案が誰にとってもベストだと確信できます。しかし何だかすっきりしません。周りの人たちが私や私の意見を内心ではどう思っているのか気になるんですよ。
・私たちの結婚生活は破綻状態です。べつに喧嘩をするわけではないのですが、もうお互い愛情は感じていません。
カウンセリングを受けたり、いろいろ努力はしましたが、昔のような気持ちは戻ってきそうにありません。
どれもこれも深刻な悩みだ。深く根を張った問題であり、応急処置で解消するような痛みではない。
数年前、私と妻のサンドラも同じような問題で悩んでいた。息子の一人が学校生活にうまくなじめず苦労していた。
成績がふるわず、良い点数をとるどころか、答案の書き方の指示さえ理解できない。対人関係も未熟で、親友を困らせることもたびたびあった。背が低くやせっぽちで、運動もからきしだめ。
ピッチャーの手からボールが離れる前にバットを振るありさまなのである。当然、皆の笑い者になっていた。私たち夫婦は息子の力になろうと必死だった。
私も妻も、人生において何で「成功」したいかと問われれば、親としての成功以外にはないと思っていた。
だから、息子のためになるようにと、彼に対する自分たちの態度と行動を改めた。積極的な心構えというテクニックを駆使して、息子を励まそうとしたのだ。
「頑張れ!おまえならきっとできる!バットをもう少し短く持って、ボールから目を離すな。いいか、ボールが近くにきたらバットを振るんだぞ」
息子が少しでも上達すれば、もっと上達するようにと、「いいぞ、その調子で頑張れ」と励まし続けた。
他の子たちが笑おうものなら、「放っておいてくれ。からかうんじゃない。頑張っているところなんだから」と叱りつけた。
すると息子は、「うまくなんかなりっこない。野球なんかもう嫌だ」と言って泣きだすのだった。
何をやっても息子のためにはならず、私も妻も深く心を痛めていた。息子はみるからに自信をなくしていた。励まし、手を差しのべ、前向きな態度で接したが、どれもこれも失敗に終わった。そしてようやく、一歩下がって違う観点から状況を見つめ始めたのである。
当時私は、国内のさまざまな企業にリーダーシップ開発の研修を行う仕事をしていた。
その関係で二ヵ月に一度、IBMの管理職能力開発セミナーで「コミュニケーションと認知」というテーマで講義をしていた。
講義の準備をしていて、人は物事をどう認知し、それが行動をどのように支配するのか、ものの見方が行動にどう影響するのか、強い関心を持つようになった。
そして期待理論や自己達成予言、「ピグマリオン効果(訳注:教師の期待が生徒の学力を伸ばすという教育心理学理論)」を調べていくうちに、ものの見方が人の内面の深いところで作用していることに気づいたのである。
要するに、何を見るかというよりも、どのようなレンズを通して見ているかが問題であり、そのレンズこそが一人ひとりの世界観をつくっているのである。
IBMで教えていたこれらの考え方を妻に説明し、私たち夫婦が直面していた問題に当てはめて話し合った。
そして、息子によかれと思ってやっていたことは、実は私たちのレンズを通して息子を見ていた結果なのだと気づいたのだ。
私たちの心の奥底を正直に探ってみれば、「あの子は他の子たちよりも劣っている。何かが足りない」と思っていたことは明らかだった。
自分たちの態度や行動を変え、どんなに言葉を尽くして励ましても、息子がそこから感じとるのは「おまえは劣っている。だからお父さんとお母さんが守ってやらなくてはならない」というメッセージだ。
これではうまくいくはずがない。状況を変えたければ、まず自分たちが変わらなくてはならないのだと、私たち夫婦は悟った。そして自分が本当に変わるには、ものの見方を変えなくてはならない。
個性主義と人格主義
私はその頃、ものの見方に関する研究と並行して、一七七六年のアメリカ合衆国独立宣言以来これまでに米国で出版された「成功に関する文献」の調査に夢中になっていた。
自己啓発、一般向けの心理学、自助努力などに関するそれこそ何百もの本、論文、随筆に目を通し、ものによっては熟読した。
自由にして民主的な国の人々が考える「成功の鍵」が書かれた文献を端から調べたのである。
成功をテーマにした書籍を二〇〇年さかのぼって調べていくうちに、はっきりとしたパターンが見えてきた。
最近の五〇年間に出版された「成功に関する文献」はどれも表面的なのだ。
それでは、私たち夫婦が息子のことで感じていた痛み、私自身がこれまでに経験してきた痛み、仕事で接してきた多くの人たちの痛みには、まるで効きそうにない。
そこに書かれているのは、社交的なイメージのつくり方やその場しのぎのテクニックばかりだ。痛みに鎮痛剤や絆創膏で応急処置を施せば、たしかに痛みは消える。
問題は解決したかにみえるかもしれないが、根本にある慢性的な原因をほったらかしにしていたら、いずれ化膿して再発することになる。
これとはまるで対照的に、建国から約一五〇年間に書かれた「成功に関する文献」は、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、質素、節制、黄金律など、人間の内面にある人格的なことを成功の条件に挙げている。私はこれを人格主義と名づけた。
中でもベンジャミン・フランクリンの自叙伝は圧巻で、特定の原則と習慣を深く内面化させる努力を続けた一人の人間の姿が綴られている。
この人格主義が説いているのは、実りのある人生には、それを支える基本的な原則があり、それらの原則を体得し、自分自身の人格に取り入れ内面化させて初めて、真の成功、永続的な幸福を得られるということである。
ところが、第一次世界大戦が終わるや人格主義は影をひそめ、成功をテーマにした書籍は、いわば個性主義一色になる。
成功は、個性、社会的イメージ、態度・行動、スキル、テクニックなどによって、人間関係を円滑にすることから生まれると考えられるようになった。
この個性主義のアプローチは大きく二つに分けられる。一つは人間関係と自己PRのテクニック。もう一つは積極的な心構えである。
こうした考えのいくつかは、「態度が成功を決める」「笑顔が友だちをつくる」「どんなことでも思い、信じれば達成できる」といった元気づける言葉やときには正当な格言となる。
しかし、個性をもてはやす数々の「成功に関する文献」では、人を操るテクニック、ひどいときには明らかに騙しのテクニックさえ紹介されていた。
相手が自分を好きになるように仕向けたり、自分が欲しいものを得るために、相手の趣味に興味があるかのようなふりをしたり、はたまた高圧的な態度で怖がらせ、人を利用するテクニックである。
もちろん、個性主義の文献も人格を成功の要因と認めてはいるが、切っても切り離せない必須要因とみなしてはおらず、添え物的に扱っている文献がほとんどである。
人格主義に触れるくだりがあったとしても、通り一遍である。これらの文献が強調しているのはあくまで、即効性のある影響力のテクニック、力を発揮する戦略、コミュニケーションスキル、ポジティブな姿勢なのである。
私は自分自身の個性主義に気づき始めた。私たち夫婦も無意識のうちに、息子にこの解決策を押しつけていたのだ。
個性主義と人格主義の違いがわかって初めて、私も妻も、子どもの行いや成績で親としての社会的評価を得ようとしていたことを思い知らされたのである。
そうしたレンズを通して見るならば、息子はどうしても「不合格」になってしまう。
自分たちの目に映る息子の姿よりも、世間の目に映る自分たちの姿のほうが気になり、良い親と見られたいと思うあまり、息子を見る目が歪んでいたのだろう。
私たち夫婦のものの見方、問題に対する態度には、純粋に息子のためを思う親心よりもはるかに多くの事柄が潜んでいたのである。
妻と話し合っていて、私たち自身の人格と動機、息子に対する見方が彼にどれほど強い影響を及ぼしていたかに気づき、苦々しい思いだった。
そもそも息子を他の子と比較するのは私たち夫婦の基本的な価値観とは相容れないはずだった。
そんなことは条件つきで子どもを愛するようなものであり、息子の自尊心を傷つけるのは間違いない。そこで私と妻は、自分自身に目を向けることにした。
テクニックを使うのではなく、心の奥底にある動機、息子に対する見方を変える決心をした。
息子を変えようとせず、一歩離れて距離をおき、彼に対する私たちの見方から離れて、彼自身の本質、独自性、一人の人間としての彼本来の価値を感じとろうと努力した。
私たち夫婦は、深く考え、自らの信条を実践し、祈った。やがて息子の独自性が見え始めた。彼の内面に幾重にも潜んでいる可能性が見えてきた。
それらの潜在能力は、彼自身のペースで発揮されるはずだ。気をもまず、息子が自分で独自性を表現できるように、邪魔にならないようにしていよう、私たちはそう決心した。
息子を肯定し、彼の価値を認め、成長を喜ぶことが、親の自然な役割なのだとわかった。
さらに、自分たちの動機にも意識的に働きかけ、子どもたちが「良い子」であることに満足感を得ようとする態度を改め、自分自身の内面的な安定を育てる努力をした。
息子に対する以前の見方を捨て、彼本来の価値を大切にするようになると、私たち夫婦に新しい感情が芽生えてきた。
他の子と比較して優劣を判断したりせず、息子と過ごす時間を心から楽しめるようになったのだ。
私たちが勝手に思い描く子どものイメージに押しこめることも、世間の基準に照らして息子を判断することもやめた。
親心からとはいえ、社会に受け入れられるかたちに息子を無理にはめ込もうとすることもやめた。
息子は社会に十分適応して生きていけるとわかったから、他の子たちから笑われたときも、しゃしゃり出ることもなくなった。
守ってもらうことに慣れていた息子は、初めのころ親の庇護が突然なくなり禁断症状を起こした。
私と妻は息子の苛立ちに理解は示したが、必ずしもそれに応えようとはしなかった。
私たちのそのような態度は、「おまえを守ってやる必要はない。一人でも十分にやっていける」という息子への無言のメッセージだった。
数週間、数ヵ月と月日が経つにつれ、息子はひそかに自信を持ち始め、自分を認めるようになった。自分のペースで花を咲かせ始めた。
学業成績、スポーツ、人間関係など社会的な基準からしても目を見張るほど成長した。それも、いわゆる自然の発達プロセスをはるかに上回るスピードで。
後年、息子は学生団体のリーダー数人の一人に選出され、スポーツでは州を代表する選手になり、Aがずらりと並ぶ成績表を持ち帰るようになった。
誠実で人を引きつける性格が前面に出て、誰とでも打ち解けてつき合えるようになった。
息子が「社会的に得た高い評価」は、周囲の期待に応えようとしたからではなく、本来の自分を素直に表現したからに他ならない。
私たち夫婦はかけがえのない経験をしたと思う。他の息子や娘たちに接するうえでも、親以外の役割を果たすときにも大変役立った。
成功に関わる「個性主義」と「人格主義」の決定的な違いを身をもって体験し、深く認識できたからである。
私と妻の確信を代弁している聖書の一節を紹介しよう。
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」
第一の偉大さ、第二の偉大さ
わが子で経験したこと、ものの見方に関する研究、成功に関する文献の調査、これらが私の頭の中でつながり、人生でめったにない「アハ体験」の瞬間が訪れた。
個性主義の強烈なインパクトを一瞬にして理解し、私が真実だと確信していること──はるか昔の子どもの頃に教えられたことや自分自身の価値観の奥深くにあるもの──と、日々私を取り巻く応急処置的な考え方との違いがはっきり見えたのである。
長年にわたり生活のあらゆる場面で多くの人々と接してきたが、私が教えてきたこと、効果的だと信じていたことが、昨今流行の個性主義の考え方とほとんど相容れない理由がよくわかったのだ。
