まえがき
「人格の哲学」と題したこの書物の目標は、ごくささやかなものであると同時に、無謀と評されてもおかしくないほど大胆で遠大なものと言えるかもしれない。
「ささやか」というのは本書に収めた六つの論文を大学紀要に寄稿したときに、著者が直接に意図していたことに照らし合わせてであり、それは「人格とは何か」という問いを、古代以来の「人格」概念の長い歴史に目をくばりながら、できるかぎり徹底的に問うことを試みよう、というものであった。
他方、「無謀なほど大胆で遠大」というのは、この試みに関わっている間に次第にはっきりと自覚されてきたことに照らしてであり、それは前述の問いを有効に推し進めようとする者が必ず直面し、取り組まざるをえない課題の大きさと困難さに気付いたときに私の心に浮かんだ思いである。
それというのも、「人格とは何か」という問いが真実に問いとなり、真の探究として成立するためには、すくなくとも次の二つの学問的課題と取り組み、或る程度の成果をあげることが必要である、と私には思われたからである。
それらはいずれも、中世後期に哲学が神学から自らの探究を切り離して独り歩きを始めたことによって哲学の領域から姿を消し始め、今ではほとんど「未知の国」になってしまったものである。
その一つは、心理学的な内観や自己意識の分析ではなく、哲学的な自己認識の遂行を通じて構築されるべき精神の形而上学であり、もう一つはわれわれがこんにち「存在論」と呼んでいるものとはまったく異なった、「ペルソナ」に第一義的で本来的な意味での「存在」という身分を与える存在論、いわば「ペルソナ論的存在論」である。
この二つを新しい研究で再建し、哲学の領域に復権させることがなぜ「人格の哲学」の構築のために不可欠であるかは本論であらためて説明されるであろう。
ここでは、現在の哲学的状況のなかで「精神の形而上学」や「ペルソナ論的存在論」に言及すること自体がかなりの危険を冒すことであり、ましてそれらの哲学的復権という学問的課題に取り組むことがいかに大きな困難をともなうものであるかを指摘するにとどめる。
その意味では「人格の哲学」の構築という目標は遠くに仰ぎ望まれるものであり、この書物はその目標の達成へ向けての私のささやかな寄与にすぎない。
私が「人格とは何か」という問いをあらためて徹底的に問い直し、体系的な「人格の哲学」をめざして研究を進める必要を感じたのは、長崎純心大学の大学院で「人間文化基礎論」の講義を担当するようになって間もない頃であった。
私は「文化」とはたんに人間が外なる自然に働きかけることを通じてつくりだす様々のもの──身近の道具から芸術的作品、さらに制度や慣習もふくめて──ではなく、むしろ人間が人間「である」ことを学ぶ、自己実現的で価値追求的な人間的行為がその中核である、という立場から講義を行ったのであるが、私自身が根本的に前提としている「人間」理解と、聴講者たちの間で「自明の理」とされている常識的な人間観との間の著しい隔たりは、時がたつにつれて次第に重い問題として私に迫ってきたのである。
その隔たりとは、一言で言えば、常識的な人間観における「人格」概念の完全な欠如であった。
たとえば、当の人間観の「第一原理」とも言える万人の平等について言うと、人々の間の様々の差異を相対化して平等の原則を基礎づけることのできるような、人間に固有の価値は完全に不明なままである。
また「自立」の重要性は強調されるが、自立すべき者(「私」「自己」)の「存在」に光があてられることはほとんどないし、さらに「個人の尊厳」とか「かけがえのない個」という言葉が明確な価値観の指標であるかのように語られるが、個々の人間に帰せられるべき価値は人間という「存在」に固有の価値にもとづくものであって、後者なしには空虚な幻影にすぎないことはなぜか無視されている。
社会的通念とも言える人間観にひそんでいるこうした欠陥は、いずれも「人格」概念の不在──「人格」という言葉、あるいは「人格の尊厳」「人格の形成」という標語は広く流通しているにもかかわらず──に由来する、と私には思われた。
なぜなら、この後の本論で詳細に論じられるように、われわれが「私」「自己」と呼んでいる存在を明確に認識し、その存在に固有な価値を基礎づけることができるのは、人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場を超え出て、人間を明確に「人格」として経験し、理解することによってだからである。
本書の第二章から第六章までは、「人間文化基礎論」の講義のなかで補足的に行った「人格」概念についての説明のために用意した草稿を、後で補筆して大学紀要に寄稿した論文である。
第一章は久留米市の聖マリア学院大学の依頼を受けて同大学の紀要に寄稿した論文であるが、内容的に本書全体の議論の要約になっていると思われたので収録することにした。
「序論人格について語ることの難しさ」は、出版の企画が具体化した後、創文社の編集部から寄せられた質問に触発され、読者が本書の議論をよりよく理解されるための一助ともなればと願って書き加えたものである。
このように本書はもと大学紀要に寄稿した論文をそのままの形で収録したものであるため、生硬な文章や数多い論述や引用の重複が読者を悩ませるのではないかと危懼している。
またヒュームやカントの学説は思い切りよく批判しながら、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの言葉は「スコラ学者」の流儀に従って「権威」扱いにしているのは承服しかねる、と抗議されるかもしれない。
これらの瑕疵はすべて、長年、異論や質問を歓迎し、討論を通じて自らの探究を推し進めることを悦びとしながら講義を行ってきた研究者の習癖として宥恕をお願いしたい。
「人格の哲学」に関する研究をかなりの年月にわたって継続し、このような形でまとめあげることができたのは、昨今の日本の大学では極めて得難いものとなった静穏な時を寛大に恵与してくださった、片岡千鶴子学長をはじめとする長崎純心大学大学院の関係者の方々のおかげである。
心から感謝の意を表したい。
出版にあたっては、これまでのいくつかの論文集に続いて、終始、久保井浩俊社長はじめ、創文社の皆さんの御厚意と協力に頼ることになった。
とくに編集部の松田真理子さんには様々の適切な助言によって支えていただいた。
この機会に感謝の言葉を述べたい。
序論人格について語ることの難しさ
「人格について語ることの難しさ」は、ここで「人格」というわれわれが使い慣れている漢字に「ペルソナ」と振仮名をつけたところにすでに現れている。
ラテン語personaから派生したperson(英)、Person(独)、personne(仏)などに「人格」という訳語をあてるやり方は現在では一般化しているが、これらの言葉は実に様々な意味で用いられていて、いったいpersona、person、人格などの言葉の多様な用法のうちのどれが本来的で中核的な意味なのか、つまりどれがこれらの言葉によって指し示されているはずの実在を的確に言い当てているのか、そのことをつきとめるのは極めて困難であると言うほかない。
「人格」という訳語にはもう一つの難点がついてまわる。
persona、personと呼ばれる対象を人間に限ることは、現代のわれわれにとってはごく自然に思われ、その限りでは「ペルソナ」を「人格」と置きかえても不都合はない。
しかし紀元二世紀にテルトゥリアヌス(1)が「ペルソナ」を神学的用語として使用し始めたときには、この言葉はもっぱら神と結びつけられていたのであり、さらに有限な霊・精神的存在である天使(2)も確かにペルソナである。
そうすると、「人格」は「ペルソナ」の訳語であるよりは「人間的ペルソナ」を簡略化した用語であることになるが、その場合にはペルソナとしての神を「人格神」と呼ぶことは神を擬人化するものと誤解されるおそれがある(3)。
このため神学用語としての「ペルソナ」が「位格」と訳されることもあるが、それにも色々な不便がつきまとうことになる。
