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第一章 「バカの壁」とは何か

バカの壁養老孟司

まえがき これは私の話を、新潮社の編集部の人たちが文章化してくれた本です。対談や講演を文章化するのは、よくやることです。でも独白を続けて、それを文章にしてもらったのは、じつはこれがはじめてです。話している間は、なんとなく警察の取調べを受けているような感じもしましたが、内容はたしかに自分が話したことです。それを他人に文章化してもらうと、こうなるのか、とあらためて思いました。自分の文章ともいえるし、他人の文章のようでもある。これが奇妙な効果を生じているように感じます。いってみれば、この本は私にとって一種の実験なのです。 題名の「バカの壁」は、私が最初に書いた本である『形を読む』(培風館)からとったものです。二十年も前に書いた本ですから、そのときはずいぶん極端な表現だと思われたようです。結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。そういうつもりで述べたことです。 若い頃に、家庭教師で数学を教えたことがあります。数学くらい、わかる、わからないがはっきりする学問はありません。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。わかる人でも、あるところまで進むと、わからなくなります。もちろん一生をかければわかるかもしれないのですが、人生は限られています。だからどこかで理解を諦める。もちろんそうしない人は、専門の数学者になるでしょう。しかしそれでも、数学のすべてを理解するわけではない。それを考えれば、だれでも「バカの壁」という表現はわかるはずだと思っています。 あるていど歳をとれば、人にはわからないことがあると思うのは、当然のことです。しかし若いうちは可能性がありますから、自分にわからないかどうか、それがわからない。だからいろいろ悩むわけです。そのときに「バカの壁」はだれにでもあるのだということを思い出してもらえば、ひょっとすると気が楽になって、逆にわかるようになるかもしれません。そのわかり方は、世間の人が正解というのと、違うわかり方かもしれないけれど、もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。でも多くの人は、反対に考えているようですね。ほとんどの人の意見が一致している社会がいい社会だ、と。 若い人もそうかもしれない。なぜなら試験に正解のない問題を出したりすると、怒るからです。人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。とりあえずの答えがあるだけです。私はそう思っています。でもいまの学校で学ぶと、一つの問題に正解が一つというのが当然になってしまいます。本当にそうか、よく考えてもらいたい。 この本の中身も、世間のいう正解とは違った解をいくつも挙げていると思います。でもこの本の中身のように考えながら、ともかく私は還暦を過ぎるまで生きてきました。だからそういう答えもあるのかと思っていただければ、それで著者としては幸福です。もちろん皆さんの答えがまた私の答えとは違ったものであることを期待しているのです。

バカの壁──目次

まえがき

第一章 「バカの壁」とは何か

「話せばわかる」は大嘘「わかっている」という怖さ知識と常識は違う現実とは何か NHKは神か科学の怪しさ科学には反証が必要確実なこととは何か

第一章 「バカの壁」とは何か「話せばわかる」は大嘘「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。イギリスの BBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。 薬学部というのは、女子が六割強と、女子の方が多い。そういう場で、この番組の感想を学生に求めた結果が、非常に面白かった。男子学生と女子学生とで、はっきりと異なる反応が出たのです。 ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。 これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですから、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差は無い。だとしたら、どこからこの違いが生じるのか。 その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。 つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。 このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手さを示しています。同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て「新しい発見をした」と言う。明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって「そんなの知ってましたよ」と言っているだけなのです。 私たちが日頃、安易に「知っている」ということの実態は、実はそんな程度なのだということです。ビデオを見た際の男女の反応の差というのはかっこうの例でしょう。「わかっている」という怖さ「常識」 =「コモンセンス」というのは、「物を知っている」つまり知識がある、ということではなく、「当たり前」のことを指す。ところが、その前提となる常識、当たり前のことについてのスタンスがずれているのに、「自分たちは知っている」と思ってしまうのが、そもそもの間違いなのです。この場合、それが男女の違いに顕著に現れた。 女の子はいずれ自分たちが出産することもあると思っているから、真剣に細部までビデオを見る。自分の身に置き換えてみれば、そこで登場する妊婦の痛みや喜びといった感情も伝わってくるでしょう。従って、様々なディテールにも興味が湧きます。一方で男たちは「そんなの知らんよ」という態度です。彼らにとっては、目の前の映像は、これまでの知識をなぞったものに過ぎない。本当は、色々と知らない場面、情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。 本当は何もわかっていないのに「わかっている」と思い込んで言うあたりが、怖いところです。知識と常識は違う このように安易に「わかっている」と思える学生は、また安易に「先生、説明して下さい」と言いに来ます。しかし、物事は言葉で説明してわかることばかりではない。いつも言っているのですが、教えていて一番困るのが「説明して下さい」と言ってくる学生です。 もちろん、私は言葉による説明、コミュニケーションを否定するわけではない。しかし、それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、というのがわかっていない。そこがわかっていないから、「聞けばわかる」「話せばわかる」と思っているのです。 そんな学生に対して、私は、「簡単に説明しろって言うけれども、じゃあ、お前、例えば陣痛の痛みを口で説明することが出来るのか」と言ってみたりもします。もちろん、女性ならば陣痛を体感できますが、男性には出来ない。しかし、それでも出産を実際に間近に見れば、その痛みが何となくはわかる。少なくとも医学書だの保健の教科書だのの活字のみでわかったような気になるよりは、何かが伝わって来るはずです。 何でも簡単に「説明」さえすれば全てがわかるように思うのはどこかおかしい、ということがわかっていない。 この例に限らず、説明したからってわかることばかりじゃない、というのが今の若い人にはわからない。「ビデオを見たからわかる」「一生懸命サッカーを見たからサッカーがどういうものかがわかる」……。わかるというのはそういうものではない、ということがわかってない。 ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は、〝常識〟を〝雑学〟のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがあります。私は、「そうだよ、その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得たりというところでした。 日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。出産ビデオの例でも、男たちは保健体育で雑学をとっくに仕込んでいるから、という理由だけで、「わかっている」と思い込んでいた。その延長線上から、「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもらえるはずだ」といった勘違いが生じてしまうのも無理はありません。現実とは何か もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、「そもそも現実とは何か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなのか、ということです。ところが、誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはいない。 たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というものも極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしょう。 世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の小説『藪の中』や黒澤明監督の『羅生門』のテーマだった。同じ事件を見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主題です。まさに現実は「藪の中」なのです。 ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。