私はなにも、個性を伸ばすこと、コミュニケーションスキルのトレーニング、他者に影響を及ぼす戦略、ポジティブ・シンキングといった個性主義のさまざまな要素が成功に不要だと言いたいわけではない。それどころか不可欠な場合もある。
私が言いたいことは、たしかに成功にはこれらの要素も必要だが、あくまで第一の要素ではない二次的な要素だということだ。
人間は前の世代が築いた土台にさらに積み上げていく能力を与えられているというのに、その能力を使わず、自分の成功を築くことだけに目を向け、成功を支える土台のことを忘れてしまってはいないだろうか。
種も蒔かずに刈り入れることだけを考えてきたせいで、種を蒔く必要すら忘れてしまってはいないだろうか。
二面性や不誠実など人格に根本的な欠陥がありながら、人に影響を及ぼす戦術やテクニックを使って自分の思いどおりに人を動かしたり、もっと仕事の成績を上げさせたり、士気を高めたり、自分を好きにさせたりしようとして一時的にはうまくいったとしても、長続きするわけがない。
二面性はいずれ相手の不信感を招き、どれほど効果的な人間関係を築くテクニックを使ったところで、相手を操ろうとしているとしか見えないだろう。
どんなに巧みな言葉を使っても、たとえ善意からだとしても、効果は望めない。信頼という土台がなければ、成功は長続きしないのだ。
基礎となる人格の良さがあって初めて、テクニックも生きてくる。テクニックだけを考えるのは、一夜漬けの勉強と似ている。
一夜漬けで試験をうまく乗り切れることもあるだろうし、良い成績だってとれるかもしれない。
だが、日々の積み重ねを怠っていたら、教科をしっかりと習得することはできないし、教養ある人間にはなれない。
農場に一夜漬けは通用しない。春に種蒔きを忘れ、夏は遊びたいだけ遊び、秋になってから収穫のために一夜漬けで頑張る。
そんなことはありえない。農場は自然のシステムで動いている。必要な務めを果たし、定まった手順を踏まねばならない。種を蒔いたものしか刈り取れない。そこに近道はないのだ。
この原則は人の行動や人間関係にも当てはまる。人の行動も人間関係も、農場の法則が支配する自然のシステムなのである。
学校のように人工的な社会システムの中では、人間が定めた「ゲームのルール」を学べば、一時的にはうまくいくかもしれない。
一回限りの、あるいは短い期間だけの付き合いなら、個性主義のテクニックをうまく使い、相手の趣味に興味があるふりをし、魅力をふりまいて良い印象を与えられるかもしれない。短期間だけ効き目のある手軽なテクニックなら、すぐにも身につけられるだろう。
しかしそうした二次的要素だけでは、長続きする関係は築けない。
真の誠実さや根本的な人格の強さがなければ、厳しい状況に直面したときに本当の動機が露わになり、関係が破綻し、結局のところ成功は短命に終わるのである。
第二の偉大さ(才能に対する社会的評価)に恵まれていても、第一の偉大さ(優れた人格を持つこと)を欠いている人は多いものである。
人格こそが第一の偉大さであり、社会的評価はその次にくる第二の偉大さである。
同僚や配偶者、友人、反抗期の子どもとの関係など、その場限りでは終わらない人間関係において第一の偉大さを欠いていれば、いずれ関係にヒビが入るのは避けられない。
「耳元で大声で言われたら、何が言いたいのかわからない」とエマーソン(訳注:米国の思想家)も言っているように、無言の人格こそ雄弁なのである。
もちろん、人格は素晴らしいのに口下手で、思うように人間関係が築けない人もいる。
しかしそうしたコミュニケーションスキル不足が及ぼす影響もまた、しょせん二次的なものにすぎない。突き詰めれば、あるがままの自分、人格が、どんな言動よりもはるかに雄弁なのである。
誰にでも、人格をよく知っているからという理由で一〇〇%信頼している人がいるだろう。
雄弁であろうがなかろうが、人間関係のテクニックを知っていようがいまいが、信頼して一緒に仕事ができる人がいるはずだ。
ウィリアム・ジョージ・ジョーダン(訳注:米国のエッセイスト)は次のように述べている。
「すべての人の手に、善または悪をなす巨大な力が委ねられている。その力とは、その人の人生が周りに与える無言の、無意識の、見えざる影響である。見せかけではない真のあなた自身の影響が、常に周囲に放たれているのだ」
パラダイムの力
「7つの習慣」は、効果的に生きるための基本的な原則を具体的なかたちにしたものである。「7つの習慣」のどれもが基礎であり、第一の偉大さにつながるものである。
これらの習慣を身につけるのは、継続的な幸福と成功の土台となる正しい原則を自分の内面にしっかりと植えつけることに他ならない。
しかし、「7つの習慣」を本当に理解するためには、まず自分のパラダイムを理解し、パラダイムシフトの方法を知らなければならない。
人格主義も個性主義も社会的パラダイムの一例である。パラダイムという言葉はギリシャ語に由来している。
もともとは科学用語だったが、昨今はモデルや理論、認識、既成概念、枠組みを意味する言葉として広く用いられている。
平たく言えば物事の「見方」であり、物事をどう認識し、理解し、解釈しているかである。
パラダイムを理解するために、地図にたとえて考えてみよう。言うまでもないが、地図と現実の場所は同一ではない。地図は現実の場所のいくつかの要素を表したものである。
パラダイムも同じだ。パラダイムとは、何らかの現実を表す理論、説明、あるいはモデルのことである。
シカゴ中心部のどこかに行きたいとしよう。シカゴの道路地図があればとても役立つが、その地図が間違っていたらどうだろう。
地図には「シカゴ」と表示されているが、印刷ミスで実はデトロイトの地図だったら、どうしても目的地にたどり着けず、イライラが募るばかりだろう。
あなたはたぶん、自分の行動をどうにかしようとするだろう。もっと頑張ってスピードをあげるかもしれない。しかしそうまで努力したところで、間違った場所に早く到着するだけである。
あるいは態度を変えるかもしれない。もっと前向きに考えようとするのだ。目的地にたどり着けなくとも気にしない。
ポジティブになったあなたは、着いた場所がどこであっても満足できるというわけである。
しかしどちらにしても、道に迷ってしまったことに変わりはない。根本的な問題は行動とも態度とも関係ない。地図が間違っていたことが、そもそもの原因なのである。
シカゴの正しい地図を持っていれば、努力が無駄になることはない。途中で癪にさわる障害物に出くわしても、態度次第でイライラせずにすむ。だが、何にせよ地図が正しいことが前提条件である。
人は皆それぞれ頭の中にたくさんの地図を持っている。これらの地図は二つに大別できる。
「あるがままの状態」が記された地図(現実)、そして「あるべき状態」が記された地図(価値観)である。
私たちは、経験することのすべてをこれらの地図を通して解釈している。地図が正確かどうかを疑うことはめったにない。地図を持っていることすら意識しないのが普通だ。
ただ単純に、物事はこうなのだ、こうあるべきなのだと思い込んでいるだけなのである。私たちの態度や行動は、こうした思い込みから生まれる。
物事をどう見るかが、私たちの態度と行動を決めているのである。話を先に進める前に、ここで興味深い体験をしていただきたい。
一八ページの絵を数秒間見る。
次に二〇ページの絵を見て、あなたが見たものを詳しく説明してほしい。
女性の顔に見えただろうか。何歳くらいの女性で、どんな感じの人だろうか。服装はどうだろう。どういう立場の人に見えるだろう。
あなたはおそらく、二枚目の絵の女性は二五歳くらい、小さな鼻が愛らしい美人で、流行のファッションに身を包み、華やかさを感じさせる人だと描写するだろう。
あなたが独身男性なら、デートに誘いたいような女性かもしれない。ファッション業界で働いているなら、モデルに採用したいと思うかもしれない。
しかし、あなたが受けた印象はことごとく間違っているかもしれない。
その絵の女性が六〇歳から七〇歳くらいの悲しげな老婆で、鼻が大きく、とてもモデルにはなれそうもない女性だったらどうだろう。
デートの相手どころか、道路を渡る手助けをしてあげなければならない。どちらが正しいのだろうか。もう一度、絵を見てほしい。
お婆さんの顔が見えてきただろうか。見えてくるまで、絵とにらめっこしよう。大きなかぎ鼻やショールが見えるだろうか。
この絵を前にしてあなたと面と向かっていれば、自分に見えているものをお互いに納得がいくまで話し合えるだろう。
残念ながらそれはできないので、四六ページを開き、その絵をよく見てから、もう一度二〇ページの絵を見てほしい。
今度は老婆に見えただろうか。この先を読む前に、老婆に見えるまで目を凝らして頑張ってほしい。
私はもう何年も前、ハーバード・ビジネス・スクールの授業で初めてこの認知実験を受けた。
教授はこれと同じ絵を使い、二人の人間が同じ絵を見ながら意見が異なり、しかも両方の意見が正しいという状況がありうることを明快に証明してみせたのだ。
それは論理的というより心理的な問題である。教授は、大きなカードを一束、教室に持ってきた。
カードの半分には一八ページの若い女性が描かれ、もう半分には四六ページの老婆が描かれていた。
教授は、学生の半分に若い女性の絵を、残り半分に老婆の絵を配り、カードを一〇秒間見させ、回収した。
次に、二枚の絵を合成した二〇ページの絵をスクリーンに映し、その絵が何に見えるかクラス全員に説明させた。
最初に若い女性のカードを見ていた学生のほとんどは若い女性に見えると答え、老婆のカードを見ていた学生たちは老婆だと答えた。
それから教授は、それぞれ違うカードを見せられていた学生二人に、スクリーンの絵が何に見えるか相手に説明するよう指示した。
お互いに説明を始めると、激しく意見がぶつかった。
「年寄りだなんて、ありえないだろう。せいぜい二〇歳か二二歳くらいだよ」「まさか、冗談だろう。
どう見ても七〇はいってる。八〇歳と言ってもおかしくない」「おまえ、どうかしてるんじゃないか。目が見えないのか?彼女は若くてきれいだ。デートに誘いたいくらいの美人だよ」「美人だって?婆さんじゃないか」
こんなふうに両者まったく譲らず、話は一向にかみ合わない。他の見方もありうること、二つの見方が両立することはすでに授業で学んでいたにもかかわらず、自分の意見が正しいと信じて疑わず、相手の意見を認めようとはしなかった。
別の視点から絵を見ようとした学生はほとんどいなかった。不毛な議論がしばらく続いてから、一方の学生が絵の中の線を指差して「若い女性のネックレスがある」と言った。
すると相手の学生は「違うね。それは婆さんの口だよ」と応じた。
そのうち二人は具体的な相違点を冷静に指摘し始め、二つのイメージがぴったり重なると、ようやく相手の見方を認識するに至った。
冷静になって相手の意見を尊重し、具体的な事例を挙げてコミュニケーションを進めていくことで、教室にいた学生全員が相手の視点から絵を見られるようになった。
しかしスクリーンからいったん視線を外し、また視線を戻すと、最初に一〇秒間見せられていたカードの絵のほうに見えてしまうのである。
私はよく、講演やセミナーでこの認知実験の話をする。個人としての効果性、人間関係のあり方について多くのことを教えてくれるからである。
まず、経験による条件づけが、私たちのものの見方(パラダイム)に強い影響を与えていることがわかる。
わずか一〇秒の条件づけでさえ、見え方にあれほど影響するのだから、これまでの人生でたたきこまれてきた条件づけの影響たるや、どれほどだろうか。
家庭、学校、教会、職場、友人関係、職業団体、そして個性主義などの社会通念等々、私たちの生活には多くの影響力が作用している。
そのすべてが無意識のうちに私たちに影響を与え、私たちの頭の中の地図、ものの見方、すなわちパラダイムを形成しているのである。
この認知実験によって、態度と行動は自分が持っているパラダイムから生まれることもわかる。
