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第一章ビジョンの共有

目次

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第一章ビジョンの共有

1大きな選択が人を成長させる2逃げない覚悟が人を笑顔にする3サムライの復活が未来を創る4四つの視点で改革する5笑顔と活気がやる気を引き出す6会社は夢を実現する場所7顧客価値の共創こそが営業マンの仕事8萎縮した職場の空気は社員から健全な思考を奪う9権限委譲が責任感を醸成する10未来の履歴書が今日を創る

 

 

第一章ビジョンの共有

1大きな選択が人を成長させる五十嵐卓也は、社長室のドアの前に立った。

どうにも、胸騒ぎがする。

こういうときの予感というものは、得てして当たるものだ。

ゆっくりと深く息を吐いて気持ちを落ち着かせると、右手でネクタイの位置を直し、社長室のドアをノックした。

コンコンと重厚な木の音が響く。

静かにドアを開けた。

「失礼します」社長室に足を踏み入れた。

もう慣れた場所で、さすがに緊張することはない。

三月第二週の月曜日。

この時期に呼ばれるとしたら、理由は二つしかなかった。

期末の業績着地予測か人事のどちらかだ。

五十嵐はハピネスコンピュータ株式会社の東京営業部部長だった。

四十歳という年齢は、部門長では最年少だったが、艶やかに流れる豊かな髪や趣味のジョギングで絞り込まれた身体は、さらに若々しさを醸し出している。

元々はトップセールスマンであり、トップマネジャーだった。

部長就任後も毎期の計画予算を達成しつづけ、全社の業績を今日まで牽引してきた。

誰とでも分け隔てなく誠実に向き合い、笑顔を絶やさぬ明朗闊達な人柄で、上司の信頼はもとより、部下にも人気が高い。

取引先にもファンが多かった。

ハピネスコンピュータは事務機器の販売会社で、大手のIT機器メーカーの販売代理店として、パソコンやプリンター、ネットワークシステム関連商品などのITソリューションを、主に法人向けに販売している。

主力商品はパソコンと各種業務系パッケージソフトウェアで、営業マンの訪問販売による直売が六割、代理店契約している小規模な事務機器販売会社への卸売(代売)が四割となっている。

業界でも中堅規模のIT系ディーラーだった。

従業員数は三百名ほどで、東京と大阪と名古屋に営業部があり、東京は十カ所、大阪と名古屋は五カ所ずつに営業所を配置して、総勢で二百五十名ほどの営業マンを抱えている。

五十嵐の統括する東京営業部は社内最大の組織で、営業マンの半数以上が所属していた。

「忙しいところ悪いですね」大きな窓を背に、ハイバックの椅子に座った社長の福永英治が、時代劇の水戸黄門のような穏やかな笑顔のまま、目で椅子を勧めてきた。

窓から差し込む早春の陽光が、まるで後光のように見える。

福永は七十三歳になるはずだったが、社長に就任した二十年前から豊かな白い顎鬚を蓄えていたせいで、ずっと歳を取っていないかのようなイメージがあった。

社長にもかかわらず、社員に対していつも敬語を使う。

新入社員であろうが、契約している清掃業者のパート従業員であろうが、大企業の経営者と相対するときと変わらぬ応対をするのが信条だった。

創業者を父に持つ二代目社長だったが、その人望と経営手腕は誰しもが認めるところで、むしろ福永が社長を継いでから、会社は大きく成長を遂げていた。

五十嵐は手にしていた資料を福永の前に置いて、今年度の着地予測について説明をはじめようとする。

福永がそれを遮った。

「呼んだのは、業績のことではありません。

東京営業部の数字については、まったく心配してませんから」「ありがとうございます。

でも、それじゃあ──」「五十嵐さんの人事のことです」「私の……」福永の表情から笑みが消えたのを見て、五十嵐にも緊張が走った。

「……異動ですか?」福永がうなずく。

五十嵐が就任して以来、東京営業部は業績目標を達成しつづけていた。

期を重ねるごとに前期比二桁成長をつづけ、人員増強も併せた事業の拡大戦略は見事に成功をおさめていた。

今年度も大幅な上積みでの着地が見込まれている。

その意味での異動はないはずだ。

だからといって、役員への昇格には早すぎる。

五十嵐もそれくらいの分はわきまえているつもりだ。

では、大阪か名古屋か?業績の立て直しということなら大阪だろう。

大阪営業部はこの一年、かなりの苦戦をつづけていた。

来年度の新卒採用者を優先的にまわして人員補強を計画していたが、本当に体制を強化するならば、個人予算が少ないので計画が達成しやすいとはいえ戦力化に時間がかかる新人営業マンよりも、マネジメントにこそ手を入れるべきだとの声も少なくなかった。

五十嵐自身も経営会議の席で同様の発言をしていたので、白羽の矢が立ったとしても不思議ではなかった。

東京営業部に比べれば規模は小さかったが、五十嵐の年齢を考えれば、そろそろ地方勤務を経験しておくことは、次のステップとしても必要なことだろう。

固唾を吞んで、次の言葉を待つ。

「大村を助けてやりたいんです」心から訴えかけるような目差しが向けられる。

最初は何を言われているのかわからなかったが、すぐに一社の代理店の名前が脳裏に浮かんだ。

「大村って……あの大村事務機ですか?」福永が口にした意外な言葉に、五十嵐は戸惑いを隠せない。

大村事務機株式会社は、ハピネスコンピュータの有力な卸先の一つだった。

東京都下にあって、民間企業だけでなく、市役所や学校向けにもパソコンや文房具を販売している。

従業員は五十名ほどだが、ハピネスコンピュータの販売代理店の多くが十名程度の零細企業であることを考えると、かなり大きなほうだ。

実際に販売店別の取引高は、上位十社から外れたことはなかった。

ハピネスコンピュータの売上の四割は、販売代理店への卸売だ。

各営業所には代売担当の営業マンがいて、直売担当の営業マン以上に大きな予算を持っていた。

販売会社が大手のメーカーから商品を仕入れるためには、高額の保証金を積むことが求められるし、厳しい信用調査も乗り越えなければならない。

場合によっては年間総仕入れ量のミニマムも保障しなければいけない場合がある。

文房具屋に毛の生えた程度の零細の事務機器販売会社では、まず直接取引は難しい。

そこでハピネスコンピュータが、大手メーカーから商品を代わりに仕入れて、それを卸すのだ。

いわゆる問屋であり、卸母店とも呼ばれている。

大手メーカーにとっては代金回収などのリスクを負わずに商品を拡販できるし、零細の事務機器販売会社からすれば中間マージンを取られるとはいえ、商品仕入れのハードルが下がることになる。

もちろん中間に入るハピネスコンピュータにとっても、販売利益は下がるものの、代理店の営業力を使って直売よりも少ない経費で売上を上げることができるわけで、まさに三方よしということになる。

大村事務機との取引は長い。

大村社長の父親と福永社長の父親とが、互いに会社を興したころからのビジネスパートナーであり、公私ともに親しい関係にあった。

創業者の二人が故人となった今でも両社の関係は深く、大村事務機の仕入れの六割をハピネスコンピュータが担っている。

資本関係はなくとも、ハピネスコンピュータにとって大村事務機は、事実上の子会社のようなものだ。

ここ数年の業績がかなり厳しいということは、代売担当の営業マンから五十嵐も報告を受けている。

詳細な財務状況まで確認したわけではなかったが、このままでは倒産もあり得ない話ではないと聞いていた。

企業の利益には、いくつかの段階がある。

本業での売上高から売上原価を差し引いたものが売上総利益で、一般的には粗利といわれる。

この売上総利益から販売促進費や管理費など、営業に伴って発生した経費を引いたものが営業利益で、これが販売会社における営業活動の業績指標となる。

配当収入や借入金の利息支払いなど、本業以外の財務活動の損益を加減したものが経常利益で、これで企業全体の体力をはかる。

経常利益から年度限定の損失である特別損益を加減して、税金を控除したあとの利益が純利益となり、企業の業績の最終判断材料となるわけだ。

大村事務機においては、無茶な投資や本業以外での大きな損失の話は聞かない。

あくまでも、営業利益が下降線をたどっている。

経営というよりも、営業体制を変革し、営業力を強化することが必要だった。

そもそも販売会社にとって、営業力強化は最重要の経営課題である。

ちょうど三年前に、大手のIT企業で修業していた大村社長の息子が戻ってきて専務に就任した。

同じタイミングで定年退職した営業部長の後を受け、そのまま兼務する形で営業部門を統括したのだが、それ以来業績は低迷をつづけていた。

三代目が会社を潰すとはよくいわれる。

代替わりにより古くからの取引先が離れ、新規顧客の開拓も進まない。

トップの交替は改革のチャンスでもあるのだが、祖父や父親ほどのカリスマ性もなければ日常的に起こる問題を柔軟に解決するほどの経験も不足しているので、社員のモチベーションは上がらない。

それでも若さを武器に時代を見据えた先進的なアイデアや行動力を持っていればいいのだが、経営者の子息だからといって必ずしもそうとはかぎらない。

多くの同族企業が抱える問題だった。

「大村社長から、直々に要請があったんです。

五十嵐さんに来てほしいそうです」「社長が私を指名されたんですか」「そうです。

営業部長として、営業責任者を任せたいと」営業部長といっても、ハピネスコンピュータとは会社の規模が違った。

五十嵐の現在の部下は、リーダーと営業マンを合わせれば百五十名に近い。

大村事務機の営業マンはわずか三十名程度のはずで、市役所や学校関連を担当している公共営業課、民間大手企業を担当している大手営業課、中小企業を担当している地域営業課の三課しかなかった。

それを大村専務が営業部長を兼務して統括しているのだ。

「難しいポジションですね」五十嵐が営業部長として赴任すれば、専務と三人の営業課長の間に割って入ることになる。

専務の大村弘明は四十二歳とまだ若く、四十歳の五十嵐とは同世代である。

販売会社としての営業力を強化するならば、経営視点での抜本的な構造改革を断行しなければならない。

外から見ただけでは詳しいことまではわからないが、大鉈を振るわなければならないだろうことは容易に想像できた。

外から来た者がそんなことをすれば、オーナー企業の専務としておもしろいはずがない。

改革がうまくいったとしてもプライドを傷つけかねないし、改革に時間を要すれば厄介者扱いは免れない。

そもそも簡単な仕事ではなかった。

営業の仕組みを再構築し、それを文化として根づかせなければならない。

何年かかるのかもわからない。

もしかしたら、もう戻ってくることはできないかもしれなかった。

──いや、骨を埋めるくらいの覚悟がなければ、受け入れてなどもらえないだろう。

責任は重大だった。

精神的な負担はもとより、残業や休日出勤などの物理的な加重もある。

大阪に家族と一緒に赴任するより、よほど家庭への皺寄せは大きそうだ。

妻や子供たちの顔が浮かんだ。

妻の美姫とは社内結婚だったので、五十嵐の仕事への理解もあったが、二人の娘はまだ六歳と二歳で、かわいい盛りだった。

「なぜ、私なんですか?私は営業革新のコンサルタントでも、社員教育の専門家でもありませんよ」同業他社の経営者から高く評価されたとはいえ、正直にいって、ありがたさより戸惑いのほうが大きい。

「コンサル会社に頼むつもりはないそうです。

机上の学問ではなく、営業現場で培った生々しい経験を求めているのでしょう」「それは光栄ですが……」販売系の中小企業にとって大手企業の持っているノウハウは、喉から手が出るほどほしいものだ。