本書では「人格」に「ペルソナ」と振仮名することで、この難点に対処した。
つまり「人格」という用語によって、われわれの通常の経験に入ってくるのは人間的なペルソナであること、そして考察の対象となるのは特別の場合を除けばすべて人間的なペルソナであることを示唆した。
他方、「ペルソナ」という振仮名によって、われわれの考察の射程はけっして人間的ペルソナだけに限られてはいないことに読者の注意を向けようと試みた。
しかし、これはいわばその場凌ぎの解決にすぎず、「人間」であることと、「ペルソナ」であることとの関わりが重要な難問であることに変わりはない。
人格について語ることの難しさは、「私」あるいは「自己」について語ることの難しさに通じると言えるであろう。
「人格」と「私」を完全に同一視できるかどうかは問題であるが、「人格」の特性とは何より自己意識をもつことであるとされており、また人格は意志的で自由な行為の主体を指すという理解が一般化しているところから、「人格」と、主体としての「私」はほぼ重なり合うと考えられる。
ところで、私が語ることは自明の理であるが、私を語ることは極めて困難である。
「私」とは厳密に言って何を意味するのか、本当にそんなものが存在するのか。
「私」がこのように問うとき、問う「私」に、「問う私」は直接に現存しているが、「問われる私」はいわば闇にとざされたままである。
「私」が「私」について語ろうとすると、語る一人称単数の「私」によって語り出される「私」は三人称の「誰か」と、その「誰か」に属する様々の事物によって置きかえられてしまう。
「私」が語る「私の」名前、経歴、趣味……、それらはすべてそれらの言葉を聞く人々の前に姿を現わす三人称の「誰か」に属することであって、語る「私」に現存している一人称の「私」ではない(4)。
同じ困難が「心」や「精神」について語る場合にも経験される。
「人格」と「私」ないし「自己」とを単純に同一視することができないのと同様に、(「人格」は自己意識をもつものとして規定されるかぎりでは)「人格」は「心」あるいは「精神」と密接に結びついていることは確かであるが、それらと同一視することはできない(5)。
他方、「人格」を「人格」たらしめるものは「心」ないし「精神」である、と考えることには十分な根拠があり、「人格」について語ることの難しさは「心」について語ることの難しさに通じるものがある。
ところで私の経験では、「あなたは心(あるいは精神)を持っているでしょう」という問いにはほとんどすべての人がすぐに肯定の答えをするが、「ではあなたの心はどこに在るのですか」と続けて問うと、戸惑って言葉につまる人がほとんどである。
その場合、問いを理解し、自分に問いかけ、答えを探すのはすべて心の働きであるから、誰でも暗黙のうちにそのような心の働きが示すかぎりで心が存在することを知っているはずだ、と言えよう。
ところが、在るものはどこかに在るはずだ、という暗黙の前提にひきずられて、「どこに在るのか」という問いにまともに答えようとすると、迷路にはまりこんでしまう。
こんにち、心は目で見、手で触れることのできる「もの」のように「どこかに」在るのではない、という心の言語の「文法(6)」は広く無視され、忘却されており、そのことが心や精神について語ることを困難にしている、と言えそうである。
自己が自己自身に常に、直接的に、いわば最も親密に現存しているように、精神は精神自体に常に、直接に現存している、と言えるのであり、その意味で精神はたしかに精神を「知っている」のである。
しかし、この「知る」は通常、何かを知っているという場合のように、何かを対象として知るという仕方ではなく、そのためそこで知られている精神について語ることは困難なのである。
これらのことは誰でも自らの経験にてらして容易に確認できるであろう。
これまで「人格」について語ることの難しさを、「人格」とほぼ重なり合う「私」(あるいは「自己」)および「心」(あるいは「精神」)について語ることの難しさに目を向けることによってあきらかにしようと試みてきた。
ところで、このように言うことは逆説的に響くかもしれないが、この難しさが実は「人格」理解のための鍵にほかならない。
つまり、「人格」について語ることの難しさは、われわれが「人格」の理解に到達することを不可能にするというよりは、むしろわれわれがそれに直面し、それを生ぜしめている原因を見究めることによって、虚偽の「人格」認識への道を避け、「人格」認識への真実の道を選ぶことを可能にしてくれるのであり、その意味で「人格」理解のための鍵なのである。
このように、「人格」について語ることの難しさは、私が私自身に現存している「私」「自己」を認識し、それについて語ることの難しさであり、精神が精神自身に現存している「精神」を認識し、それについて語ることの難しさである。
ということは、すこし変わった言い方になるが「人格」は自己自身に現存している「人格」を認識し、それについて語ることが難しい、ということであり、「人格」とはそのような自己自身への現存という存在の仕方をするものである、ということである。
言いかえると、「人格」「自己」「精神」などの名で呼ばれるものは、「存在す
るもの」であるかぎり「一」であるが、それは量的な「一」、数の単位とか点のような「一」ではなく、自己還帰的な「一」、すなわち同一のものが自己に現存し、自己へと立ち帰るような仕方で「一」なのである(7)。
自己還帰的な「一」、すなわち「一」でありながら自己へと立ち帰り、自己が自己自身に現存するような在り方をする「一」という言い方は、多くの読者を戸惑わせるかもしれない。
しかし、われわれがあらためて、「私」と発声している自分自身をふりかえり、自分が意味のある仕方で「私」と発声しているという事実を確認するとき、この耳慣れない言い方の意味は十分に理解されるのではないか。
裏から言えば、「私」は自己還帰的な「一」であるからこそ、つまり自己へと立ち帰り、自己が自己自身に現存するような「一」なる存在であるからこそ、意味のある仕方で「私」と発声することができるのである。
すこし回りくどい説明になったが、「人格」について語ることの難しさは、つまるところ「人格」に固有な存在の仕方としての、自己還帰的な「一」について語ることの難しさである。
ここでは自己還帰的な「一」について詳しい説明に立ち入ることはできないが、それが心理学的な内観(introspection)、あるいは通常、「自己をふりかえる」というときの反省の働きと同じレベルのものではないことには注意する必要がある。
それはむしろ「人格」と呼ばれる存在そのものであり、その存在の仕方である。
すべて存在するものは、存在するかぎりで「一」であるが(8)、「自己還帰的」という言葉で、この場合の「一」が何らかの高次の完全性あるいは豊かさをふくむことを言いあらわしている。
すなわち、「人格」は自らを知り、自らを愛する存在であるが、そのような自らを知り、愛する働きは当の存在の完全性から発出するものである。
「人格」の存在に固有の完全性は、それが「真」という側面を有するかぎりで知られ、「善」という側面を有するかぎりで愛される。
つまり「人格」が自らを知り、愛するのは、その存在の完全性ないし豊かさのゆえにであり、自らを知り、愛する働きの根元としての「人格」の存在のこうした完全性を言いあらわすのが自己還帰的な「一」にほかならない。
実は、精神的ないし知的な働きを営む存在は、自己へと完全に還帰するものである、という洞察は古くから(とくに新プラトン哲学(9)の影響の下に)広く受けいれられてきたものであり、「人格」も精神的存在であるかぎり、同じような存在の仕方を有する。
自己還帰的な「一」は、量的な「一」のように、容易に、通常の対象認識の仕方で認識されるものではなく、したがってそれの認識のためにはわれわれが有する思考・認識能力の強化が必要とされる。