自分のパラダイムから外れた行動を、少しの葛藤もなく正直にできる人はいないだろう。自分の見方とは異なる言動で一貫性を保つのはまず不可能だ。
最初に若い女性のカードを見せられ、それに条件づけられていたら、合成した絵も若い女性に見える人がほとんどである。
あなたもその一人だとするなら、街で通りを渡ろうとする彼女に出会っても、手を貸そうとはしないだろう。
彼女に対するあなたの態度と行動は、彼女に対するあなたの見方と一致して当然なのである。ここで個性主義の根本的な欠点の一つが浮かび上がる。
態度と行動の源泉である自分のパラダイムを詳しく観察し、理解しなければ、個性主義のテクニックで態度や行動を変えようとしても、長続きしないということである。
この認知実験から得られるもう一つの教訓は、他者との接し方もパラダイムの影響を強く受けていることを気づかせてくれることである。
自分は物事を客観的に、正確に見ていると思っていても、違う見方をしている相手もまた、話を聴けば同じように客観的に正確に見ていることがわかってくる。
「視点は立ち位置で変わる」のである。誰しも、自分は物事をあるがままに、客観的に見ていると思いがちである。だが実際はそうではない。
私たちは、世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままの世界を見ているのであり、自分自身が条件づけされた状態で世界を見ているのである。
何を見たか説明するとき、私たちが説明するのは、煎じ詰めれば自分自身のこと、自分のものの見方、自分のパラダイムなのである。相手と意見が合わないと、相手のほうが間違っていると瞬間的に思う。
しかし例の認知実験でも、真面目で頭脳明晰な学生たちですら、自分自身の経験のレンズを通して見て、同じ絵に対して違う見方をする。私はなにも正しい事実は存在しないと言っているのではない。
認知実験では、最初にそれぞれ違う絵で条件づけされていた学生二人が、二枚の絵を合成した絵を見る。
二人はこの合成した絵の中で黒いラインと白い余白という同一の事実を見ている。二人とも、それらが事実であることは認めている。
しかしそれらの事実に対する解釈は、それ以前の経験を反映したものになる。こうして、事実は意味を持たなくなり、それぞれの学生の解釈だけが残るのである。
自分の頭の中にある地図、思い込み、つまり基本的なパラダイムと、それによって受ける影響の程度を自覚し、理解するほど、自分のパラダイムに対して責任を持てるようになる。
自分のパラダイムを見つめ、現実に擦り合わせ、他の人の意見に耳を傾け、その人のパラダイムを受け入れる。その結果、はるかに客観的で、より大きな絵が見えてくるのである。
パラダイムシフトの力
認知実験から得られるもっとも重要な洞察は、パラダイムシフトに関するものだろう。
合成した絵がようやく違う絵(二〇ページ参照)に見え、「ああ、なるほど」と納得する瞬間、いわゆる「アハ体験」のことである。
最初のイメージに縛られている人ほど、アハ体験は強烈になる。まるで頭の中に光が突然差し込んでくるような感じだ。
パラダイムシフトという言葉を初めて使ったのはトーマス・クーンという科学史家で、多大な影響を及ぼした画期的な著作『科学革命の構造』に出てくる。
同書の中でクーンは、科学の分野における重要なブレークスルーのほとんどは、それまでの伝統、古い考え方、古いパラダイムとの決別から始まっていると述べている。
古代エジプトの天文学者プトレマイオスにとって、宇宙の中心は地球だった。しかしコペルニクスは、激しい抵抗と迫害に遭いながらも中心は太陽だと主張した。
このパラダイムシフトによって、それまでとは異なる視点からすべてが解釈されるようになる。ニュートンの物理学モデルは正確なパラダイムであり、現在も工学の基礎である。
しかしそれは部分的で不完全なものだった。後にアインシュタインは相対性理論を打ち出し、科学界に革命をもたらす。
アインシュタインのこのパラダイムは、自然現象の予測と説明の精度を飛躍的に高めたのである。
細菌論が確立されるまで、出産時の母子死亡率の異常な高さの理由は誰にもわからなかった。
戦場においても、前線で重傷を負った兵士より、小さな傷や病気で命を落とす兵士のほうが多かった。
まったく新しいパラダイムである細菌論の登場によって、これらの現象が正確に理解でき、医学は目覚ましい進歩を遂げた。
今日あるアメリカ合衆国もまた、パラダイムシフトの結果である。何世紀にもわたり、国家統治の概念は絶対君主制、王権神授説だった。そこに、新しいパラダイムが登場する。
「人民の、人民による、人民のための政治」である。
こうして誕生した立憲民主主義国家は、人々の持つ計り知れない潜在能力を解き放ち、歴史上類をみない水準の生活、自由、影響力、希望を創出した。
パラダイムシフトはプラスの方向だけに働くとは限らない。
前述したように、人格主義から個性主義へのパラダイムシフトは、真の成功と幸福を育む根っこを引き抜いてしまった。
しかし、パラダイムシフトがプラスに働こうがマイナスに働こうが、あるいは一瞬にして起ころうが徐々に進行していこうが、一つのものの見方から別の見方に移行することは大きな変化を生む。
正しくても間違っていても、私たちのパラダイムが態度と行動を決め、ひいては人間関係のあり方にも影響するのである。
ある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄で体験した小さなパラダイムシフトを、私は今も覚えている。
乗客は皆黙って座っていた。新聞を読む人、物思いにふける人、目を閉じて休んでいる人。車内は静かで平和そのものだった。
そこに突然、一人の男性が子どもたちを連れて乗り込んできた。子どもたちは大声で騒ぎだし、車内の平穏は一瞬にして破れた。男性は私の隣に座り、目を閉じていた。
この状況にまったく気づいていないようだ。子どもたちは大声で言い争い、物を投げ、あげくに乗客の新聞まで奪いとるありさまだ。
迷惑この上ない子どもたちの振る舞いに、男性は何もしようとしない。私は苛立ちを抑えようにも抑えられなかった。
自分の子どもたちの傍若無人ぶりを放っておき、親として何の責任も取ろうとしない彼の態度が信じられなかった。他の乗客たちもイライラしているようだった。
私は精一杯穏やかに、「お子さんたちが皆さんの迷惑になっていますよ。少しおとなしくさせていただけませんか」と忠告した。
男性は目を開け、子どもたちの様子に初めて気づいたかのような表情を浮かべ、そして、言った。
「ああ、そうですね。どうにかしないといけませんね……病院の帰りなんです。一時間ほど前、あの子たちの母親が亡くなって……これからどうしたらいいのか……あの子たちも動揺しているんでしょう……」
その瞬間の私の気持ちを想像できるだろうか。私のパラダイムは一瞬にしてシフトした。突然、子どもたちの様子がまったく違って見えたのだ。
違って見えたから、考えも、感情も、行動も変化した。私の苛立ちは消えてなくなり、態度や行動を無理に抑える必要はなくなった。
私は男性の苦しみに共感し、同情と哀れみの感情がとめどなくあふれ出た。
「奥様が亡くなられたとは……お気の毒に。さしつかえなければ話していただけますか?何か私にできることはありませんか?」すべてが一瞬にして変わったのである。
人生を揺るがす危機に直面し、物事の優先順位が突如として変わるとき、あるいは夫や妻、親、祖父母、管理職、リーダーなど新しい役割を引き受けるとき、多くの人は考え方が根本から変化するパラダイムシフトを体験している。
態度や行動を改善すべく、何週間、何ヵ月、何年も個性主義のテクニックを身につける努力を積んできたところで、物事が一瞬にして違って見えるパラダイムシフトの大きな変化には比べようもないだろう。
生活の中で比較的小さな変化を起こしたいのであれば、私たちの態度や行動に対し適切にフォーカスすれば良いだろう。
しかし大きな変化、劇的な変化を望むのなら、土台となるパラダイムを変えなくてはならない。
ソロー(訳注:米国の作家・思想家)は、「悪の葉っぱに斧を向ける人は千人いても、根っこに斧を向けるのは一人しかいない」と言っている。
行動や態度という「葉っぱ」だけに斧を向けるのをやめ、パラダイムという「根っこ」を何とかしなければ、生活を大きく改善することはできないのである。
見方=あり方
もちろん、すべてのパラダイムシフトが一瞬にして起こるわけではない。地下鉄での一瞬のパラダイムシフトと異なり、私と妻が息子のことで経験したパラダ
イムシフトは、ゆっくりと、困難にぶつかりながらも意図的なプロセスによってもたらされたものだった。
私たち夫婦の息子に対する態度は、個性主義の経験と条件づけが長年蓄積された結果だった。
良い親はこうあるべきだという思い込み、そして子どもたちの成功の尺度に関して、自分の内面の奥深くに根づいていたパラダイムの影響を強く受けていたのである。
これらの基本的なパラダイムを変え、物事を違った角度から見られるようになってようやく、自分自身にも、あの状況にも大きな変化をもたらすことができた。
息子をそれまでと違う目で見るために、私も妻もあり方を変えなくてはならなかった。こうして自分自身の人格の向上と形成に投資した結果、私たちの新しいパラダイムが生まれたのである。
パラダイムと人格を切り離すことはできない。
人間においては、あり方は見方に直結するのであり、どう見るかとどうあるかは強い相関関係で結ばれているからだ。あり方を変えずに見方を変えることはできない。
その逆もまたしかりだ。
地下鉄でのあの経験は、表面的には突然のパラダイムシフトに見えるが、あのとき私に訪れたパラダイムシフトは、私自身の基本的な人格の結果であり、それと同時に私の人格に制約されてもいた。
たとえば、事情を知ってからも、妻を亡くし打ちひしがれている男性にわずかな同情心を抱くだけで、あるいは何となく罪悪感を覚えるだけで、お悔やみの言葉もかけない人もいるだろう。
逆に、あの親子のただならない様子に気づき、何か事情がありそうだと察して、私よりも早く手を差し伸べられる人もいるに違いない。
パラダイムの力が強いのは、世界を見るレンズをつくるからである。
パラダイムシフトは、瞬時に起こる場合でも、ゆっくりと意図的なプロセスで進んでいく場合でも、必ず劇的な変化を生み出す力になる。
原則中心のパラダイム
人格主義の土台となる考え方は、人間の有意義なあり方を支配する原則が存在するということである。
自然界に存在する引力の法則などと同じように、人間社会にもまた、時間を超えて不変であり異論を挟む余地のない、普遍的にして絶対的な法則があるのだ。実際にあったエピソードから、これらの原則の影響力を考えてみよう。
米海軍協会が発行する雑誌『プロシーディングズ』に掲載された以下のフランク・コック隊員の体験談もまた、パラダイムシフトの一例である。
訓練艦隊所属の戦艦二隻が、悪天候の中、数日前から演習航海を続けていた。私は先頭の戦艦に乗っており、陽が沈んでから当番でブリッジに入った。
あたりに霧が発生して視界が悪かったので、艦長もブリッジに残り状況を見守っていた。暗くなってから間もなく、ブリッジのウイングに立っていた見張りが報告に来た。
「右舷船首の進路に光が見えます」
「停止しているのか、後方に動いているのか」と艦長は聞いた。
「停止しています」と見張りは答えました。
つまり、その船はこちらの進路上にあり、衝突の危険があるわけです。
艦長は信号手に「衝突の危険あり、進路を二〇度変更せよと、当該の船に信号を出せ」と命じた。
返ってきた信号はこうです。
「そちらが二〇度進路変更せよ」
艦長は再度、信号手に指示した。
「私は艦長だ。そちらが二〇度進路を変更せよと信号を送れ」
すると「こちらは二等水兵です。そちらが進路変更しなければなりません」という返事が返ってきた。
艦長はついに怒り、吐き出すように言った。
「信号を送れ。こっちは戦艦だ。二〇度進路を変えろ」