独自に販売革新の戦略スタッフや教育スタッフを持てる企業はかぎられている。

社員研修でさえ満足なプログラムが企画できず、講師のなり手もなかなか見つからない企業は多い。

ハピネスコンピュータは大手企業とまではいえないが、それでも大村事務機から見れば、人材に恵まれている。

とくに五十嵐のような経営戦略にかかわりながら現場のトップマネジャーであるような人材からは、得ることが多いと考えているのだろう。

「私も五十嵐さんが適任だと思います。

我が社のエースを貸し出すのは大変な痛手ですが、大村事務機は父の代からの重要なパートナーです。

なんとしても助けてやりたい。

それに、あの会社の業績が持ち直せば、うちにとっても売上の拡大になります。

ビジネスとして考えても、取り組む価値のある仕事です。

これは内示ではなく、あくまで相談ですが、引き受けていただけませんか?」穏やかな口調ではあるが、その目には強い意志が宿っている。

福永社長は信頼できる経営者だった。

尊敬もしている。

自分にできることであれば、喜んで協力したいと思う。

しかし、だからといって、即答できる問題ではなかった。

人生において、大きな岐路となる選択だ。

「一日だけ、考えさせていただけないでしょうか?」そう返事をするのが、精一杯だった。

「わかりました。

いい返事を待ってますよ」五十嵐は立ち上がると、深く一礼してから社長室を辞去した。

2逃げない覚悟が人を笑顔にする「ただいま」「あら、どうしたの?」帰宅した五十嵐の顔を見るなり、妻の美姫が顔を覗き込んできた。

濡れた手を拭っているワインレッドのエプロンは、去年の誕生日に五十嵐が贈ったものだ。

「何が?」「何かあったんでしょう」「わかるか」「そりゃ、わかるよ。

怖い顔してるもの」美姫に鞄を渡すと、手を洗いに洗面所に向かう。

鏡に映った自分の顔を見て、思わず溜息が漏れた。

たしかに美姫の言う通り、ひどい顔をしている。

福永に出向を打診されたあと、東京都下の地域を担当している第五営業所の辻堂リーダーを呼んで、大村事務機について詳しく話を聞いた。

想像していた以上に、状況は厳しそうだった。

この一年というもの、ハピネスコンピュータからの卸売実績は異常値といえるほどに減少していた。

「すみません。

私の力不足です」辻堂が神妙な顔つきで、持ってきた資料について説明をはじめる。

第五営業所の業績は、二○一五年度に入ってから予算未達がつづいていた。

都心部に比べて競合の少ない都下を担当しているので、直売の数字は悪くない。

問題は代売業績の低迷で、その多くが大村事務機の大幅な計画未達に起因していた。

「問題なのは目標未達そのものより、商品の売上構成比率にあるな」商品群別売上構成比の表を指し示す五十嵐に、「そうなんです」辻堂が深刻な表情でうなずいた。

業務系アプリケーションなど利益率の高い商品の販売が落ちている。

顧客の経営課題を共有し、業務フローから発生する問題を解決するソリューション提案ができていないのだ。

その結果、安易に販売できる低価格なハードウェアの売上比率が高まっていた。

当然、競合他社と価格競争になりがちで利益率も低くなるし、競合による失注も増える。

どこから買っても同じものならば、誰だって少しでも安く買いたい。

こんな営業をしているようでは、おそらくハピネスコンピュータからの卸売の減少以上に、大村事務機の営業粗利は打撃を受けているはずだ。

営業マンのモチベーションも相当下がっているだろう。

二○一三年度の国内のパソコン出荷実績は、台数が前年度比約十パーセント増で一千六百五十一万三千台、金額では前年度比約二十パーセント増で一兆二千百二十八億円。

出荷台数は過去最高の実績を記録した。

なぜ景気低迷がつづく中で、これほどパソコンが売れたのか。

二○一二年十月二十六日にマイクロソフトのOS、Windows8が公式リリースされている。

さらに二○一四年四月九日にWindowsXPがサポートを終了することになっていた。

マイクロソフトがOSのサポートを終了すると何が起こるのか。

世界中で悪意を以て生み出されているウイルス、ワーム、トロイの木馬などのマルウェアに対して、セキュリティ対策の更新がまったくされなくなってしまう。

いわば、徳川の大軍を前に大坂城の外堀を埋められた大坂夏の陣における豊臣方のようなもので、外敵を防ぐ手立てを失ってしまうわけだ。

企業のパソコンがマルウェアに感染すれば、機器やアプリケーションに誤作動を生じさせるだけではすまない。

重要な社外秘情報が漏洩してしまうかもしれないリスクを抱えることになる。

常にライバル企業との競争にある大手企業では、情報漏洩は死活問題に直結する。

漏れて困るような社外秘情報を持たぬ中小企業なら大丈夫かといえば、そんなことはない。

メールのアドレス帳や送受信リストにある取引先企業に対して、ウイルスを送りつけて感染させてしまうこともある。

そうなれば取引停止どころか、損害賠償さえ請求されかねない。

古いOSを使っている中小企業は、大手企業からの取引を停止されてしまう可能性もあるのだ。

このために日本中の企業が、パソコンの買い替えを余儀なくされた。

アプリケーションや周辺機器などの関連商品も含めて、あらゆる企業が設備投資を進めた。

その結果、二○一二年後期および二○一三年度は、IT業界は空前の特需に沸いたのだ。

顧客ニーズも潜在課題も関係ない。

必要に迫られた顧客から、次から次へとパソコンの注文が殺到した。

在庫は不足し、人手も足りずに納品が間に合わないほどだった。

日本語さえ話せれば、猫でもパソコンが売れるといわれた。

たしかに業績は上がった。

しかしそれが仇となり、営業マンのセールススキルは著しく低下してしまったのだ。

それも多くの経営者が気づかないうちにだった。

もちろん、WindowsXPのサポート終了は、突然降って湧いた話ではなかった。

膨大な需要が発生することも、また一時的に買い替えが集中することでそのあとに何が起こるかも事前にわかっていたことだ。

それをしっかりと予測し、事業計画やマネジメントに落とし込んだ企業もある。

ソリューション提案力を強化するために、業種や業務ごとの課題を整理して専門の対応組織を作ったり、営業マンの教育を徹底して体質変革に努めたりした。

タブレットPCを拡販することで、新たな市場の開拓を試みた会社もあった。

しかしそうした一部を除き、多くのIT企業が、営業の基礎体力を低下させてしまった。

そこにWindowsバブルが弾けたのだ。

買い替え時期の前倒しも含めたパソコンの特需が一段落すると、パソコンはまったく売れなくなってしまった。

二○一四年度の国内パソコン出荷台数は、前年度比二十三・六パーセント減の一千二百六十万九千台と減少に転じてしまった。

二○一五年度の着地予測はさらに厳しいものになっている。

パソコンが売れなければアプリケーションや周辺機器も売れない。

特需に踊った一年半ですっかり営業力を低下させた販売会社は、本来するべきソリューション提案も減少してしまい、業績不振に陥った。

IT業界全体が、ブラックホールに吞み込まれてしまった。

どうやら大村事務機も、その罠に陥ってしまったようだ。

──かなり難しい仕事になりそうだな。

営業力を低下させた販売会社を立て直すことは、とてもやりがいのある仕事だった。

営業現場一筋でやってきた五十嵐にとって、挑戦してみたいことは山ほどあったし、何よりも倒産の危機にある大村事務機の社員のためにも、本気で力になってやりたいと思う。

販売会社の業績は、現場のリーダーですべてが決まるといっても過言ではない。

営業プロセスを最適化して、マネジメント力を強化すれば、どんな販売会社だって、商品力に頼らずに業績を拡大することは可能なはずだ。

長年培ってきた経験を活かし、改革を進めれば、彼らを救うことができるかもしれない。

──それでも、出向となると……。

二人の娘はまだ幼い。

上の娘は、五十嵐と公園に行くのを、何よりも楽しみにしていた。

家族との大切な時間を犠牲にしなければならなくなるかもしれない。

いや、それくらいの覚悟で挑まなければ、改革などできるものではないだろう。

最年少で部長になった五十嵐は、今までも家庭を顧みられなくなるような生活を強いられたことはあったが、出向となればそれどころではないほどの困難が待ち受けているに違いない。