それは「自己」認識の困難さを自覚し、それを克服しようと試みた者のすべてが承知していることである。
しかし、そのような認識および語ることの困難さにもかかわらず、自己還帰的な「一」という存在の仕方にこだわるのは、さきにも触れたように、それが「人格」認識への真実の道を開く鍵であるからにほかならない。
広い意味での現象学的アプローチによってつきとめられる人格の本質的な特徴は次の二つに要約することができ、そしてそれら二つは相互に矛盾するとは言わないまでも、極度の内的緊張をはらんでいる。
その第一は、自らの諸々の行為を支配することのできる主体である、ということであり、自己支配的、自己決定的、自己所有的な行為者と言いあらわすことができる。
そして第二の特徴は、この自己支配的な主体は根元的に他者との交わりにおいて存在し、また交わりにおいて自己を実現し、完成するような存在である、ということである。
第一の特徴は人格が自らによって、自らにおいて存在することを強調しているのにたいして、第二の特徴は人格を人格たらしめるものは他者との関係であることを強調しており、この二つは容易に両立することのできないものであるとの印象を与える。
これら二つの特徴を別の観点から言いかえると、第一に、人格は他の何ものによっても置き換えることのできない絶対的な価値、すなわち尊厳を有する存在である。
それは何らかの目的のための単なる手段ではなく、それ自体が目的であり、何らかの全体に属する単なる部分ではなく、それ自体が全体なのである。
しかし第二に、その人格が自らを人格として完成するのは自らのすべてを捧げつくすことによってである。
つまり、人格の絶対的な価値は、人格が完全に自己を無化する愛によって最終的に実現されるのである。
この二つのことは、すくなくとも表面的には、相互に矛盾するように見えるのではないか。
われわれが「人格」について語ることの難しさを確認して、この難しさを回避することなく、むしろいわばそれを梃にして「人格」の真実の認識への道を切り拓こうと試みる場合、「人格」がこのように相互に矛盾・対立するように見える二つの本質的特徴をふくむことを見落としてはならない。
「人格」が自らによって、自らのうちに在る「個的な実体(10)」であることを強調する論者は、「人格」を根元的に「人格」たらしめるのは関係ないし交わりであることを忘却あるいは無視する危険があり、逆に「人格」を行為や交わりの主体として考察する行為論の立場に徹した場合には、「人格」が自らのうちに在る、「一」なる存在であることを見落としてしまう危険がある。
しかし他方、これら二つの本質的特徴がどのように「人格」が「一」なる存在であることを損うことなく両立ないし合一しうるかを説明することは極めて困難な理論的問題であり、「人格の哲学」の成否がそれにかかっているとも言えるほどである。
そして私が本書で試みたのは、この問題の解決のためには「人格の存在論」を新しく構築することが必要であるとの見通しの下に、「人格」に固有な存在の仕方は自己還帰的な「一」であることに目を向けることによって、「人格」を存在論的に理解することが可能となるのではないか、という一つの仮説を提示し、それをできるかぎり説得的に基礎づけることであった。
この序論でもすでに指摘し、また以下の本論でも説明されるように、自己還帰的な「一」は、新プラトン哲学以来、知的ないし精神的な存在に固有な存在の仕方として考察や論議の対象となってきたものであり、その意味では私が本書で試みたのは古い、精神の形而上学の見直しにすぎない、と言えるかもしれない。
しかし、哲学は科学のように進歩すべき学問であるとか、或る哲学者は過去のすべての哲学の営みから自らを切り離してまったく新しい哲学を構築できる、といった種類の哲学観にわれわれがとらわれないかぎり、哲学的探究は、神学もふくめた知恵の探究の長い伝統という巨人の肩の上に立つことで広い視界を手にすることができる小人(11)にたとえることがむしろ自然ではなかろうか。
さきに「人格」に固有な存在の仕方としての自己還帰的な「一」は、心理学的な内観や通常の意味での反省(それらも一種の「自己還帰」であるが)と同一視することはできないものであることを指摘したが、そのことの補足として一、二のことを述べておきたい。
最近、生命倫理学や医の倫理学などの分野で関心を呼んでいる「パーソン論」においては、「人格」を〈理性的で自己意識のある存在〉として理解した上で、人間であってもそのような存在であることを示すことができなければ(たとえば胎児、幼児、「植物状態」の人間)人格と認めず、他方、そのような存在であることを示す動物は人格と見なすべきである、という立場が論争を呼びおこしている(12)。
この立場は「人格」を観察および実験などによって確認できる事実ないし行動のレベルで捉えるにとどまっており、「人格」の存在そのものはまったく関心の外に置かれている。
したがって、このような「人格」理解によっては「人格」それ自体を知り、愛することは不可能であり、「人格」の尊厳について意味のある仕方で語ることもできない。
ところで問題は、この立場が実は「人間」の観念と「人格」の観念を分離して、本質的に動物である人間が「人格」であるのは自己意識による、という見解をあたかも自明的な真理であるかのようにうちだしたジョン・ロックにさかのぼるものであり(13)、それがこんにちまで大きな影響力を持ち続けているということである。
たしかにカントは人間の道徳的行為の成立根拠として自由な行為の主体としての人格の無条件的な価値を強力に主張したが、人格そのものの存在論的理解に到達することはできなかったため、人格の無条件的な価値を理論的に基礎づけることはできず、彼が確立したとされる「人格の倫理学」は不徹底なものにとどまらざるをえなかった、というのが本書で私が試みた解釈である(14)。
「人格」は自己還帰的な「一」という仕方で存在する、と言われるときの「一」は、すべて存在するものはそれ自身のうちに分割をふくまず、他のすべてのものから区別されるかぎりで「一」である、という意味での「一」であり、そのようにすべて存在するものは広い意味で「非分割」(indivisio)としての個(individuum)である。
しかし、「人格」を狭い意味での「個」、すなわち量的な「一」ないし数の単位としての「一」が「個」と呼ばれるときの「個」と同一視するのは誤りであり、いかに「過去・現在・未来の無数の人間のなかの唯一人」「かけがえのない一人」などの形容詞でその無条件的な価値を強調しても、量的ないし数的に「一」であるというだけでは「人格」の固有の価値にはいささかも触れることはできない、ということを確認する必要がある。
この点は、本書の
なかで繰り返し強調したが、わが国では「人格」という言葉が安易に「個人」という言葉で置き換えられる慣行があるので、ここでも念のため付言しておきたい。
「人格の哲学」についての研究をまとめるにあたって、あらためて「人格」について語ることの難しさを痛感したが、たしかに「人格」について哲学的に認識し、学問的に語ることは困難であるが、哲学的ないし理論的認識だけが人格を知り、愛することへの道ではない。
むしろ何らかの仕方で人格そのものを愛することを学び、その愛に導かれて人格とは何であるかを認識する道が開かれる場合が多いであろう(15)。
ところで、人格の愛というとき、多くの場合、隣人愛が思い浮かべられるであろうが、本書では人格の愛は第一に自己愛──自己中心的ないし利己主義的ではない、真実の自己へ向けられた愛──でなければならないことを指摘した。
真実の自己とは、様々の欲望のとりことなり、いわばそれら欲望の対象へと分散し、はりついている偽りの自己ではなく、自己還帰的な「一」として存在する自己であって、「人格」の存在そのものにほかならない。
このような真実の自己愛の発見こそ「人格」の哲学的概念の確立への道の第一歩となるのではないかと思う。
第一章個人から人格へ──人格の哲学をめざして
Ⅰ人間は利己的か?