返ってきた光の点滅は、「こちらは灯台である」だった。
我々は進路を変えた。
艦長が経験したパラダイムシフト、そしてこのエピソードを通して私たちが経験するパラダイムシフトは、その状況にまったく異なる光を当てるものである。
視界が悪かったために艦長には見えなかった現実が、私たちにも見えてくる。
霧の中を航行する戦艦の艦長だけでなく、私たちが日常生活においても理解しなければならない現実である。
原則は灯台にたとえることができる。それは破ることのできない自然の法則である。
映画監督セシル・B・デミルは、代表作『十戒』の中で原則について次のように表現している。
「神の律法(原則)を破ることはできない。それを破ろうとすれば自分自身が破れるだけだ」
誰でも、経験や条件づけから形成されたパラダイムや頭の中の地図を通して自分の生活や人間関係を見ているものである。
この頭の中の地図は、現実の場所ではない。あくまで「主観的な現実」であって、現実の場所を表現しようとしているにすぎない。
「客観的な現実」、つまり現実の場所は、灯台の原則で成り立っている。
それは人間の成長と幸福を左右する原則であり、人類の歴史がたどってきたあらゆる文明社会に織り込まれ、長く繁栄した組織や家族の根っことなっている自然の法則である。
私たちの頭の中の地図がどれほど正確であっても、原則を変えることはできない。
このような原則、あるいは自然の法則は、社会の歴史のサイクルを深く調べ、思索している人からすれば、今さら言うまでもない明白なものである。
これらの原則の正しさは、歴史の中で幾度となく証明されている。
ある社会の人々が原則をどこまで理解し、どこまで従うかによって、その社会が存続と安定へ向かうのか、逆に分裂と滅亡に至るのかが決まるのである。
私の言う原則は、難解なものでもなければ、謎めいたものでもない。まして宗教的なものではない。
この本で述べている原則は、私自身の宗教も含めて特定の宗教や信仰に固有のものは一つとしてない。
これらの原則は、長く存続しているすべての主要な宗教、社会思想、倫理体系の一部に組み込まれている。自明のものであり、誰でも日常生活の中で有効性を確認できるものばかりである。
これらの原則あるいは自然の法則は、人間の条件、良心、自覚の一部となっていると言ってもいいだろう。
社会的な条件づけが違っていても、すべての人間の内面に必ず存在している。
もちろん、これらの原則に対する忠実さの度合いは人それぞれであろうし、忠実さが低かったり、条件づけされていたりすると、原則が見えず、感じとれないこともあるだろう。
しかしそのような人でも、原則は内面のどこかに必ず潜んでいる。
たとえば、平等と正義という概念の土台となっているのは公正の原則である。
たとえ公正とはまるで正反対の経験をしても、人が公正さの感覚を生まれながらに持っていることは小さな子の行動を見ればわかる。
公正の定義や、公正さを実現するプロセスに大きな違いがあっても、時代や地域に関わらず、公正という概念そのものは誰もが理解できる。
誠実と正直も例として挙げることができる。協力関係や長続きする人間関係、個人の成長に不可欠な信頼の土台となる原則だ。人間の尊厳も原則である。
アメリカ独立宣言の基本的な考え方は、「我々は以下の事実を自明なものとみなす。すべての人間は創造主によって平等につくられ、生命、自由、幸福の追求など、不可侵の権利を授かっている」という一節からもわかるように、人間の尊厳という原則を土台としている。
奉仕や貢献、あるいは本質、美徳という原則もある。可能性という原則は、私たちは常に成長することができ、潜在する能力を発見し、発揮し、さらに多くの才能を開発できるという原則である。
成長は可能性に関連する原則である。成長とは、潜在能力を発揮し、才能を開発するプロセスであり、これには忍耐や養育、励ましといった原則が必要になる。
原則は手法ではない。手法とは具体的な活動、行動である。ある状況で使えた手法が、別の状況にも通用するとは限らない。
二番目の子を最初の子と同じように育てようとしたことのある親なら、よくわかると思う。
手法は個々の状況に応じて使い分けるものだが、原則は、あらゆる状況に普遍的に応用できる深い基本の真理である。
個人にも、夫婦や家族にも、あらゆる民間・公的組織にも当てはめることができる。
たとえば企業がこれらの真理を組織内に習慣として根づかせれば、社員は状況に応じて対処する多種多様な手法を自分で考え出すことができる。原則は価値観とも異なる。強盗団には強盗団なりの価値観がある。
しかしここで述べている基本の原則には明らかに反している。価値観は地図であり、原則は現実の場所である。
正しい原則に価値を置けば、真理を手にし、物事のあるがままの姿を知ることができる。
原則は人間の行動を導く指針であり、永続的な価値を持っていることは歴史が証明している。原則は基礎的なものであり、自明であるから議論の余地すらない。
原則に反する価値観に従って充実した人生を送ろうとすることの愚かしさを考えれば、原則が自明の理であることはすぐにわかる。
不正、詐欺、卑劣、無駄、凡庸、堕落が、長続きする幸福や成功の盤石な土台になると本気で思っている人などいないはずだ。
原則の定義、実行の方法については議論があるにしても、人は生まれながらにして原則の存在を知り、意識しているのである。
私たちの頭の中の地図またはパラダイムをこれらの原則、自然の法則に近づけるほど、地図は正確になり、機能的に使えるようになる。正しい地図は、個人の効果性、人間関係の効果性に計り知れない影響を与える。
態度や行動を変える努力をいくらしても追いつかないほど、大きな変化を遂げられるのである。
成長と変化の原則
今の社会には個性主義が蔓延している。
人間の成長に求められる努力という自然のプロセスを踏まなくとも、個人の効果性、豊かで深い人間関係を手に入れ、充実した人生を手っ取り早く得られると示唆しているからだ。しかしそれは絵空事である。
「働かなくとも簡単に金持ちになれますよ」と、そそのかしているようなものだ。個性主義はうまくいくように思えるかもしれない。しかし、まやかしであることに変わりはない。個性主義は人を惑わし、欺く。
個性主義のテクニックや応急処置的な手法で成功を手に入れようとするのは、デトロイトの地図でシカゴのどこかを目指すのと大差ない。
社会心理学者エーリッヒ・フロムは、個性主義の因果を鋭く指摘している。今の時代の人々を見ると、まるでロボットかと思える。自分自身を知らず、理解しようともせず、唯一わかっているのは自分が社会から求められているイメージだけである。
意思の疎通をはかるコミュニケーションは避けて無駄なおしゃべりに興じ、心から笑うことはせず、つくり笑いだけがうまくなり、本当の痛みを追いやり、鈍い絶望感でやり過ごそうとしている。こうした人間について言えることが二つある。
一つは、治療の施しようがないほど自発性および自分らしさ欠乏症を患っていること。
そしてもう一つは、地球上に今生きているほとんどの人間が、基本的にこれと変わらないということである。
すべての生命に、成長と発達のしかるべき順序がある。子どもはまず寝返りを覚えてから、座り、はいはいすることを学ぶ。その次に、歩き、走ることができるようになる。
どの段階も重要であり、時間がかかる。省略できる段階は一つもない。人生のさまざまな段階で能力を開発するのも同じである。
ピアノが弾けるようになることも、同僚とうまくコミュニケーションをとれるようになることも、段階を踏まねばならない。
これは個人にも、夫婦や家族にも、組織にも当てはまる原則である。誰でも物理的な現象であればこのプロセスの原則は知っているし、受け入れている。
しかし、感情や人間関係に当てはめるとなると簡単には腑に落ちない。人格となればなおさらわかりにくいし、理解できている人は少ない。
たとえ理解できたとしても、それを受け入れ、実践するのはますます難しい。だから近道を探したくなる。
プロセスの重要なステップを省略し、時間と労力を節約する個性主義のテクニックに引き寄せられてしまうのもわからなくはない。
しかし、成長と発達の自然のプロセスで近道をしようとしたらどうなるだろうか。
仮にあなたがテニスの初心者で、格好良く見せたいがために上級者のようにプレーしようとしたらどうなるだろう。
ポジティブ・シンキングだけでプロに太刀打ちできるだろうか。
ピアノを習い始めたばかりなのに、リサイタルを催せるほどの腕前だと友人たちに吹聴したらどうなるだろう。答えは言うまでもない。
発達のプロセスを無視し、途中を省略することなどできるわけがない。
それは自然の理に反する行為であり、近道しようとして得られるのは失望とフラストレーションだけである。
どんな分野にせよ、現在の能力レベルが一〇段階の二であるなら、五に達するためにはまず三になる努力をしなければならない。
「千里の道も一歩から」始まる。何事も一歩ずつしか進めないのだ。
わからないところを教師に質問しなければ、教師はあなたの現在のレベルを把握できないのだから、あなたは何も学べず、成長できない。
いつまでもごまかしきれるものではなく、いずれ馬脚を現すことになる。学習の第一歩は、自分の無知を認めることである。
ソローの言葉を借りよう。
「自分の知識をひけらかしてばかりいたら、成長にとって必要な自分の無知を自覚することなど、どうしてできるだろうか」ある日のことである。
友人の娘二人がやってきて、父親が厳しく理解がなさすぎると泣きながら訴えた。正直な気持ちを父親に伝えたいが、何と言われるか怖い。
それでも二人は、両親の愛情、理解、導きを切望していた。私は彼女たちの父親と話してみた。彼は頭では状況を理解していた。
自分は短気だと認めはしたものの、それに対して責任を取ろうともせず、情緒面の未熟さを改善しようとしなかった。
未熟さに正面から向き合おうとはしなかったのだ。プライドが邪魔をし、自分を変える第一歩を踏み出せずにいたのである。
妻、夫、子ども、友人、同僚と有意義な関係を築くためには、まず相手の話を聴けるようになることが第一歩だ。それには精神的な強さが要る。
我慢強く心を開き続け、相手を理解したいという気持ちがなければ、人の話を本当に聴くことはできない。高い人格が要求される。つまり、人格ができていなければならないのだ。
感情のままに動き、相手のことは考えずにそれらしいアドバイスをするのは簡単である。
しかしそれでは確かな人間関係は築けない。テニスやピアノなどごまかしがきかないものであれば、成長のレベルは誰にでもわかる。
しかし人格や情緒となるとそうはいかない。初めて会う人や同僚に対してであれば、格好をつけ、それらしく振る舞うことができる。できるふりをすることも可能だ。
しばらくの間だけなら、少なくとも人前ではそれで何とかやっていけるだろう。自分を欺くことさえできるかもしれない。
しかしほとんどの人は本当の自分を知っているものだし、一緒に暮らしている人や職場の同僚なら、真実の姿に気づく。
実業界でも、成長の自然のプロセスを無視して近道を行こうとする例は枚挙にいとまがない。
経営陣は、厳しい訓示、笑顔をつくるトレーニング、外部の介入、あるいはM&A、友好的買収や敵対的買収などによって、新しい企業文化を「購入」し、生産性、品質、社員の士気、顧客サービスを高めようとする。
しかし、このような操作が職場の信頼の低下につながっていることに目を向けようとはしない。これらのテクニックがうまくいかなければ、別の個性主義的テクニックを探し始める。
かくして、企業文化の土台となる信頼という原則とプロセスはいつまでも無視されるのである。
実は、もう何年も前のことになるが、私自身、この原則に反する行動をとってしまったことがある。ある日のことである。
三歳になる娘のバースデーパーティのために仕事から帰ると、娘はリビングの隅に座り込み、プレゼントのオモチャを抱え込んで、他の子たちに使わせまいとしていた。