また、溜息が出た。

いったい何度目だろうか。

ネクタイを外しながら、ダイニングテーブルに座った。

美姫が五十嵐の分の夕食をテーブルに並べていく。

ハンバーグが湯気を上げていた。

美姫の得意料理の一つで、五十嵐の大好物でもある。

五十嵐の隣では、まだ起きている長女が折り紙を作っていた。

その柔らかな笑顔を見ながら、目の前の食事に箸を伸ばした。

至福のときだ。

この時間は何ものにも替えがたい。

──やはり、断ろう。

そう思ったときだった。

「パパ、リストラってなあに?」長女が顔を上げた。

「えっ、なんだい、いきなり」「智則のパパがリストラだから、遠くに引っ越しちゃうんだって。

だから、これをあげるの」智則というのは長女と同じ幼稚園に通っている男の子で、たしか同じバス停を使っていたはずだ。

何度か名前を聞いたことがあった。

将来は智則のお嫁さんになると、照れながら教えてくれた。

父親がリストラになり、他県で再就職したのだろうか。

もしかしたら故郷に戻るのかもしれない。

不況つづきのこのご時世を考えれば、さして珍しい話ではなかった。

長女はふたたび折り紙に没頭する。

小さな下唇を嚙み締めるようにしっかりと結んでいる。

これは悲しいときにするくせだ。

彼女は初めての恋を、別れという形で終えなければならない。

長女が一生懸命に鶴を折っていく。

幼稚園児にしてはかなりじょうずなほうだろう。

それが彼女にできる精一杯のことなのだ。

美姫がそっと手を差し伸べ、長女の黒髪に優しく触れた。

──逃げちゃいけない。

助けを求めている人がいる。

それなのに見て見ぬふりをするという生き方など、やはりできない。

自分にできることから、目を背けてはいけない。

どんなに苦しいことからも、絶対に逃げないで頑張ってきた。

それが五十嵐の生き方だったはずだ。

逃げたことを背負って生きても、楽しい人生のはずがない。

「やっと笑顔になったね」美姫が冷蔵庫から出してきた缶ビールを、五十嵐の前に置いた。

「また、苦労をかけるかもしれないよ」「今までだって、苦労だなんて思ったことなかったから」そう言いながら、美姫が微笑んだ。

覚悟を決めると、心の中のモヤモヤがすっきりとした。

「ありがとう」五十嵐も妻に笑顔を返した。

3サムライの復活が未来を創る五十嵐は福永に出向を受けることを伝えた。

喜んだ福永に、握手を求められる。

四月一日付け人事で社長付け部長となり、大村事務機に出向することが決まった。

代理店への出向は、本来なら人事部付けになる。

それからしても今回の件が特別なものであることが知れた。

給料は今まで通りの金額で、すべてがハピネスコンピュータから支払われる。

取引先に営業社員を出向させることは珍しいことではなかった。

業績が低迷している零細の販売会社に対しては、積極的に営業管理職や営業マンを送り込んで支援していた。

もっとも、いくら出向したとはいえ、社員というものは給料を出してもらっている出向元の会社のために仕事をするものだ。

発注ではハピネスコンピュータを最優先にする。

結果として、ハピネスコンピュータからの仕入れが増大するわけで、これも競合排除による売上増大施策の一つだった。

出向を受け入れる販売代理店は、経営に喘いでいるような零細企業ばかりだ。

事務機器販売といっても、その実は文房具やOAサプライのような一個数百円程度の安価な消耗品の薄利多売で食いつないできたのだ。

そこへ営業管理職を出向させ、数十万円から数百万円のIT機器やシステムソリューションをどんどん販売させる。

その仕入れ先は、すべてハピネスコンピュータになる。

仕入れの構成比でIT機器が増大したところで、販売実績に応じた販売奨励金をキックバックする形で請求金額から割り引いてやる。

販売代理店にとって、これは純然たる粗利となり、売上も利益も増大し、業績は一時的には回復の兆しを見せる。

ただし、販売奨励金は麻薬だ。

一度味わうと二度と抜けられなくなる。

販売奨励金ほしさに、さらにハピネスコンピュータからの仕入れ商品に販売が傾注していく。

場合によっては赤字覚悟で大幅な値引きをしてまで、顧客に販売するケースも出てくる。

販売量さえこなせば、どうせ販売奨励金という名の仕切割戻しがされるのだ。

それでも業績が好転すれば問題ないが、そういう会社ばかりではない。

安価な消耗品中心から高額なIT機器中心に販売がシフトしてしまっているので、予算計画が未達になる場合も、その金額は桁違いに大きくなる。

そこでさらなる販売奨励金や支払いサイトの延長などの支援を求めてくる。

初めはそれにも応じるが、それでも業績が回復しなければ、資本を入れて救済する。

一時的には子会社化し、最終的には吸収合併するのだ。

この十年間でそうやって吸収してきた企業は、十社を下らない。

いわば企業乗っ取りのようなものだが、これは最初から狙ったものではなく、結果としてそうなったにすぎない。

IT業界にかぎらずビジネスの世界では珍しいことではないが、ハピネスコンピュータはあくまでもビジネスパートナーとの共存共栄が経営理念にある。

今回の大村事務機の件も、本気での支援が福永の本意だろう。

出向させられるのは、部長や課長を経験しながら、優秀な後輩の台頭によって管理職の席を譲ることになった社員が多い。

ある意味で、第一線を外れたベテラン社員のポスト確保にもなっていた。

だから今回の五十嵐の件は異例といえた。

文字通り第一線の営業部長が取引先に出向する。

辞令が発表されれば大騒ぎになるだろうが、覚悟を決めた身にとってはそれも気にすることではなかった。

福永のもとを辞去すると、そのまま大村事務機の大村社長のところへ挨拶に向かう。

何よりもまず、社長の思いをたしかめておきたかった。

大村事務機に着くと、応接室に通された。

ひび割れが目立つ古びた本革のソファーが、会社の経営状態の厳しさを連想させる。

十年物のエアコンがカタカタと音を立てていた。

待たされることもなく、大村社長が現れた。

濃紺のスーツに臙脂のネクタイを締め、しっかりと鋏の入れられた白髪を丁寧にオールバックに撫でつけている。

眉間の皺には、時代を戦い抜いてきた経営者の苦悩が滲み出ていた。

握手を求められ、五十嵐は立ち上がって応じる。

ソファーに腰を下ろしてすぐに、大村社長が深く頭を下げた。

「今回の件では、無理を言ってすまなかったね」「そんな……頭を上げてください。

むしろ、ご指名をいただいて、光栄だと思ってます」大村社長が顔を上げた。

まっすぐに見つめてくる。

「ハピネスコンピュータと違って、うちは小さな会社だ。

それでも五十人ほどの社員がいる。

その家族まで含めれば、その数は何倍にもなる。

社員はみんな家族なんだ。

路頭に迷わせるわけにはいかない。

五十嵐さん、どうか力を貸してほしい」「全力を尽くします」「ありがとう」大村社長が真剣な顔で、ふたたび頭を下げた。

五十嵐の職務について説明がある。

空席になっていた営業部長職の任につき、営業部全体を統括する。

さらに営業力強化責任者として、営業革新と人材育成を担当することになる。

役員ではないが、営業戦略分野においては、社長と同等の業務執行権限を持つ。

「一年後には私は社長職を退き、代表権のない相談役になろうと思っている」「経営を任せるということですか?」「すでに息子の弘明に経営は任せている。

私が出社するのは週に二日だけで、それも簡単な報告を受けるだけだ。

弘明が成長していくためにも、院政を敷くようなことはしたくないんだ」大村社長の不退転の決意に、あらためて身が引き締まる。

もっともトップの交替は、後継者が充分に育ってからでなくては組織の弱体化に繫がりかねない。

こんなやり方はオーナー企業ならではであって、株式が公開されているハピネスコンピュータでは考えられないことだ。

「五十嵐さん、『叱る』と『怒る』って、どちらが正しいと思う?」大村社長が強張っていた表情をやわらげ、問いかけてきた。

突然の質問に戸惑いながらも、ビジネス書などで読み溜めてきた知識の中から適切な答えを探す。

「叱るは論理的で、怒るは感情的だと思います。

管理職としては、叱るが正しいのではないでしょうか」大村会長が、優しげに目を細める。

今まで見せたことのないような笑顔だ。

「そうだな。

一般的には、それが正解なんだろう。

だが、私は少し違った見方をしている。

叱るは職務として、怒るは人として。

もしも弘明が道を誤るようなことがあれば、覚悟を持って怒ってやってほしい」管理職としては、部下を叱ることは当然あるだろう。

しかし、組織人としては、上司にも本気でぶつかっていくことが求められる。

絶対的な上意下達が日本企業の美徳とされた時代は、もはや終わっている。

リーダーが組織力強化に本気で立ち向かうのであれば、部下の異論を受け止め、上司とも議論を戦わせなければならない。

異なる考えを排除する組織では、いかなる改革も成し得ない。

もちろん、それにはしっかりとした信頼関係が構築されていることが前提だ。

すべては会社や仲間を思う心があってこそだ。

中小企業ほど、経営者が裸の王様になっていることが多い。

童話では王様の裸を指摘する少年が登場するが、現実の企業ではそんな人材はなかなか現れない。

大村社長は自分が退いたあとも、大村事務機が正しく機能していくことを望んでいるのだ。

「私が営業力強化を進めるにあたり、社長が望まれることはなんでしょうか?」これはどうしても大村社長の口から、直接聞いておかなければならないことだった。

トップの思い──ビジョンを具体的に実現していくことが、企業力を高める一番の近道だからだ。

「お願いしたいことは二つだ。

一つは、IT化も含めた、最新の営業プロセスを構築すること。

うちはIT販売の会社でありながら、営業システムは十年は遅れ

ている」「すべての結果には、必ずプロセスがあります。

結果重視の営業から脱却できるように、仕組みを作り、文化にしたいと思っています」大村社長がうなずく。

「そしてもう一つは、サムライの復活だ」「サムライですか?」その言葉の持つ響きに違和感を覚える。

気合いと根性で成り立つような古い販売体質については、モチベーションの醸成に寄与する点は認めつつも、否定的な思いのほうが強かった。

五十嵐自身、営業マンとしてスタートした若いころ、先輩や上司から精神論を押しつけられ、納得がいかなかったことが多かったからだ。

五十嵐の表情から何かを読み取ったかのように、大村社長が深く息を吐いた。

大村事務機の前身の大村文具は、戦後間もないころに、戦地から引き揚げてきた大村社長の父が、仲間と三人で興した会社だ。

初めは、小学校に文房具や備品を売って歩いた。

戦争が子供たちから教育を奪った。

教育が不充分だったから、国が道を誤ったとき、国民はそれを止められなかった。

子供たちに紙や鉛筆を届けることが、新しい日本を作ることだと信じて、必死で仕事をした。

足を棒にし、靴底に穴を開けながら、顧客に売りつづけた。

どしゃぶりの雨の中、たとえ鉛筆一本の注文でも、喜んで届けに行った。

お客様の役に立っていると感じることが、何より幸せだったからだ。

事業は拡大をつづけ、社員も増えていった。

創業二十周年を機に、新社屋も建てた。

借金は膨らんだが、自分たちの城を持てたことに、社員の結束はさらに強まった。

今の大村社長が、大学卒業と同時に新入社員として入社したのも、ちょうどそのころだった。

その翌年、全国的な大手の文房具メーカーから、企業買収の申し入れが来た。

直系販売会社として、地域支社の傘下に入らないかという誘いだ。

仕入れや流通でメリットも大きいが、そのいっぽうで、会社としての独自性は失われる。

創業以来取り組んできた地域貢献の活動には、利益や効率を徹底して重視する経営は重い足枷となる。

社員総意で買収を断った。

それからが大変だった。

大手メーカーの直系販売会社から、狙い撃ちで攻撃を受けた。

低価格を武器に、大口の取引先を次々と奪われていった。

大手企業は一括仕入れにより、徹底したコストダウンをしている。

物流や販促でもスケールメリットを出している。

価格競争では勝ち目はない。

対抗できる武器は、人と人とのコミュニケーションしかなかった。

大村事務機は顧客起点でのサービスをさらに強化し、地域密着型の新規開拓で顧客を増やして会社を守り抜いた。

地域住民の生活を支え、ともに発展していく。

それが社員全員の合い言葉になった。

「価格重視の大口顧客は、根こそぎ持っていかれたよ。

とにかく、新しい顧客を作るしかなかった。

入社したばかりだった私も、先輩方から教えてもらいながら、必死になって営業した。

ずいぶん泥くさいこともやったな。

自治会や子供会の会合に参加させてもらって、一緒になってイベントの企画をした。

地元のみなさんに喜んでもらうにはどうしたらいいか、ない知恵を絞って社員みんなで必死になってアイデアを出し合った。

地元の祭りに社員総出で参加して景品に文房具を配ったり、老人会のハイキングに同行して画材やノートを売ったりした。

なんだってやったよ。

そうやって市役所や地元の企業にパイプを作っていった。

大変だったけど楽しかったな。

仕事を取るためにやっていたことが、いっぽうでは地域の発展や市民交流の活性化に貢献していると実感できた。

お年寄りや子供たちの笑顔が、何よりの報酬だった。

それが我が社の原点なんだ。

残念ながら今の営業マンたちは、先輩から引き継いだ顧客を維持することばかりを考えている。

もちろん、それも大切な仕事だ。

だけど企業の使命は、新しい顧客を作りつづけることだ。

それこそが営業マンの仕事なんだ」「それがサムライの復活ということですね」「私はそう思っている」最新の営業プロセスの構築とサムライの復活。

この相反するような二つのことが、はっきりと一つのことに重なって見える。

「やってくれるか?」大村社長がまっすぐに見つめてくる。

「全力を尽くします。

でも、私が来たのは、会社の立て直しを指揮するためではありません。

みんなと一緒に戦うためです」「それで充分だ」立ち上がった大村社長が、握手を求めてきた。

4四つの視点で改革する三月三十一日。

初出社を翌日に控え、五十嵐は専務の大村弘明に挨拶に行った。

大村事務機の社長室で面談する。

大村社長は外出していて不在だった。

「明日からお世話になる五十嵐です。

よろしくお願いします」「社長が強引に引き抜いたそうだな。

せっかく出世コースに乗っていたのに、かえって悪いことしちゃったんじゃないか」「いえ、そんなことは……」イタリア製のブランドスーツに濃厚な香水の匂い。

以前は外資系のIT企業でプロモーションの仕事をしていたそうだ。

広告代理店などとの付き合いも多かったのだろう。

経営者とはいえ、販売会社のトップとは営業マンなのだ。

五十嵐からすれば、どうかと思うような出で立ちだった。

「ハピネスコンピュータは、うちにとって親会社みたいなもんだからな。

資本は入ってなくても、仕入れの六割を依存している……」だからなんだ、と喉まで出かかった言葉を、グッと吞み込んだ。

「……まあ、出向っていったって、どうせ一年くらいのものなんだろう。

長めの休暇かなんかと思ってさ、お手柔らかに頼むよ」「それ、どういう意味ですか?」「どういう意味って……」「お世話になると決めた以上は、こちらに骨を埋める覚悟で、本気でやらせていただきます。

納得する成果を出せるまでは戻るつもりはありませんから、もしも私の仕事ぶりにご不満があるときは、いつでも遠慮なく言ってください」五十嵐の気勢に、大村専務は一瞬鼻白んだ表情を見せる。

大村社長との約束があった。

たとえ相手が専務とはいえ、言うべきことは言わなければならない。

「冗談だよ。

そんなにムキにならなくてもいいだろう」「私はただ、本気で専務の力になりたいと思っているだけです」五十嵐の言葉に、大村専務が小さく溜息をついた。

その表情からは、面倒くさいやつが来た、とあからさまに読み取れる。

「まあ、業績については、今までも俺が厳しく言ってきたんだ。

それでもこんななんだよ。

これだけ市場が冷え込んでると、お客さんの購買意欲も下がるいっぽうだし。

ハピネスコンピュータが、もうちょっと卸値を下げてくれると、うちも助かるんだけどな。

ねえ、坂巻部長」大村専務が助けを求めるように話を振った坂巻健吾が、表情を引き締めたまま、五十嵐のほうに向き直った。

坂巻は経理部長として、財務の責任者をしている。

二年前、五十歳を機にメインバンクである白百合銀行から出向してきていた。

色の白い細面のどこか神経質そうな顔立ちで、きっちりとまるではかったかのように七三に分けられた髪に、メタルフレームの眼鏡が妙に似合っている。

絵に描いたような銀行マンだ。

立場は同じ外様だったが、五十嵐の給料が全額ハピネスコンピュータから出ているのに対して、坂巻の場合は白百合銀行の負担は半分だけだった。

つまり銀行の人減らしで、五十嵐とは違って片道キップの出向だ。

白百合銀行としては融資を人質に取りながら、台所奉行を送り込んできたわけだが、同様に軍師として送り込まれた五十嵐とは、互いに微妙な関係になりそうだった。

「私は営業についてはわかりませんから、すべて専務と五十嵐部長にお任せします。

もっとも、せっかく伝説のトップセールスといわれた五十嵐さんに来てもらったんだ。

経理を預かる者として言わせてもらえば、たしかにハピネスコンピュータからの仕入割戻しについて、もうちょっと交渉してもらえるとありがたいですね」中指の先でずり落ちた眼鏡を押し上げながら、上目遣いで五十嵐を見上げた。

冗談めかした言い方だが、かなり本音が交じっている。

「短期的な業績回復のためには、たしかにそれも一つのカンフル剤になるかもしれませんが、本当に営業力を強化するためには、あくまでも顧客からの売上を拡大していくための抜本的な改革が必要だと思っています」「さすがはハピネスコンピュータのトップマネジャーだ。