1「人格」という言葉は広く用いられており、その意味も明瞭だと思われている。
たとえば『広辞苑(1)』は人格を「道徳的行為の主体としての個人」と一般的に規定した後で、「自己決定的で自律的意志を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」と補足的に説明している。
「主体」「自己決定的」「自律的」「目的自体」などの用語は、その厳密な意味を問題にし始めると果てしない論議をひき起こすことになるが、ひとまず自由で、責任能力があり、侵してはならない価値を有する、といった説明で一般的な同意を得ることができる。
そして「侵してはならない価値」というのは、特別の、尊敬と賞讃に値いするような「人格者」だけではなく、すべての人格が人格で「ある」かぎり有する固有の価値と解するのが普通である。
2ところで、上記の説明ですぐに浮かび上がってくる疑問は、「人格」と「個人」が実質的に同一視されているという点である。
つまり、「人格」と呼ばれている当の「存在」あるいは「ひと」は「個人」であり、その「個人」が「自己決定的……」などの言葉で指示されている一定の特質、つまり「人格性(2)」を有するかぎりで「人格」と呼ばれる、というのが上記の説明の大筋であり、それはまた「人格」という言葉で一般に人々が理解していることとも一致すると言えよう。
しかしそれは正しいのか、というのがここで提起したい疑問である。
言いかえると、われわれが「人格」と「個人」という別々の言葉で理解している当の存在は、同一の「この人間」あるいは「あの人間」、つまり個人である、と考えてよいのか。
そして、その個人の「人間性」あるいは「人間本性」の特殊な一面である「人格性」を強調したいときに「人格」という言葉を用いるのだ、という説明は正しいのか、という問題である。
もちろん正しい、と社会通念、あるいは世間の常識は答えるであろう。
日本国憲法第十三条〔個人の尊重と公共の福祉〕は「すべて国民は、個人として尊重される」と述べており、第二十四条〔家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等〕はその第二項で「配偶者の選択……に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。
また旧教育基本法の前文では教育の基本理念は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」であると述べ、第一条〔教育の目的〕では、「教育は、人格の完成をめざし……」と述べた後で「個人の価値をたつとび……」と続けている。
これらの例にてらして、わが国では「侵してはならない価値」、つまり絶対的な価値の担い手としての「人間」は、「人格」と言いかえても「個人」と言いかえても実質的には同じことである、という考え方が広く受けいれられていることがあきらかである。
別の言い方をすると、個人の尊厳ということは、人格の尊厳と同じくらい、あるいはそれ以上に自明のこととして承認されている。
実際、わが国では個々の人間は、それぞれが過去、現在、未来にわたる無数の人間のなかで唯一の存在であるかぎり、かけがえのない絶対的な価値を有する、という主張が、反論の余地を許容しないほどの説得力を持っている。
他のすべての者から区別される唯一の存在であるがゆえに価値がある、という議論は、最近のわが国では「個性」にたいして与えられる偶像視ともいえるほどの高い評価と結びつき、個人の尊重、個人の価値という考え方については何ら疑問をさしはさむ可能性は残されていないようである。
3しかし、個人の価値とは本当にそのように自明的なものか、唯一であるがゆえにかけがえのない価値がある、という考え方はどれほど根拠があるのか、そのことをあらためて問うことにしたい。
それはもちろん個人の価値を否認するためではなく、個人の価値と言われているものを単に情緒的に強調するのみにとどまらず、それを理論的に、つまり普遍的、必然的に承認される基礎の上に確立するためである。
考察の出発点として「人間はその本性からして利己的(自己中心的)である」という周知の人間観を取り上げたい。
この人間観が明確な哲学的立場として表現されたのは、(社会状態に移行する以前の)自然状態における人間本性は「各人はすべて相互に敵」であると言えるほど闘争的、自己中心的であった、と主張したホッブス(ThomasHobbes,一五八八─一六七九)が最初であるとされる(3)。
そしてホッブス以降、人間は本性的に自己中心的である、つまりあからさまに自分の利益ないし欲望を追求するときだけでなく、他人や社会の利益を優先させるような選択をするときでさえも、そこで第一に、そして根本的に追求されているのは何らかの意味での自分の利益である、という利己主義的人間観は、その支持者と反対者(利他主義)を通じて大きな影響を及ぼしてきた(4)。
4人間は根本的に自己中心的ないし利己主義的であるとする人間観は、こんにちでも、人間を「現実的に」観察すると称する人々、および倫理・道徳は人間にとって内的・根源的なもの、つまり自然本性そのものにもとづくのではなく、社会生活の必要上、外から課せられた慣習的なものであると考える人々の間で広く、根強い仕方で支持されている。
ここで私は、この人間観の論駁を試みるのではなく、それが人間をたんに事実的存在として、偶然的で可変的な現象面で捉えたものにすぎないことを指摘したい。
「本性的に(人間本性に即して)」という言い方をしてはいるが、この人間観は、ホッブスにおいてそうであったように、物理学によって代表される自然科学の方法にもとづいて人間を科学的に研究することによって形成されたものであって、人間本性が全体として捉えられているとは言えない。
そこでは、人間という存在は、自らの本性に即した目的を追求することを通じて自らの本性を実現してゆく存在、その意味で「自己を創造する(5)」存在であることはまったく視野に入っていない。
しかし、そのことを視野に入れない場合には、人間本性は極端に断片化され、倫理・道徳からまったく切り離されてしまうのである(6)。
別の言い方をすると、この人間観は、「自己中心主義」「利己主義」を主張しているにもかかわらず、「自己」あるいは「自我」そのものについては何ら明確な認識を有していない。
なぜなら、たんに事実的存在として捉えられた人間は、どれほど精密に観察され、科学的に分析されようとも、結局のところ外から、第三者として眺められる「ひと」にすぎず、けっして一人称単数で語られる「わたし」ではありえないからである(7)。
われわれは「わたし」という言葉をあたりまえのこととして用い、何らかの自己意識を有するところから、「わたし」「自己」について認識しているかのように思いこみがちであるが、「わたしは……を認識している」とは言えても、その認識している「わたしを」認識することはけっして容易ではない。
哲学者カント(ImmanuelKant,一七二四─一八〇四)は哲学的に「わたしを」認識することは不可能であり、それが可能だと誤認したことで独断的な形而上学の霊魂論が生みだされた、と断定したのである(8)。
5実はこれまで「利己主義的」人間観について詳しく述べたのは、それがそのまま、「個人の尊厳」を自明的であるかのように主張する立場の批判として妥当すると考えたからである。
つまり、個人は個人として尊重されるべきである、という主張において、個人はたんに他のすべての個人から区別された「この人間」として、いわば三人称の或る特定の存在として捉えられるにとどまっている。
言いかえると、「この人間」は、様々の情報を外へ向けて発信するひとつの「点」にすぎず、その人間が「わたし」と言うときに意味しているはずの存在、すなわち「自己」についてはなんらあきらかではない。
ということは、「個人」という概念はなんらの自己認識もふくまない、つまり、「個人」という言葉が指示している「存在」について何も語らない、その意味ではまったく空虚な概念なのである(9)。
言うまでもなく、「個人」という言葉を使用している人がすべて自己認識を欠如したままである、と言うつもりはない。
そうではなく、「個人」という概念は単に三人称的に捉えられた、他のすべての人間から区別されるかぎりでの「この人間」を意味するものであるから、なんらの自己認識をも前提する
ことなしに「個人」という言葉を使用することが可能だ、と言いたいのである。
「個人」という概念をこのように理解することが正しいとすれば、「個人」という言葉と「人格」という言葉があたかも同義語であるかのように使用することが正しくないこともあきらかであろう。
なぜなら「人格」という言葉は何よりも主体を指すものとして理解されており、そのことは「私」という主体が、主体すなわち自己について何らかの認識を有するのでなければ「人格」という概念を理解できないことを意味するからである。