私が最初に気づいたのは、娘のわがままぶりを見ていた他の子たちの親の視線だった。私は恥ずかしかった。
しかも当時は大学で人間関係論を教えていたのだから、まるで立場がない。私がどんな対応をするのかと、親たちは期待しているようだった。部屋の中は険悪な雰囲気だった。
子どもたちは娘の周りに集まり、自分たちの親があげたプレゼントのオモチャで遊びたいと手を差し出している。
ところが娘は頑として聞かない。
私は自分に言い聞かせた──分かち合うことを娘に教えなくてはならない、分かち合いは社会生活の基本的な価値の一つなのだから。
まず、ストレートに頼んでみた。
「みんなからもらったオモチャを貸してあげようよ」「やだ」娘はにべもない。
次の手として、少しばかり理を説くことにした。
「自分の家でお友だちにオモチャを貸してあげれば、お友だちの家に遊びに行ったときに、オモチャを貸してもらえるよ」「やだ!」またしても即座に拒否。
娘をどうすることもできない自分をさらけ出してしまい、穴があったら入りたい気分だった。
三番目の手段は、賄賂である。
小声で「オモチャを貸してあげたら、いいものをあげる。ガムだよ」と言った。「ガムなんかいらないもん!」娘は叫んだ。
私は業を煮やし、四番目の手段、脅しにかかった。「貸してあげないなら、おしおきだぞ!」「いいもん。ぜんぶあたしのオモチャだもん。かしてなんかあげないもん!」娘はそう言って泣き出した。
最後は実力行使である。
私はオモチャを娘から取り上げ、他の子たちに渡した。
「さあみんな、これで遊んでいいよ」
娘には、分かち合う経験の前に所有する経験が必要だったのだろう(そもそも、所有していないものを貸し与えることはできないのだから)。
娘にそのような経験をさせるには、父親である私がもっと精神的に成熟していなければならなかった。
しかし、あのときの私は、娘の成長や娘との関係よりも、あの場にいた親たちの目を気にしていた。
「娘はオモチャを貸すべきだ。貸さないのは間違っている」と短絡的に判断していたのである。たぶん、私自身の精神的レベルが低いために、娘に高い期待を押しつけたのだろう。
娘の態度を理解して我慢強く接することができず、また、そうするつもりもなかった。私の未熟さゆえに、分かち合いを娘に一方的に期待したのである。
自分の人格の欠点を補うために地位や権威の力を借りて、娘を言いなりにしようとしたのだ。しかし力を借りることは、人を弱くする。物事を成し遂げるのに外の力に頼る癖がついてしまうからだ。そして、その力に強要された人も弱くなる。
主体的な判断、成長、自制心の発達が抑えつけられるからである。ひいてはお互いの関係も弱くなる。恐怖が関係を支配し、一方はますます横暴に、他方はますます自己防衛に走る。
体格、地位、権限、資格、ステータスシンボル、容姿、過去の実績など、借りてくる力はいろいろあるが、そうした力の源泉が変化したら、あるいは失ってしまったら、果たしてどうなるだろう。あのとき、私がもっと成熟していたなら、自分自身の内面の力を使えただろう。
分かち合いや成長の原則、子を愛し育てる親としての能力を理解し、それを自分の内面の力として、オモチャを貸すかどうかの判断を娘に委ねることができたはずだ。
娘に言い聞かせることに失敗した後も、他の子たちの関心を別の遊びに向け、娘の精神的なプレッシャーを取り除いてやることだってできたかもしれない。
後になって私は、子どもは何かを所有することを一度経験すれば、ごく自然に、自発的に貸せるようになることを学んだのである。
私自身の経験から言えるのは、何を教えるにもタイミングが重要だということである。
関係が張りつめ感情的な雰囲気になっているときに教えようとすると、子どもはそれを親からの裁きや拒絶と受け取るものである。
しかし落ち着いたときを見はからって子どもと二人きりになり、静かに話し合えば、大きな効果が期待できる。それには親の側の精神的な成熟が必要だ。
当時の私の忍耐力や自制心では、そこまで至っていなかったのだと思う。所有を経験しなければ、真の分かち合いを理解することはできない。
夫婦関係や家庭において、無意識に与えたり、分かち合ったり、あるいはそれらを拒んだりする人は少なくない。
こうした多くの人たちは、自分で何かを所有したと実感したことがないのだろう。所有した実感を持つことが、アイデンティティの意識、自尊心の意識を芽生えさせるのだ。
わが子の成長を本当に願うなら、このような所有感を体験させ、分かち合うことの大切さを教え、そして自ら模範を示さなくてはならない。
問題の見方こそが問題である
揺るぎない原則を土台にして充実した人生を送っている人や、うまくいっている家族、高い業績をあげている企業に、多くの人は強い関心を示す。
その人物の強さと成熟度、その家族の団結力、シナジーを創り出し環境変化に対応できるその企業の文化に感心するのだ。
そして多くの人がすぐに「どうすればそんなにうまくいくのですか?コツを教えてください」などと聞く。
こういう質問をする人は後を絶たないが、自分の基本的なパラダイムに従っていることに気がついていない。
本音は、「私の今の痛みをパッと解消してくれる応急処置を教えてほしい」ということなのだ。
しかし実際に、この手の質問に答え、望みどおりのアドバイスをしてくれる人はどこにでもいるだろうし、教えてもらったスキルやテクニックはとりあえず効くかもしれない。表面の傷や急性の痛みなら絆創膏や鎮痛剤で取り除ける。
しかし、隠れた慢性疾患はそのままなのだから、いずれ別の急性症状が現れる。急性の痛み、差し迫った問題に対症療法でごまかし続けているうちに、原因となっている病巣は悪化するばかりである。
問題をどう見るか、それこそが問題なのである。
この章の初めにいろいろな悩みを紹介したが、それらをもう一度考えてみよう。個性主義的な考え方が影響していることがわかる。
「管理職セミナーにはいくつも出ています。部下には大いに期待していますし、自分も気さくで公平な上司になろうと努力しています。しかしそれが部下には伝わらないのですよ。
私が病気で会社を休みでもしたら、無駄話に花が咲くでしょうね。私がどれほど努力しても、彼らに責任感や自主性を教えることはできないのでしょうか。見込みのある人間がどこかにいないものでしょうか」
個性主義の考えによれば、組織再編や解雇など思い切った策に出れば、部下をシャキッとさせ、彼らの潜在能力を引き出せるのかもしれない。
あるいは、モチベーションアップのトレーニングでやる気を引き出せるのかもしれない。それでもだめなら、もっと有能な人材を見つければよい、ということらしい。
だが、上司に対する不信感が士気の低さの原因とは考えられないだろうか。彼らは、自分が歯車のように扱われていると思っていないだろうか。
この上司は、そんな扱いはしていないと断言できるだろうか。心の奥底で部下をそんなふうに見てはいないだろうか。
部下に対する見方が、問題の一因となっていることはないのだろうか。
「やらなければならないことが山積みだ。いつだって時間が足りない。一年三六五日、朝から晩まで時間に追われている。
私の行動はオンラインで管理され、どこにいても仕事の指示が飛んでくる。生産性が低いといつも叱咤され、しかも別のところからはワークライフバランスだと言われる。
時間管理の研修も受講したし、メンタルヘルスのトレーニングも受けた。多少役には立ったが、望んでいたようなバランスのよい生活を送っているとはとても思えない」
先ほどと同様に、表層的なスキルやテクニックで解決できるとする人たちによれば、こうしたプレッシャーを効率よく解決できる新しい制度や方法がどこかにあるらしい。
だが、効率が上がれば問題は解決するのだろうか。より少ない時間でより多くのことができれば、状況は良くなるのだろうか。
効率を上げるというのは結局のところ、自分の生活を支配している状況や人々にそそくさと対応するだけのことではないのか。
もっと深く根本的に見なければならないことがあるのではないだろうか。自分の持っているパラダイムが、時間、生活、自分自身に対する見方を誤らせていることはないだろうか。
「私たちの結婚生活は破綻状態です。べつに喧嘩をするわけではないのですが、もうお互い愛情は感じていません。
カウンセリングを受けたり、いろいろ努力はしましたが、昔のような気持ちは戻ってきそうにありません」
個性主義なら、心にたまっていることを洗いざらい吐き出すセミナーに夫婦揃って出るとか、そういった本を一緒に読むとかすれば、奥さんにもっと理解してもらえますよ、と教えるだろう。それでもだめだったら、新しいパートナーを探すことですね、と。
しかし問題は奥さんにあるのではなく、この人自身にあるとは考えられないだろうか。
妻の無理解をそのままにし、理解してもらう努力をせずにこれまで暮らしてきた結果ではないだろうか。
妻、結婚生活、真の愛情について持っている基本のパラダイムが問題を悪化させていることはないだろうか。
個性主義というものが、問題の解決方法だけでなく、問題に対する見方そのものも歪めていることがわかっていただけただろうか。多くの人が、意識的にせよ無意識にせよ、個性主義の空約束の幻想から醒め始めている。
仕事でさまざまな企業を訪ねていて気づくのは、長期的展望を持つ経営者は皆、愉快なだけで中身のない話に終始する「モチベーションアップ」や「元気を出そう」式のセミナーに嫌気がさしていることだ。
彼らは本質を求めている。鎮痛剤や絆創膏ではない長期的プロセスを求めているのだ。慢性的な問題を解決し、永続的な成果をもたらす原則に取り組みたいのである。
新しいレベルの思考
アルベルト・アインシュタインはこう言っている。
「我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったときと同じ思考のレベルで解決することはできない」自分自身の内面を見つめ、周囲を見まわしてみると、さまざまな問題は結局、個性主義に従って生き、人間関係を築いてきたからだと気づくはずだ。
これらの問題は深くて根本的な問題であり、問題をつくったときと同じ個性主義のレベルでは解決できないのだ。
新しいレベル、もっと深いレベルの思考が必要である。
これらの根深い悩みを解決するには、人間としての有意義なあり方、効果的な人間関係という現実の場所を正確に描いた地図、すなわち原則に基づいたパラダイムが必要なのである。
「7つの習慣」とは、この新しいレベルの思考である。
原則を中心に据え、人格を土台とし、インサイド・アウト(内から外へ)のアプローチによって、個人の成長、効果的な人間関係を実現しようという思考である。
インサイド・アウトとは、一言で言えば、自分自身の内面から始めるという意味である。
内面のもっとも奥深くにあるパラダイム、人格、動機を見つめることから始めるのである。
インサイド・アウトのアプローチでは、たとえばあなたが幸福な結婚生活を望むなら、まずはあなた自身が、ポジティブなエネルギーを生み出し、ネガティブなエネルギーを消し去るパートナーになる。
一〇代のわが子にもっと快活で協調性のある人間になってほしいと望むなら、まずはあなた自身が子どもを理解し、子どもの視点に立って考え、一貫した行動をとり、愛情あふれる親になる。
仕事でもっと自由な裁量がほしければ、もっと責任感が強く協力的で、会社に貢献できる社員になる。
信頼されたければ、信頼されるに足る人間になる。
才能を認められたければ(第二の偉大さ)、まずは人格(第一の偉大さ)を高めることから始めなければならない。
インサイド・アウトのアプローチでは、公的成功を果たすためには、まず自分自身を制する私的成功を果たさなくてはならない。
自分との約束を果たすことができて初めて、他者との約束を守ることができる。
人格より個性を優先させるのは無駄なことだ。自分自身を高めずに他者との関係が良くなるわけがない。