会社思いですね」「もう正式に辞令は下りています。

私の会社は大村事務機です」「本当にそうなら、ありがたい心がけだ。

ただ、その抜本的な改革ってやつにはどれくらい時間がかかるんです?毎月の資金繰りは待っちゃくれない。

たとえカンフル剤だろうが、今日の飯が食えなければ明日には死んでしまうんだ」「それをつづけてきたから、こんなにも体質が弱くなってしまったんじゃないですか」「まがりなりにも、今までそれでなんとかやってきたんだ。

コンサルの連中も口を開けば改革だの変革だのと言っていたが、どうせ新規の投資をしたって、成功するかどうかわからないじゃないか?」「結局は経費削減に落ち着くんですか?否定はしませんが、それだけでは企業は成長できません」五十嵐の言葉に、坂巻がムッとしたように顔を強張らせ、さらに反論しようとした。

それを制するように、大村専務が五十嵐に質問する。

「それで、どうやってうちの業績を回復させるつもりなんだ?」まずはお手並み拝見という感じで、坂巻が両腕を組みながら五十嵐をじっと睨みつけている。

五十嵐は開いたノートを見ながら、企業における病根について説明した。

説明を終えた五十嵐に、大村専務が、「うちにも当てはまることがあるのかな?」などと吞気なことを言う。

「椅子職人の話というのがあります。

腕のよい椅子職人がいて、いつもお客様の要望に応えた丁寧な仕事をしていました。

彼の椅子はとても座りやすいと、街中の評判になりました。

やがて注文が殺到するようになると、一人では作るのが追いつかなくなる。

そこで職人は何人もの弟子を雇います。

ある者は椅子の脚を作り、ある者は肘掛を作り、ある者は背凭れを作る。

それぞれは脚作りのプロであり、肘掛作りのプロであり、背凭れ作りのプロであり、丁寧な仕事をしているのですが、誰も他の職人の仕事のことは知らないし、完成した椅子も見たことがないんです。

なぜなら、それは自分の仕事ではないからです。

結局、いつの間にかその職人の椅子は売れなくなってしまったそうです」「分業した結果、お客様の要望が伝わらなくなってしまったんだな。

まさに大企業病ってやつか。

その点で、うちは心配するほど大きな会社じゃないからな」「どうでしょうか?会社の規模にかかわらず社員が三人以上いれば、三つのどれもが当てはまるといわれています。

ハピネスコンピュータだって、様々な問題や課題を抱えていました。

大村事務機が例外であればいいのですが……」大村専務が渋い顔をする。

「で、その病を治すにはどうするんだ?」「特効薬はありません」はっきりと答えた。

坂巻が嘆息する。

「薬がないなら、病気は治らないじゃないか」「薬で治すことはできませんが、体質を改善することにより、病に打ち勝つことは可能です。

自然治癒力を高めるというやり方です」大村専務が初めて身を乗り出した。

「なるほど。

で、具体的には?」五十嵐は立ち上がると、社長室に備え付けのホワイトボードに、マーカーで図表を描いていく。

「営業力を強化するために、四つの視点での改革が必要だと思っています。

①ビジョンの共有②仕組みの構築③情報の活用④教育の強化です」五十嵐は図表を指し示しながら、解説を加えていった。

①ビジョンの共有企業の価値観を示したものが経営理念だ。

これは会社の基本思想であり、不変のものとなる。

この経営理念に基づいて実現すべき具体的な姿がビジョンだ。

社会の流れや会社の持つ問題・課題に応じて変化していくものでもあるので、組織は中期的、長期的にビジョンを策定する必要がある。

そして、このビジョンという具現化された価値観を組織内で共有させていくことが、リーダーのもっとも重要な役割となる。

トップが明確なビジョンを打ち出し、それを社員が日常の戦略や事業計画に落とし込んでいくことが大切だ。

ビジョンは組織の目指すべき姿なのだから、ホームページや方針書に書かれているだけでは意味がなく、社員一人ひとりが深く理解した上で、自ら意識して日常行動に落とし込んでこそ共有されているといえる。

富士山に登るという方針を打ち出していても、登山経路の指定や登山道具の準備だけでは、全員が頂上まで行きつくことは難しい。

それぞれ能力も経験も違う。

むしろ必要なのは、「なぜ富士山に登るのか」という理由づけなのだ。

明確な理由は、人の意志を強く支えてくれる。

そして意識こそが行動を変える。

②仕組みの構築仕組みというものは、それが存在している理由が社員に理解されていること、モチベーションが上がること、誰がやってもある程度の成果が期待できることが重要である。

成果が個々人の経験や能力によって変わってしまうようでは、仕組みが構築されているとはいえない。

③情報の活用仕組みや制度は、所詮は道具にすぎない。

それをどのように使うのかは、情報によって判断される。

「こんな笑い話があります。

外国から商人が日本に買い付けに来たそうです。

その商人が日本の水道の蛇口を見て、『これは素晴らしい。

私の国では毎日、井戸まで何キロも歩いて水を汲みに行く。

日本ではこの蛇口をひねるだけで、簡単に水が出てくる。

これを買って帰りたい』と言ったそうです。

もちろん、蛇口だけを買っても水は出ません。

どんなによい仕組みを作っても、そこに情報という新鮮な水を流さなければ、なんの価値もないわけです」そのたとえ話に、大村専務が苦笑する。

さらに説明をつづけた。

④教育の強化研修などの教育の機会は、組織として定期的に提供していかなければならない。

さらに研修が断片的なものにならないように、日常の活動と紐づけることを、現場のリーダーが意識していくことが大切だ。

OFFJTとOJTが分断されたものではなく、一貫した教育としてマネジメントされていなければならない。

集合教育でありがちな光景は、研修中は「これはためになる」と真剣に学んでいたのに、翌日に現場に戻ったら、上司から「能書きはいいからさっさと数字を持ってこい」と言われ、すっかり普段のやり方に戻ってしまうというものだ。

教育は日常の仕事の中で、意識されることなく実践されていくことがもっとも望ましい。

そういう仕組みを作るのもリーダーの仕事だ。

「私の上司はゴルフがとても好きな方で、よく一緒に行っていました。

この上司が、おもしろいたとえ話をしてくれたことがあります。

まずはいつまでに九十を切るのだと、はっきりと宣言をすることが大切だと言っていました。

ビジョンの共有ですね。

そのために上司は、十万円もするドライバーを買いました。

やはり、勝つためには道具は重要です。

仕組みの構築です。

しかし、それだけではスコアは上がりません。

スコアメイクには情報が必要なんです。

コースをまわるときにはキャディさんを頼んで、『あの木の向こう側には、見えないけれど池がある。

必ず避けるように』という情報をもらうわけです。

そこまで教えてもらっているのに、やっぱり池にボールを落としてしまう。

練習も必要なんです。

タイガー・ウッズだって、コーチに教わりながら練習をするんです。

教育を受けなければ、スコアメイクはできません」大村専務はどうやらゴルフ好きのようで、何度もうなずいていた。

「話はわかったが、どこから手をつけるつもりなんだ?」大村専務が五十嵐の顔を覗き込むようにして訊いてくる。

「改革を検討する仕組みが必要です。

手始めに、二つほどお願いがあるのですが」「二つ?」「まずは営業課の組織長名を変更させてください。

営業マネジャーをリーダーに変えたいと思います」「営業部長は五十嵐さんなんだから、自由にやってかまわないが、それにどんな意味があるんだ?」五十嵐の提案に、大村専務は首をかしげた。

「組織長というのは、管理者(マネジャー)ではなく、牽引者(リーダー)であるべきです。

性悪説的に管理するのではなく、性善説的な信頼のもとに協力し合う仲間を率いていくイメージですね。

マネジャーは業務プロセスの管理を担い、リーダーは価値観の共有が仕事となります。

今うちに必要なのはリーダーです」「そんな小手先のことをしても仕方ないだろう」坂巻が冷たく言いはなつ。

「もちろん、きちんと仕組みは作っていきますが、そうはいっても名は体を表すといいますから、まずは名前から変更して、みんなに意識してもらいたいんです」「それで、二つ目は?」大村専務が先を促す。

「私たち三名に、さらに三名のリーダー、そして営業マンの代表者三名を加えた九名で、合宿をしたいと思います。

一泊二日でどこかの研修施設にこもって、営業力強化のための営業改革について徹底的に議論を尽くすんです。

名称はマネジメント研究会なんてどうでしょう?」「俺なら大丈夫だが……坂巻さんはどう?」大村専務が視線を投げる。

坂巻は明らかに気乗りしない様子だ。

「私は営業のことなんて、何もわかりませんから」「坂巻部長には財務的な判断が必要な事案に際して、ご意見をいただけると助かるのですが」「参加したってお役には立てません。

遠慮しておきますよ」五十嵐が頭を下げたが、坂巻は決して首を縦に振らない。

「まあ、坂巻さんはいいだろう」大村専務が断を下した。

五十嵐もそれ以上は言えなかった。

システムへの投資も検討課題に含まれるため、経理責任者である坂巻を巻き込んでおきたかったのだが、早くも予防線を張られてしまったようだ。

「では、四月は期初ということもあり、重点顧客への挨拶まわりなど時間を取られることも多いと思いますので、五月の連休の狭間に日程を設定したいと思います。

当日のアジェンダについては、私のほうで用意をしておきます。

営業マン三名の選出については、リーダーたちと相談しながら、一カ月かけて私のほうで決めたいと思います」話を締め括る五十嵐を、大村専務が腕組みをしながら見つめている。

「それで、我が社は変わるのか?」「社員一人ひとりが、強く変わりたいと願えば、どんな改革だってできないことはありません」「気持ち次第ということだな」「やりましょう。

誰だって、明日と自分は変えられますから」

5笑顔と活気がやる気を引き出す四月一日の朝。

五十嵐の初出勤日だ。

八時には席にいたが、社員の姿はほとんど見えない。

──まあ、期初だからこんなものか。

八時半をすぎたころから、ようやく出勤してくる人が目立ちはじめた。

三人の課長が順番に挨拶に来る。

時計の針はすでに八時四十五分を指し示している。

上司風を吹かせる気は毛頭なかったが、これでは少し寂しい。

社内とはいえ初対面なので、名刺交換をしながら「よろしく」と頭を下げた。

八時五十分から社歌の斉唱とラジオ体操がはじまる。

建前としては自由参加だが、さすがにこの時間になると全員が出社していた。

小学校の校歌のようなどこにでもありそうなメロディに乗せ、昭和の匂いがプンプンと立ちのぼる歌詞がつづく。

眩暈がしそうだった。

それでも全員が体育会系のノリで明るく元気に声を上げているのであれば少しは清々しい気持ちにもなれるのだが、残念ながら誰もが覇気のない声で、コンピュータの自動音声よろしく淡々と歌っているだけだ。