そこで次に自己認識の問題をつきとめ、そのことを通じて「人格」概念の理解へと進むことにしたい。
Ⅱ自己認識と自己愛
1「汝自身を知れ」という格言は、おそらく最もよく知られた哲学的格言であるが(10)、もしこの格言が「自らの分をわきまえよ」「何事にも節度を超えてはならない」という実践的な戒めではなく、完全な自己認識の探究を命令するものであったならば、おそらくそれを実行できる人間はごく僅かしか見出されないかもしれない。
自己あるいは自我というものは、「われを忘れる」「己にうちかつ」「自惚れ」など、しばしばわれわれが口にする言葉によって指示されているが、ひとたび「自己認識」という形でそれに直面しようとすると、きわめて捉え難いものであることが判明する。
2まず自己認識の問題そのものを偽問題として消去しようとしたヒューム(DavidHume,一七一一─七六)の立場を検討しよう。
ヒュームは『人性論(11)』第一篇第四部第六節で「人格の同一性」の問題を論じているが、その冒頭で「或る哲学者たちは、我々がどんな瞬間にもいわゆる『自我』を親しく意識して、自我の存在ならびに存在の継続を感じ、自我の完全な同一性および単純性を論証的確証以上に確認する、と想像する」と述べ、それに続いて次のように言明する。
「私一個人について言えば、私は自己自身と呼ぶものに最も親しく入りこむとき、常に寒熱・明暗・愛憎・快苦のような何らかの特殊な知覚に出逢うのである」。
そして、「人間」と呼ばれる存在のうちになんらの自我とか自己自身といった単純で連続的なものを想定する必要はなく、「人間とは〔実のところ〕想いもおよばない速さで次々に継起する、久遠の流転と動きとのうちにある、様々の知覚の束ないし集合にすぎない、とあえて断言しよう」と結論する。
この結論は、そのような主張を、かなりの時間と労力を費して考え、まとめあげて言明にこぎつけた「私」ヒューム自身が実は「知覚の束」にすぎないのであってみれば、文字通り「自己消去」ないし「自己抹殺」的な奇妙なものと言わざるをえないが、ヒューム自身、このような「自己」観をもって生活し、人々と交わっているのではないと明言しているのであるから、あまり真面目に受けとらなくてもよいのかもしれない。
哲学的には、この結論は、われわれが直接に知覚するのはわれわれ自身の観念──「精神のうちなる観念」──のみである、という(ヒュームにとっては自明の真理であった)前提から導き出されたものであり、この前提ともども決定的に破棄することが可能である(12)。
もともとヒュームは「自己」あるいは「人格」と呼ばれるものが、この書物、このペン、あるいはこの机などの物体と同じように知覚されるものであるかのような考え方から出発しており、「自己」あるいは「人格」を認識するためのふさわしい方法については何らの反省も行っていないように思われる。
3ここで自己認識の問題を洞察に満ちた仕方で論じているアウグスティヌス(Augustinus,三五四─四三〇)に目を向けよう。
アウグスティヌスは『三位一体論(13)』第十巻で、精神は自己を愛し、自己を知るという仕方で常に自らに立ち帰るものであり、精神にとって精神自身(自己)は常に現存し、最も近いものであるのに、精神はどのように自己を探究し、見出すのか、という不思議な問いに直面する、と言う(第八章)。
そして、精神が自己認識の営みにおいて誤りに陥るのは、様々の感覚的な事物に愛着し、いわばそれらの事物が自己にへばりついているため、それらにすがりついている「自己」を自己自身と混同するからである、と指摘する。
この指摘はヒュームのいう様々の知覚の束としての自己とは、実は自己の分散した幻影にすぎないことをあきらかにするものと言えるであろう。
では、アウグスティヌス自身は、精神の自己認識はどのような仕方で行うのが正しいと考えていたのか。
それは、精神は自己について何も知っていないかのように感覚によって外を探しまわったり、自己をしかじかのものと想像力で思惟するのではなく、精神が自己について確実に知っているところのことを確認することである。
アウグスティヌスは、精神は自己が存在し、生き、知解することを知っており、そのことを疑うことはできない、と言う。
もし疑うなら、疑うこと自体が疑う自己の存在、生命、知解の働きを確証する、つまり「もし疑うなら、わたしは在る(14)」(同、第十章)のである。
そして、精神に固有の働きは「知(解す)る」、そしてそれにともなって「愛する」ことであり、これらの働きが精神自身、すなわち自己の「存在」を示す。
したがって、われわれは「知る」「愛する」という精神の働きをふりかえることを通じて精神の「存在」(アウグスティヌスはそれを「実体」と呼ぶ)を捉えることができるのであり、そのような仕方で自己認識を遂行することが可能なのである。
4自己認識の問題を考える手がかりとしてアウグスティヌスに目を向けたことで、「私が自己を認識する」ということが、「精神が精神自身を認識する」こと、と言いかえられたことに疑問を抱く人がいるかもしれない。
それは、自己認識の「自己」を単純に「精神」で置き換えてよいか、という疑問である。
しかし、もともと自己認識とは、感覚を通じて外界の事物を認識していた精神が、単純に視線を自分自身へと反転させることで成立するものではなく(15)、むしろ精神が外界の事物の認識という準備作業を通じて成熟し、完成されて、精神自身にふさわしい対象、つまり精神的存在を認識しうる段階に到達したときにはじめて成立するものである(16)。
したがって、自己認識は精神の自己認識をおいて他にはありえないことをここで確認しておきたい。
ところで、アウグスティヌスがあきらかにしたように、われわれは実際に自己認識を行うことによって、精神は自己を知り、愛するという仕方で自己に立ち帰る存在であることを知ることができる。
人間精神の場合、自己を知り、愛する働きがそのまま精神の「存在」と同一なのではない(17)。
しかし、それはたしかに人間精神の「在り方」そのものである。
言いかえると、人間精神はたしかに自己に立ち帰るという仕方で存在する。
そして、それがまさしく人格に固有の「在り方」である、と言えるのではないか。
なぜなら自己への立ち帰りを為しうる存在のみが、あるいは自己へと立ち帰るという仕方で存在するもののみが自己を認識し、意味のある仕方で「わたし」と語ることができるからである(18)。
さらに、このように自己へと立ち帰るという仕方で存在するものこそ、第一義的な充実した意味で「存在する」と言えるのではないか(19)。
なぜなら、自己へと立ち帰るということは、自己である、つまり自己同一性ないし「一性」を保持するということにほかならないからである。
それというのも、すべて存在するものは一である限りにおいて、すなわち「一性」を保持するかぎりにおいて存在するからである(20)。
われわれは感覚を通じて認識される事物についても「存在する」と言うことができるが(21)、それはそれらの事物が「何かである」という「一性」を保持しているかぎりにおいてにすぎない(22)。
これにたいして自己に立ち帰るという仕方で存在している精神的存在は、より充実した意味で「存在する」ことがあきらかである、と言えよう(23)。
ここで精神の自己認識についてこれ以上詳細に考察することはできないが、主体としての「人格」の概念を確立するために必要な自己認識とはいかなるものであるかを或る程度あきらかにすることはできたと思う。
それは精神的存在が自己に立ち帰るという仕方で存在することの確認であり、この確認が何らかの程度に実現されないかぎり、われわれは「人格」とは何であるかを理解することはできないのである(24)。
5さきに精神に固有の働きとして「知る」働き、そしてそれにともなう「愛する」働きがあり、これらの働きは精神自身、すなわち自己の「存在」を示す、と述べた。
そしてまた、われわれは自己認識を行うことによって精神は自己を知り、自己を愛するという仕方で自己に立ち帰る存在であることを知ることができる、と指摘した。
そこで次に、精神が自己を愛する愛としての「自己愛」を考察することを通じて「人格」は何であるかと問う探究を先に進めることにしたい。
精神(的存在)ないし人格の自己愛の考察は次節でトマス・アクィナス(ThomasAquinas,一二二五─七四)の「愛(徳)」論をよりどころに行うことになるが、ここで精神の自己愛は、さきにふれた自己中心的な利益ないし欲望追求──利己主義的愛──とは根元的に異なるものであることを指摘しておきたい(25)。
利己主義的愛においてはすべての選択や行為が「自己」ないし「自己の善」へと向けられていながら、当の「自己」の存在はなんら明確にされないままとどまっていて、「自己」はいわばすべての取得され、所有されるべきものがそこに集中するひとつの点にすぎない、ということはすでに示唆した通りである。