インサイド・アウトは、人間の成長と発達をつかさどる自然の法則に基づいた継続的な再生のプロセスである。
また、上向きに成長する螺旋であり、責任ある自立と効果的な相互依存という高みに徐々に近づいていくことだ。
仕事柄、私は多くの人々に接する機会に恵まれている。快活な人、才能ある人、幸福と成功を切望している人、何かを探し求めている人、心を痛めている人。経営者、大学生、教会組織、市民団体、家族、夫婦。
そして、さまざまな体験を通してわかったことは、決定的な解決策、永続的な幸福と成功が外から内に(アウトサイド・イン)もたらされた例は一つとして知らない。
アウトサイド・インのパラダイムに従った人は、おしなべて幸福とは言い難い結果となっている。被害者意識に凝り固まり、思うようにいかないわが身の状況を他の人や環境のせいにする。
夫婦ならば、お互いに相手だけが変わることを望み、相手の「罪」をあげつらい、相手の態度を改めさせようとする。
労働争議ならば、莫大な時間と労力を費やして上辺だけの法律を通し、あたかも信頼関係が築かれたかのように振る舞っている。
私の家族は一触即発の危険をはらんだ三つの国──南アフリカ、イスラエル、アイルランド──で暮らした経験があるが、これらの国が抱えている問題の根源は、アウトサイド・インという社会的パラダイムに支配されていることにあると私は確信している。
敵対するグループはそれぞれに問題は「外」にあるとし、「向こう」が態度を改めるか、あるいは「向こう」がいなくなりさえすれば、問題は解決すると思い込んでいる。
インサイド・アウトは現代社会の大半の人々にとって劇的なパラダイムとなる。個性主義のパラダイムを持ち強烈な条件づけを受けている人は特にそうだ。
とはいえ、私の個人的経験、また何千という人々と接してきた経験、さらには成功を収めた歴史上の人物や社会を仔細に調べた結果から確信したことは、「7つの習慣」としてまとめた原則は、私たちの良心と常識にすでに深く根づいているものばかりだということである。
自分の内面にあるそれらの原則に気づき、引き出し、生かせば、どんなに困難な問題でも解決できる。
そのためには新しい、より深いレベルの考え方「インサイド・アウト」へとパラダイムシフトすることが必要である。
あなたがこれらの原則を真剣に理解しようとし、生活に根づかせる努力をするとき、T・S・エリオット(訳注:英国の詩人)の次の言葉の真実を幾度となく実感することだろう。
「探究に終わりはない。すべての探究の最後は初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである。」
7つの習慣とは
人格は繰り返し行うことの集大成である。それ故、秀でるためには、一度の行動ではなく習慣が必要である。
──アリストテレス私たちの人格は、習慣の総体である。
「思いの種を蒔き、行動を刈り取る。行動の種を蒔き、習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取る。人格の種を蒔き、運命を刈り取る」という格言もある。
習慣は私たちの人生に決定的な影響を及ぼす。習慣とは一貫性であり、ときに無意識に行われる行動パターンであり、日々絶えず人格として現れる。その結果、自分自身の効果性の程度が決まる。
偉大な教育者だったホーレス・マンは、「習慣は太い縄のようなものだ。毎日一本ずつ糸を撚り続けるうちに、断ち切れないほど強い縄になる」と言っている。
しかし私は、この言葉の最後の部分には同意できない。習慣は断ち切れるものだからだ。習慣は、身につけることも、断ち切ることもできる。だがどちらにしても、応急処置的な手段は通用しない。強い意志を持ち、正しいプロセスを踏まなくてはならない。
アポロ一一号が月に行き、人類が初めて月面を歩き、地球に帰還した様子を、世界中の人々がテレビの前に釘づけになって見守ったものである。
あの出来事は、どんなに言葉を尽くしても言い表せない感動を与えた。
しかし宇宙飛行士たちが月に到達するためには、地球のとてつもない引力をまさに断ち切らなくてはならなかったのだ。
ロケットがリフトオフして最初の数分間、距離にして数キロ足らずの上昇に必要としたエネルギーは、その後の数日間、約七〇万キロの飛行に使ったエネルギーをはるかに上回っているのである。
習慣の引力も非常に強い。ほとんどの人が考える以上の強さである。
先送り、短気、批判、わがままなど、人間の効果性を支える基本の原則に反する癖が根づいてしまっていたら、ちょっとやそっとの意志の力ではとても断ち切れない。
生活を多少変えるだけで断ち切れるものではない。「リフトオフ」には並外れた努力が要る。
しかし引力からいったん脱出できれば、まったく新しい次元の自由を手にできるのである。すべての自然の力がそうであるように、引力はプラスにもマイナスにも働く。習慣の引力は、あなたが行きたい場所に行くのを妨げているかもしれない。
しかし引力によって私たちは地に足をつけていられるのであり、引力が惑星を軌道に乗せ、宇宙の秩序を維持しているのも事実である。
このようにとてつもない力であるからこそ、習慣の引力も効果的に使えば、人生に効果性をもたらすために必要なバランスと秩序を生み出せるのだ。
「習慣」の定義
本書では、知識、スキル、意欲の三つが交わる部分を習慣と定義したい。
まず知識は、何をするのか、なぜそれをするのかという問いに答える理論的なパラダイムである。
スキルはどうやってするのかを示し、意欲は動機であり、それをしたいという気持ちを示す。人生において効果的な習慣を身につけるには、これら三つすべてが必要である。
自分の意見を言うだけで人の話に耳を傾けなければ、同僚や家族など周りの人との関係はうまくいかないだろう。
人間関係の正しい原則の知識がなかったら、人の話を聴くことが必要だとは思いもしないかもしれない。
効果的な人間関係のためには相手の話を真剣に聴くことが大事だと知ってはいても、そのスキルを持っていないかもしれない。
人の話を深く聴くスキルがなければ、確かな人間関係は築けない。しかし、話を聴く必要性を知り、聴くスキルを持っていたとしても、それだけでは足りない。
聴きたいと思わなければ、つまり意欲がなければ、習慣として身につくことはない。習慣にするためには、知識、スキル、意欲の三つがすべて機能しなければならないのである。
自分のあり方/見方を変えることは、上向きのプロセスである。あり方を変えることによって見方が変わり、見方が変われば、さらにあり方が変わる、というように螺旋を描きながら上へ上へと成長していく。
知識、スキル、意欲に働きかけることによって、長年寄りかかっていた古いパラダイムを断ち切り、個人としての効果性、人間関係の効果性の新しいレベルに到達できる。このプロセスで痛みを感じることもあるだろう。
より高い目的を目指し、そのために目先の結果を我慢する意志がなければ、変化を遂げることはできないからだ。
しかし、このプロセスこそが、私たちの存在目的である幸福をつくり出すのである。
幸福とは、最終的に欲しい結果を手に入れるために、今すぐ欲しい結果を犠牲にすることによって得る果実に他ならない。
成長の連続体
「7つの習慣」は、断片的な行動規範を寄せ集めたものではない。
成長という自然の法則に従い、連続する段階を踏んで、個人の効果性、人間関係の効果性を高めていく統合的なアプローチである。依存から自立へ、そして相互依存へと至る「成長の連続体」を導くプロセスである。
誰しも、他者に一〇〇%依存しなければならない赤ん坊として人生を歩み出す。最初は誰かに保護され、養われ、育てられる。誰かに面倒をみてもらわなければ、数時間、長くても数日しか生きられない。
しかし年月とともに、肉体的、知的、感情的、経済的にだんだんと自立していく。やがて完全に自立し、自分のことは自分で決められる独立した人間になる。
成長し、成熟していくと、社会を含め自然界(nature)のすべては生態系という相互依存で成り立っていることに気づく。
さらには、自分自身の本質(nature)も他者との関係で成り立っており、人間の生活そのものが相互に依存し合っていることを発見する。
新生児から成人へと成長していくプロセスは自然の法則に従っている。そして成長にはさまざまな特徴がある。
たとえば、肉体的な成熟と同時に精神的あるいは知的な成熟が進むとは限らない。逆に肉体的には他者に依存していても、精神的、知的には成熟している人もいる。
成長の連続体では、依存はあなたというパラダイムを意味する。
あなたに面倒をみてほしい、あなたに結果を出してほしい、あなたが結果を出さなかった、結果が出ないのはあなたのせいだ、というパラダイムである。自立は私というパラダイムである。
私はそれができる、私の責任だ、私は自分で結果を出す、私は選択できる、ということである。
相互依存は私たちというパラダイムである。
私たちはそれができる、私たちは協力し合える、私たちがお互いの才能と能力を合わせれば、もっと素晴らしい結果を出せる、と考える。
依存状態にある人は、望む結果を得るために他者に頼らなくてはならない。自立状態にある人は、自分の力で望む結果を得られる。相互依存状態にある人は、自分の努力と他者の努力を合わせて、最大限の成功を手にする。
仮に私が身体に何らかの障害があり、肉体的に依存しているとしたら、あなたの助けが必要である。感情的に依存しているなら、私の自尊心と心の安定は、あなたが私をどう見ているかで左右される。
あなたに嫌われたら、私はひどく傷つくだろう。知的に依存しているとしたら、私の生活のさまざまな用事や問題はあなたに解決してもらわなくてはならない。
肉体的に自立していれば、私は自分で動ける。知的に自立していれば、自分で考え、抽象的な思考を具体的なレベルに置き換えて考えることができる。
クリエイティブに、また分析的に思考し、自分の考えをまとめ、わかりやすく述べることができる。
感情的に自立していれば、自分の内面で自分自身を認め、心の安定を得られる。人にどう思われようと、どう扱われようと、私の自尊心が揺らぐことはない。
自立した状態が依存よりもはるかに成熟していることは言うまでもない。自立だけでも大きな成功なのである。とはいえ、自立は最高のレベルではない。
にもかかわらず、現代社会のパラダイムは自立を王座に据えている。多くの個人、社会全般は自立を目標に掲げている。
自己啓発本のほとんどが自立を最高位に置き、コミュニケーションやチームワーク、協力は自立よりも価値がないかのような扱いである。
現代社会でこれほどまでに自立が強調されるのは、今までの依存状態への反発とも言えるのではないだろうか。
他人にコントロールされ、他人に自分を定義され、他人に使われ、操られる状態から脱したいという気持ちの現れなのである。
しかし、依存状態にいる多くの人は、相互依存の考え方をほとんど理解していないように見受けられる。
自立の名のもとに自分勝手な理屈で離婚し、子どもを見捨て、社会的責任を放棄している人も少なくない。
依存状態への反発として、人々は「足かせを捨てる、解放される」「自分を主張する」「自分らしく生きる」ことを求めるわけだが、この反発は実は、もっと根深く、逃れることのできない依存状態の現れでもある。
他者の弱さに気持ちを振り回され、あるいは他者や物事が自分の思いどおりにならないからといって被害者意識を持つなど、内的な依存心ではなく、外的な要因に依存しているからだ。
もちろん、自分が置かれている状況を変えなければならないこともある。しかし依存という問題は個人の成熟の問題であって、状況とはほとんど関係がない。
たとえ状況がよくなっても、未熟さと依存心は残るものである。真に自立すれば、周りの状況に左右されず、自分から働きかけることができる。
状況や他者に対する依存から解放されるのだから、自立は自分を解き放つ価値ある目標と言えるだろう。