気に入らないのなら不貞腐れた態度を取ってくれたほうがまだましだった。

そんな意思表示さえもない。

九時から、期初の全体朝礼が行われた。

大村社長が全社員に向けて、先期のお礼と今期への期待について、簡単な挨拶をした。

次に大村専務が前に出る。

「先期の業績は大変厳しい結果で終わりました。

昨年度は通期で予算未達でした。

三月の大型予算を達成することで挽回を狙いましたが、残念ながら叶いませんでした。

そこで今期は、我が社の盟友であるハピネスコンピュータさんから、五十嵐卓也さんに営業部長として来ていただき、大改革を断行することにしました。

新体制のもと、まずはとにかく一勝です。

スタート月である今月を死守してください。

全員が予算必達の覚悟で、気合いを入れ直して仕事に取り組みましょう」大村専務の言葉は、若いだけに荒々しい。

大改革と言いながら、舌の根も乾かぬうちに、今月の予算達成を死守しろと言っている。

長期的に業績が低迷しているのには理由がある。

起きている問題を解決もせず、営業マンの気合いと根性で業績を上げようとしても長つづきはしないし、社員が疲弊して会社の体力がますます落ちていくだけだ。

五十嵐が就任の挨拶をする。

「おはようございます!本日より、みなさんと一緒に仕事をさせていただくことになりました五十嵐です。

よろしくお願いします!」明るく元気な声で挨拶をする。

笑顔と挨拶は仕事の基本だ。

五十嵐は尊敬する上司から、「すべては挨拶からはじまる」と教えられてきた。

一人ひとりの顔をしっかりと確認しながら、言葉に思いを込めて大きな声で伝えていく。

「みなさんの夢はなんですか?どんな人生の夢を持っていますか?私は、会社は夢を実現するための場所だと思っています。

そのお手伝いをするために、大村事務機に来ました。

誰もが楽しく、そして本気で仕事に取り組める環境と仕組みを作りたい。

頑張りますので、ぜひ力を貸してください。

私は絶対に逃げないし、諦めもしません。

一緒に、夢を実現しましょう」パラパラと拍手が起きる。

いかにも事務的な感じだった。

否定的というのではなく、無反応という感じだ。

お世辞にも活気があるとはいえない。

五十嵐が張り上げた声だけが、空回りしていた。

会社全体に怠惰な空気が漂っている。

誰が来たって、何をしたって、どうせ何も変わらない。

朝礼から、そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。

貧すれば鈍する。

業績が苦しくなると、心までが貧しくなってしまうのだ。

まさに今の大村事務機が、そうなろうとしているようだった。

全体朝礼が終わると、各課に分かれて、朝のミーティングがはじまる。

三人のリーダーがそれぞれ十名の部下たちの案件進捗状況を確認しはじめた。

「こんなんでどうすんだよ。

いくら月初だからって、気の抜けた仕事をしてんじゃねえぞ。

一生懸命はいらねえんだ。

案件持ってこい」大手営業課リーダーの佐伯信秀が机を叩きながら、大声を張り上げた。

眉間に皺を寄せ、目を吊り上げて、目の前の営業マンたちを睨みつけている。

佐伯は五十嵐の二つ下の三十八歳。

ゴルフか釣りかはわからないが、日焼けした顔が精悍で、スリムスーツがよく似合う痩身長軀だ。

大学時代は駅伝の選手で、箱根を目指して四年間陸上部に籍を置いていたらしい。

入社以来営業一筋で業績を上げつづけてきた、自他共に認める大村事務機のエースといっていい。

大村専務の信任も厚い。

佐伯の前で身を強張らせ、じっとうつむいているのは、三年目セールスの秋元香乃だ。

机の上に置かれた手が、微かに震えている。

相手が女性だろうが若年次セールスだろうが、佐伯は部下に対してまったく容赦をしない。

「すみません……」香乃は嵐がすぎるのを待つように、うつむいてじっと耐えている。

「いいか、こういうのを給料ドロボーっていうんだよ。

百歩譲って、三月に百二十パーセントくらい数字を出しきったってんなら話はわかる。

おまえ、先月の達成率はいくつだ?」「七十二パーセントです」「えっ?なんだって?聞こえねえよ。

客先でもそんな小さな声で商談してんのか?」「すみません」「おまえ、そればっかりじゃねえか。

もう二年も営業やってんだろう?言いわけの一つでもしてみろよ」「これだけ景気が悪いと、設備投資に慎重な企業が多くて……」「ああ?じゃあ、なんで地域営業課の本多係長はずっと予算を達成しつづけてるんだ?景気が悪いのはどこも一緒だろ」「それは……すみません……」「また、それか。

だいたいうちの顧客は大手の優良企業が多いんだ。

地域営業課より不況に強いはずだろう?売上が悪いのを客のせいにするな!」本多俊章は全社を牽引するトップセールスで、地域営業課の係長だった。

営業マンの予算計画は、担当顧客層や営業年次をベースにしながらも、実質的には前期実績比百十パーセントで組まれる。

予算を達成できなければ報奨金は出ないし、ボーナスも期待できない。

だが、予算を達成すれば、翌期には大幅な予算計画増が待っている。

やればやるほど苦しくなり、蟻地獄のような予算組みから抜け出せなくなる。

大手企業を担当する三年次営業マンの香乃の月次売上予算は三百万円程度。

本多の場合は中小企業担当にもかかわらず、一千万円を超えていた。

ほとんどの営業マンが予算に苦しんでいる中で、本多は高い水準で達成しつづけていた。

まさに全社ナンバーワンのトップセールスだ。

本多ならハピネスコンピュータの営業マンと比較しても、かなり上位の評価を得るだろう。

「少しは本多を見習ったらどうだ」隣の島に座っている本多にも、佐伯の怒声ははっきりと聞こえている。

引き合いに出されて、人のよさそうな顔をわずかに歪め、居心地が悪そうにしていた。

本多の上司である地域営業課リーダーの中川智也が、佐伯と張り合うように大きな声を上げている。

中川は佐伯と同じ三十八歳で、同期入社だった。

佐伯のほうが管理職になったのは二年早い。

中川がそのことを意識していないはずはなかった。

中川がわざとらしく大きな溜息をついた。

誰もが、三月に大型予算を追いかけたばかりだった。

四月一日は期初であり、月初でもある。

三月から繰り越した継続案件もないわけではないだろうが、よほどのトップセールスでなければ保有案件は乏しい状況になっているはずだ。

しかしそんなことなどおかまいなしに、中川は部下たちを追いつめていく。

主任の加藤光則がチェックを受けた。

「あの、保有案件としては厳しい状況ですが、ターゲットの中に見込み顧客が数件ありますので、今週中にそこから案件化したいと思います」加藤の額を汗が流れる。

「その根拠を言ってみろよ」「それは……」加藤の表情が固まった。

大村事務機では顧客を三層にセグメントし、それぞれに営業課を配置している。

公共営業課は市役所や学校法人を担当し、売上予算は一番大きい。

ただしその特性から、粗利率は一番低く組まれ、予算計画も三カ月単位となっている。

六月、九月、十二月、三月の四回しか締め日がないのだ。

しかも年間計画の五割近くが第四四半期に計画されている。

代金回収や与信の心配がない反面、入札になる案件も多く、随意契約の場合も利益はほとんど見込めないことが多い。

地域営業課は従業員数三百名未満の中小企業を担当し、売上予算は一番小さい。

その代わりに粗利率はもっとも高く組まれ、予算計画は一カ月単位となっていて、毎月末が締め日となる。

経営者や決裁権を持った管理職と直に商談できることが多いが、顧客の購買ポテンシャルは決して高いとはいえず、経営層との人間関係が商談を左右することもある。

大手営業課は従業員数三百名以上の大手企業を担当し、売上予算も粗利率も三課の中間になるように組まれている。

予算計画は地域営業課と同じ一カ月単位となっている。

顧客の購買ポテンシャルは高く、設備投資にも積極的ではあるが、商談の成約までには、稟議や役員会での承認など、複雑で長い決裁ルートを通さねばならないことが多く、営業にあたっては豊富な知識や経験が必要とされる。

毎朝のミーティングは、三つの営業課ごとの顧客特性に応じて、顧客との関係力強化や商談シナリオの進め方について情報共有していくことが狙いなのだが、実際は厳しい案件チェックの場になっているようだ。

「いいか。

今月は絶対に落とせないからな。

今日から数字を出していくぞ。

遠山運輸の会計システム、もう二カ月も進んでないだろう。

どうなってんだ」中川が加藤を睨みつける。

「社長が忙しいとのことで、なかなか会う時間がないと」「経営者ってのはな、会社の利益になると思えば、なんとしてでも時間を作ってくれるもんだ。

会う時間がないって言ってるのは、会う価値がないって思ってるからだ」「それは……」「気持ちの入ってない提案だから、聞く耳を持ってもらえないんだよ!遊びじゃないんだ。

もっと気合いを入れて仕事しろ!」「すみません」部下を叱るというより、まるで佐伯と競い合っているかのようだ。

それを大村専務が離れたところから見ていて、何度もうなずいていた。

佐伯と中川は、明らかに大村専務を意識している。

その向こう側では、公共営業課リーダーの高橋秀樹が、我関せずといった淡々とした表情でノートパソコンに向かっていた。

高橋は定年まであと五年を切っている。

このまま何事もなく平穏無事にすごせればいいと考えているのか、波風を立てないように仕事をするタイプのようだ。

公共営業課はすでにミーティングを終えていた。

課別のミーティングがはじまって、まだ五分も経っていない。

毎月締め日が来る大手営業課や地域営業課とは時間の流れが違うようだ。

それにしてもこの温度差は気になった。

その間も佐伯と中川の怒声が響き渡る。

営業部長のポジションは長らく空席で、大村専務が兼務してきた。

五十嵐が就任したとはいえ、あくまでも出向者だ。

いずれはハピネスコンピュータに帰るものだと思われているだろう。

そうなれば次に部長になるのは、三人のリーダーの内の誰かだ。

いや、高橋は出世競争などには興味がなさそうなので、佐伯と中川がライバル関係ということになる。

乱暴になりがちな言葉遣いも、競争への焦りがもたらすものだろう。

五十嵐は、腕組みをしながらミーティングの様子を見ている大村専務のところへ行くと、「いつもこんな感じなんですか?」溜息交じりに話しかける。

大村専務がその顔に笑みさえたたえながら、機嫌よく答えた。

「なかなか活気があっていいだろう。

まあ、今朝は期初だし、五十嵐部長の初日ということもあって、いつもよりだいぶ気合いが入ってるようだけどな」「これではかえって逆効果な気がするのですが……」さすがに初日から波風を立てることには迷いがあったが、それでも言わなければならない。

「逆効果?」大村専務の表情が不機嫌そうなものに変わった。

「……ハピネスコンピュータと違って、うちみたいな小さな会社はなあ、きれいごとばかりじゃやっていけないんだよ」「しかし──」ミーティングが終わると、蜘蛛の子を散らすように、営業マンたちが外出していった。

営業部で残ったのは、三人のリーダーだけだ。

五十嵐の言葉には聞く耳も持たず、話はそこまでとばかりに、大村専務も鞄を手に出かけてしまった。

社長や専務のスケジュール管理をしている業務課の女性社員に外出先を尋ねると、朝礼後の二時間ほどは近所の喫茶店で朝食を取りながら、日経新聞や業界紙に目を通すのが日課だと言う。

いくらオーナー企業とはいえ驚きだった。

それを聞いて溜息を漏らすと、「誰も文句言う人はいませんからね」年配の女性社員もつられるように苦笑しながら溜息をついた。

6会社は夢を実現する場所その夜、五十嵐の歓迎会を兼ねて、期初の決起会が行われた。

居酒屋の二階を貸し切りにして、大村専務と営業部の三つの営業課のメンバーが参加した。

昼間の緊迫した空気を引きずるかのように、酒宴にもかかわらず今一つ盛り上がりに欠けた。

どうやら無礼講とはいかないようだ。

他社からの出向者である五十嵐に対しても、なかなか距離が縮まらない。

時間の経過とともに酒が進んでも、席を立って隣に座ってくる社員は現れなかった。

結局、五十嵐は最後まで、大村専務や三人のリーダーたちと吞むことになった。

三時間ほどの決起会が終わると、二次会に行く者もなく、早々とお開きになった。

帰宅のための地下鉄は、同じ路線を使っている本多と一緒に乗った。

帰宅ラッシュの時間帯をすぎていて車内はさほど混んでいなかったので、並んでシートに座った。

本多が気を使っているのがわかる。

当たり障りのないやり取りがつづく。

ふと、本多が視線を泳がせた。

やがて、五十嵐をまっすぐに見つめてくる。

「言いたいことがあるんだろう?」「い、いえ……」「遠慮することはないさ」意を決したように、本多が口を開いた。

「会社は夢を実現するための場所だっておっしゃってましたよね?」「ああ。

部下の夢を一緒になって叶えることがリーダーの仕事だと思ってる」「ハピネスコンピュータでもそんなことをおっしゃってたんですか?」まるで珍しい生き物でも見るかのような目で、五十嵐を見つめてくる。

「俺はそんなに器用じゃないからな。

どこで仕事しようとも、やることは変わらないよ」「今朝、専務とやり合ってましたね」「やり合ったわけじゃない。

問題点について、ちょっと指摘しただけだ」「だけど、今までは専務に面と向かってあんなことを言った人はいませんでした」「そりゃあ、みんなは大村事務機の社員だからな。

オーナー企業の経営陣に意見するのは難しいだろう。

こういう言い方をすると誤解されるかもしれないが、それこそ俺のような立場の者の仕事だと思ってる」「帰る場所があるから……」言いかけて、その非礼さに気づき、「……すみません」本多があわてて詫びの言葉を口にした。