これにたいして精神の自己愛は、精神に固有の働きであり、自己に立ち帰るという仕方で存在する精神の「在り方」にほかならない。
したがって、精神の自己愛における「自己」はたんに取得や所有のための活動がそこに集中する点──つまり「所有」の観点から捉えられた「自己」──にすぎないものではなく、むしろ自己愛という働きがそこから出て、そこへと向かう「存在」であって、それにもとづくことによってはじめて自己愛という働きが解明されるのである。
言いかえると、精神の自己愛における「自己」は、「存在」の観点から捉えられた「自己」であり、そのことのゆえに自己愛の考察を通じて「自己」すなわち主体としての「人格」とは何であるかを理解することが可能となるのである。
ここで、「所有」の観点からではなく「存在」の観点から、と言うときの「存在」は、さきに述べた第一義的な充実した意味で「存在する」と言える、精神的存在において理解される「存在」にほかならない。
そして精神的存在に固有な働きである「知る」働きと「愛する」働きは、根源的に「交わり」を意味するものであり、交わりは自己を開放して、他者と何かを共有するかぎりで成立するのであるから、「所有」とは対照的に、深い意味で自己を与える働きであると言うことができるであろう(26)。
次にこのような「存在」の観点にもとづいて自己愛とは何であるかを考察し、そのことを通じて「人格」とは何であるかを探究する。
Ⅲ自己愛と人格
1次にトマスが『神学大全』のなかで自己愛について述べているところ(27)によりながら自己愛とは何であるかを考察するが、トマスは自己愛を愛徳の働きとして捉えているので、まず彼が愛徳をどのように理解していたかをあきらかにする必要がある(28)。
愛徳は、一般的に言えば、人間がその究極目的へと到達するための道としての徳の一つに数えられている(29)。
しかも他の諸々の徳が人間をその究極目的へと善く秩序づけることにとどまるのにたいして、愛徳は人間を究極目的へと完全に結びつけるところから、すべての徳を真実の徳たらしめる形相であり、すべての徳の母であり根元である、とトマスは言う(30)。
ところで、トマスによると人間の究極目的は人間が自然本性的にそれへと傾き、欲求する善でありながら、人間に自然本性的にそなわったちからによっては到達できない(31)、それこそ「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった(32)」善であるところから、それへと善く秩序づける徳も人間が自力で獲得できる知慮、正義、剛毅、節制のような倫理徳だけでは不十分で、神の恩寵によって授けられる信仰、希望、そして愛徳という対神徳(33)が必要とされる。
こうした点についてここでは立ち入って説明することはできないが、人間がその究極目的に到達する──それは人格の最終的な完成と言いかえることができる──のは愛徳によってである、というトマスの根本的立場(34)はわれわれがここで行っている「人格」理解の試みにとって重要な意味をもつことを指摘しておきたい。
2このように愛徳は人間の究極目的への道としての徳であると解する見解にたいしては、神は愛である(35)、という聖書の中心的とも言えるメッセージとは相容れぬのではないか、という反対論が向けられるかもしれない。
実際、新約聖書の「愛」がアウグスティヌスをはじめとするローマ・カトリック教会の神学者たちにおける「愛」理解においては甚だしくゆがんだ解釈をほどこされた、という非難はルター派の神学者アンデルス・ニグレン(AndersNygren)の有名な著作『エロスとアガペ(36)』によって強力にうち出され、今なお大きな影響を及ぼしている。
ニグレンは、トマスはエロスとアガペの調和という、キリスト教の本来の在り方をそこなうような偽りの調和を徹底させた、と述べているが(37)、ここでニグレンの論議を吟味することはできない(38)。
ただトマス自身、神は愛である、と言われるときの「愛」は神の本質そのものであり、人間の徳としての「愛(徳)」はそれの被造物としての限界内での模倣であり分有であって、そこには無限のへだたりがあることを認めている(39)、ということだけを指摘しておこう。
3次に愛徳を一般的に人間の諸々の徳のなかの一つと見るのではなく、愛としての愛徳の本質に目を向けることにしよう。
トマスによると、愛徳の本質は神にたいする人間の何らかの友愛であることは明白である、という(40)。
神が自ら創造した人間を愛し、そして人間も存在といのちの与え主である神を愛する、という考えは自然に浮かんでくるといえるが、神と人間が相互的な好意によって結ばれ、そこに友愛が成立するという考えは、控えめに言っても極めて驚くべきものであり、アリストテレス(Aristoteles,前三八四─前三二二)は、神と人間とは大いなる隔りのゆえにけっして友ではありえないことは明白である、と明言している(41)。
トマスがあえて愛徳は神にたいする人間の友愛である、と言うのは、神は人間への限りない愛によって、自らの至福、すなわち永遠の生命をわれわれ人間にわかち与え、それをわれわれと共にすることを望んだ、そしてこのわかち合い・交わりの基礎の上に何らかの友愛が成立している、との信仰にもとづいてのことである。
この信仰の神学的解明のためには、神の愛と知恵による万物の創造、救いの業、とくに受肉と十字架の神秘などの考察が必要であり、ここでそれを試みることはできない。
ここでは、愛徳は「友のために命を捨てる、これにまさる大きな愛はない(42)」という言葉のままに、十字架の死をもあえてこうむった神の愛の模倣・分有としての友愛であることを確認するだけにとどめたい。
4問題は、われわれは自己を愛徳、つまり友への愛によって愛しうるか、ということである(43)。
この問題についてトマスは、厳密な意味で自己自身にたいする友愛というものはなく、それは友愛よりも何かより大いなるものであると言う。
なぜなら、友愛は何らかの合一(結びつけて一つにする)を含意しているが、各々の人間は自己自身にたいして「一性(一であること)」を有するからであり、「一性」は「合一」よりも優れたものだからである。
ここからして、「一性」が「合一」の根元であるように、自己愛は友愛の形相にして根元である、とトマスは言明する(44)。
自己愛は友愛を(自己中心的、利己的な愛ではなく)まさしく真実の友愛たらしめる形相であり根元である、という考え方は、自己愛についての通念を根元からくつがえすものと言える。
自己愛において、「愛する」私は「愛される」自己自身と一なのであるから、私はまさしく私の「存在」を愛しているのであり、そのように私が私の「存在」を愛する自己愛は通常の意味での友愛よりも、より完全な友愛であるからこそ、それは友愛の形相、根元となりうるものである。
しかし、そもそも私が私の「存在」を愛するということがどうして可能なのか、それよりも「私が私の『存在』を愛する」という言明はいったい何を意味するのか。
それこそ問題であり、「人格」とは何か、という問題、あるいはむしろ「人格」と名づけられる神秘の核心はそこにあると言えるであろう。
5真実の自己愛とは、私が私の「存在」を友愛としての愛徳によって愛することである、という言明を理解するためには、愛徳を一般的に友愛として捉えるだけでは不十分であって、さらに一歩進めて愛徳の固有的本質側面に迫り、愛徳はたしかに友愛であるが、それは主要的には神へと向けられ、その帰結として神に属する諸々のものへと向けられた友愛であることに注目しなければならない(45)。
つまり、人間は自己を友愛としての愛徳によって愛することが可能なのであるが、それは自己よりも神をより愛することによって可能となる自己愛なのである。
しかし、自己よりも神をより愛する自己愛とは矛盾をふくむ概念であって、それは自己愛ではなく、むしろ神愛と言うべきではないか、という反論が出てくるかもしれない。
ところがトマスは、人間が愛徳によって自己を愛するためには、自己自身よりも、すべてのものの共通善である神をより愛さなければならない、と言う。
なぜなら、愛徳は神の恩寵にもとづく至福(永遠の生命)のわかち合いにもとづいて成立する友愛であるが、至福は神のうちに、至福のわかち合いに与る
すべての者の共通的で源泉的な根源──共通善──という仕方で見出されるからである(46)。
つまり、愛徳によって自己を愛する場合、自己と神とは「あれか・これか」という排他的な対立関係にあるのではなく、自己に固有の特殊的善はすべてのものの共通善である神に全面的に依存しているのであり、共通善のわかち合い、分有としてのみ成立するのだから、自己よりも共通善である神をより愛することが自己を真実に愛することにほかならない、というのである。