しかし有意義な人生を送ろうとするなら、自立は最終目標にはならない。自立という考え方だけでは、相互依存で成り立つ現実に対応できないのである。
自立していても、相互依存的に考え行動できるまで成熟していなければ、個人としては有能であっても、良いリーダーやチームプレーヤーにはなれない。
夫婦、家族、組織という現実の中で成功するには、相互依存のパラダイムを持たなくてはならないからである。
人生とは、本質的にきわめて相互依存的である。
自立だけで最大限の効果を得ようとするのは、たとえるならゴルフクラブでテニスをするようなものだ。道具が現実に適していないのである。
相互依存は自立よりもはるかに成熟した状態であり、高度な概念である。
肉体的に他者と力を合わせることができる人は、自分の力で結果を出せるのは言うまでもないが、他者と協力すれば、自分一人で出す最高の結果をはるかに上回る結果を出せることを知っている。
感情的に相互依存の状態にある人は、自分の内面で自分の価値を強く感じられると同時に、他者を愛し、与え、他者からの愛を受け止める必要性を認識している。
知的に相互依存の状態にあれば、他者の優れたアイデアと自分のアイデアを結びつけることができる。
相互依存の段階に達した人は、他者と深く有意義な関係を築き、他の人々が持つ莫大な能力と可能性を生かすことができる。
相互依存は、自立した人間になって初めて選択できる段階である。依存状態からいきなり相互依存の段階に達しようとしても無理である。
相互依存できる人格ができていないからだ。自己を十分に確立していないのだ。そのため、以降の章で取り上げる第1、第2、第3の習慣は自制をテーマにしている。
これらは依存から自立へと成長するための習慣である。人格の成長に不可欠な私的成功をもたらす習慣である。まず私的成功が公的成功に先立つのだ。
種を蒔かなければ収穫できないのと同じで、私的成功と公的成功の順序を逆にすることはできない。あくまでもインサイド・アウト、内から外へ、である。
真に自立した人間になれば、効果的な相互依存の土台ができる。この人格の土台の上に、個々人の個性を生かしたチームワーク、協力、コミュニケーションの公的成功を築いていく。
これは第4、第5、第6の習慣になる。
第1、第2、第3の習慣を完璧に身につけなければ、第4、第5、第6の習慣に取り組めないわけではない。
順序がわかっていれば、自分なりに効果的に成長することができるのであり、なにも第1、第2、第3の習慣を完璧にするまで何年も山にこもって修行しなさいと言っているのではない。
人間は相互依存で成り立つ世界で生きている以上、世の中の人々や出来事と無関係ではいられない。ところが、この世界のさまざまな急性の問題は、人格に関わる慢性的な問題を見えにくくする。
自分のあり方が相互依存の関係にどのような影響を与えているのかを理解すれば、成長という自然の法則に従って、人格を育てる努力を適切な順序で続けていけるだろう。
第7の習慣は、再新再生の習慣である。
人間を構成する四つの側面をバランスよく日常的に再生させるための習慣であり、他のすべての習慣を取り囲んでいる。
成長という上向きの螺旋を生み出す継続的改善であり、この螺旋を昇っていくにつれ、第1から第6までの習慣をより高い次元で理解し、実践できるようになる。
五二ページの図は、「7つの習慣」の順序と相互関係を表したものである。
それぞれの習慣の相互関係から相乗効果が生まれ、それぞれの習慣の価値がさらに高まることを具体的に解説するために、本書を通してこの図をたびたび参照する。
各習慣の章の冒頭でも、該当する習慣を強調して表示する。
効果性の定義
「7つの習慣」は、効果性を高めるための習慣である。原則を基礎としているので、最大限の効果が長期にわたって得られる。
個人の人格の土台となる習慣であり、問題を効果的に解決し、機会を最大限に生かし、成長の螺旋を昇っていくプロセスで他の原則を継続的に学び、生活に取り入れていくための正しい地図(パラダイム)の中心点を与えてくれる。
これらが効果性を高める習慣であるのは、自然の法則に従った効果性のパラダイムに基づいているからでもある。
私はこれを「P/PCバランス」と呼んでいるが、多くの人が自然の法則に反して行動しているのではないだろうか。
自然の法則に反するとどうなるか、『ガチョウと黄金の卵』というイソップの寓話で考えてみよう。
貧しい農夫がある日、飼っていたガチョウの巣の中にキラキラと輝く黄金の卵を見つけた。
最初は誰かのいたずらに違いないと思い、捨てようとしたが、思い直して市場に持っていくことにした。すると卵は本物の純金だった。農夫はこの幸運が信じられなかった。
翌日も同じことが起き、ますます驚いた。農夫は、来る日も来る日も目を覚ますと巣に走っていき、黄金の卵を見つけた。彼は大金持ちになった。まるで夢のようだった。
しかしそのうち欲が出て、せっかちになっていった。
一日一個しか手に入らないのがじれったく、ガチョウを殺して腹の中にある卵を全部一度に手に入れようとした。
ところが腹をさいてみると空っぽだった。黄金の卵は一つもなかった。しかも黄金の卵を生むガチョウを殺してしまったのだから、もう二度と卵は手に入ることはなかった。
この寓話は、一つの自然の法則、すなわち原則を教えている。
それは効果性とは何かということである。
ほとんどの人は黄金の卵のことだけを考え、より多くのことを生み出すことができるほど、自分を「効果的」、有能だと思ってしまう。この寓話からもわかるように、真の効果性は二つの要素で成り立っている。
一つは成果(黄金の卵)、二つ目は、その成果を生み出すための資産あるいは能力(ガチョウ)である。
黄金の卵だけに目を向け、ガチョウを無視するような生活を送っていたら、黄金の卵を生む資産はたちまちなくなってしまう。
逆にガチョウの世話ばかりして黄金の卵のことなど眼中になければ、自分もガチョウも食い詰めることになる。この二つのバランスがとれて初めて効果的なのである。
このバランスを私はP/PCバランスと名づけている。
Pは成果(Production)、すなわち望む結果を意味し、PCは成果を生み出す能力(ProductionCapability)を意味する。
三つの資産とは
資産は基本的に三種類ある。物的資産、金銭的資産、人的資産である。一つずつ詳しく考えてみよう。
数年前、私はある物的資産を購入した。電動芝刈機である。そして、手入れはまったくせずに何度も使用した。
最初の二年間は問題なく動いたが、その後たびたび故障するようになった。そこで修理し、刃を研いでみたが、出力が元の半分になっていた。価値はほとんどなくなっていたのである。
もし資産(PC)の保全に投資していたら、芝を刈るという成果(P)を今も達成できていただろう。
そうしなかったばっかりに、新しい芝刈機を買うはめになり、メンテナンスにかかる時間と金をはるかに上回るコストがかかる結果となった。
私たちは、目先の利益、すぐに得られる結果を求めるあまり、自動車やコンピューター、洗濯機、乾燥機等の価値ある物的資産を台無しにしてしまうことが少なくない。
自分の身体や自然環境を損なってしまうことすらある。PとPCのバランスがとれていれば、物的資産の活用の効果性は著しく向上する。
P/PCバランスは、金銭的資産の活用にも大きく影響する。
元金と利息の関係を例にするなら、金の卵を増やして生活を豊かにしようとして元金に手をつければ、元金が減り、したがって利息も減る。元金はだんだんと縮小していき、やがて生活の最小限のニーズさえ満たせなくなる。
私たちのもっとも重要な金銭的資産は、収入を得るための能力(PC)である。
自分のPCの向上に投資しなければ、収入を得る手段の選択肢はずいぶんと狭まってしまう。
クビになったら経済的に困るから、会社や上司に何を言われるかとびくびくして保身だけを考え、現状から出られずに生きるのは、とても効果的な生き方とは言えない。
人的資産においてもP/PCバランスは同じように基本だが、人間が物的資産と金銭的資産をコントロールするのだから、その意味ではもっともバランスが重要になる。
たとえば、夫婦がお互いの関係を維持するための努力はせず、相手にしてほしいこと(黄金の卵)ばかりを要求していたら、相手を思いやる気持ちはなくなり、深い人間関係に不可欠なさりげない親切や気配りをおろそかにすることになるだろう。
相手を操ろうとし、自分のニーズだけを優先し、自分の意見を正当化し、相手のあら探しをし始める。愛情や豊かさ、優しさ、思いやり、相手のために何かしてあげようという気持ちは薄れていく。
ガチョウは日に日に弱っていくのである。親と子の関係はどうだろうか。幼い子どもは他者に依存しなければならず、非常に弱い存在である。
ところが親は、躾、親子のコミュニケーション、子どもの話に耳を傾けるなど、子どもの能力(PC)を育てる努力をややもすると怠ってしまう。
親が優位に立って子どもを操り、自分の思いどおりにやらせるほうが簡単だからである。親である自分のほうが身体は大きいし、何でも知っているし、そもそも正しいのだから、子どもに指図して当然なのだという態度である。
必要ならば怒鳴りつけ、脅してでもやらせればよいと考えてしまう。それとは逆に甘やかすこともある。
子どもに好かれるという黄金の卵がほしくて、いつでも子どもの言いなりになり、子どもを喜ばせようとする。
しかしそれでは規範を守る意識が育たず、目標に向かって努力することができず、自制心や責任感のない大人になってしまう。厳しくするにせよ、甘やかすにしろ、親は頭の中で黄金の卵を求めている。
子どもを自分の思いどおりにするという黄金の卵、あるいは子どもに好かれたいという黄金の卵だ。だがその結果、ガチョウ──子ども自身──はどうなるだろう。
この先、責任感、自制心、正しい選択をする判断力や重要な目標を達成できる自信は育つだろうか。親子関係はどうなるだろう。
子どもが一〇代になり、大人になる重要な過渡期を迎えたとき、それまでの親子関係から、自分を一人前の人間として扱い、真剣に話を聴いてくれる親だと思うだろうか。何があっても信頼できる親だと思えるだろうか。
あなたはそれまでに、子どもと心を通わせて真のコミュニケーションをとり、子どもに良い影響を与えられる親子関係を築いているだろうか。
たとえば、あなたは散らかり放題の娘の部屋が気になっているとしよう。娘の部屋がきれいになることがP(成果)、すなわち黄金の卵である。そしてあなたとしては、本人が掃除することを望んでいる。
となれば娘が自分で掃除することがPC(成果を生み出す能力)である。あなたの娘は、ガチョウと同じように黄金の卵を生む資産なのである。
PとPCのバランスがとれていれば、娘は掃除することを約束し、約束を守る自制心があるのだから、いちいちあなたに言われなくても機嫌よく部屋を掃除する。
娘は貴重な資産であり、黄金の卵を生むガチョウということができる。
しかし、あなたがP(きれいな部屋)だけしか考えていなければ、部屋を掃除しろと口やかましく言って娘をうんざりさせるだろう。
娘がすぐに言うことを聞かないと、怒鳴り、叱りつけることだろう。
かくして、黄金の卵が欲しいばっかりに、ガチョウの健康(娘の健全な成長)を損ねる結果となってしまうのだ。ここで、私のPC体験談を読んでいただきたい。
私の大の楽しみの一つは、子どもたちと順繰りに行うデートである。誰しもデートの予定があるだけでうれしいものである。その日は、娘の一人とデートすることになっていた。私はうきうきして娘に言った。
「今夜はおまえとデートする番だよ。何をしたい?」「そうだね、わかってる」と娘。「そうじゃなくて、何をしたいかって聞いているんだよ」と私。
「そうだなあ、あたしのしたいことはお父さんは好きじゃないと思うよ」と娘は言う。
「言ってごらん。おまえがしたいことなら、何だっていいんだから」私は元気よく言った。