「いや、いいんだ。

実際、そうなんだからな。

でも、これだけは信じてほしい。

俺は決して腰かけのつもりで大村事務機に来たんじゃない」

本多が黙ってうなずいた。

「考えたこともありませんでした」「えっ?」「夢なんて、子供が見るものだと思ってました」「そうか。

でもな、今からだってまだ間に合うだろう」「まだ、間に合うのかな……」本多が目を伏せた。

「娘さんのことだっていいんだぞ」五十嵐の言葉に、本多が驚いた表情を見せる。

「なんで私に娘がいることを?」「そりゃ、人事ファイルには家族構成が書いてあるからな」本多がさらに驚いたように、目を見開いた。

「まさか、営業部全員の家族構成を覚えたわけじゃないですよね?」「もちろん、全員覚えたよ。

部下の人生にどれだけ深くかかわれるかが、リーダーの大切な条件だからな」「それにしたって……」「全員っていったってせいぜい三十人程度だ。

さすがにハピネスコンピュータにいたときは全員ってわけにはいかなかったけどな」「五十嵐部長は、驚いた方ですね」「娘さん、二歳なんだろう。

かわいい盛りだよな。

うちの下の子と一緒なんだ。

うちは娘が二人で、これから先が大変だよ」「うちの子もほんとに元気で。

妻に似て、おてんばになりそうで、先が思いやられますよ」そう言いながら、本多が本当にうれしそうに微笑んだ。

──なんだ、こんなふうに笑うんじゃないか。

歓迎会ではついぞ見せなかった笑顔だった。

「毎週水曜日は、ノー残業デーにしようと思うんだ。

早く帰って、子供を風呂に入れてやりたいだろう?」「今だって、残業は禁止なんですよ。

でも、それは残業代削減が目的であって、実際は定時に帰れることなんてありませんけど」「これからはサービス残業は一切認めない。

本当に必要な仕事なら、きちんと残業を申請してやってもらう。

その代わり、水曜日は絶対に残業なしにする。

サーバーの電源を強制的に落としてネットワークに入れなくして、仕事ができないようにするから」五十嵐が悪戯っぽい笑顔を見せる。

「部長がもう少し早く来てくれたら、いろいろなことが変わっていたかもしれませんね」「これから変えればいい。

一緒にやろうぜ」五十嵐の力強い言葉に、本多はふたたび小さくうなずいた。

7顧客価値の共創こそが営業マンの仕事大村事務機に出向して、瞬く間に一週間がすぎた。

その日の夕方。

五十嵐は重点顧客への挨拶まわりを終えて会社に戻った。

ちょうど佐伯が、部下の香乃を叱責しているところだった。

「今日も決定なしかよ。

今月まだワンセールスもないじゃないか。

お前の今期はいったいいつになったらはじまるんだよ」「すみません」「秋元のせいで、大手営業課の日足はグチャグチャだ」佐伯がわざとらしく大きな溜息をつく。

香乃が身体を強張らせて視線を落とした。

そこへ本多が帰社してきた。

「お疲れさん。

サニー学院はどうだった?」中川は立ち上がると、本多が営業鞄を置くのも待たずに問いかける。

「決まりました」本多が表情を変えずに答えた。

「よし、おめでとう!」中川はこれ見よがしに大声を上げると、本多と派手なアクションで握手をする。

つづいてホワイトボードの前に立ち、赤ペンを手にすると、並んでいる成約予定顧客の中から、サニー学院に大きな星印をつけた。

パソコン五十台一括で、金額は約八百万円の大口受注だ。

「やっぱりうちのエースは頼りになるな」佐伯が苛立ちを隠さず、さらに香乃に当たっている。

中川はそれには目もくれず、五十嵐のほうを振り返った。

「本多を褒めてやってください。

サニー学院は本多が担当になってからずっと、二カ月ごとにパソコンの大口受注が取れてるんです」サニー学院は地場大手の語学学校だった。

語学のみならず、ITや観光など幅広く講座を持っていて、受講生の数も多い。

インターネット回線を使った在宅授業が評判を呼び、生徒は日本全国に及んでいた。

生徒だけではない。

ネイティブの講師も、世界各国に住んでいた。

生徒は自宅にいながらインターネットを介して、好きな時間に好きな国の講師の授業を受けることができるのだ。

たとえば仕事を終えて帰宅した若いビジネスマンが、夜十時に自宅でサニー学院のサイトにアクセスすると、十四時間の時差があるニューヨークに接続されて、朝八時にハドソン川のほとりを散歩中の女子大生が、タブレットPCで六十分の語学レッスンをしてくれる。

彼女の背後には、自由の女神が映り込んでいる。

二コマ目は九時間の時差のロンドンにアクセスし、ソーホーのスターバックスコーヒーでモバイルパソコンを前に遅めのランチをしているモデルの卵と、イギリスのファッションについての会話を楽しむこともできる。

観光クラスでは各国の講師が、地元の観光案内をネイティブの言語でしてくれる。

質問をすれば、有名な歴史的遺跡などの現場を見せながら、そのまま回答してくれるのだ。

教室ではなく在宅で授業を行うことで、レッスン料は業界標準よりもかなり低額に設定されていた。

レッスン時間も受講生の都合で自由に選べるという気安さもあり、このシステムは大人気となった。

三年前にこのアイデアを提案したのが、前任から担当を引き継いだばかりの本多だった。

顧客と一緒になって、「顧客の提供価値」を創造していく。

ビジネスにおけるパートナーとなり、「価値の共創」をすることこそ、営業マンの重要な役割だ。

それ以来、受講生用のノートパソコンの受注は、競合を排除して本多が独占していた。

「おめでとう。

すごいな」五十嵐も本多に握手を求める。

「ありがとうございます」地域営業課はもちろんのこと、全社を牽引している本多の業績のベースになっているのが、サニー学院の売上だった。

大口の定期購入ということもあって、販売はメーカー特価を使っているので利益はほとんどなかったが、それでも期末の割戻もあって、会社への貢献度は決して少なくはなかった。

販売先はサニー学院といっても、実際は転売され、エンドユーザーは受講生となる。

実質的には卸販売となるわけで、機番管理はできない。

アフターサービスのための登録は、同梱されている顧客カードをエンドユーザーがメーカーに郵送して初めてできる。

大村事務機としてはまったくのノータッチとなり、保守契約や消耗品販売などのアフタービジネスは見込めない。

通常の販売会社なら、リスクと天秤にかけ、二の足を踏みかねない商売だった。

少なくともハピネスコンピュータでは手を出さないだろう。

もっとも、大村事務機のような小さな販売店がそんなことをいっていたら、会社はやっていけない。

──すごいな。

これぞ販売の最前線というものを見せられた気がした。

中川がちょうど見積書を見せに来た加藤に、「この見積、決まるのかよ?」「そ、それは……」「お前も本多みたいに、根性見せろよ」検印を押しながら小言を言う。

唇を嚙み締めて立ち尽くす加藤をその場に残し、中川は煙草を手にすると営業部のフロアを出ていった。

五十嵐はすぐに中川のあとを追った。

喫煙室の前で追いつくと、背後から声をかけた。

「ちょっといいかな?」「なんでしょうか?」振り返った中川が怪訝そうな顔で答えた。

喫煙室の隣の会議室に誘う。

会議テーブルの奥に自分も座りながら、中川にも椅子を勧めた。

「部下に対して乱暴な言葉で叱責するのは、これからはできるだけやめないか」中川が表情を強張らせる。

「部下を甘やかせって言うんですか?」「そうは言ってない。

ただ、厳しい言葉で迫っても、成果には結びつかないんじゃないかと思うんだ」あからさまに不服そうな表情が返ってくる。

「五十嵐部長は来たばかりだからわからないかもしれませんが、うちの連中は、これくらい言ってやらないと、まともに仕事をしてこないんですよ。

たしかに今どきブラック企業じゃあるまいし、感情をむき出しにして厳しく怒鳴ったりなんてのもどうかとは思いますが、それで業績が上がればボーナスや報奨金に跳ね返ってくるんだから、本人のためにもなるんじゃないですか。

だいたい、私だって先輩からそうやって鍛えてもらったんですから。

これもうちの伝統みたいなもんですよ」中川は、専務が兼務していた営業部長のポジションにつくことを、ずっと佐伯と争ってきたのだ。

突然降って湧いたように五十嵐が出向してきたことに、おもしろくない思いもあるだろう。

「中川リーダーが今まで頑張ってきたことは、専務からも聞いてるよ」「いや……まあ……」「でもな。

組織の役職なんて、単なる役割にすぎないと思うんだ。

役職なんて関係なく、中川リーダーの経験や思いは、部下のよい手本になるはずなんだ。

だからこそ、中川リーダーの思いがきちんと伝わるように、言葉は大切に使う必要があるんじゃないか。

部下は、褒めて褒めて褒めまくって育てたほうが伸びると思う」五十嵐にとって、マネジメントの土台になる考えだ。

「それで、部下が失敗したときはどうするんですか?」「失敗したときこそ絶対に怒ってはだめで、なぜ失敗したのか、原因を分析し、次にどうすればいいのかを一緒に考えるんだ。

だいたい部下が失敗したのは、計画を共有できず、事前に手を打てなかった上司の責任なんだよ。

怒るより、むしろ謝るくらいなんだ。

リーダーの仕事は部下の活動の事前準備にアドバイスをすることであって、結果について問いつめることじゃない」「でも、それでは上司としての威厳が保てません」「威厳と威圧は違う。

親しみ溢れる紳士的な口調でも、自分の思いをしっかりと伝え、毅然としていれば威厳は示せる。

そもそも相手に少しでも反発が生まれるような怒り方は、意欲を削ぐだけで、問題となっていることの解決には少しもならないだろう。

やる気を出してもらう方法なら、もっと他に効果的なことがあるし……」「それは部長命令ですか?」「えっ?」「命令だと言うなら従いますけど」そう言いながらも、中川の先程からの仏頂面を見れば納得などしていないのは明らかだ。

「いや、これは命令じゃない。

営業の先輩としてのアドバイスだ」「アドバイス、ありがとうございました。

よく考えてみます。

もう、行ってもいいですか?」「あ、ああ……」煙草を手に会議室を出ていく中川の後ろ姿を見つめながら、五十嵐は唇を嚙み締めた。

8萎縮した職場の空気は社員から健全な思考を奪う五十嵐は腕時計に視線を落とした。

深夜零時になろうとしている。

さすがにこの時間になると、残業している者は他におらず、社内は静まり返っていた。

営業部長権限でネットワークに入り、サニー学院の過去三年間の売上管理データを閲覧する。

取引は個人用のノートパソコンばかりで、受注は二カ月ごとにあり、売上金額は年々増えていた。

年間合計では五千万円にもなっている。

もちろん、売上の翌月末までには、代金は全額入金されていた。

ただし小切手でも振り込みでもなく、現金による回収だ。

──やはり、妙だな。

パソコンの用途は、一部の事務用のものを除いて、ほとんどが受講生に転売されている。

それならば受講生の入会がもっとも多くなる四月や八月に、売上が集中していなければならない。

にもかかわらず、販売台数は少しずつ増えてはいるものの、年間を通してほぼ均等だった。

──そもそも、この売上の規模は適正なのだろうか。

サニー学院の顧客管理資料を確認する。

帝国データバンクから購入している情報に、リース会社から提供された与信情報やホームページなどの公開情報、それに営業マンの訪問で知り得た商談情報が追加されているものだ。

従業員数は五十三名。

その他に三百人の契約講師が、二十一の国や地域にいると書かれていた。

年商十六億円、経常利益一億二千万円。

東京都下を中心に埼玉や神奈川などに十二カ所の直営校を持っていた。

最新資料での在籍受講生は約三千人。

昨年度の新規加入は約一千二百人だから、四割が入れ替わっていることになる。

新入生は一校あたりにすれば百人程度だから、経営はそれほど楽ではないはずだ。

ほとんどがインターネットを使った在宅受講生のため、教室などの設備投資や管理費が少なくてすんでいるからこそ、なんとか利益が出ているのだろう。

大村事務機からのパソコン売上台数は、年間で三百台を超えている。

新規加入の受講生の四人に一人が、入学時にサニー学院からパソコンを購入していることになる。

──多すぎる。

受講生は若いビジネスマンや大学生が中心だと聞いていた。

パソコンやタブレットPCなどの所持率は極めて高い層だ。

いくらサニー学院の推奨品で比較的値段が安いとしても、家電量販店に比べれば割高なものをわざわざ買うだろうか。

──まさか……。

エンドユーザーが特定できない販売。

二カ月ごとの大口受注。

受講生の人数から考えればあり得ない販売台数。

そして、現金による回収。

五十嵐の頭の中で、すべてが一つに繫がっていく。

信じたくなかった。

このままパソコンを閉じ、そのまま黙っていれば誰も気づくことはないかもしれない。

自分にはすべてを握り潰すこともできる。

一瞬、そんな思いがよぎる。

できるはずのないことは、自分自身が一番よくわかっているにもかかわらずだ。

マウスを持つ手が震えた。

そのとき、ガタッと背後で物音がした。

振り返ると、本多が立っていた。

「どうした?こんな時間に」「部長こそ、どうされたんですか?」

「少し、調べたいことがあってな」「それって、サニー学院の資料ですよね……」本多の顔は、能面のように表情がなかった。

「俺に何か言うことはないか?」その瞬間、本多がすべてを悟ったことがわかる。

彼の表情は、悪事が見つかってしまったときの恐怖とか諦めとか絶望とか、そのどれとも違うものだ。

まるで五十嵐にバレたことで、何かから解放されたかのような、ほっとした目をしていた。

むしろ、諦めたのは五十嵐のほうだったかもしれない。

「横流しをしていたんだな?」そう尋ねながらも、本多が否定してくれたらどれだけいいかと思う。

しかし、一秒の間を置くこともなく、本多はうなずいた。

「どうして……どうして、こんなことをしたんだ」「トップセールスとして、業績を上げつづけたかったんです」絞り出すような声で尋ねた五十嵐とは裏腹に、本多は淡々と答えた。