6このように、自己を真実に愛するためには、すなわち自己の「存在」を愛するためには、自己よりも共通善である神をより愛しなければならない、という指摘は、極めて逆説的であり、容易に受けいれることはできないかもしれない(47)。
しかし、私が「私」と呼んで、ともすれば私のすべての行為と営みをそれの善──それは私に固有な特殊的善である──へと向けようとする自己、その「存在」がどのようにして成立しているのかをふりかえると、共通善である神をより愛することによって真実の自己愛が成立する、ということが逆説というよりは、むしろ単純な真理として受けとめられるのである。
私が「私」「自己」と呼ぶ存在(48)は、言うまでもなく被造的で有限な存在であるから、自らによって存在する「存在」そのものではなく、「存在そのもの(49)」である神から「存在」を受けとることによって存在する。
言いかえると、「私」を存在せしめている神は、存在を与える、あるいは存在せしめる働きによって私に現存している。
ところが、いかなる事物においても、そのものを存在せしめる「存在」は、そのものの究極の現実性であり(50)、いわば中核であるから、そのものの最も内奥にあるとしなければならない。
したがって、事物に「存在」を与える神はすべての事物の最も内奥に現存するのである(51)。
私が「自己」と呼ぶ存在の場合も同様であって、私を存在せしめている神は、まさしく「私」「自己」の最も内奥に現存していることを認めなければならない。
もしわれわれが、アウグスティヌスが『告白』第八巻(第十七章)で語っているように、自己(精神)のうちに入り、自己理解を深めることによって次々と上昇してゆくことができるならば、最後に「存在するもの」(神)を直観することができるかもしれない。
しかし、そのような神秘的経験によらないでも、私は「存在」の形而上学にもとづいて、すべての事物に「存在」を与える神が、「私」「自己」の最も内奥に現存していることを明確に理解し、肯定することができるのである。
7さきに精神の自己愛における「自己」は「存在」の観点から捉えられた「自己」であり、そのことのゆえに自己愛の考察を通じて「自己」すなわち主体としての「人格」とは何であるかを理解することが可能になる、と述べた。
ところで、これまで行ってきた自己愛の考察を通じて、私が真実に「自己」を愛すること、すなわち自己の「存在」を愛することができるのは、自己よりも自己を存在せしめる神をより愛することによってであることがあきらかにされた。
これは「自己」と呼ばれる「存在」が、それに「存在」を与える神、すなわち自らの「存在」の最も内奥に現存する神に依存することによってのみ存在することの確認であり、自己認識の著しい深まりであると言うことができる。
実はこの自己認識こそ、主体としての「人格」の概念を確立するために必要とされる自己認識である、と言えるであろう。
なぜなら、この自己認識によってはじめてわれわれは「自己」と呼ばれる存在へと明確に立ち帰り、「自己」を「存在」として明確に認識することができるからである。
この自己認識を「人格」とは何であるかを明確に理解することを可能にする「人格経験」と呼ぶこともできるであろう(52)。
外界の事物を知覚という仕方で経験することは万人に可能であり、また現実に行われている。
これにたいして生命あるものの「生命」を経験するより高次の「生命経験」は必ずしも万人に共通に見出されるものではなく、このため生命あるものをあたかも生命なきものであるかのように見なし、行動する人々が現実にわれわれの間に存在する。
さらに高次の「人格経験」になると、精神的存在である人間なら誰しも自己への立ち帰りの能力を生まれながらにそなえてはいるが、それを現実に行使して自己の「存在」へと完全に立ち帰ることはかなりの困難をともなうため、「人格経験」を通じて「人格」とは何であるかを理解する人の数は限られてこざるをえないのである(53)。
8「自己愛」というと、通常は自己中心的で利己主義的な愛と混同され非難の的となりがちであるが、「自己」と呼ばれる「存在」を愛する自己愛は、自己を愛徳によって愛することによって成立するものであることがあきらかとなった。
そして、この愛徳による自己愛は、自己よりも共通善としての神をより愛することによって成立するものであることも示された。
自己の「存在」を愛するためには、すなわち自己を人格として愛するためには、自己よりも神をより愛しなければならない、ということは極めて重要な自己認識であり、「人格」概念の理解のために必要不可欠な自己認識であると言えるであろう。
さらに、愛徳による自己愛は、友を自己の欲望や利益のためにではなく友自身の善のゆえに愛する友愛を、まさしく友愛として成立させる形相、根元であるということは、極めて重要な倫理的意味をもつ「自己愛」理解であることを指摘したい。
友人を真実の友愛によって人格として愛するためには、自己愛を抑え、否定しなければならないのではなく、むしろ自己を愛するような仕方で友人を愛しなければならない、というのである。
われわれはあらためて、自己愛についてわれわれが抱きがちな誤解は、人格とは何であるかについての重大な無知から来るものではなかったのか、再考する必要があるのではなかろうか。
Ⅳ人格と共通善
1前節では、人が(愛徳によって)真実に自己を愛するとき、その人は自己よりも共通善としての神をより愛していることがあきらかにされた。
次に人格と共通善との結びつきにさらに光をあてることによって、人格とは何かという探究を進展させることにしよう。
まず考察の出発点として人間の社会的本性を取り上げる。
「人間は本性的に国的動物である(54)」というアリストテレスの言葉は広く知られているが、彼はこの言葉の後で、このような共同体へ向かう衝動は自然本性的にすべての人のうちにそなわっている(55)、と述べているので、「国的動物」という言葉が国を含めて広く人間が形成する社会ないし共同体をふくむ意味で用いられていることは明白である。
このような人間の社会的本性に関するアリストテレスの思想で注目に値いするのは、人間が家や国を作ることができるのは(言語能力のおかげで)善悪正邪等々についての知覚を共通に有していることによってである(56)、という洞察である。
というのも、善悪正邪等々の価値感覚の基準になるのは共同体ないし社会がめざす目的としての共通善にほかならないから、アリストテレスの洞察は、人々が共通善を何らかの仕方で追求するということが共同体ないし社会が成立する基礎である、と言いかえることができるからである。
さらにヨーロッパの政治思想・制度の形成に大きな影響力を及ぼしたとされるキケロ(MarcusTulliusCicero,前一〇六─前四三)は、国家(respublica)を定義するにあたって、res(物、財産)publica(公共)とはres(物、財産)populi(人民の)であると述べた後で、「人民とは正義・法の合意と福祉の共有にもとづいて結合した大衆の集合である(57)」と述べている。
ここでキケロが「正義・法の合意と福祉の共有」というのは、人々を結びつけて共同体・社会を成立させる根拠は、人々が善悪正邪について共通の価値観をもち、生活に必要なものを共同で確保しようとする意識を有することである、と解釈することができ、アリストテレスと同じように、キケロも人々が共通善を何らかの仕方で追求することで国家という共同体は成立する、と考えていたことがわかる。
2ホッブスが「人は人にとって狼である」という古代ローマ喜劇作家(58)の言葉を自らの社会哲学の標語にしたのにたいして、トマス・アクィナスはアリストテレスやキケロの人間の社会的本性に関する考えに同意して「人は人にとって本性的に友である(59)」と繰り返し述べているが、そこで彼が考えているのはけっして動物的な群居本能にとどまるのではない。
たしかにトマスは多くの箇所で、人間が社会的動物であるのは生活のために必要なものを独力では確保できないからであると述べており、人間は諸々の動物のなかで、仲間である他の人間によって助けられることを最も必要とするような存在であることを認めている(60)。
しかし、ここで見落としてはならないのは、トマスは人間の社会的本性を、たんに人間における欠乏的要素、つまり独力では必要な生活条件を確保できないという側面のみで捉えていたのではけっしてない、ということである。
むしろ彼は、人間が共同体・社会を必要とし、交わり・社会のなかで生きるのは、人間が精
神的存在、すなわち人格として善い行為をなし、自らの完全性を追求してゆくためである、と根本的に考えていた。
言いかえると、人間はその欠乏性のゆえにというよりは、むしろ精神的存在・人格としての完全性と豊かさゆえに、交わり・社会のなかで生きるのである、というのが人間の社会的本性についてのトマスの根本的立場であった(61)。