だから、テレビで見たというだけで、二 ○ ○一年九月十一日にニューヨークで何が起こったか、「知っている」「わかっている」と思ってしまう。実際にはテレビの画面を通して、飛行機が二棟の高層ビルに突撃し、その結果ビルが崩壊していったシーンを見ていただけです。その後、ニュースではテロの背景についての解説も繰り返されました。 しかし、テレビや新聞を通して一定の情報を得ただけの私たちにはわかりようもないことが沢山あるはずです。その場にいた人の感覚、恐怖だって、テレビ経由のそれとはまったく違う。にもかかわらず、ニュースを見ただけで、あの日に起きた出来事について何事かがわかったかのような気でいる。そこに怖さがあるのです。 現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。 実際には、そうではありません。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教は、現実というものは極めてあやふやである、という前提の下で成立したものだと私は思っています。 つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でひとりだけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼らは科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追求出来るのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。 ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖が無い。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いです。 NHKは神か 私自身は、「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。なぜなら、突き詰めていけば、そんなことは誰にも確かめられないのですから。今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らぬままに、そんなものが存在する、と信じている人が非常に多いことなのです。 ちなみに、その代表が NHKである、というのが私の持論です。 NHKの報道は「公平・客観・中立」がモットーである、と堂々と唱えています。「ありえない。どうしてそんなこと言えるんだ。お前は神様か」と言いたくもなってしまう。まあ神様とまでは言わなくても、「あなたは、イスラム教徒かキリスト教徒かユダヤ教徒なのか。そうじゃないのならば、どうしてそんな〝正しさ〟を簡単に平気で主張できるのか」と聞きたくなってしまいます。 こうした「正しさ」を安易に信じる姿勢があるというのは、実は非常に怖いことなのです。現実はそう簡単にわかるものではない、という前提を真剣に考えることなく、ただ自分は「客観的である」と信じている。 だから政治家の汚職問題、たとえば鈴木宗男氏の疑惑が生じれば、「とにかくあれは悪いヤツだ。以上。終わり」で結論付け、断罪して報道する。そこには、明らかに一種の思考停止が起こっているのですが、本人たちにはその自覚がないわけです。 ピーター・バラカン氏が言うところの「常識と雑学を混同している」とは、こういう状況を指しているのです。膨大な「雑学」の類の知識を羅列したところで、それによって「常識」という大きな世界が構成できるわけではない。しかし、往々にして人はそれを取り違えがちです。 では常識、コモンセンスとはどういうことでしょうか。十六世紀のフランスの思想家、モンテーニュが語っていた常識とは、簡単にいえば「誰が考えてもそうでしょ」ということです。それが絶対的な真実かどうかはともかくとして、「人間なら普通こうでしょ」ということは言えるはずだ、と。 モンテーニュは「こっちの世界なら当たり前でも向こうの世界ならそうじゃないことがある」ということを知っている人だった。もちろん「客観的事実」などを盲目的に信じてはいない。それが常識を知っているということなのです。科学の怪しさ ここで勘違いされやすいのが、「科学」についての考え方です。「そうはいうけど、科学の世界なら絶対があるはずでしょう」と思われるかもしれません。 実際、統計をとったわけではないのですが、科学者のおそらく九割近くは「事実は科学の中に存在する」と信じているのではないかと思います。一般の人となると、もっと科学を絶対的だと信じているかもしれません。しかし、そんなことはまったく無い。 例えば、最近では地球温暖化の原因は炭酸ガスの増加だ、というのがあたかも「科学的事実」であるかのように言われています。この説を科学者はもちろん、官公庁も既に確定した事実のようにして、議論を進めている。ところが、これは単に一つの説に過ぎない。 温暖化でいえば、事実として言えるのは、近年、地球の平均気温が年々上昇している、ということです。炭酸ガスの増加云々というのは、あくまでもこの温暖化の原因を説明する一つの推論に過ぎない。 ちなみに、温度が上昇していることも、それ自体は事実ですが、では昔からどんどん右肩上がりで上昇しているかというと確定は出来ないわけで、もしかすると現在は上下する波の中の上昇の部分にあたっているだけかもしれない。 最近、私は林野庁と環境省の懇談会に出席しました。そこでは、日本が京都議定書を実行するにあたっての方策、予算を獲得して、林に手を入れていくこと等々が話し合われた。そこで出された答申の書き出しは、「 C 増加による地球温暖化によって次のようなことが起こる」となっていました。私は「これは〝 C 増加によると推測される〟という風に書き直して下さい」と注文をつけた。するとたちまち官僚から反論があった。「国際会議で世界の科学者の八割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。しかし、科学は多数決ではないのです。「あなたがそう考えることが私は心配だ」と私は言いました。おそらく、行政がこんなに大規模に一つの科学的推論を採用して、それに基づいて何かをする、というのはこれが初めてではないかと思う。その際に、後で実はその推論が間違っていたとなった時に、非常に問題が起こる可能性があるからです。 特に官庁というのは、一度何かを採択するとそれを頑として変えない性質を持っているところです。だから簡単に「科学的推論」を真理だと決め付けてしまうのは怖い。「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。温暖化でいえば、気温が上がっている、というところまでが科学的事実。その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的推論。複雑系の考え方でいけば、そもそもこんな単純な推論が可能なのかということにも疑問がある。しかし、この事実と推論とを混同している人が多い。厳密に言えば、「事実」ですら一つの解釈であることがあるのですが。科学には反証が必要 ウィーンの科学哲学者カール・ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べています。一般的に、これを「反証主義」と呼んでいます。 例えば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、それに合致するデータをいっぱい集めてくるだけでは意味が無い、ということ