「そんなものは営業の仕事でもなんでもないだろう」「わかってます。

私だってそんなこと、わかってたんです」「じゃあ、なんで……」「いつも数字に追いかけられてきたんです。

足を止めたら、そこで終わりなんです」「お前は間違ってるよ。

営業マンの仕事は、モノを売ることじゃない。

そんなことのために、営業マンはいるんじゃない」「だけど、ずっと誰も……そんなこと、言ってくれなかった……」本多が、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。

はじめは二年前のことだったと言う。

サニー学院の総務部長が異動になり、資本関係のある関連企業から出向してきた宇佐見が後任についた。

それまで前任者と本多との間で築いてきた信頼関係は、まったくの白紙になってしまった。

それどころか宇佐見は新任部長として、実績作りに躍起になった。

彼が求めてきたのは、定期発注されていた受講生用のノートパソコンの価格について、大幅な値引きをすることだった。

サニー学院のビジネスモデルは、本多の提案によって、共に作り上げてきたものだ。

今まではそれを評価してもらい、ノートパソコンは他社に相見積を取ることもなく、優先的に本多に発注されてきたのだ。

ちょうど前任の総務部長が、置き土産にと、三十台ほどの発注を内定してくれていた。

売価にして五百万円に近い。

大村事務機では社内営業コンテストの最終月を迎えていた。

この五百万円の成約で、本多の優勝は決まったも同然だった。

厳しかった上司に褒められる自分の姿が目に浮かんだ。

もうすぐ子供も生まれる。

優勝の報奨金の三十万円があれば、子供のものだってあれこれとそろえることができる。

すぐに商品の手配をしなければ、コンテストの締め日までに売上計上が間に合わなかった。

売買契約書の捺印のための稟議がまわっている途中にもかかわらず、上司に成約を報告し、メーカーにオーダーをエントリーしてしまった。

今までサニー学院との間で築いてきた深い関係からすれば、それくらいのフライングは問題ないはずだった。

しかし、それがすべてひっくり返された。

宇佐見は元の会社で取引があった業者から見積を取り、それ以下の金額にするように一方的に通告してきた。

採算度外視としか思えぬ非常識な価格で、どうやりくりしても大幅な赤字は避けられない安値だった。

対応などできるわけがなかった。

本多は、宇佐見の要求を突っぱねた。

口頭とはいえ、すでに注文はもらっているのだ。

まさか今さらキャンセルはないだろうと思った。

しかし、甘かった。

宇佐見はキャンセルを通告してきた。

すでに注文は他社に出ているとのことだった。

訪問販売にはクーリングオフ制度があるが、それは個人消費者の保護を目的とした法律であって、事業者には認められていない。

注文したものは原則としてキャンセルすることはできないのだが、それは契約書が締結されていることが前提だった。

もちろん法的には口頭による合意でも売買契約の成立を主張することはできたが、だからといって、顧客を訴えてまで争うわけにはいかない。

そんなことをすれば、販売会社として大村事務機は信用を失い、サニー学院どころか、他にも多くの顧客が離れていってしまう。

全身から血の気が引いた。

泣き寝入りするしかない。

かといって、今さらキャンセルされたとは、上司に報告できなかった。

すでに本多のコンテストの優勝は、揺るぎのない事実になろうとしていた。

それからは無我夢中だった。

本多は三十台のパソコンを秋葉原の買取業者に持ち込んで現金に換えた。

サニー学院への売買予定価格の八割ほどにしかならなかった。

翌々月の月末には代金の回収をしなければならない。

本多は契約書を偽造し、サニー学院の名前で新たに三十台のパソコンを発注し、それをふたたび買取業者に売って現金化し、入金の不足分に充てた。

以降、それを繰り返し、そのたびにパソコン台数は増えていった。

坂を転がり落ちていく。

もう、止めることができなかった。

二週間後。

五十嵐は大村専務と会議室にいた。

「本多の処分は?」「損失額は一千五百万円だ。

ただしパソコンを売った代金は、全額を会社に入金していた。

自分のポケットに入れたわけじゃない。

それでも横領には間違いないからな。

本来なら刑事告訴も免れないところだ。

だが、うちの顧問弁護士に入ってもらって、自宅マンションを売って全額返済してもらうことで話はついた」「自宅を売るんですか?」二歳の娘のことを話していたときの本多の笑顔が脳裏をよぎる。

「仕方ないだろう。

懲戒免職処分では、退職金も出ないからな」「一千五百万円で、人生を狂わせてしまったんですね」「最終損失は一千五百万円だが、二年間に亘り、架空取引を繰り返してきたんだ。

その総額は八千万円を超えている。

俺と中川にも譴責が出た。

五十嵐部長は赴任前のことだから、お咎めなしだ」「本多一人に、すべての責任を押しつけるんですか?」譴責とは懲戒の中で一番軽い処分になる。

ここまで本多を追い込んでしまったのには、古い体質を伝統という言葉に置き換えて放置してきた組織側にも責任があるはずだ。

そもそも不祥事の背景には必ず萎縮した空気の存在がある。

顧客に価値を提供するプロセスより、業績が優先される誤った意識の蔓延が、社員から前向きな意欲や健全な思考を奪うのだ。

このままにしておけば、いずれ第二、第三の本多を出してしまうことにもなりかねない。

「言いたいことはわかるが、これが会社の判断だ。

業績トップの本多が抜けるんだぞ。

うちのような小さな会社では、これ以上の戦力ダウンは命取りになる。

それに処分を広げれば、社内のモチベーションだって下がってしまう」「でも、それじゃ──」「社長も納得ずみだ。

もう何も言うな」五十嵐は、机の下で強く拳を握り締めた。

9権限委譲が責任感を醸成する午後三時。

営業部のフロアにいるのは五十嵐と中川、そして本多の三人だけだ。

業務の引き継ぎを終えた本多は、今日が最終出勤日となる。

「いろいろと、ご迷惑をおかけしました」この言葉を口にしたのは、いったい何百回目なのだろうか。

わずか数日間で、本多はまるで別人のように痩せてしまっていた。

五十嵐は白い封筒を差し出す。

「なんでしょうか?」「紹介状が入っている。

俺が営業所時代に世話になった社長で、苦労人だけに情に厚い人だ。

今回のこともわかった上で、お前に会ってくれるそうだ。

小さな会社だが、今までの経験を活かした仕事ができるはずだ」しかし、本多は手を出そうとはしなかった。

「私はずっと頑張ってきました。

そうですよね?」「ああ、お前は頑張ったよ」「なのに……」中川が何かを言いかけたが、それは言葉にならず、強く唇を嚙み締めただけだった。

「やったことは許されることじゃない。

だが、本多が会社に貢献してきてくれたことは、みんなわかっている」「そんなの噓ですよ。

私が辞めても、どうせすぐに誰かが代わりを務めるだけだ。

一カ月後には、私のことなんて、誰も覚えてやしない。

頑張ってきた私に、会社はいったい何をしてくれたって言うんですか?」「すまない……」本多が小さくかぶりを振った。

「群馬で農家をやっている父が、手伝ってみないかって言ってくれています。

妻も親と同居してもいいって。

こんな歳になってまでとは思いますけど、この際、親に甘えてみることにしました」「そうか。

それもいいかもしれないな」本多が出口へと向かう。

ドアを少し出たところで振り返った。

「会社は夢を実現する場所だっておっしゃいましたよね」「ああ……」「いつか、本当にそうしてください」「わかった。

約束する」五十嵐がそう答えたときには、すでに本多は歩きはじめていた。

二度と振り返ることのない後ろ姿が見えなくなるまで、五十嵐と中川は本多を見送りつづけた。

「私の責任です」中川の声は震えていた。

たしかに最初のキャンセルのとき、本多がそれを言い出せていたら、事態はまったく別のものになっていただろう。

もちろん悪いのは本多だ。

が、本多を追い込んだのは上司である中川かもしれない。

そして彼らにそういう判断をさせてきたのは、会社が持つ悪しき文化であり、健全に機能しない組織の仕組みだった。

「中川リーダーだけの責任じゃない」「でも、俺があいつを追い込んでしまったんです……」「もう、言うな。

本多は辞めたんだ」「だけど……このままじゃいけないですよね」中川が絞り出すように言った。

「ああ。

そうだな。

本多のためにも、そして残った社員のためにもな」「力を貸してください」本多の姿はすでに見えなくなっている。

それでも中川は、本多が消えていった方角を、じっと見つめていた。

「前に、部下を叱らなくてもやる気を出させる方法があるっておっしゃってましたよね?」中川が深く頭を下げた。

「お願いします」「そうか。

うん。

そうだな」五十嵐は中川の肩に手を置いた。

中川が顔を上げた。

「夕方まで会議室を取ってあります」先に立って歩きはじめた中川についていく。

会議室に入ると、すでに佐伯と高橋が席に着いていた。

「高橋リーダーまで来てくれたんですか?」五十嵐にとって高橋は部下ではあったが、ハピネスコンピュータにいたころから旧知の仲だったし、年長者でもあったので、言葉遣いには多少の配慮があった。

「中川がどうしてもって頭を下げるもんでね。

それに私が参加すれば、佐伯も出ないわけにはいかないでしょうし」高橋の言葉に、「いや、自分は別に部長のおっしゃることに逆らうつもりはないですから」佐伯が不服そうな表情を見せる。

「その割には、相変わらず秋元には厳しいじゃないか」「それはあいつを育てたいっていう、リーダーとしての親心ですよ」佐伯が高橋に言い返した。

五十嵐は笑顔で三人の前に立つ。

「部下にやる気を出してもらう仕組みについて、みんなで考えてみよう」三人がうなずいた。

「どんな仕組みを作るんですか?」中川も席に着く。

「叱責して追い込むのではなく、褒めてやることで、自らやる気を起こさせる。

そんな仕組みを作るために、推進責任者制による権限委譲を行おうと思うんだ」五十嵐は、背後にあったホワイトボードに図表を描いていく。

「業績に苦しんでいる営業マンだって、仕事の中身を一つひとつ見ていけば、必ず得意なことはあるはずだろう。

もちろんそれは人ごとに違う。

ならば、営業マンそれぞれの得意領域について、責任権限を持たせればいい。

責任者が組織における月次や週次の活動計画を立案して、事前の勉強会を準備したり活動進捗のマネジメントまで行うんだ」高橋が興味深そうに身を乗り出した。

「それじゃ、まるでリーダーみたいじゃないですか?」「リーダー権限の委譲ですからね」「なるほど」「業績って、いろいろな領域の積上で達成されるんだが、力不足で予算を達成できないような営業マンだって、一つひとつの領域に仕事を分解してみれば得意なものがあるはずなんだ。

そしてそれは人それぞれ違う。

二十九人の営業マンが二十九ピースのパズルのように、それぞれ違う役割を担えばいい。

誰もが自分の強みで、組織や仲間に貢献できるって、素晴らしいことじゃないか。

責任を与えるから思いが育つんで、責任感は報奨や叱責を凌駕するものだと思う」佐伯はまだ少し納得がいかない様子だった。

「たしかに、おもしろい考え方ではありますね。

でも、五十嵐部長がおっしゃるような得意領域ってやつが、果たして業績の低迷している若い営業マンたちにもあるものかどうか、そこはいろいろ考えてみないといけないでしょうけど」「得意領域なんていったって、業績に伸び悩んでいる営業マンでは所詮、そのレベルはたかが知れていると?」「まあ、そうです」「いいじゃないか。