3この節の始めに、人が(愛徳によって)真実に自己を愛するとき、その人は自己よりも共通善としての神をより愛していることはあきらかである、と述べた。
ところで、神を共通善として愛することは、厳密な意味では愛徳という徳によってのみ可能である。
しかし人間の究極目的への道としての徳は人間本性の何らかの完成された状態であり、また人間本性に根ざすものであるかぎり(62)、人間本性のうちには神を共通善として愛することへの萌芽あるいは傾きが植えつけられている、としなければならない。
実際、人間はその究極目的──それに到達することが至福と呼ばれる──への自然本性的な傾向性ないし欲求を有するのであるが、人間の究極目的はすべてのものの第一の根源であり究極目的である神をおいて他にはないことが肯定されるならば(63)、人間のうちには共通善としての神を愛する自然本性的な傾向性が植えつけられていることを認めざるをえないのである。
神を共通善として愛する、という表現は、神学と政治哲学とを混同することに由来する暴言のような印象を与えるかもしれない。
しかし、この言明はトマスの神学思想の中核に属するものであって、神の至福・永遠の生命への参与にもとづく至福なる社会においては、人は善良な市民が政治社会の共通善を愛するような仕方で、つまり専有的・排他的にではなく、まさしく共通善として神を愛しなければならないのである(64)。
そして、人間はまさしくこの超越的共通善(神)への自然本性的な傾向性からして社会を形成する、というのが人間の社会的本性についてのトマスの立場なのである。
4これまでの考察で、人格とは何であるかを理解するために極めて重要な意味をもつ、人格と共通善との厳密な結びつきに光をあてることができたと思う。
人格、すなわち精神的存在が自己に適合する対象として追求する善は、特定の状況の下で自らの必要や欲望を満たしてくれる特殊的善ではなく、むしろ他のすべての者とわかち合うことができるような善、すなわち共通善なのである。
このことは様々のレベルで考察することが可能であり、根源的には、精神的存在である人格は自然本性的に共通善である神の愛へと向かう、と言うことができる。
明確に共通善である神を愛するのは愛徳によってであるが、人間のうちには究極目的としての神への傾向性が自然本性的に植えつけられているので、人格であるかぎり共通善である神を自然本性的に愛することへ向かう、と言えるのである。
社会・政治生活のレベルにおいて、われわれのすべてが政治社会の共通善を、善き市民として、現実に愛し、自らの私的で固有の善に優先させている、とは言えない。
そのような共通善愛のためには、アリストテレスの言う「徳のなかで最も輝かしい徳(65)」としての正義の徳が必要とされる。
しかし、このような徳も人間本性にもとづくものであるかぎり、政治社会の共通善を愛し、私的善に優先させることは、人格であるかぎりの人間にとって自然本性にもとづくことであると言える。
ここでその問題に立ち入ることはできないが、人間の基本的権利と言われるものも、十八世紀以降の人権思想のように、個人から出発して、個々の人間に固有の、不可侵の権利として捉えるのではなく、諸々の人格の共同体の共通善を明確にした上で、共通善への各々の人格の参与という観点から「各人の正(権利)」をあきらかにしなければならない、と思う(66)。
5しかし、人間が形成する社会・共同体──国家と呼ばれる政治的社会も含めて──は、根本的に諸々の人格の共同体である、という見方には問題があることも確かである。
なぜなら、各々の人格は、精神的存在として、自己に固有の私的善のうちに閉じこもることなく、他のすべての人格と共有できる共通善を第一に追求する存在であるかぎり、社会という全体を構成する単なる部分ではなく、むしろそれぞれが或る根本的な意味で全体である(67)。
人格の基本的な権利は国家全体の利害のためであっても侵してはならない、という政治道徳の原則は、人格はけっして社会という全体の単なる部分ではなく、むしろ各々が全体である、という洞察にもとづいているのである。
しかし、現実に人格が社会全体の単なる部分──他の部分によって置き換えられることが可能な──であるかのように見なされ、そのように取り扱われる、ということがしばしば起こっている。
社会全体を構成する部分としての人間を「個人」と呼ぶなら、人格が個人へと転落することはけっして例外ではなく、人間社会で日常的に見られる現象である。
ジャック・マリタン(JacquesMaritain,一八八二─一九七三)は、この現象を「社会生活の典型的なパラドックス」と呼び、その解決のためには「個人」と「人格」の概念を明確に捉え、その区別をあきらかにする必要があることを強調した(68)。
私はこのマリタンの立場は基本的に正しいと考え、本章では「個人」の概念から出発して「人格」の概念をできるだけあきらかにすることを試みた。
ところで、マリタンの言う「社会生活のパラドックス」の解決のためには、「個人」と「人格」の概念を明確にして、その区別をあきらかにするだけでは不十分であって、「人格」である各々の人間が、自己を「人格」としてより完全なものにしてゆくこと、その意味での「人格の形成」が必要である。
そこで次にこの問題について簡単に述べることにしたい。
Ⅴ人格の形成
1旧教育基本法、第一条でも「教育は、人格の完成をめざし……」と言われており、「人格の完成ないし形成」という言葉の意味は容易に理解できること、そして現実に広く理解されていること、であるかのような印象を受ける。
しかし「人格」ないし「人格性」がたんに追求されるべき理想、成就されるべき卓越性(69)ではなく、これまで見てきたように、精神的存在としての「わたし」がそれで「ある」ところのもの、まさしく「自己」と呼ばれる「存在」に属するものであるなら、それを「わたし」が「完成・形成」することが可能なのか、可能であるとすればどのようにしてか、が問題であると言わざるをえない。
他方、人間が「人格」であるという場合、人間自身が生涯を通じて「人間である」ことを学び、人間本性をより完全に実現しなければならない存在である以上(70)、それと同様に「人格」もまた生涯を通じてより完全な意味での「人格」へと進歩・完成をとげなければならないことは当然であろう。
問題は「人格」を完成ないし形成する、ということへの厳密な意味をつきとめることであり、それを「人格者」「すぐれた人格」などの言葉が示しているような、一般的で曖昧な道徳的向上といった程度の理解にとどめないことである。
いったい、「人格」が「人格」として完成されるとは厳密にどのように理解したらよいのか。
2この問題を解決するための有力な手がかりはさきに述べた「自己愛」の概念に求めることができるであろう。
なぜなら、「自己愛」とは、その真実の意味において、各々の人格が自己、すなわち人格の存在そのものを、それの「善」つまり完成へ向けて愛することにほかならないからである。
人格の完成への道はまさしく自己愛がたどる完成への道にほかならない。
自己愛とは精神的存在である人格が自己自身へと立ち帰るという、人格の在り方にほかならないから、その在り方の完成はそのまま厳密な意味での人格の完成であると言える。
したがって、われわれは人格の自己愛が最高に完成された形はどのようなものであるかをつきとめることによって、人格の形成・完成についての明確な見通しを得ることができるであろう。
ところでさきに、人間が自己を真実に愛するのは友愛としての愛徳によって自己を愛することによってであるが、そのさい人間は自己よりも(自己という存在の第一の根源であり、究極の目的である)神をより愛していることがあきらかにされた。
自己よりも神をより愛することは、一見、自己という存在の単なる否定・消去のように見えるが、実は自己という存在の最も奥深くに存在する神を自己よりも愛することで、人間は自己の存在を真実に善いものとして、それを完成することへ向けて愛するのである。
それは自己を自己に閉じこもった仕方においてではなく、神との交わりにおいて、神に自己を与えるという仕方で愛することである。
もし人格が自己という存在を真実に愛する自己愛をこのように理解することが正しいならば、自己愛が最高に完成された形は、人格が自己という存在を与えつくすという愛の形にほかならず、それが人格の完成された在り方である(71)、と言えるであろう。
人格は自己(という存在)を完全に与えつくすことによって人格としての完全性に到達する、ということは逆説的ではあるが真実であり、われわれ自身、「友のために命を捨てる、これにまさる大きな愛はない」と言われる
友愛において現実に経験していることである。
われわれが人格とは何であるかを真実に、そしてあきらかに理解するのは、このような人格の完成としての友愛においてである、と言えるであろう。
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