「スターウォーズを観に行きたいの。でもお父さんは嫌いなんじゃないかな。前に行ったとき、ずっと寝てたじゃない。ああいうファンタジー映画はお父さんの趣味じゃないのよね」と娘は言う。
「そんなことないさ。おまえがその映画を観たいなら、一緒に行くよ」「無理しなくていいよ。なにも必ずデートしなきゃいけないわけじゃないんだし」と娘は言い、少し間をおいてから続けた。
「でもね、お父さんがスターウォーズを好きになれない理由、自分でわかってる?ジェダイの騎士の哲学と鍛錬を知らないからだよ」「は?」「ジェダイの騎士の鍛錬ってね、お父さんが教えているのと同じことをしているんだよ」「ほんとか?スターウォーズを観に行こう!」こうして私と娘は映画を観に行った。
娘は私の隣に座り、私にパラダイムを授けてくれたのだ。私は生徒となり、娘から学んだ。とても素晴らしい経験だった。
娘から教えられた新しいパラダイムのおかげで、ジェダイの騎士になるための鍛錬の基本哲学がさまざまな場面に現れていることがわかってきた。
これはあらかじめ計画したP体験ではなく、PC投資の予期せぬ果実だった。娘との絆を強める非常に価値あるものだった。そして、二人で黄金の卵も手にできた。親子関係というガチョウにエサをたっぷり与えたからである。
組織の成果を生み出す能力
正しい原則の大きな価値の一つは、あらゆる状況に当てはめられ、応用できることである。
個人だけでなく家庭や組織にもこれらの原則を応用できる例をこの本の随所で紹介したいと思う。
組織の中でP/PCバランスを考えずに物的資産を使うと、組織の効果性が低下し、死にかけたガチョウを後任に渡すことになる。
たとえば、機械などの物的資産を管理している社員が、上司の受けを良くすることだけを考えているとしよう。この会社は急成長を遂げていて、昇進の機会も多い。そこで彼は生産性を最大限に上げようとする。
メンテナンスのために機械を停止することはなく、昼夜を問わずフル稼働だ。生産高はぐんぐん伸び、コストは下がり、利益は急増する。あっという間に彼は昇進した。黄金の卵を手にしたわけである。
ところが、あなたが彼の後任についたと考えてみてほしい。あなたは息もたえだえのガチョウを受け継いだのである。機械はすっかり錆びつき、あちこちガタがきている。メンテナンスのコストがかさみ、利益は激減。黄金の卵は生まれない。その責任は誰がとるのだろうか。あなたである。
あなたの前任者は資産を消滅させたも同然なのだが、会計システムには、生産高、コスト、利益しか計上されないからである。
P/PCバランスは、顧客や社員など組織の人的資産においてはとりわけ重要である。
あるレストランの話をしよう。そこのクラムチャウダーは絶品で、ランチタイムは毎日満席になった。しばらくしてレストランは売却された。
新しいオーナーは黄金の卵しか眼中になく、チャウダーの具を減らして出すことにした。最初の一ヵ月は、コストは下がり売上は変わらなかったから、利益は増えた。ところが徐々に顧客が離れていった。評判が落ち、売上は減る一方だった。
新しいオーナーは挽回しようと必死だったが、顧客の信頼を裏切ったツケは大きかった。固定客という資産を失ってしまったのである。黄金の卵を生むガチョウがいなくなったのだ。
顧客第一を掲げながら、顧客に接するスタッフのことはまるでないがしろにしている企業は少なくない。
スタッフはPCであり、会社は大切な顧客に望む接客態度でスタッフに接することが原則である。人手はお金で雇えるが、人の心までは買えない。熱意と忠誠心は、心の中に宿るものである。
労働力は買えても、頭の中までは買えない。創造力、創意工夫、機知は頭の中に宿るのだ。
PC活動とは、大切な顧客に自発的に接する態度と同様に、スタッフに対しても自発的に接することである。
それによって、スタッフは自発的に行動でき、自分の心と頭の中にある最高のものを提供することができるのだ。あるグループディスカッションでの一幕である。
「やる気も能力もない社員をどうやって鍛え直せばいいんだろう」と一人が質問した。「手りゅう弾でも投げつけてやればいい」ある経営者が勇ましく答えた。
グループの何人かは、この「やる気を出せ、さもなくば去れ」式の発言に拍手した。ところが別の一人が「それで辞めたらどうします?」と質問した。
「辞めやしないよ」と勇ましい経営者は答えた。
「それなら、お客さんにも同じようにしたらどうです?買う気がないなら、とっとと出てけ、と言えばいいじゃないですか」「客には言えないよ」「ではなぜスタッフにはできるんですか?」「こっちが雇っているからだよ」「なるほど。それでお宅のスタッフの忠誠心はどうですか?離職率は低いですか?」「冗談じゃない。今どきいい人材なんか見つかるもんか。離職率も欠勤率も高いし、副業もやり放題だよ。忠誠心なんかありゃしない」
このような態度、黄金の卵オンリーのパラダイムでは、スタッフの頭と心の中から最大限の力を引き出すのは無理である。
当面の利益を確保するのはもちろん大切だが、それは最優先すべきものではない。効果性の鍵はバランスにある。Pだけを追求したら、ガチョウの健康を害する。機械がだめになり、資金が枯渇し、顧客や社員との関係が壊れる。
逆にPCに力を入れすぎるのは、寿命が一〇年延びるからといって毎日三~四時間もジョギングするようなもので、延びた寿命の一〇年間をジョギングに費やす計算になることには気づいていない。
あるいは延々と大学に通うような人もいる。仕事はせず、他の人たちの黄金の卵で生活する永遠の学生シンドロームである。
P/PCバランスを維持するには、黄金の卵とガチョウの健康のバランスを見極める高い判断力が要る。それこそが効果性の本質であると言いたい。
短期と長期のバランスをとることであり、良い成績をとろうという意欲とまじめに授業を受けるバランスをとることである。
部屋をきれいにしてほしいと思う気持ちと、言われなくとも進んで掃除できる自主性のある子どもに育つように親子関係を築くことのバランスをとることなのである。
この原則は、誰でも生活の中で実際に体験しているはずである。
黄金の卵をもっと手に入れようと朝から晩まで働きづめの日が続き、疲れ果てて体調を崩し、仕事を休むはめになることもあるだろう。
十分な睡眠をとれば、一日中元気よく働ける。自分の意見をごり押しすれば、お互いの関係にヒビが入ったように感じるだろう。
しかし時間をかけて関係の改善に努めれば、協力し合おうという気持ちが生まれ、実際に協力し、コミュニケーションが円滑になり、関係が飛躍的に良くなるものである。
このようにP/PCバランスは、効果性に不可欠なものであり、生活のあらゆる場面で実証されている。
私たちはこのバランスに従うことも、反することもできる。どちらにしても、原則は存在する。それはまさに灯台である。「7つの習慣」の土台となる効果性の定義とパラダイムなのである。
この本の活用方法
「7つの習慣」を一つずつ見ていく前に、二つのパラダイムシフトを提案したい。この本から得る価値を最大限に高めるためにも、以下に提案するパラダイムシフトをぜひ実践してほしい。
まず、この本は一度目を通したら本棚にしまい込んでおくようなものではないと考えてほしい。もちろん、一度最初から最後まで通読し、全体を把握するのはよいことだ。
しかしこの本を、変化と成長の継続的なプロセスを通して手元に置き、折に触れて読み返し、参考にしてほしい。
段階的な構成になっており、各習慣の章の最後に応用方法のアイデアを用意してあるので、それぞれの習慣が理解できたら、集中的に練習し身につけることができる。
理解が深まり、習慣が身についてきたら、再度習慣の原則に立ち戻ってほしい。知識を広め、スキルを伸ばし、意欲を高められる。
第二に、この本との関係を生徒(教わる側)から教師(教える側)に転換することを勧めたい。
インサイド・アウトのアプローチにならって、学んだことを二日以内に他の人に教えることを前提として読んでほしい。
たとえば、P/PCバランスの原則を誰かに教えるつもりで読むとしたら、読み方も変わるのではないだろうか。この章の最後を読むときに、早速試してみてほしい。
今日か明日、まだ記憶が鮮明なうちに、配偶者、子ども、同僚、友人に教えるつもりで読み進めると、理解の度合いや感じ方も違ってくるだろう。
このようなアプローチで以降の章を読むと、内容をよく覚えられるだけでなく、視野も広がり、理解が深まり、学んだことを実践してみようという意欲が湧いてくるはずだ。
さらに、この本で学んだことを素直な気持ちで教えたら、あなたに貼られていた否定的なレッテルが消えていくことに驚きを感じるだろう。
教わった人は、あなたの変化と成長を目にし、「7つの習慣」を生活に取り入れ身につけようとするあなたの努力を支え、協力してくれるようになるだろう。
この本がもたらしてくれること
マリリン・ファーガソン(訳注:米国の社会心理学者)の次の言葉がすべてを言い表していると思う。
「説得されても人は変わるものではない。誰もが変化の扉を固くガードしており、それは内側からしか開けられない。説得によっても、感情に訴えても、他人の扉を外から開けることはできない」
あなたが自分の「変化の扉」を開き、「7つの習慣」に込められた原則を深く理解し、実践する決心をするならば、いくつかの素晴らしい成果を約束できる。
まず、あなたは段階を踏みながら進化的に成長していくが、その効果は飛躍的なものになる。
P/PCバランスの原則だけでも、それを実践すれば、個人にも組織にも大きな変化をもたらすことに疑問の余地はないはずだ。
第1、第2、第3の習慣(私的成功の習慣)に対して「変化の扉」を開くことによって、あなたの自信は目に見えて増すだろう。
自分自身を深く知り、自分の本質、内面の奥深くにある価値観、自分にしかできない貢献にはっきりと気づくだろう。
自分の価値観に従って生活すれば、あるべき自分を意識し、誠実、自制心、内面から導かれる感覚を得て、充実し平安な気持ちに満たされる。
他者の意見や他者との比較からではなく、自分の内面から自分自身を定義できる。正しいか間違っているかは他者が決めるのではなく、自分で判断できるようになるのである。
逆説的だが、周りからどう見られているかが気にならなくなると、他者の考えや世界観、彼らとの関係を大切にできるようになる。他者の弱さに感情を振り回されることがなくなる。
さらに、自分の心の奥底に揺るぎない核ができるからこそ、自分を変えようという意欲が生まれ、実際に変わることができるのである。
さらに第4、第5、第6の習慣(公的成功の習慣)に対して「変化の扉」を開けば、うまくいかなくなっていた大切な人間関係を癒し、築き直す意欲が生まれ、そのための力を解き放つことができるだろう。
うまくいっている人間関係はいっそう良くなり、さらに深く堅固で、創造的な関係に発展し、新たな冒険に満ちたものになるだろう。
そして最後の第7の習慣を身につけることによって、それまでの六つの習慣を再新再生して磨きをかけ、真の自立、効果的な相互依存を実現できるようになる。
第7の習慣は、自分自身を充電する習慣である。あなたが今どんな状況に置かれていようと、習慣を変えることはできる。
それまでの自滅的な行動パターンを捨て、新しいパターン、効果性、幸福、信頼を土台とする関係を生み出す新たなパターンを身につけることができるのだ。
「7つの習慣」を学ぶとき、あなたの変化と成長の扉をぜひ開けてほしい。忍耐強く取り組んでほしい。自分を成長させるのは平たんな道のりではないが、それは至高に通じる道である。
これに優る投資が他にあるだろうか。これは明らかに応急処置ではない。だが、必ず成果を実感でき、日々励みになるような成果をも見ることができる。
ここでトーマス・ペイン(訳注:米国の社会哲学・政治哲学者)の言葉を引用しよう。
「なんなく手に入るものに人は価値を感じない。あらゆるものの価値は愛着がもたらすものなのだ。ものの適切な対価は、誰にもつけられないのだ」
コメント