です。「全ての白鳥は白い」ということを証明するために、たくさんの白鳥を発見しても意味は無い。「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証に晒されて、生き残るものこそが科学的理論だ、ということです。 つまり、真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」それが絶対的な真実であると考えることではなく、そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢です。 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。 いかに合理的な説明だとしても、それは結果に過ぎないわけで、実際に「生き残らなかった者」が環境に不適合だったかどうかの比較は出来ない。 ポパーが最も良い例としてあげたのは、アインシュタインの特殊相対性理論についての反証でした。この理論が実験的に検証出来るかどうかを彼は考えた。「空間が曲がっている」というアインシュタインの説は正しいのかどうか。 この検証として、具体的には日蝕の時に、星の位置を観測した人がいる。すると実際には太陽に隠れて見えないはずの星まで観測することが出来る。つまり光が曲がって伝わって来ている。それは空間が曲がっている、ということの証明になる。だから、とポパーはいいます。わずか一つのことに賭けられることの大きい理論ほど、よい理論である、と。確実なこととは何か このような物言いは誤解を生じやすく、「それじゃあ何も当てにならないじゃないか」と言う人が出てくる。しかし、それこそ乱暴な話で、まったく科学的ではない。 そもそも私は「確実なことなんか何一つ無い」などとは言っていない。常に私たちは「確実なこと」を探しつづけているわけです。だからこそ疑ったり、検証したりしている。その過程を全部飛ばして「確実なことは無い」というのは言葉遊びのようなものです。「確実なことは何も無いじゃないか」と言っている人だって、実際には今晩帰宅した時に、自分の家が消え去っているなんてことは夢にも思っていない。本当は火事で全焼している可能性だって無い訳ではないのですが。全ては蓋然性の問題に過ぎないのです。「もう何も信じられない」などと頭を抱えてしまう必要は無いのです。そういう不安定な状態から人は時にカルト宗教に走ったりもする。 別に「全てが不確かだ。だから何も信じるな」と言っているわけではないのです。温暖化の理由が炭酸ガスである可能性は高い、と考えていてよい。毎日の天気予報では、「降水確率六 ○%」という表現がされていて、それを普通に誰もが受け止めています。それと同じで、「八 ○%の確率で炭酸ガスと思える」という結論を持てばよい。 ただし、それは推測であって、真理ではない、ということが大切なのです。なぜこの点にこだわるかといえば、温暖化の問題の他にも、今後、行政に科学そのものが関っていくことが多くなる可能性がある。その時に科学を絶対的なものだという風に盲信すると危ない結果を招く危険性があるからです。 付け加えれば、科学はイデオロギーでもありません。イデオロギーは常にその内部では一 ○ ○%ですが、科学がそうである必要はないのです。

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