初めは失敗したって」「えっ?」五十嵐はにっこりと笑ってみせる。

「失敗してもいいんだ。

自分が責任者として組織で取り組んだことが失敗すれば、大きなプレッシャーになる。

それが責任ということなんだ。

自分で感じ、自分で考え、そして自分で成長していく。

上司や先輩から怒られたって、人は成長できるものじゃない。

佐伯リーダーだってそんなものは酒を吞んで、一晩寝たら、全部忘れちゃうだろう」「まあ、そうかもしれませんが……」「まずはやってみようよ。

これからは営業部のルールとして、原則として部下を叱責したりしない。

どうしても怒りたくなったら、部下を自分の子供だと思ってくれ」「子供ですか?」佐伯と高橋が顔を見合わせている。

「他人だと思うから、言葉が荒れてしまうんだ。

自分の子供なら、本気で接することができるだろう。

心を傷つけるようなことは、絶対にできないはずだ」「私たちの上司は五十嵐部長ですから、これで私たちも怒られることがなくなったんですね」高橋が笑っている。

「どんな人だって、例外なく他人から評価されたいと思っているんですよね」高橋に笑顔で返す。

「褒めて褒めて褒めまくるのかぁ」佐伯が自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「これからは『やる木』に水をやり、育てて花を咲かせよう」佐伯がポカンとした顔をしている。

「なるほど、『やる木』と『やる気』をかけたんですね」高橋が笑顔で言った。

「やる木にやる水は、上司の笑顔と褒め言葉です。

肥料は責任感です。

咲く花は業績ですよ」「笑顔か」「お前たちの顔は怖いからなぁ」高橋の言葉に、佐伯と中川が頭を搔きながら顔を見合わせている。

「神奈川県川崎市にある日本理化学工業という会社を御存知ですか?」「チョークの会社ですよね」高橋がすぐに答えた。

「さすがは学校担当の責任者。

その通りです」高橋が自分のノートパソコンでブラウザを立ち上げると、インターネットで検索する。

日本理化学工業株式会社は、ダストレスチョークという粉の出ないチョークを開発・製造し、国内シェアで三十二パーセントを誇る。

全従業員八十三人中なんと六十一人が知的障がい者で、さらにそのうちの二十八人は重度障がいを持っている(平成二十八年二月現在)。

二〇〇九年には、大山泰弘会長が渋沢栄一賞を受賞している優良企業だ。

好業績の原動力となっているのは、七割を超える知的障がい者たちで、主に製造ラインを担う彼らは、一人ひとりが仕事にやりがいを持って取り組んでいるという。

ジョブコーチ制度を導入し、障がい者それぞれの能力に合わせた作業標準を設定することで生産性を向上させている。

たとえば、同じ動作の繰り返しで集中力が必要とされる作業は、彼らにとっては得意な領域といえる。

そのいっぽうで、不得意なこともある。

数字を読むのが苦手な人のためには、数字の目盛りではなく色によって量を判別できるハカリが用意されているし、機械を動かす時間をはかるためには、ストップウォッチではなく砂時計が使われていたりする。

誰にでも不得意なことはあるし、もちろん得意なこともある。

不得意を克服し、得意を伸ばす仕組みを作っているのだ。

これは、仕事のやりがいの仕組み化だ。

そういった生産管理の手法については、ベンチマークに来る企業が全国から跡を絶たず、テレビ番組などの取材も数多く入っている。

同社のホームページに、大山泰弘会長の言葉が紹介されている。

五十嵐は読んで聞かせた。

──導師は『人間の究極の幸せは人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされること、の4つです。

働くことによって愛以外の三つの幸せは得られるのです』と。

「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」「ここの工場を見学して、大山会長の話を直接うかがったことがあるんだ。

まさに自分のマネジメントへの思いのすべてが、そこに集約されていると感じたよ。

感動で胸が熱くなって、涙が出てしまった。

本当は、誰だって仕事が好きなんだ。

仕事の楽しさを教えてあげることも、リーダーの役割なんじゃないかな」五十嵐は三人のリーダーたちに、熱く語りつづけた。

10未来の履歴書が今日を創る夕方になると、営業マンたちが次々と帰社してきた。

全員がそろったところで、五十嵐は声をかける。

「突然で申しわけないが、みんな集まってくれ」二十九名の営業マンたちが、それぞれ椅子を寄せ合うようにしながら、五十嵐のまわりに集まりはじめる。

香乃の顔もあった。

今日もめぼしい成果はなかったようで、笑顔は見えない。

肩を落とした香乃が、まわりの先輩たちに気づかれないように、小さく溜息をついた。

背中を丸め、みんなに遅れながら、重い足取りで歩いてくる。

五十嵐は先ほど三人のリーダーと話し合って決めた推進責任者制度について、自分の思いを込めながら説明した。

「全員って、私もですか?」香乃がおそるおそる手を挙げて質問してきた。

その顔には、そんなことは無理に決まっていると書いてある。

「もちろん、全員といったら全員だ。

秋元さんにも、何かの責任者になってもらう。

責任者になった領域については、原則として私やリーダーと同等あるいはそれ以上の権限を持ってもらうから」五十嵐の言葉に、香乃がさらに表情を硬くした。

まわりの先輩たちの顔色をうかがっている。

「そんなの……できません……」つぶやくように言った。

「秋元さんだって、得意なことはあるだろう。

他人より、すごく興味を持っていることでもいい」「私なんか……」「そうだ!マナーなんてどうかな?」「マナーですか?」香乃が訝しげに首をかしげている。

「秋元さんはビジネスマンとして、服装もしっかりしているし、机の上も整理整頓されていて、書類が散らかっているようなこともないよね。

我が社のビジネスマナー強化の責任者になってもらえないかな」そのやり取りを見ていた佐伯が口を挟む。

「机の上がきれいなくらいで、ビジネスマナーの責任者ですか?」五十嵐に反対するというほどのことではなく、むしろ心配しての発言のようだ。

「机の整理ができるかどうかは、ビジネスマンとしては重要なことだろう。

契約書や顧客リストなどの社外秘情報が机の上に置きっぱなしになっていればセキュリティの観点で大変な問題だし、必要な情報が整理されていてすぐに取り出せるようになっていれば、業務効率が高いということになる。

無駄なゴミを出さないのは、環境にも配慮しているといえる。

そういう営業生産性の高い仕事は、評価していいんじゃないか」五十嵐は佐伯の机の上に、チラッと視線を送った。

今にも崩れ落ちそうなほど、書類が高く積まれていた。

「まあ……そうですね」佐伯が頭を搔いた。

香乃は自分が褒められたことに、うれしいような恥ずかしいような、複雑な表情をしていた。

それでも大きな目をさらに見開くようにして、五十嵐をまっすぐに見ている。

「では、秋元さんには、ビジネスマナーの推進責任者をやってもらうということでいいかな?」「ほんとに……私でいいんですか?」「頼りにしてるよ」「はい」香乃が緊張した面持ちで、それでもしっかりとうなずいた。

その後も、それぞれの意見を充分に聴きながら、二十九人全員に最低でも一つは、何かの推進責任者を割り当てた。

「次は、未来の履歴書を書いてもらうから」「履歴書ですか?」そこまでは事前に説明していなかったので、佐伯が質問してきた。

「履歴書ではなく、未来の履歴書だよ」各自がそれぞれに口を開きはじめた。

その場が賑やかになっていく。

五十嵐の気さくな性格が生み出す空気に少しずつ慣れてきたようだ。

しばらく自由に話をさせておき、頃合いを見て言葉をつづける。

「ピーター・ドラッカーの『マネジメント』を読んだことがある人はいる?」営業マンたちは顔を見合わせているが、リーダー三人も含めて、手を挙げる者はいなかった。

「名前くらいは知ってるよな。

ドラッカーはオーストリアの経営学者なんだが、著書『マネジメント』にこんな話を書いている」口々に話をしていた営業マンたちが、口をつぐんで五十嵐に注目する。

「三人の石切職人がいて、それぞれに『あなたは何をしているのか?』と尋ねた。

一人目の石切職人は、『これで暮らしを立てている』と答えた。

つまりは、対価のために仕事をしているということだな。

二人目の石切職人は、『国中で一番じょうずな石切りの仕事をしている』と答えた。

彼はプロ意識に徹している。

業務においては、品質を高めることは大切なことだからね。

しかし、彼の目的は、あくまでも石を切るということだ。

三人目の石切職人は、目を輝かせ、夢見心地で空を見上げながら、『人々が祈るための大聖堂を造っている』と答えた。

彼は石切場にいるのであって、大聖堂の建築現場は見ていない。

それでも彼の目には、しっかりと祈る人々の姿までもが見えていたんだ。

彼の目的は、決して石を切ることでも、大聖堂を造ることでもない。

人々の信仰への思いに、応えたいということなんだ。

三人のうちで誰の生産性が一番高いか、答えは言うまでもないだろう」営業マンたちの顔つきが変わっていくのを確認すると、五十嵐は未来の履歴書のシートを配りはじめた。

A3判一枚に履歴書のフォームが印刷されている。

経歴の欄を増やしてある以外は、市販のものと大差はなかった。

リーダーの三人も含めて、全員に未来の履歴書を書いてもらうことにする。

通常の履歴書は過去から現在までを説明するわけだが、これは現在からはじまって、将来の自分について書いていく。

未来のことだから、どんなことを書くのも自由だ。

どうせ、未来のことは誰にもわからない。

何歳でもいいので年齢を決めて、「なりたい自分の姿」を思い描くのだ。

人生の終焉でも、会社の定年でも、子供が成人になるころでもいい。

若い人で、そんな先など想像できないというなら、十年後くらいの未来でもいいのだ。

なりたい自分の姿を決めたら、そこに至るまでの履歴を書いていく。

人生の設計図といってもいい。

恋人のいない人は、何歳までに恋人を作り、何歳で海外旅行に出かけ、何歳で車を買ってドライブを楽しみ、何歳で結婚するのか。

既婚者だったら、何歳までに子供を作り、何歳までに家を買い、子供をどこの大学に行かせ、どんな職業につかせたいか。

定年後にはこんな生活を送りたいとか、会社を辞めて起業したいでもかまわない。

親の仕事を手伝いたいというのも立派な未来の姿だ。

それが書けたら、次にその未来の履歴書の実現のために、必要な会社での役職、資格、知識、収入などを書き込んでいく。

出世を前提にしなくてもいい。

残業は週に二日だけにして、趣味や資格取得の勉強のために六時半までには帰宅できるようにする、などのライフスタイルを決めるのもありだ。

「そのために、今期や今月をどうするのか?目標を立てていくんだ。

会社から下ろされた予算を達成するためにどうするかではない。

自分自身が描いた、『なりたい自分の姿』になるために必要なことを準備するんだ。

もちろん、自分一人だけの力では、夢の実現は不可能だ。

会社という組織が利益を上げていくからこそ、自分の成長も助けてもらえる。

だから、会社のビジョンの実現に対して、自分がどんな役割を担えるのかを明確にしてほしい。

組織に対する自分の価値を示すんだ。

それがみんなの夢の実現への近道なわけだから」香乃が履歴書を睨みつけるようにして、じっと見つめている。

香乃の背後から覗き込むと、まったくの白紙だった。

まだ何も書かれていない。

五十嵐に気がつくと、あわてて手で履歴書を覆い隠した。

香乃が表情を曇らせる。

「今すぐに書けなくてもいい。

ゆっくり答えを見つけていこう」五十嵐は全員に向かって、しっかりと大きな声で言った。

翌朝、営業部の朝礼の途中で、香乃がおずおずと手を挙げた。

「ビジネスマナー責任者から、みなさんに提案があります。

毎朝一人ずつ順番に新聞記事の紹介をする、『三分間スピーチ』をしていきたいと思います。

私たちの商談相手である企業の経営層や管理層との関係力を高めるために、新鮮で深い話材を準備することが目的です。

その日の朝刊の一面から記事を一つ選んで、それを読んだあとで解説をするというルールでやりたいと思います」香乃の話を、誰もが、面倒なことがはじまったというような顔で聞いていた。

それでも香乃は、それに気づいていないかのように、一生懸命に語りかける。

「それではさっそく今日からはじめたいと思いますが、初日ですので、まずは私から……」香乃がTPPについての記事を読み、説明をはじめた。

事前に下調べをしてきたようで、環太平洋地域における関税撤廃を前提とした経済連携協定について、消費者が受けるメリットと農家などの生産者が受けるデメリットを比較しながら、国内の経済へ及ぼす影響などを、食料自給率なども絡めて、わかりやすく解説していく。

テレビのニュースで紹介される程度のレベルではあるが、香乃なりに自分の考えも交えながらスピーチを締め括った。

意外なほどのしっかりとした発表に、佐伯も含め、誰もが驚いた顔をしている。

おそらく今朝はかなり早起きをして、事前準備をしたのだろう。

少しずつだが、それでも確実に責任感は育ちはじめている。

五十嵐が拍手をすると、全員があわててそれに倣った。

「素晴らしいスピーチだったよ」香乃がくすぐったそうに微笑んだ。

 

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